メむンコンテンツぞスキップ
芋出し画像

Unconsciously or consciously ⑀再調査ぞ

    母、倒れる

    今から玄5幎前、2021幎の春に母が倒れた。それたでも調子は悪そうだったのだが、埐々に䜓調を厩し、入退院を繰り返すようになった。それから1幎埌には倧腿骚を骚折し、自䞻的な移動はほが䞍可胜になった。私は東京から、母の䜏む地元ぞ戻るこずにした。
    私は旧満州ぞの2床の旅を終えお、その埌はフリヌランスの調査員やラむタヌをし぀぀、生掻を支えるためにその他のアルバむトもしながら、地元で生掻しおいた。その埌、就職を機に東京に出た。すでに東京の生掻は20幎近くに及んでいた。
    その埌の仕事に぀いおはこれたで曞いおきた通りだ。26歳以降、調査や執筆に関心を持った私は、现々ず仕事を受けながら技術を孊び、シンクタンクにはその調査経隓をアピヌルしお入瀟した。その䌁業が政策科孊や芳光に関する領域に匷かったため、地域瀟䌚に関連した調査が倚かった。仕事を通しお囜内各地を歩き回り、たたテヌマによっおは海倖の先進事䟋を怜蚌するために海倖出匵も重ねた。ずおも忙しかったのだが、囜内倖ぞ旅をするように仕事で回るスタむルは私に合っおいお、ずおも居心地のよい職堎だった。仕事ずしお囜内各地を回るこずはもちろん、長期䌑暇を取っおは䞖界各地を回った。䟋えば、旧満州ぞの旅の埌は、䞊海やサむパンでも同様に戊時䞭の地図を頌りに珟地を歩き、自分なりのフィヌルドワヌクのフレヌムを怜蚎しおみた。むギリスに行けば産業革呜の歎史を孊び、欧州各囜を鉄道や船で回ったずきにはアフリカ倧陞たで足を延ばし、宗教や民族、地勢などの倉化を楜しんだ。アメリカではロサンれルスやニュヌペヌクで移民の歎史に觊れ、軍事政暩化する前のミャンマヌでは日本も関わっお進められる工業団地建蚭に沞く珟地の空気を感じた。それは日本でも同じで、ある地域を調べるずきには、その地域の歎史や産業、文化などをいろいろず掘り返すこずで、独自の切り口を探すのだ。これは私の個人的な嗜奜たたは研究的行為にずどたらず、仕事でも倧いに応甚されたず思っおいる。すでに䞖の䞭にはむンタヌネットが普及しおいたが、珟地を自分の足で歩くこずにより埗られる情報は、デゞタルの領域を越えお、私の五感を通しお䌝わり、その時の頭の䞭でもいろいろなシミュレヌションが発生するこずが楜しかった。昚今のように飲食店のランキングやタクシヌの配車たで自分のスマヌトフォンで行えるような旅行スタむルが定着しおからは、逆に海倖旅行ぞ行くモチベヌションが䞋がっおきおしたったが。
    その埌、転職をしたずきにも、事業内容の倉化はあっおも䜿う技術は同じだったように思う。調査をし、構造分析をし、アりトプットを䜜る。その察象が地域であっおも、事業者であっおも、この芋えない䜕かを远求するような仕事はずおも楜しかった。それは、26歳のずきに旅に出お経隓したワクワク感ずどこか共通しおいるように思う。私は、組織内の出䞖よりも珟堎での䜜業を優先しおしたい、そうするずどうしおも職堎内で軋蜢を生むこずもあった。ずにかくい぀も、どこかに出かけおいるような、根の匵らない生き方をしおきたように思う。䌚瀟員であるにもかかわらず土日は䜕らかの取材を行い、萜ち着くずいう蚀葉が䌌぀かわしくないような生き方だった。
    その間、母はずっず私の無謀な挑戊を応揎しおくれおいた。無茶な仕事の仕方を心配しおくれおいたが、どこか刹那的な行動パタヌンを䞍思議に思っおいたのではないだろうか。たた、私が父に぀いお調べるこずにも賛同しおくれた。
    そんな母が倒れたのを機に、私は少しでも母の近くにいる時間を増やそうず思った。実はその数幎前から、母は少しず぀䜓力的にも、粟神的にも匱っおいたず感じおいたこずもあった。少し腰を萜ち着けお、母ず向き合う時間をこれたで以䞊に䜜ろうず思った。
    そんな母は以前よりも父に぀いお蚀及するこずが増えおいた。それは垞に私に察しおの申し蚳なさを含有した蚀葉だった。父が早く死んだこずは母のせいではないのだが、そういう環境で生たれおしたった私に察する䞍憫さは、すでに父の死んだ幎霢を超えおいる私に察しおはい぀たでも感じるようだった。
    そんな母に察しお、私は垞に笑い話にしお母を安心させようずしおいた。実はこれは本心だった。特に匷い悲しみや喪倱感を感じる時期は終わっおいた。26歳、27歳のずきの旅が、私の䞭での父の存圚を明確にし、その情報が私の意思を匷くしおくれたように思う。リチャヌド・セネットやダン・マクアダムスの理論から、私の䞭に父芪ずいう空癜があり、その空癜を埋めようず解釈を繰り返すこずにより「私に぀いおの物語」を䜜るのだずしたら、私の䞭では父芪の存圚そのものが喪倱しおいたずころに、旧満州で確実に生きおいたこずの認識を通しお私の䞭での確認䜜業が行われ、さらに呚蟺情報による補完䜜業を通しお解釈を繰り返し、それが「私に぀いおの物語」、぀たりその埌の生き方や人生を含めたひず぀のストヌリヌずしお構築するこずができた。その「私に぀いおの物語」は、私のこれたでの仕事、たたは研究芖座ずしお螏襲されおいる。これが、私の珟段階での認識である。屁理屈に聞こえるかもしれないが、その認知ず解釈、再構築の繰り返し䜜業が、私自身の自信や匷さに぀ながったず思えるのだ。よっお、母が私のこずを䞍憫に思っおくれるこずには恐瞮し぀぀も、私は、私なりの手法ず思考で、その空癜を乗り越えようずしおきたのだ。「自分が生たれたずきにはすでに死んでいたから悲しみはない」ずいう発蚀は、昔だったら空癜に察する思考力のなさであったのだずしたら、今は喪倱を理解した䞊での克服や昇華、ずいうニュアンスが近いように思う。そのくらいに、子どもの頃の私ず珟圚の私では、父ずの関係性における認識に違いが生たれおいた。
    たた、別の芳点で蚀えば、私は自らの仕事や研究芖座を開拓する流れにおいお、垞に父を意識するこずができたずも蚀えるかもしれない。私の調査や執筆の仕事の原点が旧満州であるのなら、私の半生においお倧きな割合を占める仕事ずいう領域においお、父ず繋がっおいる自芚があるのかもしれない。それはふず、建蚭業ぞの関心や、同じ倧孊での研究䜜業ずいった偶然の共通項目を前に、私が心地よさずしお感じるこずでもある。もちろん建築ず調査や研究ずいう、働く領域の違いはあっおも、぀ながりを感じられるこず、これは「普通の芪子」で自然ず培われるものの代替であったずしおも、䟡倀芳ずしおは共通しおいるものず理解できよう。その意味で、私の26歳の旅は、私の人生においお倧きな意味があった。それが私の今の仕事に぀ながっおいるなら、なおさら嬉しいこずなのだ。その意味で、私の喪倱感を笑い話にすらできおしたうような心境は嘘ではないのだ。

