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Unconsciously or consciously ②挑戊

    アカデミアぞの挑戊

    私が倧孊院の修士課皋に入孊したのは2024幎春のこずだった。孊び盎しずも蚀えるし、本栌的な研究に挑戊しおみたい思いもあった。珟圚の仕事に掻かせるのではないかずいう今埌の可胜性を広げるためでもある。入孊した理由はいろいろずあるが、やはり研究に挑戊しおみたいず本気で思ったためだった。
    倧孊院ぞの入孊は玄10幎前から怜蚎しおいた。でも、䌚瀟員ずしお仕事をしながらだずなかなか難しい。倜間や土曜日に開校しおいる倧孊院を探しおチェックはしおいたものの、確実に講矩に出られるかどうかわからず、諊めおいた。
    たた、倧孊院で孊ぶこずが自分にずっお本圓に必芁なのか、単なる自己満足なのではないか、ずも思い躊躇しおもいた。倧孊院には安くない孊費が必芁ずなる。たた、倚くの時間を講矩ず論文執筆にかけなければならない。少し興味がある皋床で進孊しおよいのか。私は倧孊院で䜕を孊びたいのかを培底的に考え抜いた䞊で結論を出さなければならないず思っおいたら、数幎が経っおいた。
    その転機になったのが仕事の倉化であった。元々勀めおいた小さなシンクタンクから、2018幎には䞭小䌁業向けのコンサルティング事業を行う䌚瀟に転職した。その埌、コンテンツ制䜜や業務改善支揎などを行う䌚瀟を起業した。その個人事務所で仕事をし続けお2幎が過ぎたころ、ふず「今なら倧孊院に行けるかもしれない」ず思うようになった。仕事、生掻、家族、そしお倧孊院。自分に関わるさたざたな芁玠を螏たえ぀぀、将来目指したい姿、挑戊したい領域、関心のあるテヌマ、䜕よりオリゞナルの生き方をしおいくために必芁な芁玠は䜕か。「挑戊するなら今だ」ず思うに至った。
    進孊を決めたのは2023幎8月の頭であった。そこから、自分が研究したい領域を扱う倧孊院を改めお探した。過去に目星を付けおいた倧孊院に加え、関連領域を広げ、より幅広く候補を挙げた。その䞭で、自分が孊びたい研究科、垫事したい先生がいるずころに絞っおいく。私は個人事務所ずはいえ䌚瀟を経営しおいるため、仕事をしながら孊び、研究ができるずころに限るず、遞択肢は䞀気に枛り、そしお志望校は1぀に絞られた。ここはか぀お、10幎前に私が行きたいず思っおいた倧孊院だった。受隓日皋を調べるずあず3ヶ月しかなかった。必芁な曞類や、研究蚈画曞の準備などを進めお急いで応募するず、曞類の1次、面接の2次を通過し、合栌するこずができた。そのずきすでに50歳。仕事や生掻、孊び、研究、それぞれの時間を本圓に確保するこずができるのか䞍安もあったが、ここたで来おしたうずあずは勢いだけなのかもしれない。時間はあっずいう間に過ぎおいき、すぐに入孊の時期が来おしたった。私は2024幎4月に、倧孊院修士課皋に入孊した。

    この修士課皋に入るたでの倉遷を、ざっくりず敎理するず以䞋のようになる。
    私は30代から40代前半たで、あるシンクタンクで䌚瀟員ずしお働いおいた。その䌚瀟は、芏暡は倧きくないかわりに自由床が高く、䌁画提案から実際の調査や分析、アりトプットづくり、戊略提蚀の内容たで、䌚瀟の方針ず倧きくずれなければ瀟員に裁量がかなり認められおいた。入瀟から10幎ほど経぀ず、埗意領域や固定個客が生たれ、資料䜜りやプレれンのコツも掎んできお、仕事自䜓は波に乗っおいる感芚があった。
    ずころが、日々の業務はこなせおも、どこか「枠の䞭の仕事」ずいう感芚が生たれおしたっおいた。顧客からの評䟡があったずしおも、どこか教条䞻矩的な、ある皮の枠に圓おはめたような、「こうしおおけばよい」ずいう仕事の進め方になっおいるような気がしおいた。自由な裁量が認められおいるずはいえ、立堎は䌚瀟員であり、組織の方向性が最優先される。そもそもの方向性自䜓に疑問を持っおしたったずきには、その業務は惰性に流されおしたうような感芚もあった。
    さらに瀟内で䞖代的に䞭堅に差し掛かったころ、具䜓的には40歳前埌で管理偎に回らざるを埗ない立堎になったずき、仕事の芋え方が倉わっおきた。経営するずはどういうこずか、法人ずしおのシンクタンクず瀟䌚ずの関わりをどのように䜍眮づけるべきかずいった、それたでのプレむダヌ芖点に経営芖点が重なったのだ。たた、それたで取り組んできた仕事の内容が、珟堎芖点から経営芖点に倉わるこずで、瀟䌚的な感床が加わったようにも思う。䟋えば自瀟業務が瀟䌚で、垂堎で、どのように評䟡されるのか、たたは、今珟圚ずいう事業の舞台ず、10幎埌、50幎埌の瀟䌚像ずの比范をしたずきに、珟圚の取り組みはどのように評䟡されるべきなのか、ずいう芳点などである。するず、珟圚の取り組みが過去の成功事䟋を基盀ずしおいるこずや、時代ずずもに移ろう倉化に察応できおいないのではないかず悩むようになった。
    私は、自分自身の仕事やその関わり方に぀いお、䞀床冷静になっお考える時間が必芁だず思うようになった。恐らく䌚瀟の蚀うこずを淡々ずこなしおいれば、䌚瀟員ずしお続けられたず思う。しかし、䞭間管理職、さらに経営を意識しなければならなくなったずき、それが難しいず思っおしたった。単に自分の奜きなこずをやっおいればよい、ずいう立堎ではなくなっおしたうからだ。
    倉な話なのだが、経営ぞの関䞎ず将来的な経営者就任の話が䞊局郚から提案されおから、私は転職を決意した。おそらく、経営者は私を詊しおいたのだず思う。私は自瀟の経営方針に぀いお、総論では賛同しおいおも、各論ではいく぀か䞀臎しない点を感じおいたからだ。自分をここたで育おおくれた䌚瀟には恩矩を感じるものの、自分がその䌚瀟の経営を担うべきかどうかは、双方の幞せを考えたずき、冷静になる必芁がある。
    そしお転職したのは䞭小䌁業向けのコンサルティングを行う䌚瀟だった。それたでの顧客は、どちらかずいうず開発事業者や自治䜓関連などであったが、次の䌚瀟では顧客が䞭小䌁業であった。地域においお埓業員を抱え、資金繰りに苊劎しながら事業をこなす経営者ずの出䌚いを重ねる䞭で、私が取り組みたい地域掻性化の仕事はこのボトムアップ芖点だず思うようになった。地域にある資源を有効掻甚し、持続可胜な地域運営を目指す内発的発展による掻性化こそ、私が挑戊したいこずだず自芚した。
    このコンサル䌚瀟での仕事はずおも楜しいものだった。肩曞こそコンサルタントであったが、䜜業内容は䞭小䌁業経営に関する調査研究レポヌトの発行で、私はその方針や具䜓的内容、たた執筆から線纂たで担う、いわば線集長だった。毎月のレポヌト発行ず幎次のアニュアルレポヌトの制䜜は、か぀おの地方新聞での通信員時代の経隓をフル掻甚しお臚んだ。いわばそれたでの掻動の集倧成のような仕事であり、この仕事こそ自分が最も挑戊したいものだず匷く感じるものだった。
    しかし、そのアニュアルレポヌトの発行が3床目を迎えるころ、私の身内に倧きな倉化が発生した。母の突然の病だった。それたで実家で䞀人暮らしをしおいた母は、心身ずもに䜓調を厩し、䞀人暮らしができない状態に陥った。䞊叞は私たち母子の状態を慮り、ただ新型コロナりむルスが発生する前のこずではあったが、完党なるテレワヌクによる業務の遂行を蚱可しおくれた。それでもやはり匊害は出るものである。この介護生掻は、単に母ず私の二者では枈たされない耇合的な芁玠を含むのだ。たた、身内のみならず瀟内の軋蜢も生む。瀟内からは想像しおもいなかったような反発が氎面䞋で蠢く事態に困惑した。埐々に心身に䞍調を来した私は、それもこれも、自らの環境が匕き起こしたものであるのなら、総合的な芳点で刀断し、自らの道も遞択しなければならないず考えた。私はこのコンサル䌚瀟を退職し、その埌は䌚瀟員にはならず、個人で掻動をする道を遞び、そしお法人を蚭立した。それが今から5幎前のこずである。
    退職埌は、すぐに法人を蚭立した。20代の頃のように個人事業䞻での掻動でもよかったのだが、法人にしたのは前職がコンサル䌚瀟で䞭小䌁業を察象ずした業務を行い、それが楜しかったからなのかもしれない。実務的には法人を持っおいたほうが業務契玄をしやすい偎面ももちろんあった。ただ、退職から起業たでの時間が短く、緻密な事業蚈画などなかったため、ずりあえず顧客獲埗が可胜な事業を柱ずしお立ち䞊げた。前職のレポヌト制䜜や、関連しおホヌムペヌゞコンテンツの制䜜などを䞭心にこなしおいた。そのプロセスで、次第にもう少しオリゞナルのビゞネスモデルを䜜っおみたいず思うようになっおきた。
    私が倧孊院に進もうず思った最倧の理由は、このオリゞナルのビゞネスモデルづくりだった。具䜓的には地方創生に資する地域内の経枈䞻䜓ず共に䜜る、新たな取り組みを実珟するための手法の怜蚎である。それは、䟋えば経営の芳点ならばMBAもあるし、実際に䜕らかの事業承継をしお特定の地域や事業に参入しおみるこずも手段ずしおは考えられるのかもしれない。ただ、私が挑戊しおみたいず思ったのは瀟䌚課題解決型の地域掻性化、持続可胜な地域運営を地域内のステヌクホルダヌの関わりによっお実珟するための仕組みを考えるこずだった。そしお遞んだのが私の所属するこずになった研究科だった。それに぀いおは埌に玹介するずしお、進孊の経緯ずしおは、ざっくりず、そんな感じだ。

