
Last MOTHER 第二章 死線の荒野
第1節:大男と鉄錆の臭い
出発前夜。昼間まで子どもたちの歓声と期待に満ちていた孤児施設は、まるで別の場所になったかのように静まり返っていた。
中庭に吹く夜風は冷たく、石畳の隙間を這うように流れていく。見上げた空は、いつも通り灰色だった。世界の果てに穿たれた深淵から立ち上る黒い霧が、ゆっくりと月を覆い隠そうとしている。その光景を見つめながら、ラルスは胸の奥に説明のつかない重さを感じていた。
明日、自分はこの施設を出る。
十五年間、物心ついたときから世界のすべてだった場所を離れるのだ。その事実は、本来なら喜ぶべきことのはずだった。しかし、期待よりも先に湧き上がるのは、不安だった。未知の世界への恐怖と、自分のような魔力を持たない人間が、本当に外で生きていけるのかという疑念。その二つが、冷たい鉛のように胸の底へ沈んでいた。
そして、マザーと離れること。
ラルスは眠ることができなかった。
荷物の確認は何度も終えた。ゼインたちは明日への期待に胸を躍らせて眠りについたというのに、自分だけが取り残されているような気がして、ラルスは一人、中庭へ足を運んだ。
そして、そこで一人の男を見つけた。
護衛長グレン。
中央訓練施設から派遣されてきた護衛隊の隊長だった。
その姿は、まるで戦場そのものが人の形を取ったかのようだった。全身を覆う黒鉄の鎧には、数え切れないほどの傷跡が刻まれている。背には、身の丈を超える巨大な剣。右目を走る深い裂傷は、過去にくぐり抜けた死線の数を物語っていた。残された左目だけが、夜の闇の中でも異様なほど鋭く光っている。
子どもたちは陰で彼を「死神」と呼んでいた。
グレンはラルスの存在に気づいているはずだった。しかし振り返ることもなく、煙草代わりの乾草を噛みながら、ただ施設の最上階を見上げていた。その視線の先には、一つだけ明かりが灯っている部屋がある。
マザー・イスカルデアの部屋だった。
「……お前が、魔力なしのガキか」
不意に発せられた低い声に、ラルスの肩が跳ねた。
「あ……はい。明日から、お世話になります。僕はっ」
「挨拶はいらん」言葉は途中で切り捨てられた。
グレンは口にしていた乾草を吐き捨てると、ようやくゆっくりと振り返った。
「戦場では、声の大きい奴から死ぬ」
その左目が、ラルスを見下ろした。ただそれだけのことだった。
しかしラルスは、まるで全身の内側まで見透かされたような感覚に襲われ、息を呑んだ。
同時に、鼻を突く臭いがした。
鉄錆。
乾いた血。
そして、その奥に沈殿している、腐敗した何かの臭い。それは単なる体臭ではなかった。何年も、死と隣り合わせの場所で生き続けてきた者だけが纏う臭いだった。ラルスの視線は、自然とグレンの髪へ向かった。
短く刈り揃えられた黒髪。そのあちこちに、白いものが混じっている。根本から白いもの。毛先だけが白いもの。様々だ。
魔力を燃やし、寿命を削ってきた戦士の証。その現実を目の前にして、ラルスは初めて、本当に「外の世界へ行く」のだと実感した。
しばらく沈黙が流れた。
やがてグレンは再びマザーの部屋を見上げ、小さく呟いた。
「……あの女を、どう思う」
突然の問いだった。
「マザー……ですか?」
「ああ」
ラルスは迷わなかった。
「優しい人です」
その答えだけは、何一つ迷う必要がなかった。「僕みたいな魔力のない人間にも、生きる意味を教えてくれました。誰も必要としてくれなかった僕を、ずっと見てくれたんです。だから……僕にとっては、聖女みたいな人です」
風が吹いた。しばらく、誰も口を開かなかった。
やがて。
「フン」グレンが鼻で笑った。
それは単なる嘲笑ではなかった。諦めと、嫌悪と、そして深い疑念が入り混じったような、奇妙な笑いだった。
「聖女、か。おめでたいヤツだ」
「なっ……!」
ラルスは思わず声を荒げた。
「施設にいた頃は気づかなかった」
グレンは冷たく言葉を重ねた。
