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【アメリカ南部工場で私が見たもの①】: 25歳で放り込まれた「戦場」                           

    1990年、私は25歳でアメリカ南部の古びた工場に放り込まれた。 そこは、ジャパン・バッシングの偏見、過酷な政治圧力、そして文化摩擦が渦巻く「戦場」だった。 これは、コンサル本には絶対に書かれていない、PMI(企業統合)の泥臭い真実の記録である。

    1993年、別れの夜に

    1993年。足かけ7年に及ぶ米国駐在を終え、29歳になった私は日本への帰国を目前に控えていた。

    ジョージア州の片田舎にあるレストランの一室。そこで私を待っていたのは、かつては「敵」か「異星人」のように見えたアメリカ人の同僚たちが開いてくれた、ささやかな、しかし温かい送別会だった。

    「おいフランク(私のニックネームだ)、真ん中に座れよ」

    南部の男女の従業員に囲まれ、ビールのジョッキを掲げる。彼らは次々と、私との思い出を語り始めた。その笑い声の中に、ふと、一人の男が口を開いた。現場のスーパーバイザー、マークだ。

    「なあ、みんな知ってるか? フランクがここに来た初日のことさ」

    マークの言葉に、場がドッと沸く。私は照れくささと共に、あの3年前の、1990年の春のあの日を鮮烈に思い出していた。

    私のルーツ

    私は1987年に大学を卒業し、関西の中堅自動車部品メーカーに就職した。その会社を選んだ理由はただ一つ、「アメリカに出向させてくれるから」である。

    かつて田舎の中学生だった私はロックに目覚め、アメリカに強い憧れを抱くようになった。高校や大学時代、知人がアメリカへ留学するのを横目で羨ましく見ていたが、私にそのような経済的余裕はなかった。だから、就職する会社はどこでもよかった。とにかく安月給でもアメリカに行かせてくれる会社に入りたかったのだ。

    希望が叶って入社したのは、円高不況の真っただ中。不況なのになぜか人手不足の折、工場実習とは名ばかりの生産応援に回され、月の残業時間は200時間に迫った。言い方は悪いが、監獄のような生活だった。

    ただ、私は実習生であり、いつまでもこの生活は続かない。しかし、周りの工場の人たちは一生この生活が続くのだ。工場には自分の父親ほどの臨時雇用の作業者が何人もおり、彼らの給料は非常に低かった。200時間近く立ち詰めで残業してやっと手取り20万円程度。彼らはそうやって家計を支えていた。

    私はこの頃に、現場の作業者に対する「深い尊敬」を抱くようになり、その感情は今でも私の中に根付いている。

    工場実習を1年半ほど経たのち、当時唯一の海外駐在員としてシカゴの商社に営業補助として出向した。ちなみに、この出向時に飛行機に乗ったのが、私の生涯初めてのフライトだった。

    シカゴでは、ダウンタウンの96階建てのビルで勤務する幸運に恵まれた。アメリカに憧れていた私にとっては願ってもない環境だった。しかし、この煌びやかな生活は長くは続かなかった。

    会社が南部に6工場を持つ競合を買収することとなり、私にその買収先への転勤が命じられたのである。

    12時間のロングドライブ

    1990年。私は一台の車に荷物を積み込み、シカゴを後にした。

    シカゴでの生活が夢のようだった私にとって、この転勤は辛いものだった。当時の会社は従業員に対してとにかく厳しく、「引っ越し代は高いから出さない」「飛行機は高いから車で運転して赴任しろ」と、海外事情など全く知らない本社の総務部長が無茶を言ってくる。

    仕方なく、なけなしの荷物を積んで愛してやまないシカゴのダウンタウンを後にし、ハイウェイI-90からI-65を南下。さらにI-40、そしてI-75へと車を進めた。

    摩天楼がそびえる都会から、中西部のコーン畑を経て、景色は次第に赤土の広がる深南部(ディープサウス)へと変わっていく。12時間に及ぶ孤独なドライブの間、私の胸にあったのは期待よりもむしろ暗い予感だった。

    途中、車中のFMラジオから流れてきたのは、当時流行していたシネイド・オコナーの『Nothing Compares 2 U』だった。あの物悲しいトーンが、これからの生活に対する不安をさらに煽った。

    当時、アメリカで大ヒットしていた映画がある。リドリー・スコット監督の『ブラック・レイン』だ。大阪を舞台に、冷徹で暴力的な日本人が描かれたその作品は、当時のアメリカ人が抱く「日本人への恐怖と偏見」を象徴していた。