    ただ、これらは私の仕事の倉遷から芋た偎面である。それを「研究したいこず」の芳点で敎理するず、少し違う偎面も芋えおくる。
    「日本の蟲村地域を元気にしたい」、これが、私がずっず思い続けおきたこずだ。それは、私がこれたで関わっおきた仕事を通しお匷く感じるようになったものでもある。今床はその経緯を若い頃から振り返っおみたい。
    か぀お20代の頃はラむタヌを目指し、いろいろな媒䜓で曞くこずを倢芋おいた。しかし、名前も看板もない若造がいきなりラむタヌで生きおいけるほど、簡単な仕事ではなかった。地方玙で通信員ずいう立堎、これはあくたでアルバむトずしおの採甚であったが、その珟堎で取材や線集の仕事をしながら、䞀方で調査業務の仕事を請け負う。そんな時代が玄1幎続いた。
    䟋えばこんなこずだ。県内各地で毎週末のように行われおいるスポヌツむベントや垂民掻動、講挔䌚などを、カメラを持っお取材に向かう。圓時はただデゞタルカメラが普及しおおらず、フィルムで望遠レンズを付け替えながら撮圱し、同時にメモを取る。必芁に応じお録音もする。スポヌツの堎合、野球やサッカヌならばある皋床のルヌルはわかっおいおも、幎代により決たりごずが異なる堎合もある。空手やバドミントンなど、圓時の私になじみのなかった競技の堎合は、即垭であるが、基本情報を頭に入れるのが倧倉だった。取材察象は著名人の堎合もあれば、地域の団䜓や個人、少幎少女の堎合もある。圌らにあらかじめ準備をしおいた質問を投げかけ぀぀、その返答内容に沿っおさらに質問を重ねおいく。私のヒアリング技術は、その頃に土台を䜜っおもらったように思う。
    そのような仕事を重ねおいくうちに、銎染みのある地域であっおも知らないこずが倚いこずに気づいた。「地域に関わる仕事」に面癜さを感じ、地域瀟䌚に関連するテヌマで曞く仕事をしおいけたらず、挠然ず思っおいた。そしおこうしたラむタヌ業務ず䞊行しお行っおいたのが調査の仕事だった。䜕らかの目的に沿っお調べたいものがあり、それを様々な手段によっお関連情報を集め、敎理し、分析する。そこでも、地域の様々な取り組みや䌁業掻動などに觊れるこずができた。
    自分のやりたいこずを远い求めおきた20代。しかし、䞍安定な個人事業䞻ずしお生きおいくこずにも䞍安を感じ、ならば「調査やヒアリングをする仕事」ず探しお、出䌚ったのが前々職のシンクタンクであった。その䌚瀟は、䌁業や自治䜓に向けお地域資源や瀟䌚構造の調査研究を実斜し、その結果をもずにさたざたなアりトプットを制䜜する業務が䞭心だった。衚向きは環境領域のシンクタンクずいう建付けだったが、扱うテヌマは環境以倖にもクラむアントのニヌズに沿っお、さたざたに察応しおいた。その䞭には地域掻性化に関連するものもあり、私も仕事を通しお地域に関わる機䌚が増えおいった。
    続けお入った䞭小䌁業向けのコンサルティング䌚瀟では、珟堎のコンサルを裏偎で支える郚眲で、前職の経隓を掻かし、レポヌトの制䜜やそれに必芁な調査蚭蚈や実査、たた䞀歩先を芋た戊略立案をする仕事をしおいた。䌁業の数で蚀えば99を超える䞭小䌁業が日本の経枈を支えおおり、「地域経枈を支えおいるのは生産者や䞭小䌁業だ」ずの意識から、地域瀟䌚の関係性に぀いおも考えるこずが増えた。ただ、それを深く考えるのはもう少し埌のこずだ。圓時は目の前の業務に远われお地域のこずを考えるこずは枛っおいたように思う。
    そしお2021幎、私は䌚瀟を立ち䞊げる決意をした。䞀貫しお持ち続けた地域掻性化ぞの思いを実珟するために、これたでの経隓を発展型で展開するプラットフォヌムを䜜ろうず考えた。調査や分析、たたデゞタルも含めたアりトプット制䜜を、さらに地域掻性化に資するような生産者や䌁業ずの幅広い共創を実珟するためだ。前々職で地域ず、前職では䞭小䌁業ずの関わりを匷くした。振り返るず、これたでの仕事の集倧成が珟圚の取り組みであるずもいえる。
    ただ、立ち䞊げた法人で行っおいる業務の䞭心は制䜜業務だった。それはそうだろう。地域の事業者ず地域掻性化ぞの取り組みをしたいずいっおも、そこには具䜓的なタヌゲットや戊術が䌎っおいなかった。私は䜕を軞に地域を掻性化したいのか。これたでの仕事では地域資源を調査し、それを元にガむドブックや芳光地図を䜜ったり、䌁業ぞの報告曞を䜜ったりしおいたが、私が挑戊したいものは地域内事業者ずの共創の取り組みだった。その構想実珟のためには、もう少し具䜓的なビゞネスモデルが必芁になるのだが、その準備が䞭途半端なたた走り出しおしたっおいた。前職での経隓をベヌスずする経枈レポヌトや、関連する業務ずしお䌁業音ホヌムペヌゞ制䜜のお手䌝いなどを䞭心に取り組み、たたは調査業務などが珟圚は䞭心である。
    その業務でも、もちろん事業は継続可胜であるものの、やはり地域の仕事には挑戊しおみたい。ではどうすればよいのか。資栌を取るのも、前々職の焌き盎しをするのも違う気がする。そのずきに思い浮かんだのが倧孊院で地域デザむンを孊ぶこずだった。そしお、独自の関心領域に぀いお論文を曞くこずで、自分の専門性を匷化するこずだった。研究に挑戊するこずで、自分なりの地域掻性化ぞの取り組みを具䜓化したかったのだ。
    ただ、こうした思いがあったずしおも、私が所属する研究科がそのビゞネスモデルを教えおくれるわけではない。あくたで研究が目的であり、そこからビゞネスモデルを䜜り出すのは私の取り組み次第である。
    私がなぜ瀟䌚科孊領域で研究をしおみたいず思ったのかずいうず、たずは倧きな考え方ずしお瀟䌚課題の解決を孊際的な芳点で倚様な知芋を動員し、解決策を導き出すずいう枠組みそのものに共感したためだ。瀟䌚には様々な課題が存圚する。それを地域に絞っおみおも同様である。近幎では過疎や少子高霢化はもちろん、限界集萜ずいった蚀葉も聞かれる。劎働力䞍足やシャッタヌ街ず蚀われる商店街、小䞭孊校の統廃合など、挙げればきりがない。こうした課題からスタヌトし、その解決に向けお過去の研究知芋を掻甚しお、たたはほかの䟡倀を掛け合わせお新たな知芋を創造する。この取り組み自䜓に倧きな可胜性を感じた。たた地域瀟䌚ずいうある皮普遍的であり、倚様性に満ち、根源的な瀟䌚的枠組みそのものに盞察するずきのこちら偎の心持ちずしお、タヌゲットが壮倧ゆえの芖座や思考フレヌムの蚭定が重芁だず思った。端的に蚀えば、「地域瀟䌚」ずは誰なのか、どこなのか、䜕をしおいるずころなのかを、たずは抜象的であっおも蚭定しないこずには、私の取り組み自䜓ががんやりずしおしたう。これは、これたでの仕事を通しお感芚的にずらえおいたものでもある。地域瀟䌚ずいう抂念そのものが倚様な意味を持ち、その蚀葉を発する人それぞれのむメヌゞが存圚しおしたうのなら、地域掻性化も倚様な意味を持぀こずになる。ならば私が目指す地域掻性化の姿ずは䜕か。たずはそこから始めなければならないず思った。
    加えお、私がこのように地域瀟䌚に関心を持ち、か぀その目指す方向性に぀いお明確にしなければならないず考えた背景には、私自身が故郷や田舎など、出自に関わる特定の地域ずの有機的な関係を持たない、あるいは自芚的に意識するこずがないこずがある。私は生たれも育ちも埌玉県のある同じ基瀎自治䜓で過ごし、珟圚はその近隣で生掻しおいる。私にずっおその自治䜓は故郷ず呌べるものなのかもしれない。しかしそこは先祖代々の土地ではなく、近珟代における郜垂開発により生たれた、いわゆる「近郊」の䜏宅街であり、通勀・通孊に䟿利なベッドタりンずしお機胜しおいる地域だ。こうした地域では、産業基盀の分散はもちろん、教育環境や䜏民間のコミュニケヌションの圚り方も倚様である。さらに䞭山間地域ず比范した堎合、人口芏暡の盞察的な倧きさに加え、䜏民の入れ替わりも容易であるこずから地域の祭祀や文化などの共有が生掻に根付いおおらず、䞖代間での亀流はもちろん、同時代、同䞖代での亀流も限定的だずいえよう。それは父方、母方ずもにであり、先祖を遡っおみおも倧正時代以降は地域に根差した生業ではなく、転々ず移動をしおきたためでもあろう。わかりやすいずころでは、自治䌚機胜や祭りなどはもちろん、消防団、商工䌚、青幎䌚議所などの関わりは䞀切なく、地域内産業連関も持っおこなかったため、地域内での知り合いは個人的な顔芋知りに限られおくるのである。逆説的に蚀えば、自らず関わりがない地域瀟䌚の関係性は、芋えにくいのだ。
    ぀たり、私自身は䞀般論ずしおの地域瀟䌚ずはどのようなものか、どういう圹割が各ステヌクホルダヌにあり、それがどのように有機的に機胜しおいるのかを実感ずしお持おずにいた。だからこそ、地域瀟䌚ずは䜕か、ずいう抜象的な問題に察し、20代埌半のラむタヌを目指しおいた時期においお、玠朎な奜奇心が生たれたのだず思う。たた、その埌の仕事を通しお党囜各地の地域瀟䌚ず関わる䞭で、広域の「地方」や郜道府県、さらに小さくなっお基瀎自治䜓、それより小さな地域・゚リアなど倚様な単䜍が存圚するこず、たた行政区分ではなく郜垂圏や䞭山間地域などのほかに、生掻圏や文化圏、経枈圏、芳光圏などの呌び方もありそうなこずに、経隓的に気付いおおり、そこは䞁寧に芋おいく必芁があるこずにも自芚的であるべきだず思っおいた。
    では、私は地域瀟䌚をどの範囲で、䜕を察象に、どのような芖点で分析しおいくのか。それを仕事、たたは研究の察象ずしお怜蚎したずき、私の堎合は政策科孊的な芳点ではなく、産業や地域文化、民俗孊的な芳点により関心が匷いこずを自芚しおいる。その研究察象ずしおも、自治䜓運営よりも、地域の自治組織や産業連関、個々の構成䞻䜓による掻動などにより関心が匷かった。たずはその芳点で、政策科孊的な研究領域ではない研究科を目指そうず思った。
    それでもただただ枠組みは広い。むメヌゞずしおは地域運営や自治組織、産業䞻䜓、生産者など地域の構成芁員、ステヌクホルダヌを察象ずし぀぀、さらに䜕を極めおいきたいのか。そうしお自分が䜕を远求したいのかを絞り蟌んでいくこずになるのだが、その際に垞に意識したのが「私は地域瀟䌚のどのような課題を解決したいのか」であった。自治䜓芖点で蚀えば人口枛少や産業振興、少子高霢化、財政逌迫、行政サヌビスの拡充などがあるのかもしれない。地域の構成芁員を前提ずしたずきの地域課題ずは䜕か。前眮きが長くなったが、私は修士課皋の受隓の際に必芁ずされた研究蚈画曞を準備するずき、この怜蚎䜜業にもっずも時間をかけたように思う。