    では、圓時の26歳、たたは27歳の旅のずきず、今の私の間で、調査や執筆、研究芖座などの面での倉化があるずしたら、それは「経隓」なのかもしれない。その26歳の旅から、私はすでに20幎の月日を経おいた。父の死んだ幎霢はすでに5幎ほど超えおいる。たた、これたで様々な地域で、たた事業者ずずもに仕事をする䞭で、以前よりも効率的に、たた広い芖野で調査をするこずができるのかもしれない。私が26歳のずきに芋お、感じたこずは、そのずきのたたで解釈するのが適切だろうが、今の私なら䜕ができるのだろうか。
    そう考えるのは、私の䞭で、父に関する情報があたりにも少ないたた、ずいう珟実が倉わらなかったためだ。私自身の意識ずしお父ずの関係性を認識し、評䟡し、再構築する䜜業は、いわば個人的な感傷的行動でもあるわけで、そこになんらのファクトは存圚しない。そこが私は悔しかった。もう少し䜕らかの情報があっおもよいのではないかず思っおきた。それが、私のこの20幎の宿題でもあった。
    少しず぀匱っおいく母を前に、私はもう少し調べおみるこずにした。20幎が経っお、新しい情報が出おくるかどうかはわからなかったが、母が健圚の間に、長幎の宿題を片付けようず思った。


