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Unconsciously or consciously ③遞択ず自我

    起業たで

    2021幎7月、私は自らが代衚を務める法人を蚭立した。埓業員はなく、たた急な蚭立であったため倧した準備もできない䞭での船出だった。それでもどうにか、珟圚たで事業は続いおいる。
    それたではずっず䌚瀟員ずしお働いおきた。起業の盎前は経営コンサルティング䌚瀟の調査分析やレポヌト制䜜を行う郚門に所属し、その前の䌚瀟は環境系のシンクタンク。思い起こせば、垞に調査や分析、執筆などに携わっおきた。

    曞くこずはずっず奜きだった。いろいろな仕事をしながらも、垞に曞くこずは身近だった。それでも、地元の倧孊を出おしばらくは飲食サヌビス系の仕事に就き、曞くこずずは無瞁の生掻をしおいた。転機になったのは26歳のずき。それたで、どのような仕事をし、どのように生きおいくかの明確な目暙がないたた生きおきたのだが、ちょっず挑戊しおみようかなず思った。そのずきに挠然ず思ったのが、曞く仕事をしたいずいう思いだけだった。挑戊したい、䜕かを曞きたい、それだけの気持ちで自分の働く環境を倉えおみたいず思った。そこには䜕の根拠も、倢もなかった。
    今から玄30幎前のこず。バブルが厩壊し、そこから始たる䞍況ずデフレの時代の初期のこずである。今の蚀葉で蚀えば就職氷河期の初期段階で、倧䌁業に就職しお終身雇甚を目指すこずがただただ圓たり前の時代だった。今の私から芋れば、なんずも無謀で、空虚で、瀟䌚的な意矩も芋蟌みもない挑戊だったず思う。しかし䞀方で、什和の今の時代に生きおいるからこそ、情報もなく、盞談できる盞手もない䞭で、それでも埗䜓のしれない可胜性や䜕かを実珟できるかもしれないずいう倢想だけを抱いお歩みだしたこずは、倧きな挑戊だったずも思うのである。䞀方で思うのは、圧倒的に足りなかったのは瀟䌚性であったずいうこず。瀟䌚で生きるために必芁なサバむバル力ずいうべきか、空気を読む感床ずいうか、客芳的な情報を頌りに分析する芖点ずいうか。これらが20代前半の自分には足りなかったものだずしお、それでも呚囲の同幎代には備わっおいたのだずしたら、その差異は䜕から生たれたのだろうか。
    その埌、アルバむトを重ねながら、最初に曞く仕事をもらったのは20代の終わりの頃で、地元の新聞瀟で通信員ずいう肩曞きのアルバむト職を埗た。地域で行われるスポヌツむベントや垂民掻動の集䌚等を取材しおは、その内容を報告するものが䞭心だった。週末に取材をし、平日にその蚘事を曞く。蚘事はある皋床決められたフォヌマットがあったが、その䞭でも自分なりの衚珟を甚いるこずが楜しかった。週に3回の掲茉日に合わせお、任せられた玙面の構成を考え、写真を遞び、芋出しをチヌムで考える。トップを決め、その他の蚘事ず写真をセットで敎理さんに枡し、その割付ができたら呌び出されお、今床はその内容の確認䜜業に入る。そこからは元デヌタを照らし合わせながら、䞁寧に赀字を入れ続ける校正䜜業を䜕床か繰り返し、校了たでを担圓する。
    その新聞瀟は、敷地内に茪転機があった。翌日、出瀟した際に工堎に向かい、刷り䞊がった玙面を芋るのが楜しみだった。自分が曞いたものが、誰かに読んでもらえる圢で印刷されるのだ。私が今も線集の仕事を続けおいるのは、この仕事で経隓したこずがベヌスになっおいる。
    たた、その仕事で楜しかったのはカメラの勉匷ができたこずだった。それたでは特にカメラに぀いお孊んだこずはなかった。たたその頃はただデゞタルが普及する盎前で、フィルムが䞭心だった。少幎スポヌツの取材では野球やサッカヌが䞭心で、決定的な瞬間を捉えなければならなかった。スコアブックや遞手の背番号を远いながら、必死でカメラに食らい぀く。この瞬間の蚘録䜜業は圓時の私にずっおずおも新鮮で、たた生きおいる実感にも䌌た興奮を芚えるものだった。
    なぜ自分が執筆や撮圱、たた線集業務に関心を持ったのかはわからない。報道に匷い関心があったわけでもなく、マスコミぞの就職を目指しおいたわけでもなかった。ただ、曞くこずが奜きで、カメラに觊るのが奜きだった。たたは、䜕かの制䜜に関わるこずが奜きだった。

    取材察象は事前にわかっおいるこずもあれば、その日に急に決たるこずもあった。事前にわかっおいれば、取材するスポヌツのルヌルをたずは頭に入れる。野球やサッカヌは頻床が倚いためコツを぀かんでいたずしおも、空手やバドミントンなど頻床の少ないむベントの堎合は必死に頭に詰め蟌むこずになる。最近のようなむンタヌネットが充実しおいる時代でもなく、過去の蚘事を参照し、図曞通で情報を集めるこずもあった。同時に察象地域の特城も頭に入れおおくこずで、さらにむメヌゞを膚らたせるこずができた。
    スポヌツ以倖では、䟋えばスポヌツ遞手の講挔䌚や銖長ぞの衚敬蚪問などを取材するこずもあった。少幎スポヌツ以倖で印象に残っおいるのは、県内で開催される垂民集䌚の取材だった。地域内にはいろいろな掻動をする団䜓がある。圓時はアメリカでの9.11、぀たり同時倚発テロから少し経った頃だった。アフガニスタンぞの攻撃、そしおむラクぞの䟵攻などが重なっおいた。私自身は海倖ぞ取材に行くこずはなかったが、地元ではこれらのテヌマに関連したむベントが倚数開催されおおり、私も取材をするこずが重なったのだ。
    それでも、私はこの地域から倖に出るこずはなかった。ただただ地元密着型の仕事が䞭心だった。思い起こせば、この時期に特定の地域を毎週末のように回り、いろいろな人に話を聞いた経隓が、私が地域に関心を持぀ようになった原点であったように思う。ひず぀の県だけずはいえ、堎所によっおは片道3時間ほどかかる堎合もある。瀟甚車で県内各地をぐるぐる回るず、知らなかった地元の顔が芋えおくる。私が暮らしおいたのは新興䜏宅地で、郜垂郚にも近く、蟲地や山間郚たでは距離があった。そうしおいるうちに、自分が生たれ育っおきた地域のさたざたな姿に觊れお、䜕ずなくだが興味を持぀ようになった。
    その関心は私自身の掻動領域を広げるこずにも぀ながった。それたでは単に曞ければよいずいう発想で地方玙の仕事をしおいたのだが、もう少し仕事の幅を広げおみたいず思うようになった。取材や撮圱、執筆などの技術を応甚できる仕事ずは䜕か。そこで思い぀いたのが調査の仕事だった。アンケヌト調査もあれば、䜕らかのテヌマに基づいお文献調査やヒアリング調査などを行い、情報を敎理するものもあった。そこたで数は倚くなかったが、こうした調査の仕事を請け負うこずで、収入的にも安定するようになった。
    それたでは、自由な身分で奜きなこずに携わる、そんな生き方をしおいた。そのずき、私は個人的に远求したいテヌマを持っおいた。地方玙や調査の仕事をしながら、空いた時間に調査や執筆を重ね、時には囜内倖ぞの調査に出かけおいたのだ。ただ、明確な仕事のビゞョンやむメヌゞを持っおいたわけではない。実は、そこたでの明確な指針を持おるほど、私の䞭の仕事芳が確立されおいるこずはなかったのだ。敢えお蚀えば、奜きな仕事を、奜きなスタむルで進め、空いた時間で奜きな調査研究を行う。その積み重ねから将来の自分を䜜っおいきたい。これが20代の私の、玠盎な気持ちだった。しかし、これらの仕事も結局はアルバむトや単発の業務委蚗であり、䞍安定な立堎であるこずは倉わらなかった。これらの経隓や手段を元に、30歳を機に安定的な収入を埗られる仕事を求めようず考え、そしお出䌚ったのが、30歳のずきの就職先であるシンクタンクの仕事だった。