「だが、離れてみると分かる。あの女からは、妙な臭いがする」
ラルスの心臓が、強く脈打った。
「臭い……?」
「ああ」
グレンはラルスの横を通り過ぎた。その低い声は、まるで墓場の底から響いてくるようだった。
「俺が戦場で何度も嗅いできた臭いだ」
ラルスの背筋に冷たいものが走る。
「死の臭いだよ」
グレンは足を止めなかった。
「腐り落ちた泥みたいな臭いだ」
そう言い残すと、彼は夜の闇の中へと消えていった。重い足音だけが、しばらく石畳に響いていた。
ラルスは、その場から動けなかった。胸の中にあるのは恐怖ではない。
怒りだった。
世界で一番優しい人を。
自分に生きる意味を与えてくれた人を。なぜ、あんなふうに侮辱できるのか。
夜空を覆う黒い霧を見上げながら、ラルスは強く拳を握った。
その歴戦の戦士だけが嗅ぎ取ったその「臭い」こそが、自分たちの世界を根底から覆す真実へと繋がる、最初の兆候だったことには気が付かず。
第2節:檻の外の地獄
翌朝。夜明けとともに、施設全体に重い鐘の音が響き渡った。その音は、十五歳になった子どもたちにとって、新たな人生の始まりを告げる祝福の鐘であるはずだった。しかしラルスの耳には、どこか処刑の開始を告げる鐘のようにも聞こえた。
やがて、数百年もの間、外界を拒み続けてきた巨大な白鉄の門が、地鳴りのような轟音を響かせながら、ゆっくりと開き始めた。重い金属が擦れ合う音が、大地そのものを震わせる。
誰も言葉を発しなかった。
子どもたちはただ、その向こう側を見つめていた。
そこには、「外の世界」が広がっていた。
だが。そこにあったのは、希望でも、自由でもなかった。
灰色だった。
空も。大地も。風さえも。すべてが灰色だった。地面は乾き切ってひび割れ、生命の痕跡すら感じられない。遥か彼方には、上部が吹き飛んだ巨大な塔の残骸が、まるで巨人の墓標のように空を突いていた。かつて森だったのだろう場所には、黒く炭化した木々が、死者の指のように枝を伸ばしている。
そして、大地の底には常に黒い霧が沈殿していた。息を吸うたび、肺の奥が焼けるように痛んだ。
「……これが、外の世界……」
誰かが呟いた。それは歓喜の声ではなかった。恐怖と絶望が入り混じった、かすれた声だった。
門の前には、マザー・イスカルデアが立っていた。純白の法衣を纏った彼女だけが、この灰色の世界の中で唯一色彩を持っているように見えた。
彼女は十五人の子どもたちを、一人ずつ抱きしめ、祝福の言葉を送っていた。
「強く生きるのですよ」
「仲間を大切にしなさい」
そのたびに、送り出される子どもたちは涙を流し、頭を下げた。
そして。最後にラルスの番が来た。
マザーは微笑んだ。それは、ラルスが十五年間見続けてきた、あの優しい笑顔だった。
「ラルス」
その声を聞いただけで、胸が熱くなった。マザーは彼を抱きしめた。
細い腕。
柔らかな感触。
そして、いつもと同じ花の香り。
昨夜、グレンが言っていたことを思い出した。
腐った泥の臭い。
そんなものがあるはずがない。この人は優しい。この人は、自分を救ってくれた。この人だけが、自分を必要としてくれた。
ラルスは、その温もりの中で確信した。グレンは間違っている。
絶対に。
「必ず帰ってくるのですよ」
マザーが耳元で囁いた。その声は、いつもより少しだけ甘く、優しかった。「私の、大切な子」
ラルスは力強く頷いた。
「はい。僕、頑張ります」
「ええ。あなたならできます」マザーは微笑んだ。
その笑顔は、どこまでも慈愛に満ちていた。ラルスは頭を下げ、駆け足でゼインの隣へ向かった。
「遅ぇぞ!」
「ごめん」
「泣いてたのか?」
「泣いてないよ!」
ゼインが豪快に笑った。その笑顔に、少しだけ緊張が和らいだ。
やがて、護衛隊が歩き始めた。十五人の子どもたちも、その後に続く。
ラルスは何度も振り返った。
生まれてからずっと過ごした場所。
唯一の居場所。
唯一、自分を必要としてくれた人。