    ましてや行き先は、ジョージア州フォーサイスカウンティー。かつてKKK(クー・クラックス・クラン)の活動が盛んだったことで知られる保守的な土地柄だ。「人殺し」のような目で見られるのではないか。そんな不安を抱えながら、私はようやく工場の駐車場に辿り着いた。

    巧妙で不公平な「いじめ」:ローカルコンテンツの壁

    なぜ、当時25歳、駐在2年目だった若造の私が、この南部の荒野へと向かうことになったのか。そこには1980年代後半、日本の製造業が直面していた、今の「トランプ関税」が可愛く思えるほどの過酷な政治的圧力があった。

    当時の日米貿易摩擦は極限に達していた。1985年のプラザ合意以降、急激な円高が進み、日本で造って輸出するモデルは崩壊。日系自動車メーカーは生き残りをかけて現地生産へと舵を切ったが、そこで待ち受けていたのが「Local Content(現地調達率)」という名の巧妙な罠だった。

    アメリカ政府の政策により、一定の部品生産比率を満たさない限り、アメリカ国内で生産しても「米国産」とは認められず、高額な関税が課される仕組みになっていた。さらに不条理だったのは、米国メーカーに課されるハードルは日系メーカーよりも低く設定されていたことだ。まさに、なりふり構わぬ「日本いじめ」の時代だったのである。

    日系自動車メーカーにとって「品質」は生命線だ。しかし、当時の米国製部品は品質が悪く、やみくもに使うわけにはいかない。結果、自動車メーカーはTier1(一次)、Tier2(二次)の部品メーカーに対し、「一緒にアメリカへ来て、日本品質の部品を作れ」と猛烈な勢いで迫ったのである。

    中堅メーカーの決断と、無茶なミッション

    当時、私がいた会社は年商200億円ほどの中堅規模だった。力のある大手メーカーであれば、一からアメリカに巨大な工場を新設(グリーンフィールド投資)する余裕もあっただろう。しかし、私たちのような規模の会社には、工場を立ち上げる資金も人材もノウハウも皆無だった。

    それでも、対応できなければ自動車メーカーとの取引を失う。それは会社にとって死活問題だった。

    追い詰められた会社が選んだのは、既存のアメリカ企業を買収するという劇薬だった。買収額は、年間売上高の半分にも及ぶ巨額。まさに社運を賭けた、後戻りのできない大バクチだった。

    そして、その「買収後の統合(PMI)」という極めて難易度の高いミッションが、シカゴにいた私に下された。理由はただ一つ、「英語が分かるから」というあまりにも単純で、あまりにも重いものだった。

    「ゴマすりの相手を間違えた」

    1990年の春の日、工場の駐車場に車を停めた私に、一人の白人男性が足早に寄ってきた。

    「ようこそ! 荷物を持とう」

    彼は驚くほど愛想よく、私のトランクから荷物を運び出した。それがマークだった。 送別会の席で、マークはビールを飲み干しながらその時のことをこう明かした。

    「あの時、俺はてっきり、日本から『大ボス』が乗り込んできたと思ったんだ。若く見えるが、きっと凄腕の経営者に違いないってな。だから必死に点数を稼ごうとしたのさ」

    彼は肩をすくめて笑い、実はイギリス人で、イギリス訛り(訛りというと彼は怒るが、本場の英語だと!)の英語でジョークを飛ばした。

    「I was kissing the wrong ass.(ゴマをする相手を間違えてたよ!)」

    爆笑の渦が広がる。私が「大ボス」どころか、現場で一緒に油にまみれることになる一人の若造に過ぎなかったことを、彼はすぐに知ることになる。だが、この小さな「勘違い」が、凍りついたアウェーの空気をわずかに溶かす最初の亀裂となった。