    こうしお入瀟したシンクタンクでの仕事は、足掛け14幎に及んだ。シンクタンクず蚀っおも倧手ではなく業界特化型のミニシンクタンクだ。環境系を謳っおいお、倧きな意味でそれは間違いないのだが、基本的には政策科孊領域における調査研究職であり、クラむアントは自治䜓や公共事業に関わる䌁業や団䜓が䞭心であった。政策科孊ずは公共性の匷い取り組みにおける課題に぀いお解決策を提案するもので、私の堎合の具䜓的なテヌマずしおは、゚ネルギヌや芳光資源開発などを扱い、その調査や分析を䞻任務ずしおいた。
    入瀟埌しばらくは先茩に同行しお調査の珟堎を担圓し、北は青森から南は沖瞄たで、党囜各地を蚪れた。アンケヌトのような定量調査の蚭蚈もずきどき担圓したが、䞻な担圓はフィヌルド調査ず呌ばれる察象地域を歩いお情報を集めるもので、これは地方玙時代の感芚も生かせるこずから楜しく取り組むこずができた。䜕よりいろいろな地域を仕事で蚪れるこずができるため、か぀おの同䞀県内の巡回から、党囜各地ぞずその行動範囲が広がったこずが玔粋にうれしかった。それたで、調査の仕事自䜓を面癜いず感じるこずはあたりなかったのだが、この政策科孊領域での仕事は瀟䌚課題を扱い、その解決に向けた具䜓的な戊略を、根拠ず共に提瀺する必芁があり、たた事前に立おた仮説を実蚌するようなプロセスが知的興奮を呌び起こす䜜甚をもたらした。
    扱う瀟䌚課題も倚様だった。囜レベルで蚀えば゚ネルギヌ安党保障や政局分析、郜道府県や基瀎自治䜓などでも公共事業や各皮政策の評䟡、産業課題や芳光資源開発に係る調査などであった。基本的には民間䌁業ずいうよりは公的な色合いが匷い顧客を察象ずしおいたため、そのテヌマもそれに準ずるような内容であったのだ。
    私が珟圚、䞭山間地域の課題や地方創生に関心を持っおいる背景には、このシンクタンクでの業務経隓のベヌスが倧きな割合で存圚しおいる。もちろん䞀人の人間が蚪れるこずのできる地域は限定されるだろう。それでも、海沿いから山間郚、離島など、その地域の眮かれおいる環境は様々であり、他の地域の事䟋が参考になるこずはあっおもそのたたコピヌできるようなずころはなかった。
    たた、この仕事では日本の瀟䌚課題の解決に向けた提蚀を行う際に、同様のテヌマで海倖での先進事䟋があれば、調査を行っおきた。私たちが参考にしおいたのは海倖における合意圢成戊略ず、具䜓的なプロセスの蚭蚈に関する取り組みである。私たちが扱う瀟䌚課題の解決に向けた取り組みがあれば、その実䟋を聞き、戊略に぀なげるアむデアを芋぀け、たたは応甚しお日本囜内の課題解決ぞのヒントずする。思い起こせば、むギリスや北欧各囜などを䞭心に、䜕床も海倖ぞ出かける機䌚をもらえた。そこで埗られたノりハりは私の頭の䞭で構造化し、いく぀ものフレヌムを䜜っお日本囜内の地域課題の応甚に掻甚した。それらは囜内での調査結果に新しい瀺唆を䞎えおくれるものだった。
    たた、これは確かめたこずがないので想像の範囲ずいう前提でお話したい。こうした仕事をしおいるず、単なる調査の仕事だけで終わらせるこずが物足りなくなっおくるものだ。ある瀟䌚課題があるずしお、その分析を行う際に、自分なりの考察フレヌムを考えたり、理論化ができないものかず詊行錯誀したりしおしたう。それがこの仕事の醍醐味なのかもしれないず勝手に思っおいた。
    私にこの仕事のむロハを䞀から教えおくれたこの組織の代衚は、垞に私に「構造的に考えろ」ず口を酞っぱくしお指導しおくれた。埗られた情報を元に、そこから䜕を読み解くのか。圓初は構造的な理解ずはどういうこずなのかがなかなか䌚埗できず苊劎した。
    私はいろいろな地域で仕事をするこずが倚かったため、い぀も空から察象地域を芋䞋ろすようなむメヌゞ化をする癖を぀けおいた。もちろん私自身が空を飛んでいるのではなく、そのむメヌゞをするだけだ。ただ、これが面癜いように党䜓把握、さらに構造的把握ぞの糞口になる。それを可芖化するため、い぀も暡造玙を持ち歩いお手曞きの地図を䜜っおいた。そうするこずで、その地域の倚様なステヌクホルダヌやそれらの関係性、地理的芁件、歎史的文脈などを想像しやすくなる。このように、働く期間が長くなるに぀れお、自分なりの手法や理論化の枠組みなどが頭の䞭に蓄積されおいくのだ。そうした様々な物差しで、いろいろな地域を芋おいくこずが楜しい。この感芚は、䟋えば他の仕事でも共通するものがあるのかどうかはわからないが、少なくずも地域調査に関わる仕事をしおいる人には、さたざたな空間や時間を自由に飛び回るような感芚を、理解しおもらえるのではないかず勝手に思っおいる。

    もちろんこの仕事は楜しいこずばかりではなかった。むしろ蟛く、苊しく感じるこずのほうが倚かったかもしれない。7割、8割が蟛く、苊しいこずずしお、残りの23割の達成感や満足感、成長の実感などがあるからこそ続けられたようなものだ。
    䟋えば、必芁な情報を埗るために、どうしおも無理を抌した調査を実斜しなければならないこずがある。立堎や目的は䌝えたずしおも、怪したれるこずや、疎たれるこずもある。仮説自䜓がひっくり返されお、調査自䜓の再考を匷いられるこずもあった。それでも、調査の積み重ねによる新たな発芋や理論化、フレヌム化が進んだずきは、倧きな喜びずなっお返っおくるのである。
    ただ、そうした日垞的な業務における戞惑いずは別の、いや比べ物にならないほどの匷烈なむンパクトず共に、私自身の地域ずの向き合い方を再考させられた事象が、このシンクタンクに所属しおいる間で発生した。東日本倧震灜ず犏島原発事故である。

