【アメリカ南部工場で私が見たもの②】:窮地の工場を救った意外な男
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「なんでこいつらは自分の機械を掃除せんのや!」 絶頂期の日本からやってきた「昭和の猛者たち」が押し付ける絶対正義。その板挟みになり胃を痛める25歳の私の前に現れたのは、英語が全く話せない「変な救世主」だった――。
ジョージアの本社工場
我々が買収した会社には、ジョージア、テネシー、コネチカットの2工場、インディアナ、ミシガン北部と、全部で6つの工場があった。
当時、売り上げが100億円にも満たない規模において、どうにも効率の悪い生産体制であることは明白だ。これは買収した会社が過去に様々な企業を吸収して取り込んできた結果なのだが、従業員が600名以上いて利益を出すには多すぎた。人数が膨れ上がっている最大の原因は、「工場が多すぎる」ことにある。
我々の強みは日系の自動車メーカーから受注できることであり、課題はマーケティングや新規の営業よりも「生産の効率化」と「コスト削減」であった。
前回述べたように、買収先の工場はLBO(レバレッジド・バイアウト)の憂き目に遭っていたこともあり、設備も更新してもらえず、古い機械をだましだまし使っていた。大手のライバルにアメリカでのシェアが遠く及ばなかったこの会社の状況が、ここまでひどいものだったことに私は驚いた。
まずはコストと品質の改善が急務であることから、本社工場の設備の更新と従業員教育、そしてコスト削減から取り掛かることになった。 我々は金属加工業であったが、生産する製品がメジャーなものではなかったので、製造設備の購入先はあまり多くなく、高価な設備が多かった。
そういう中で利益を出していくために、日本の本社には「中古の設備を買って自社でアップグレードできる、精鋭の設備補修集団」が存在した。 自社で安価に、超高精度かつ高効率の設備へ更新する力を持つこの組織は本社の中核であり、その組織を作り上げた「T常務」は、中卒ながら親会社が一部上場企業になる原動力となった立志伝中の人であった。
彼の配下にあるこの設備集団は「工機部隊」とよばれ、常務を崇拝する兵隊たちがきびきびと働く、ある種、宗教じみた集団になっていた。 彼らが先発隊として、ジョージアの本社工場の立て直しに長期派遣されることになった。
私には、悪い予感しかなかった。
日本からの「黒船」:本社の猛者たち
今の時代の人には想像もつかないかもしれないが、80年代の日本は「世界中のすべてのものを作っている」と言っても不思議ではない状況だった。今の中国の比ではなかったと思う。
電気製品はパナソニック、ソニー、シャープ、サンヨー、三菱電機、日立が米国の量販店を埋め尽くし、サムスンやLGはまだマイナーで、中国メーカーの影も形もなかった。自動車はトヨタ、日産、ホンダ、三菱、マツダ、スバルが席巻していた。
日本は押しも押されぬ「世界GDP2位」の輝かしい立場におり、当時アメリカ製品は劣悪な品質の印象が強かった。そのため、当時の日本企業や日本人には、どこかアメリカ企業やアメリカの労働者を下に見る風潮があったと思う。流行語となった「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という成功体験の絶頂期に日本はあったのだ。
また、当時の日本人にはワークライフバランスなどという思想は皆無で、「24時間働けてなんぼ」「働かん奴は生きる資格がない」という感覚を持っている人が、特に上層部には多かった。プラザ合意後の急激な円高や日米貿易摩擦を背景に、日本メーカーは必死の思いで社運をかけてアメリカ現地生産に乗り出していた。
工機部隊はまさにそういう思想の急先鋒だった。彼らにとってアメリカの工場は、「日本のやり方を教え込むべき、規律の乱れた場所」にしか見えないのである。
「なんや、部品が床にこぼれまくっとるやないか!」 「なんであいつらは、自分の機械を掃除せんのや!」