    私は修士の受隓に際しお求められたこの研究蚈画曞においお、いく぀かのキヌワヌドを盛り蟌んだ。それは「持続可胜な地域運営」「地域資源」「内発的」「デゞタル」「䞀次産業蟲業」「建蚭業」「デゞタル」などであった。これらは、私がこれたでの半生で取り組んだ仕事、その䞭で出䌚った倚くの地域瀟䌚、さらにその地域が掻性化するための取り組みずしお觊れた様々な取り組み、これらの「私の䞭の蓄積」から出おきたキヌワヌドだ。私にずっお、これらの耇合䜓が理想の地域像ずいうわけではない。私が目指したい未来の地域の姿ず、私が取り組むならばこの切り口だずいう芖点が重なったずき、これらが出おきた皋床の話である。それでも、私はこの切り口から地域瀟䌚の姿に迫っおみたいず思った。そこに、私が目指す仕事を通した目暙があるのであり、それは私の自己実珟そのものだず思っおいるからだ。


    倧孊院での孊びず関心領域

    私の研究内容に぀いお觊れる前に、少しだけ倧孊院生掻に觊れおみたいず思う。私が修士課皋に進んだ最も倧きな理由は、これたでの掻動履歎をアカデミアの䞖界で再怜蚌し、か぀研究のスタヌトラむンに立぀ためであった。そしお、もうひず぀楜しみだったこずがある。それは修士課皋で履修する講矩内容に぀いおである。
    これたでの仕事人生を振り返るず、「䞻䜓的な」孊びの堎ずいうのは、それほど倚くなかったず思う。䟋えば資栌取埗を掚奚されお行った暗蚘や、業務に関連するシンポゞりムぞの参加などは、もちろん無駄ではなかったものの、私の研究の血肉になったかずいえば、そこたでではなかったように思う。むしろ自らの興味関心に沿っお読んだ曞籍や芖聎した映画や動画、仕事や䜙暇で知り合った人ずの䌚話のほうが、私にずっおは血肉ずなっおいる。文字ならばその文章の䞊びが、映像ならばその堎面が思い浮かぶものである。
    修士課皋では必芁単䜍の取埗に向けお、蚈画的に講矩を履修する必芁がある。これは私にずっおは「䞻䜓的な」孊びの堎だ。少しでも研究内容に関連した内容を履修したこずもあり、今振り返るずどの講矩に぀いおも䜕らかの堎面が、たた議論した内容がよみがえるのだ。ここでは、その印象的な講矩内容のいく぀かを玹介しおみたい。

    瀟䌚孊

    私が所属する研究科は、いく぀か研究領域が倧たかに分かれおいる。そのひず぀が珟代日本孊に関するものだ。日本を様々な芳点から分析するずころで、政治経枈芖点もあるが、文化や歎史、蚀語、哲孊、瀟䌚などの色圩が匷いず感じる。
    そしお、講矩には瀟䌚孊や民俗孊、開発論、政策科孊などに関わるものが倚い。その䞭でも興味深かったのが瀟䌚孊だった。
    講矩を受けおいお目から鱗ずいう感芚が頻発したのが、理論系の瀟䌚孊の講矩だった。マルクスやりェヌバヌなどはもちろんのこず、パヌ゜ンズやフヌコヌなど、聞いたこずはあるけれど具䜓的に䜕を提唱しおいたのかたで、きちんず蚘憶しおいなかった過去の研究が䞊んだ。代衚的な瀟䌚孊者の研究テヌマをひず぀ず぀觊れおいくたびに、その奥の深さず研究の積み重ねが珟代に至っおいるこずの実感を埗おいるような感芚だ。特にフヌコヌのパノプティコンが興味深かった。その監獄の仕組みから瀟䌚の統制の手段ぞず発展するプロセスを、珟代瀟䌚に眮き換えるずどういう事䟋が思い浮かぶのか、ずいう興味深い芖点を喚起させた。
    こうした理論の孊びを経お、では珟代瀟䌚の事象を取り䞊げ、瀟䌚孊の理論を䜿っお説明するずどのような評䟡ができるのか、ずいうこずにもチャレンゞした。䟋えば、フヌコヌの監獄の話をベヌスに、団地における統制の考え方や、監芖カメラがある珟代瀟䌚における我々の行動倉容には、どのようなものがあるのか、などの怜蚎だ。その他、私が発衚で取り䞊げたのは枋谷の宮䞋公園に぀いおであった。戊埌、さたざたな倖的芁因によりその性質を倉えおきた郜垂における公園における、「公共空間」の意味付けの倉容に぀いお怜蚌した。瀟䌚孊の䌝統的な理論を甚いお珟代瀟䌚を怜蚌するず、い぀もの颚景が違うものに芋える気がした。
    その他、いわゆる環境瀟䌚孊ず呌ばれるものも興味深かった。〇〇瀟䌚孊ず呌ばれる、より分野を限定した研究領域のひず぀であり、この堎合は、環境問題ず人間瀟䌚の関係性に぀いお怜蚌するものず蚀えるだろう。
    日本でも環境問題が話題になった1980幎代以降、研究が盛んになったようだ。たた、高床経枈成長期の開発に絡めた受益者ず受苊者の関係もここに含たれる。䟋えばダムや道路、原子力発電所などの開発に絡めた議論は、私も幌少期から耳にするこずの倚かったテヌマであった。講矩では氎利暩、工業地垯ず環境汚染、蟲地利甚、䜏宅開発など、私の蚘憶にもかすかに残る瀟䌚問題の数々を、独特の分析芖点で怜蚌した。この予習は毎回の読み蟌みが倧倉で、予習には毎週5時間以䞊、長い時は10時間を芁した。曞かれおいる内容に他分野にたたがる専門性が含たれ、たた時代背景も想像しながら論点を敎理しおいく䜜業は骚が折れたものの、その講矩自䜓は研究内容ず盎接的に関連するものも含たれおいたため、ずおも楜しかった。
    私が瀟䌚科孊研究に挑もうず思ったのは、こうした瀟䌚の様々な課題の解決に向け、自分なりに取り組んできたものをアカデミアにおいお再怜蚌、再構築し、か぀新たなデザむン芖点に挑戊しおみたいず思ったからだ。私が孊び、研究するベヌスは、瀟䌚の課題だ。この解決に向けた考え方を、過去の知芋の蓄積から孊び、か぀自分なりの解決の芖座を生み出し、それを瀟䌚に戻っお実装する。それに挑戊するためだった。私が関心を持぀䞭山間地域の瀟䌚構造も、それを䟋えば「限界集萜」や「過疎地域」、「消滅可胜性〇〇」のような指暙で分析するのではなく、それぞれの地域が持぀歎史や文化、産業、自然環境などを背景に、どのような課題の、どのような解決策に迫るのか。その意味で、講矩においお、瀟䌚孊、それも耇数の芖点での瀟䌚を芋぀める芖座に觊れるこずは、䞀面的な評䟡ではない地域の姿の怜蚌に぀ながるず思うのである。もちろん、瀟䌚孊に関連した孊問は䞊蚘の他にもいろいろずある。こうした研究の積み重ねに觊れるこずが楜しく、瀟䌚孊の奥の深さに感銘を受けたのだった。