    その日、私は東京の事務所でパ゜コンに向かっおいた。ビルの4階で感じた倧きな揺れに、ずりあえず非垞階段の螊り堎ぞ出るず、目の前の高局ビルは䞍気味な長呚期の揺れを瀺しおいた。数少ないメディアの情報を頌りに、被害状況の確認を進めた。
    するず、どうやら東北地方で倧きな揺れを感じたずのこず。たた接波の懞念もあるずいう。その頃、私はちょうど東北地方各地の産業に関する調査を担圓しおいお、発灜の䞀月前には岩手県から宮城県の沿岞地域を車で移動しおいた。その過皋では持業者ぞのヒアリングも含たれおいた。逊殖も、遠掋も。その人たちは安党なのか、䞍安になった。
    䞀方で、家族の安吊も確認せねばならない。ずりあえずその日は自宅に垰るこずにし、公共亀通機関はほが止たっおいたため、時間ほど歩いお自宅に戻った。幞い、家族に倧きな問題は発生しおいなかった。しかし、その倜から少しず぀䞍穏な空気が瀟䌚を埋めるこずになる。原発事故のリスクが顕圚化したためだった。
    原子力斜蚭に関する私の基本的な理解は、䜕らかの事故や攟射性物質の挏掩などぞの察策ずしお、倚重の防護策が斜されおいるずいうものだった。どのような科孊技術も、むンフラも、完党な安党はなく、䜕らかのリスクず共存するこずを前提ずする。ただし、私たちの生掻や仕事に圱響を及がすようなリスクに察しおは培底的な管理がなされ、圱響は及がさないし、及がしたずしおも最小限にずどめるこずができる、それがリスクず共存する䞊で欠かせない芁玠であるず考えおいた。それはもちろん、これたで人類が盎面しおきた負の経隓や事故の経隓の䞊に成り立぀ものであり、私たちはどこか、それら過去の負の蓄積を䞊回るような新たなリスクは発生しない、たたは発生する確率は限りなく䜎いず甘く芋おしたっおいたのかもしれない。
    しかし、実際にそのリスクは顕圚化した。知識ずしおスリヌマむルやりむンズケヌル、チェルノブむリ、JCO臚界事故などに関する情報はあったものの、日本瀟䌚で同様の、新たなリスクず盎面するこずは想定倖であった。この想定倖ずいう蚀葉は本圓に郜合のよいものである。確かに人類の歎史はこの想定倖の積み重ねにより構築されおきたず蚀うこずもできるが、確かに想定倖だったのかもしれない。しかし、その代償ずしおは倧きすぎるむンパクトをもたらした。埌からわかったこずだが、私が発灜のひず月前に東北各地を蚪れお䌚った方々のうち、お二人が接波により亡くなっおいた。
    東日本倧震灜ず犏島原発事故が、地域調査を行う私に䞎えた新たな考察は、地域ず開発の関係性に぀いおである。私の圓時の仕事は、基本的に地域課題解決に向けお、新しい技術や知芋を掻甚し、開発芖点で地域に新しい可胜性をもたらすずいうものが倚かった。特に科孊技術の発展が人類にもたらす䟡倀は、私たち自身が自らの生掻で享受し、実感しおいるものだろう。䞀方、その科孊技術も暎走するこずがある。それが、本圓の意味での想定倖であったのか、䜕らかの意図的な䜜甚によりもたらされた刀断なのかは、私にはわからない。ただ、幞せにする目的で導入されたものが、結果的に負の䜜甚をもたらしたのだずしたら、地域にずっおの開発ずはどうあるべきなのかずいう倧呜題を、私は私の内面から突き぀けられおしたったのだ。
    しかしそうした事象があったずしおも、私たちは生き続けなければならない。「これも海で生きるずいうこず」――。接波でご家族を倱ったある男性が、私に話しおくれたこずが忘れられない。私たちは、どこかの地域や共同䜓の䞭に組み蟌たれお生きおいるずしたら、その枠の䞭で、私たちの力ではどうするこずもできない事象に察峙するのかもしれないのだ。䜕らかの想定倖ず蚀えるようなものが発生したずきには、そこで私たちは自分たちで刀断し、行動する必芁がある。垞に、私たちはそうした空間、時間の䞭で生き続けおいる存圚なのだろう。
    ただ、そうだずしおも、果たしお私の地域ずの向き合い方はそれでよいのだろうか。私はより開発芖点の匷い切り口で地域に迫っおきた。それが囜や自治䜓の方針であっおも、䜕らかの事業であっおも、だ。これたで関わっおきた仕事自䜓が間違っおいたずは思わないし、これからも同様のオヌダヌがあれば、取り組むかもしれない。しかし、私が䞻䜓的に関わるべき地域の未来づくりずは、もしかするずこの開発芖点ではないのかもしれないず思った。もっず、地域の䞭から元気になるような、地域の人たちず䞀緒になっお掻動するような、そんな関わり方なのではないかず。
    簡単に曞いおいるようだが、この腹萜ちに至るたでには5幎ほどかかった。なぜなら、自分が信じお取り組んできたこずぞの、玠朎な疑問に関する理解には、盞圓の時間がかかるものだからだ。私は、私自身の地域ぞのアプロヌチ、その芖点を倉えおみるこずにした。

    私は40代半ばで転職をした。これはちょっずした冒険でもあった。
    地域瀟䌚ぞの関心は倉わらず、むしろ倧きくなっおいた。たた、シンクタンクでの日々の業務にも倧きな倉化はなく、仕事ずしお取り組む䞊での䞍満もなかった。仕事は慣れおきたし、独自の手法もいろいろず線み出し、実践で甚いるこずは楜しかった。
    ただ、私の関心の察象が倉わっおしたったのである。それたでは䜕らかの取り組みを進める䞊での阻害芁因は䜕かを、たた合理的に、効率的に運甚するための合意圢成手法などを怜蚎する業務が倚かった。それが、先ほど述べた開発芖点ず蚀えばそうかもしれない。䜕らかの目的がすでにあり、その実行、実装に向けおどうするのかを考える。政策科孊領域ずは、そういうものだろう。そこに生たれたのが内発的発展ぞの関心の拡倧だ。地域内の䜏民や事業者が、その地域の内郚から掻性化ぞの取り組みを進めるずいう芖点である。
    たた、それに玐づいお、それたでの自治䜓や公的機関、たた倧䌁業などによる地域ぞの関わりずその支揎業務ではない、事業者、特に䞭小䌁業の取り組みに関心が向くようになった。そういえば、私はどちらかずいうず財務面や事業掻動そのものぞの評䟡に関わるこずがこれたで少なかった。いや、ほがなかったず蚀っおもよい。地域ぞのこだわりを持ち぀぀も、事業者芖点でのアプロヌチを加えおみたく思った。それが転職を決めた最倧の理由だった。
    転職先は䞭小䌁業向けのコンサルティングを行う䌚瀟で、私はその間接郚門、コンサルティング担圓者の支揎や調査分析や制䜜業務を行う郚眲に配属された。業界や垂堎の動向、泚目トピックスの圱響などの芳点から、各皮調査を実斜し、時には事業者ヒアリングも行いながら、各皮レポヌトを執筆するようなむメヌゞだ。もちろん財務的な芖点も身に぀けなければならなかった。民間䌁業の経営に぀いお倚角的に怜蚌する䜜業はずおも刺激的で、私はこの仕事にのめりこんだ。組織での圹割は調査も執筆もすれば、線集も行なう。所属した期間は制䜜に関わる党䜓を統括しおいたため、線集長的な立ち回りだった。もちろん、そのプロセスにおいおも地域ぞの関心は倱われなかったが。
    長い間、ひず぀の組織で働いおいた私にずっお、倧きな䌁業の倚面的な掻動を芋るのは楜しかった。やはりスピヌド感ずれロむチの創造性が違う。それたで瀟䌚課題や巚倧開発、公共案件を扱うこずが倚かった私にずっお、䞀気に瀟䌚が動き出したような感芚だ。顧客䌁業はそれぞれに経営課題を持぀。䞀般論ずしおの経営戊略がすべおの䌁業に圓おはたるわけではなく、しかし䞀方で、経営を脅かす倖郚芁因は地味に、たたテヌマを倉えお抌し寄せおくる。こうした個々の䌁業の経営課題に觊れ、䞊行しおこれらを俯瞰しお瀟䌚党䜓を眺めるように分析するのだ。それたでの職堎ずは本圓にいろいろな意味で違っおいた。
    経緯に぀いおは省略するが、私はこの䌚瀟を玄3幎で退職し、個人事務所を蚭立した。そのあずもこの䌁業や埓業員ずの関係性が続いおいるのは、働くこずの楜しさをずこずん远求できたからなのかもしれない。
    そしお玄5幎前、私は個人事務所を蚭立した。振り返るず、20代の頃に個人事業䞻ずしお掻動しおいた時期があったが、その埌はずっず䌚瀟員ずしお働いおきた。特に瀟員は眮かず、プロゞェクト単䜍で私個人が動きたいように動く。制䜜䌚瀟を名乗っおおり、執筆や線集を軞に、さたざたな媒䜓に察応するコンテンツ制䜜、そしお調査研究業務を請け負うシンクタンク機胜、この2軞で事業展開をしおいる。圓初はコンテンツ制䜜が圧倒的に倚かったが、珟圚はシンクタンク業務が増えおきた。ゆくゆくはシンクタンク機胜を䞻軞にできるよう、事業を拡倧しおいきたく考えおいる。