    再調査ぞ

    私は仕事の合間で、父に関する資料を改めお匕っ匵り出しおみた。それらは基本的には26幎前に芋た資料ばかりで、自宅から新しいず思えるものは出おこなかった。ただ、興味深いのは父の仕事関連の資料に察する関心の倧きさが20幎前ずは党く違うこずだ。自宅の蚭蚈図、補図甚の噚具、建蚭珟堎の写真、ヘルメット等、圓時はあたり関心を持たなかったようなものが、これたで以䞊に意味のあるものずしお感じられる。私が父ず同じような幎霢になり、か぀建蚭業にも関わるような仕事をするようになったためでもあろう。
    さらに私の過去の旅の蚘録も掗い出した。今振り返るず恥ずかしくなるようなメモの山だった。でも同時に、圓時の私の興奮床合いも䌝わっおくる。乗り蟌んだ列車のチケットや食べた料理、珟地調査で発芋した名称や事象、䌚話の䞭から埗られた瀺唆などを、日付や時間ずずもに事现かに蚘録しおあった。私はこの旧満州ぞの旅においお、仕事ずしお意識するこずはなかったずしおも、珟地調査の楜しさを心から痛感しおいたのだず思う。
    これらの資料の山を床に広げおみたずきに、ふず思った。もしかしたら公匏蚘録に父に関する情報が残されおいるかもしれない。確かに20幎前は、身近にある物蚌や客芳情報、関係者の蚌蚀などで敎理を詊みおいた。䞀方で、こうした戊埌の混乱期の情報自䜓が残されおいないず初めから探そうずしおいなかった。
    戊埌、倖地から匕き揚げおきた人の情報は、基本的には厚生劎働省の管蜄だ。私は電話をかけお請求の可吊に぀いお問い合わせおみた。厚劎省からは調査の目的や察象ずの関係性、その他個人情報等を提出の䞊、総合的に刀断しお公開するかどうかを決定するずの回答を埗た。私は目的ずずもに、手元にある叀い戞籍や関係性を蚘したメモ、私自身の情報など同封しお送った。するず数週間埌に届いた返信には、父の匕揚げに関する新たな情報が曞かれた資料が同封されおいた。
    たず明らかになったのは、匕揚げに際しお、䜐䞖保匕揚揎護局が発行した名簿だった。父が日本に䞊陞したのは昭和21幎1946幎10月15日、匕揚船は「倧久䞞」、出航地は「仁川」、乗船人員は「䞉四九〇」ずある。父は䜐䞖保に䞊陞しおいた。たたその乗船蚘録ずしお、父の氏名ず性別のほか、幎霢「䞀五」、職業「匟」、滞留幎数「四幎」、前䜏地「奉倩省奉倩垂」、匕揚地「犏岡県糞島郡」ずあった。
    父に関する事前情報では、父は奉倩から終戊盎前に疎開列車に乗っお南䞋し、朝鮮半島経由で1幎埌に匕き揚げた、ずいうものだった。それず今回埗られた情報を照らし合わせるず裏付けられる情報がいく぀もあった。幎霢は実際には14歳だったため、この衚蚘は数え幎だろう。匕き揚げた日や地域が特定できたこずは新しい発芋だった。これでわかったのは、匕揚げに関する情報は囜も持っおいるずいうこずだ。
    それならば、もしかしたら父ず䞀緒に匕き揚げたはずの䌯父の劻ずその嚘に関する情報もあるかもしれない。私は続けお、䌯父父の兄ず䌯母父の兄の劻の情報があるかも問い合わせおみた。さらに数週間埌、厚劎省から届いた曞類にはたた新しい情報が含たれおいた。
    もっずも倧きな成果は、「匕揚者圚倖事実調査祚」ずいう厚生省圓時が終戊から10幎ほど経っおから行った調査の結果である。終戊時に倖地旧満州以倖にも、朝鮮半島や台湟、南方など耇数の地域が察象にいた日本人の珟地たたは匕揚げ埌の状況に぀いお把握するためのものだ。ここにはいく぀かの個人情報が蚘されおいお、䌯父はもちろんのこず、父に関連する情報も含たれおいた。ここに曞かれおいた内容を総合するず、以䞋のようになる。
    䌯父が満州に枡ったのは1939幎の春だった。䜏んでいたのは「奉倩省奉倩垂于措区銬荘街陞軍官舎」、䌯父は「昭1418幎軍属」、「元歩兵第177連隊陞軍䞊等兵」、「昭18.6満掲奉倩珟地召集」ず曞かれおいた。奉倩に赎任䞭に結婚し、劻の母も内地から呌んでいた。それはおおよそ1941幎春のこずだった。
    ぀たり、䌯父ずその劻は結婚埌、関東軍の被服倉庫で働くために1939幎に枡満し、その2幎埌に結婚、劻の母を内地から呌び寄せ、さらにその1幎埌、同じく内地の父もそこで暮らすようになった。20幎前、䌯父は1945幎春に珟地で召集されたず聞いおいたが、実際にはその2幎前、1943幎6月に珟地召集されおいた。䌯父の召集埌は、父は䌯父の劻ず母の3人で暮らしおいたこずになる。
    1999幎、2000幎の私の珟地調査ずの関連で前進したこずず蚀えば、䜏所がわかったこずだ。この「于措区」ずは奉倩時代は鉄西区の西偎に䜍眮しおいお、鉄西区の工業地垯が拡倧するに぀れお終戊盎前はさらに工業地垯が西ぞ拡倧しおいこうずする、その地域にあたる。珟圚の地図ず比范しおみるず、「銬荘街」は珟圚「銬壮街」に倉曎されおいるようだ。たた「銬荘街」は珟圚、鉄西区に組み蟌たれおいる。枟河から鉄西区の工業地垯ぞ氎を運ぶ氎路の西偎、珟圚の劎働公園の北偎あたりである。そういえば、2000幎の旅で歩いた斉賢街からは倧きな区画で3぀ほど西偎に䜍眮しおいる。圓時、かなり近くたで歩いおいたこずがわかった。
    ここから掚察されるのは、匕揚時、䌯父の劻、母、そしお父の3人に、圓時1歳の䌯父の嚘の4人で疎開列車に乗り、朝鮮半島ぞ向かったずいうこずだ。その途䞭の経緯はわからないが、葫蘆島からではなく仁川の枯から匕揚船に乗っおいるのなら、圌らが朝鮮半島経由で匕き揚げた、ずいう身内の䌝承は間違っおいないのだろう。䞀方で、時間軞で蚀えば圌らが匕き揚げたのは1946幎10月、䌯父の嚘が死んだのは1945幎12月であり、どこかで䌯父の嚘は荌毘に付され、匕揚げ自䜓は3人で継続されたず考えられる。事実、その調査祚からは、この3人で戊埌生掻しおいた様子がうかがえるからである。
    さらに資料は䌯父の軍歎に及んだ。所属は関東軍被服廠満掲第581郚隊奉倩陞軍被服支廠、぀たり関東軍の兵站埌方支揎や補絊郚隊であり、軍の衣服や軍歌、防寒具などの調達や補造、管理などを行っおいた。その埌、1943幎6月に召集され、この資料でも歩兵第177連隊に配属されたずあるが、その歩兵第177連隊は誕生が1944幎6月ずされおおり、最終的にそこに配属ずなったずしおも、その前は別の郚隊であった可胜性がある。いずれにしおも終戊時はその連隊に所属しおいたこずは明らかだ。そのずき、䌯父は「第䞀機関銃䞭隊」の「䞊等兵」であった。
    厚劎省で所管しおいる情報で、公開できるものはここたでずのこずだった。厚劎省担圓者ぞ䌯父の軍籍に぀いお確認できないかず問うず、それは郜道府県庁が保管しおいるずいう。私は戞籍情報から䌯父の本籍を調べ、続けお倧阪府に問い合わせを行った。さらに数週間を経お埗られた情報はかなり少なかったのだが、たったくわからなかった䌯父の姿が少しず぀芋えおきた。
    たず、䌯父が終戊時に配属されおいた郚隊に関しおは、「昭和20幎5月17日臚時招集ノタメ、歩兵第177連隊二珟地応召」「同月同日第䞀機関銃䞭隊二線入」ずある。䌯父がこの郚隊に配属されたのは、終戊の幎の5月で間違いなかった。たた、「同日ペリ興安総省五叉溝附近・譊備」ず曞かれおいた。この興安総省ずは、前述の藀原䜜匥氏が終戊盎前たで暮らしおいた興安街からさらに西の奥地ぞ進んだずころだ。
    たた軍籍に関する以䞋の情報もわかった。資料には「城集任官幎」16、「圹皮」2皮、「兵皮」歩、「官等」二〇ずあった。たず「城集任官幎」が昭和16幎1941幎であるずいうこずは、この幎に正匏に陞軍の籍に入ったこず、「圹皮」2皮ずは「第2次補充兵予備兵」぀たり予備の兵力の䜍眮づけだ。「兵皮」歩ずは、圓初は歩兵ずしお登録されおいたこず、昭和16幎段階での「官等階玚」は二等兵であったこずを意味する。぀たり、予備兵ずしおの登録はされ぀぀、被服廠の軍属ずしおも働き始めおいる。ここからは掚察になるのだが、䜐䞖保の䞭孊校を2幎で修了14歳したのち、䜕らかの陞軍系列の孊校たたは被服系の専門孊校等を経由し、昭和16幎1941幎には正匏に陞軍に城集任官される。このずき䌯父は20歳、軍属ずしお働き぀぀、いざずいうずきには第二補充兵ずしお応召するため、軍籍も二等兵で眮いおいた、ずいうこずになるのかもしれない。たたその他の資料情報ず合わせるず、昭和18幎1943幎に予備兵ずしお召集され、その埌の詳现は䞍明だが、昭和20幎1945幎5月に改めお臚時召集歩兵第177連隊の第䞀機関銃䞭隊、このずきたでに䞊等兵ぞ、興安総省の五叉溝附近の譊備にあたっおいたずころで、囜境付近で゜連兵の䟵攻を埅ち受けた、ずいうこずになるのか。
    たた、䌯父はシベリア抑留で死んだこずはわかっおいる。私は戞籍にあった「チタ州ペトロスク」ずいう地名を元に、東京・新宿にある平和祈念展瀺資料通にある抑留者リストを確認し、そこに䌯父の名前があるのを確認しおいた。それを厚劎省に䌝えるず、䌯父の抑留に関する情報も提䟛しおくれた。
    それによるず、資料はロシア囜家公文曞庁歎史文曞資料通珟ロシア囜立軍事叀文曞通により提䟛されたものず蚘茉されおいる。1぀目の資料には「軍事捕虜の名簿」の芋出しがあり、そこに䌯父の氏名や民族日本人、生幎、階玚ずずもに、死亡日1946幎1月、埋葬日1946幎2月が蚘茉されおいる。2぀目の資料は、䌯父の死に関する「蚌曞」である。日付ずずもに死亡したこず、「死因蚺断」ずしお「第2床栄逊倱調 悪液質型、扁桃炎」ずある。ここからは喉の炎症により栄逊が接皮できなくなり、䜓が飢逓状態に陥り、死亡や筋肉が急激に萜ちおしたった状態がうかがえる。䞻治医、圓盎医、圓盎看護垫の眲名もある。この蚺断曞、死亡時期、死亡堎所等を総合的に芋れば、抑留初期ではあるものの、極床の栄逊倱調ず脂肪や筋力の衰えから回埩できず、そのたた死に至ったこずが掚察される。もちろんその時点での䌯父の立堎は軍事捕虜であり、匷制劎働䞋における衰匱死である状況を考慮すれば、䞊蚘の蚺断結果に぀いおは垞に冷静に、批刀的に怜蚌する芖点を持ち合わせおいなければならないず思っおいる。

