
Last MOTHER 第三章 絶望の帰路、消えゆく火
第1節:喪失の朝、歪む信頼
夜の冷気がまだ灰色の荒野に色濃く残る、翌朝のことだった。
浅い眠りから目を覚ましたラルスは、周囲の空気が妙に張り詰めていることに気づき、跳ね起きるようにして身を起こした。
「…いない。どこを探しても、姿がねぇんだよ!」
若い兵士が、取り乱した声を上げながら周囲の岩陰を必死に覗き込んでいる。
ラルスたちが周囲を見渡しても、そこにいるはずの巨躯、グレンの姿はどこにもなかった。彼が昨夜腰掛けていた大岩の上には彼の大剣と、うっすらと朝露に濡れた地面が残されているだけだった。
「まさか! 俺たちを見捨てて、一人で逃げやがったのか!」
昨夜、軍事施設を放棄して退却すべきだとグレンと激しく言い合っていたあの若い兵士が、顔を真っ青に変色させ、絶望の表情を浮かべて叫んだ。
「あの人は昨夜の俺の進言で、この任務が失敗だと見限ったんだ! だから、足手まといの俺たちをここに置き去りにして、自分だけさっさと塔へ―」
「黙れ!!」
ゼインが鋭い声を張り上げ、若い兵士の胸ぐらをつかみ寄せた。
「グレンさんがそんなことするわけねぇだろ! あの人が、どれだけ命懸けで俺たちを守ってきたか忘れたのかよ!」
「じゃあ、この状況をどう説明するんだ! 武器も、主要な食料も残されたままだ。グレンほどの男が、誰にも気づかれずに消えるなんて、自ら姿を消したとしか思えない!」
兵士たちと子どもたちの間に、一気に最悪の不信感と動揺が広がっていく。
リーダーを失ったという事実は、彼らの心を内側から削り取っていくには十分すぎる猛毒だった。泣き出す子どもたちの声が、静まり返った朝の荒野に虚しく響く。
だが、1人の兵士が、グレンの大剣をじっと見つめながら、重々しく口を開いた。
「…いや、言い争いはそこまでだ。あの人が自分の得物を置いていくはずがない。何かやむを得ない事態があったんじゃないか。」
戦士たちは顔を見合わせた。グレンほどの達人が、武器を持たずに単独で動いた。それは「見捨てて逃げた」のではなく、「自分たちに迫る何らかの危機を、単独で引き受けにいった」と仮定する方が、遥かに自然だった。
何より、これ以上この場所で立ち往生し、パニックに陥ることこそが、現在の状況をさらに最悪の結末へと導くことを全員が本能的に恐れていた。
「…先へ進むぞ」
グレンの次に戦闘に長けている兵士が、隊列の中心に立った。
「彼に何か不測の事態があったのだとしても、俺たちの目的地は変わらん。施設へ辿り着けば、そこに強力な駐屯部隊がいる。…行くぞ」
その言葉は、希望というよりは、崩れかけそうな理性を繋ぎ止めるための、必死の言い訳に近かった。しかし、彼らにはもう、その不確かな光に縋るしか道は残されていなかった。
グレンを失った部隊は、まるで見えない刃を首元に突きつけられているかのような、異常な焦燥感に駆られながら荒野を突き進んだ。
敵の罠を警戒し、一歩進むごとに周囲を索敵する。喉が渇いても水を飲む時間すら惜しみ、ただひたすらに目的地を目指した。誰もが口を閉ざし、荒い息遣いだけが灰色の空間に満ちていく。
しばらく進むと、前方に周囲の平原を一望できる、緩やかな小高い丘が現れた。
「おい、見ろ。 あれだ!」
若い兵士が、渇いた声で叫びながら丘の斜面を駆け上がっていく。
その丘の頂へたどり着けば、彼らの旅の終着点であり、人類の最強の砦である「中央訓練施設」が、肉眼でもはっきりと確認できる距離だった。
目的地まではまだ慎重に進まなければならない距離が残されている。だが、その姿を目に焼き付けることができれば、胸を締め付けていたあの底知れぬ恐怖と不信感から、ようやく解放される。誰もがそう信じて、最後の力を振り絞って丘へと駆け上がった。
そして、一番最初に丘の頂へとたどり着き、眼下の景色を見下ろした兵士の一人が、突如として激しく身体を震わせ、悲痛な声を上げた。
「…嘘だろ。なぁ、嘘だと言ってくれよ!」
彼の足がガクガクと震え、そのまま地面にへたり込む。
