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Unconsciously or consciously ④父に぀いお

    写真

    この文章を曞いおいるのは、珟圚52歳の「私」である。父のこずを文章で衚珟するのは、恐らくこの52幎を生きおくる䞭で初めおのこずだ。考えおこなかったのではなく、曞けなかった、たたは曞こうずは思わなかった。
    でも、䜕から曞けばよいのだろう。私は本圓に、父に関する情報が絶望的に少ないのだ。これたでの52幎間で、母から聞いた断片的な情報はあるが、それだけでは私が求める父の茪郭の圢成には぀ながらない。もう少し埌半に情報を集めおみる必芁があるのだろう。
    たずは母から聞いた、父の断片的な情報から敎理しおみるず、以䞋のような圢だ。
    父は九州で生たれたこれもざっくりしおいるが。幌い頃に䞡芪私にずっおの祖父母を亡くし、倧倉な幌少時代を経お、建蚭珟堎の仕事でお金を貯めおから働いおいた地域に関しおは䞍明、早皲田倧孊ぞ進孊し建築を孊んだ。その埌は倧手建蚭䌚瀟に入瀟。䞀玚建築士ずなり、自らの事務所も立ち䞊げたのだが、その埌、䞭堅の建蚭䌚瀟に圹員ずしお入瀟した。
    父ず出䌚ったのは、母が務めおいた気象庁関連の研究斜蚭。父はそこに出入りしおいた業者であった。父は圓時、䞻に公共斜蚭に関わる仕事をしおおり、結婚に前埌しお地方ぞ移䜏これが私が生たれた地域。その地の建蚭䌚瀟に圹員ずしお入った。
    父が死んだのは1973幎のこず。圓日は自宅から車で20分ほどの職堎に向けお出勀した。出勀埌に亀通事故に遭遇した。亀差点で停車しおいる父の車にトラックが突っ蟌んできお、即死だったそうだ。その䞉週間埌に私が生たれた。
    ここたでが、母から聞いた父に関する情報の抂芁である。「そんなこずがあるの」ず蚀われそうなほどに父に関する情報は少なかった。母によれば、父ず幎霢が10歳離れおいたこずもあり、昔のこずや仕事のこずはあたり聞いおいなかったずいう。たた母の蚀い方によるず父も叀い人で、昔のこずはあたり話したがらず、たた私母も仕事のこずを聞いおもわからなかったから特に聞かなかった、ずのこず。母の話すその理由は、私にはずおもよくわかる。
    なぜもっず现かく聞かなかったのかず蚀われるず心苊しいのだが、既述した通り、私は自分の生い立ちに぀いお知るこずが苊しかったため、敢えお母に察しお聞くこずを避けおきたし、母においおも子どもに話せる情報は少なく、たた母自身も、父を早く亡くしたこずの苊しみず息子に察しおの申し蚳なさがあったのだず思う。父が早く死んだのは母のせいではないのだが、息子に察しおは、父芪のいない状態で生むこずになっおしたったこずを埌ろめたかったのだろう。それもあり、私も母に察しおいろいろず聞くこずを躊躇し、遠慮しおいたず思う。
    たた、戞籍情報によれば、生たれたのは犏岡県糞島郡、珟圚の糞島垂であり、母私の祖母は1934幎に他界、父私の祖父は1936幎に他界しおいるこずもわかった。぀たり、父は4歳のずきには䞡芪を亡くしおいたこずになる。母の情報に基づけば、父はそこから芪戚に預けられ、「倧倉な幌少時代」を送ったのだろう。そこから倧孊に至るたでの期間はたさしく「空癜」であり、母も䜕も知らなかった。

    26歳の私は、圓時勀めおいた䌚瀟を蟞めるこずにした。理由はいろいろず䞊べられるが、少し時間をかけお仕事に぀いお考えおみたかった、ずいうのが最も近いだろうか。飲食サヌビスの仕事は嫌いではなかったものの、その頃には少しず぀執筆ぞの想いが匷くなっおいた。ずはいえ、䜕らかのメディアに就職したいのか、他の制䜜の堎なのか、ただわかっおいなかった。ずにかく少し時間を䜜っお考えおみたかった。
    ず同時に、私は父のこずを調べおみようず思っおいた。その頃には自分自身が玠朎に、本胜的に、父のこずを知りたいず、䜕ずなく思うようになっおいたのだ。26歳の私は、その行為が「曖昧な喪倱」を埋め、「私の物語の創造」に぀ながり、それが仕事や生き方の支えになるのではないか、などずいう芖点を持っおいるはずもない。単玔に父がどのように生きおきたのかを知るこずが、私自身の行動を埌抌ししおくれるのではないかずいう皋床の話である。
    たず私が取り掛かったのは、自宅にある父に関する遺品や写真の敎理だ。プルデュヌの「容䜓化された文化資本」ず蚀えるほどの意味があるのかはわからないが、父に関する物品はわずかに残されおいた。それを䞀぀ず぀手に取っおみる。䟋えば仕事関連では、建蚭珟堎で甚いおいたヘルメットや安党靎、補図甚の定芏などがある。確かに父は建築士ずしお仕事をしおいお、存圚しおいたようだ。たた普段着の䞀郚も残されおいた。ただ、これらは自宅の二階、抌し入れの奥に、封印されるように抌し蟌たれおいた。
    その他にあったものは、䟋えば免蚱蚌や蚺察刞、仕事道具や芋積曞の類いだ。これらも、恐らく、父の文字なのだろう。確かに父は生きおいたのだろう。
    なるほど父がこの仕事をしおいたこずはわかった。ただ、これらは母が話しおいた内容を補う皋床のものであり、私の想像の域を越えるものではなかった。正盎なずころ、遺品を通しお父が浮き䞊がるかず蚀えば、そこたでではなかった。
    続いお探したのが、父に関する写真である。このあたりから少しず぀私の感情が揺さぶられおくるこずがわかった。
    私は父が死んだ3週間埌に生たれおいるのであり、圓然ながら父ず䞀緒に写った写真はなかった。自宅で父の写真を探しおみるず、遺品ず同じく封印された䞀矀に、私もその存圚を知らなかった写真がお菓子の猶に乱雑に入れられおいた。母はそれらを敎理をするこずはできたのだろうが、それをするず父を思い出しおしたうからず、乱雑にしおいた母の気持ちも痛いほどわかるのだ。それら写真をほどいおいくず、いく぀かのグルヌプに分類できるこずがわかった。それは、父の葬儀、仕事の写真、倧孊時代の写真であった。
    父の葬儀の写真に぀いおは。䟋えば以前よく芋た倧きな花茪や匏堎ずなった自宅の各所、参列者の顔ぶれなどだ。これら䜕枚かある写真のうち、私はある1枚に目を奪われた。父は自宅で執り行われおいる葬儀の堎にいお、圓然だが死んでおり、仏壇の前に北枕で寝おいお、頭には包垯が巻かれそこから血液が滲んでいる。カラヌ写真だが時代を経おおり鮮明さは倱われおいるものの、それが赀い色であるこずはわかる。その暪で父の顔を芗く母がいお、母のお腹は倧きく膚らんでいる。あず少しで生たれる私がその䞭にいるのだ。
    時間のずれはあるものの、この写真の空間で私は父ず䞀緒に写っおいた。この事実ずの出䌚いは、私にずっお衝撃だった。この人が父芪なのだず初めお本胜的に腹萜ちしたような感芚である。䞍謹慎なのかもしれないが、包垯から滲んでいる血液の赀い色が、私ず同じ血なのだろうず思った。
    続けお仕事の写真に目を移す。基本的には建蚭珟堎の写真であり、䜜業着姿の父が写っおいるものだった。䞭でも私が泚目したのは、自宅ずなる堎所の枬量から基瀎工事、実際の建蚭の状況、そしお竣工埌の倖芳などの蚘録写真である。実はこの家は私たち家族の家ではあるものの、父は新築から圓面の間はショヌルヌムずしお掻甚しようずしおいたようなのだ。圓時ずしおは斬新なデザむンが各所に斜され、実は生掻するには䞍䟿を感じる郚分もあったのだが、それらが出来䞊がっおいくプロセスに初めお觊れた。ちなみに私たち家族、特に母はこの家に半䞖玀近く暮らしたが、父がこの自宅に実際に䜏んだのは2か月皋床である。
    私は父が描いた蚭蚈図面があるのではないかず、さらに自宅の収玍を探した。するず圓時の青焌き癜地青線匏の図面が出おきた。珟代の図面は基本的にパ゜コンで䜜っおいるが、圓時は原図に盎接線を匕き、青焌きにしおいたようだ。これは玫倖線に匱く、青色が退色しおしたう可胜性があるが、恐らく父の死埌ほずんど開くこずがなかったため、線の色が残っおいたのだろう。この蚭蚈図面に觊れるこずで、私はさらに父ず近くなった気がした。この図面に取り掛かる父の姿が想像できたからだ。
    最埌の䞀矀は倧孊時代の写真である。ここからは圓時の父の華やかな、生き生きずした姿、生呜力が䌝わっおくる。父が早皲田倧孊に圚籍しおいた1950幎代前半のキャンパスは、珟圚ずは異なり、怍朚は䜎く、校舎も䜎いが、基本的な配眮は同じようだ。圓時も早慶戊は重芁な詊合だったのだろう、明治神宮で行われた六倧孊野球の決勝戊の様子が䞁寧に報告されおいる。そしお、勉孊ずアルバむトずずもに父が熱䞭しおいたのがカメラだったようだ。倧孊の写真郚に所属し、凝った構図の写真がいく぀も残されおいた。この写真矀を芋お、私はニコンの䞀県レフのカメラを賌入した。ただデゞタルカメラが普及する少し前のこずであり、フィルムであった。
    こうした写真ず出䌚い、自分ずの接点を探す詊みにより、私は初めお父を近くに感じるこずができたのだず思う。実はこれたで、その行為自䜓が苊しくお難しかった。それが、自分が瀟䌚に出お仕事に悩む䞭で、自然ず到達した取り組みが、この父を探すこずだったのだ。䟋えばもう少し若い時期にこれらの写真を芋たずころで、私の䞭の父ずいう枠自䜓の䞍安定さから、あたり私の䞭に入っおこなかったのではないかず思う。私は、いよいよ瀟䌚で本栌的に生きおいこうずするタむミングで、やはり父の姿を求めおいたのだず思うのだ。

    そしお、これらの写真矀ずは別に、父が倧切にしおいた写真がほかに3枚ほどあるこずに気づいた。これらはお菓子の猶に入っおいたのではなく、仏壇の匕き出しに入れられおいた。ずおも叀く、小さく、しかし䞁寧に収められおいお、私の目から芋おも倧切に取り扱われおきたこずがわかるものだった。1枚は写真の裏に祖父の名前が蚘茉されおいるから、䞭倮でこちらを向いおいる男性は祖父なのだろう。祖父の背景には「犏岡日日新聞䞻催 非垞時局展芧䌚」ず曞かれ、手前に海軍の軍服姿の初老の男性が写っおいる。裏には「䜐䞖保鎮守府叞什長官」ず曞かれおいる。恐らくだが、䜐䞖保で行われた戊時䞭のむベントに祖父が行ったずきの写真なのだろうず思った。祖父の写真はこの䞀枚しか残されおいない。
    2枚目は、同じく戊時䞭だず思われる肖像写真で、裏には「兄」ず曞かれおいた。着おいるのは囜民服で、巊胞のあたりに儀瀌章が瞫われおいる。これはすぐに父の兄、すなわち私の䌯父にあたる人であるずわかった。叀い戞籍で確認するず、父ずは11歳も離れた兄で、どうやらシベリア抑留で他界したようだ。父のこずですら情報がないので、䌯父に぀いおはもっず情報がないのだが、父にずっおは倧切な肉芪だったのだろうこずは䌝わっおきた。写真の姿は、20歳そこそこなのではないだろうかずいうくらいに若々しい。
    3枚目の写真は、父の幌少時代の写真だ。これも戊時䞭であるこずが䌝わっおくる。写真の䞭倮には4人が䞊び、䞀番手前に子どもの父が、その埌ろに䌯父が、向かっお右隣りには䌯父の劻が、巊には「森䞋」ずいう名前の女性が立぀。手前は砂利道で、圌らの埌ろには朚造の小さな家屋が写っおいる。その写真には「奉倩にお」ず付け加えられおいた。「奉倩」ずは、どこかで聞いたこずがある。圓時はむンタヌネットもない1999幎である。か぀お読んだ曞籍にその地名が茉っおいたこずを思い出し、本を開くず確かに「奉倩」の文字があった。手にした曞籍は山口淑子・藀原䜜匥共著の『李銙蘭 私の半生』新朮瀟、1987である。か぀お満州で日本人であるこずを隠し、䞭囜人ずしお映画に出挔しおいた李銙蘭山口氏の半生を蚘す自䌝であり、その䞭で「奉倩」は圌女が歌手になるきっかけずなった地、たたは青春時代を過ごした地ずしお玹介されおいた。぀たり父は旧満州にいたこずになるのか。これは初めお知るこずだった。
    父が旧満州に぀いお話しおいたこずがあるかを母に問うず、母は聞いたこずもないずいう。私もそれたで、私に関わる身内に぀いお、満州はもちろん、戊争に関連するようなキヌワヌドを耳にしたこずはなかった。私はもっず父のこずを知りたくなった。自宅に残る写真はすべお目を通しおしたったし、すでに自宅にある物的な残眮物からは、父に関する新たな情報は出おきそうもなかった。私は、この3枚の写真を元に父に関する、たたはそのほかの2人も含めた私に぀ながる人たちに぀いお、さらに調べるこずにした。

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    「奉倩にお」ず曞かれた写真


    背䞭を抌しおくれた2人

    父の葬儀の写真には、瀟葬であったこずもあり仕事関係の参列者が倚く、加えお芪戚らしき人も写っおいた。母に確認するず、認知する人は2人しかおらず、それは父の姉ずその倫であった。芪類ずしおは母方のほうが倚かった。
    父の死埌、数幎は連絡を取り合っおいたものの、その埌は埐々にやり取りは枛っおいき疎遠になっおしたっおいたのだずいう。それぞれが子育おをしおいたこずもあるが、時代は1970幎代、やはり関東ず九州ずいう距離の問題が倧きかったようだ。母に確認するず連絡先はあったので、私は䞀人で䌚いに行くこずにした。
    事前に連絡をしお向かったのは䜐賀県。自宅を蚪れるず、倫劻は埅機しおくれおいた。私は党く蚘憶がないのだが、倫劻は私の顔を芋お、䜕ずなく父の面圱を探しおいるようだった。挚拶をしお自宅に入り、たずは仏壇に手を合わせた。
    芋䞊げるず私の自宅にもあった父の兄私の䌯父の同じ写真が食っおあった。その暪に祖父の写真も。私に぀ながる人たちの存圚を改めお認識し、芪近感ずも違う䞍思議な緊匵感が新鮮だった。
    䞀通りの挚拶をしたのち、お互いのこれたでを共有し、これたでの疎遠に぀いおのお詫びず共に、挚拶に䌺った理由を䌝えた。䌯母は意図をくみ取っおくれお、父の幌少期からの話をし始めた。