    ず、ここたで私の仕事の抂芁に぀いお玹介しおきた。なぜこれを曞いたのかず蚀われたら、それは誰もが人生を通しお構築するラむフステヌゞを私なりに可芖化しおみたかったからだ。孊生生掻を終えお、最初に就職した䌁業でずっず働き続ける人もいるだろう。転職をしながら自らの挑戊したい仕事を開拓しおきた人や、䜕らかの理由で䞭断、たたは諊める遞択をしなければならなかった人もいる。家業を匕き継ぎ、たたは䜕らかの事業に誘われる圢で未経隓の分野に挑戊する人も。仕事や生き方に぀いお、䜕を䞻軞に眮き、どのような生き方をするのかは、その人の考え方や眮かれた環境、目指す未来の姿などにより千差䞇別、簡単な評䟡などできるはずはない。ただ、私はこうした半生を送っおきたこずを振り返りながら、ひず぀気になるこずがあるのだ。私ずいう個は、どうしおこれらの遞択を積み重ねおきたのか、ずいうこずである。
    これは私が、至近のアカデミアにおいおこれたでの掻動を総括する圢で研究に挑戊しおみたいず思っおいたからである。たた、瀟䌚科孊を専攻し、たたこれたでの仕事を通しお瀟䌚孊、文化人類孊、政策科孊、その他さたざたな領域の専門性に觊れる䞭で、ひず぀の事象に぀いお倚角的に分析する癖が぀いおいるからなのかもしれない。たた、珟圚は法人を自ら運営する立堎になっお、なぜ私はこの瀟䌚においお法人栌を有し、掻動するに至ったのかを考えるず、若い時代の私には想像もできないような垰結だからだ。ここたで曞いおきたように、私は孊生生掻を終えた盎埌は飲食サヌビス業、その埌執筆や調査業務などを䞻ずする個人事業、そしおミニシンクタンクやコンサルティング䌚瀟ぞの就職を果たし、珟圚に至る。䟋えば、30幎の私には、研究職やコンサルタントずいった仕事が䜕をするのか、たったく理解できおいなかったのだ。それらが瀟䌚においお必芁であるから仕事が存圚するのであり、たたたた私ずいう玠材がその仕事ずフィットしただけず考えるこずもできる。それでも、やはり疑問なのは、単に偶然の積み重ねなのだずしおも、そこには䜕らかの意思や、自然に身に付いた玠逊が関係しおいるのではないか、ずいうこずだった。そのくらいに、20代の私にずっお、珟圚の私の仕事はずおも意倖で、想定倖であるはずだからだ。
    確かに20歳前埌の私は、もちろん将来の仕事を䜕にするかを考えた。そのずきは䟋えば飲食業や接客業、工堎勀務、教育珟堎などを想像しおいた。䞻芁業皮の事業所数の割合を考えたずき、サヌビス業のほかで䞊䜍に来るような、補造業や建蚭業、たたその具䜓的な仕事内容を思い浮かべるには至っおいなかった。恐らく、その時点での自分が想像できる範囲での職業遞択が行われおいたのだ。もちろん、仕事癟科のような資料を読んで様々な業皮に぀いお孊んだに違いないが、結局は頭に入らなかった。リアリティがないのだ。それは、仕事をするずはどういうこずなのか、たたは仕事にはどのようなものがあり、そのうちの䜕が自分に適したものなのかずいう芳点で怜蚌する胜力が足りなかったず蚀っおよい。蚀い換えれば圧倒的な情報䞍足であり、そのため自らず瀟䌚の接点を想像するこずができなかったのだ。
    ここで、前掲した瀟䌚孊者プルデュヌの文化資本に぀いお思い起こすず、私の育っおきた家庭環境には、こうした仕事を想起するような、身䜓化容䜓化制床化された文化資本は少なかったず振り返るこずができる。母から仕事に぀いお教えを乞う機䌚は少なく、たた近くに生産幎霢人口の知人はほずんどいなかった。母方の芪類はいたものの、物理的たたは粟神的な距離があったため、盞談できるような関係性ではなかった。
    地域瀟䌚に目を向ければ、自宅が建぀地域はいわゆる新興䜏宅地であり、郜心郚ぞの通勀局ず近隣の工堎地垯で働く劎働者がほずんどの、ドヌナツ化珟象ず衚象されるような郊倖型ベッドタりンだった。近隣地域内での日垞的亀流はあったずしおも、それは家庭や仕事に関わるような、たたは人栌圢成に圱響を及がすほどの匷い結び぀きはなかった。加えお、私が成人したのは1993幎のこずであり、むンタヌネット元幎ず呌ばれる1995幎の2幎前だった。情報収集ず蚀えばただただアナログの手法に頌っおいたこずを思えば、呚囲の生掻環境が個人の意思決定プロセスに圱響を及がす力が、珟代よりも倧きかったず蚀えるのかもしれない。そしお、そうした時代に、母子家庭ずしお生掻した私たち母子の瀟䌚における関係性の薄さは、吊定できない事実ずしお自芚するこずができる。
    そしお、私自身の珟圚の仕事に぀ながるような芁玠が、私自身の生掻環境に存圚しおいたかず蚀えば、そういうこずもなかった。曞くこずは奜きで、本を読むこずも奜きだったが、文孊青幎であったわけではない。仕事を通しお調査研究業務に長幎携わるこずになっおも、そうした仕事があるこずを教えおくれる人がいたわけでもない。仕事ずは離れお興味があるこずに突き進んだ結果、今の自分の掻動環境が圢成されおきたずいうのがしっくりくる蚀い方だず思う。
    別の芳点でも芋おみたい。アメリカの心理孊者、ゞョン・L・ホランドJohn L. Holland1919⁻2008が提唱した職業遞択理論RIASEC理論は、人の性栌を6぀の類型に分類し、この性栌類型ず職堎環境が適合するほど、満足感や定着意識が高たるずした。その6぀ずは、珟実的Realistic、研究的Investigative、芞術的Artistic、瀟䌚的Social、䌁業的Enterprising、慣習的Conventionalである。そのうち、䟋えば20歳前埌の私は「珟実的」に圓おはたる工堎勀務や、「瀟䌚的」の接客、「䌁業的」の店舗運営などであろうか。いずれにしおも曖昧であり、確固たる目的も信念もないたたに瀟䌚に飛び出し、仕事経隓を重ねるこずになる。しかし、本圓にそのたたでよいのかを自問するようになり、20代埌半には執筆や調査の仕事を請け負う個人事業䞻ずしお掻動するようになった。䞊蚘6類型の䞭では「研究的」がそれに圓おはたるだろう。「ずりあえず遞んだ仕事」から「自らの適性や欲求に合った仕事」を遞択したこずで、その劎働圢態の違いはあっおも、同質の仕事を珟圚たで続けおきたこずになる。
    たた、同じくアメリカの心理孊者で、キャリア理論を展開したドナルド・゚ドりィン・スヌパヌDonald Edwin Super1910–1994は、キャリアの圢成を「自己抂念の実珟過皋」ず䜍眮付けお、5぀の発達段階を提唱した。それは、①成長期413歳②探玢期1424歳③確立期2544歳④維持期4564歳⑀脱離期65歳以降ずしお具䜓的な幎霢ず共に瀺され、たた環境倉化に応じお再埪環する可胜性も含むずされおいる。䟋えば、私が他の家庭ずの差異を意識し、たた自らの職業遞択に悩み、たずは自分の生掻環境においおリアリティのある仕事を通しお瀟䌚に飛び出した時期を②ずしたら、執筆や調査の仕事に関心を瀺し、自らの興味の赎くたたにホランドのいう「研究的」な仕事を远求したのが③であった。その埌、次のステップに挑戊しようず、コンサルティング䌚瀟ぞ転職し、さらに個人事務所を起業し、珟圚に至るのが④ずなる。恐らく、②の頃は自分が䜕者かわからず、しかし仕事はしなければならないから目の前の仕事に挑戊するが、そうした経隓を通しお自分が本圓に挑戊したいこずが䌚埗され、たた目指す人生の道筋もむメヌゞできるようになるのだろう。私は確かに、③の初期にあたる20代前半で執筆ず調査ぞの関心を抱き、30代から40代前半でシンクタンクの仕事に没頭し、④の前半にあたるここ数幎は起業ず倧孊院ぞの挑戊ずいう、キャリアを維持し぀぀スキルの曎新に挑戊しおいる。これら、ホランドずスヌパヌの理論に基づくず、自らの混迷した仕事経隓にもひず぀のルヌトが芋えおくるように思えた。
    ただし、ここで䞀぀の疑問が生たれた。それは、ホランドの「瀟䌚的」「䌁業的」から「研究的」ぞの転換、たたはスヌパヌの③の初期における、執筆や調査ぞの関心の惹起、これらはどういうプロセスで発生したのかずいうこずだ。
    ここで参考にしたのが、同じくアメリカの教育心理孊者、ゞョン・D・クランボルツJohn D. Krumboltz, 1928–2019のキャリア遞択に関する「瀟䌚的孊習理論」である。この理論は、遺䌝的資質、環境条件、孊習経隓、課題ぞの接近ずいう4぀の芁玠がキャリア圢成に圱響するずいうもので、個人は経隓を通しお信念やスキルを孊び、環境に適応しながらキャリアを圢成するずした。たたクランボルツは「蚈画的偶発性理論」においお、予期せぬ出来事が成長や転機を生むずいう指摘もしおいる。遺䌝や環境の芁件ずずもに、孊習や偶然の出䌚いなどを通しおキャリアは倉化しながら圢成されおいくず私は理解した。
    キャリア圢成に関する先行研究は倚岐にわたるが、私はこれらの理論ず出䌚うこずで、自らのこれたでの歩みを再敎理するこずができたず感じおいる。ず同時に、執筆や調査ぞの関心を私自身が抱き、それを仕事ずし、さらに研究的な取り組みたで進めるようになった背景には、どのような誘因や動機付け、トリガヌずなるような出来事があったのだろうか。さらには、プルデュヌの文化資本の理論も含めお考えたずき、私個人に備わる遺䌝的資質がもしあるずしたら、それはいったいどのようなものなのか。
    私はこれらの問いぞの答えが、私が過去に取り組んだ「父を求める旅」にあったず認識しおいる。その旅に぀いお觊れる前に、もう少し私自身の歎史を遡っおみる。


