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第168話「CFOでお願いします1」

    スタートアップ「ミライ構造研究所」の社長・田中のスマホに、黒川からメッセージが届いたのは、月曜の朝だった。
    「CFOの件で、一度お話しできますか」

    CFO……Chief Financial Officer……財務最高責任者……
    田中は、その七文字を3回読んだ。
    一回読んだだけで意味はわかった。3回読んだのは、確認のためではなく、噛みしめるためだった。

    黒川が、財務責任者のポジションを打診してきた。
    そう読んだ。
    ここ数ヶ月、田中は会社の財務体制を地道に整えてきた。資金繰りの透明化、コスト構造の見直し、次のラウンドに向けた数字の整理。誰に頼まれたわけでもなく、ただ必要だからやった。黒川は、それを見ていたのだ。
    (やっと、対等な席に座れる)
    田中は、珍しく早起きして準備した。

    待ち合わせは、いつもの料亭だった。
    暖簾をくぐると、黒川はすでに座っていた。
    「わざわざ足を運んでいただいて」
    「いえ、こちらこそ」
    田中は、膝の上で手を組んだ。今日は違う。追い詰められた側ではなく、打診を受けた側だ。その違いは、姿勢にも出るものだ。

    料理が運ばれ、軽い世間話が一巡したころ、黒川は自然な調子で切り出した。
    「ではCFOの件ですが」
    「はい」
    田中は、静かに、しかし確かに前のめりになった。
    「今のミライ構造研究所の体制を、田中さんはどう見ていますか」
    (来た。財務の話だ)
    「財務基盤は、ようやく次のステージを見据えられるところまで来ました。ただ、CFOポジションを置くとなれば、まずガバナンスの整備から入るべきだと思っています」
    黒川は、穏やかに頷いた。
    「そこまで考えていただけると、話が早い」

    (ほらな)

    田中の中で、小さなガッツポーズが生まれた。BTRFの失敗以来、略語には慎重になっていた。だが今回は違う。CFOくらい、間違えようがない。

    話は弾んだ。田中が財務戦略を語るたびに、黒川は的確な相槌を打つ。
    「内部統制も同時に走らせるべきですね」
    「おっしゃる通りで」
    「IRの体制も早めに」
    「そこも抜かりなく考えていただいていて、さすがです」
    田中は、こんなにスムーズに話が進んだことが、最近なかったと思った。
    ただ、ひとつだけ、引っ掛かる言葉があった。

    「買い手候補はすでに2社いまして」

    田中は、その一言を「出資候補が2社いる」と解釈した。好材料だと思った。財務体制が整ってきたから、投資家が集まっている。そういう話だと受け取った。(むしろ追い風じゃないか)
    箸が、心なしか軽く動いた。

    会食が佳境に入ったころ、黒川は湯呑みを置いた。
    「では、CFOの件、正式に進めましょうか」
    田中は、深く頷いた。
    「ぜひ、お願いします」
    黒川は、満足そうに微笑んだ。

    その笑みを、田中は「信頼の証」と読んだ。
    黒川の心の内は、別だった。
    (……「お願いします」とは、随分と積極的だな。まあ、話が早いのはいいことだ)

    翌朝、黒川の事務所から書類が届いた。
    田中は、コーヒーを片手に封を開いた。
    財務責任者の雇用条件、CFOとしての職務範囲、ストックオプションの設計——そういった内容を、田中は想定していた。
    だが、そこに書かれていたのは、違う種類の文書だった。

    表題:「ミライ構造研究所」株式譲渡に係る入札手続きのご案内

    田中の目が、止まった。

    (……入札?)

    読み進めると、見慣れない単語が並んでいた。「入札参加資格」「提示価格の上限」「優先交渉権の付与条件」。そして最後の一行に、小さく注記があった。

    本件CFO(Call For Offers)に関するご質問は、担当窓口までお問い合わせください。

    田中は、コーヒーカップを、静かに置いた。
    (……C、F、O)
    Call For Offers。売却・入札の募集を意味する、金融用語だった。
    昨日の会話が、スローモーションで再生される。

    「そこまで考えていただけると、話が早い」——買い手として、という意味だったのか。
    「買い手候補はすでに2社いまして」——そのまんまの意味だったのか。
    「CFOの件、正式に進めましょうか」——入札の件、という意味だったのか。

    全部、売却の文脈だった。田中が財務戦略を熱弁していた間、黒川は終始、売り手の立場で頷いていた。
    田中は、震える手でスマホを取り、黒川にメッセージを送った。

    「昨日のCFOというのは……役職ではなく、売却の打診でしたか」
    すぐに返事が来た。
    「ええ、Call For Offers です。ただ、田中さんの財務戦略、実に筋が通っていましたよ。買い手候補への説明に、そのまま使えます」

    田中は、天を仰いだ。
    (略語で会社が売れる……そんなことがあっていいのか)

    頭の中で、昨日の自分が「ぜひ、お願いします」と深く頷いていた姿が、静かに再生される。その横で黒川が、あの穏やかな笑みを浮かべていた。あれは「信頼の証」ではなく、「合意の確認」だったのだと、今になってわかる。

    暫くして、もう一通のメッセージが届いた。
    「なお、昨日のお食事代ですが、TBDで――」

    田中は、続きを読むより先に、財布を開いた。
    「……ですよねー」
    その言葉はもう、相槌ではなかった。(完)

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    142話までは「パブロフの屁」(ぱりぱり噛めん:Parikame) のテキスト復刻版です。見出し形式「第○○話」がテキスト本編、「no.○○」が対応するダイジェスト図解版です。ご贔屓いただけると新作公開の励みになりますのでよろしくお願いいたします。え?頑張らなくていい……ですか

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