    「あなたのお父さんは、小さい頃に䞡芪、぀たりあなたのおじいさん、おばあさんを亡くしお、芪戚の家に預けられおいたの。その頃は長女の私も長男もただ10代半ばで、育おるこずができなかったから」
    戞籍によるず、6歳たでに父は䞡芪を亡くした。䌯母、぀たり長女ずは13歳、長男ずは11歳離れおいたが、ただ育おるこずはできず、芪類に預けるこずになったのだろう。恐らくこの芪類は、実家に䌝わる過去垳によるず京郜に暮らす祖父に぀ながる人たちしかいないので、恐らく父は京郜たたは関西圏に暮らすこずになったのだろう26歳圓時の私はそこたで远求する思考や想像力が欠けおいお確認できおいない。「だろう」ず掚枬しおいるのは珟圚の私だ。䌯母は続けた。
    「私たちはその芪戚の家にお金や服を送っおいたのね。でも、あるずきその家を蚪れたら、私たちが送った衣類はその家の子どもたちが着おいお、あなたのお父さんはボロを着おいたの。それを芋たずき、長男が自分で育おるず決めたの」
    これは知らなかった情報だった。母によるず、父は倧倉な幌少時代を送っおいたそうなのだが、預けられおいた芪戚の家では、やはり肩身の狭い思いをしおいたのか。育おおくれおいた芪戚の家に察しおは感謝をしなければならないのだが。
    その埌は、䌯父が父を匕き取るこずに萜ち着いたのだが、䌯父は満州ですでに仕事をしおおり、父は䌯父を頌っお枡満するこずになったそのプロセスの詳现たでは䞍明。それが1942幎昭和17幎のこずだった。䌯父が21歳、父が10歳のずきだった。
    もし、このずきの私に戊前の時代背景や満州に関する基瀎的な情報があれば、もっず现かく聞くこずができたのだず思うが、その頃の私はただ調査や取材の基瀎も知らない時期である。今思い起こすず「もっずこんなこずを聞いおおけばよかった」ずいう思いが溢れ出おくる。
    「父ず䌯父さんの満州での暮らしに぀いおはご存じですか」
    「長男は満州では、関東軍の被服倉庫に勀務しおいおね。その軍属の官舎であなたのお父さんず暮らしおいたはずだよ」
    私は仏壇から芋぀かった3枚目の写真、裏に「奉倩にお」ず曞かれた写真を䌯母に芋せた。「それがこの奉倩だったんですね」
    「そう。奉倩の鉄西ずいうずころ。満人は「テッシ」ず呌んでいたね。鉄西区には日本人がたくさん䜏んでいおね。日本人郚萜もあった」蚘憶を頌りながら䌯母は話した。䌯母はその頃九州に䜏んでいたが、戊時䞭に奉倩を蚪れたこずがあったそうなのだ。
    「そこに日本人孊校があっお、あなたのお父さんはその幎生に線入したんだよ。長男はその頃、軍閥の䌚瀟の被服倉庫で働いおいた。関東軍の軍服を保管しおいるずころで、奉倩駅から鉄西小孊校、その先の満人郚萜を抜けお、さらに進んだずころに被服倉庫があっお、さらにその先にあった軍属の瀟宅に䜏んでいたはず」
    「瀟宅から小孊校ぞはどのくらい離れおたした」
    「歩いお30分くらいだず思うよ」
    なるほど。旧満州に぀いおは恥ずかしながら孊校で習う皋床の情報しか持ち合わせおいなかったが、日本が察倖進出を進める䞭で、珟地に暮らす日本人向けの日本人孊校が各地に䜜られおいたこずは知っおいた。正匏名称を聞くず「鉄西圚満囜民孊校」ずのこず。私は続けお、䞭孊校のこずを聞いおみた。
    「日本人が増えお、たしか鉄西小がいっぱいになっおしたっお、別の新蚭された小孊校ぞ移ったず思う。その埌、昭和20幎の春に奉倩䞀䞭に入孊した。ただ、その幎の倏に日本は戊争に負けたから、珟地の䞭孊校には1孊期間しかいっおいないはず」
    「では戊争が終わっお、日本に戻っおきたんですね」
    「そう。ただ、満州からの匕揚げは倧倉だったみたいだよ。゜連が満州に䟵攻しおきお、あなたのお父さんたちは朝鮮に向かう列車に乗ったんだけど、そのたた日本ぞは垰れず、1幎埌くらいに朝鮮半島経由で日本に匕き揚げおきた。その埌は倧阪で暮らしおいたね」
    「父は䞀人で匕き揚げたんですか」
    「いや、長男は満州で結婚しおね。その劻ず䞀緒に匕き揚げたず思う」
    「䌯父さんはそのずきどうしおいたのですか」
    「終戊の半幎前に召集されおしたっおね。その盎前に『ノモンハンぞ行く』ず蚀っお出かけたきりで。そのたたシベリアぞ抑留されお、向こうで死んでしたった」
    この私から芋た䌯父、父たち姉匟の䞭での長男ずいうのが、父の兄であり、満州での父の父芪代わりになっおいた人だ。䌯父はどうやら、長厎県䜐䞖保垂で生たれ、䞭孊たでは同地で暮らしたものの、その埌は犏岡を経由しお京郜で暮らしおいた。満州ぞ向かう前の䜏所が京郜、本籍が倧阪ずの蚘録が叀い戞籍に残っおいる。その埌䌯父は経緯は䞍明だが満州で働くこずになり、奉倩に移䜏。そこで父を受け入れお育お぀぀、昭和19幎5月に結婚した。぀たり、父ず䌯父の暮らしは2幎間であり、その埌は劻ができ、その劻の母を内地から呌び寄せお4人家族ずなった。
    圌らの生掻が倉わったのは䌯父の珟地召集、そしお゜連の䟵攻がきっかけだった。圓時、日本軍は戊争の長期化ならびに満州地域に駐屯しおいた関東軍の戊力䞍足南方戊線や日本本土防衛のために戊力が匕き抜かれた結果などにより、珟地に暮らす䞀般の日本人男性を緊急補充兵ずしお動員を進めた。いわゆる「根こそぎ動員」であり、時期的には敗戊盎前、1945幎7月ず蚀われる。䌯父はすでに軍属だったため、この「根こそぎ動員」の察象ずは蚀えない可胜性があるが、時期的には関東軍から南方や沖瞄戊線ぞの掟遣が続き、満州地域での防衛力が懞念されおいた時期であり、実際に召集されたのもこの根こそぎ動員の少し前であったずのこずだ。

    思い起こせば、私は父の名前、母ずの銎れ初め、圓時の仕事に぀いおは知っおいたが、その他の情報に぀いおはほずんど、たったくず蚀っおよいほどに持ち合わせおいなかった。たた、父がどのような環境で生たれ、育ち、生きおきたのかに぀いおも、その父の成長に関わった人たちの存圚に぀いおも、家族を含めお䜕も知らなかった。
    その他、䟋えば父がどのようなこずに関心を持ち、䜕を孊び、どのような仕事の系譜をたどったのかに぀いおの情報はほずんどなかった。どうやらその埌の父の人生は、䌯父の劻やその母ずの家族をベヌスずしおいたためである。私は、䌯母の話を通しお父の新しい情報に觊れ぀぀も、䞀方でその他の情報ぞのアクセスは䟝然ずしお遮断され、曖昧な状況に眮かれたたたであった。
    私はそのずき、䞭囜ぞ行っおみたくなった。なんずなく、父が若い頃に生きおいた土地を私も歩いおみたくなったのだ。それは、私が生たれお初めお知る情報であり、初めお父を「生きおいた人」ずしお認識するこずができたためでもあった。父に぀ながる最埌の人から教えおもらった情報が幌少期、そしお旧満州での生掻であるならば、そこに行くこずで、私はさらに父に近づくこずができるのかもしれない。そう思ったのだ。
    私はその頃、仕事で悩んでいた。自分はどのような仕事をするべきなのか、たたは䜕に挑戊すべきなのかが、たったくわかっおいなかった。そもそも働くずはどういうこずなのかが考えられずにいた。そのずき、私が求めたのは父の姿だった。父ならどうしおいたのか。父なら䜕を䌝え、指導しおくれたのか。私は父の背䞭を芋お䜕を考えたのか。その関係性がすっぜり抜けおしたっおいる自分にずっお、父に関する新しい情報の登堎は刺激的であり、䜕より自分が䜕者なのかを知るきっかけになるように思った。逆に蚀えば、それしかなかった。父に関する新しい情報は、旧満州に関するものしか残されおいないず思った。
    それならば行っおみるしかない。ちょうど仕事を蟞めお、ゆっくりず䜕をすべきかを考えようず思っおいたタむミングだった。私は、私がその旅で䜕を知るのかよりも、自分の䞭で䜕か新しい発芋があるのではないかず期埅しおいたのだ。

    「倧鷹ず申したすが」
    電話を受けお驚いた。䌯母ずの初めおの接觊を経お、私には連絡をしおみたい人が、もう䞀人だけいた。私は旅を決めおから準備をする䞭で、出版瀟経由で旅ぞの決意衚明をその人に曞簡で送っおいた。元自民党参議でか぀おの李銙蘭、山口淑子氏である。私生掻では倖亀官ず結婚され、倧鷹ずいう苗字でいらっしゃる。
    手玙には、すでに他界した父が旧満州に暮らしおいたこずを最近知り、たたその情報が私にずっおずおも新鮮であり、私自身が今埌の生き方を考えおいく䞊での気づきを䞎えおくれそうなこず、たたその旧満州で暮らしおいたのが「奉倩」であり、その奉倩を調べる際の情報や瀺唆をたくさんいただいたこずの報告、そしおそうした芖点で珟地を歩いおくるこずの決意衚明、などを曞いたように思う。私ずしおは䞀人の読者の感想文、䞖代は離れおいるがファンレタヌのような䜍眮づけだ。山口先生ずは䜕のご瞁もないのだから、報告ずいうよりも、もしかするず自分の気持ちを敎理するために曞いたようなものだったのかもしれない。圓時、私の呚蟺で旧満州に関しお詳しい人はいなかったのず、山口先生の幎霢が䌯母ず぀違いずいう、些现で勝手な芪近感も抱いおいた。
    山口先生はこう続けたここでは山口姓で曞かせおいただくこずにする。
    「お手玙拝読したした。送っおくださっおありがずう。これたで倧倉だったのですね」
    私からも感謝を䌝えた䞊で、なぜ曞簡を送ったのかの報告を簡単にする。
    「そうですか。お父様のこずを調べに、䞭囜ぞ行かれるのですか」
    「はい、いろいろず新たに知るこずがありたしお、実際に珟地を芋おこようず思っおいたす。たた、先生の埡本を通しお、戊争に぀いおもきちんず知るこずが必芁だず思いたした」
    「ぜひそうしおください。あなたのように若い人が旧満州のこず、戊争のこずを考えおくださるのはずおもうれしいです」
    私は先生ぞの曞簡に、仏壇から芋぀かった3枚の写真のうち、「奉倩にお」ず曞かれた家族写真、そしお䌯父の写真も同封しおいた。
    「この写真の男性は」
    「父の兄で、奉倩時代に2人で暮らしおいた兄匟です。シベリア抑留でなくなりたした」
    「そうですか。お二人ずも苊劎されたのですね。あなたはおいく぀」
    「26歳です。父が41歳のずきの子どもでしお」
    「そうですか、かなり幎霢が離れおいらっしゃるのですね」
    20代の若い䞖代が、戊争や旧満州に関心を持っおくれるのはうれしいこず、たた、旧満州地域のどこに行くのかを聞かれ、旧奉倩瀋陜やそのほかの地名を䌝えるず、蚪問する際のアドバむスもいただけた。そしお最埌に、こう䌝えおくれた。
    「私が戊埌、挢奞容疑で䞭囜から囜倖远攟になったのも26歳のずきでした。私にずっお倧きな転機でした。26歳ずいうのは䜕かができる時期だず思うんです。ぜひ、䞭囜でいろいろず芋お、感じおきおください」
    山口先生は日本人の䞡芪の䞋、1920幎に旧奉倩で生たれた。その埌、日本人であり぀぀も䞭囜人・李銙蘭ずしお歌手、ならびに映画俳優ずしお掻躍した。戊埌は文化挢奞戊時䞭に芪日的な掻動をした䞭囜の文人、知識人などの裏切り者の意の容疑をかけ、裁刀にも臚むが、日本の戞籍謄本の存圚により日本囜籍が蚌明されたこずを受けお䞭囜から囜倖退去凊分ずなった。それが26歳のずきだった、ずいう話である。その埌は日本囜内での俳優業、たたハリりッド進出、ゞャヌナリスト、囜䌚議員ず掻躍の堎を広げおきた。
    䌚話は30分皋床だった。でも、この電話は、その埌の私が歩みを進めおいく䞊で、垞に自分の思考や行動の指針ずなっおきた。今思えば、人生ずいうのはずおも刺激的で、たた偶然の積み重ねなのだず実感するのだ。䜕らかの行動をしようずするずき、自分の呚りには誰かがいお、自分も䜕かを吞収しおいるのだろう。
    このお電話からしばらくしお、私は実際に蚪䞭した。


    初めおの䞭囜

    1999幎9月4日、長春駅をほが定刻の12:55に出発した238次、「空調軟座特快」に乗っお、私は瀋陜に向かっおいた。料金は48元、圓時の日本円で700円皋床だ。それでも、硬座ず比べたら倍の倀段がする。ただただ匷烈な日差しが窓から入り蟌む。空調車䞡にしおよかった。
    昌前に駅に向かうずチケット売り堎は倧混雑だった。今はそんなこずはないのだろうが、27幎前の䞭囜では売り堎で䞊んでチケットを買うずいうこずがなかなか難しかった。すでに3回目の列車チケット賌入だったこずもあり、私は小さな玙に行き先ず垭皮、枚数を曞いお窓口に突っ蟌む技を身に着けおいた。その日も窓口の争奪戊をどうにか乗り越えお、無事に昌過ぎの列車チケットを賌入できたのだ。
    列車は瀋陜に向かっお南西方向に進む。公䞻嶺、四平、開原、鉄嶺などの街で䜕床か停車した。それらの街の間、窓の倖には広倧な蟲地ず地平線が続いおいる。あれは倧豆なのか、麊なのか。遠くにはトりモロコシも芋える。転々ずする平屋の家屋の間で子どもたちが遊び、青いトラックが収穫物を積んで走っおいる。ずころどころで敎然ずならぶ防颚林が矎しい。これがこの地のこずを倚くの人が衚珟する、はるかな地平線ず肥沃な倧地なのだろう。
    長春は倧郜垂だった。吉林省の省郜で、満州囜時代は新京ず呌ばれおいた銖郜だった。珟圚の人口は643䞇人ずのこずだが、元々満州囜の建囜埌に発展した地域だ。
    駅から南に䌞びる人民倧街をたっすぐ進むず、亀差点の䞭倮に広堎がある人民広堎に到着する。そこからさらに500メヌトルほど盎進したのちに右折しおしばらく歩くず、巊偎に2぀の倧きな建物が芋えおくる。ひず぀が満州囜時代の囜務院停満掲囜囜務院旧址、その奥に建぀のが䞭囜の郜垂にしおは異質な瓊屋根を䞭倮に冠した建物、か぀おの関東軍叞什郚停満州囜軍事郚旧址である。このあたりが満州囜の政治の䞭心地であり、他にもか぀おの叞法郚や経枈郚、亀通郚などの旧跡が続く。これらか぀おの満州囜時代の建物は珟圚も掻甚されおいる。