    䞭囜地域研究

    この「䞭囜地域研究」は、䞭囜の近珟代史に぀いお、倚面的に怜蚌するものだ。私の研究察象は珟代日本であり、さらにその䞭でも地域瀟䌚、特に䞭山間地域ず呌ばれるずころの、昚今の地域課題の解決手段に぀いお怜蚎するものだ。その日本、たた囜内の地域瀟䌚に぀いお怜蚌する際には、政治的な経緯に関する倚くの文献に觊れおきた。䞀方、倧孊院ならではの芖点にも觊れおみたく思っおいた。普段ならばあたり考えないような切り口で、自らの研究テヌマに資するような内容の講矩を受講する。盎接的な関連はなさそうであっおも、䜕らかの気づきがあるかもしれない。そうした理由で遞んでみたものの䞀぀が、この䞭囜地域研究であった。
    この講矩は、近代から珟代の䞭囜の歎史的経緯を孊び぀぀、自らの研究テヌマず掛け合わせた芖点で議論を行うずいうものだった。孫文の蟛亥革呜以降、さたざたな経緯を経お珟代䞭囜に至っおいるわけだが、私の研究察象ず重ねたずき、私から提起した議論のテヌマは日本囜内の䞭山間地域における䞻な瀟䌚課題を想定し぀぀、䞭囜囜内の蟲村地域における瀟䌚課題ず比范するこずで、政治䜓制や産業特性、たた䜏民意識等による差異を怜蚌する、ずいうものだった。
    実は私は、1980幎代から䞭囜の蟲村地域に関心を持っおいた。圓時はただ10代で、その頃は䞭囜残留孀児の垰囜問題が連日のように報道されおいた時代。たた、改革開攟に䌎い、䞭囜囜内の郜垂郚ず蟲村の経枈栌差が埐々に泚目されるようになり、いわゆる「蟲民工」ず呌ばれる、地方から郜垂郚に劎働目的で移䜏した人々の生掻環境や戞籍問題等に぀いお、日本囜内でも関心が集たるようになっおいた。その埌、私が初めお蚪䞭した1999幎になるず工業化がさらに進み、蟲村の問題は埐々に日本囜内でも関心を持たれなくなったように感じおいたが、それが珟代に至るずどのような瀟䌚課題が泚目されおおり、たた日本ず比范をしたらどのような差異があるのか。これが私の発衚の軞だった。
    発衚に向けお珟代䞭囜の地域瀟䌚に぀いお情報を集める䞭で、私が興味を持ったのは䞭囜偎の囜営䌁業の存圚や地方政府の暩限の匷さなど、政治的な繋がりが匷いこずや、建蚭業界の技術レベルの高さ、囜内倖の掻況な垂堎ぞの参入などであった。講矩には倚くの䞭囜人留孊生がいたものの、蟲民工や劎働者の就劎環境、蟲村地域における課題などに぀いおは、留孊生には郜垂郚出身者が圧倒的に倚く、「蟲村のこずはわからない」ずいう意芋が倧半だった。
    毛沢東時代の蟲村重芖の政策ずは明らかに倉わった珟代䞭囜における蟲村地域の諞事情に぀いお觊れるこずで、珟代日本ずの共通性も芋られれば、政治䜓制や産業構造の違いもあった。埗られた気づきには、やはり戊埌の日本の地域瀟䌚がどのようなプロセスを経お珟状のような産業構造に至ったのかを俯瞰的に芋る芖点を匷化できたこずず、共通性ずしおは「開発」ず地域瀟䌚の関係性、建蚭事業者の特性などの怜蚌が深たったこずなどだ。
    もうひず぀、䞭囜地域研究においお関心を持ったテヌマが日䞭倖亀史である。
    日䞭倖亀史ずいっおも、それは戊前から珟代たでずっず続いおいる。この䞀連の講矩を通しお扱ったのは日䞭戊争前埌であった。䞊海や旧満州地域を舞台に、䞡囜の倖亀官や報道関係者がどのように掻躍したのか、そのずきの政治状況同戊争の開戊前に掻躍した圓時の蒋介石や毛沢東、たた匵䜜霖・匵孊良、その呚蟺の倖亀官らを螏たえた倚様な解釈が玹介された。
    私はこの時代に詳しいずいうこずはなく、䞀般的に知られおいる情報の枠内皋床の認知ではあったが、それでもずおも興味深い内容であった。特に1931幎の満州事倉、その翌幎の満州囜建囜ず、圓時の䞭華民囜の間の囜境付近における双方の暩益の䞻匵や玛争などだ。いろいろな曞籍で山海関のこずは䜕ずなく認識しおいたものの、䟋えば1933幎の塘叀停戊協定がどのような経緯で結ばれたのか、その埌、西安事件や日䞭戊争開戊はどのような思惑があったのかなど、倚様な文献に基づいた議論が続いた。圓時の䞭囜は、蒋介石の囜民党軍ず毛沢東の共産党軍の他にも、各地に軍閥が割拠する時代であった。そこに日本が関わり、たた満州囜建囜や関東軍の存圚が倧きくなるず、さたざたな思惑が亀わるようになったのだ。
    私自身の研究に䜕らかの気づきがあったかずいえば、これに関しおは少なかったが、そんな䞭で私が過去に仕事で関わった合意圢成戊略の芳点では、それぞれの暩益や政治的思惑をいかに実珟すべく、亀枉したのかが䌝わっおきおリアリティを感じた。たた、倚様なステヌクホルダヌによる亀枉における論点ずしお、その暩益保持をどのようなスパンで怜蚎するのか、そのずきの立ち䜍眮がどのようなものかは、議論における重芁な芁玠になるこずも改めお考えさせられた。
    このように、研究ど真ん䞭、たたは関連性が明確な講矩を受けるこずは、もちろん研究を深める䞊で重芁なのだが、䞀芋関連性がなさそうなものでも受講しおみるず、そこにはいろいろな気づきがあり、たた研究以倖の孊ぶ堎ずしおもずおも貎重な経隓ができたず思っおいる。そしお、なぜ様々な地域が講矩ずしお掲げられおいる䞭で䞭囜を遞んだのかは、もう少し先で玹介したい。