その姿を、少しでも長く目に焼き付けていたかった。さ白い塔が、徐々に遠ざかっていく。
マザーの姿も、小さくなっていく。それでも彼女は、ずっとこちらを見つめていた。
ラルスは最後にもう一度、手を振ろうとした。
その時だった。
マザーの微笑みが。
ほんの一瞬だけ。
歪んだ。
ラルスの呼吸が止まった。
見間違いだ。そう思った。
その瞬間。マザーの唇が、ゆっくりと動いた。距離がありすぎて、声は聞こえない。
けれど。
なぜか。
なぜかラルスには、その言葉だけが見えた気がした。
私の子。
「おい、ラルス?」
隣のゼインが不思議そうに声をかけた。
ラルスは慌てて振り返った。
再び見た時には、マザーはいつもの優しい微笑みを浮かべていた。何も変わっていない。いつものマザーだった。
だが。何か特別な違和感を感じながら、一行はマザーの施設をあとにした。
第3節:異形の嵐、そして親友の死
初日の行軍は、ラルスの想像をはるかに超える過酷さだった。
外の世界には道という概念が存在しなかった。砕けた石畳が地面から不規則に突き出し、ところどころに口を開けた亀裂が行く手を阻む。かつて建造物だったと思われる巨大な残骸が、墓標のように荒野へ突き刺さっていた。
空は相変わらず灰色だった。
風が吹くたびに、黒い霧が大地を這い、足元を曖昧にしていく。出発から数時間が経った頃には、子どもたちの顔から興奮の色はすっかり消えていた。
休憩の合図が出されると、皆がその場に座り込んだ。ラルスも荒い息を吐きながら岩に腰を下ろす。
「見ろよ、これ」
ゼインが差し出したのは、奇妙な金属片だった。
表面には見たこともない幾何学模様が刻まれている。
「これ、本で見たことがあるかも」
ラルスは慎重にそれを受け取った。
「大崩壊前の文明の遺物……かもしれない」
近くで剣の手入れをしていた年配の護衛兵が、鼻で笑った。
「文明だと?」
「図書室の本には、そう書いてありました」
「本なんざ、上にいる連中が好きなように書き換えるものだ」
ラルスは目を瞬いた。
「書き換える……?」
「世界は最初からこうだった。それで十分だ」兵士はそれだけ言い残し、立ち去った。
ラルスは手の中の金属片を見つめた。
本当にそうなのだろうか。もし世界が最初からこうだったのなら、なぜ「大崩壊前」などという言葉が存在するのか。
小さな疑問が、心の奥に沈んだ。
だが、その疑問を考える時間は与えられなかった。先頭にいたグレンが、突如として右腕を高く上げたのだ。
「静かに」
低い声だった。しかし、その一言だけで空気が変わった。
護衛兵たちの表情から感情が消える。
「囲め。子どもを中央へ」
命令と同時に、十二人の護衛兵が一斉に動いた。
剣が抜かれる。
魔力が灯る。青、赤、黄。
さまざまな色の光が兵士たちの身体を包み込んだ。
ラルスの喉が鳴った。
ゼインはすでに木剣を握り締めている。
その時だった。
遠くから。
いや。地面の下から。低い唸り声が響いた。
それは獣の声ではなかった。
人間でもない。まるで、大地そのものが苦痛に呻いているような音だった。
「来るぞ」
グレンが呟いた。次の瞬間。
黒い岩陰から、何かが飛び出した。
「異形だ!!」
護衛兵の叫びが荒野に響く。
それは、人の形をしていた。しかし、人間ではなかった。
異常に長い両腕。
四足で地面を掻く歪な身体。そして、その顔には目も鼻もなかった。
ただ、頭部を縦に裂いたような巨大な口だけが存在していた。無数の牙が、粘つく音を立てながら蠢いている。
「オオオオオオオッ!!」
異形が跳んだ。
一人の護衛兵が前へ出る。青い魔力が脚を包み込んだ。大地が爆ぜる。
一瞬だった。
兵士の姿が消えたように見えた。次の瞬間には、異形の背後に立っていた。
閃光。そして。
異形の身体がゆっくりと崩れ落ちた。
「まだだ!」
グレンの怒号が飛ぶ。
ラルスは息を呑んだ。
岩陰から。
瓦礫の隙間から。
大地の裂け目から。
次々と異形が現れ始めたのだ。
十体。