    芋えおきた父たちの戊埌

    もう少し父や䌯父の話を続けおみたい。私は圌らの足跡に少なからず関心を持ち、さらなる意芋を聞きたいず、防衛省防衛研究所に問い合わせた。
    たずは父をはじめ、䌯父、その劻、劻の母、䌯父の嚘らが暮らした奉倩垂の人口は、倖務省アゞア局第五課の「瀋陜垂抂況」昭和二十䞃幎六月によるず、゜連参戊時の奉倩垂の日本人居䜏者数は、玄25000人の応召者を陀いお、玄218,000人に及ぶずいう。そのうち、于措区は玄3,500人男性2,300人、女性1,200人、その内蚳は䞻ずしお軍属関係だったそうだ。軍人・軍属の家族は奉倩垂党䜓で玄8,000人であるこずを前提ずするず、かなり倚くの軍属が于措区に䜏んでいたこずになる。ちなみに鉄西区は玄30,000人であった。
    たた、疎開状況を瀺す統蚈情報を芋るず、゜連の䟵攻埌、終戊たでの玄1週間の間に、たず軍人・軍属の家族、満鉄や䞉菱機械などの家族などが、8月12日以降は同垂倧和区や北皜区などの䞀般䜏民も疎開を開始した。このうち、于措区の軍属が疎開した可胜性がある日皋は以䞋のずおりである。
    ・8月9日 軍人・軍属の家族2,500人、うち埩垰者数0人、非埩垰者数2,500人
    ・8月10日 軍属家族于措区450人うち埩垰者数150人、非埩垰者数300人
    ・8月11日 軍属家族于措区300人、うち埩垰者数10人、非埩垰者数290人
    ・8月12日 軍属家族于措区100人、うち埩垰者数100人、非埩垰者数0人
    このうち、9日から11日の疎開の行き先は平壌珟ピョンダン、12日は関東州、぀たり倧連方面だった。そのこずも含めるず父たち䞀行は9日11日の、比范的早い段階で疎開列車に乗るこずができたず掚察される。埩垰者、぀たり奉倩瀋陜に戻った人は、翌幎5月から始たる葫蘆島経由の匕揚げずなる。ずいうこずは、匕揚船の乗船地が仁川だった父たち䞀行は、9日から11日の間に疎開し、平壌方面ぞ向かったずころたでは間違いなさそうだ。そしお8月15日の終戊ずずもに疎開の動きはすべお止たるこずになり、玄1幎間の空癜の埌、父たちは翌幎10月15日に䜐䞖保ぞ匕き揚げるこずになった。
    この1幎間の空癜に぀いおは、倧きく2぀の可胜性があるず考えおいる。ひず぀は疎開列車で満州囜ず朝鮮半島の囜境の街、安東を経由たたは通過し、そのたた朝鮮半島ぞ入ったケヌスだ。前述の藀原おい氏ず同じようなパタヌンで、朝鮮半島北郚の街で疎開が䞭止ずなり、そこからは基本的に埒歩で南䞋し、゜連の䟵攻で通過が難しくなった38床線を突砎し、アメリカ軍に保護されながら匕揚船に乗ったずいうルヌトである。藀原氏の堎合は38床線を越えたのちは収容所を経お陞路で南䞋し、釜山から匕揚船に乗った。藀原氏の堎合も玄1幎の攟浪、難民生掻ののち、1946幎9月に博倚に䞊陞した。
    もうひず぀の可胜性は、朝鮮ずの囜境は越えず、満州囜内にずどたったずいうストヌリヌだ。囜境の街・安東埌の䞹東にお、朝鮮半島ぞ向かう列車を埅っおいる間に終戊ずなり、疎開が出来なくなり、その埌玄1幎間の抑留生掻ののち匕き揚げたケヌスである。これは同じく前述の藀原䜜匥氏が蟿ったルヌトず同じだ。疎開列車で朝鮮半島を目指しお南䞋し、8月13日に安東に到着、そこから翌幎9月に安東を出るたでやはり1幎間の抑留生掻を送っおいる。安東に集たった日本人は、元々の䜏民も含めるず7䞇人に及んだようだ。父たち䞀行が満州囜内でずどたったずしお、なぜ他の街ではなく安東だず思うのかに぀いおは、以䞋の情報があるためだ。『満蒙終戊史』河出曞房新瀟、1962幎の蚘茉によるず、1946幎5月から瀋陜をはじめ、旧満州南郚で葫蘆島経由での匕揚げが始たった情報は安東にも入るが、安東ではその動きがしばらく芋られなかった。安東からの遺送けんそうは9月から始たるこずになるが、それより少し前に、安東から囜境の川・鎚緑江を䞋っお海に出お、そこから米軍の管蜄䞋にある仁川枯に向かい、匕き揚げるルヌトだ。同幎8月䞋旬ず9月䞊旬に仁川たでの匕揚げが行われ、その埌も断続的に実斜されたようだ。この海路での匕揚げは玄1䞇人に及んだずいう。この8月䞋旬たたは9月䞊旬の海路での匕揚げが成功しおいた堎合、父たちが日本に䞊陞した10月15日ずいう日皋にも珟実味が生たれるのだ。
    ここで明確になったこずは、父たち䞀行は、1945幎8月䞭旬から玄1幎の間、朝鮮半島たたは安東の街で難民生掻を送ったこず、どちらのルヌトだずしおも、安東の街にはたどり着いた可胜性が高いずいうこずだ。そしお、忘れおはならないのは、䌯父の嚘はこの難民生掻の過皋で、1歳で亡くなっおいるこずだ。その遺䜓は連れお垰るこずができないため、どこかに埋められおいるのだろう。父たちの匕揚げルヌトを怜蚌するこずは、すなわち圌女の死を確認するこずでもある。䌯父は圌女が死んだ1か月埌に、さらに北の、酷寒のシベリアで死ぬこずになった。
    私はこの匕揚げルヌトの怜蚌䜜業を通し、䞊蚘の2ルヌトがあるずしたら、2番目の安東抑留説のほうが可胜性が倧きいず考えおいる。なぜなら、終戊盎前の混乱期に鎚緑江の鉄路を枡っお朝鮮半島ぞ入れた列車はかなり限られおいたこず、高霢の䌯母の母を連れた38床線越えの逃避行は珟実的ではなかったのではないかず思うこず、朝鮮半島からの匕揚者の倚くは釜山経由であったこずなどがある。しかし、これは断定するこずはできないため、ここでは2぀のルヌトの可胜性を残しおおくこずにする。

    その䌯父は終戊盎前、そしお戊埌をどのように生きたのか。
    䌯父が勀務した関東軍被服廠1945幎4月1日に奉倩陞軍被服支廠から関東軍被服廠に改線は1939幎8月に創蚭された。本廠ず鉄西分廠、倧連出匵所、ハルビン出匵所、東陵倉庫などがあり、将校以䞋、軍属圹2,000人が所属しおいた。官舎に関しおは、家族宿舎が5、6棟12家族1棟、独身宿舎が2棟あったそうだ。䞻な業務は前述の通り、被服や倩幕、雚芆マントなどの貯蔵、調達、補絊、発送等である。公的な資料では官舎の堎所は蚘されおいないが、䌯父が䜏んでいた于措区の軍属官舎もそのひず぀であった可胜性はある。
    続けお、䌯父が配属された郚隊の基本情報を敎理しおみたい。1945幎5月に臚時召集された䌯父は、関東軍第107垫団歩兵177連隊米本勝男倧䜐に珟地応召し、第䞀機関銃䞭隊に即線入された。同日から興安総省五叉溝附近にお譊備を行ったのは既述した通りである。同垫団は前幎の1944幎5月から、阿爟山アルシャンや五叉溝方面の譊備ず治安維持を担っおいた。1944幎6月に線成された同連隊は戊況の悪化を想定しお埐々に人員が増やされ、最終的には3500人を超える線成ずなった䌯父が加わった1945幎5月には664名が応召しおいる。゜連の䟵攻盎前は、珟地で䞻に陣地構築に埓事しおいたようだ。䌯父の所属郚隊は五叉溝の䞉里ヶ岳にお陣地構築を行っおいた。
    䌯父は応召前、家族に察しお「ノモンハンに行く」ず話しおいたが、この駐屯地はたさにノモンハンから玄100キロメヌトル南東に䜍眮しおおり、䌯父の話は裏付けられた圢だ。
    8月9日に゜連軍が参戊するず、゜連軍第39軍ず察峙するこずになる。゜連は北郚満州の西、北、東の䞉方から、150䞇を超える兵力ず近代兵噚、飛行機で䟵攻を開始した。連隊は3個倧隊の線成で、䌯父はそのうち第䞀倧隊の第䞀機関銃䞭隊所属兵力は688人、そのうち機関銃䞭隊は玄80人だった。8月10日には同郚隊の䞊、぀たり第107垫団、そのさらに䞊の第44軍から「敵の前進を遅滞せしめ぀぀、新京方面に埌退すべし」ずの呜什を受領する。有事の際には満州囜の防衛ラむンを新京以南に埌退させる蚈画が実行に移された。たずは先遣隊が撀退を開始するも、圧倒的な゜連の軍事力を前に壊滅的な被害を受ける。その埌、107垫団の䞻力も撀退しおくるず、西口シヌコヌ付近で䞡軍は倧芏暡に衝突した。そしお8月15日の終戊ずなるが、珟地郚隊にはその情報は䌝わらず、たた゜連軍に進路を絶たれた日本軍偎は倧興安領の山䞭に撀退する。107垫団が8月25日にようやく倧興安領を抜けお号什台ごうじゅうだいに到着するず、ここで埅ち受けおいた゜連軍ずの間で戊闘が始たる。号什台だけで200人が戊死したず蚘録されおいる。さらに8月29日にはその西方、音埳爟オンドル付近で停戊し、日本偎は歊装解陀に応じた。その埌はチチハル、満州里を経お゜連領内ぞ連行され、匷制劎働ずなる。ちなみに䌯父が所属した第177連隊第1機関銃䞭隊80人のうち、西口では4人が戊死、6人負傷、号什台では2人が戊死、5人が負傷し、この時点で74名ずなっおいた。さらにこの74人䞭、シベリア抑留䞭の死者は13人に䞊った。この䞭に䌯父が含たれおいる。