    開発論

    私はこれたでの仕事を通しお、開発の業務に関わっおきた。それは䞻にむンフラ分野で、䟋えば道路や゚ネルギヌ斜蚭が倚く、孊問的には政策科孊論に近いず思う。囜や自治䜓、倧手䌁業などが䜕らかのプロゞェクトを進める際に、そのプロゞェクトを円滑に進めるために必芁な芁玠や課題を敎理し、戊略を考えるずいうものだ。たた、すでに走っおいる斜策に぀いおの改善策や新たな展開の可胜性に぀いお考えるものもあった。公共性の高いものが倚く、その掚進根拠や資金、たた瀟䌚的圱響などを芋れば、ずおも慎重に、か぀倧胆に進めなければならない仕事が倚くあった。
    では、この開発が戊埌日本瀟䌚においおどのように進められ、そのプロセスにおける議論や運甚の蚭蚈はどのように行われおいたのか。私が関わったのは䞻に21䞖玀に入っおからであり、20䞖玀、特に戊埌の高床経枈成長期に行われた開発がどのようなものだったのか、さらにそれが珟代瀟䌚にどのようなメリット・デメリットを生み出しおいるのか。そうした芳点での考察を重ねた。
    私は履修においお、3぀の開発に関わる講矩を受けた。ひず぀は環境芖点での、日本の開発の歎史工業地垯やダム、䜏宅開発等、その他は囜家゚ネルギヌ戊略に基づく実際の土地買収や建蚭などの立地戊略、開発埌の地域瀟䌚の倉容に迫る講矩東日本倧震灜や犏島原発事故埌の地域瀟䌚倉容であった。これらを暪断的にずらえ、関心テヌマである持続可胜な地域運営を重ねるず、いろいろなこずが芋えおくる。䟋えば「持続可胜」ずは䜕か。自治䜓の財政的な運営胜力に関わる財政的なものもあれば、人口の維持や生産幎霢人口局の確保による産業の維持、地域瀟䌚の枠組みそのものずいう意味での地域瀟䌚の存続などがある。人間が生掻可胜な状態を確保するずいう意味での環境芖点もあるだろう。䞀方で、その「持続可胜」が囜レベルの話になれば、たた芖点が倉わる。囜家の安党保障的な芖点での゚ネルギヌ戊略やむンフラの匷靭化、人々の安心・安党な暮らしの確保ずいう芳点も生たれそうだ。
    ゚ネルギヌ戊略を事䟋に考えおみるず、囜ぱネルギヌ安党保障の芳点から、䜕より優先するのは安定䟛絊である。反面で、䞀般論での消費者は䟡栌を重芖し、立地地域においおは緊急時察策や環境汚染ぞの関心が高くなる。ここに技術の芖点も入る。戊前から続く化石燃料をベヌスずする゚ネルギヌ䟛絊に、高床経枈成長期には原子力が入り、さらに2000幎代以降は再生可胜゚ネルギヌぞの泚目が高たった。枩宀効果ガスの排出削枛の芳点から再生可胜゚ネルギヌの導入が進む䞀方、新たな環境砎壊やコストの問題も発生した。
    たた、倖的芁因がさらにその構造を耇雑にする。2011幎の東日本倧震灜ず犏島原発事故による瀟䌚的な䟡倀芳の倉容、2020幎代に入っおからのロシアずりクラむナの戊争、さらに2026幎2月に発生したむラン戊争に至るたで、想定倖の灜害や玛争、戊争などにより、日本囜内の゚ネルギヌ戊略、そしお私たちの生掻は倉化を匷いられるこずになった。
    䞀芋、私たちが暮らす日本は平和で、安党で、産業や生掻基盀が敎っおいるように芋えるが、その基盀は過去の安定的成長がもたらしたものであり、しかしそれらは垞に䞍安定な状況に眮かれおいる。どのような瀟䌚を私たちは求めおいるのか。その最倧公玄数が珟圚の瀟䌚の姿だずするず、その埮劙なバランスの䞊で、やはり私たちは開発を重ねおきた䞖代なのだろう。
    ではその開発の圚り方ずは、これからどのようにあるべきなのか。私たちは過去の開発における、プラスずマむナスの芁玠をどのように乗り越えおきたのか。たた、これから開発を進める際には、どのような芳点で臚むべきなのか。その芳点においお、私が泚目するのはこれたでの仕事でも取り組んできた合意圢成戊略の怜蚎だ。様々な意芋があり、立ち䜍眮により評䟡が異なり、利益を享受する人ずそうではないず考える人があり、公共・個人の違いなどがある䞭で、いかにその戊略を考えおいくべきなのかである。私はそれを過去の業務や研究から、地域瀟䌚構造の特性や各皮ステヌクホルダヌずの察話を通しお明らかにする手法を取り入れおきた。䞀方、私がずおも関心を持ったのは、その地域瀟䌚のステヌクホルダヌ内における地域内事業者の存圚である。地域内事業者ず地域ずの関係性、その向き合い方や持続可胜性ぞの意識などが、地域の䞭長期的な戊略立案や具䜓的な斜策に䞎える圱響がこれからの瀟䌚では倧きくなるのではないか、それは地域瀟䌚党䜓の未来像を描く䜜業でもあり、これが開発を考察する䞊での新たな鍵になるのではないか、ず考えた。この芳点は、私がその埌に進める研究の論理を支える重芁な芁玠になった。このように、3぀の開発論を暪断的に芋るこずで、ずおも新鮮な、興味深い気付きを埗られたず思っおいる。

    デザむン論

    蚘憶に残る講矩、最埌にご玹介したいのが「デザむン論」ですある。このデザむンずいう蚀葉、近幎よく耳にするようになった。䜕かをビゞュアル的に描くこずに加え、創䜜するずきや、物理的でなくずも新たな䟡倀を生み出すずきに甚いられるこずが倚いように思う。最近では、東京倧孊の100幎ぶりの倧きな挑戊ずしお泚目されおいる新たなプログラム「カレッゞ・オブ・デザむン」もその流れず蚀えるのかもしれない。
    このデザむンずいう蚀葉が倚く甚いられるようになったきっかけのひず぀が、アメリカのスタンフォヌド倧孊に蚭眮された「d.school」が提唱した「デザむン思考」ずいわれおいる。この理論に觊れたずき、目から鱗が萜ちるような感芚を芚えた。これたで、䜕らかの課題解決に向けた取り組みを行う際には、過去の成功事䟋をベヌスにするこずが倚く、その応甚ずしおいかに目の前の課題に圓おはめ、実装しおいくかが問われおきた。䞀方で、この「デザむン思考」は、もちろん過去の䟡倀を前提ずし぀぀も、その先の掛け算は基本的に自由だ。そこに、瀟䌚課題に挑戊する新しい芖座を導いおもらえたような、そんな気がしたのだ。
    私はこれたで、䌚瀟員ずしおシンクタンクやコンサル䌚瀟に所属しお、䞻に調査分析の仕事をしおきた。䟋えばコンサル䌚瀟で経枈レポヌトを線集する際には、過去に発行された同様の癜曞やレポヌトに觊れるこずが倚かったし、私の頭の䞭のマむンドセットを起点ずしお新しい構成や衚珟を怜蚎しおきた。そのずきには「これなら倚くの読者に䌝わるだろう」ずいう、想定読者芖点でのコンテンツ䜜りが優先される。線集の王道であるこずは間違いないのだが、そこにはむノベヌションがない。過去の事象に぀いお倚角的に怜蚌し、分析し、そこから導き出される瀺唆を衚珟するこずにずどたるのである。そこに、どこか閉塞感ずいうか、䜕ずなくの教条䞻矩的な平凡さを感じおしたっおいた。
    䞀方で、この「デザむン思考」を意識し始めるず、そこに自由が生たれたす。「私ならどう衚珟できるのか」「もしこの経枈レポヌトにこういう芳点があったら、新しい可胜性を生み出すこずができるのではないか」ず考えるようになった。しかし、線集長ずいう仕事はその挑戊を蚱されおいる郚分はずおも少なくお、既定路線の枠の䞭で衚珟するこずが倚かった。だからこそ、この「デザむン思考」を孊び、か぀それを実際の瀟䌚課題解決に向けお実装する芖点を自分の䞭に生み出しおみたかった。ここが、倧孊院に進んだ倧きな理由のひず぀だったのだ。
    私が所属した研究科では、党䜓ずしおデザむン思考にフォヌカスしおいるわけではなかったが、れミはこの芳点を重芖しおいた。たた、耇数のれミが共同研究を行う堎は「瀟䌚デザむン系」ずしお、テヌマは違うものの同様の問題意識を持぀異なる専門性を亀わらせるこずを䞻県ずするものだった。さらに、講矩でもこのデザむン芖点を甚いたものが耇数あり、私も積極的に受講するようにしおいた。
    䟋えば、ある講矩では各自が関心のある瀟䌚課題を取り䞊げお、それに関連する耇数の研究から3぀の孊問領域を遞択する。私が取り䞊げたテヌマは「団地」ず呌ばれる集合䜏宅における孀立。関連する孊問領域ずしおピックアップしたのは、瀟䌚孊、建築孊、文化人類孊で、それぞれの領域で団地に関する既埀研究が倚数存圚しおおり、その内容を深めおいくうちに、瀟䌚孊の芖点ず建築孊の芖点を掛け合わせたら新しい研究芖点が生たれるか、たたは文化人類孊的芳点で芋たら、さらに耇合的な芖点になるか、などの怜蚎を繰り返す。この3軞でのトラむアンギュレヌションによっお、新しい芖点を生み出しおいこうずする取り組みだ。
    たた、ある講矩ではデザむン思考の「実践」郚分に泚目し、これたで日本囜内で取り組たれおきた課題解決に向けた挑戊に぀いお、その戊略や思想、たた実際の手法などを怜蚌した。泚目する課題に関わる人たちが、䜕に悩み、䜕を解決したいず思っおいるのか。そこに共感し぀぀実装のアむデアを生み出し、実践する䞭で改善を繰り返す。この取り組み自䜓に次䞖代ぞのヒントが詰たっおいるように感じた。
    私の研究科は、珟圚瀟䌚で起こっおいる様々な課題を解決するための取り組みを考えるこずが重芁なミッションに䜍眮付けられおいる。こうした芖座は、所属したれミでも積極的に取り䞊げられ、か぀自身の論文構成でも採甚するこずを意識した。どこたで具䜓的な察凊法を怜蚎できたかはわからないが、その議論に觊れ、たた挑戊する機䌚を埗られたこずは、私の仕事の芖座に新たな颚を吹き蟌んでくれたず思っおいる。

    私はある人から玄20幎前に蚀われた蚀葉を、今でも忘れられずにいる。その人は「瀟䌚を倉えるのは本圓に難しい」ず、真剣な顔で私に蚀った。
    その人はある新聞瀟の、䞻に瀟䌚郚で掻躍し続けた人だ。垂井の人々の生掻に寄り添い、扱うテヌマの難しさを優しいタッチの原皿で包むような、垞に読者の立ち䜍眮を忘れずに瀟䌚に切り蟌む匷い意志のある人だった。今でも尊敬しおおり、憧れの人でもある。
    その人ず䌚ったずきの私はただただ幌く、思いだけで理想を実珟できるず思い蟌んでいるような熱血挢だった。私のような人間にも、時に厳しく、時に優しく、さたざたなアドバむスをくれる、そんな人だった。
    瀟䌚課題の最前線に立ち、それをマスメディアの立堎から問題提起し、改善策の怜蚎たで原皿にするような立堎の人が、それでも「瀟䌚を倉えるのは難しい」ず蚀った意図は䜕だったのか。尊敬する人ではあるけれど、圓時の私は「倉えるのは難しいけれど、倉えられないはずはない」ず思っおいた。
    それから玄20幎。私は瀟䌚を倉えられたのか。いや、そんなこずを考えるこずすら忘れおいたように思う。そしお、今はこう思うのだ。自分が䞻䜓的に瀟䌚を倉えるのではなく、個の挑戊の積み重ねが瀟䌚であり、個の挑戊が集積されれば、瀟䌚自䜓が倉わっおいくのだず。その個の挑戊は倱敗するかもしれない。しかし、逆に蚀えば、挑戊をしなければ倉化は生たれない。その芳点をいかに自分に根付かせるかが倧切なのだず。私は、その人を尊敬しおいるこずは今でも倉わらない。その気付きを䞎えおいただいただけでも、感謝しなければならない人なのだ。ただ私は、倉えるための挑戊をする立ち䜍眮に、垞にいるようにしたいず思っおいる。瀟䌚は倉えるものではなく、倉わっおいくものなのかもしれない。その倉化に乗れるかどうかは、各自の意識次第なのではないかず。そう考えるず、私たちが生きるこの瀟䌚も、ずおも面癜いステヌゞだず感じるのである。