    孀独

    私の幌少期から青幎期は、その時代背景や個別の事情を螏たえお振り返ったずき、私自身の評䟡はずおもさみしく、孀独であったず思う。これは圓時の私の䞻芳はもちろんのこず、家庭環境や人間関係、自分自身の行動様匏など、様々な芳点から振り返っおみおも、孀独の文字が垞に぀きたずうものだった。
    そういえば、高校、䞭孊ず遡っおも、あたり倚くの友人がいたこずがない。友人の定矩にもよるが、芪しくする関係性は限られ、誰かず芪密になりたいず思う反面、近づきすぎるず距離を保ちたくなる。かずいっお呚囲から避けられるようなこずもなく、適床な距離を保っおいたような圢だ。攟課埌は基本的に䞀人で行動し、図曞通や喫茶店に立ち寄っおは本や写真集を読み持り、音楜に耜っおいた。高校は男子校であったにも関わらず、いわゆる男子校的なノリが嫌いだった。倧孊に入るず友人が䞀気に増えたが、それも衚局的な付き合いで枈む関係性に限定しおいた。自由な時間が䞀気に増えたこずもあり、呚囲の人たちには悪いのだが、友人関係を構築するずはどういうこずなのかを実隓的に詊しおいたような偎面もあったず思う。結果的に長く続く関係性はほが皆無だった。
    䞀方で、母ずの関係は、䞀貫しお良奜だったず思う。䞭孊生時代から特に反抗する芁玠は芋぀からず、むしろ感謝の気持ちのほうが倧きかった。芪子で共通の趣味が映画や挔劇、小説の貞し借りなどず蚀ったら、少し倉わっおいるだろうか。私が昌食代を削っお小遣いを貯め、母を招埅する圢で最初に芳た挔劇は、垝囜劇堎の挔目「花岡青掲の劻」だった。十朱幞代、萬屋錊之介、山田五十鈎などの名前を挙げたら母が喜ぶず思った。それは1980幎代埌半、私が高校䞀幎生のずきだった。自宅の本棚にはその原䜜者の有吉䜐和子を始め、向田邊子や䞉浊綟子などの女性䜜家の曞籍が䞊び、他にも叀兞文孊を奜んで読んでいた䞀方、私に぀いお蚀えば䞉島由玀倫や川端康成、五朚寛之など男性䜜家を奜んだ。共通の䜜家ずしおは、䞭孊生の頃は赀川次郎、高校生の頃は叞銬遌倪郎か。叀兞や海倖文孊は、䜕ずなくリアリティに欠けおいるようで、䞭孊生や高校生の私の頭では理解がなかなか難しかった。映画では、母は戊前戊埌のハリりッド映画を奜み、゚リザベス・テヌラヌや゜フィア・ロヌレンの話に倢䞭になり、䞀方の私は角川映画や深䜜欣二䜜品に偏る䞖俗的な芋方をしおいた。毎日届く新聞にそれぞれが目を通し、母は政治面、私は瀟䌚面に泚目しおいたから、それぞれが関心のあるテヌマを持ち寄っおは食事をしながら䌚話をした。その習慣はその埌も匕き継がれ、倧人になった私が母ず食事をすれば、その埌の䌚話は数時間に及び、寝るのが日付をたたいでしたうこずもよくあった。
    もちろん日垞生掻はそんな牧歌的な光景ばかりではなく、経枈的に苊しい時期もあった。それでも垞に笑顔で暮らしおこられたのは、母が蚀う通り「お父さんが家を残しおくれたから」なのだろう。私はそれを蚀われるずき、少しホッずする反面、胞の奥がチクリず傷んだ。もし、私の誕生がもう少し早かったり、あるいは遅かったりしたら、この䞍均衡な家庭環境は生たれおいなかったのかもしれない。母には違う人生があり、私自身も重石のように感情を抑え蟌む圱ず付き合わずに枈んだのかもしれない。私は、私ずいう存圚の意味を、垞に考える子ども時代を送っおきた。自分で蚀うのが適切なのかはわからないが、呚りの友人たちず比べるず、少しだけ早く倧人になろうずしおいたのかもしれない。私は、母の前では父の代わりを務めようずしおきた。しかし、心身はただただ子どもであり、青幎であった。そのギャップをどうにか埋め合わせようずしたのが、文孊や映画などであった。なぜそこに泚目したのかずいえば、単に自宅にあったものの䞭で、プルデュヌの蚀葉を借りれば「容䜓化された文化資本」の力を借りおいたのだろう。
    さらに小孊生時代に遡れば、母ず私の関係はさらに密なものだったずいえる。恐らく母は父芪のいない私に぀いお、子どもだずは蚀え、その人間関係に可胜な限りの配慮をしおくれたず思う。40人芏暡が3クラスの孊幎においお、父芪がいない家庭は、1぀か2぀だった。䟋えば小孊校のPTAには必ず関わり、近隣のむベントがあれば圹員を務めおいた。そうした母の取り組みを知っおいた近所の人たちず1泊2日の旅行に行くずきは、逆に近所の人たちが気を遣っお、母ず子のみの旅行にしおくれおいた。私は呚囲の友人や倧人から、私自身の境遇に぀いお哀れみや蔑みの蚀葉を盎接的にかけられたこずはなく、たた自芚的に苛めを受けたず感じるこずもなかった。これは母の取り組みによるものが倧きかったのだろうず今でも感じおいる。
    しかし、苊い蚘憶もある。こんな蚘憶はないだろうか。小孊校で父芪、母芪の絵を描く、たたは父芪の仕事を聞いおくるような宿題だ。私は小孊校䜎孊幎の7歳か8歳のずき、週末に行われる父芪参芳日に合わせお「お父さんの絵を描いおきおください」ずいう課題が出たずき、担任の教員に恚み、たたは怚嗟に近い感情を抱いたこずを蚘憶しおいる。私は自宅に垰り、台所で料理を䜜る母に「先生から、お父さんの絵を描いおくるように蚀われたけど、どうしよう」ず盞談にもならない䞍安を告げた。母は「じゃあ、お母さんの絵を描いおいったら」ず返しおくれた。こうした課題を教育珟堎で瀺すこず自䜓に異論はなく、圓時の私が苊しかったのは、その課題が小孊生の私には察応できないものだったからである。それが圓時の教育珟堎における慣習的な方針だったずしおも、このどうにもならない状況に察する配慮を子どもの私に匷いる教員の無頓着さに関しおの、このやり堎のない怒りの衚珟方法ずしお、私は翌日、䜕らの気づきのない教員に察しお無邪気な態床で、「先生、僕はお父さんがいないけど、どうしたらいい」ず迫った。するずその教員は、驚いた顔で振り返りながら、笑顔で「じゃあお母さんの絵を描いおきおね」ず蚀った。このずきの私の感情は、私にも他の生埒ず同様に課題に取り組む資栌を埗られた安堵ずずもに、自分は他の生埒ずは明確に違うのだず自芚したこずによる孀独だった。それは教宀の倖の廊䞋に匵り出された各自の絵を眺めたずきにも改めお感じた。私の絵だけ、異質なのだ。この異質感を私の心象に重ねれば、それは孀独だった。ただ、それ以䞊に心配したのは母の顔だった。この男ばかりが䞊ぶ絵の䞭に、女性の顔が䞀枚だけあり、それが母だった。私は母の悲しむ顔を芋るのが蟛かったのだが、母は最倧限の笑顔で私を芋぀めおくれ、私は心の底から安心感を埗た。それ以降は、私は教育珟堎や友人関係においお、父芪に぀いおの話題が出るこずを極床に避け、たた嫌うようになった。自分の苊しみに盎結するからであり、その苊しみは母に盎結する苊しみでもあったからだ。そうした意味で、母ず私は、喜びも苊しみも過床に共有する、距離感の近い芪子になっおいったず思う。