二十体。
三十体。
数え切れない。
「なっ、なんて数…!」
護衛兵の言葉には恐怖が混じっていた。
それらは叫び声を上げながら、一斉に襲いかかってきた。
「命を燃やせ!」
グレンが巨剣を抜いた。
刃が、白紫色の炎に包まれる。その輝きは、まるで雷そのものだった。
グレンが踏み込む。
大地が陥没した。次の瞬間。
巨大な衝撃波が前方を薙ぎ払った。
異形たちがまとめて吹き飛ぶ。
しかし。ラルスは見てしまった。
その一撃と引き換えに。グレンの黒髪が、数本だけ真っ白に変わった瞬間を。
命を燃やす。その意味を。
ラルスは初めて理解した。
戦いは激しさを増していった。護衛兵たちは強かった。だが、異形は恐怖を知らない。
身体を斬られても。
吹き飛ばされても。
ただ、人間を喰らうためだけに進み続ける。
一体が倒れる。
二体が飛びかかる。
三体目が背後から現れる。
護衛兵たちの呼吸が荒くなっていく。髪が白く変わっていく。
命が削られていく。
「いやだ……!」
突然、一人の少年が叫んだ。恐怖に耐えきれなかった。彼は円陣を飛び出し、来た道を走り始めた。
「戻れ!」
グレンの怒声が響く。だが、遅かった。
大地の裂け目から伸びた黒い腕が、少年の足を掴んだ。
悲鳴。
転倒。
そして。無数の影が、少年の姿を覆い隠した。子どもたちの絶叫が上がった。
「ゼイン!」
ラルスは親友の異変に気づいた。ゼインが飛び出そうとしている。
全身から赤い魔力が溢れていた。
「あいつを助ける!」
「駄目だ!」
ラルスは必死にしがみついた。
「離せ!」
「お前まで死ぬ!」
二人がもみ合った、その瞬間だった。
背後から。音もなく。
もう一体の異形が迫っていた。
ラルスは振り返った。
巨大な口。無数の牙。そして、振り下ろされる爪。
考える時間はなかった。
「危ない!」
ラルスはゼインを突き飛ばした。
自分の身体が地面を転がる。視界が回転した。気づけば、目の前には異形の巨大な口があった。
生暖かい息が顔にかかる。
(終わった)そう思った。
その瞬間。
銀色の閃光が、視界を横切った。
轟音と衝撃。
目の前の異形が吹き飛ぶ。
黒い霧の向こうに立っていたのは。グレンだった。彼はラルスの襟首を掴み上げた。
「馬鹿者どもが!」
怒号が響く。
「死にたいなら一人の時に死ね! 他人の命まで巻き込むな!中心で大人しくしてろ!」
ラルスは震えていた。
だが。
その怒声の奥に。ほんのわずかな安堵が混じっていることに気づいた。
戦闘が終わった時。荒野は静まり返っていた。十二人いた護衛兵は、二人を失っていた。
十五人いた子どもたちは、三人がいなくなっていた。
風だけが吹いている。
ゼインは地面に拳を叩きつけた。
拳から血が滲んでいた。
「……何なんだよ」
声が震えていた。
「俺たちは……あんなのと戦っているのかよ」
ラルスは答えられなかった。ただ、親友の隣に立ち尽くすことしかできなかった。
彼らが夢見ていた外の世界は。
あまりにも広く。
あまりにも残酷だった。
第4節:使命の真意
その夜。
生き残った者たちは、崩れかけた石造りの建造物の残骸を利用して、急ごしらえの野営地を築いていた。
火は焚かなかった。いや、焚けなかった。灯りは異形を呼ぶ。それは、護衛兵たちにとって常識だった。
灰色の空の下、冷たい風だけが荒野を吹き抜けている。どこか遠くで、昼間に聞いた異形の唸り声に似た音が響いた気がして、ラルスは思わず肩を震わせた。
誰も眠れてはいなかった。生き残った子どもたちは互いに身を寄せ合い、小さく震えている。すすり泣きは、止まることなく夜の闇に溶けていた。
ラルスもまた、目を閉じることができなかった。瞼を閉じれば、昼間の光景が蘇る。
異形の牙。
引き裂かれる肉。
飛び散る血。
そして、命を燃やす兵士たちの姿。グレンの白く変わった髪が、何度も脳裏に浮かんだ。
(これが……外の世界……)
彼らは、この世界を守るために戦っている。そう教えられてきた。