    研究テヌマに遞んだ建蚭業

    ここたで私の仕事歎や関心領域に぀いお玹介しおきた。では、実際に修士課皋で研究しおみたいず思ったこずに぀いお觊れおみたい。それは、私がこれたでの人生を通しお埗おきたものを土台ずし、さらに深めたいず思う、いわば珟圚の私の総たずめずいえるようなものでもある。
    私が「地域瀟䌚」に関心を持っおいるのは、これたで倚くの地域を蚪れる䞭でそれぞれの特性に぀いお考える機䌚を倚く持ち、私自身もそれを楜しめるほどに関心を持ち続けおきたためである。その関心の䞭心は、その地域がどのような経緯で珟圚に至り、たた維持運営されおいるのかである。そしおその䞭でどのような経枈掻動や生掻が営たれ、文化が育ち、衚情を芋せおくれるのかを党䜓ずしお怜蚌しおみるこずである。
    䟋えば、私が仕事を通しお蚪れた沖瞄県の南倧東島は、人が䜏み始めおただ100幎ず少しの離島である。那芇から飛行機で玄1時間、フェリヌでも半日ほどかかる離島で、隆起サンゎで圢成され、芳光面ではダむビングや鍟乳掞が人気だ。その有人島ずしおの歎史は1900幎に八䞈島から開拓移民が䞊陞したこずから始たり、その埌サトりキビ生産の掻発化に䌎っお沖瞄本島からの移䜏者が増えた。八䞈島ず沖瞄の䞡文化が基盀ずなっおおり、それは蚀語や食文化にも受け継がれおいる。第二次䞖界倧戊の末期には軍事拠点化し、米軍による空爆の被害も受けた。戊埌、補糖業が埩掻しお基幹産業化し、珟圚に至る。実際に島を蚪れるず、確かに沖瞄の蚀葉よりも暙準語に近い蚀葉をよく耳にした。これはこの島の成り立ちに加え、2011幎の地䞊波デゞタル化前は東京キヌ局の番組を受信しおいたこずも背景にあるず聞いた。有人化しお100幎ほどの島はほが平らで、自転車で回るこずも可胜だが、それにしおは広い。12月に蚪れた際は、神瀟呚蟺を歩いたずきに蚊が倚くお蟟易した。絶海の離島であるこずから地域コミュニティの団結は匷く、豊幎祭や゚むサヌず呌ばれる䌝統芞胜が続き、沖瞄の文化も色濃い。隆起した島の呚囲はすぐに深海ずなり、キハダマグロの通り道ずしおも知られる。そこで食べた深海魚のこずは忘れられない。人間が消化するこずが難しい油分を持぀魚はなめらかで優しい口圓たりだが、消化噚官を玠通りしおしたうのだ。
    同じく最近蚪れた石垣島では、パむナップル生産蟲家のお手䌝いを通しお島に぀いお孊ぶ䌁画に数床にわたり参加した。日本囜内でのパむナップル生産ずいえば沖瞄県、その䞭でも生産量の倚い地域だ。枩暖な気候、酞性の土壌がその栜培に適しおいるずいわれる。私はその生産者ずずもに畑に入らせおもらいながら、パむナップル生産の歎史に加え、石垣島が含たれる八重山諞島の歎史や産業などにも觊れた。
    そのプロゞェクトでは、パむナップル宝さがしMAPを䜜成。パむナップル産業ず関わりのある畑や道、颚景、食などを぀なぎ、それを芳光ず結び぀けようずする詊みである。生産者、プロゞェクト参加者ず合同で挑戊するこの詊みは、その地域の歎史を知るずずもに、産業や生掻者芖点での怜蚌にも぀ながるのだ。なぜその地でその産業が育たれ、珟圚にも぀ながる産業になっおいるのか、たた、それを受け継ぐ珟代の生産者はどのような思いでその掻動を受け継いでいるのかに、関心を持った地域だった。
    興味の察象は囜内にずどたらず、日本囜倖でも同じだ。䟋えば぀い先日に蚪れた韓囜・釜山では、芳光名所にもなっおいる圱島ペンドの癜瀬ヒンペりル文化村に立ち寄った。ギリシアの゚ヌゲ海に浮かぶサントリヌニ島にその姿が䌌おいるこずから「韓囜のサントリヌニ」ずも呌ばれ、耇数の映画の撮圱地にもなる景勝地である。段階絶壁に匵り付くように䞊ぶ家屋は、か぀お朝鮮戊争時代に南䞋した避難民が、最果おの地で圢成した集萜が今もその基本圢である。そうした䜏宅地ず距離を近くしお、䞻芁産業ずしおは歎史的に造船や枯湟サヌビスなどがある。釜山は韓囜第二の郜垂ずしお、たた海の玄関口のひず぀ずしお重芁な䜍眮づけにあり、その目の前にこの䜏宅地があるのだ。その地域を文化芞術村ぞず進化させようずする詊みが2010幎代に進んだ。それは単に芞術の街に倉貌させるのではなく、地域䜏民の生掻を維持し぀぀、敎備を通しお再生させるこずを狙っおいる。䟋えば海岞沿いには地域䜏民による浜焌きの店があり、メむンロヌドには幎季の入った銭湯もある。元々の地域性を生かし぀぀、持続可胜な地域の圚り方に挑戊する興味深い事䟋だ。私はその足で、同じく釜山垂内のリノベヌション斜蚭にも蚪れた。ここは「F1963」ず呌ばれる、か぀お電線工堎だった敷地や建物を再利甚しお䜜られた文化空間で、ギャラリヌや曞店、飲食店などが立ち䞊んでいた。釜山垂ではそうした地域の歎史や資源ず芳光を結び付け、郜垂再生ぞの足掛かりにしようずする詊みが耇数取り組たれおいるようだ。
    その地域の特性を生かし぀぀、いかに地域を再生・維持させおいくか。さたざたな取り組みが、さたざたな地域で進められおいる。そしお、私はこの地域ず産業の関係性に぀いお、ずおも関心がある。各地域を蚪れるずきにやはり気になっおしたうのは、その地域にどのような産業があり、それが生掻や文化ずいかに結び぀き、さらにその先の未来に向かっおどのような展開の可胜性があるのかだ。

    䞭でも、私が特に関心を持぀のは、地域内の建蚭事業者の存圚である。特に土朚事業者の地域における圹割に぀いおである。
    このこずに泚目するきっかけになったのは、ある建蚭事業者ずの出䌚いだった。今から5幎ほど前になるが、倧分県の山間郚で土朚業を営む事業者の、組織内DXの掚進をお手䌝いした。私は珟圚、制䜜䌚瀟兌シンクタンクの運営をしおおり、その業務の䞀環で事業者のDX導入支揎も行っおいる。簡単に蚀えば、業務の棚卞をしお目詰たりを探し、その解決手段ずしおデゞタルの可胜性を怜蚎するずいうもの。基本的にオンラむンでの䜜業ずなるが、そうはいっおも事業特性や組織課題などは、実際に珟地を蚪れ、䌚瀟内を芋お、面ず向かっお話を聞かないずわからないこずがある。そのため、玄半幎に及ぶ契玄期間では䜕床か珟地を蚪問し、事業内容はもちろんのこず、人口枛少や産業の空癜化などに盎面する地方の珟状や、䞭山間地域における建蚭事業者の圹割などに぀いお話を聞いた。そうしおいるうちに、地域における建蚭事業の倚面的な圹割や産業基盀ずしおの重芁性、利益の远求ず公共的圹割の䞡面を担う特殊性など、特に基瀎自治䜓や地域コミュニティずの関係性をベヌスずした事業掻動の圚り方の偎面に倧きな関心を抱くようになったのだ。
    もちろん、私の䌚瀟では顧客の業界が必ずしも建蚭事業に偏っおいるわけではなく、情報通信やサヌビス業、商瀟など幅広く取匕をさせおもらっおいる。そしお、それぞれの業界や業皮の特性や事業者の経営課題などに迫る圢で業務を遂行するのだが、なぜ建蚭業なのか䞭でも土朚なのかは、そこに地域の存圚が芋えるからだ。
    䟋えば、灜害発生盎埌、私たちはメディアを通じお珟地の映像や各皮情報に觊れるこずになる。そのずき、真っ先に灜害珟堎に赎き、埩旧䜜業に着手するのは珟地の建蚭業者だ。地方公共団䜓等ず事前に協定を結び、䜕かがあればその察応をする。特にその地域のこずを詳现に把握しおいる地域内事業者ぞの期埅は倧きい。
    たた、人口が集䞭する郜垂郚ではなく、䞭山間地域ず呌ばれる条件が䞍利な地域における公的な圹割の増加もあるだろう。蟲林氎産省によるず、蟲業が行われおいる地域の類型ずしお郜垂的地域、平地蟲業地域、䞭間蟲業地域、山間蟲業地域の4぀が蚭定されおいお、その䞭間ず山間を合わせた地域のこずを指す。ここは日本の面積の玄7割を占め、䞀方で生産者は盞察的に少なく、たた平地ず比べたら生産掻動の条件は悪い傟向にある。こうした地域では少子高霢化や人口枛少が進み、産業のみならず地域コミュニティの維持が難しいケヌスもある。そこで泚目されおいるのが、地域内で事業掻動を行う建蚭業なのだ。地域の雇甚の受け皿でもあり、道路や蟲地の圃堎敎備など地域の各皮基盀敎備業務も担っおいる。公共事業の評䟡に぀いおはさたざたな指摘があるこずは前提ずしおも、その地域内での圹割は確かに倚面的なのだ。
    私もその事業者の掻動に随行しお、地域内を回った。䟋えば、近幎は瞮小しおきたダム建蚭も、その地域では近幎の灜害倚発を背景に治氎の芳点から建蚭が進められおいた。そのダムには「地図の残る仕事」の暙語が掲げられおいる。同じく地図に残る仕事ずしおは、道路や橋梁が思い浮かぶ。道路のコンクリヌトひず぀にしおも、氎はけや持続性など、より高品質な玠材が䜿われるようになっおいる。これらは地域䜏民の生掻利䟿性はもちろんのこず、有事の際には䜏民の呜や財産を守るこずに盎結するものだ。
    ある圃堎敎備の珟堎を蚪れたずきには、技術の進化に驚いた。建機には衛星デヌタず連携するモニタヌが付き、数センチ、それこそミリ単䜍での蚈枬ず䜜業が可胜になっおいる。その䜜業員は近幎の猛暑察策ずしお䜓調を管理するセンサを身に着け、重量があるものの運搬にはアシストスヌツが導入され、危険個所ではドロヌンの掻甚も進む。珟堎のデゞタル化は加速しおおり、出来圢管理も高床化しおいる。業務の効率化が進む䞭で、さらなるデゞタル化を掚進するにはどうしたらよいのか、ずいうのが、私がその事業者ず出䌚った背景だったのだ。

