余白観光|貝殻は巡り巡り、富山湾は丸かった。
余白観光とは、見えたものを大事にしながら、見えなかったものを少しだけ想像する観光である。
前回、私は義経岩で、雨腫らしを想像し、それを写真に描き足した。
けれど、その想像は、現地に行く前と後で形を変えていた。
実際に行ったら、雨腫らしの登場スタイルは変わった。
余白観光には、どうやらそういうことがあるらしい。
今回は、その続きである。
砕け散った殻坊主
殻坊主とは、私が雨晴海岸の貝殻から考えた怪異である。
からっぽの貝殻が集まって、
夜になると浜の生きものを食べる。
そんな絵本まで作った。
その日は、以前来たときよりも、少し波が引いていた。
そこで、砕け散った貝殻を見た。
夜勤明けに立ち寄った時は、台風が列島を通過した直後だった。
その時、浜にたくさんの貝殻が打ちあげられていたのを見た。
うずまきの形。
丸い形。
平べったい形。
色とりどりで、でも、からっぽの貝殻たち。
あれはきっと、海が吐き出したばかりのものだったのだろう。
あの日の貝殻を探したけど、もうなかった。
人々に踏まれ、
波に削られ、
風にさらされ、
粉々になって、
砂浜にまぎれていた。

絵本にしたことで、私は殻坊主にかなり愛着が湧いていた。だから少し思った。
あぁ( ・ᯅ・ )、殻坊主。
こんな姿になってしまって。
絵本の中の殻坊主は、貝殻作家によって、作品としてのいのちを吹き込まれ、供養された。
貝殻は、ただのからっぽではなくなった。
作品になり、誰かのもとで、意味を持った。
殻坊主は巡り巡る
けれど、現実の殻坊主は、少し違う。
作家に拾われることなく、
浜に残り、
踏まれ、
砕け、
砂にまぎれていく。
からっぽの貝殻は、貝が死んだあとの残りだ。
いわば、貝の遺骨。
その殻は、波に削られ、人に踏まれ、粉々になり、やがて砂浜に混ざる。
白いかけらには、カルシウムがある。
長い時間をかけて海へ戻り、また誰かの殻や骨格を作る世界へと混ざっていく。
生きものは、土に還る。
殻坊主は、砂に還る。
形を失っても、また生命を巡り巡る。
絵本の中では、作品としていのちをもらった。
現実の殻坊主は、砂浜の砂に還ることで供養されるのかもしれない。
富山湾は丸かった
私はその日、夕焼けの雨晴海岸を撮るつもりでいた。
以前、魚津の海岸で、とてもきれいな夕日を見たことがある。
富山湾に沈む夕日だった。
空も海も赤く染まり、太陽が水平線の向こうへ落ちていく。

同じ富山湾なのだから、雨晴海岸でも同じような夕日が見られると思っていた。
ところが雨晴海岸では、太陽は、私の背中側へ沈んでいった。
今思えば、魚津の夕日が沈んでいったのは、水平線ではない。
能登半島だ。
沈む太陽を背中に感じながら、ただただ薄暗くなっていくだけの雨晴海岸を見ていた。

私はしばらく、それをぼう然と見ていた。
思い込みが現地に殴られた日
私の頭の中の地図は、何度も現地に負けた。
勝興寺の涸れない池は、思っていたより大きかった。
義経岩から見る女岩は、思っていたより右にあった。
そして雨晴海岸の夕日は、海の向こうではなく、私の背中側へ沈んでいった。
距離も。
大きさも。
方角も。
私が、知っていると思い込んでいた場所は、やっぱり知らなかった。
夕日は、私の背中側に沈んでいき、
背中だけがあたたかい。
目の前の海は、ただ薄暗くなっていく。
富山湾は、丸かった。