常務とその信奉者たちからの、強烈な指導とダメだしの嵐。彼らは皆現場のたたき上げで、英語なんか全くわからない。 彼らが文句を言う先は当然フランク(私)であり、ちゃんと出来ていなくて怒られるのも当然フランク。全く、安月給でやってられない仕事であった。
彼らにとって、世界を席巻した「日本品質」こそが絶対の正義だったし、それは確かに正しい。しかし、LBOで骨抜きにされ、やる気を失っていた南部の従業員たちに日本の厳しさをそのままぶつけても、反発を生むだけだ。 私は「本社の論理」と「現地の現実」の板挟みになり、胃を痛める日々を送っていた。
あまりにも理不尽なことを彼らが私に言うので、次第に腹が立ってきた私は、彼らが英語を一切理解できないのをいいことに、通訳の際に「この背のちっさい不細工なおっさんは、こうしてくれと言っている」と早口の英語で訳した。
すると、現地のアメリカ人たちは我慢できずに大爆笑! 常務以下は「なんでこいつら笑っとるのや!」と激高。決して褒められたものではないが、こうやって私と現地従業員の間の溝はどんどん埋まっていった。
ナンセンスな文化摩擦と「マジック」
いくつか面白いエピソードがある。
工機部隊には、日本では「会社に備え付けの大浴場に皆で一緒に浸かる」という習慣があった。常務は「男は裸の付き合い」という、わかりそうでよくわからない信念を持っていた。 ある時、ジョージアの工場に風呂があるのかと聞かれた。「あるわけがない。シャワーしか無い」と答えると、常務はこう言った。
「従業員に声をかけろ。一緒にシャワーを浴びるぞ」
想像しうる中で最悪の命令である。当然現地のアメリカ人は気味悪がって誰も来ない。最悪なことに私だけが付き合わされた。後でアメリカの作業者にどれだけからかわれたかは、想像にお任せする。
またある日、常務が工場で従業員に何かを伝えようとしていた。身振りでは伝わらないので、近くにあった段ボールに何かを書いて説明しようとしたが、書くものがない。すると常務は大きな声で、アメリカの従業員に向かって叫んだ。
「ヘイ! マジック! マジック!!」
すると、ぞろぞろとアメリカ人たちが手ぶらで集まってきた。 段ボールを持って「マジック」と叫んでいるから、何か面白い手品が始まると思ったようだ。
英語でマジックインキのことは「マーカー(Marker)」と呼ぶことは、ついぞ常務には伝えそびれた。
変わり者の品質管理課長、下さん登場
そんな限界の状況下で、一人の男が出向で単身赴任でやってきた。彼は私より一回り以上年長の40代半ばの品質管理課長、下(しも)さんだ。
本社では「変わり者」として有名だった。私は下さんのことはよく知らなかったが、出会ってすぐに、彼が工機軍団とは全く異なるタイプであることが分かった。 下さんも全く英語を話せない。「Hello」と「Thank you」程度しか話せない下さんが、言葉の壁、そして映画『ブラック・レイン』が象徴するような日本人への偏見が残る南部の田舎町で、果たしてやっていけるのか。
しかしその不安は、驚くことにすぐに解消された。
言語を超えた「モノづくり」の共鳴
下さんは英語を学ぼうとする代わりに、朝から晩まで現場にどっぷりと浸かった。
一番感心したのは、「フランク、明日から夜勤に入ろう」と言われたことだ。 工場は2交代・週3勤の24時間稼働であり、昼間だけ来ていると会えない人が出てくる。「夜の間に現場でどういうことが起きているのかを把握しておかないといけない」と言うのだ。 こういう発想は、精鋭ぞろいのはずの工機軍団には全くなかったので、私は深く感心した。
下さんはまた、言葉が通じないのに、気づけば現場の「南部のおじさん、おばさん」たちと肩を並べて何か一緒に笑っている。彼は、身振り手振りとスケッチ、そして何より「実際に自分で手を動かす姿」で彼らの信頼を勝ち取っていった。