ラルスとゼインも胸を騒がせながら兵士に駆け寄り、その視線の先を見下ろした。
そこに広がっていたのは彼らが唯一の救いだと信じて疑わなかった、希望の訓練施設のあまりにも凄惨な変わり果てた姿だった。
強固を誇った外壁は、あたかも巨大な怪物の手で握り潰されたかのように無残に粉砕され、天を突いていた中央塔は真ん中から無残にへし折れている。
地面には、遠目からでもはっきりと判るほどの、夥しい数の人間の血痕と、肉塊が転がっていた。生きている者の気配など、微塵も感じられない。
完全なる死の静寂が、そこに刻まれていた。
「全滅しているのか?」
ゼインが呆然と呟き、その場に膝をついた。周囲の子どもたちからも、押し殺したような悲鳴と嗚咽が漏れ出す。
ちょうどその時だった。
彼らの視線の先から少し外れた、横の岩影の方から数十人の影がよろめきながら丘を上がって来るのが見えた。それは、傷だらけになりながらも奇跡的に生き延びていた、施設の生き残りの戦士たちだった。
ラルス達と合流した戦士達の後列には、後方からの襲撃を警戒するグレンの姿があった。
「昨夜見たこともないほどの、異形の群れが襲撃してきたんだ」
一人の戦士が、恐怖に目を血走らせながらラルス達の隊員に告げる。彼の鎧は引き裂かれ、露出した皮膚は抉られ、魔力で一命を取り留めている状態だった。
「防衛線は一瞬で崩壊した。生き残った奴らで、マザーの施設まで逃げ延びようとしたんだ」
「訓練施設以上に防壁が整っているのはあそこだけだからな」
「だが、それも途中で包囲されて!」
1人の戦士は、グレンの顔を見て、その場にへたり込んだ。
「これだけの人数が生き残れたのは、あなたのおかげです、グレン施設副団長。あなたが昨夜、俺たちの退路を確保するために動いてくれなければ、全滅していました」
ラルスは息を呑んだ。
グレンは昨夜、若い兵士の見捨てて退却すべきだという進言を退け、単独で夜間の警戒にあたっていた時に、この生き残りたちの戦闘を発見したのだ。グレンの顔を見ると、昨日よりも明らかにシワが深くなり、髪の半分が真っ白に染まっている。彼はその短時間で、自らの寿命という名の命を爆発させて魔力を練り、この者たちを救い出していた。
疑心暗鬼になっていた兵士はグレンに謝罪をする。
「いや、結果的にはお前達を見捨てたことになる。戦力を天秤に掛けた俺を許せとは言わない。だが、ここに留まれば、確実に次が来る。皆で全滅を待つだけだ」
グレンは兵士から受け取った大剣を地面に突き立て、生存した戦士たちと訓練生、総勢七十名ほどになった全員を見据えた。
「マザーの塔へ戻る。あそこなら、まだ生き残っている可能性がある。移動準備を急げ」
その時、最初から護衛隊にいた年配の兵士、かつてラルスに「本は書き換えられる」と告げたあの古参の戦士が、激しく咳き込みながら歩み寄ってきた。彼は昨日の襲撃で異形の爪によって腹部を深く抉られており、もはや先が長くないことは誰の目にも明らかだった。
「グレン…俺はここまでだ。魔力も…もう、底を突きやがった」
老兵は自嘲気味に笑うと、背負っていた一本の、奇妙な意匠の剣を抜き放った。それは表面に不思議な幾何学模様の刻印が施された、重厚な黒剣だった。
「おい、そこの逞しいガキ…ゼイン、と言ったな」
老兵はゼインを呼び寄せると、その黒剣を乱暴に突き出した。
「これはな…大崩壊前の遺物から削り出した、特別な代物だ。人間の体から放たれる魔力…いや、持ち主の『強い想い』を吸い上げて、刃の硬度に変える性質がある。俺の薄汚れた魔力じゃあ、これ以上は輝かねぇ。…お前に託す。お前のその、ギラギラした若い命を、この剣に叩き込んでみせろ」
「っ。俺が、これを?」
ゼインが戸惑いながらも、両手でその黒剣を受け取る。その瞬間、ゼインの体内から立ちのぼる青い魔力のオーラが、黒剣の刻印へと吸い込まれるようにして、刃が怪しく明滅を始めた。
「大切に使え。そして、その隣の魔力なしのガキを、死なせるんじゃねぇぞ」