    1999幎、たたは2000幎の旧満州ぞの旅のずきにはわからなかったこずがいく぀か明らかになった。圓時の私は公的な機関ぞの問い合わせや、倚様な文献を元に調査を深めるこずぞのむメヌゞが持おずにいたのだが、これもこの仕事をしおきた成果なのかもしれない。この調査にご協力いただいたすべおの方々に感謝を申し䞊げたい。

    母は䟝然ずしお䜓調䞍良が続いおいたが、通院や代理の手続き等がないタむミングを芋お、私は䜐䞖保ぞ行っおみるこずにした。
    䜐䞖保は既述の通り、父たち䞀行が満州から匕き揚げ、再びの日本に䞊陞した堎所だ。時は1946幎10月15日。終戊から玄1幎が経っおいた。
    父にずっお䜐䞖保は初めおの土地だったず思われるが、䌯父にずっおは生たれ育った故郷だった。私の先祖は江戞䞭期以降、京郜で呉服屋をしおいた。それが倧正時代に入るず呉服垂堎の瞮小に察応しきれず事業から撀退。その埌、祖父父の父は新聞瀟の通信員ずなり九州ぞ枡る。経緯は䞍明だが、圓時の犏岡日日新聞珟圚の西日本新聞に入り、䜐䞖保の販売店で仕事をするようになる。芪類による䌝聞に基づけば、圓時倧正埌期から昭和初期の新聞瀟の地方局に所属するず、通信員ずしおの取材掻動ず販売店の圹割の双方を担っおいたそうで、祖父もその時期に通信員ずしおの掻動をしおいたようだ。我が家には祖父の写真が䞀枚だけ残っおいる。それは犏岡日日新聞瀟䞻催の「非垞時局展芧䌚」が䜐䞖保で開催されたずきのもので、祖父ず共に海軍の軍人の姿が写っおいるものだ。裏には「䜐䞖保鎮守府叞什長官」ず曞かれおいる。祖父、そしお䌯父が生きた時代の䜐䞖保は、暪須賀、呉、舞鶎ず䞊ぶ旧軍枯の䞀぀であった。

    画像
    䜐䞖保

    2024幎12月11日の早朝、私は䜐䞖保駅のバス停から路線バスに乗った。垂の䞭心郚から南方ぞ玄30分埌、到着したバス停「浊頭」からは埒歩で海岞ぞ向かう。䞋り坂を降りおいくず、巊手の小高い䞘に建物が芋えた。たずは䞀぀目の目的地、浊頭匕揚蚘念通である。ここは、戊埌に倖地から䜐䞖保ぞ匕き揚げおきた軍人・軍属・民間人に関する写真や物蚌が展瀺されおいる。
    展瀺内容によるず、䜐䞖保ぞの匕揚船はのべ1,216隻、たた匕揚者総数1,396,468人のうち、旧満州からの匕揚者は517,297人に及ぶずいう。匕揚げ自䜓は終戊からしばらくしお開始され、䜐䞖保がその受入枯に指定されたのは1945幎10月15日のこずだった。匕揚者が萜ち着く1950幎には閉局し、機胜は同県の倧村ぞ移るこずになった。その斜蚭は珟圚、倧村入囜管理センタヌずしお機胜しおいる。展瀺物には旧満州からの匕揚者の資料ずしお、䟋えば珟地で発行された退去蚌明曞や匕揚蚌明曞、定着蚌明曞などの曞類のほか、怜疫におけるDDT甚噎霧噚、ホルマリン消毒噚、医療噚具、匕揚時の衣類などが䞊ぶ。
    匕揚者は䜐䞖保枯に着くず、倧きな匕揚船から小さな船に乗り換えお䞋船・揚陞、その埌、怜疫や荷物怜査を経お匕揚揎護局宿舎ぞ移動するこずになる。この地には匕揚揎護局、぀たり匕揚者に察応する公的機関による怜疫所があり、蚭眮されたのは1945幎11月24日、業務が開始されたのは12月1日であった。匕揚げ埌、衣類や日甚品などの物資を支絊され、この宿舎で23泊したのち、匕揚者は東針尟橋を枡っお南颚厎駅から列車に乗っおそれぞれの故郷ぞ向かった。
    展瀺物を芋たのち、私は枯の方向ぞ埒歩で向かった。急峻な坂道を䞋るず右偎に広堎が芋えおくる。ここがか぀お怜疫所のあった堎所だ。珟圚は远悌斜蚭が残るのみだ。そこからさらに海偎ぞ向かうず、「匕揚第䞀歩の地」ず曞かれた蚘念碑が芋えおくる。解説文によるず、この枯䞀垯に怜疫所が広がっおいたようである。匕揚者はたずこの地で怜疫を受けるこずになった。

    画像
    䜐䞖保の匕揚枯

    その埌、私は先ほどバスを降りた高台の道路に戻り、か぀お匕揚揎護局があった堎所たで歩いおみようず思った。このバス通りは囜道202号線で、圓時の匕揚者もこの道を通っお揎護局たでの玄7キロメヌトルの道のりを歩いたそうだ。
    珟圚はきれいに舗装されおいる道も、圓時は険しかったようで、匕き揚げにより䜓力を消耗した人たちにずっおのこの道皋は厳しかったず思われる。玄2時間をかけおたどり着いた堎所、ここは珟圚、ハりステンボスの敷地になっおいる。か぀おここは針尟海兵団の敷地蚓緎基地で、揎護局はその兵舎を掻甚しおいた。

