
Last MOTHER 第一章 虚妄の揺りかご
魔力を持たない少年だけが、母に愛されていた。ダークファンタジー小説『Last MOTHER』
=========================
異形に脅かされる終末世界《エルディシア》。人々は命を削る“魔力”を使い、かろうじて生き延びていた。
十五歳になる子どもたちは、戦う者として世界へ旅立つ。
だが、少年ラルスだけは魔力を持たない。
役立たずと蔑まれる彼に、育ての母《マザー》だけは優しく微笑み続けた。
初めて外へ出た日、ラルスは気づき始める。
この世界には、語られていない真実がある。
そして他にも――。
ダークファンタジー小説<Last MOTHER>
第1節:灰色の空と燃えぬ火
エルディシアの空は、いつだって灰色だった。
見上げる天球を覆うのは、ちぎれた雲ではない。遥か彼方の大地の裂け目。世界の果てに穿たれた深淵から、昼夜を問わず立ちのぼる黒い霧だ。その霧が陽光を遮り、空を濁った鼠色に染め上げている。
ラルスは、物心ついた頃からそう教えられて育った。
霧の向こうには、人間の知性を拒絶した異形の軍勢が潜んでいる。彼らは人の営みを憎み、世界を永遠の闇へと突き落とそうとしている。
施設の図書室に並ぶ黄ばんだ羊皮紙の本にも、年配の戦士たちの講義にも、同じことが記されていた。だからラルスは、それを疑いようのない真実だと信じていた。
ラルス・L・インゴッドは、あと数日で十五歳になる。
この世界における「成人」の境界線だ。
しかし、訓練場に並ぶ同年代の子どもたちの中で、ラルスはあまりにも異質だった。
彼らの年齢になれば、戦士としての肉体が完成し始める。肩幅は広がり、大腿の筋肉は引き締まり、野生動物のような力強さが宿る。
だが、ラルスだけは違った。
肩幅は狭く、鎖骨が白く浮き出ている。手首は驚くほど細い。どれだけ木剣を振っても、その身体には不格好なほどの柔らかさが残ったままだった。
そして何より――
エルディシアの人間なら誰もが持つはずの「魔力」が、彼には欠片ほども存在しなかった。
エルディシアにおいて、魔力とは魂の輝きであり、同時に「生命の火」そのものである。
人は体内の熱源を精神の触手で捉え、それを燃焼させることで、人ならざる力を得る。足は疾風のごとく速くなり、鉄塊のような大剣を振るえる。骨折や裂傷さえ、瞬く間に癒やすことができた。
選ばれた強者ともなれば、雷を呼び、烈火を放って異形を焼き尽くすことさえある。
しかし、その奇跡には残酷な代償があった。
魔力とは、生命エネルギーそのものだ。強大な力を振るうほど、内臓は焼かれ、肉体は急速に摩耗していく。
十代で前線に立った英雄が、二十歳を迎える頃には老人のような容貌となり、白髪に変わった髪を揺らして息絶えることも珍しくない。
魔力を使うとは、自らの寿命という名の蝋燭を、薪のように燃やしていることに等しかった。
それでも、人々は戦った。
そうしなければ、黒い霧から現れる化け物たちに、愛する者も、幼い子どもたちも、すべてを喰い尽くされてしまうからだ。
若くして白髪となり、枯れ木のように衰えて死んでいった戦士たちは、恐怖の象徴ではなかった。
彼らは、世界を守った英雄だった。
けれど。
ラルスには、その尊い火すらなかった。体内のどこを探しても、熱の揺らぎ一つ見つからない。彼にとって自分の身体とは、ただ冷え切った暗い空洞でしかなかった。
「……くそ、っ」
乾いた地面に向かって、何度も掌をかざす。
汗が滴る。だが、じっと見つめる掌には、火花の一片すら宿らない。
