
第169話「最後の夜」
第14話「どっきりシール」を書いていたころ、なんともどっきりな事件が起きたものである。2000年7月25日。テレビの画面に、機体後部から火を噴きながら離陸するコンコルドが映し出された。
エールフランス4590便墜落事故。最初は何が起きているのか理解できなかった。炎を引きずりながら上昇を続ける白い機体の姿は、現実のものとは思えなかった。チャレンジャー号爆発事故にも匹敵する悲劇として脳裏に刻まれた瞬間である。どっきりにもほどがある。
原因はこうだった。シャルル・ド・ゴール空港の滑走路上に落ちていた金属片をタイヤが踏んで破裂、高速で飛散したタイヤ片が衝撃波を生じて燃料タンクを内部から破断損傷し、漏れ出た燃料にエンジンの炎が引火した。すでに離陸決心速度を超えていたため引き返すことも叶わず、エンジン損傷による推力不足で失速、墜落。乗員乗客109名全員と地上の4名が犠牲になった。悲劇としか言いようのない、取り返しのつかない連鎖だった。
この事故によりコンコルドは一時全機運航停止となり、安全対策を施して翌年再開されたものの、需要低迷と維持コストの重さに抗いきれず、2003年11月に全機退役となった。
子供のころから「夢の超音速旅客機」と騒がれ続け、憧れの的でありながら、本当に存在するのかどこか半信半疑だった機体である。マッハ2。高度1万8000メートル。大西洋を僅か3時間余りで渡る、あの細長い白い鳥を、一度も生で見ることなく過ごしてきた。ビデオ映像ではあるもののその実機を初めて目にしたのが、よりによってこの墜落の瞬間だった。出会いが最後になるとは、因果というほかない。
そんな電撃的な映像に完全に釘付けになっていたところへ、室内に電話のベルが鳴り響いた。
こんな夜中に電話をかけてくるのは家族くらいのものだろう。航空機事故のニュースを見て、さぞや心配になって安否確認の電話をかけてきたのだろう。然もありなんと思いながら冷静に受話器を取ったが、第一声を聞いて拍子抜けした。
伯母が孫の舞ちゃんと健太君を連れて実家に来ており、広島の伯父ちゃんに会いたいとここ数日毎晩電話をかけていたのだという。帰宅が深夜のため繋がらなかっただけで、コンコルド事件など露ほども眼中にない。
まずは先鋒、母親が出た。1か月前に送ったハガキが届いてありがとう、という律儀なお礼のあと、私宛に「くまだい」からの郵便が届いていると言う。誰だよクマダイって。熊大か?熊大病院に知り合いはいるが、実家の住所は知らない筈だ。まさか駒大?それも心当たりはない。困惑してどんな字かと訊くと、「熊」と「台」だというが、益々わからない。熊大ならまだしも、まさかの熊台。一体どこなんだ。実家住所を知りうる個人・団体を脳内検索するも、完全一致は勿論のこと部分一致アウト、曖昧検索アウト、類似検索アウト。検索結果ゼロ件。
どういうことだ。そうだ、まだ概念検索が残っている。人力概念検索なら「といえば検索」が有効だ。熊といえば動物。台といえば地形。動物に地形の名称……。あったぞ!龍谷だ。
老眼の入った視覚なら、第一印象で経験と勘を頼りに「龍谷」を「熊台」と誤認するのも、あり得ない話ではない。全くナイスなボケだが、頼むよお袋。突っ込むのも酷なのでそのまま受け流しておく。
実家に置いてきた銀行口座の番号を前から聞こうと思っていたのを思い出し、慌てて切り出すも、時は既に遅し。声の主は交代していた。続く次鋒は、伯母の登場である。
「はるちゃんはキムチ嫌いだから大変でしょ」
「いやいや、嫌いって訳じゃなくて体に合わないので」
「そういうのを負けず嫌いって言うのよ」
「いや、それ言うなら食わず嫌いでしょ」
「あら、やっぱり嫌いなんじゃない」
「ええと。参ったな。刺激が強すぎてお腹にくるからね」
「じゃあ、コチジャン、テンジャン、豆板醤とか甜麺醤とかじゃんじゃん出てくるから大変でしょう」
豆板醤?中華?駄洒落攻撃か?ならば、当番じゃんで打ち返す?
一瞬止まったが、こちらも負けじと応酬する。
「うん。まあ。サムゲタンとかソルロンタン、ワンタンとか担担麺とか
淡々と食べられるものもあるから大丈夫だよ」
「担担麺は違うでしょ」
「バレちゃったか。ははは」
笑って誤魔化したが、天然と紛うほどの鮮やかな仕掛けと畳み掛けには
完全に一本取られてしまった。などと言ってる場合ではない。
そうそう、口座番号を聞かないと。
「伯母ちゃん…」
「舞ちゃーん、伯父ちゃんだよ」
間髪入れずに、大将の舞ちゃん登場である。
健太とファミコンがしたいが、テレビのチャンネルがわからなくて塞ぎ込んでいたらしい。電話が通じる迄の数日間、ずっと我慢していたのだろう。覇気のない声を温かく迎え入れてあげるとしよう。
「留守にしてて御免ね。1chだよ。Uチャンじゃないからね」
「ゆうちゃんて誰?」
「ごめん、Uチャンネルのことだよ。1chがダメなら2chも試してみて」
「わたし、このまえいっちゃんと喧嘩したけど、もう大丈夫かな」
「あ、それも1チャンネルだからね」
「それはわかってるよ。バカだね、伯父ちゃん」
「ははは。一本取られたな」
「じゃあ、またねー」
「はいはいー。あ、それでね――」
(ガチャ)
一本取られたが、これで舞ちゃんも元気が出てめでたしである。
だが終に、口座番号を聞き出すことはできなかった。コンコルドが墜落し、伯母の駄洒落が炸裂し、舞ちゃんの天然が着陸した夜に、口座番号だけが宙に浮いたまま、韓国の夜空へと消えていった。
コンコルドは2003年に退役。伯母は2022年、84歳で逝った。どちらも、もう乗れない。マッハ2で飛んだ夢が、駄洒落一本で着陸した夜だった。