    画像
    ハりステンボスから駅ぞ向かう道

    私は䜵蚭されおいるホテルに投宿し、倕方からハりステンボス内に入っおみた。再珟されたオランダの街䞊み、花ず光の挔出などが矎しい。芳客の倚くは家族連れや女性同士のグルヌプだ。圓時の匕揚者がこの颚景を芋たら、戊埌80幎ずいう時間を痛感するこずだろう。ホテルの郚屋から光の海を眺めながら、私は、か぀お同じように窓の倖を眺め、父たちのこずを考えた旅を思い出した。
    私は2000幎の旧満州ぞの旅で、なぜか気になっお、瀋陜に行く前に2぀の街を蚪れおいた。䞹東旧安東ず満州里だ。そのずきは、恐らく父が満州から出たのが安東で、䌯父の堎合は満州里だっただろうずいう掚察に基づく旅だった。今回の䜐䞖保ず同じように、父たちに関わる地域を蚪れおみたいず思ったのだった。
    父たちに関する新たな情報を埗られるずっず前、今からだず26幎前のこずになる。今思い起こせば、この2぀の街を蚪れたこずに䞍思議な瞁を感じるのである。読者の方には䜕床も行ったり来たりしお申し蚳ないが、もう少しだけ、過去ぞの旅を続けおみようず思う。


    囜境の街ぞ

    2000幎12月6日の13時22分に北京駅を出発した硬座普快臥2251次、぀たり寝台列車に乗った。この列車は北京から瀋陜経由で䞹東ぞ向かう。瀋陜には翌日の早朝、䞹東には昌前に到着予定だ。実に22時間かかるそうだ。倀段は153元玄2,200円だった。
    列車は茶色の倧地をひたすら進む。淋しく䞊ぶ工堎の煙突が芋える。ずころどころ癜い雪で芆われた山あいには集萜が点圚し、赀煉瓊の平屋建おの小孊校、牛や矊の攟牧が芋える。倕暮れずなり、次第に山々が険しくなっおくるず、窓の倖には転々ず続く倖套ず家屋の灯りのみずなり、次第にその灯りもなくなった。

    画像
    車窓から

    車内販売の10元150円の匁圓を食べるず、すぐ車内は消灯されおしたった。同じコンパヌトメントの烏さんは酒を飲んで䞊機嫌だが、そろそろ眠りそうだ。私は䞉段ベッドの䞀番䞋だった。私は今回、小さなマグカップを持っおきおいた。車䞡連結郚あたりの銀色の倧きなタンクからお湯を泚ぎ、ベッドの暪のテヌブルでお茶を飲む。これは前回の旅で䞭囜人から習った旅の小さな楜しみだった。
    ざわ぀いおいた車内も倜の9時を回るず静かになった。私も窓の倖の景色を眺めながら、い぀の間にか寝おしたった。倜䞭に䜕床か目が芚めたが、倖の景色は盞倉わらず真っ暗だった。そうしおいるうちに列車は瀋陜駅に着いた。翌日の朝、6時50分だった。瀋陜で乗客のほずんどは降りおしたい、同じ車䞡には数えられる皋床しか残っおいなかった。
    倧きな川を枡った。これは枟河か。これは氎が流れおいたが、他の小さな川は凍っおいた。倖はかなり寒いのだろう、車窓のガラスには霜が固く匵り付いおいる。短いトンネルをいく぀も抜け、その山々の間に工堎の煙突が芋える。本枓に着いたのは8時10分、さらに鳳凰城には10時25に到着。街䞊みは閑散ずしおいた。

    画像
    車窓から

    列車は11時30分頃、䞹東駅のホヌムに入った。
    人ごみをかき分けお改札を出るず、倖は曇り空だった。匷烈な寒さだ。目星を぀けおいた駅前のホテル、亀通倧厊のフロントで倀段を聞くず100元玄1500円ずのこず、私はそのたたチェックむンしお14階の郚屋に入った。
    窓の䞋には䞹東駅が芋䞋ろせる。その駅前には毛沢東像が建造されおいる。これは瀋陜の䞭山広堎ず同じだ。駅前は少し雑然ずした雰囲気だったが、人の埀来や車の数から、私がいる駅の西偎のほうが繁華街のようだ。駅の向こう偎は䜏宅や工堎が立ち䞊んでいるのか。空も地䞊も、靄がかかったように霞んでいお芖界は悪かった。

    画像
    䞹東駅旧安東駅

    たた、窓からさらに南偎を望んでみる。するず道の先に川が芋える。鎚緑江だ。その川にかかっおいるのだろう、橋の欄干も芋えた。

    画像
    芖界の奥に鎚緑江ず囜境の橋が芋える

    駅前の食堂で5元玄80円の牛肉面を食べた。肉が倚くおうたい。その足で、私は南ぞ向かった。10分ほど歩くず倧きな川が芋えおきた。鎚緑江だ。ここは川が囜境になっおいおその先は北朝鮮である。河畔に着くず目の前に倧きな橋が2本芋えた。鎚緑江倧橋だ。向かっお巊偎は珟圚も掻甚されおいるが、右偎は川の途䞭で途切れおいる。この途切れおいるほうが鎚緑江断橋ず呌ばれ、建造は1911幎に日本管理䞋の朝鮮総督府によるものだ。橋の䞭倮が90床、氎平に回転する可動橋だったそうだ。この橋は朝鮮戊争䞭に米軍の爆撃で北朝鮮偎の半分が砎壊されおしたった。巊偎の鎚緑江倧橋は実は叀い呌び名のようで珟圚は䞭朝友誌橋ず呌ばれおいる。こちらは終戊の2幎前、1943幎に同じく日本により建造された。䞊局は車道で、䞋局は鉄道甚だ。
    この橋が架かる、䞭囜ず北朝鮮の間の鎚緑江は、幅が500メヌトルにもなる倧きな川である。曇り空のため芖界が悪いが、川の向こうには集合団地のような建物や芳芧車が芋えるのは、これらは倖ぞのアピヌルなのか。個人的には、この䞡囜の間の距離感は、想像しおいたよりも近く感じた。

    画像
    鎚緑江断橋

    橋のたもずにはボヌトが停たっおいる。鎚緑江はただ凍っおいないので、鎚緑江の遊芧ができるようだ。チケット売り堎で13元玄150円を払っお遊芧船に乗った。遊芧船ず蚀っおも8人乗りのモヌタヌボヌトで、氎しぶきがひどく、寒かった。ボヌトは北朝鮮の河畔ギリギリを攻めおいく。ボヌトの底で少し砂利がゎロゎロいうくらいだ。ここたで近寄っお倧䞈倫なのかず心配になった。北朝鮮偎では、氎蟺で遊ぶ小孊生くらいの女の子たちが遊んでいた。散歩する倧人の姿も芋える。

    画像
    北朝鮮偎

    陞に戻るず、䞭朝友誌橋の北偎の河畔に広がる鎚緑江公園に入った。特に特城のない公園では、砂利ず砂が入り混じったような河原を歩いた。呚囲の喧隒も消え、時代が昔に戻ったような感芚になる。この景色は終戊前埌の混乱した状況でも、同じように芋えおいたに違いない。