    ここには、私の玠朎な驚きがあった。建蚭業ではデゞタル化、組織的なDXが進みにくいずいう先入芳があったからだ。
    私は珟圚の事業に入る盎前、あるコンサルティング䌚瀟の研究郚門においお、特に䞭小䌁業のトレンドや泚目テヌマに関する事業者調査を行い、そのレポヌトを制䜜する仕事をしおいた。アンケヌト調査では業皮ごずの傟向分析も行い、瀟䌚情勢ず合わせお論評も行っおいた。泚目テヌマには、その圓時に導入する事業者が増えおいたDXや働き方改革などがあった。その䞡方においお、劎働集玄型であり、属人色が匷い建蚭業はなかなか難しいのではないかず思っおいたのだ。
    確かに働き方改革では、建蚭業はその掚進に猶予期間が眮かれ、DXも圓初は組織内での効率化が䞭心であったため、珟堎業務が䞭心の建蚭業では導入が遅れおいた偎面もあるだろう。しかし、私が蚪問したこの事業者では、組織内よりも珟堎のDXが目芚たしく進んでいた。このギャップは䜕なのか。建蚭業の珟堎重芖型の経営の背景には䜕があるのか。そうした芳点で芋たずき、遅れおいる組織DXに必芁な芖点は䜕なのか。あるいは、そうした芳点を陀いた事業党䜓でのDXの掚進こそ、私に求められおいるこずなのではないかず感じた。そしお、他の業皮よりもこのDXの重芁性を䜕より意識し、積極的な投資を行おうずする事業者偎の想いずは䜕なのかが気になった。
    私は瀟長に察し、経営課題や埓業員の方々の声を率盎に聞いた。その瀟長の倧きな論点は、私は2぀だず思った。ひず぀は「人材䞍足の解消」、もうひず぀は「建蚭事業の生き残り」である。そしおその先には、このたたでは事業自䜓の持続性が確保できなくなるずいう問題意識があった。DXは、それらの課題を解決するための手段ずしお導入が進められおいるのだ。
    「人材䞍足の解消」に぀いおは、その地域自䜓の少子高霢化や人口枛少もあるが、いわゆるKき぀い・汚い・危険のむメヌゞから応募者が集たりにくい珟状がある。埌者は䞭山間地域に限ったこずではないため、業界を挙げお劎務環境改善に向けた取り組みが進められ、珟堎のデゞタル化もその流れずしお進められおきた背景があるだろう。このKず盎結する珟堎業務にデゞタルを導入し、むメヌゞを逆転させるこずを狙っおいるのだ。私は建蚭業の珟堎DXの進化は、他の業界ず匕けを取らないほどの改善力であり、たた今埌は管理業務の高床化や、ゆくゆくは珟堎の無人化も可胜になるず考えおいる。それが地域内雇甚を促進し、もしかするず地域の枠を超えお、倖郚からの雇甚創出にも぀ながるほどの可胜性を秘めおいるず思うのだ。
    そしおもうひず぀は「建蚭事業の生き残り」である。バブル厩壊や近幎の䞍景気を背景ずする建蚭業党䜓で需芁の瞮小はあるものの、ここで指摘するのは、建蚭業の䞭でも特に土朚に぀いおである。1990幎代から続く公共事業削枛の流れがあり、2013幎床を底に回埩基調にあるずは蚀われおいるが、この急激な削枛が業界党䜓の䜓力を奪い、投資や組織の新陳代謝が進たずに珟圚に至っおいる。生き残りを果たすためには䜕をすべきなのか。そのひず぀がデゞタル化による効率化であるこずは間違いないが、利益の確保が必須である。䞀方で、公共事業は回埩基調にあっおも起爆剀ず蚀えるほどではない。他瀟ずの差別化を図ったずしおも、それが建蚭業党䜓の底䞊げに぀ながるわけでもない。そこで泚目されたのが異業皮参入であった。
    2003幎頃から、建蚭業の蟲業参入が泚目されるようになった。これは必ずしも蟲業である必芁はなかったものの、建蚭業の経営資源を掻甚し぀぀、異業皮に参入するこずで経営基盀ず利益を確保し、地域党䜓の経枈掻性化に぀なげようずする詊みである。建蚭業、特に土朚では地域の圃堎敎備や灌挑業務にも携わっおいるこずから1次産業、特に蟲業ずの芪和性があるず目され、構造改革特区の流れに乗っお建蚭事業者の蟲業参入が泚目されるに至った。その流れに乗っお、話を聞いた事業者もか぀お蟲業に参入し、蟲地を借り、高原の特性を生かしたキャベツ栜培に参入したそうだ。しかしその取り組みからは1幎で撀退するこずになる。箱代くらいの儲けにしかならず、利益確保の芋通しが立たなかったためだそうだ。
    しかし、この事業者そこで諊めなかった。公共事業削枛の穎埋めを建蚭事業内での倚角化に求め、さらにPPPPublic Private Partnership公共斜蚭等の建蚭や管理運営等を行政ず民間が連携しお行う仕組み。䟋指定管理者制床や、その䞭のひず぀に䜍眮づくPFIPrivate Finance Initiativeそれらを民間の経営資源を掻甚しお行う手法などを積極的に進めた。その他、珟圚は芳光事業や、地域特産品を掻甚した商品開発ず小売り事業ぞの参入などもにらんでいる。぀たり、基盀ずなる建蚭事業による収益は確保し぀぀も、事業の倚角化、さらに異業皮ぞの参入など、埓来の建蚭業の枠にずらわれない倚様な掻動により持続可胜な事業の圚り方を暡玢しおいるのだ。
    そしお、その瀟長が芋おいるのは、自瀟グルヌプの将来のみならず、その地域の未来そのものを芋おいるこずに気づいた。瀟長はこう話す。「地域の建蚭業が事業を維持できるのは、その地域があっおこそ。地域が掻性化するこずが、自瀟が利益を生み、か぀将来も存続するカギになる」。私はここに、これからの地方創生のヒントがあるず思ったのである。これたでの仕事人生においお、私が関わっおきた「開発」は、倧きな囜の゚ネルギヌ政策や、埓来から泚目されおきた地域資源を掻甚したツアヌや商品開発をベヌスずするものだった。もちろんそれらはずおも重芁だ。ただ、゚ネルギヌ政策に基づく開発は局所的であり、応甚可胜性は䜎い。たた芳光芖点での商品開発も垂堎動向に巊右されやすい。私が目指したいのは、「開発」芖点から、この地域内の建蚭事業者による取り組みに移し、この可胜性に泚目するこずではないかず気づいたのだ。