そう信じてきた。
だが、本当にそうなのだろうか。ラルスの中で、何かが少しずつ軋み始めていた。
喉が渇いた。
ラルスは音を立てないように毛布から抜け出し、水筒を探しに立ち上がった。
その時だった。
岩陰の向こうから、低い話し声が聞こえてきた。
「……二人も喰われた」
若い護衛兵の声だった。ラルスは思わず足を止めた。
「今日の襲撃は異常だ。こんな数、前線でも見たことがない」
相手の返事はない。
だが、そこにいる相手が誰なのか、ラルスにはすぐに分かった。
グレンだ。
「俺たちの魔力も限界に近い。あと何回も同じ規模の襲撃が来たら、全員死にます」
風が吹いた。
しばらく沈黙が続く。ラルスは息を殺した。「……だから?」
グレンの声だった。昼間と同じ。
感情の欠片もない、低い声。
「だから……子どもたちは置いていくべきです」若い兵士の声が震えていた。
「俺たちだけなら、逃げながら生きて帰れる。だが、こいつらを抱えたままじゃ全滅だ。見捨てなきゃ」
ラルスの心臓が強く跳ねた。
置いていく。
見捨てる。その言葉が、冷たい刃のように胸へ突き刺さる。
「特に……あの魔力なしのガキは」
ラルスの呼吸が止まった。
「向こうに行っても戦力にならない。足手まといです」
長い沈黙。
グレンは何も言わなかった。ラルスは祈るような気持ちで、その返答を待った。
やがて。
「それは許可できん」
低い声が響いた。ラルスは知らず知らずのうちに、握り締めていた拳の力を緩めた。
しかし。
次に続いた言葉は、彼の想像とは違っていた。「私は命令を受けている」
若い兵士が食い下がる。
「ですが、このままでは全滅します!」
「構わん」
その答えは、あまりにも即答だった。
「全滅しても、だ」
風が止んだ。
ラルスは自分の耳を疑った。
「何故です!」
兵士が声を押し殺しながら叫ぶ。
「何故、そこまでして!」
グレンはしばらく答えなかった。
そして。
まるで墓石の下から響いてくるような声で、静かに言った。
「私の使命は、子どもたちを守ることではない」ラルスの全身が硬直した。
「……連れ出すことだ」
その言葉は、夜の闇よりも冷たかった。
「生きていようが、死んでいようが関係ない。あの場所から、連れ出す。それだけが私の使命だ」
若い兵士が息を呑む音がした。
「そんな……」
「命令だ」
グレンの声は変わらない。
「理由を知る必要はない」
長い沈黙。
やがて。
「……分かりました」
若い兵士の声は、完全に力を失っていた。足音が遠ざかる。
一人になったグレンは、しばらくその場に立ち尽くしていた。ラルスは息を止めたまま、岩陰に身を隠していた。
その時だった。
グレンが、誰に向けるでもなく呟いた。
「……頼む」
その声は、初めて聞く声だった。
疲れ切った。
諦めた。
それでいて、どこか祈るような声。
「もう少しだけ、耐えてくれ」
その言葉が、誰に向けられたものだったのか。ラルスには分からなかった。
やがてグレンも、闇の中へ歩き去っていった。一人残されたラルスは、しばらく動くことができなかった。
守るためではない。
育てるためでもない。
ただ。連れ出すため。
それが、グレンの使命。
それが、中央訓練施設の命令。
なぜ。
何のために。
頭の中で、疑問が何度も渦を巻いた。
ふと、施設を出る時のマザーの顔が脳裏に浮かんだ。
優しい笑顔。
暖かな抱擁。
そして。ほんの少しだけ見えた歪んだ笑み。
ラルスの背筋を、冷たいものが走った。
その夜、生き残った者たちは皆、「あと一日耐えれば中央訓練施設に着く」という言葉だけを支えに、冷え切った大地の上で浅い眠りについた。
防衛に長けた数名の戦士達が夜営を囲む強いシールドを張った。近くを流れる川の音も遮断され、不気味なほどの静けさが彼らを覆っていた。
誰も知らなかった。
彼らが向かうべき場所が、この世界で最も恐ろしい場所であることを。
そしてラルス自身が、その地獄の中心に立つために選ばれた存在であることを。