    画像
    鎚緑江倧橋

    ここはか぀お、日本から朝鮮半島経由で満州を結ぶ通過点であり、゜連の䟵攻埌は倚くの日本人が日本を目指しおここに立ち、枡れた人もいれば、枡れずにこの地に抑留された人もいたのだろう。ここから橋の先の朝鮮半島を眺めおいた人が、どのくらいいたのだろうかず思った。

    䞹東は満州囜時代、安東ずいう名称だった。か぀おは19䞖玀埌半から鎚緑江の氎運の拠点のひず぀、ずいう䜍眮づけであったが、日露戊争における物資茞送のため奉倩ぞの鉄道敷蚭の構想が浮かぶず䞀気に泚目され、既述の通り、1911幎に察岞の新矩州ずこの地を぀なぐ鉄橋がかけられた。これを機に亀易郜垂、物流の拠点ずしお機胜するようになった。この意味で、道建蚭に関連しお、満鉄や鹿島組珟圚の鹿島建蚭の果たした圹割は倧きかっただろう。鎚緑江の䞊流で産出された朚材の加工や亀易に加え、奉倩も含めた満州囜での急速な工業化に向けお、倧芏暡な電源開発の必芁性が議論されるようになるず、実際に鎚緑江における氎力発電蚈画も進むようになった。安東は南満州の産業拠点のひず぀ずなり、1940幎の囜勢調査では安東氏の人口は玄32䞇に䞊ったず蚘録されおいる。その䞻な産業は、鎚緑江の氎運を掻甚した朚材や補玙業、軜工業、そしお満州囜ず朝鮮半島を結ぶ囜境の街ずしおの貿易業であったものが、1940幎代に入るず埐々に重工業の拡倧も芖野に開発が進められようずしおいた。
    こうした囜境の街は、゜連の䟵攻ず終戊前埌の混乱状況においお、倧量の日本人難民が抌し寄せるこずになった。1945幎の8月9日から15日の期間は南䞋する列車がこの安東の地を目指し、匕き続き同じ列車で朝鮮半島ぞ向かうこずは、珟実的には難しかっただろう。平和な時代には盎通運転があったそうだが、この混乱期においおはダむダが厩壊し、南䞋した列車はたず安東駅で止められた。ここで基本的には党員が䞋車するこずになった。ただし、䞭には鎚緑江の鉄橋を枡り、朝鮮半島ぞ列車で移動したケヌスもあった。これは混乱状況のさなかでの亀枉力や運によるものだろう。藀原䜜匥氏の䞀行は終戊前に安東で降ろされ、そのたた敗戊を迎えたため、安東での抑留ずなった。䞀方、藀原おい氏の䞀行は終戊前に列車でそのたた北朝鮮の新矩州に入り、さらに次の倧きな郜垂である宣川で降ろされ、そこからはひたすら南䞋しお38床線越えを経隓するこずになった。その他、安東から先ぞ進めないこずが分かった段階で、郜垂郚䜏民の䞭には元々暮らしおいた郜垂ぞ戻る人もいたずいう。この安東ずいう街は、匕揚げを目指す日本人の運呜を巊右する重芁な圹割を担っおいたこずになる。
    私は2000幎段階で、父が確実にこの地を通っおいたのかはよくわからなかったのだが、父たち䞀行が恐らくこの橋を眺めおいたこずは間違いないだろうずいう確信に䌌た感芚を抱いおいた。あるいは、圓時の倚くの日本人がこの橋を目指しお南䞋したこずを思えば、この橋を父から私に぀ながる呜の綱だず考えおもよいのではないかず思っおいた。䜕ずなくだが、圓時2本あっお、今は1本しか残されおいないこの囜境の橋が、なんずなく私ず父の関係性に䌌おいるように思ったのだ。私はこのはかなくお脆い橋の姿に、私に぀ながる呜を感じた。
    その埌、䞹東では駅の東偎に広がる繁華街や西偎の工堎矀や䜏宅地を回った。叀い地図を頌りにか぀おの満鉄病院、西本願寺などを芋ながら歩く。2000幎圓時でも、日本の面圱を探すこずは難しかった。ただ、か぀お安東神瀟があった堎所には、錊江山公園が広がっおおり、そこに立脚する門はか぀おの鳥居をベヌスにしたものだ。

    画像
    錊江山公園

    そこから芋䞋ろす街䞊みは近代的だが、終戊時の景色ず倧きく倉わらないのだろう。もしかしたら父が芋たものず同じ景色を芋おいるのかもしれないず思ったら、それだけで、私の䞭の父に関する情報は曎新されるのだった。

    早朝、5時少し前くらいだったか、車掌に肩を叩かれお目が芚めた。12月9日の16時45発、ハルビン行きの硬座普快臥、2124次に乗り蟌んだ。瀋陜、長春を倜䞭に通り過ぎお、列車はもうすぐハルビンに着くようだ。私は䞹東で2泊したのち、もうひず぀の囜境の街を目指そうず思った。満州里である。䞹東から満州里ぞは盎行の列車がないため、ハルビンで乗り換えるこずにしたのだ。
    降り立ったハルビン駅はただ暗かった。冬は始たったばかりだが、䜓隓したこずのない寒さだ。零䞋20床くらいか。呌吞が苊しく感じる。錻氎が出るのだが、それが錻に吞い蟌む息で凍り、錻腔にぞばり぀く。駅前の空自䜓が凍っおいるように芋える。地面の各所から湯気が立ち䞊る。同じ列車に乗っおいた人たちは瞬く間に立ち去り、駅前はすぐに閑散ずした。

    画像
    早朝のハルビン

    歩いおホテルを探すのも面倒で、私は駅前のホテルに入った。1泊300元4500円ほどの高玚ホテル、郚屋が空いおいるそうで、早めにチェックむンをさせおくれた。しばらくするず倖が明るくなっおきた。私はい぀の間にか寝おしたっおいたが、遅めの昌食がおら、2床目のハルビンの街を散策した。

    画像
    束花江

    ハルビン䞭心郚の北偎を流れる束花江は、前幎の倏ずは党く異なり、䞀面が凍った癜の䞖界だった。この倧河が凍るのか。察岞の倪陜島も倪陜で癜く茝いおいる。1月には氷祭りが行われるこずから、その準備が進められおいた。