日本のエリート層にはない、現場の人間同士が持つ特有の「匂い」を下さんは持っていた。何よりも下さんは否定から入らない。まず良い所を見ようとする。この姿勢は、言葉の壁を越えて相手に伝わることが分かった。
ある日、下さんは私を呼び止めた。 「フランク、この工場のプレスの工程やけどな。工機の連中はぼろくそ言っとるけど、あれはいいぞ。本社でも真似したらいい」
この工程は鉄材を高速で切断してプレス成型するもので、スピードと精度が命だ。プレス機が重要であるのは当然として、鉄材の品質も重要になる。 品質を最も大事とする日本では、鉄材の表面をきれいに整えた状態で購入する。品質的には安心だが、材料費がべらぼうに高い。一方、このアメリカの工場では、表面が整えられていない安い状態の鉄材を買い、プレス機に材料を投入する直前に「表面を同時にきれいにする工程」を自分たちで工夫していた。
下さんからすれば、これは目から鱗だった。
確かに品質だけを考えればきれいな材料を買った方がよい。事実、工機部隊はその方向で工程を変えさせようとしていた。しかし材料が高くなると採算が取れなくなる。下さんは断固として主張した。
「日本人が自らのマニュアルを押し付けようとする中、彼らは自分たちで工夫して『楽に、確実に』やる方法を見つけている。ここは日本のコピーにするんじゃなく、彼らの良さを活かすべきだ」
それは、本社の猛者たちが決して認めようとしなかった、アメリカ工場の「光」だった。
「いいとこ取りの工程」とジムの誕生
下さんと私はタッグを組み、本社の猛者たちへの反撃を開始した。
下さんが発見した「現地の工夫」をベースに、日本の品質基準を融合させた新しい工程——私たちはそれを「いいとこ取りの工程」と呼んだ。まさにアメリカと日本のハイブリッドだ。下さんの現場での実績と熱意に、あの頑固な常務たちも最後には首を縦に振らざるを得なかった。
気づけば、現場のワーカーたちは下さんのことを「ジム」というニックネームで呼ぶようになった。名付け親は私だ。
"Hey, Jim! この部品を見てくれ!" 「おぅ、任せとけ!」(もちろん日本語で)
そんな光景が日常になっていった。
1980年代後半から90年代にかけて、日本のメーカーを支えていたのは、こうした泥臭い現場のプライドだった。 領事館員や銀行員、商社のエリートたちが住む豪華な家とは無縁の、赤土の広がるジョージアの田舎町。待遇の違いやヒエラルキーへの違和感を抱えながらも、私たちメーカーの人間には「自分たちが日本を支えている」という強烈な誇りがあった。
下さん、いや「ジム」が現場に溶け込んでいく姿を見て、私は確信した。 「言葉や文化が違っても、モノづくりの魂は共鳴できる」
それは、絶望的だった買収工場の再生に、一筋の明るい光が差し込んだ瞬間だった。
(第3回に続く)
【第3回の予告】アヒルが来た!緊迫のトヨタ監査と現場のユーモア
変な救世主「ジム」の活躍で、少しずつ希望の光が見え始めたジョージア工場。しかし、25歳の私(フランク)には、日本から次々とやってくる「本社の猛者(出張者)」たちの24時間アゴアシ対応という、若手駐在員ならではの地獄の日々が待っていた。そんな中、ジムが突然「南部の空を舞う」という奇行(?)に走り、現地のワーカーたちとの絆はさらに深まっていく。だが、平和な時間は長くは続かなかった。買収前の製品不良が発覚し、よりによってあの「品質の鬼・トヨタ」が直接工場監査にやってくることに! 絶対に誤魔化しが効かない超・現場主義の監査を前に、絶望で目の前が真っ暗になった私の前に現れたのは……なんと、一匹の黄色い「アヒル」だった!?第1回からの伏線がついに回収される、笑いと涙の第3回。どうぞお楽しみに!
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(第3回に続く)
▼ 続きはこちら! 第3回:アヒルがくれた自信と、トヨタ監査の試練
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