    たたこれずは別に、母には関係なく、私個人の問題ずしお幌少期から垞に突き぀けられおきた苊悩がある。䞀蚀で蚀えば「父芪ずいう存圚そのものがわからない」こずだった。
    私はこれたでの人生で数回本圓に数回レベルだず思う、母に察しお父のこずを聞いたこずがある。䟋えば仕事や人柄、これたでの歩み、奜きな食べ物、亀わした䌚話などだず思うが、実はその蚘憶は断片的であり、あたり芚えおいない。もちろん母は蚘憶の限りにおいお答えおくれたが、恐らく、それらは私が求める内容ず若干のズレがあったのかもしれない。それよりも、私がその質問をするこずで母が苊しく、切なくなるこずが容易に想像でき、実際に父芪がいないこずに察しお申し蚳ないずいう蚀葉を䜕床も聞いた。たた、母自身も父ず過ごした短期間の結婚生掻を元に、息子に䌝えられる情報はあたりないのだずいうこずも䌝わっおきた。こうした数回の䌚話を通しお、私から䞻䜓的に母に察しお父のこずを聞くのは避けるようになった。私にずっお、私の父に関する情報を埗たいずする欲求よりも、母が安寧に、䜙蚈な苊しみを生み出すようなアプロヌチは、私からは極力避けなければならないずいう芪子間での防衛本胜が働いたのだず類掚する。぀たり、母を守り぀぀、私自身も守るために、敢えお父の情報を家族間で封印したのだ。この期間は私の蚘憶がある小孊校高孊幎以降、私が26歳になるたでの玄15幎間にわたっお続くこずになった。
    私が、私自身を守ろうずした根拠、これが幌少期から突き぀けられおきた苊悩である。私は父の现かい情報はもちろんのこず、父の存圚自䜓がわからない。䟋えば、父芪ずはこういうものずいう先行研究の理論や䞀般的な瀟䌚共通䟡倀の枠組みがあったずしおも、私ずいう個䜓にずっおは、それはあくたでも理論䞊、通念䞊の枠組みであっお、実感を䌎わないものなのである。たた、考えようずするず、過去の蚘憶も重なっお「異質」あるいは「孀独」の思考が顕圚化する。しかしながら、この苊悩を避けるこずによる匊害があったのも確かで、それがこれたで述べおきた人間関係の構築や初期の職業遞択における逡巡だったようにも思うのだ。
    その背景には、日本瀟䌚が父ず母、そしお子どもにより構成される暙準的な家族単䜍を前提に瀟䌚の様々な仕組みが構築されおいる偎面もあるだろう。たた、人間関係の信頌やネットワヌクを基盀ずする瀟䌚関係資本の構築にも差異が生たれるず想像できる。もし私が父の情報をもう少しだけでも持っおいたら、私の人栌圢成、瀟䌚関係資本、職業遞択、そしお珟圚の生き方には、䜕らかの倉化はあったのかもしれない。しかし、私は「異質」「孀独」の思考を避ける癖が぀いおしたい、父のこずを知る䜜業から距離を眮いおしたっおいた。
    ただ、この私の父ずの関わり方に぀いお、少し考察しおみたいず思うきっかけはあった。フロむトの「゚ス」ず「超自我」の理論に觊れたずきのこずである。この「゚ス」ずは私の生物的本胜、欲望そのものずしたずき、同性の芪私の堎合は父が介入しおきおその本胜を諊めさせる。その結果、自分の内面に「超自我」ずする父芪の内面化、぀たり瀟䌚的な芏範が生たれ、私自身である「自我」はその調敎の圹割を担う、ずいうものである。
    私の過去を振り返ったずき、母ずの関係は、他の家族ず比べれば距離の近さがあったのは事実である。しかし䞀方で、䞊蚘のような瀟䌚的な芏範も圢成されおいたように思う。぀たり、珟実的な存圚ずしおの認知はできおいなくおも、枠組みのずしおの父芪の存圚は、私の䞭にすでにありその䞭に情報がなかったずしおも、それにより瀟䌚的な芏範を䌎う母ず息子の芪子関係の構築はできおいたのではないか、ずいう仮説である。
    この理論に觊れたずき、私はあるこずを自芚した。それは、私は父のこずを考えるこずを自ら拒吊しお生きおきた、ず自認しおいたのだが、実はそれは、父のこずを考え続けお生きおきたこずでもあるのではないか、ずいう逆説的な理解である。
    私は瀟䌚からの「異質」や「孀独」の評を避けるために父芪ずの関係性を封印しおきたず思っおきたが、実はそれは、より匷固な意志ず共に、父芪のこずを考えようずしおきたこずに他ならないのではないか。私の䞭に、理論䞊、通念䞊の父芪ずいう枠組みはすでに存圚しおいお、しかしその䞭身がないこずが䞍安だったのではないか。父芪ずはこういうものだずいうむメヌゞを持぀こずはできおも、そこに具䜓性がないこずが私自身の䞭でさらに䞍安を増幅させ、空虚感ずしお自芚するに至っおいたのではないか。
    䟋えばアメリカの瀟䌚孊者、リチャヌド・セネットは瀟䌚的な芏範普通の家庭が、自己私が自分を理解するための枠組みずしお内面化される、぀たりそれを利甚するようになるず指摘する。その結果、父芪が䞍圚である私の家庭は、この瀟䌚的な芏範ずの間にズレがあり、それは「空癜」ずしお存圚するこずに気づくのだろう。この空癜に泚目するのが、自己の物語の「空癜ミッシング・ピヌス」に぀いお述べるダン・マクアダムスDan McAdamsのナラティブ・アむデンティティ理論である。それは、人間を構成する気質や䟡倀芳、動機などずずもに、「私に぀いおの物語」がなければアむデンティティが圢成されない、ずするものである。これに基づいた私の理解は、自分の人生に意味を持たせるためには物語が必芁で、「空癜ミッシング・ピヌス」があるず遺䌝的な連鎖や瀟䌚的芏範ずの間の盞関性の欠萜などはもちろんのこず、そもそも出発点である自己圢成の半分が欠萜しおいるこずによる自己理解の欠萜、自己の物語の構造的な砎綻に぀ながる、ずいうものである。そしお、人はその「空癜」を埋めようずする。それは、単に父の情報に぀いお集める、ずいう性質のものではなく、自らの人生に圓おはめる圢で埗られた情報を元に解釈を繰り返す。それにより、「私に぀いおの物語」が圢成されおいくされ続けおいくのだろう。

    ここで泚意しなければならないのは、この「空癜」を埋めようずする䜜業が、単に父ぞの興味や愛着執着などにより行われるべきものではないこずである。別の芳点で敎理するず、䟋えばポヌリン・ボスPauline Bossの「曖昧な喪倱」理論ずいうものがある。喪倱には、死別や離婚などを通した明確な喪倱ず、行方䞍明や父芪の䞍圚などの曖昧な喪倱がある。この曖昧な喪倱が苊しいのは、葬儀や契玄曞類などを通しお瀟䌚的なむベントや制床による客芳的な確認・確定プロセスがある明確な喪倱ず比べお、そもそもの䞍圚の堎合には区分が難しいこずや、瀟䌚的な共感、すなわち同じ境遇の人が少ないために理解されにくいこずなどがあるためである。たた、曖昧な喪倱の堎合、それを受け止めお終わりにする区切るこず自䜓が難しいため、共存する姿勢が必芁ずなる。ここは、なかなか理解しおもらえない点でもある。
    私はか぀お、ある新聞瀟の15歳ほど幎䞊の蚘者ず、私の父の䞍圚に぀いお話す機䌚があった。そのずき圌から「䞖の䞭には虐埅やネグレクトなど、ひどいこずをする父芪もたくさんいる。父芪がいないこずはさみしいが、そうしたひどい父芪だった堎合ず比べたら、よかったのかもしれないよ」ず蚀われた。私はこの蚀葉を聞いたずき、私から圌に察し、意図を理解しおもらえるような説明ができおいなかったのだなず思った。極端なこずを蚀えば、父芪がどのような人であっおも、私はかたわないず思っおいる。それよりも、問題は私自身の内郚にあるのだ。父ずいう「空癜」が私自身のアむデンティティ、自己の物語の圢成においお䞍可欠であり、私の堎合はそれが「曖昧な喪倱」であり、その「空癜」を埋めるこずは私自身が生きるために必芁な取り組みなのだずいうこずを、そのずき改めお自芚した。未完の物語に区切りを぀けるために私は父に迫るのであっお、それは人間の根源的な欲求であり、たたは自己を守るための防衛反応であるのかもしれないのだ。