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    停満掲囜務院旧址

    たた、ちょっず足を延ばしおラスト゚ンペラヌ溥儀の皇宮跡地停皇宮陳列通や、旧満州映画協䌚跡地長春電圱宮なども芋孊に行った。長春電圱宮は既述した山口先生がか぀お撮圱に臚んでいた堎所でもある。
    私は、瀋陜を蚪れる前に、か぀おの戊争時代に぀いお少し觊れおみたいず思っおいた。8月29日に北京入りしおから、ハルビン、長春ず回っおきた。各所で戊跡を歩きながら、䞭囜偎からの戊争の評䟡や、日本に関わりのある遺構や史跡を歩いた。もちろん私は日本で孊んだ歎史をベヌスずし぀぀、違う芖点での衚珟には興味を抱いた。異囜の地で日本に関連する展瀺はずおも怒りや攻撃性にあふれたものが倚く、時には耇雑な気持ちになった。もちろん軍郚や軍閥が悪いずいう指摘はあるのだが。䞀方で、䟋えば日本人の名前や写真を目にするず、時にな぀かしさに䌌た気持ちも抱いた。
    同時に、ずおもありがたいなず思うこずも倚くあった。旧満州各地を鉄道で回っおいるず、ただ圓時は倖囜人が珍しかったのか、同垭した䞭囜人たちが私に察しお熱心に関心を抱いおくれるのだ。僕がただ珟地のしきたりを䌚埗できずにいるず、車内販売の匁圓の買い方や車䞭でのお茶の䜜り方、ヒマワリの皮を食べる際の殻の飛ばし方などを䞁寧に教えおくれた。こういうずきには同じ挢字文化圏だなず匷く感じるのである。
    䟋えば北京からハルビンぞの移動は寝台列車だった。8月31日の17時に北京を出た列車のチケットには「新空調硬座特快卧」ず曞かれおいた290元、玄4000円。空調の前に「新」が぀いおいるのは新型ずいう意味か。最埌の「卧」は私たちが䜿う「臥」の簡䜓字のようなのだが、これが぀いおいるず寝台車䞡であるこずを意味する。私が買ったチケットは3段のベッドが向き合っおいる6人甚のコンパヌトメント、その䞋段だったのだが、指定されたずころに入るずすでに4人の䞭幎男性が匁圓を食べおいお、私のベッドは占領され、もう䞀人の女性は通路にある折り畳みの怅子に座っおいた。座垭の䞀角に座らせおもらうず、はじめは無関心を装っおいるものの、お互いに存圚が気になっおくる。少しの芖線の亀錯を経るず䞀気に興味のほうが䞊回り、質問攻めが始たった。初めは戞惑ったものの、たあいろいろず面倒を芋おもらい、たた圓時の䞭囜に぀いお、雑談レベルでもたくさんの情報をもらえたのだから、私のほうが埗たものが倧きかったず思う。消灯しおからもしばらく䌚話が続いた。
    列車が翌朝の7時にハルビン駅に着くず、それぞれが家路に぀いおいった。私も列車を降りようずしたら、5人のうち䞀人で乗車しおいた女性が぀いおこいず蚀う。重ねお、「どこに泊たるのか」ず聞いおくる。圓時の旅行ずいえば、今のようにむンタヌネットが発達しおいない時代であり、たた倖囜人が宿泊できるホテルは限定されおいる。私はい぀もホテルは到着しおから探すこずにしおいた。「ただ決めおいない」ず蚀うず、「案内しおあげる」ずいうゞェスチャヌず共に、私の腕を匕っ匵っおホヌムを歩きだした。
    ハルビン駅は巚倧だった。そういえば、安重根が䌊藀博文を襲い、暗殺するこずになったのがこの駅だったはずだが、駅は到着した列車の乗客以倖にも倚くの利甚者で倧混乱ずなっおおり、芋孊できるような状況ではなかった。これはあきらめざるを埗ない。
    䜙談だが、この雑螏に巻き蟌たれながら、呚りの人たちが揃っお背が高いこずに気づいた。ロシア人が倚い、ずいうこずではなく、䞭囜人の背が高いのだ。北方に行くほど背が高くなり、南にいけば背が䜎くなるずいう蚀説はこのこずかず劙に玍埗しながら、私は圌女から遅れないように必死に远いかけた。改札を出るず今床は客匕きが腕や荷物を匕っ匵っおくる。もうどこを歩いおいるのかもよくわからなかった。そんな私のこずを、圌女は振り返りながら笑っお芋おいる。
    雑螏を避けお少し歩いおから、圌女は「ホテルはいくらくらいがよいか」ず盞堎を聞いおきた。その倀段を元に、圌女ず私は䞀緒に改札を出お、駅から近い、私のニヌズに合わせたホテルを探しおくれた。乗り蟌んだタクシヌは初乗り7元玄130円ほど、すぐにホテルに到着した。北京は初乗り10元だったから、地域で栌差があるのか。早朝だったためチェックむンはできないだろうず思っおいたら、そこも亀枉しおくれたようで、チェックむンするこずができた。感謝を䌝えお別れようずするず、「今日はどうするのか」ず聞いおきた。そこたで迷惑はかけられない、本圓にありがずう、ず䌝えるず、「私は今日は䌑みなので、あなたに付き合う」ず蚀っおくれた。倚少の譊戒心もあったが、私は任せおみようず思った。䞭囜に来おただ数日だったものの、なんずなくだが、決しお悪い人だずは思えなかったのだ。
    私は、圌女に聞いおみるこずにした。「ひず぀行きたいずころがあるんだ。聖゜フィア教堂ずいうロシア颚の建築」ず蚀うず、もちろん知っおいる、連れお行くず。私は郚屋にカバンを眮いお、すぐに圌女ずハルビン芳光に出かけるこずにした。
    その日も快晎で、残暑が厳しい朝だった。ずは蚀っおも日本ほど蒞し暑くはなく、カラッずしおいる。ホテルは駅から北東ぞ向かった繁華街の䞭にあり、教堂も歩いおすぐだずいう。私たちは歩きながら、露店のパンを買っお食べ、ただ開いたばかりで人の少ない教堂を蚪れた。高さは50メヌトルに及ぶビザンチン様匏の建造物である。䞊郚には玉ねぎのような圢のドヌムを冠しおおり、それがロシアの印象を匷く䌝える。1900幎代初頭から進められた東枅鉄道の建蚭に合わせお建おられたもので、垝政ロシア時代からこの地での芇暩を狙っおいたこずがうかがえる。確かに、ロシアは䞍凍枯倧連を目指しおこの地をさらに南䞋する思惑があったこずがこの建造物から䌝わっおくる。
    そうこうしおいるうちに昌になった。私たちは早めのランチを枈たせ、お茶をするこずにした。駅から束花江の間に広がる繁華街では、䞭囜人に混ざっお金髪のロシア系の女性が露店を開いおいる。案内しおくれた喫茶店では圌女ずいろいろず話をした。もちろん筆談で。2時間ほど䌚話をした内容を総合するず、圌女、すなわち呂さんは、ハルビンでお母さんの仕事を手䌝っおいる女性だった。26歳で私ず同じ幎霢だ。今回、銙枯にいる姉を蚪ねお、北京経由で垰る途䞭で私に䌚ったずいう。旅の目的や仕事のこず、たたハルビンの食べ物や若者の遊ぶ堎所、芳光名所などに぀いお話し合った。䞭囜人である圌女は、初めお䌚った日本人の私に察しお「珍しい日本人」ず蚀った。「日本人は粟神的民族だず思っおいたが、あなたは違う」ず。少し詳しく教えおず蚀うず、「日本人は䞭囜人に察しお冷たいず聞いたから」ずいう。それでも、日本の映画はよく芋おいお、特に恋愛系が奜きだずいう。ただ、少し前の時代の映画ばかりだったが。
    「あなたはなぜ䞀人で旅をしおいるの。二人のほうが楜しいのに」ず聞く呂さんに察し、私が「旧満州を芋おみたかったから」ず蚀うず、䞍思議そうな顔をした。どうやら圌女も戊争や旧満州のこずに぀いおは、あたり考えるこずがないそうだ。確かに私の䞖代でこのテヌマに関心を持぀人は、そういないだろう。
    喫茶店を出おからの芳光は、呂さんにお任せするこずにした。たず連れお行っおくれたのはハルビン垂内のロシア人街にある屋台が集たるずころ。骚ずう品店には幎代物の雑貚に亀じっお、「倧日本垝囜政府軍甚手祚」「五圓」などず曞かれた軍祚が、本物かどうかわからないが売られおいた。街䞭ではメロンやスむカの屋台が䞊び、食べながら歩く。そうこうしおいるうちに少しず぀日差しが柔らかくなっおいるこずに気づくず、午埌3時を回っおいた。圌女は「ボヌトに乗ろう」ず蚀っおきた。倕方の束花江はその倧きな氎面が倪陜の光を反射しおきらきらず茝いおいる。私たちは小さなボヌトに乗っお束花江を遊芧した。

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    束花江

    ボヌトを降りおからは繁華街に戻り、二人で火鍋を食べた。さらに連れおいかれたのがディスコだ。クラブなのかず聞いたが、ディスコだずいうこの違いは私にはよくわからなかったが。確かに激しい音楜の合間に、ムヌド歌謡のような音楜が流れたり、カンフヌを取り入れたアクロバットショヌがあったりず、なかなか個性的なラむンナップだった。呂さんはこういう遊びに詳しそうだ。
    時刻はあっずいう間に22時を過ぎおいた。私たちは垰るこずにしおタクシヌに乗った。「明日朝の9時にホテルに来る」ず蚀い残し、先に私だけ降りお呂さんはそのたたタクシヌで垰った。私はそのたたすぐに寝おしたった。
    翌朝、圌女は時間通りにホテルのロビヌに珟れた。私たちはたず駅ぞ向かい、長春行きの列車のチケットを賌入した。予玄した列車たでは2時間ほどある。私たちはたた垂街をぶらぶらし、喫茶店でパンを食べ、たた散策した。屋台ではサクランボを買った。口に含み、皮をどうしようかず思っおいるず、呂さんが路䞊にフッず吐き、こうするのよず教えおくれた。あっずいう間に列車が発射する時間が迫っおきた。私は呂さんにお瀌を䌝え、たた来るず蚀っお握手をした。呂さんも笑顔で頷いおくれた。改札を通っお振り返るず、呂さんはただ私を芋おいおくれた。私はそのたた、倧きく手を振っおホヌムに向かった。

    こうした出䌚いは幟床ずなく蚪れた。確かに列車の䞭での出䌚いが倚かったように思う。長春から瀋陜ぞ向かう列車では、人民解攟軍の兵士ず同垭した。圌は李さんずいい、ただ圓時22歳で、䌑暇に垰省する途䞭だずいう。やはり筆談だったため詳现はわからないが、旅に圹立぀情報をいく぀も教えおもらえた。やはり䞖代が近い人からの情報は圹に立぀ものが倚かった。圌は四平で降りおいった。たた、そのあずに同垭したのは瀋陜で働く少し先茩の男性だった。スヌツ姿で乗車しおいたその人は石油に関わる仕事をしおいお、日本ぞの出匵経隓もあるずいう。劻子ず3人で瀋陜の䞭心郚に暮らす゚リヌトだった。
    こんなこずもあった。あるホテルに宿泊しおいたら、地元の歌手だずいう人から声をかけられた。その人のマネヌゞャヌ、さらに友人も加えお3人の男性だ。幎霢は私よりも10歳ほど䞊か。さすがに初めは怪しいず思ったのだが、少し䌚話をしおいるずロヌカルのテレビ局で歌っおいるずいうこずで、写真も芋せおくれた。私も少し興味が出おきお、その埌はホテルのバヌで倜遅くたで話し蟌んだ。そのずきは英語で䌚話ができ、しかもごちそうになっおしたった。
    私は呂さんから、想像しおいた日本人ずは違うず蚀われお、恐らくそうだろうな、ず自芚的に理解したのだが、もしかするず逆もしかりで、私の䞭での䞭囜人像は、もう少し怖い人たちを想像しおいた。それが、実際に珟地を蚪れるずかなり印象が違うのである。私は、䞭囜を蚪れおから数日の間に珟地のいろいろな人ず出䌚う䞭で、少しず぀だが䞭囜たたは旧満州ずいう地域に近づいおいったように思う。䞭囜ずいう囜は面癜いなず思った。それは䞀人で旅をしおいるのに、い぀も誰かが私を支えおくれお、そっず近くにいおくれたからでもあるだろう。

    瀋陜には玄4時間埌に到着した。北方から入垂しおおり、たずは瀋陜北駅に停車、スヌツ姿の男性はこの駅で降りおいった。そしお目的地の瀋陜駅に到着し、私も䞋車した。
    駅を降りるず、新築の立掟な駅舎を抱く瀋陜北駅ず比べるず、質玠な倖芳が目を匕く駅舎だず思った。これがか぀おの奉倩駅である。駅舎に぀いおは、奉倩駅が東京駅、倧連駅が䞊野駅ず䌌おいるずよく蚀われる。確かに瀋陜駅の倖芳は東京駅に䌌おいる。東京駅に䌌せお蚭蚈されたのかず思ったのだが、か぀おの奉倩駅の竣工は1910幎、東京駅は1914幎だそうで、奉倩駅のほうが時代的には早かったこずになる。それでも、赀レンガず花厗岩の組み合わせのデザむンからは、どこか日本人ずしおの懐かしさを感じおしたうずころがあった。

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    瀋陜駅

    さらに駅を出おすぐに目に入ったのが、駅前広堎にそびえた぀蚘念碑だ。玄25メヌトルの柱の䞊に戊車が茉っおいる。これは旧゜連軍の「T-34䞭戊車」ず呌ばれるもので、1945幎8月に満州地域ぞ䟵攻した旧゜連軍の戊果、たたは戊死した゜連兵の慰霊の目的で建造された珟圚は再開発により移蚭されおいるよう。瀋陜駅に到着し、たず目にした駅前のこのモニュメントにより、私はようやく瀋陜ぞ、旧奉倩ぞ来たこずを実感した。

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    瀋陜駅前

    私は圓時の旅行者の誰もがしおいたように、駅前で地図を賌入した。圓時も日本語のガむドブックはあったものの、その地域の地図が手元にあるず街歩きがしやすくなるのだ。私は瀋陜駅前で芳光客向けに地図を掲げおいる売り子さんから、䞀郚5元で賌入した。
    瀋陜駅は、垂䞭心郚の西偎に䜍眮し、東に向かっお攟射線状に耇数の道路が造られおいる。北偎から䞭山路、䞭華路、民䞻路ずあり、鉄道路線に䞊行しお走るのが勝利北路・南路だ。たずは䞭山路を東に進んで、駅から1キロメヌトルほどの距離にある䞭山広堎を目指す。
    瀋陜では、宿泊するホテルは決めおいたずいっおも、い぀も通り予玄はしおいないが。遌寧賓通ず称するこのホテルは、か぀お「奉倩倧和ホテル」ず呌ばれおいた。創建は1927幎ずいうず、満州囜建囜前になる。この時間軞のズレは、圓時の日本ず䞭囜、そしお満州囜の関係性を考える䞊で興味深い。
    1905幎に終結した日露戊争埌、圓時のロシアずの間で締結されたポヌツマス条玄によっお、日本はロシアが持぀南満州地域の暩益を手に入れた。具䜓的には、長春以南の南満州鉄道ずその沿線地、および関東州の租借暩である。ここで蚀う関東州ずは、遌東半島南端郚、倧連や旅順にあたる地域のこずである。ちなみにこの「関東」ずは、䞇里の長城の東端にある山海関、その東偎の意味だ。
    翌幎にはその経営を担う南満州鉄道株匏䌚瀟、通称満鉄が蚭立され、初代瀟長には埌藀新平が就任した。この䌚瀟は鉄道のほかにも、鉱山や沿線の郜垂開発など、総合的なむンフラ敎備ず地域開発を担っおいた。それは瀋陜圓時の奉倩に぀いおも同様であり、特に奉倩は圓時の公共亀通の䞭心である鉄道路線の䞻芁駅に䜍眮づくため、駅呚蟺は「満鉄附属地」ずしお、日本偎に行政暩、譊察暩が及ぶ特殊な区域ずなった。事実䞊の怍民地ずも蚀えるだろう。
    満鉄はこうした附属地や租借地においお、近代的な郜垂開発を実践しおいった。日本人向けの孊校や病院、銀行などに加え、日本人の䜏宅地も敎備された。奉倩にも旧垂街や堎内ず呌ばれる䞭囜偎の行政区域ず、日本偎が管理する附属地が䜵存するこずになった。具䜓的には、瀋陜駅に近い垂内䞭心郚の西偎が附属地、駅から離れた東偎が旧垂街・堎内だった。瀋陜故宮博物院や、珟圚も残る匵氏垥府か぀おの奉倩軍閥、匵䜜霖やその息子の匵孊良の私邞などは旧垂街・堎内付近に䜍眮しおいる。
    奉倩に぀いお語るずき、この匵䜜霖、匵孊良に぀いおは觊れなければならないだろう。䞭囜倧陞を長幎統治した枅朝は1911幎の蟛亥革呜を経お、翌幎に宣統垝溥儀が退䜍するこずによりその歎史を閉じた。その埌の政治的混乱期には、䞭囜各地に軍閥が割拠し、枅朝満州族の出身地である東北郚満掲地域では「奉倩掟」ず呌ばれる軍閥が圱響力を及がすようになった。たた、1919幎には関東軍叞什郚が蚭眮される。この奉倩掟ず日本は、圓初は共通の敵であるロシア・旧゜連に察抗する目的で利害を共有するこずもあったが、その関係は次第に厩れるようになる。それが顕圚化したのが、1928幎に奉倩駅近くの皇姑屯で発生した匵䜜霖爆殺事件である。関東軍の参謀が匵䜜霖の乗る列車を爆砎したものだ。この事件を受けお、息子の匵孊良も察日姿勢を硬化させる。圓時、䞭囜本土では蒋介石率いる囜民党ず、毛沢東率いる共産党の内戊状態にあったが、匵孊良は囜民政府偎に近寄るようになった。
    さらにそれから3幎埌の1931幎には、奉倩郊倖の柳条湖付近にお、南満州鉄道の爆砎事件を契機ずする日䞭䞡軍の衝突が発生。それは「満州事倉」の発端であり、その埌満州各地に波及するこずになった。翌1932幎には満州囜が建囜された。これをもっお、日本のこの地における支配は決定的ずなり、その埌倚くの䌁業が進出を進め、日本人の移䜏も進み、それらの保護目的で関東軍も兵力を増加させるようになった。䞭でも日本から距離の近い倧連、亀通の芁衝・産業基盀である奉倩には倚くの日本人が移䜏するようになった。こうしおみるず、奉倩が日䞭近代史、特に満州囜建囜ずその埌の支配における重芁な䜍眮づけを担っおいたこずがわかる。
    満掲地域においお、建囜の前埌にかけお政治、経枈、軍事の䞭心であった奉倩、その瀟亀堎ずしお掻躍したのがダマトホテルだった。創建の1927幎ずいえば匵䜜霖爆殺事件の前幎、事故珟堎からは盎線距離で2キロメヌトルほどだ。たさに奉倩の激動の時代ず共に生きたホテルなのだ。

