
街に溶け込み、見守られる。緩やかなコミュニティの処方箋
自分という存在は、自分一人で支えているようでいて、実は外側からの認識によって形作られているのかもしれない。
こんにちは、つむです。ご覧いただきありがとうございます。
30代、予想外の休職で自分を見つめ直し、ご自愛な人生設計に変更中の元バリキャリ。てんやわんやな日常を書いています。
「お、髪切ったね」
その一言に、心がじんわり温かくなる。
先日、思い切って髪を20㎝切った。鏡に映る自分は、首筋がスースーしてどこか落ち着かない新しい自分だったけれど、その言葉をかけられた瞬間、ふわりと足が地につくような感覚を覚えた。
振り返れば、私の日常はいくつかの決まった場所で構成されている。
身体のメンテナンスに通うピラティスや、定期検診で立ち寄る歯医者、日々の労働の疲れをほぐしてくれる整骨院、週末にふらりと立ち寄る近所のレストランなど。
それらは、家族のような密な繋がりではない。職場の同僚のような利害関係もない。けれど、そこにはいつもの私を知っている誰かがいる。
「最近見なかったから、どうしたのかと思ってましたよ」
たまに足が遠のくと、そんなふうに声をかけられることがある。そんなとき、「ちょっと旅行へ行っていたんです」とか「仕事が立て込んでいて」といったプライベートを、重くならない程度の距離感で共有する。
相手も深くは踏み込んでこないけれど、私の不在を認識してくれていたことが伝わってくる。そのちょっとの自己開示が、お互いの信頼の輪を一段階、太くしてくれるような気がするのだ。
「髪、切ったんですね。短いのも似合う!」
ピラティスのスタジオでそう声をかけられたとき、私は自分がそのコミュニティの一部として、ちゃんと更新されていることを実感した。変化に気づいてもらえるのは、それ以前の私の姿が、相手の記憶の中に確かに存在していた証拠だ。
この「緩い繋がり」の心地よさは、一言で言えば「見守られている安心感」だと思う。何か特別な悩みを打ち明けるわけではなくても、昨日までの自分を知る人が街のあちこちに点在していること。それだけで、世界は少しだけ優しく、安全な場所に思えてくる。
忙しない毎日の中で、私たちはつい「効率」を求めて、馴染みの場所を固定することを忘れてしまいがちだ。けれど、ずっと通い続けることでしか得られない心の平穏がある。それは、年月をかけて少しずつ積み上げた、お互いの存在を確認し合う無言の約束のようなものだ。
今日も心地いい時間が流れている。