ラルスは、自らの無力という名の檻に、完全に閉じ込められていた。
第2節:泥にまみれた木剣
「あはは! 見たかよ! またゼロだ!」
重い音を立てて、木剣が訓練場の土の上を転がった。落としたのはラルスだった。
周囲を囲む少年たちが、彼の細い指先を指差して笑う。彼らの掌からは、すでに十代前半とは思えないほどの赤や青の魔力が、揺らめく炎のように立ちのぼっていた。
「おい、魔力なしのラルス! お前、本当に人間か?」
「十五にもなって火の粉一つ出せないなんて、家畜以下だろ!」
「いや、こいつは特別なんだよ。俺たちの靴を磨いて、飯を運ぶための『雑用係の英雄さま』なんだからな!」
悪意に満ちた笑い声が響き渡った。少年たちにとって、ラルスを蔑むことは日常だった。
この世界で、魔力を持たない者は「戦う資格のない存在」だ。価値のない者。守られるだけの重荷。
ラルスは奥歯が砕けそうなほど歯を食いしばった。
言い返したかった。
誰よりも悔しかった。
胸の奥で燃え上がる怒りが、自分を焼き尽くしそうになる。
だが、どれだけ怒っても、掌に魔力が宿るわけではない。その現実だけは、嫌というほど理解していた。
「……すまない。すぐに片付ける」
ラルスは小さく呟き、泥にまみれた木剣を拾い上げた。少年たちは満足そうに背を向け、それぞれの訓練へ戻っていく。
ラルスは一人、訓練場の隅に積まれた薪を運び始めた。
重い。
腕が震える。
何度も往復するうち、ささくれが皮膚に刺さり、手から血が滲んだ。それでもラルスは運び続けた。
この痛みだけが、自分が生きている証のように思えたからだ。
第3節:聖母の芳香
「ラルス、大丈夫ですか?」
その声を聞いた瞬間、ラルスの身体を支配していた緊張が、一瞬で溶けていった。
振り返る。そこには、純白の法衣をまとった老女が立っていた。
マザー・イスカルデア。
この孤児施設の母であり、ここに集められたすべての子どもたちの育ての親。
六十をとうに過ぎているはずだったが、その背筋は一本の槍のように美しく伸びていた。腰まで届く銀髪は月光を織り込んだように輝き、その瞳には、人を武器から遠ざけるほどの深い慈愛が宿っている。
彼女の微笑みは、この灰色の世界に残された唯一の救いだった。
「人を傷つける言葉は、自分の魂も傷つけます。いじめてはいけませんよ」
穏やかな声だった。
だが、その場の誰も逆らうことはできなかった。
少年たちは顔色を変え、一斉に頭を下げて去っていく。
静寂が戻った。
マザーはゆっくりとラルスの前にしゃがみ込み、土と血で汚れた彼の手を、両手で包み込んだ。
「怪我はありませんか?」
「……大丈夫です。慣れていますから」
ラルスは俯いたまま答えた。
マザーは白い布を取り出し、彼の手を丁寧に拭っていく。その仕草には、底知れない愛情が込められていた。
「ラルス。あなたは優しく、誠実な子です。世の中には、力こそすべてだと思っている人がたくさんいます。ですが、強さには様々な形があるのですよ」
優しい声が、冷え切った心に染み込んでいく。「誰かの痛みを理解できること。それもまた、とても尊い強さなのです」
世界中が自分を否定しても、この人だけは違った。マザー・イスカルデアだけは、いつだってラルスを見てくれていた。
彼女の存在こそが、ラルスがこの世界で生きていていいと信じられる、たった一つの理由だった。
その夜。
ラルスは眠れずにいた。
薄い毛布にくるまり、窓の外を見る。
黒い霧の隙間から、灰色の月が弱々しく輝いていた。
自分には何ができるのだろう。