    目の前に広がる絶望

    しかし、笑い話で済んだのは後年のことだ。赴任初日の私の目の前に広がっていたのは、想像を絶するほど荒廃した工場の姿だった。

    買収したその会社は、前の親会社によるLBO(レバレッジド・バイアウト)によって、稼いだ金をすべて吸い取られていた。設備は老朽化し、現場の士気は地を這っていた。

    作業員たちの視線は冷ややかだった。彼らにとって私は、北部のエスタブリッシュメントに代わって自分たちを搾取しに来た「東洋の金の亡者」に過ぎなかったのだ。

    「ブラック・レイン」が作り出した偏見、KKKが象徴する人種差別の影、LBOによって骨抜きにされた組織、そして「Local Content」という政治の荒波。

    25歳の私に課せられたのは、この巨大な赤字会社を、限られたリソースで黒字化すること。それは、あまりにも荷が重すぎる、不可能に思える挑戦の始まりだった。

    私はまだ知らなかった。この油まみれの工場で、いつか「アヒル」が浮かび、彼らが気さくに「Frank」と呼んでくれる日が来ることを。

    (第2回に続く)
    ▼ 続きはこちら! 第2回:変な救世主「ジム」の誕生と、昭和の猛者たち

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    1980年代のアメリカ南部工場、その「空気感」をより詳しく知りたい方は、こちらのブログ完全版も併せてご覧ください。👇

    筆者よりご挨拶と次回予告】

    最後までお読みいただき、ありがとうございます。 私のアメリカ駐在時代の記憶を掘り起こしたこの連載、いかがでしたでしょうか。

    今から30年以上前の出来事ですが、言語や文化の壁、理不尽な本社との軋轢、そして現場での泥臭い奮闘は、時代を超えて、今を戦うビジネスパーソンの皆様にも通じる「何か」があるのではないかと信じて筆を執りました。

    さて、次回の第2回は…… 「猛者たちのダメ出しと、変な救世主『ジム』」をお届けします。

    絶望的な赤字工場に、追い打ちをかけるように日本からやってきた「昭和の猛者たち」。彼らが押し付ける「日本流の絶対正義」と「現地のリアル」の板挟みになり、私(Frank)は連日胃を痛めることになります。

    そんな限界の状況下で本社から送り込まれてきたのは、英語が全く話せない「変わり者の品質管理課長」でした。彼がいかにして南部のワーカーたちの心を掴み、「ジム」という名で現場の救世主となっていくのか――。

    次週の火曜夜も、ぜひ楽しみにお待ちください!

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    【解説コラム】1990年代初頭:日米経済摩擦と買収劇の裏側

    本連載の背景となる1980年代後半から90年代初頭は、現代のビジネス環境とは全く異なる、日米間の激しい摩擦と熱狂が渦巻く時代でした。当時の空気感を知るための4つのキーワードを補足します。

    1. 『ブラック・レイン』と当時の「ジャパン・バッシング」 1980年代、日本の自動車や家電がアメリカ市場を席巻したことで、アメリカ国内では激しい「ジャパン・バッシング(日本叩き)」が起きていました。1982年には、デトロイトで日本人と間違われた中国系アメリカ人が白人労働者に殺害されるという痛ましい事件も発生しています。映画『ブラック・レイン』(1989年公開)は、当時のアメリカ人が抱いていた「冷徹で不気味、かつ経済的に侵略してくる日本人」というステレオタイプを如実に映し出していました。

    2. 「Local Content(現地調達率)」という名の非関税障壁 当時の日系メーカーにとって最大の障壁だったのが、この現地調達の要求です。米議会で提出された法案は、販売台数の多いメーカーに最大90%の現地調達を義務付けるという過酷なものでした。日系自動車メーカーは、品質の安定しない米国製部品を避けるため、日本の系列部品メーカーに対し「アメリカへ来なければ取引を切る」という背水の陣を強いました。これが、多くの中堅メーカーまでもが社運を賭けてアメリカ進出せざるを得なかった歴史的背景です。

    3. LBO(レバレッジド・バイアウト)の爪痕 本編の舞台となる買収工場は、LBOの憂き目に遭っていました。当時のアメリカではLBOが横行し、企業の買収資金をその企業の資産や将来のキャッシュフローで賄い、利益を配当や過大な債務返済に回すという手法が取られました。結果として現場の設備投資は疎かになり、企業体力を奪っていくという、当時のアメリカ資本主義の負の側面が現場に深い爪痕を残していました。

    4. PMI(ポスト・マージ・インテグレーション)の重圧 当時の日本企業はバブル景気による潤沢な資金力を背景に、アメリカ企業の買収(M&A)を加速させていました。しかし、資金はあっても、買収後の統合プロセスである「PMI」を完遂できるグローバル人材は圧倒的に不足していました。言語の問題以上に、文化や労働慣習が全く異なるアメリカ南部の現場に、日本式の「改善」や「品質管理」を導入することは、極めて難易度の高いミッションでした。

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