老兵はそれだけ言い残すと、満足したように目を閉じ、そのまま二度と動かなくなった。彼の髪は、完全に真っ白に染まりきっていた。ゼインはその剣を強く握り締め、奥歯を噛み締めた。
第2節:死角の案内人
マザーの塔へ引き返す帰路が始まったが、それは行きを遥かに凌駕する絶望の行軍となった。
「おかしい。なぜ奴らは、俺たちの位置をこうも正確に把握してやがる」
防陣の端で剣を振るう戦士が吐き捨てるように言った。
荒野のあちこちから、地響きのような唸り声が響き渡っている。異形の群れは、まるで網を絞るように、正確に部隊を包囲しつつあった。
「なあ、副長」
並んで進む中年の兵士が考え込むように話しかける。
「魔力か?…」
「あぁ、火力が集中するところに涌き出てくる感覚だ…」
エルディシアにおいて、魔力とは生命の火だ。もし魔力に異形が反応するのならば、魔力の燃え盛る火は、暗闇の荒野の中でこれ以上ない巨大な「餌の目印」となっていた。しかし、迫り来る敵を倒すためには魔力を使わざるを得ない。魔力を使えばさらに敵が集まるという、最悪の循環がそこにあった。
その時、グレンの鋭い左目が、隊列の中央を走るラルスを捉えた。
「…おい、ラルス。お前、前方のあの岩陰まで走ってこい」
「えっ? 僕ですか?」
「いいから行け。魔力は一切練るな。いや、お前には練る魔力すら無いんだったな。そのまま走れ」
ラルスは訳も分からず、指示された百メートルほど先の黒い岩場へと、魔力のない細い脚で必死に走った。
驚くべきことが起きた。
岩場のすぐ近くには、数体の異形がうろついていた。彼らは生き物の気配に対して異常に敏感な化け物だ。しかし、ラルスがそのすぐ傍を全力で駆け抜けても、異形たちはピクリとも反応しなかった。まるで、そこに「何も存在しない」かのように、ただ虚空を見つめ続けている。
「なっ! 異形が、あいつを完全に無視してやがる」
若い兵士が目を見開いた。
グレンが低く声を放つ。
「奴らに目はない。大気中の魔力の揺らぎだけで獲物を感知している。そして、ラルスにはその魔力が『完全にゼロ』だ。奴らにとって、あのガキはそこらへんに転がっている石ころや、立ち枯れた木と変わらん。完全な死角『不可視の隠密』だ」
その発見が、全滅寸前の部隊に一筋の、奇妙な戦術の光をもたらした。
「ラルスを主軸にするぞ」
グレンは瞬時に判断し、全体へ命じた。
「ラルス、お前が先頭に立て。魔力のないお前が、異形の包囲網の薄いルートを偵察し、俺たちを先導するんだ。敵と遭遇した時は、お前が死角から回り込んで、異形の注意を逸らす囮になれ。奴らはお前を感知できない。お前が石を投げて音を立てるだけで、異形はそっちを向く」
「僕が…みんなを、導く?」
ラルスは、自分の細い手が小刻みに震えるのを感じていた。
これまで、魔力がない自分は、この世界においてただの「粗大ゴミ」であり、足手まといの寄生虫だと教えられてきた。しかし今、この極限の地獄において、魔力がないというその異常性こそが、七十名の命を繋ぎ止めるための、唯一の最強の武器になろうとしていた。
「やってやろうぜ、ラルス。お前が道を指し示せ。邪魔な化け物は、俺のこの剣でぶっ叩いてやる!」
ゼインが、老兵から受け取った黒剣を掲げて笑った。
「分かりました。僕が、みんなの目になります!」ラルスは木剣を握り締め、隊列の先頭へと躍り出た。
魔力がない少年が主軸となり、歴戦の戦士たちがそれを全力で守りながら進むという、前代未聞の隠密行軍が始まった。
第3節:肉の盾、魂の防壁
ラルスの隠密性は、劇的な効果を発揮した。
彼が風の流れを読み、魔力の霧の薄いルートを的確に指示することで、部隊は数度の巨大な包囲網を奇跡的に回避することに成功した。異形が近づいてきても、ラルスが死角から瓦礫を投げつけて音を立てれば、化け物たちは簡単に誘導された。そこを、グレンや戦士たちが魔力を最小限に抑えた一撃で仕留めていく。
「いける…! このままなら、本当にマザーの塔へ帰れるぞ!」
子どもたちの中に、微かな希望の光が戻りかけた、その時だった。
大地の底から、これまでに聞いたことのないような、空間そのものを震わせる凄まじい咆哮が轟いた。
