メインコンテンツへスキップ
見出し画像

【アメリカ南部工場で私が見たもの④】:震えるジム、そして運命のトヨタ監査                      

    研削機の油タンクに浮かんだ黄色い「アヒル」。それは、極度の緊張状態にあった私と現地のワーカーたちとの間に、確かな信頼関係が芽生えた証だった。 しかし、信頼が芽生えたその瞬間こそ、私たちが最も試される「本番」が迫っていた。「よし、トヨタでも何でも来い」 腹を括った私の横で、しかし「あの男」は、プレッシャーに押し潰されそうになっていた。

    理不尽な「手のひら返し」

    アメリカ南部の田舎町での工場再生ミッション。少しずつ現場のワーカーたちと心を通わせ始めた私たちに、かつてない強敵が迫っていた。

    「トヨタの工場監査」である。

    「フランク……アカン、これホンマにヤバいかもしれん」 私の横で青ざめていたのは、あの「ジム」こと、品質管理課長の下さんだった。言葉の壁を越えて現地のワーカーたちから慕われていた彼だが、これまで一度も「トヨタの厳しい工場監査」を受けた経験がなかった。

    日本の製造業において、トヨタの品質管理と監査の厳しさは伝説レベルである。職人肌で現場に強いジムでさえ、そのプレッシャーの前では借りてきた猫のように怯えていた。

    事の発端は、私たちがこの会社を買収する「前」に起きた市場クレームだった。

    正確に言うと、我々はいわゆる「Tier1(一次下請け)」ではなく「Tier2(二次下請け)」に分類される企業であった。我々の製品はTier1であるJ社(サブアセンブリーメーカー)に納入され、そこからトヨタのようなOEM(完成車メーカー)に納入される。 我々の製品はパワートレインの重要な要素であるため、品質要求は極めて厳しい。しかし通常であれば、品質クレームは直接の納入先であるTier1が対応し、彼らが我々Tier2を監査するのが筋だ。Tier2の工場に、トヨタのようなOEMの人間が直接やって来ることはまずない。

    今回の監査は、事の重要性を表していると同時に、「アメリカの工場を買収した日系企業(我々)が、きっちりと品質改善を進めているか」を見る意味もあったのだろう。

    もし今回の監査で、我々が原因を特定し、再発防止策をきっちりと示せなければ、この製品のトヨタに対する納入が出来なくなる。そうなると我々が困るのはもちろんだが、Tier1であるJ社も日本から製品を輸入せざるを得なくなり、関税やLocal Content(現地調達率)の問題で非常に不利になる。 つまり今回の監査は、トヨタそのものというより、監査に同行してくるTier1(J社)の「沽券にかかわる監査」だったのだ。

    J社は、トヨタの系列メーカーのうちの1社だ。彼らの工場の多くは関西にあり、我々のカウンターパートも大阪や奈良の出身である。J社は我々が買収する前から、H社(我々が買収した南部企業)に対して品質指導をしていたのだが、言葉の壁などでうまくいかないことが多かったようだ。

    もともと私たちのH社買収は、日系の自動車メーカーやTier1企業から「ぜひアメリカに来てくれ。全面的にサポートするから」と懇願されて決断したものだった。 しかし、いざ買収してクレームが発覚すると、J社からは「お前らのせいや。どないしてくれるんや」という、強烈な手のひら返しに遭ったのである。

    問題は、我々の工場の設備の入れ替えがまだ始まったばかりであり、誰がどう見ても「良い状態」とは言えなかったことだ。

    トヨタの「現地化」とH社の「日本化」

    そして始まった工場監査。 トヨタからは、パワートレイン部門の課長級と主任級の日本人出向者2人、そして大学を出て間もないアメリカ人の技術者がケンタッキー工場から来ていた。 Tier1のJ社からは、サウスカロライナ工場から品質担当の日本人出向者が2人、ミシガンの営業所からトヨタ担当のFAE(技術営業)の日本人が1人。 迎え撃つ我々は、アメリカ人の工場長、品質部長、ジム、そして私(フランク)の4人である。

    前回触れたように、トヨタの監査は超・現場主義だ。 工程を回っている間、監査員3人がずっと同じ場所にいるとは限らない。1人が質問して我々が説明している隙に、他の2人が勝手に違う工程に行っていろいろとチェックしている。人数の少ない我々は対応に苦慮した。

    ここでも現場作業者との間を取り持つのは私だ。トヨタの課長からの質問はすべて日本語なので、私がマネージャーや作業者に英語で聞いて回答する。時には、好ましくない事実をそのまま回答せざるを得ない場合もある。