    「私の物語の創造」に向けお

    ここたで、私の䞭の父に関する「空癜」を求める背景に぀いお述べおきた。そしお、改めお敎理したい。なぜ私に、この䜜業が必芁なのか。
    私はこれたでの成長段階においお、父ずいう「空癜」を敢えお避け、觊れられないようにするこずで、瀟䌚的な芏範普通の家庭ずの差異を顕圚化させるこずを拒吊しおきた。それは自分を守るこずであり、たた母を守るこずでもあり、蚀い換えれば自らが立぀芏範ずすべきもの家庭に瀟䌚的な意味づけを行うものでもあったず考える。なぜなら、その「空癜」があったずしおも、瀟䌚的な芏範ず同等の、あるいはそれ以䞊の存圚䟡倀を生み出せるこずを蚌明するこずで、「空癜」を持っおいたずしおも存圚しおよいのだずいう自芚を埗たかったのだず思うからである。
    それは人間関係の構築に確実に圱響を及がしおきた。䟋えば私は幌少期から友人関係を築くのが苊手で、それは成人するたで続いた。ある皋床の人栌圢成が進んだ青幎期においおは、意識的に濃い人間関係を築こうず詊みお、性別を問わずに時間を共有するこずを意識的に行っおいたこずもあった。しかしそれらに察する虚しさが次第に沞き䞊がり、結果的に自ら距離を眮くようになる。実は衚面的な亀友関係を築いたずしおも玔粋に楜しめるような関係を構築できるはずもなく、そこには垞に衚局的な笑顔ずは裏腹の朜圚的な欺瞞性や虚食があった。私は、誰かず時間を共有するこずを求める姿勢を芋せ぀぀も、どこかで線匕きをし、誰かがそこを乗り越えおこようずするず自ら埌ずさりしおしたう。この絶劙なバランス感芚で私は人間関係を構築しおおり、その先に蚪れる䜕らかの遞択は、そのバランス感芚の䞊に成立しおきたものだった。
    この感芚は、私が瀟䌚に出おからも持ち続けおいた。もずもず瀟䌚に出るこずぞの信念や理想のようなものがないたたに職業遞択を匷いられ、「自分ができるこず」の芖点で遞択し、就業するのだが、それは長続きしない。なぜなら興味があるこずではないから。しかし、次に䜕をすべきかもわからない。仕事をするずいうこずは、もしかしたら自分を守るような姿勢で向き合うものではなかったのだろう。最初にその壁にぶ぀かったのは、私が26歳のずきだった。私は仕事においお、䜕をすべきなのか。私はこの瀟䌚ずどのように向き合い、仕事を通しお付き合っおいくべきなのか。もし私の䞭に欺瞞性や虚食があったずしたら、それを打ち砎るような本質的な、枇望に䌌た仕事ぞの欲望ず自我の圢成ぞの意欲が生たれるこずが必芁だったのかもしれない。私は、この26歳のずきに、自我を远求するような旅をした。そう、今、この原皿を曞きながら思い出した。私はこの20代半ばでの匷烈な虚無感ずそれに反するような生きるこずぞの執着を補うために、䜕ずなく旅に出お、その枇望が䜕なのかを明らかにしようずしたこずがあった。そこから埗られた圓時の私が考えた結論は「やりたいこずをやる」であり、それは瀟䌚からどのように芋られようずも、私が远及すべきこずだず思った。実はそれが「曞くこず」だった。私は曞くこずに挑戊しおみたいず思った。それが、私の珟圚の仕事の原点だった。
    たた、「瀟䌚からどう思われおもよい」ずは䜕を意図するものかず蚀えば、これは瀟䌚の圓たり前ず蚀われるようなもの、䟋えば家族や孊校、地域瀟䌚、䌁業組織などの枠組みから、どのような評䟡を埗たずしおも反論できるだけの準備をしたいず思った、そのずきの意識ず蚀えるだろうか。もっず小さいレベルでの、芪族や友人関係も含たれるだろう。「こうあるべき」ずいう枠組み自䜓を疑う芖点である。20代前半の私は、瀟䌚に飛び出し、仕事の意味もわからず、瀟䌚人ずしおの芏範から逞脱するこずに匷烈な恐怖心を抱き、しかし芏範に順応するこずは難しく、結果ずしお䞭途半端な生き方をしおいた。その根っこには、垞に自分は「普通」を挔じ、芏範に順応できる姿勢を瀺し぀぀、䞀方でそれらの芏範ずの差異を自芚しおいたこずの矛盟があった。それはこの芏範に付き合っおいる私自身の極端に「平均」や「普通」を挔じるこずぞの疑問でもある。恐らく、私はこの「平均」や「普通」、蚀い換えれば「瀟䌚からの芖線」を職業遞択の根拠にしおいただけであり、そこには持続可胜な装眮はなく、本来的に、本胜的に远求したいこずを仕事にしおみたい。それが、私が26歳のずきに思ったこずであった。
    その埌はここたで曞いおきた通りだ。アルバむトでラむタヌを始め、類䌌性のある技術を掻甚できる調査業にも関心を瀺し、その埌はシンクタンクに入瀟しお調査研究業務を培底的に叩き蟌たれた。その業務領域の特性から瀟䌚孊や政策科孊、文化人類孊等ぞの接近が増えたこずもあり、たた珟実的に囜内倖の各地を蚪れるこずの倚かった経隓から地域瀟䌚ぞの関心が膚らみ続け、それが珟圚の仕事や研究業務に぀ながっおいる。その働く圢態は、アルバむトもあれば個人事業䞻もあり、その埌は䌚瀟員の期間が長かったが、近幎は自身の法人を立おお掻動をしおいる。
    「なぜ安定した仕事を求めないのか」「もっずしっかりしろ」「仕事のこずをきちんず考えろ」ず近い人から蚀われたこずは䜕床もあるが、これらに察する私なりの姿勢は、「瀟䌚からどう思われおもよい」ずいう、過去の自分ずの決別を意味する蚀葉に集玄されおいる。この枠組みは、倚数掟が思う瀟䌚的な芏範なのかもしれないが、私にずっおはあたり意味がないこずは、私自身がか぀お執着しお意識し続け、そしお意味がないこずを実感した䜓隓に由来しおいる。私はこうした瀟䌚的芏範を根拠ずする矢のような蚀葉による攻撃を、友情や愛情ずは思えなかった。「お前のためを思っお」ずいう枕蚀葉を䜿う人たちが私の人生にも䜕人もいたが、私はそういう人たちのこずを決しお信甚しなかった。それは小孊校䜎孊幎の私に察し、父芪の絵を描いおくるようにず宿題を出した教員ず同じで、瀟䌚的芏範に沿った蚀い方をするだけだった。私はその芏範に合わせるために、自分なりのサバむバル術を考察し続ける幌少時代だったのだ。その反動が私の生き方だったのかもしれない。
    話を戻すず、26歳から珟圚たでのプロセスを振り返るずき、そこには「曞きたい」ず思った26歳圓時の原点が垞によみがえるのである。実は、このずきに「曞きたい」ず思ったコンテンツは、その埌20幎以䞊が経っおもなかなか実珟されなかった。䞀方で、調査や執筆、線集ずいう業務に代替しお、自らの仕事の䞭で実践しおきた。若いずきの自分は、これらの技術を掻甚できる堎は、䟋えば瀟䌚䞀般で認識されおいるものずしおマスコミがあり、私も最初はそうした堎で仕事を埗た時期があったが、その埌の仕事はシンクタンクやコンサルティング䌚瀟などがメむンで、そうした仕事環境においお「曞きたい」を実践しおきた。これも、若い頃のマむンドセットでは生たれなかった仕事ずの出䌚いである。぀たり、曞くずいうこずは䜕らかの媒䜓を通しお䞍特定倚数の読者に届けるコンテンツを䜜るものだけではなく、違う枠組みで、違う手法で曞くこずが可胜であり、そこを自ら開拓しおきた自負がある。タヌゲットは䌁業や業界、たたは垂堎であり、少し螏み蟌んだ蚀い方をすれば、事業戊略構築たたは実践、䌁業䟡倀向䞊などに資する芁玠を、執筆その他の手法で衚珟し、提案する仕事だ。決しお成功しおいるずは蚀えないものの、ひず぀だけ、自ら切り開いおきたずいう自芚はあるのだ。20代前半に悩み、20代埌半は右埀巊埀しながらも自らが執着すべき察象を芋぀け、その実践を30代以降の䌚瀟員時代に積み䞊げ、40代埌半で自ら構築した組織においお応甚展開させおいるようなむメヌゞである。たた、その掻動を補匷・再構築する意図で、アカデミアにも挑戊した。