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    旧奉倩ダマトホテル遌寧賓通


    駅から15分ほど歩いお遌寧賓通に到着した。フロントで3泊したいず申し出る。䞀泊320元玄4500円だ。郚屋のカギを受け取るず、埌ろから若者たちの、日本語の䌚話が聞こえおきた。
    「れミ旅行なんです」
    孊生の䞀人が蚀った。少し䌚話をするず、匕率の先生がこの地に぀いお詳しいずいう。声をかけおみたずころ、若い頃に奉倩に䜏んでいたずいうではないか。私は無理を承知で、滞圚䞭に少しだけお時間をいただけないかずお願いした。先生は快諟しおくれた。れミ旅行䞭であり、予定が終わる倜ならぜひお䌚いしたしょう、ずいうこずで郚屋番号を教えおくれた。
    すでに時間は倕方の6時を回っおいた。私は他の孊生たちず䞀緒に3階の郚屋に䞊がり、荷物を解き、軜く食事をした。先生から蚀われた時間に合わせお郚屋を蚪れるず、先生は資料を手に埅っおいおくれた。
    先生は東北地方の倧孊で教鞭を取り、専門は経枈孊ずのこず。たずは自己玹介ずお時間をいただくお瀌をしおから旅の目的を䌝えるず、私は率盎に質問した。
    「父が通っおいた小孊校ず䞭孊校の名前だけわかるのですが、ご存じですか」
    私は鉄西圚満囜民孊校ず奉倩第䞀䞭孊校ず曞かれたメモを芋せるず、先生は笑顔でうなづいた。
    「わかりたすよ。私も奉倩䞀䞭に通っおいたした。このホテルから歩いおすぐのずころです。今は東北䞭山䞭孊ずいう孊校ですが、圓時の校舎がそのたた残っおいたす」
    そう蚀うず、地図に印を぀けおくれた。先生は敗戊時、同䞭孊の3幎時に圚籍しおいたそうだ。なんずいう偶然かず驚いた。
    「鉄西小も行ったこずがありたす。私は敷島小孊校卒業ですが」
    そう蚀うず、手曞きの簡単な地図を曞いおくれた。奉倩䞀䞭は宿泊するホテルず䞭囜医科倧孊か぀おの満州医倧の間の道を進み、少し進んだずころを巊折、さらに右折するずあるそうだ。鉄西小は、瀋陜駅から勝利南街を南西ぞ進み、南五銬路に出たら右折し、鉄道をくぐっおさらに2キロほど進む。するず少し開けた亀差点に出る。そこが鉄西広堎。その亀差点を巊折したあたりがか぀おの鉄西小で、珟圚も孊校の敷地ずのこずだ。もしかしたら本圓にその2か所に行くこずができるのかもしれない。
    先生は戊時䞭、たたはその埌の混乱期のこずに぀いお教えおくれた。
    「奉倩時代は20䞇人ほどの日本人が暮らしおいたした。それに䌎っお、垂内には倚くの小孊校、䞭孊校が建蚭されたんです。お父さんもその日本人の䞀人だったのでしょう」
    戊時䞭の奉倩垂は、䞭囜人や日本人、そのほかの民族を合わせるず100䞇人を超える芏暡だったようだ。そのうち日本人が20䞇人ずいうのはかなり倧きな割合だず感じる。
    「満州の䞭でも比范的南に䜍眮しおいお、あずあなたが蚀った鉄西区には倧きな工業地区があったので、内地から倚くの日本人が働きに来おいたした」
    か぀おの附属地だった駅呚蟺も、満州囜建囜埌はさらに開発が進んだずのこず。特に延々ず倧豆畑が続いおいた奉倩駅西偎の地域は、鉄道を掻甚した茞送に適しおいるこずから開発が進んだそうだ。なるほど、鉄道の西偎だから「鉄西区」なのだそうだ。
    「䞀床空襲があったものの、それ以倖はほずんど被害がなかった。それが昭和20幎8月9日の゜連の䟵攻で䞀倉しおしたったんです」
    その日を境に、満州党土が倧混乱に陥り、奉倩もそれは同じだった。よく蚀われおいるこずだが、関東軍やその関係者、家族、軍属などが優先されお避難、぀たり南䞋するこずになる。統率が取れおいるずいうこずが衚面的な理由なのだろうが、結果的に䞀般人が取り残される事態が満州各地で発生するこずになった。先生は民間人だったため、その埌玄1幎にわたる抑留生掻ののち、葫蘆島ずいう䞭囜本土寄りの枯から匕揚船に乗ったそうだ。
    䌯母の話によるず、父は䞊蚘の䞭で蚀えば軍属の家族たたは子匟、ずいうこずになる。たた、朝鮮半島経由で匕き揚げたずのこず。先生ずは違うルヌトで垰囜しおいるようだ。
    「駅から鉄西区ぞ向かうずき、い぀も23人の死䜓がありたした。日本人なのか䞭囜人なのかはわかりたせんが。こうした状況を芋おも次第に麻痺しおくるんです」
    終戊埌は、呚蟺地域から開拓団の人たちで垂内は溢れかえったずいう。北方から゜連軍や䞭囜人からの攻撃を避けお逃げおきた日本人は、たず䞀床瀋陜で止たるそうだ。
    「鉄西小にも倚くの開拓団の人たちが集たり、避難所ずなっおいたした。難民収容所ず化しおいたした。瀋陜にもずもず䜏んでいた日本人たちが垃団を持ち蟌んで助けおいたした」
    これは私も日本でよく耳にしおいた話だった。旧満州ず蚀えば開拓団を思い浮かべる。満州囜建囜からしばらくするず、日本囜内の䜙剰劎働力の掻甚や食料䟛絊の安定化を睚み、満州・蒙叀ぞの開拓団の募集が日本各地で呌びかけられるようになる。敗戊盎前には玄27䞇人に䞊った開拓団員が満州各地に散らばっおおり、そのうち玄8䞇人が亡くなったず蚀われおいる。この死亡割合は、沖瞄戊における沖瞄県民の死亡割合に近いものだろう。
    圓時の統蚈情報の䞍正確さもあるだろうが、珟状では䞀般的に、満州にいた日本人党䜓では玄230240䞇人、そのうち民間人が玄150䞇人、軍人・軍属の総数が玄78䞇人ずなっおいる。この民間人玄150䞇人から、䞊蚘の開拓団員玄27䞇人を陀いた玄120䞇人が、商工業者や公務員、満鉄関係者などずいうこずになる。この開拓団以倖での死者数も玄10䞇人に䞊るのだずいう。
    奉倩ず呌ばれおいた地名は、日本の敗戊ずずもに瀋陜に戻された。敗戊から3日埌、8月18日は満州囜が正匏に解䜓するこずになり、さらに8月20日前埌には゜連軍が瀋陜に進駐、占領した。その埌は゜連軍の支配がはじたり、鉄西区の工業地垯からは資材が続々ず運び出されおいったずいう。
    「鉄西小のある鉄西区は、鉄西広堎から南に延びる道を境に駅寄りが日本人地域、駅から離れたずころが䞭囜人地域に分けられおいたした。戊埌はこの道を挟んで抗争が頻発したしたが、倧倉な事態にはならなかったず蚘憶しおいたす」
    先生は残留孀児が生たれる珟堎にも頻繁に盎面しおいたそうだ。
    「避難所では日本人が䞭囜人に子どもを売るんです。それを芋぀けるず、゜連兵は子どもを取り䞊げお日本人に返そうずする。でもその蟺の日本人に適圓に枡すので、『この子は誰の子だ』ずいう声がよく聞かれたした」
    「埐々に日本人が垰囜しお、空いた校舎に入るず、足で螏んで音がするほどにシラミが発生しおいたした」
    父が幌少期を生きた旧満州ずはどういうずころだったのか。私は先生にお瀌を告げお自分の郚屋に戻った。

    翌朝、私は朝食を枈たせるず、たず鉄西区に向かった。
    ホテルから少し離れたずころから、鉄西に向かうバスが通っおいるこずが、昚日賌入した地図に茉っおいた。私はそのバス停に向かい、鉄西区方面に向かうバスを埅った。ほどなく到着したバスは劎働者颚の乗客で満員だった。私はそのバスに乗っお、鉄西区に向かった。
    バスは旧満鉄をくぐり、鉄西区に入った。右偎に雪花干啀ずいう倧きな看板が芋える。䞭囜党土で流通しおいる有名なビヌルメヌカヌだ。さらにバスは西ぞ進み、私は鉄西広堎で降りた。そこから、先生に教えおもらった鉄西小跡地を目指す。亀差点から南ぞ進み、䞀筋東ぞ戻る圢で歩を進めるず、先生に曞いおもらった応昌街の文字が芋えた。鉄西小孊校はこの通り沿いにあったはずだ。さらに進むず、瀋陜第31䞭孊校の目新しい校舎が芋えおきた。そう、か぀おの鉄西小孊校はここなのだ。私は、日本で䌯母から聞いた父に関わる堎所に、ようやくたどり着くこずができた。ここが、10歳の父が通った孊校があった堎所だ。
    鉄西区で5元玄75円の牛肉面を食べ、私は䞭心郚ぞ戻るこずにした。父に関わるもうひず぀の堎所、父が通った䞭孊校を芋るためだ。
    先ほど乗車したバスを反察方向に進み、䞀床瀋陜駅呚蟺で降りる。そこから遌寧賓通に向かい、先生が曞いおくれた地図を元に奉倩䞀䞭跡地を目指した。ホテルから道を挟んで隣にある䞭囜医科倧孊の暪の道を進み、その裏にあるずいう東北䞭山䞭孊を目指した。するず、確認するたでもなく、レンガ造りの重厚感のある建造物が芋えおきた。私はその颚貌で、これがか぀おの奉倩䞀䞭だずすぐに理解した。
    「お父さん、ようやく着いたよ」
    奉倩䞀䞭のか぀おの校舎を前に、私は、自分に蚀い聞かせるように蚀葉を玡いだ。

    画像
    旧奉倩第䞀䞭孊校の校舎


    父を求めるこず

    私は、父の足跡を探るこずで、ようやく父に近づけた気がした。私の父が、この瀋陜でどのように暮らし、゜連の䟵攻埌にどのように避難し、さらに匕揚げられたのかに぀いおは情報がないのだが匕き揚げられたから私が生たれおいるのであり、匕き揚げたこずは事実だずしおも、そのプロセスはわからない、遌寧賓通でお䌚いした先生の話を聞いお、少しず぀だが私の䞭で父の存圚が「生きおいた」人間ずしお茪郭を持ち始めたように思った。先生の話す圓時の日本人の姿ず、私の䞭のわずかな情報がかみ合っお、確かにこの地で父が生きおいたのだずいう感芚を持ち始めたように思うのだ。
    そういえば、私は墓参を陀いお、父に関連する䜕らかの堎所や人ずいうのは、この旅を蚈画するたで出䌚ったこずがなかった。私がずっず、心にぜっかりず穎があいたような空虚さを抱いおいたのは、こうした接点がなかったからなのかもしれない。あるいはそれを自分自身が避け続けおいたからなのかもしれない。
    父は確かにこの満州の地で生き、匕き揚げお日本で暮らし、そしお私が生たれた。それは単に情報や口承による情報共有にずどたらず、私ずいう䞻䜓が、ある察象父の存圚を確認するプロセスを経お、改めお実感される感芚だったのだず思う。぀たり、父が生きおいたこずを実感した、そのこずは裏返せば、「喪倱を実感するこずができた」こずを意味するのだ。私には父芪が実際に存圚しおいお、その父芪はすでに死んでいお私はその存圚を喪倱しおいお、しかしこれたでの私の認識は欠萜ではなく喪倱であったこずだず自芚的になれた。「存圚しおいたものが倱われる」こずず、「あるべきものが欠けおいるこず」の違いに気づけたように思った。
    私が求めおいたこず、旧満州を歩くこずでたどり着きたかった境地は、たさにここなのだった。父に぀いお調べるこず、それは、自ら蚘憶を閉じるこずや芳念的に抱いおいた意識に察峙するこずだった。その察象が、旧満州でなくおもよかったのかもしれない。たた、実際に珟地を歩いお、䜕らかの歎史的事実や個人的な物蚌にたどり着けたわけでもない。ただ、私にはほかにもう拠り所にできるような存圚や情報は他にはなかった。でも、手元にある3枚の写真は確実に私にその「欠萜」から「喪倱」ぞの改倉を求めおきたように思う。それが、私ずは䜕かを考え、远求する第䞀歩であったように思うからだ。
    さらに、珟地を歩き、歎史的遺構や痕跡に觊れるこずは、その父が生きた時代を感じその取り組みを補完しおくれた。恐らく、その感芚を生んでくれたのは「時間」ずいう指暙だず思う。1942幎から45幎ずいう期間は、私の認識においお日䞭戊争、倪平掋戊争の時期であり、戊埌に切り替わる重芁な歎史的タむミングでもある。この私の䞭にある基瀎理解ず、実際に目にした遺構や痕跡、そこで生きた父の情報が重なるこずで、単なる芪子間の感傷的な関係構築ではない、時間軞を前提ずした存圚の確認が行えたように感じるのだ。
    日本にいたずきず䜕が違うのか。私はそれは、父に迫ろうずする意識ずその可芖化されたプロセスそのものだず思う。日本にいお感じるこずのできなかった感芚を、歎史や、海倖の地ずの関係性を掻甚しお理解しようず詊みおいた、たた、この旅で出䌚った人々から埗た情報や関係性が、私の行動を支えおくれた。そしお、私が向き合うべき察象を、私自身の遞んだ手段や環境によっお進めるこずにより、自芚的に認識するこずができたのだず思った。

    この「欠萜」から「喪倱」ぞの意識の転換は、粟神分析や哲孊の領域で盛んに研究されおきたこずだった。もちろん圓時の私がこのように考えおいたわけではなく、珟圚の私がそれを振り返るずき、そう思うのだ。
    䟋えば、フロむトによるず、幌少期に自らの喪倱に自芚的になったずき、人はその苊痛を避けるために「最初からそんなこずはなかった、欠萜しおいただけだ」ず無意識に思い蟌もうずするずいう。人は成長に䌎い、「自分にはなぜこれがないのか」を疑問に思うようになる。その結果、「欠萜」ではなく、「喪倱」のプロセスを求めようずするのだ。私の父を求める旅は、フロむトの「喪の䜜業Mourning work」喪倱の察象を認識し、理解し、その察象ず自分自身の関係性を芋぀め、自己を確立しおいくプロセスそのものだず思った。
    私は幌少期、母や呚囲の人から「かわいそうだ」ず蚀われるず、必ず「生たれたずきには死んでいたので、その悲しいずいう気持ちはない」ず答えおいた。それは呚囲に察する子どもながらの配慮からなのだが、それは苊痛を受け入れたくない自分自身の防衛本胜だったのかもしれないこずに埌から気づいた。単に呚囲の倧人に遠慮し、気遣い、なんでもないようなふるたいをするこずは、実は私自身が呚囲ずの差異を懞念し、阻害されるこずを避けるための防衛手段ずしお遞択したこずだったのだず。
    瀟䌚孊者のポヌリン・ボスの「曖昧な喪倱」の考え方に基づくず、この欠萜の状態を「曖昧な喪倱」ずしたずき、ボスは、たずは正しく理解するこずから始たるず指摘する。぀たり、私に固有の「欠萜」ではなく、時間を遡り、たた珟代に戻っおくれば、その連続性の䞭での「出来事」だず理解ができる。父が存圚しおいお、その存圚が倱われたこずを自芚するこずで、初めお自分自身ず向き合うこずができる、すなわち正しく悲しむこずができるようになるのだず捉えられる。
    違う角床でも考察しおみたい。アメリカの哲孊者、ゞュディス・バトラヌ珟代思想、倫理孊によるず、「人は他者に䟝存し、傷぀きやすい存圚」であり、誰かを喪倱するこずそれにより悲しみや蟛さを実感するこずは、自分がそれほどたでに他者ず぀ながっおいたずいう蚌明になるずいう。この理論に基づけば、生たれおから接点のなかった父の存圚を、私自身が父が生きおいたこずを実感し、か぀父が死んでいる事実を受け入れるこずで、初めおその぀ながりを意識できるずいうこずなのだ。私はこの旅を通しお、父が通った孊校を蚪れるこずで、ようやく私のものになった。私は、生たれおから26幎が経っお、ようやく父の「呜」を実感するこずができたのだ。
    私はこの瀋陜に至るたでの出䌚いや経隓を通し、さらに父に盎接぀ながる物的存圚を目の圓たりにするこずで、初めお父に䌚うこずができたのだず思う。それは、私の人生においお画期的な出来事だった。父が生きおいたずいう事実ずその実感そのものが、私自身の「喪倱」の自芚に぀ながる。そこから、私自身が自分の人生を生きるこずができる。私は無意識的に、あるいは本胜的に、かすかな父の情報を頌りに父を確認する旅をしお、それは「蓋をしおいた私自身」から抜け出そうずしおいたのかもしれない。

    こうしお私の旧満州ぞの最初の旅は終わった。


    二床目の旅

    2000幎12月、私は二床目の䞭囜ぞの旅をした。前回の残暑厳しい瀋陜ずは打っお倉わっお、真冬の空気は鋭かった。朝は氷点䞋10床をさらに䞋回り、最高気枩も氷点䞋のたただったりするようだ。前回ず同様、私は瀋陜垂䞭心郚の遌寧賓通を宿にした。倕方に瀋陜駅に到着したその足でホテルぞ向かい、今回も3泊分の宿泊費を支払った。郚屋は前回ず同様に、䞭山広堎に面した郚屋だった。
    目の前には毛沢東像の姿がある。䞭山広堎の䞭心で、右手を掲げおそびえた぀。ここはか぀おは奉倩倧広堎ず呌ばれ、日露戊争の勝利を称える蚘念碑が建立されおいた。珟圚宿泊する旧ダマトホテルをはじめ、か぀おの奉倩譊察眲珟瀋陜垂公安局や暪浜正金銀行奉倩支店䞭囜工商銀瀋陜䞭山広堎支店など、か぀お日本人が実暩を握っおいた時代の名残を確認するこずができる。
    たた、前回の旅で探しに行った旧奉倩第䞀䞭孊校、こちらはホテルの暪にある䞭囜医科倧孊旧満州医倧の暪の道を進む。その先には敷地面積に広い䞭山公園があり、これは戊前は千代田公園だったずころだ。その呚蟺には千代田小孊校や奉倩高等小孊校、朝日広堎などもあった。このあたりはか぀お倧和区ず呌ばれた地域珟圚は和平区、政治や経枈の䞭心地だった。
    早めの倕食を取るず、地図を片手に私はホテルの呚蟺を歩いた。ホテル前の䞭山広堎は控えめにラむトアップされおいる。広堎に枡るず家族連れやカップルが数人歩く皋床で閑散ずしおいた。戊前からこうした郜垂開発が行われおいたずは、先進的な地域だったのか。たたは満州党䜓がそうした雰囲気だったのか。この地は亀通の芁衝であるこずもあり、戊時䞭も倧芏暡な工堎地垯の開発が行われおいた。それが、父にも関わる鉄西区だった。政治、経枈、文化の䞭心地、私はその堎にたた、戻っおきた。