次の瞬間、彼らが歩いていた地面が、大音響とともに一斉に爆発した。
這い出てきたのは、これまでに遭遇したどの個体よりも巨大な、無数の人間の腕を歪に繋ぎ合わせたような超大型の異形だった。その巨体から放たれる悍ましいプレッシャーに、周囲の大気が黒く歪む。
「ギチチチチ、ガアアアアア!」
化け物の無数の腕が、鞭のようにしなって隊列を襲った。
「しまっ…! 罠か!」
ラルスの隠密性をもってしても、大地の底に完全に潜伏していた敵までは感知できなかった。超大型の異形の出現により、抑え込んでいた戦士たちの魔力が恐怖で一斉に暴発する。それが、周囲にいた数千の異形たちを呼び寄せる最悪の号砲となった。
「囲まれた! 四方八方、すべて異形だ!」
絶叫が響く。もはや、隠密戦術など通用しない乱戦へと突入した。
「ラルスを守れ!!」
グレンの怒声が荒野に響き渡った。
「あのガキを死なせるな! あいつが死ねば、俺たちは全滅する! 生き残る価値があるのは、道を拓けるあのガキだけだ!」
戦士たちは、グレンの意図を瞬時に理解した。自分たちは魔力を使い、寿命を削りながら戦う消耗品だ。しかし、魔力を持たず、異形の死角となれるラルスだけは、この地獄を生き抜いて未来へ繋ぐことができる。
「おおおおお!」
一人の戦士が、自らの髪を根元から真っ白に変色させながら、ラルスの前に立ちはだかった。迫り来る異形の爪をその肉体で受け止め、血を吐きながら叫ぶ。
「行け、小僧! 振り返るな!」
彼の身体は、次の瞬間には三体の異形に群がられ、生々しい音を立てて肉塊へと変えられていった。
戦士たちは、一人、また一人と「自らの命の蝋燭」を最大出力で燃焼させ、限界を超えた奇跡を放っては、ラルスとグレン、そして子どもたちを先へ進めるための「肉の盾」となって砕け散っていった。
それは、凄惨な間引きの光景だった。ラルスが指示するわずかな隙間へ向けて、大人たちが命を投げ捨てて道をこじ開けていく。
「なんで…なんでみんな、僕なんかのために!」
ラルスは涙で視界を滲ませながら、ただ走ることしかできなかった。自分が生き残っているのは、自分が強いからではない。周囲の人間が、その命を次々と床に敷き詰めて、自分のための道を作ってくれているからだった。皆がラルスを主軸とし、彼を生き残らせるために死んでいくからこそ、少年の身体には傷一つ付かないという皮肉。
そして、その犠牲の連鎖は、ついに彼の最も大切な存在へと届いてしまう。
「がはっ…、あっ」
すぐ隣を走っていたゼインが、突如として激しく血を吐き、その場に崩れ落ちた。
見ると、大地の裂け目から伸びた、無数の歪な腕が、ゼインの細くなった胴体を完全に絡め取っていた。
「ゼイン!!」
ラルスは狂ったように叫び、ゼインの手を掴もうとした。しかし、ゼインの肉体からは、すでにあの逞しかった筋肉が完全に消失していた。老兵から受け取った黒剣に、自らの「生きろ」という強い想いと魔力を極限まで注ぎ込み続けた代償として、彼の身体は急速に老化し、ガリガリに痩せ細ってしまっていたのだ。
「ラルス…、もう、魔力が…残ってねぇ…」
ゼインはシワだらけになった顔で、弱々しく微笑んだ。その手には、主の凄まじい意志を吸い込んで、漆黒の輝きを放つ黒剣が握られていた。
「これ…。俺の、命の全部…ここに、籠めたからよ」
ゼインは最後の力を振り振り絞り、その黒剣を、ラルスの胸へと押し付けた。
「生きろラルス。お前は…俺の希望だ…!」
次の瞬間、異形の無数の腕が凄まじい力でゼインの身体を大地の深淵へと引きずり込んでいった。
「ゼイン、ゼイン、ゼイ-ン!!」
ラルスの絶叫は、黒い霧の彼方へと掻き消された。
五日間の激闘の末。
塔を出発した子どもたちも、施設で合流した戦士たちも、全員がラルスを守るための防壁となって、その命を散らせていった。
生き残ったのは、利き腕を失い、髪のすべてが真っ白に染まりきった老人(グレン)と、ゼインの黒剣を握りしめる、魔力なしの少年(ラルス)。
たったの、二人だけだった。