
読書 | 私を愛さないお前が悪い!『ナイルパーチの女子会』を読んで
女友達は難しい。親友だと思っていたあの子が、気付いたら猛毒になるなんてことも。
性別が介在しないからこそ、どこまでも自由で、どこまでも無防備に踏み込めてしまう。
昨日は、30代の私が感じている、女・妻・母と社会的な属性が異なる中での「女友達」の難しさを書きました。
今日はもっと昔に遡って、私たちが友達と適切な距離感を見つけていく過程のお話。
誰もが経験してきた胸がチクッとする黒歴史を、無理やり引き摺り出すような本を紹介します。
私たちは、無事に精神的な大人へ脱皮できているでしょうか?
友人に勧められ、朝から一気に読み始めてしまったのが運の尽き。
読み終えた後には、鏡を無理やり覗かされたような居心地の悪さと、ヒリヒリするくらいの羞恥心が心に居座っていました。
柚木麻子著『ナイルパーチの女子会』は、単なる女性同士の確執を描いた物語ではありません。
それは、大人になりきれない私たちが抱える自己愛の暴走と他者との境界線の喪失を、ありありと突きつけてくる一冊でした。
高スペックなキャリアウーマン・栄利子と、人気ブロガーの翔子。接点のない二人が「女友達」を切望して出会い、執着と依存の果てに互いの生活を壊し合う物語です。他者との境界線を失った現代人の孤独と暴走を、ゾッとするほどリアルに描いています。
物語の登場人物たちの性格や行動は、一見すると極端でデフォルメされているように思え、「いや、さすがにそこまではしないでしょ!」と突き放したくなる場面も多々ありました。
でも、その極端な振る舞いの底にある感情を辿っていくと、あることに気付きます。
「あれ、この感じ知ってるぞ…」という既視感。
彼女たちが露呈させる執着、嫉妬、全能感、そして拒絶された時のパニック。それは、私自身が揺れ動く少女時代のどこかで、少なくとも一度は経験し、記憶の底に沈めていた「黒歴史」たち。
はるか地面の底から掘り起こされて、今目の前に突きつけられたような恥ずかしさを覚えました。
思い出したのは、小学校3年生くらいの記憶。
昨日まで、「一生親友だよ☆」なんて言っていたはずの友達がある日突然、私との間に見えない壁を作って、別の子と遊び始めたあの時。
夕日の差し込む廊下、冷房が効いた教室のひんやりした空気、並んで帰った帰り道、一緒に作った泥団子、お土産にもらった星の砂。そのときの情景と感情の全部が、胸を抉るような羞恥心とともにフラッシュバックしてきます。
今の私ならば、友達に距離を取られても「何か自分に原因があったのかな」「人間関係の流動性ってやつかな」と冷静に分析して、自分の中で折り合いをつけることもでます。
けれど、無力な子供だった当時はどう対応していいか分からない。
まさに本作の栄利子や翔子のように、相手の都合も考えず、混乱していました。
主人公・栄利子の姿は、そんな少女の情緒を持ったまま体だけが成長した、30代の女性です。
彼女はその年齢や社会的地位からは考えられない稚拙さを持ち、自分の願望を相手の都合や感情を全く考えずに押し付けていることに気づきません。
彼女にとって他者は「自分を完成させるためのパーツ」でしかないからです。
だからこそ、自分の予想と違う反応が返ってくると、パニックに陥り、突発的に相手を攻撃してしまう。
そんな歪んだ自己中心的な描写を読みながら、「何でそうなる??」と呆れつつも、どこかで「これは自分にも当てはまるケースがあるかもしれない…」と自省せずにはいられませんでした。
特に、読んでいて白目を剥きそうになったのが、栄利子が「自分より下」だと判定した相手に、依存に近い執着を見せる場面です。
彼女はまるで、自分が名コーチにでもなったかのように、相手を教育しプロデュースしようとします。
「あなたのためを思って言ってるのよ!」という、この世で最も恐ろしい呪文を唱えながら、相手の領域に土足どころか泥だらけの長靴で踏み込んでいく。
でも相手はそんなこと望んでないから、ただただ驚きます。栄利子は、相手にその気がないと知るやいなや、「裏切られた!」と逆上して人格否定を繰り返すのです。
この「良かれと思って」という大義名分を盾にした支配欲の暴走は、恐ろしいほど現代的で、痛ましすぎて、逆にリアル。
「なんでそうなっちゃうの?」と栄利子に説教したくなる一方で、私の中にも「他人を自分の思い通りに変えたい」という傲慢な怪物が潜んでいるのではないかと、ハッとさせられるのです。
栄利子に限らず、自分と他人の境界線が分からない登場人物たち。何が彼女たちをこれほどまでに追い詰め、歪ませてしまうのでしょう。
本作を読み進めるうちに、それは幼い頃から「こうあるべき」「こうでなければ価値がない」という価値観を周囲から押し付けられ、ありのままの自分を愛される経験が欠落していたゆえの悲劇ではないかと感じました。
自尊心を守るために他者をコントロールしようとし、その結果として相手を追い詰め、自分も孤立していく。その連鎖はあまりに孤独で、虚しいものです。
登場人物たちを単なる「狂ったキャラクター」として切り捨てるのは簡単。
ですが、SNSで容易に他人の生活に踏み込める現代において、私たちは誰もがナイルパーチのように、周囲の生態系を壊しながら増殖していく危険性を孕んでいる、ということを本書は指摘しているように感じました。
相手は自分を映す鏡ではなく、コントロールできる所有物でもない。独立した一人の人間である。それを忘れた時、人は誰でも栄利子にも翔子にもなり得るのです。
▼大人になると分かる、依存ではない、程よいコミュニティのありがたさについて、こちらで書いています。
▼かつての私なら、主人公のように空虚さを仕事の成果で埋めようとしていたかもしれません。
私が「こうあるべき」から抜け出すまでのお話はこちら。