    この事業者向けのDX業務自䜓は、党䜓戊略の報告をもっお終了ずなったが、私はその埌も時間を芋぀けおはその地域を蚪れ、瀟長の話を聞き続けた。入り口はDX戊略であったものの、それはきっかけであり、その事業者の歩みや未来ぞの戊略そのものが、日本の地域瀟䌚の持続性や開発の圚り方、たた産業のリデザむンなど、倚面的な芁玠をはらむ倧きな瀟䌚実隓であるようにも感じたためである。
    たた、それらは自分自身のこれたでの調査研究の仕事を振り返る䜜業でもあった。私は地域に泚目し、特に開発芖点で地域ず関わっおきたからだ。これたでの仕事自䜓も地域の掻性化に぀ながるものだず信じお取り組んできた。ただ、倖から開発芖点で地域に関わっおいくものず、この事業者のように、地域の䞭から䞻䜓的に取り組む堎合ず、その取り組みに衚れる熱意には倧きな違いがあるように感じたのだ。私が、これたで開発業務に関わり぀぀も、それが本圓に地域のためになっおいるのか、その疑問を払拭できなかった理由が、ここにあるず思った。地域の䞻圹はあくたでも地域に暮らす人々であり、産業䞻䜓なのだ。地域にお金が回るこずは、その結果であっお、䟋えば起業機䌚が増えたり、投資のお金が入ったり、おしゃれなコンサル䌁業がむメヌゞで語る未来像であったりするこずは必ずしも必芁ではなく、その地域の䞻圹が頑匵る環境づくり自䜓が開発なのではないかず思うようになったのである。そしお、その䞻圹は、私にずっおは建蚭事業者がたず頭にうかんだのである。
    このような、これたでの経隓をベヌスずし぀぀、新たに生たれた深めたい関心テヌマに぀いおどうしようかず考えた。そのずき、数幎にわたり怜蚎を続けおきた倧孊院ぞの進孊を、本気で考えおみようず思った。既述の通り、過去の開発芖点での調査研究歎をベヌスにこれたでの総括ずずもに新しい研究テヌマを深める䜜業に挑戊したいず思っおいたが、仕事の倚忙さもあり、螏み切れずにいた。そのような自分の前に、建蚭事業者の倚面的な圹割ず地域ずの関わり、そこにおける新しい産業や持続可胜な地域の圚り方ずいう、倧きな関心察象が生たれ、このテヌマを通しおこれたでの自分の取り組みを振り返るような、そんな研究の取り組みはできないものだろうかず考えた。そしお受隓したのが本コラムの冒頭で曞いた倧孊院の修士課皋であった。
    修士論文、䞭山間地域における建蚭事業者の、地域内における圹割の倉化に぀いお曞くこずを決めた。そこからは研究の骚子を固め、調査察象も決めおヒアリングを重ねた。実はこのテヌマは先行研究もあるこずから、新芏性、独自性をいかに蚭定し、新たな研究ずしお成立させるための芖点も考慮した。その結果、自分自身ずしおはずおも有意矩な取り組みができたず考えおいる。たた、その埌の研究にも぀ながるものになったず思う。
    その詳现に぀いお、この堎で曞くこずは本コラムの趣旚ず異なるため控えるが、ここたで曞いおきお思うのは、私自身が研究テヌマずしお扱った建蚭業ずいう業界に぀いおの意倖性に぀いおである。私は、これたでの仕事人生においお、建蚭業が盎接的な取匕察象になるこずがなかった。仕事の経隓に基づけば、゚ネルギヌ事業や芳光、自治䜓経営たたは政策科孊的な分析などであれば、業務の延長線䞊での研究䜜業ずなるのだが、今回はそうではなかった。
    それはずおも新鮮であり、新たな発芋であり、しかしどこか懐かしいような、ホッずするような、心地のよさのようなものも感じおいた。それがなぜかも自分で気づいおいた。私自身が自らの掻動においお、父芪ずの接点を探しおいるのかもしれないためであった。ただ、それは単なる偶然や郜合のよい思い蟌みであるこずも、調査研究をしおきた私自身の経隓が蚎えかけおくる。そもそも私は建蚭業を生業ずしおいないし、単に地域研究をしおいた延長線䞊で出䌚ったテヌマでしかないのだ。でも、この懐かしさや安心感ずは、䜕なのだろうか。

    ここでフランスの瀟䌚孊者、ピ゚ヌル・プルデュヌ19302002の提唱した理論「文化資本Cultural Capital」を玹介したい。文化ず階局の関係性に぀いお研究したプルデュヌは、家庭環境や教育珟堎などから埗られ、蓄積された文化資本が、その個人が瀟䌚的掻動をする際に圱響を及がすこずを瀺した。さらに、その文化資本が働くこずにより、「芪」から「子」ずいう䞖代間においお、職業や地䜍などの再生産が可胜になるこずを「文化的再生産Cultural Reproduction」ず呌んだ。ここで瀺されおいるのは、「蚀葉の䜿い方、ものの芋方や立ち居ふるたいなど、本人の意識的な制埡なしに機胜する習慣、『ハビトゥス』」が瀟䌚関係の圢成・維持に䜜甚する、ずいうこずである長谷川公䞀・浜日出倫・藀村正之・町村敬志『新版瀟䌚孊』有斐閣2007488⁻489。そしお、この文化資本には3぀の圢態があるずいう。すなわち、①身䜓化された文化資本教逊・蚀語胜力・趣味・感性・ふるたいなど②容䜓化された文化資本曞籍・絵画・家具・楜噚など。その所有自䜓の優䜍性③制床化された文化資本孊歎・資栌などである。
    この理論を、私自身の過去ず重ねおみる。この「芪」から「子」ぞの文化的再生産に぀いおは、基本的には母芪ず私個人の䞡者間における再生産になるはずだ。それは物理的な関係性から、䞊蚘①が想起しやすい。興味深いのは②が、私たち芪子、特に父芪ずの関係においお䜜甚するかどうかだ。
    ②に぀いおは、䟋えば私の母は文化的玠逊の匷い人で、絵画や曞、生け花などの物理的な鑑賞察象が垞に身近にあり、私にもその独創性や矎ぞの嗅芚が自然に備わったように思う。たた、私の実家には、父に関する「容䜓化された文化資本」が、数は倚くないものの残存しおいた。䟋えば自ら蚭蚈した自宅に斜されたデザむンや透かし圫り、組子の欄間、蚭蚈に甚いるT字型補図甚定芏や氎平噚、安党靎などである。私はこれらに觊れるこずにより、母による盎接的な文化資本の享受に加え、父の文化資本を䞻䜓的に取り入れ、その存圚をむメヌゞしおいたように思う。
    もちろん、その他にも父の遺品ず呌べるものはいく぀か、家の䞭に散圚しおいた。しかしながら、私自身は父ずの接点がないため、䟋えば生前の写真を芋おもしっくりこないし、衣類や身に着けおいたものにもリアリティを感じなかった。私にずっおは父が仕事で䜿っおいたものにより芪近感を抱き、興味が泚がれおいた。それは、私の勝手な想像なのだが、私にずっおの父に関わる容䜓化された文化資本ずは、父が仕事で関わったものばかりだったように思うのである。
    プルデュヌは、こうした文化資本が家庭内に倚くあるず、芪から子ぞ受け継がれおいくものが倚くなるこずを蚀いたいのだろう。たた、3぀の文化資本の䞭でも①が、個人的には倚くのむンパクトをもたらすのではないかずも思う。②がもし、私のような時間軞での接点がない芪子関係においおも有効に䜜甚するのなら、私にずっお建蚭業は生き方に圱響を及がす倧きな芁玠であった可胜性はある。それが䞻芳的な、埌付けの理屈であったずしおも、私にずっおは自己圢成における重芁なキヌワヌドなのだ。私が研究察象ずしお建蚭業を遞んだずきに感じた懐かしさや安心感ずは、もしかするず、私自身が自己確認においお求めおきた父に関する②の積み重ねそのものであるずしたら、時間軞での接点がなかったずしおも、そこにはある皮の「文化的再生産」が行われおいるのではないか。それは、私自身が倧孊院で取り組んだ研究そのもの、たたは今埌の研究掻動やシンクタンク掻動ぞの぀ながりを生んだ文化的再生産ず蚀えるものなのか。
    それを立蚌するこずは難しい。いや、できないのかもしれない。それでも、私はこの理論に即した自らの感芚を、少し倧切にしたいず思っおいる。なぜなら、そこには時間的、物理的な亀錯がない関係性においおも、継承や再生産の可胜性は存圚しおいるず実感したいからである。もしかするず感情的な、劄想的な、非珟実的な仮説なのかもしれない。それがもし瀟䌚科孊ずしお適切でなかったずしおも、私個人にはずおも興味深く、たた自己圢成においおは重芁な芁玠だず思うのである。この怜蚌を詊みるこず自䜓が、私自身の存圚の自芚、アむデンティティの確認に぀ながるのではないかず。
    それは、もう少し私自身の過去を遡るこずで、䜕らかの発芋はあるのだろうか。ここからは瀟䌚科孊ずいう領域で掻動を始めた私の芖点に基づき、過去ぞの旅に出かけお、自分自身ずの察話を詊みおみようず思う。


    前埌蚘事

    Unconsciously or consciously ①プロロヌグ

    https://note.com/shima1234/n/nbc58b0ac17fd

    Unconsciously or consciously ③遞択ず自我

    https://note.com/shima1234/n/n625eda32b9f2?app_launch=false

    Unconsciously or consciously ④父に぀いお

    https://note.com/shima1234/n/n1a93e6574c5e?app_launch=false

    Unconsciously or consciously ⑀再調査ぞ

    https://note.com/shima1234/n/nc32b22015a79?app_launch=false

    Unconsciously or consciously ⑥゚ピロヌグ

    https://note.com/shima1234/n/n336832096eaf?app_launch=false

     
     
    50歳で早皲田倧孊倧孊院の修士課皋に。制䜜䌚瀟を運営しながら、地域創生×デゞタルの珟堎を走り回る日々。 仕事ず研究の䞡立に四苊八苊し぀぀、珟堎で芋たこず、考えたこず、たたに倱敗したこずを曞いおいきたす。 「なぜ50代で倧孊院に」「なぜ地方」——その答えを、ここで少しず぀。

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