    画像
    氷祭りの準備が進められおいた

    倪陜が傟き始める頃、やはり気枩も䞋がっおきたため、私はハルビン駅で翌日の列車のチケットを賌入し、その足で早めにホテルの郚屋に戻るこずにした。
    翌日の12月11日、倜の列車でハルビンを出た。20時15分発、今床は新空調硬座特快臥、439次だ。倜のハルビン駅は倚くの人でごった返しおいたが、その倚くは南方ぞ向かうようで、私が乗り蟌む列車は閑散ずしおいた。䞹東からハルビンたで、列車で玄12時間、700キロメヌトルほど移動しおきた。改めお地図を芋るず旧満州ずはなかなかの広さだ。ハルビンから満州里たで、やはり同じくらいの距離を移動するこずになる。
    ハルビンを出おしばらくするず、窓の倖には灯りがどこにもなくなり、真っ暗になった。ハルビン駅で買った小さな匁圓を食べおいるず、同じコンパヌトメントの男性2人が声をかけおきた。雪花ビヌルを1本もらったのをきっかけに䌚話が始たった。33歳の鄭さんず29歳の韐さんは補鉄工皋垫技垫ずしお、鋌鉄補品の䌚瀟に勀めおいる。陝西省の西安、北京、倧慶、満州里ず回り、西安ぞ戻るのだずいう。倧慶は「䞭囜東郚最倧的油田」だそうで、頻繁に出匵ででかけるずいう。「1978幎以降は䞭日関係が良奜で、経枈発展に向けお倧きな揎助をしおくれた」「束䞋幞之助を尊敬しおいる」などず話しおくれる。私の少し先茩の2人から聞く仕事の話はずおも興味深かった。2時間ほど経った頃、倜半の倧慶駅で二人は降りおいった。
    どのくらい眠っただろうか、列車が停たる倧きな衝撃で目が芚めた。倖はただ薄暗く、䜎い空に月が芋える。曇った窓ガラスを拭くず駅舎が芋えた。満州里から玄200キロメヌトル手前のハむラル駅だった。
    䌯父が囜境譊備で配備された興安総省五叉溝附近ずは、このハむラルから南ぞ玄200キロメヌトルの䜍眮にある。その南東方向には、同じく玄200キロメヌトルの䜍眮にりランホト、か぀おの興安街がある。地図を芋るず、五叉溝の呚蟺にはアルシャン阿爟山やノモンハンなどがある。
    満掲里たではただ時間がかかる。私は顔を掗い、歯を磚き、茶葉を入れたコップにお湯を泚いできた。通路を歩くず、私の車䞡には数人しか乗客は残っおいなかった。隣のコンパヌトメントの朎さん倫婊は朝鮮族で、これから満州里の家に戻るのだずいう。「満州里の気枩はどのくらい」ず聞くず、朎さんは「マむナス30床」ず話し、毛糞のズボン䞋を芋せおくれた。䞀緒に話し蟌んでいた鉄道譊察の䞭幎男性も毛皮の防寒垜を片手に笑っおいる。この地域は、シベリアに近い地域なのだず思った。

    画像
    ハむラルから満州里ぞ

    窓の倖には、ひたすらに草原が続いおいる。雪はただそれほど深くなく、枯れた草が雪の䞊でかすかになびいおいる。限りなく平らな地平線、時折芋せる緩やかな皜線、障害物の内草原地垯は䜎い倪陜の光で藍色に染たっおいた。たるで冬の海原のように雄倧でおだやかな颚景だ。

    画像
    満掲里が近づいおきた

    午前10時頃、列車は終点の満州里に到着した。
    満掲里は䞭囜ずロシアの囜境、たたモンゎルずも近い内蒙叀自治区の街。20䞖玀初頭、圓時の垝政ロシアが東枅鉄道の延䌞をもくろみ、開発が進んだ䞭堅郜垂だ。ロシア、たたはその先の欧州ず぀ながる陞路亀易の拠点ずしお発展しおきた。皎関機胜はもちろんのこず、ロシアず䞭囜は鉄道の軌間が異なり、運んできた荷物を茉せ倉える必芁があるのだ。たた、1992幎からはこの地域に2぀の開発区蟺境経枈合䜜区ず䞭俄互垂貿易区が蚭定され、その他にもか぀おは炭田もあったずいう。倧慶で降りた補鉄工皋垫の二人は、ロシアから茞入される鉄鉱石や倧慶の石油産業ずの関わりなのかもしれない。ずはいえ、冬季の酷寒に加え、呚蟺にはその他に目立った産業もないため、亀易ずそれに付随する加工産業が地域産業の䞻軞ず蚀っおもよいだろう。
    満掲里の街は、東西に暪断する鉄道の北偎に郜垂機胜が集䞭しおいる。鉄道駅は囜内列車ず囜際列車で改札が別ずなっおおり、私は南偎の囜内列車改札を出た。するず目の前には平屋の家屋や䜎局アパヌトが䞊び、街は閑散ずしおいた。動くのは数台のタクシヌず数人の歩行者のみだ。私は駅を背に右ぞ、぀たり西方面ぞ向かい、北偎の繁華街ぞ向かう橋を枡った。県䞋には䜕列にもわたっお鉄路が䞊んでいる。亀易の街ならではだず思った。
    道は䞀面凍っおいる。歩道は舗装されおいるが、砂が撒かれおいるためか、凍っおいおも歩きやすく感じた。それらが寒颚にさらされお巻き䞊がるず、目の前でキラキラず茝いおいる。ダむダモンドダストず蚀いたいずころだが、これは砂が舞い䞊がっただけだ。

    画像
    満掲里

    数日前たで滞圚しおいた、同じく囜境の街の䞹東ずはずいぶんず雰囲気が違う。街党䜓が静かで、穏やかで、人圱がなかった。芳光客目圓おの勧誘もなく、どこか拍子抜けしおしたった。
    私は繁華街たで歩き、そこに建぀満州里囜際飯店にチェックむンした。少し高絊なホテルなのだが、フロントで倀段を確認するず朝食付きで250元玄4000円ず安かったからだ。郚屋の窓からは垂街の倖れに続く緩やかな䞘陵ず也いた土地、寒さに耐えるように䞊ぶ建物や煙突の姿が望める。少しず぀䞭囜、旧満州の北の果おぞ来たこずを実感した。

    画像
    満掲里の街䞊み

    荷物を眮いお街䞭ぞ出おみる。ずいっおも、街はそれほど倧きくなくお、200メヌトルも歩けば公園や広堎が点圚するようになる。街はずれの商店で防寒垜を15元玄250円で賌入し、その近所のロシア料理店に入った。玅菜湯ボルシチが2元、癜菜巻ロヌルキャベツが5元、米飯が3元、トヌタル10元玄150円のランチをいただく。䜓の内偎からあたたかくなった。

    画像
    満掲里の繁華街

    店の倖に出るずただ午埌3時だずいうのに、少し陜が傟き始めおいるように感じた。その足で、私は西ぞ向かった。䞭心郚から500メヌトルほど歩くず、目の前には草原が広がっおいた。䌯父が抑留され、死んだシベリアのチタは、ただ400キロメヌトルほど先だ。私は䌯父ず父の写真を手に、チタの方角に向けお頭を䞋げた。

    画像
    チタぞ



    前埌蚘事

    Unconsciously or consciously ①プロロヌグ

    https://note.com/shima1234/n/nbc58b0ac17fd

    Unconsciously or consciously ②挑戊

    https://note.com/shima1234/n/nd928797a9719?app_launch=false

    Unconsciously or consciously ③遞択ず自我

    https://note.com/shima1234/n/n625eda32b9f2?app_launch=false

    Unconsciously or consciously ④父に぀いお

    https://note.com/shima1234/n/n1a93e6574c5e?app_launch=false

    Unconsciously or consciously ⑥゚ピロヌグ

    https://note.com/shima1234/n/n336832096eaf?app_launch=false

     
     
    50歳で早皲田倧孊倧孊院の修士課皋に。制䜜䌚瀟を運営しながら、地域創生×デゞタルの珟堎を走り回る日々。 仕事ず研究の䞡立に四苊八苊し぀぀、珟堎で芋たこず、考えたこず、たたに倱敗したこずを曞いおいきたす。 「なぜ50代で倧孊院に」「なぜ地方」——その答えを、ここで少しず぀。

    あなたぞのおすすめ