    そういう時、トヨタではなく、J社のヒゲを生やしたFAEが、烈火のごとく私に対して怒鳴り散らすのだ。 「そんなことを聞いとるんとちゃうんや!」

    私は内心、「なんで別会社の人間に怒鳴られなあかんねん」と不満だったが、要するにJ社も必死だったのだ。

    そんなピリピリとした空気の中、私はふと、トヨタの監査メンバーの一人であるアメリカ人の若者に、トヨタの日本人課長と主任が非常に気を使っていることに気がついた。 仮に彼を「John(ジョン)」としよう。Johnはミシガンの大学を出てすぐにケンタッキーのトヨタ工場に就職したようで、私と年齢も近い。トヨタが経験の浅い彼をわざわざ連れて来ているのは、明らかに彼を鍛え、「監査」という重要な職責を現地化(Localize)しようとしているからだった。

    Localization(現地化)は、海外進出するどの企業にとっても大きな課題だ。特にトヨタやJ社のように、1から工場を新設した大企業は、当初は日本からの大量の出向社員で回すことが多い。しかしコスト的にも就労法的にも、いつまでもそれは続けられない。

    一方の我々は、完全に「現地化」しきっていたアメリカのローカル企業を買収し、そこに「日本のモノづくり」をいかに注入しテコ入れするかという課題を持っていた。まさに「真逆の課題感」が交差する監査現場だったのだ。

    こういう監査は、どうしても日本語中心になりがちだ。特にJ社のように日本人だけで来ていれば、日本語……いや、完全に「関西弁の監査」になってしまう。これではJohnは浮いてしまうし、トヨタが望む「現地化の育成」にもならない。

    そこで私は、意図的にJohnを中心に会話を回すように努めた。 Johnと我々のアメリカ人メンバーとの英語の会話を中心に据え、その内容を私がトヨタとJ社の日本人メンバーに日本語で説明しつつ進めていく。こうすることで、ヒゲのFAEおじさんの「怒声ノイズ」を封じ込めることができる。

    この戦略は思いのほかうまくいった。色々と指摘は受けたものの、日中の厳しい監査は何とか切り抜けることができた。

    夜のアトランタ決戦

    日中の指摘を神妙な面持ちで受け止めた後、私たちは監査員たちを車に乗せた。 向かった先は、ジョージア州の州都・アトランタである。工場の広がる赤土の田舎町から車を走らせること40分。そこには、アメリカ南部随一の「高級和食レストラン」があった。

    「いやあ、本日は遠いところ、本当にありがとうございました! ささ、どうぞどうぞ!」 そこからはもう、昭和・平成初期の日本企業の「伝統芸能」である。私たちは監査員たちに、最高級の日本食と酒をこれでもかと振る舞った。

    特に若きJohnは、日ごろはケンタッキーの工場にいるため高級和食店など行ったことがなかったようで、よほど楽しかったのかかなり酔っぱらっていた。 通常、こうした接待の場では日本人同士が日本語で話し、アメリカ人はそっちのけになってしまうことが多い。しかし、私はそうはしない。「郷に入れば郷に従え」だ。

    そこがアメリカならば、まずは英語。会話の中心を英語に持っていく。英語で場を盛り上げつつ、ちょいちょい日本語でフォローを入れる。こうすることでJohnに疎外感を持たせないというトヨタの意図を満足させつつ、何よりも何かとうるさいJ社の面々を黙らせることが出来るのだ。

    すっかり酔っぱらったJohnは、私にこう聞いてきた。 「日本の出向社員はみんな英語が出来ないのに、どうしてフランクはそんなに話せるんだ?」

    私は昼間の腹いせも少し込めつつ、笑顔で強烈な皮肉を言ってのけた。 「真剣に仕事してたら、普通は話せるようになるでしょ」

    監査はお世辞にも「完璧だった」とは言えない内容だったが、我々が設備をどんどん更新してしっかりと投資している姿を見て、トヨタの監査員は安心したのだろう。彼らも結局は、我々をいじめに来ているのではなく、一緒に「世界一の品質の車を、世界一効率の良い工程でつくるため」に指導に来ているのだ。

    私は、あのトヨタでさえ現地化に腐心していることを目の当たりにし、一層気を引き締めて工程とコストの改善に取り組もうと心に誓った。

    机のイエローリボンと、涙のクリスマス

    季節はめぐり、暮れも近かったころである。 ある日、事務所の事務員たちの机に、一斉に「イエローリボン」が飾られていることに気がついた。

    当時の私は知らなかったのだが、これは兵士が戦地から無事に帰って来ることを祈って飾るリボンだそうだ。 そのころ、アメリカは「湾岸戦争」に突入していた。1990年8月に始まったあの戦争。連日CNNが、アメリカ軍による「ピンポイント爆撃」の白黒映像を世界中に配信していた、あの戦争である。