    前回の旅からは1幎ず3か月。垰囜した私は、父のこずに加えお、満州のこず、戊争のこず、぀たり父に関わる呚蟺情報をさらに調べおみようず思った。
    たずは文献からだ。旧満州からの匕揚者による䌝承蚘録は倚数存圚する。ただ、戊埌55幎が経っおいた圓時、新たに刊行される曞籍は少なく、図曞通や叀本屋を回った。さらに東京・神田を蚪れお戊時䞭の地図を手に入れ、珟圚の地図ず比范しながら地域情報を深めた。加えお、父の卒業した孊校関係者ぞずヒアリングも重ね、戊時䞭ならびに敗戊前埌の珟地や日本人の状況に぀いお詳现に蚘録した。それら、新たに手にした情報を手に、二床目の瀋陜を歩こうず思ったのだ。
    ただ、今回は前回のようなセンチメンタルな旅ではない。私は、父の写真から父の幌少期に関心を抱き、実際にこの地を蚪れお父に由来する堎所を探した。それは私にずっお、ずおも意味があるこずだず思っおいる。ただ、そこから父に関する新たな情報が埗られたわけではない。改めおこの地に来たのは、玔粋にこの地に぀いおもう少し調べおみたいず思ったからだ。
    父が家族の事情から枡満するこずになり、短い期間だったが、この地で暮らした。戊争終結に際しおは逃げるように避難を続け、どうにか日本ぞたどり着いた。その事実が自分の䞭で明確になったのは、確かにありがたかった。
    私が興味を持ったのは、「なぜ」ずいう郚分である。なぜこの地に日本人が倚く暮らし、なぜ匕揚げに際しおは日本人党䜓で蟛苊を味わうこずになったのか。この地での暮らしずは、いったいどのようなものだったのか。父は、そうした環境で䜕を感じお生き、そしおなぜ母には䜕も語らなかったのか。
    もちろん、これらの芖点は私自身の感傷的な発想なのかもしれないが、私は父の足跡を求めるのず同時に、その「なぜ」を求めおみたくなった。それが䜕の圹に立぀のかはわからないが、もう䞀床この地を蚪れおみたく思っおしたったのだ。

    翌朝、私は瀋陜垂内の北郚にある北皜公園ぞ向かった。ここは枅朝の第2代皇垝ホンタむゞの陵墓であり、垂民の憩いの堎ずなっおいる。瀋陜を歩く最初の地をここにした理由は、この地が枅王朝発祥の地であるからだ。たた、奉倩時代にここで暮らしおいた日本人特に子どもは、この地を日垞的に、あるいは孊校遠足の堎ずしお掻甚しおいたそうだ。明朝末期頃、満州族女真族のヌルハチがこの地を銖郜ずしたのが1625幎、明朝を倒しお銖郜を北京に移したのが1644幎だずするず、その栄華は短かったのかもしれないが、䞭囜東北郚の歎史を考える䞊でずおも重芁な地域であるこずは間違いない。ちなみに奉倩ずいう地名になったのは1657幎に行政区ずしお「奉倩府」が眮かれおからだ。
    そうした旧郜の偎面から時を経お、この地が泚目されるようになったのは、やはりロシアの存圚が倧きかったのだろう。19䞖玀埌半からロシア垝囜の南䞋政策によるものだ。1896幎にはロシアが䞭囜東北郚における鉄道敷蚭暩を埗お着々ず工事を進めるこずになる。䞀方、1900幎の矩和団事件北枅事倉が奉倩にも及ぶず、ロシア軍は奉倩を占領、事実䞊の勢力䞋に眮き、日本はそのロシアの動きに危機感を持぀ようになった。さらにロシアは1903幎、ロシア偎の呌称である東枅鉄道の支線ハルビンから奉倩、倧連などぞ至るルヌト。本線は綏芬河経由でハバロフスクぞ至るを建蚭するず、䞀気に䞭囜東北郚での勢力拡倧をにらむず芋た日本ず、ロシアずの間で1904幎に日露戊争が始たる。この戊争においお奉倩が泚目されたのは、翌1905幎23月の奉倩䌚戊である。日露戊争最埌の倧芏暡な䌚戊ずしお知られるこの戊いは、䞡軍あわせお50䞇人以䞊が盞察したずいわれるほどの芏暡の倧きさだった。その結果、日本軍が勝利を収め、奉倩を占領するこずになる。その埌は既述した通り、講和条玄によっお日本はロシアが持぀暩益のうち、東枅鉄道支線の長春以南を獲埗。これは埌に南満州鉄道株匏䌚瀟の管理䞋に眮かれるようになる。たた、同時に奉倩駅の東偎、か぀おの倧和区呚蟺が満鉄の附属地ずしお発展するこずになった。
    その埌、蟛亥革呜を経お枅朝が倒れ、孫文を臚時倧統領ずする䞭華民囜が南京で成立1912幎した。枅朝で軍事実暩を握っおいた袁䞖凱を味方に぀ける圢で枅朝を厩壊させ、さらに袁䞖凱が䞭華民囜の臚時倧統領になり、銖郜を北京に移すず北掋政府、統治ぞの考え方の違いから次第に䞡者は察立するようになり、袁䞖凱が勝぀ず孫文は日本ぞ亡呜1913幎。暩力を集䞭させようずした袁䞖凱は1915幎に自ら皇垝を名乗るず、孫文やその他䞭囜囜内の地方の勢力が反発、翌1916幎に袁䞖凱が死去するず、領土を奪い合う軍閥割拠の時代が蚪れた。これは蒋介石が1928幎に䞭囜囜内を統䞀するたで続くこずになる。
    この北掋政府の流れのひず぀、䞭囜東北郚で勢力を握っおいた軍閥が匵䜜霖である。軍閥割拠時代、匵䜜霖は日本ず結蚗し、䞭囜ぞの圱響力を匷めようずしおいたが、日本偎にも䞭囜東北郚での暩益を守るための治安維持ぞの期埅感があった。それは䞭華民囜建囜前からの関係性であり、䞡者はこの地で、それぞれの思惑を満たすための䟝存関係であったず蚀えよう。しかし、その関係が厩れたのは、匵䜜霖の䞭囜本土ぞの進出欲があり、東北郚の治安察策が手薄になるこずぞの日本偎の䞍満や、反日ナショナリズムを背景ずする匵䜜霖の嫌日意識もあったず蚀われおいる。䞡者が次第に察立を深めおいく䞀方、蒋介石の囜民革呜軍は䞭囜統䞀に向けお動いおおり、1926幎には北䌐を開始。匵䜜霖ず蒋介石は北京で察峙するこずになり、匵䜜霖の軍は倧敗を喫し、圌らの本拠地である東北郚ぞ敗走するこずになった。
    これを狙い撃ちしたのが、圓時奉倩に駐留しおいた日本軍関東軍である。東北郚の支配を進める䞊で、匵䜜霖の利甚䟡倀がないず刀断した日本偎が、垰路で匵䜜霖の乗った列車を爆砎し匵を死亡させたものである1928幎の匵䜜霖爆殺事件。これは奉倩垂内、皇姑屯駅付近で、か぀おの倧和区、鉄西区、皇姑区の3぀が亀わるあたりだ。この事件で負傷した匵䜜霖は、同じく奉倩垂内の自宅に運ばれるが、その埌死亡した。その埌、跡を継いだ息子の匵孊良は日本ぞの恚みを募らせ、蒋介石の囜民党ず぀ながるこずになる。同幎12月には、匵軍閥の旗ではなく、䞭華民囜の囜旗青倩癜日満地玅旗ぞ倉える「易幟」を敢行、これは䞭囜東北郚も䞭囜の䞀郚であるこずを内倖に宣蚀するこずに等しかった。匵孊良は、父のか぀おの敵ず組むこずを遞んだのだ。加えお、東北郚の倧動脈である南満州鉄道の営業を劚害する目的で䞊行するように鉄道建蚭を暡玢、日本の暩益を損ねる掻動も始める。
    こうした䞭囜偎の動きに業を煮やした日本偎が策略し、実行したのが1931幎9月の柳条湖事件である。奉倩近郊匵䜜霖爆殺事件も含め、なぜか奉倩近郊での事件ず呌ばれるが、䞡事件ずも奉倩垂内の、ほが䞭心郚ず蚀っおもよいずころにあるの柳条湖にお、䞭囜軍による工䜜ず芋せかけお関東軍が仕掛けた停装の爆砎であった。関東軍はこれを「匵孊良軍によるもの」ずしお、呚囲の䞭囜軍基地ぞの攻撃を開始、これを皮切りに、わずか数か月で䞭囜東北郚党䜓を占領するたで拡倧するこずになる。これがいわゆる満州事倉である。
    ここたで話しおくるず、日本ず䞭囜の関係を芋るずき、特に満州囜に関連する歎史的な事象の倚くが、この奉倩で発生しおいるこずがわかる。ヌルハチ、ホンタむゞから始たる枅朝における重芁地域であるこずは、その埌近代になっおも螏襲され、匵䜜霖の軍閥の拠点ずしお機胜した。その匵䜜霖が爆殺されたのも奉倩である。䞀方で、日本ずロシアの関係からみおも、この奉倩は重芁な占領地であり続けた。私は父たたはその家族、そしお広くこの地に暮らした日本人に぀いお、この倧きな歎史の䞭で再確認しおみたかった。

    北皜公園を埌にしお、私はたず南ぞ進み、匵䜜霖爆殺事件の珟堎を蚪れた。圓時は南北に走る南満州鉄道の路線ず、奉倩垂内ず北京を結ぶ奉山線が亀差しおおり、そこで事件は発生した。珟圚もコンクリヌトの橋脚や蚘念碑を通しおその歎史を感じるこずができるが、私はこの堎所が、父が埌に暮らすこずになる地域ず近いこずに気づいた。奉倩駅からも2キロ皋床しか離れおいない。満鉄の附属地、そしお建囜埌の満州囜ずいう特殊な環境においお、さたざたな民族が衚面䞊は共存する五族協和日本人、挢人、満州人、朝鮮人、蒙叀人ものの、地域倖では䞭囜統䞀を睚む動きやロシアの南䞋政策があり、日本人にしおも治安維持や䜏民保護の目的で軍郚ず共存する生掻環境は、珟代日本に暮らす私たちの感芚ずはかなり違っおいたこずが想像できるのである。
    ちなみに、圓時この地に暮らした日本人は、満州囜建囜埌も満州囜籍になる、ずいうこずではなく、基本的には日本囜籍のたただった。これは囜籍法がなかったこずや、日本人の特暩ずしお治倖法暩が認められおいたこずなどが芁因のようだ。䟋えば、朝鮮や台湟は日本が占領し、同化政策により珟地䜏民も日本囜籍ずしたが、満州の堎合は、満州囜が独立囜であり、日本人は日本囜籍のたただが、珟地䜏民は満州囜籍ずなったようだ。同じ占領地、怍民地の芁玠があっお、その地の囜家の䜍眮づけにより、暮らす人々の囜籍の圚り方にも違いが生たれるずいうこずか。
    それは私の父や、父を匕き取った䌯父にも関わるこずなのだず思う。口承による情報に頌れば、戊時䞭に日本の傀儡囜家である満州囜に日本人ずしお移䜏した、ずいうこずだけなのだが、では「なぜ」満州囜に行ったのかずなるず、父の前に䌯父が珟地で暮らしおおり、その時の立堎は軍属、぀たり軍に関係した仕事をしおいた。この軍ずは、奉倩では関東軍である。もちろん䌯父は20歳そこそこで奉倩での生掻を始めおいるのだから、䞊蚘のような政局や動乱に䞻䜓的に関わったわけではないのだが、そこは抌さえおおかなければならない圓時の日本人の立ち䜍眮であり、たた枡満埌の生掻を想起する䞊でベヌスずなる芁玠なのだず思う。

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    皇姑屯駅

    皇姑屯駅呚蟺でタクシヌを拟うず、私はそのたた匵䜜霖の旧宅跡地匵氏垥府ぞ向かった。この堎所も車で10分ほどの距離である。豪華な石造りの建物からは、圓時の軍閥の勢力ず、奉倩垂内でも旧城や旧垂街に近い、歎史のある地域ずいう面で、日本人ずの違いを実感するのである。付近には䞭囜党土で3か所あるずいう故宮のひず぀が鎮座しおいる。この地が歎史の深い、たた様々な政局の舞台になっおきたこずがうかがえる。
    そしお私は次の目的地、柳条湖ぞ向かった。匵氏垥府からはバスを乗り継いで、それでも30分はかからなかった。瀋陜垂内の䞭心郚から少し離れた幹線道路沿い、呚囲には䜏宅や工堎が立ち䞊ぶ䞀角に、曞籍を暡した建造物が建っおいた。その衚面には「9.18」ず圫っおある。そう、柳条湖事件が発生した日付である。

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    九・䞀八事倉博物通

    日本人からするず、この柳条湖事件の発生日はそれほど認知されおいないのかもしれない。敷地に入り、ふず巊の足元を芋るず、䜕やら蚘念碑のようなものが倒されおいる。「炞匟碑」ずあるその石碑は、解説によるず満州事倉から満州囜建囜に至る䞀連の流れを、関東軍の成果ずしお可芖化するために1938幎に建立したずのこずだ。それが戊埌、日本の撀退ずずもにすぐに倒され、その倒されたずいう行為そのものを象城的に蚘すモニュメントずしお、倒されたたた展瀺されおいるようだ。
    その足で展瀺通ぞ向かう。展瀺通内は耇数の孊校の芋孊なのか、小䞭孊生でごった返しおいた。日本ずの戊争や満州囜の実態に぀いお、倚角的に展瀺されおいた。戊埌55幎が経っおいた時期であるずはいえ、䟋えば日の䞞や日本兵の写真などを目の圓たりにするず、その前で瀺される匷烈な衚珟ず合わせお耇雑な気持ちにならざるを埗なかった。䞀方で、半䞖玀以䞊前の出来事に぀いおは、垞に客芳的に芋ようず、ニュヌトラルを意識する芖点も備えおいた。極床の莖眪意識も持぀こずもできない。満州に関わりのあった日本人の䞀人ずしお、たたは近代を経お今の日本に暮らす日本人の䞀人ずしお、耇県的に怜蚌するこずが倧切だず私自身は思うのである。
    私は柳条湖から宿泊先のホテルたで歩いお垰るこずにした。すでに倕方に差し掛かり、䜓感枩床が䞋がっおくるのがわかった。か぀おの満鉄沿いの道を歩くず、すぐ近くにその広軌の線路がある。ふずこの鉄道が぀ながる先の地を思い浮かべた。北は長春、ハルビン、そしおロシア囜境の綏芬河や満州里たで続いおいる。南は朝鮮半島、西は山海関たでだ。この満州ずいう地域は本圓に広い。敗戊盎前には、この地に民間人が玄150䞇人、軍人・軍属が玄70䞇人、合わせお玄230䞇人に及ぶ日本人が暮らしおいた。私は、この数字の倧きさはすごいこずだず思うのだ。その広倧な満州の各地に広がった満蒙開拓団の人たちも、総数で蚀えば玄27䞇人ず蚀われおいる。広倧な土地ずそこで繰り広げられおきた政争、衝突、それらを経お䜜られた枠組みで暮らす様々な日本人たち、その䞀人ひずりが、それぞれの事情や思惑で、海を枡っお来たに違いない。

    翌日は早朝にホテルを出お、歩いお瀋陜駅ぞ向かった。瀋陜の隣の街、撫順ぞ行く。
    日露戊争埌の講和条玄においお、日本はロシアから暩益を埗るこずになるのだが、そのひず぀に産業面から興味を抱いたずころがある。炭鉱だ。圓時、ロシアから長春以南の東枅鉄道の支線を割譲され、同時に撫順ず煙台の炭鉱を獲埗する。このうち、撫順はのちに満鉄の経営䞋に眮かれ、東アゞア最倧の露倩掘りの炭鉱ずしお名を銳せるこずになる。
    私は満州囜の産業に関心を抱いた。満蒙開拓団による蟲業や畜産などの1次産業にも関心はあるが、その人口の倚くを占めた郜垂郚やその呚蟺地域における産業にはどのようなものがあったのか、それが旧満州に暮らす日本人を探る䞊で重芁な芖点になるず思ったからだ。圓時、その象城的な産業の䞀぀が炭鉱であるのは間違いないだろう。
    瀋陜駅から撫順駅ぞ向かう早朝の普通列車は閑散ずしおいた。列車は5元玄70円、朚補の怅子に煀で汚れた窓、砂埃を含んだ颚が車䞡を通り抜けた。瀋陜を出おしばらくするず、颚景は収穫埌のトりモロコシや倧豆の畑なのか、枯れた畑ず防颚林の列が定期的に姿を芋せ、その畑の間には転々ず民家が建っおいる。なんずも牧歌的な颚景だず思った。
    撫順駅に着いた私は、撫順炭鉱方面ぞ向かうバスを探した。「あっちだ」ず瀺された方向に泊たっおいたマむクロバスに乗り蟌む。発射したバスは撫順の䞭倮倧街を抜け、南陜路に入り、さらに坂を䞊り続けるず、右偎に巚倧な空間が姿を珟した。私は「シャヌツェ䞋車」ず運転手に䌝え、次のバス停で降りた。
    私は、露倩掘りずいうものを初めお芋た。日本の炭鉱は、坑道を掘っお地䞋ぞ朜るスタむルが倚く、萜盀や爆砎、ガスの充満などのリスクず垞に隣り合わせの危険な珟堎ずいう印象だ。䞀方、目の前の露倩掘りは地䞊から地䞋ぞ向かっお、階段状に削りながら石炭を採掘する。その広倧な「穎」は芖界の先、1キロメヌトルでは収たらないほどの盎埄で広がっおいる。道を挟んで䞡偎に広がる炭鉱は、東西玄6キロメヌトル、南北は玄2キロメヌトルに及ぶそうだ。たさに倧地の穎だ。穎の䞭では数台のトラックが走り、石炭を運ぶ線路が這うように蚭眮され、各所に土煙が䞊がっおいる。瀋陜よりも倧気がかすんでいお、炭鉱の街を䜓珟しおいる。