    䞀方で、この「自ら構築しおきた職業遞択の歎史」を振り返るずき、それは私自身の遞択だったのかず疑問に感じるこずもあった。26歳のずきの私の思考の延長が珟圚の職業や仕事芳だったずしおも、そこにはほかに䜕らかの芁玠が介圚する䜙地はなかったのかず蚀えば、そんなこずはない。私は様々な出䌚いや刺激を受けながら、珟圚に至っおいる。これが仕事をする䞊での醍醐味ずもいえるだろう。私はよく、私の人生に圱響を及がした人は誰なのかず考えるこずがあり、今珟圚は䞉人の顔が浮かぶ。䞀人は僕が26歳のずきに挑戊した旅を応揎しおくれた人、二人目はシンクタンクの圓時の瀟長で、調査研究の手法や地域瀟䌚ずの向き合い方、構造的思考の芖座などを培底的に指導しおくれた人、䞉人目はコンサルティング䌚瀟の盎属の䞊叞で、組織内倖における私の仕事の可胜性を広げおくれた人だ。私はこれらの人ずの出䌚いを通しお、自らの仕事ぞの考え方を垞に疑い、再構築し、発展させおこられたず思っおいる。䞀人目に぀いおは埌ほどご玹介したい。
    こうした私に察する盎接的な圱響のほかに、そうではない瞁も感じるのである。私は26歳以降、職業遞択やその内容、枠組み、目指す方向性などに぀いお考えるずき、垞に頭にあったのは父の存圚だった。圧倒的に少ない父に関する情報を元に、圌が死んだ41歳たでの間の歩みず自らの取り組みを重ね、目暙の蚭定や怜蚌する芁玠などにしおきた。父は䞀貫しお建蚭業に関わり、倧孊卒業埌は倧手建蚭䌚瀟に入瀟、その埌は自らの蚭蚈事務所を立ち䞊げ、恐らくその事業はうたくいかずに、私が生たれた地域で事業展開しおいた䞭堅れネコンの営業郚長になったここが父の生涯の最埌の経歎である。私は、たったく違う領域の仕事をしおきたにも関わらず、自らの行動の指暙は垞に父の経歎であった。そこず比范するこずで、自らの取り組みに自分なりの正圓性を付䞎しおきたように思う。それは意識的なものもあれば、無意識のものもあったように思うのだ。意識的なものずしおは、自らの信念に基づく法人を蚭立し、自らが運営の䞻圹ずしお関わるこずを望んだものがある。䞀方、無意識なものずしおは、事業者支揎や研究察象ずしお遞んだのが、倚様な事業者ず関わる䞭で建蚭業、特に䞭堅れネコンに泚目したこずや、領域は違っおもデザむン芖点を远求しおきたこずなどがある。前者は意識的に私が比范怜蚌しおきたが故の類䌌性であるが、埌者ももしかするず意識的であるかもしれないが、どちらかずいうず別の芳点での類䌌性ず蚀えるものであり、「結果ずしお䌌おいた」ずいう衚珟がしっくりくるように思うのである。
    たた、ここたで玹介しおきた研究者の先行研究の指摘に埓っおみたずき、私はそれが、自らの物語を䜜る䞊で䞍可欠な芁玠を求める私の姿勢そのものなのかな、ず思った。すなわち、私の半生に垞に぀きたずう「曖昧な喪倱」を埋め合わせる行為そのものであり、実は私の䞭に存圚しおいた父芪ずいう枠組み、しかしその枠には存圚しおいない父に関する情報を集める䜜業があり、この結果ずしお埗られた情報は父に関する、しかも半䞖玀以䞊前の情報であるにも関わらず、そこに無意識に関わろうずしおしたっおいるあるいは関心を持っおしたっおいるこずに他ならないのではないかず。
    これは、「空癜」に察する私の姿勢そのものが、私の自己圢成や仕事芳、職業遞択、構築する瀟䌚的な枠組みなどを生み出す根拠であるずの認識である。私にずっお、遞択する仕事やその内容、スタむル、枠組みなどは、極端な蚀い方をするず人生そのものなのだ。仕事芖点で芋た私の半生は、自己圢成の歎史そのものであった。それは自らの物語の創造、父を远い求める経緯そのものだった。私は、母子家庭で生たれ、母ずの関係性においお人栌圢成をし぀぀、䞀方でその瀟䌚的な圹割は、父芪ずの関係性を暡玢する䞭で構築されおきたず考えおいる。蚀い換えるず、父ずいう枠組みず察話するこずにより、珟圚の圢態に至ったのだろう。これは、母の死に盎面したずきに匷烈に自芚したものでもある。私は母が死ぬずきに圧倒的な喪倱感を抱いたのだが、そのプロセスにおいお、「曖昧な喪倱」に基づく「私の物語の創造」をしおきた半生が突き぀けられた圢だ。その意味で、私の珟圚の仕事や研究には、意識的なものだけでなく、この「私の物語の創造」ずいう取り組みがあり、それが私の意識的には「無意識なもの」ず捉えられるものだず蚀える。

    私は、これたで私の内郚だけで構築しおきた「私の物語の創造」を改めお振り返っおみるこずにした。ここたで述べおきたのは、私ずいう個がいかにこの瀟䌚においお、「やりたいこず」を䞻軞に職業遞択をし、䟡倀創造を求めおきたのかを瀺したものだが、その実珟に向けた行為やプロセスには、自らの意思のみならず、無意識に远い求めおきたものもあるような気がするのである。
    これは、私が珟圚仕事で行っおいる調査研究の手法や、垞に求められる論理的思考ずは、少し趣が異なるだろう。近幎のいわゆるビゞネス本の傟向ずも異なるし、もし類䌌性を求めるずすれば、ビゞネス本のあずがきに、その曞籍を執筆する䞊で蚘される根拠や謝意の内容ず䌌おいるのかもしれない。぀たり、行為の明確な根拠ではなく、背景にある芁玠を玹介しおいるに過ぎないのかもしれないのである。でも、私はここにも䜕らかの意味があるのかもしれないず思うのだ。䟋えば、私が関わる瀟䌚科孊の芖点では、倚様な専門性を暪断的に掻甚しお孊際的な怜蚌を行うのだが、ある地域を調査察象ずするずき、その地域が江戞時代から近代、そしお珟代たでどのような歎史を経お営たれ、そこで培われた産業や文化はもちろん、ベヌスずなる䟡倀芳やその土地固有の芖点があるかもしれず、そこにヒントが隠されおいるかもしれないのだ。私は、26歳のずきの私の行動が今の自分の仕事芳やスタむルに圱響を及がすこずになるなど、最近たでこれっぜっちも考えたこずなどなかったし、これたで振り返る䜜業をしたこずもなかったが、調査研究や執筆などの仕事をし、瀟䌚科孊分野ぞの挑戊をする䞭で、これたでの経隓や芖点を動員する圢でなら、私のこれたでの取り組みに぀いお䜓系化し、論理化し、蚀語化するこずができるのかもしれないず思った。実は、この振り返り行為はかなり䞻芳的なものである。䜕も生たないのかもしれない。これは読む人によっお、共通する郚分がある堎合もあれば、たったく無䟡倀に終わるこずもあるだろう。それでも良いず思っおいる。なぜなら、この挑戊は「私の物語の創造」そのものだからだ。それがほかの人にずっおは単なる感傷的な旅であっおも、それは私にずっおは、仕事を通した自己実珟の確認䜜業であるずずもに、「私の物語の創造」を実珟する旅そのものだからだ。

    前埌蚘事

    Unconsciously or consciously ①プロロヌグ

    https://note.com/shima1234/n/nbc58b0ac17fd

    Unconsciously or consciously ②挑戊

    https://note.com/shima1234/n/nd928797a9719?app_launch=false

    Unconsciously or consciously ④父に぀いお

    https://note.com/shima1234/n/n1a93e6574c5e?app_launch=false

    Unconsciously or consciously ⑀再調査ぞ

    https://note.com/shima1234/n/nc32b22015a79?app_launch=false

    Unconsciously or consciously ⑥゚ピロヌグ

    https://note.com/shima1234/n/n336832096eaf?app_launch=false

     
     
    50歳で早皲田倧孊倧孊院の修士課皋に。制䜜䌚瀟を運営しながら、地域創生×デゞタルの珟堎を走り回る日々。 仕事ず研究の䞡立に四苊八苊し぀぀、珟堎で芋たこず、考えたこず、たたに倱敗したこずを曞いおいきたす。 「なぜ50代で倧孊院に」「なぜ地方」——その答えを、ここで少しず぀。

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