    我々の従業員の雇用形態は、大きく「Salary(月給制)」と「Hourly(時給制)」の2つに分かれる。現場の作業者は、マネージャー以外は全員がHourlyだ。

    当時のジョージア工場の時給は、確か8.50ドルくらいだったと記憶している。これで1日8時間働いても68ドル。月に22日働いても1500ドル足らずだ。年収にしてみると20,000ドルにも届かない。 これだけで家族を養うのは大変なので、若い従業員を中心に、多くの者が「予備役(Reserve)」に登録していた。

    予備役は、平時は月に2回ほど週末に訓練を受ける義務があるが、それで月間数百ドルの手当がもらえる。しかしその代わり、有事の際は「出兵」が求められるのだ。

    1990年。この年のクリスマスパーティーは、格別なものだった。 ジョージアの工場では、クリスマス前に近くのホテルの宴会場を借りて、質素ではあるがパーティーを行う。しかしこの年は、工場から出兵する者が何人かおり、彼らの「送別会」も兼ねていた。

    南部のカントリーミュージックに合わせてダンスを踊るのが恒例なのだが、パーティーの最後で、皆が涙した光景を私は強烈に覚えている。

    出兵者の一人、グレッグは私より少し若い高卒の作業者だ。彼は最近、同じく我が社で働くメラニーという女性と結婚したばかりの新婚だった。そのグレッグが戦地に行くのだ。メラニーの母のメーガン(彼女も我が社にいる)も、ダンスの最後に大泣きをした。 皆、グレッグが心配なのだ。

    私は、泣き崩れる彼女たちを見ながら、心の中で強く思った。 「もっと多くの給料を払ってあげられる会社に出来れば、彼らは戦争になど行かなくて済むのに……」

    後日談ではあるが、我が社から出兵した予備役たちは全員、無事に帰還した。もちろんグレッグも無事に生還し、その後、第一子を授かることになる。

    そして私がアメリカを去ってからずっと後の話だが、いずれグレッグはこの工場の「工場長」に出世する。 通常、アメリカの工場では大卒(Degree)でなければ工場長にはなれない。しかし、中卒の叩き上げであるT常務が牛耳る我が社に、そのような学歴の壁は存在しない。「出来る」と判断すれば、学歴に関係なく職責を与える。 私は、この「米系企業にはできないマネジメント手法」を、誇りに思っている。

    話は逸れたが、ジョージア工場は設備更新も徐々に進み、なんとか再生の目途がついてきた。 しかし、安堵する間も全くなく、私の前に、次なる、そしてアメリカ駐在時代で最大となる「本当の地獄」が口を開けて待っていた。

    それが、テネシー州のもう一つの工場で待ち受ける、全米鉄鋼労働組合(USW)との血で血を洗う激闘だった――。

    次回予告:第5回(第1部 完)「ジャガーで突っ込め!工場閉鎖寸前の修羅場」
    死闘の監査を乗り越えたのも束の間、工場を最大の危機が襲う。 労働組合による大規模なストライキが勃発。工場の門を完全に封鎖する分厚いピケラインと、渦巻く怒号。 誰もが立ちすくむ中、ピケラインを割って出勤しようとする男「ビル」。そして、暴徒化寸前の群衆の中へ「ジャガー」で突っ込むという前代未聞の強行突破作戦が幕を開ける! 25歳で放り込まれたアメリカ南部での泥臭い日々は、いよいよクライマックスへ。 果たして工場の運命は? そして、私がこの戦場で「本当に見たもの」とは——。
    (※第1部、堂々の完結。次回公開をお待ちください!)

    (第5回(第一部 完)に続く)
    ▼ 続きはこちら! 第5回:ジャガーで突っ込め!ストライキの修羅場 

    ▼ 第1回・第2回・第3回をまだお読みでない方はこちらからどうぞ!

    全話掲載のマガジンのリンクはこちら

    📸 このエピソードの「完全版」をブログで公開中

    このnote版では書ききれなかった踏み込んだ裏話をブログで公開しています。

    1980年代のアメリカ南部工場、その「空気感」をより詳しく知りたい方は、こちらのブログ完全版も併せてご覧ください。👇

    あなたへのおすすめ