仲間たちは十五歳になれば、中央訓練施設へ送られる。そこで兵士となり、やがて異形と戦い、そして死んでいく。それが、この世界の誉れある運命だった。
だが、自分には魔力がない。
このまま施設に残り、笑われながら老いて死ぬのだろうか。
「……うっ」
嗚咽が漏れた。
その時。
静かに部屋の扉が開いた。
「夜は冷えますからね」
そこには、手燭と毛布を抱えたマザーが立っていた。
「眠れないのですか?」
彼女はベッドの傍らに腰を下ろし、もう一枚の毛布をそっと肩にかけた。
その瞬間、マザーの身体から、あの不思議な香りが漂ってきた。
聖なる花のようでありながら、雨上がりの深い土にも似た香り。その香りに包まれると、ラルスは不思議と心が落ち着いた。
「マザー……僕、怖いんです」
ラルスは震える声で言った。
「僕だけ、何もできない。みんなは英雄になるのに……」マザーは何も言わず、濡れた頬を優しく撫でた。その指先は、驚くほど温かかった。
「ラルス。力を持たない者ほど、心は深く、美しく育つものです。神様は、耐えられない試練を与えません」
「でも僕は、誰の役にも立てません」
「いいえ」
マザーは微笑んだ。
「あなたには、あなただけの役目があります」
月光を浴びたその微笑みは、どこまでも神聖だった。
「私はね。誰よりも、あなたを必要としているのですよ」
ラルスは、もう何も言えなかった。こんな自分を必要としてくれる人がいる。
その事実だけで胸がいっぱいになった。彼はマザーの胸に顔を埋め、声もなく泣き続けた。
マザーは、彼が泣き止むまで、いつまでも優しく頭を撫で続けていた。
第4節:選別と熱き手のひら
翌朝。十五歳になる子どもたちへ向けて、通達が下された。
「三日後、中央訓練施設の護衛隊が到着する。各自、出発の準備をしておくように」
副官の声が響いた瞬間、食堂は歓声に包まれた。
「ついに外へ行ける!」
「俺の火の魔力を試してやる!」
「本物の街があるんだろ!?」
興奮する少年たちの中で、ラルスの唯一の親友・ゼインが、彼の肩を強く叩いた。ゼインは誰よりも強い魔力を持ちながら、決して驕らない男だった。そして、幼い頃からラルスを守ってくれた、たった一人の友達だった。
「ラルス。お前も準備しろよ。一緒に行くんだろ?」
ラルスは目を伏せた。
「僕は……魔力がないから。きっと選ばれない」その言葉を聞いた少年たちが、一斉に笑った。「選ばれるわけねぇだろ!」
「異形の息だけで死ぬぞ!」
「現実見ろよ!」
嘲笑が広がった。
その時だった。
「いいえ。ラルスにも、外へ行く資格があります」マザー・イスカルデアの声が、食堂に響いた。
一瞬で静寂が訪れた。副官でさえ、驚愕の表情を浮かべる。
「しかし、マザー! 彼には魔力がありません!」
「この子には、この子にしか果たせない役目があります」穏やかな声だった。
だが、そこには絶対の意志があった。
マザーは壇上から降り、呆然と立ち尽くすラ
ルスの背後に回った。そして、その肩に両手を置く。
熱い。
ラルスは息を呑んだ。それは昨夜の温もりではなかった。皮膚が焼けるような、異様な熱。まるで彼女の体内で、何かが猛烈な勢いで燃え盛っているかのようだった。
だが、その感覚よりもなにより、ラルスの胸は歓喜で満たされていた。
認められている。
自分にも、未来がある。
自分も、みんなと同じ場所へ行ける。
生まれて初めて、希望がラルスの世界を照らしたような気がした。
「頑張ろうな、ラルス!」
ゼインが笑う。
ラルスも、涙を堪えながら力強く頷いた。
彼らの旅立ちが、どれほどの地獄へと続いているのか。
この時のラルスは、まだ知る由もなかった。