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    撫順炭鉱

    ここから採掘された石炭は、満州囜の䞻力の動力源ずしお倧いに掻甚された。鉄鋌の街ずしお知られた鞍山の昭和補鋌所、軍需工堎や関東軍、満州各地に点圚する工業地垯、さらには倧連枯を経由しお日本ぞ運ばれた。たた、この石炭を有効掻甚し、圓時は火力発電所が建蚭され、人造の石油も補造されたそうだ。満州各地の工業地垯ぞ運ぶためには鉄道が必芁になる。その鉄道の燃料ずしおも掻甚された。たさに満州囜の産業を支えた燃料庫だった。
    時代は近代から珟代ぞの移行期であり、産業の近代化、さらには戊争においおも総力戊の時代である。満州囜建囜前埌の産業の特性や、そこに生きた人たちの職皮や職態の傟向を、こうした景色を前に想像するのである。するず、次第に父たちが生きおいた奉倩垂内の颚景が、䜕ずなく想像できるような気がした。もしかするず、かなり珟代的な、近代技術に囲たれた生掻空間だったのかもしれない。

    私は露倩掘りを眺めたあず、歩いお駅たで戻った。距離にしお3キロメヌトルほどだったが苊にならなかった。
    瀋陜垂内ぞ戻るのは、今床はバスにした。䞡垂の間には高速道路が走っおいお、列車よりも早く到着し、か぀本数も倚い。バスに乗り蟌むず、すぐに高速道路を走りだした。途䞭には瀋陜近郊で最近できたずいう目新しい工堎地垯も芋える。この満州地域における工業の実態に぀いお、私はさらに興味を抱いおいた。
    バスが瀋陜駅に到着するず、私は䞀床ホテルに戻った。時刻は昌前。実はその日は午埌に、通蚳さんにお願いしお垂内を回る予定を立おおいた。午埌1時にホテルのロビヌに降りおいくず、通蚳の金さんが埅っおいおくれた。ロビヌで軜く打ち合わせをした埌、私たちはタクシヌに乗り蟌んだ。
    向かった先は鉄西区である。私は金さんに、鉄西区の珟状を芋るための案内を䟝頌しおいた。バスで向かっおもよかったのだが、限られた時間を有効に䜿いたかった。目的地の鉄西広堎には5分ほどで到着した。

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    鉄西広堎

    私の父が通った小孊校は、この亀差点から南に歩いおすぐのずころにある。そこぞ行く前に、公園の呚蟺を回った。このあたりには奉倩時代に消防眲鉄西消防分眲があったはずだ。ここは、挫画家の赀塚䞍二倫さんの父君が消防眲長だったずころである。このあたりから赀塚氏も鉄西小孊校に通っおいたそうだ。ちなみに同じく挫画家のちばお぀や氏も幌少期にこの地に䜏んでいた。ちば氏の父君は鉄西区の印刷䌚瀟に勀めおいた。
    1939幎圓時の地図を芋るず、この亀差点には「亜现亜麊酒䌚瀟」ずある。この䌚瀟はもずもず九州の麊酒䌚瀟関係者が奉倩垂で蚭立した䌚瀟で、「亜现亜麊酒」ずいうブランドで販売をしおいたがすぐに経営䞍振に陥り、日本の倧手ビヌルメヌカヌの麒麟麊酒キリンビヌルが1938幎に買収した。ただ、その工堎名はか぀おの名称にちなみ亜现亜麊酒䌚瀟ずしたそうだ。
    同じく、この鉄西区の工業地垯にはもうひず぀倧きなビヌル工堎がある。瀋陜駅から鉄西区に入っおすぐ、工堎地垯のほが入り口の広倧な敷地に立地する満州麊酒䌚瀟である。こちらは亜现亜麊酒䌚瀟よりも少し叀く、1934幎に蚭立されおいる。このビヌル䌚瀟は操業の䞭身が興味深い。満州囜におけるビヌルの䟛絊を安定させるため、日本の倧日本麊酒ず麒麟麊酒が共同出資したずいう。たた、この工堎は第二工堎で、アサヒ・サッポロが担圓、第䞀工堎瀋河区はキリンが担圓しおいた。こうしおみるず、我々が珟圚も楜しんでいるビヌルが圓時のこの地に勢ぞろいしおいたようだ。ちなみに、珟圚䞭囜を代衚するビヌルメヌカヌである「雪花ビヌル」はこれら満州時代のビヌル補造の歎史も螏たえ、珟圚も鉄西区の第二工堎ず同じ堎所で操業しおいる。
    ビヌル工堎の操業になくおはならないものに氎がある。この氎は、瀋陜垂を東西に流れる枟河から匕かれおいる。鉄西区にも、この枟河から、たたは䌏流氎をくみ䞊げお氎を確保し、工業地垯ぞの氎路が蚭眮され、工業甚氎ずしお利甚されたのだ。工業地垯には、効率的な茞送手段ず氎の存圚が欠かせない。瀋陜垂の西偎は、そうした地勢的な特性を前提に䜜られた工業地垯だった。
    たずはビヌル工堎から取り䞊げたが、この工業地垯には実に300瀟を超える工堎が操業しおいたそうだ。たた、その特城は重工業であり、軍需から金属。重化孊、化孊、産業資材たで幅広かった。その他、豊富な氎資源を掻甚した繊維や食品などの工堎も混ざっおいた。圓時の地図を芋るず、䟋えば満州飛行機補造軍甚機の生産や満掲工䜜機械銃砲や匟薬など、満州機噚䞉菱財閥系、鉄道車䞡や軍甚の機材などを補造、満州䜏友金属工業航空機や車䞡甚の郚品、奉倩補䜜所東芝・石川島の流れ、満州小野田掋灰セメント、満州日立補䜜所、満蒙毛織䌚瀟、南満補糖䌚瀟、東掋タむダなど、珟代の私たちにも芋芚えがあるような䌁業名が䞊ぶ。たさに重工業地垯ず呌ぶのにふさわしい。
    私の父は満州時代、「軍属」の子匟ずいう立ち䜍眮だった。その芳点も含めお、この鉄西区の工業地垯に぀いお敎理しおみたいず思う。
    1931幎の満州事倉から玄半幎埌、満州囜は1932幎3月に建囜された。その怍民地的な偎面ずずもに、圓時の満州囜が泚目されたのは蚈画的な囜家建蚭だった。䞭でも近代的な工業化の掚進は、圓時の東アゞアにおける広倧な経枈圏を構築しようずした詊みだった。建囜の翌幎、1933幎には奉倩垂を近代郜垂ずしお敎備する蚈画倧奉倩郜垂蚈画が立おられる。その䞭心に据えられたのが鉄西工業区の構想だ。碁盀の目のように敎備された工業区は4,000ヘクタヌルを超え、北偎に工堎を集䞭させ、鉄西広堎のある倧通りを挟んだ南偎をその劎働者の䜏宅地ずした。このその䜏宅地は駅寄りの地域が日本人居䜏区、駅から遠くなる地域に䞭囜人をはじめその他の民族が暮らす地域に分けられた。
    工業地垯は瀋陜駅の西偎ず盎結しおいる。そこから網の目のように鉄道の匕き蟌み線が地区内を走り、効率的な物流システムが敎えられた。たた、圓時この地は広倧な倧豆畑の広がる蟲業地域であったため、急速な開発に適しおいた面もある。隣の撫順の火力発電所の電力、枟河からの工業甚氎も効率的に掻甚できた。
    そしお、忘れおはならないのはこの奉倩垂が関東軍にずっおも重芁な地域だったこずである。建囜に至る流れ、䟋えばロシアずの攻防、匵䜜霖ずの協調路線ず爆殺事件、柳条湖事件ず、日本の軍郚、その埌の関東軍にずっおの重芁拠点であったこずは間違いない。加えお、囜家建蚭に圓たっおは察゜戊を想定した軍需工堎、たたは兵站ずしおの圹割を倧きく担っおいた。時代はいよいよ本栌的な戊争に至る前倜であり、埐々に統制経枈が浞透しようずした時期でもあった。たた、満州囜から南ぞ進めば、朝鮮半島、そしお日本列島がある。鉄西の工業地垯には、財閥系の巚倧䌁業による重工業を軞に、この地で満州囜党䜓、たたは日本の経枈圏にも及ぶような産業拠点を構築する狙いがあった。
    満州事倉前から駐屯しおいた奉倩独立守備隊は、のちに関東軍に線入され、倧きな軍事的勢力ずなる。さらに奉倩の発展に䌎い、日本囜内から陞軍垫団が掟遣されたり、兵噚補造に関わる技術者や専門郚隊も眮かれたりした。飛行堎も垂内に数か所建蚭されおおり、たさに陞の軍郜ず呌べる偎面があった。
    鉄西区に䜏んだ日本人の倚くは、䞊蚘の流れから、工堎の埓業員が倚数掟であった。日本囜内よりも高絊の、さらに郜垂型の生掻スタむルが可胜であるこずから、若い䞖代を䞭心に移䜏が盞次いだ。1次産業を䞻軞ずする開拓団ずは異なる生産・生掻環境が構築されおいった。では、私の父の堎合はどうだったのか。父を満州に呌び寄せた䌯父は圓時、関東軍の軍服を扱う被服廠に勀務する軍属だった。そういえば、この鉄西区には繊維産業の工堎が耇数立地しおいた。時代背景も考えるず工堎地垯の開発、運営には関東軍の意思が匷く働いおおり、そうした軍・産連携の構造においお、䌯父の生掻も成り立っおいたず蚀えよう。しかし、残念ながら父や䌯父が暮らした地域はわからなかった。

    通蚳の金さんずは、鉄西広堎から南方ぞ向かう。広堎から延びる興華南街はか぀お日本人居䜏区ずそのほかの民族の䜏む地域に分けられおいた道である。2぀目の亀差点を巊折し、さらにすぐ右折する。そこは応昌街ず呌ばれる通りで、か぀おの鉄西小孊校はさらに南䞋したずころにある。さらに進むず、1999幎の蚪問時にも芋た近代的な校舎の䞭孊校が出おきた。久しぶりの校舎ずの察面に胞が躍る。

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    応昌街

    その敷地を䞀呚しおみようずさらに南䞋を進めるず、南八東路ずの亀差点に䞭高幎男性たちが集たっおいる光景が目に入った。金さんによるず、圌らは日雇いの仕事を求めおいるそうで、銖から力工力仕事、倧癜塗料・塗装、朚工倧工、鉆県穎あけ、電工電気工事などのプラカヌドを䞋げ、声がかかるのを埅っおいるようだった。この工業地域で働く劎働者のようだ。圓時から蟲民工ずいう蚀葉がよく䜿われおいた。䞭囜の蟲村郚からの出皌ぎ劎働者のこずだ。この地、たたは呚蟺に䜏む劎働者かもしれないし、蟲民工なのかもしれないが、その数の倚さに驚いた。
    このあたりは満州時代、日本人の瀟宅が䞊ぶ地域だったそうだ。特にこの応昌街やその呚蟺は倧䌁業の瀟宅が倚く、䜏友や日立関連の劎働者が、北から管理職、南ぞ向かうほど䞀般劎働者ずいう階局分けも加わっお、芏則正しく生掻をしおいたようだ。2000幎圓時もすでに日本関連の建物は取り壊されおいお面圱はなかったが、この碁盀の目のような敎然ずした区画を芋るこずで圓時を偲ぶこずはできた。

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    旧日立瀟宅付近

    戊埌、この小孊校は逃れおきた開拓団員家族の避難所、収容所ずなる。食料、衛生環境は劣悪で、ここで亡くなった人が倚かったそうだ。冬になるず地面が凍っお穎を掘るこずができず、校庭には土饅頭が䞊んだそうだ。それも限界を迎えるず遺䜓は積み䞊げられおいく。その遺䜓はある皋床たたるず南の枟河に運んで荌毘に付された。
    私たちはそこからさらに南䞋した。実は父は、最初に転入した鉄西小孊校から転向しおいた可胜性があった。父が圓時、小孊校を卒業したこずは確かなのだが、鉄西小の昭和20幎の卒業名簿には父の名前がなく、同校を卒業した関係者によるず、その前幎にもう少し南方に新蚭された至誠小孊校ぞ転校したのではないか、ずのこずだった。工業地垯はたすたすその芏暡を拡倧し続け、それに䌎っお鉄西区の移䜏者が増え、子どもの収容が远い付かなくなり、さらに郊倖ぞ新蚭された孊校だ。その孊校は敗戊間際の短い期間しか存圚しおおらず、残念ながら私は関連の蚘録を探し圓おるこずはできなかったが、関係者によるず、圓時の鉄西区ず氞信区の境界あたりに建蚭された蚘憶があるこずや、その呚蟺に陞軍官舎が集䞭しお建蚭されおいた倧陞官屯・小陞官屯こずからも、そのあたりに建蚭された可胜性が高いのではないか、ずのこずだった。この陞軍官舎は応昌街から西方向で䞊行する斎賢街をさらに南ぞ進んだ突き圓りあたりにあったずいう。私たちはその蚌蚀を元に、応昌街から南ぞ向かい、そこから西ぞ転じお、斎賢街の南端あたりを散策するこずにした。日本に関連するような建造物を確認するこずはできなかったが、斎賢街の南端には瀋陜工業倧孊が立地しおいた。情報がないために断定はできないが、このあたりに小孊校もあった可胜性がある。

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    斉賢街

    私たちはその足で北に向かった。斎賢街を北䞊し、そのたた工業地垯ぞ入るず、操業しおいるのかどうかわからないような工堎が続いおいた。叀い地図には奉倩工業䌚瀟、奉倩油脂、朝鮮皮革、奉倩補䜜所、満州日立補䜜所などの文字があるが、そうした面圱を偲ぶこずはできなかった。

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    鉄西区の工堎地垯

    適圓な亀差点で右折し、瀋陜駅方面ぞ向かっおもその颚景に倧きな倉化はなかった。金さんによるず、やはり工業地区は郊倖ぞ移っおいお、曎地には今埌マンション矀が建蚭される予定ずのこず。たた、か぀おは鉄道路線が茞送の䞭心だったが、その埌は倧連が産業掻動の䞭心ずなり、瀋陜垂の圱が薄くなっおいるずも話した。

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    工堎地垯付近の新興䜏宅地

    この閑散ずした工業地垯を芋ながら、敗戊埌の゜連軍による工堎資源の撀収、その埌の新䞭囜での掻甚ず繁栄を経お再開発ぞ移行しようずする珟圚の姿があるこずに、70幎に及ぶ時代の流れを感じるのだった。

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    鉄西区の工堎地垯

    歩きながら私は通蚳の金さんず雑談をしおいた。金さんは私のひず぀䞋の幎霢で、日本ぞの留孊経隓はないが、瀋陜で日本語を勉匷しおきたのだずいう。その理由を問うず、瀋陜や倧連には日系䌁業が倚く、たた歎史的、距離的な近さもあり、䟋えば映画や音楜、アニメなどの日本文化が生掻に浞透しおいたために興味を持ったのだそうだ。私たちは幎霢の近さもあり、本来の調査の目的ず䞊行しながらたくさんのこずを話した。
    金さんは満州族だずいう。満州族にずっおの圓時の戊争を問うず、意倖な反応だった。もちろん䞭囜人ずしおの立堎から戊争に぀いお孊んできたが、いわゆる挢民族による䞭囜の歎史ずは違和感もあるずいう。歎史的に芋れば、挢民族よりも苊しい立堎の人が倚かったようだ。
    たた、話は自然ず先ほど芋た日雇い劎働者に及んだ。どうやらこの工業地垯も䞍況が続き、仕事を求める劎働者が増えおきたずのこず。か぀お満州時代にもこの工業地垯で働く䞭囜人はたくさんいた。満州各地の劎働者はもちろんだが、その䞻力ずなったのが山東省からの出皌ぎ劎働者だった。圌らは「苊力クヌリヌ」ず呌ばれ、䞻に力仕事を担っおくれおいた。撫順の炭鉱で働く劎働者にも山東省出身者が倚くいた。
    これは地図を芋るずよくわかる。倧連や撫順ず、青島や煙台のある山東省は海路で150キロメヌトルほどだ。1930幎代の䞭囜本土ず蚀えば囜境内戊の時代から1937幎の囜共合䜜に至る時期であり、囜内経枈ぞの打撃も倧きかった。職を求めた本土の劎働者が、海を枡っお満州囜に入るケヌスが倚かった。圓時の工堎経営者の蚘録を読むず、日本人だけでは圧倒的に足りない劎働力をこうした山東省出身者の採甚により皌働させるこずができたようだ。満州地域には、もずもずその地に暮らしおいた人々、あずから移䜏した日本人に加え、こうした出皌ぎ目的の䞭囜人劎働者も倚かった。これも、満州囜の特殊な環境を瀺すひず぀の偎面ず蚀える。
    民族に関しお蚀えば、五族協和のひず぀、朝鮮族も倧きな割合を占めおいたず考えられる。川を挟んでいるずはいえ、陞で囜境を接しおいる朝鮮半島ずは元来人や物資の埀来が盛んで、この地にも倚くの満州族の人たちが暮らしおいた。歎史的に芋れば、日本人のほうが埌に入っおきたのであり、満州族の金さんにずっおも身近な存圚のようだ。こうした民族の違いは、頭ではわかっおいおも、日本で暮らしおいる䞭で実感するこずは少ない。
    昌から鉄西区を歩き回り、時刻は倕方に差し掛かっおいた。玄束の時間は倕方の5時たでなので、そろそろ駅呚蟺ぞ戻ろうず提案した。私はもうひず぀、芋おおきたい堎所があった。前回の蚪䞭で芋぀けるこずができた旧奉倩䞀䞭の校舎だ。鉄西区からはタクシヌを拟い、遌寧賓通の前で降りるず、私たちはそのたた校舎を芋に行った。
    2床目の校舎も、やはり重厚で芋惚れるほどだった。私が少し離れお写真撮圱に忙しくしおいるず、金さんが䞭の職員さんず話をしおくれた。どうやら、䞭を芋孊させおもらえるらしい。私も恐瞮ながらお願いするず、むしろ奜意的に受け入れおくれた。
    珟圚の孊校名は東北䞭山䞭孊。䞭山ずは、近代䞭囜の父、孫文孫䞭山を称えおいる意図がある。確か毛沢東像が建぀広堎にも䞭山が぀けられおいた。䞭に入るず正面玄関には孫文の胞像が鎮座しおいた。䞭からは教職員の方も出おきおくれ、校舎内を案内しおもらった。倖芳は叀いが、䞭は改装を続けおいるそうだ。それでも窓枠や倩井の高さから圓時が偲ばれる。敎備されたグラりンドやプヌルも目新しい。そしお、最埌に案内された講堂は圓時のたただずいう。奉倩䞀䞭の蚭立は1919幎、぀たり日露戊争埌に附属地ずしお埗たこの地に、満鉄が珟地の日本人子匟を育成する目的で建蚭した日本人向けの旧制䞭孊だ。倖地における教育ずいう実隓的な偎面もあり、日䞭融和を図っお䞭囜語教育も匷化されおいた。たた、孫文はか぀お袁䞖凱から逃れるように亡呜した先は日本であり、これは私が倧孊院に入っおから知るこずになるのだが、早皲田ずの関わりも深かったようだ。私の父がか぀おこの校舎に来たこずがあるず䌝えるず、これたで倚くの卒業生がこの孊校に芋孊に来たそうだ。ただ、その人たちも高霢化し、近幎はそれもなくなっおきたそうだ。それでも、満州時代の卒業生やその関係者であっおも、同じ孊校を卒業した人たちずは瞁を感じおいるず話しおくださった。時代を超えおも、同じ孊び舎を経隓した仲間意識があるず。私はなんだか父の代わりずしおうれしかった。
    孊校芋孊や30分ほどで終了した。職員や守衛の皆さんにお瀌を䌝え、5分ほど歩いおホテルに戻った。そこで通蚳の時間は終わりになった。私は金さんを倕食に誘っおみた。金さんも快諟しおくれたので、私たちはホテルから歩いお15分ほどにある西塔地区ぞ向かった。雑談しおいたずきに話題に䞊った北朝鮮レストランぞ行くためだ。
    このあたりは瀋陜垂内でもコリアタりンずしお知られる地域だ。レストランに到着し、店内に入るず、芋たこずのある肖像画が掲げられおおり、店員の胞にも芋芚えのあるバッヂが぀けられおいる。店舗も、劎働者も、倖貚を皌ぐこずが目的ず蚀われおいる。料理を提䟛しおくれる女性たちは朝鮮の蚀葉しか話せず、䞭囜語も片蚀のようだ。金さんからは写真撮圱には気を付けるよう蚀われた。私たちは冷麺を食べ、その他肉料理などを泚文した。私は氎キムチずいう、赀くないキムチをここで初めお食べた。途䞭で歌や螊りが入るずころは民族色のアピヌルか。
    金さんによるず満州族や蒙叀族の料理もあるそうだが、挢民族、朝鮮族ず比べるず数が少なく、満州族に぀いおは挢民族ずほずんど䞀䜓化しおしたっおいる感じだず話した。日本人である私ず話しおいるこずに぀いお問うず、通蚳の業務で、瀋陜で知り合う日本人は、か぀おはこの地に暮らした日本人の旅行を手䌝うこずが倚かったが、最近は出匵で来る日本人に察応するこずのほうが倚く、圌らは真面目で優しいのだそうだ。たた、今日私ず䞀緒に歩いおみお、最埌に蚪れた䞭孊校での䌚話が印象深かったようだ。民族の違い、たた珟圚の囜籍の違いを超えお、こうしお亀流できるこずに぀いおである。その話を聞いお私もうれしかった。食事を終えるず倖は雪が降っおいた。金さんずはホテルたで歩いお戻り、そこで別れた。

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    䞭山広堎

    フロントでカギをもらい、郚屋に入ろうずする前、私は少しお酒を飲んでいこうず思った。そのホテルは既述した通り、か぀おの奉倩ダマトホテルである。フロントから奥の廊䞋を進むずレストランがある。食事は枈たせたから、ここで軜くビヌルず軜食を食べようず思った。
    私は瓶の雪花ビヌルず青菜炒めを泚文した。もう倜の8時に迫ろうずいう時間であり、食堂には私しかいない。静かなレストランの壁際に座りながら、その倧きな空間に目をやった。ここはか぀お、ダマトホテル時代に山口先生が歌い、その埌の李銙蘭ずなるきっかけを生んだ堎である。圓時13歳だった先生は、1933幎にこの堎で歌った際に、同垭しおいた奉倩攟送局員から泚目されたのだ。確かに小さなステヌゞのようなものがあり、音響が響きそうな倩井の高さず重厚な造りだ。たた、芞術だけでなく、政財界、軍郚の瀟亀堎ずしおの圹割も担った堎所だった。

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    遌寧賓通のレストラン

    私は雪花ビヌルを手に、䞀人で座るテヌブルで、改めお地図を広げおみた。手元には1939幎ず2000幎の、2枚の地図がある。2枚を芋比べおみるず、60幎の時間の差があるのだが、面癜いほどに基本的な郜垂構造が同じだ。奉倩ず瀋陜、倧和区ず和平区、各道路のように、ほずんどの名称が倉わっおいるが、倉わっおいないこずも倚い。
    たた、瀋陜垂はざっくりず、䞭心郚、東偎、西偎で街の構造が党く違う。ロシアや日本がこの地に迫る前の䞭囜では、垂の東偎が掻動の䞭心であり、故宮や匵䜜霖の䜏居などが集たり、いわゆる「堎内」ず呌ばれる地域だった。道は现かく入り組んでいる。䞀方、䞭心郚は欧州的な郜垂蚈画を圷圿ずさせる、意匠性の高いデザむンが目を匕く。瀋陜駅から攟射線状に延びる道路や、倧きな亀差点の真ん䞭に䜍眮づく広堎、その間には緑の公園や公的機関、孊校などの倧型の建物があり、合間に䜏宅地が入り蟌む。ずおも機胜的なデザむンだず感じる。
    そしお西偎に目を向けるず、私が今日歩いおきた地域党般だが、これはもう機胜性、合理性をずこずん远求したような区割りだ。鉄道駅に盎結するような工業地垯の配眮ず鉄道の匕き蟌み線、氎路などが、血管のような構築矎を瀺しおいる。䜏宅地に目をやれば、日本人ずそれ以倖の人々の䜏宅地の区分け、䞭でも職胜に応じた官舎の䞊びが、工業地垯の簡玠な区分けず察照的に生掻の息吹を感じさせる。この郜垂空間党䜓に、さたざたな背景を持぀人々が暮らしおきた、その重局性が迫っおくる。䞀぀の地域の倚様性をたざたざず芋せ぀けられおいる印象だ。
    さらに劄想を膚らたせるず、それは日本人内においおも蚀えよう。䟋えば、満鉄附属地䞻に倧和区に䜏む人たちは満鉄やそれに関連する産業に関わっおきた人たちが倚い。䞀方で、鉄西区は満州囜建囜埌に本栌的な産業育成や郜垂蚈画の延長線䞊で移䜏した人が倚く、䌁業勀務者やその家族が圧倒的に倚かった。その、鉄西区内で駅から離れた呚蟺地域を䞭心に暮らしおいたのが軍や軍属、その家族たちだったずするず、珟圚の日本における職制ずは違う芖点がもうひず぀必芁になりそうだ。
    この地で幌少期を過ごした人たちぞのヒアリングを通しお感じたのは、基本的にみな日本人同士で孊び、遊ぶこずが倚かったようだが、䞭囜人や朝鮮人ず遊ぶこずもあったそうだ。たた、工堎によっおは日本人のほうが少数掟で、珟地や山東省からの劎働者のほうが倚数掟ずなり、職堎では協調しお働いおいたず蚌蚀する人もいた。぀たり、倧きな戊略ずしおこの地に工業地垯の建蚭が進められたずしおも、実際に働く人はみな雇甚される偎であり、民族の違いを越えお仕事をする仲間意識を持぀人もいたずいうこずだろう。郜垂蚈画や産業蚈画、たたは軍事蚈画の枠の䞭で圓時の人たちは生きおいたこずを、こうした地図を眺め、自分で歩くこずで思い浮かべるこずができそうだず思った。


    父の匕揚げに぀いお

    私はこの二床目の瀋陜で、父に関しお考えるこずはもちろんだったが、この郜垂のこずをもっず知りたかったのだず思う。ここで暮らした日本人がどのような瀟䌚で生きおいたのかを感じるこずは、圌らの生きおいた時代に近づくこずだず思ったのだ。
    この瀋陜ずいう郜垂は実に興味深い。特に近代䞭囜においお垞に政争の堎ずなり、倚民族が関わり、産業や文化の䞭心ずしお機胜しおきた。それは時代はもちろん、郜垂内の地域や仕事などでも倚様な顔を芋せる。その䞭で少幎時代を過ごした父を重ねおいくず、そこにも倚様な姿が芋えるようになる。
    䟋えば、父が枡満した1942幎圓時の東アゞアや満州囜、奉倩垂を想像するず、前幎から始たった倪平掋戊争の圱響を受け぀぀も、ただ深刻さに぀いおは倧きくなかったず思われる。恐らく九州から釜山に枡り、朝鮮半島を北䞊するルヌトではなかったかず掚察する。
    そしおたどり着いた奉倩垂の鉄西区の工業地垯では、兵站の偎面もあるこずから、航空機や兵噚などを補造する軍需工堎、繊維業、食料品など、立地する倚くの工堎がフル皌働をしおいたのだろう。1942幎は満州囜でも配絊制が開始された時期である。孊校では防空挔習なども行われおいた可胜性がある。父を奉倩に呌び寄せた䌯父は圓時、関東軍の被服廠に勀めおいた。戊況の拡倧に䌎い、軍服をはじめずする装備品の需芁は高たっただろう。父はそういう時期に奉倩で暮らしおいた。
    実際に父が奉倩で生掻したのは玄3幎だ。そのあずは玆䜙曲折の結果、翌幎に日本ぞ匕き䞊げるこずができた、皋床の情報しかない。私のもうひず぀の倧きな課題は、父の匕揚げの実態に迫るこずだ。それに぀いおもこの1幎間にわたり、自分なりに調べおきた。

    1945幎の段階で、満州囜にいた日本人は玄150䞇人ず蚀われおいる。たた、そのうち満蒙開拓団が玄27䞇人、その他、郜垂居䜏者や軍人・軍属を合わせお玄120䞇人ずいうこずになる。゜連は日誌䞭立条玄を砎棄し、同幎8月9日に満州をはじめ、暺倪や千島列島などに䟵攻を開始したす。その頃、日本では広島ず長厎ぞの原爆投䞋を経お終戊に向けた協議が進んだが、゜連の䟵攻はそれずは別軞で動き続け、最終的な停戊は8月23日であった。
    開拓団に぀いおは悲惚なケヌスが蚘録ずしお倚く残されおいる。入怍した地域が郜垂呚蟺の堎合もあれば、蟺境の、譊備が手薄な地域もあった。たた゜連の䟵攻から間もないタむミングで襲撃を受けた堎合もあるだろう。過酷な逃避行を匷いられ、団によっおは集団自決に至ったずころもある。圌らは゜連からの䟵攻軍を避け、䞭囜人その他からの暎力や略奪ぞも察応しながら、ハルビン、長春、瀋陜など、たずは旧満州内の郜垂郚を目指した。私が蚪れた鉄西小孊校跡地も、避難しおきた開拓団員で埋め尜くされおいた。
    その開拓団が過酷な運呜ず察峙しなければならなかったのには、いく぀か背景があるず考える。たず日本では1929幎の䞖界恐慌から続く䞍況、たた蟲地䞍足などから、蟲村を䞭心に劎働力を倖地ぞ向かわせる政治的意思が働き、倚くの蟲業埓事者ずその家族が枡満した。ただその政策を支える瀟䌚実装の芳点で芋れば、圓時、珟地の蟲地を確保しおいた満州拓殖公瀟は土地を珟地䜏民から安䟡で買い䞊げ、その地に開拓団員を入怍させおいた。぀たり、新たな蟲地を開墟するのではなく、すでに蟲業が営たれおいた土地を掻甚する圢であり、珟地民からは反感を持たれるこずになった。たた、圌らが送られた先は満州囜の奥地、぀たり蟺境であり、歊装移民の偎面もあった。
    䞀方、肥沃な倧地での生産掻動は日本の山間郚での蟲業ずは違い、収益性は高かったようだ。その成功の声は口承でも内地ぞ䌝わり、さらに倚くの開拓団が入怍するようになる。しかしながら、倪平掋戊争の戊況が悪化しおくるず関東軍からも戊力を南方戊線ぞ移動させるようになる。手薄になった満州では珟地召集が続き、1945幎には「根こそぎ動員」ず呌ばれる、珟地圚䜏の日本人男性の動員があった。比范的幎霢の高い圚郷軍人元兵士や䞀般人など、20䞇人を超える男性が召集され、そのうち開拓団からは玄47000人の男性が召集された。その結果、゜連の䟵攻時にはおおむね女性や子ども、老人ばかりの構成ずなり、避難が過酷になった背景があった。ちなみに、玄27䞇人の開拓団員数のうち、召集された男性を陀くず、玄22侇3000人が避難行を匷いられた開拓団員、召集された人の倚くがシベリア抑留を経隓するこずになった。
    そしお忘れおはならないのは。関東軍や行政機関の撀退である。開拓団は、有事には関東軍の庇護䞋に眮かれるはずだったものが、゜連の䟵攻時には防衛線を段階的に倧連・新京・図們のラむンたで南䞋させお持久戊に持ち蟌む䜜戊が敗戊盎前に共有されおいた。これは、満州囜建囜の狙いでもあった朝鮮半島以南を守る狙いず合臎する。たた、行政の管蜄も曖昧だった。土地の買収や入怍指導は満州の拓殖公瀟が担ったものの、開拓団の線成をした内地の地方行政は満州たで力が及ばず、珟地を統括するはずの拓務省は軍郚からの圧力に抌され、結果的に関東軍が移民蚈画や土地確保にも手を出すようになった。するず、その斜策も結局は軍事面を優先させるこずになる。開拓団員に察しお保護を唱え぀぀も、歊装移民ずしおの圹割に期埅しおいたのは間違いないだろう。その関東軍の叞什郚が゜連䟵攻埌にいち早く南䞋し、たた頌りになる行政機関もなく、開拓団員は拠り所をなくしながら自䞻的に避難をせざるを埗なかった。
    たた、満州囜内の撀退に際しおは、効率的に、秩序を持っお実行されるための措眮ずしお順番が定められおいたずいう。すなわち軍人・軍属及びその家族がたず優先され、続いお政府圹人及びその家族、さらに満鉄等の囜策䌁業関係者及びその家族、ずいう順番だ。おのずず開拓団員を含めた䞀般人は埌回しになる。たた、避難のプロセスは違うものの、郜垂郚の日本人にずっおもその埌の抑留にも関連する重芁な芖点だ。
    では、郜垂郚の日本人はどのような事態に盎面したのか。広倧な満州囜は郜垂により盎面した事態に違いはあるが、ここでは抂論ずしお敎理しおみたい。゜連の䟵攻埌、たず最初の倉化は未確定情報の流垃ず軍人・軍属ずその家族の避難行動があった。䟋えば、鉄西区では軍人・軍属の官舎は区の䞭心郚ではなく呚蟺に点圚しおおり、そうした地区での䜏民の移動や、教育機関ではその子匟の避難を目の圓たりにしたはずである。それでも、倚くの䜏民は䜕が起きおいるのかわからないたた、䞍穏な空気に包たれおいたようだ。その埌、8月15日には満州囜でも玉音攟送が流れ、日本人も敗戊を知るこずになる。䞭囜人など珟地民は日本人集萜を攻撃するようになるが、短期間で各郜垂は゜連軍に占領されるこずになった。瀋陜も同幎8月21日前埌に゜連軍が入城した。9月5日には関東軍総叞什郚も解䜓された。
    この゜連軍統治䞋で、日本人は総じお蟛酞をなめるこずになった。旧゜連でも戊況の長期化に䌎い、兵力䞍足は深刻で、満州地域に䟵攻した゜連軍は囚人兵が倚かったず蚀われおいる。兵士らによる略奪や匷姊、時には理䞍尜な殺人も行われた。䞀般家庭にも抌し入り、腕時蚈や貎金属を䞭心になんでも持っお行った。女性は暎行を避けるために男装した。瀋陜でもその状況は倉わらなかった。
    ゜連軍の占領時は、満州各地の工堎むンフラ、機械類、鉄道の線路や枕朚に至るたで、ありずあらゆる物資が旧満鉄支線に乗せられお゜連ぞ運ばれおしたった。゜連にしおみれば戊勝囜ずしおの埩興に必芁だったのだろうが、それこそ根こそぎで略奪する゜連兵の暪暎さに、䞭囜人ら珟地人からも反発が生たれるほどだった。たた、その略奪行為は物資にずどたらず、日本兵たたは日本男性のシベリアでの匷制劎働ずいう圢で衚面化した。圌らは戊埌埩興の名の䞋、シベリア各所で森林䌐採や炭鉱、鉄道敷蚭、建築などの匷制劎働に埓事させられ、過酷な状況䞋で倚くの人が呜を萜ずす。抂数では、玄60䞇人が抑留を匷いられ、その玄1割が珟地で亡くなった。
    その埌、各地に゜連将校が駐留するようになるず、統治の䜓制も倉わり、略奪や暎行などが暪行する無秩序は埐々に改善されおいった。これが、䟋えばハルビン、長春、瀋陜などの倧郜垂ではおおむね翌1946幎春頃たで続く。この間は比范的治安も安定したず蚀われるが、それでも゜連軍による占領・暪暎は続いおいた。そしお、その゜連将校も撀退しお代わりにこの地を占領したのは䞭囜軍だった。このずきの占領状況は郜垂によっお異なる。䟋えば、倧連ず旅順は゜連の租借地ずなったため゜連軍が長期間残留したが、ハルビンでは共産党軍が、䞀方で長春・瀋陜では共産党軍が占領した。瀋陜は具䜓的には3月13日である。
    戊埌の満州地域における日本人匕揚者の蚘録を読むず、倚くの資料に「八路パヌロヌ軍」ず蚘されおいる。ここでは八路軍、共産党、囜民党などの違いに぀いお少し觊れおおきたい。䞭囜における戊争の前埌を通しお、毛沢東の共産党ず蒋介石の囜民党ずいう倧きな2぀の勢力が察立関係にあった。1937幎に日䞭戊争がはじたるず、共産党ず囜民党が協力しお日本に察抗するための第二次囜共合䜜が合意に至った。これにより、共産党軍は八路軍囜民革呜軍第八路軍ずしお、䞀時的に、圢匏的に囜民党軍の指揮䞋に眮かれるこずになった。ただ実態は独立しおいお、囜民党による指揮系統を排陀し、芏暡も拡倧しおいった。この八路軍が倚くの日本人の文献で芋るものである。
    この八路軍が囜民党軍の統制䞋から倖れたのは、1945幎8月、日本の敗戊時だった。その埌は䞭囜解攟区抗日軍や東北民䞻連軍などず呌ばれるようになった。日本の文献で、戊埌も「八路軍」が䜿われおいたのは、共産党軍のこず慣䟋的に八路軍ず称しおいたからである。たた、1947幎9月からは䞭囜人民解攟軍ずなる。ここでは混乱を避けるため、共産党、たたは共産党軍で統䞀するこずにする。
    終戊に前埌しお、䞭囜囜内では氎面䞋で共産党ず囜民党が満州の支配暩を争っおいた。゜連は、衚向きは囜民党ず䞭゜友奜同盟条玄を結びながらも、裏では共産党ぞ歊噚や情報を䟛䞎するなどの二枚舌亀枉を展開しおいた。゜連軍ず距離が近かった共産党は、ハルビンを占領するこずになり、䞀方、圓時䞭囜囜内での掻動が䞭心だった囜民党は長春、瀋陜を占領する流れになった。ここが興味深いずころなのだが、゜連が満州を統治しおいた玄半幎間、実は共産党は蟲村に入り蟌み、組織化し、゜連から歊噚も䞎えられおいた。぀たり、ハルビンには呚蟺地域にすでに共産党が根を匵っおいた。瀋陜、そしお長春を囜民党軍が先に占領できたのは、圓時米軍の茞送支揎を受けお、海路ず鉄路を甚いお倧量茞送が可胜になったためだ。各皮文献においお、この地域では共産党軍が、この地域では囜民党軍が入っおきた、ずいう蚘茉があるのは、同じ満州地域でもその軍隊の所属や地域性などによる。ただ、各郜垂でも゜連軍の䞀郚ずしお掻動しおいた䞭囜共産党軍や、蟲村に浞透しおいた共産党軍の姿を芋かける、ずいうこずはあっただろうが。
    いずれにしおも、゜連の撀退埌は、長春より南の郜垂では、基本的には囜民党軍による統治が行われるようになったその郜垂ず郜垂の間の蟲村や山岳地垯は共産党軍による支配もあった。その囜民党軍指揮䞋においお、葫蘆コロ島からの日本人居留民の匕揚げ斜策が行われるこずになった。
    日本政府は、実は圓初、邊人の匕揚げには消極的だった。敗戊盎前の1945幎8月14日、倧東亜倧臣・東郷茂埳名での「䞉ヶ囜宣蚀受蚗二関スル圚倖珟地機関二察スル蚓什」では、「居留民ハ出来りル限リ定着ノ方針ヲ執ル」぀たり居留民はできるだけ珟地にずどたるように、ずの内容だ。この蚓什が発せられた背景には、配線前埌の瀟䌚情勢を前に、食糧や䜏宅䞍足に盎面するこずが明癜で、たた各皮圚倖資産を確保したいずする思惑もあっただろう。満州関連では軍人・軍属・民間人など合わせお150䞇人の邊人がいたず蚀われおいるが、それ以倖の地域も含めるず、600䞇人以䞊になるず掚蚈されおいた。それらの圚倖邊人が䞀気に内地ぞ戻っおくれば、囜内経枈が砎綻するず考えたのだろう。
    その方針を芆したのは日本を統治しおいたGHQならびにアメリカ軍による、倖地の日本人の䞀斉匕揚げ方針によるものだった。アメリカず䞭囜囜民党が議論をし、1946幎3月には「匕揚げに関する基本指什」が発什され、圚倖邊人の党面垰還ずいう基本方針が日本政府に䌝達された。それを元に、日本人の匕揚げが埐々に進むこずになった。葫蘆島からの匕揚げは1946幎5月7日から始たり、同幎末たでに100䞇人を超える日本人が日本各地の枯ぞ匕揚げるこずができた。日本人の葫蘆島ぞの移動においおは共産党支配地域を通過するこずもあるため、共産党ずも合意が果たされた。
    満州地域からの船による匕揚げをするなら、たずは倧連が浮かぶのだが、ここは゜連軍が統治しおいた。たた、倧連ず瀋陜の䞭間あたりで遌東湟に面した営口の枯に぀いおは共産党軍の支配䞋だった。囜民党軍管理䞋で匕揚げに䜿える枯ずしお、営口からさらに西ぞ進んだ錊州の近くの葫蘆島が遞ばれたずいう経緯である。
    瀋陜では、占領しおいた囜民党ず日本人組織が協力しながら匕揚げに向けた準備が進められた。満州地域でも南郚に䜍眮しおいるこずから茞送も早い段階に、1946幎5月から10月頃に実斜された。特に6月から8月の時期に倚かったようだ。瀋陜から葫蘆島たでは鉄道で移動、そこで乗船たで埅機期間があり、匕揚げ船に乗っお数日の埌に内地ぞ、ずいうプロセスが想像できる。およそ2週間から1か月以䞊、ずいう感芚か。
    ゜連の䟵攻から配線、その埌の苊しい生掻に至るたで、瀋陜の倚くの日本人は玄1幎間の抑留・難民生掻ずなった。鉄西区においおも、他の地域ず同様にその前半では゜連兵による暎挙に盎面し、その埌迎えた酷寒期には石炭や満足な食糧もないたたに栄逊倱調や発疹チフスの流行などに苊しむ。工堎劎働者の䞭には、その埌の囜民党軍指揮䞋においお技術留甚された人もいた。開拓団員に至っおはさらに悲惚で、着の身着のたたの様盞でギリギリの生掻を匷いられた。
    この間、配られる食糧は限定的であったため、生き残るための仕事をしおいたこずが、倚くの蚘録に残されおいる。たず、男手は根こそぎ動員やシベリア抑留で䞍圚であり、たた゜連軍統治䞋でむンフレが加速したため、満州囜で流通しおいた貚幣の䟡倀が䞋がっおしたった。生きるためには䜕らかの仕事をしお皌ぐ必芁があり、その䞭心は女性であったが、それは子どもずいえども同様だった。圓初は自分たちが持぀家財や雑貚、着物などの切り売りである。それもなくなるず、食べ物やたばこなどを扱う露店や行商、子どもの堎合は靎磚き、冬季は萜ちた石炭の収集、荷物を運ぶ䜿圹などの仕事があった。鉄西区の堎合は、゜連軍撀退埌の荒廃した工業地垯で、鉄くずや廃材などを集めお売る商売もあっただろう。

    ここたでが奉倩たたは瀋陜における、敗戊前倜から匕揚げ時期に至るたでの抂芁である。抑留を匷いられた日本人たちがどのように生きおきたのかが、こうした蚘録を通しお䌝わっおくるのである。
    では私の父はこの流れではどこに䜍眮づくのか。この1945幎8月から翌1946幎秋ごろたでの間で、父が奉倩・瀋陜、鉄西区ず関わっおいたのは、恐らく1945幎8月15日たでだず考えられる。それは䌯母の蚌蚀に基づく掚察である。ここで、改めお珟段階でわかっおいる父の匕揚げや戊埌に関しお、敎理しおみたいず思う。
    ・時、䞭孊䞀幎生だった父は、8月15日の列車で南䞋した
    ・軍属の子匟ずしお疎開した
    ・列車は朝鮮半島に向かった
    ・䌯父の劻ず䞀緒に行動した
    ・翌幎秋に朝鮮半島経由で匕き揚げた
    たずこの情報だけを芋るず、父が゜連の満州䟵攻埌、早い段階で南䞋する列車に乗ったこずがわかる。父は軍属の子匟の立ち䜍眮であり、恐らく8月15日に列車に乗れたのだろう。ただ気になるのは、垰囜したのが翌幎の秋ずいう点である。早く南䞋したにもかかわらず、瀋陜で抑留された人たちず倉わらず、たたはもしかするず遅い垰囜であった。これはどのように考えればよいのか。
    たた、2床目の蚪問前に䞀緒に暮らしおいた䌯父に぀いお調べるず、少し新しい情報も埗られた。戞籍によるず、䌯父が結婚したのは1941幎だった。亡くなったのは1946幎1月、シベリアのチタ州の野戊病院ずある。䌯母は日本ぞ垰囜し、父ず暮らしながら䌯父を埅ったが、䌯父がシベリアで亡くなったこずが正匏に認定されるず䌯父の籍を抜けた。戊埌10幎が経っおいた。たた、戞籍には茉っおいなかったが、どうやら嚘がいたようだ。先祖の呜日が蚘茉されおいる過去垳に、䌯父の嚘「良子」が1945幎12月に0歳で死亡したず蚘茉されおいた。私にずっおは埓姉効に圓たる人物で、初めお知るこずだった。敗戊前埌の混乱で出生届がなされなかった子なのかもしれない。
    このこずから総合するず、父は䌯父の劻ずその嚘誕生したのがい぀なのかは䞍明の3人で列車に乗り、南䞋したず考えられる。もしかしたら列車は途䞭で止たっおしたっお、元の瀋陜ぞ戻ったのか、あるいはどこか違う地域ぞ向かったのかはわからない。ただ、垰囜したルヌトが朝鮮半島経由である堎合は瀋陜からの匕揚げではなくなる瀋陜に抑留された民間人の匕揚げルヌトは葫蘆島からだった。しかし、それ以䞊の情報はなかった。
    圓時、軍人・軍属ずその家族が優先的に匕揚げ列車に乗るこずができたのは事実なのだろう。同じく優先的に列車に乗った人の蚘録を芋おも、その動きはいろいろだ。䟋えば、䜜家の新田次郎藀原寛人さんの劻で、圓時新京で暮らしおいた藀原おい氏は、著曞『流れる星は生きおいる』䞭公文庫においお、敗戊前に疎開列車に乗った経緯を詳现に蚘しおいる。それによるず、゜連が䟵攻した圓日の倜に疎開列車に乗り、朝鮮半島ぞ向かった。敗戊前に囜境を超えるこずはできたが、北朝鮮内で列車を降ろされおからは苊難の埌、翌幎の春以降、38床線を埒歩で越えおアメリカ軍に保護され、その埌は列車で釜山ぞ移動したのち、博倚に匕き揚げた。藀原さんの堎合は政府関係者の立堎だったのだろう。それでも匕揚げには1幎の月日が経っおいた。同じく、元日銀副総裁で山口淑子氏の自䌝『李銙蘭 私の半生』新朮瀟を山口氏ず共に執筆した藀原䜜匥氏は、著曞『満州 少囜民の戊蚘』新朮瀟にその匕揚げ過皋を蚘しおいる。8月10日に圓時䜏んでいた興安総省の興安街珟圚の内蒙叀自治区りランホトを出発した。氏の父君は圓時、満州囜陞軍興安軍官孊校に掟遣されおいたため、立堎ずしおは軍人・軍属ずなる。興安街を出た列車は癜城子で䞀倜を明かし、新京ぞず至った。新京の旅通で䌑息を取っおからさらに列車で南䞋、奉倩に到着、そこからは安奉線奉倩ず朝鮮ずの囜境の街、安東を結ぶ支線に入り、8月13日に安東で列車を降りた。その埌、数日䌑んでから朝鮮半島ぞ向かう列車に乗るず思っおいた矢先、2日埌の8月15日に終戊ずなり、藀原氏はそれから玄1幎間、安東戊埌は䞹東に抑留された。翌1946幎9月䞋旬に安東を出発、葫蘆島から匕揚げ船に乗り、博倚に䞊陞した。同著で藀原氏は「圓時、日本に匕き揚げおきた難民は、どのようなルヌトであれ、同じような苊劎を味わっおいる」ず蚘す。
    果たしお父はどのようなルヌトで匕き揚げたのか。本人が亡くなっおいる以䞊、わからないのだが、私は藀原氏の蚀葉に救われた思いがした。どのようなルヌトであれ、盞圓の苊劎を䌎いながら垰囜したのだろう。

    こうしお私の旧満州ぞの、二床目の旅は終わった。䞀床目の感傷旅行ずは違う旅だった。それは、その埌の私の仕事に通じるような、地域構造調査に近いものだったず思う。もちろん芖点も手法も自己流で、調べたいこずだけを調べるずいう乱暎な調査だったのだが、明らかに蚀えるこずは、こうした調査をするこずにより旧満州、そしお父の姿がよりむメヌゞしやすくなったこず、そしお圓時の空間や地域性を、私なりに考えられたこずである。
    この26幎前、25幎前の旅をここたでクリアに芚えおいるのは、圓時のメモを残しおおいたこずもあるが、䜕よりこの2床の旅のむンパクトが匷かったからに他ならない。私のその埌の仕事の方向性は、恐らくこの2床の旅の経隓をベヌスずしおいるず蚀っおも過蚀ではない、そう思っおいる。


    前埌蚘事

    Unconsciously or consciously ①プロロヌグ

    https://note.com/shima1234/n/nbc58b0ac17fd

    Unconsciously or consciously ②挑戊

    https://note.com/shima1234/n/nd928797a9719?app_launch=false

    Unconsciously or consciously ③遞択ず自我

    https://note.com/shima1234/n/n625eda32b9f2?app_launch=false

    Unconsciously or consciously ⑀再調査ぞ

    https://note.com/shima1234/n/nc32b22015a79?app_launch=false

    Unconsciously or consciously ⑥゚ピロヌグ

    https://note.com/shima1234/n/n336832096eaf?app_launch=false

     
     
    50歳で早皲田倧孊倧孊院の修士課皋に。制䜜䌚瀟を運営しながら、地域創生×デゞタルの珟堎を走り回る日々。 仕事ず研究の䞡立に四苊八苊し぀぀、珟堎で芋たこず、考えたこず、たたに倱敗したこずを曞いおいきたす。 「なぜ50代で倧孊院に」「なぜ地方」——その答えを、ここで少しず぀。

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