
【短編小説】忘失ヴァンパイア(6)
※この作品には、一部暴力的な表現、身体的・精神的苦痛を伴う描写が含まれています。
苦手な方は、閲覧をお控えください。
前回↓↓
(1)↓↓
「ありがとう。たいよう君。」
十数年前。女は、中学の校章と「蛭間」の文字が刺繍された夏服に身を包み、笑顔をこちらに向けていた。
雨上がりの湿った熱気が肌に纏わりつく、真夏日の出来事だった。
同級生が蹴り飛ばした通学靴は、河川敷に茂る草むらの中に落ちていて、泥濘(ぬかるみ)で跳ねた砂泥と水辺に生息するヒルが、我が物顔でへばりついている。
女は、自ら頭を地面に擦り付けていたから、自分の靴が落ちたところなど見ていなかったのだろう。てんで的外れな場所を探していた。
「もしかして、これ?」
そう言って悪意に汚されたスニーカーを拾い上げ、ヒルを草に移し、泥を少しだけ取り除いて、駆けつけた女に突き出した。
「ありがとう。たいよう君。」
女は、中学の校章と「蛭間」の文字が刺繍された夏服に身を包み、笑顔をこちらに向けている。
陰鬱な日常など似合わない。清らかな笑顔。
しかし、透き通る額や、後ろで雑に束ねられた黒髪は、泥水や草くずで汚れていた。
「頭は大丈夫?」
茶色く汚れた靴下を脱ぎ、白い靴に素足を滑り入れる女に言った。
「え?」
女は濡れた睫毛を持ち上げ、大きな黒目を曝け出している。
「叩かれてたところ。」
「ああ、あれね! うん! 大丈夫!」
女の涙袋は眼(まなこ)を細め、目尻に深い皺をつくった。ふっくらとした唇が肉付きの良い頬を持ち上げ、真っ白な歯を見せびらかしている。
俺は堪らず、目を逸らした。
「……やめなよ、笑うの。」
草に残る雨粒が女のスカートを濡らしている。
「そうやってヘラヘラしてるから、あいつら調子に乗るんだよ。」
嘲笑うように、小鳥のさえずりが鳴り響く。
「でも、笑ったらいいことあるって言うじゃん! 実際、笑ってたら楽しいよ?」
女は顔色一つ変えず、溌剌と言葉を紡いだ。
「……あっそ。」
もう何を言おうと不発に終わるだろう。
そう思った俺はポケットからハンカチを取り出し、無言で女に差し出した。
女は笑顔を貼り付けたまま首を傾げたが、俺が自分の額を指さすと、女も自分の額をなぞり、細い指についたであろう濁った水を見て、ようやく意図を理解したようだった。
「ほんと、何処までも優しいね。ありがとう。」
女は表情を緩め、ハンカチを受け取った。
「……別に、普通だよ。」
俺は片手で首を気にしながら、女の言葉をあしらった。伝う汗が、点在する怪我を撫でるたびに、むず痒くて仕方がない。
「ううん。他の人だったら、たぶん一緒に探してくれなかった。いつもすぐ通り過ぎて行っちゃうから。」
女はハンカチを握りしめ、目を伏せた。
「優しいよ。うん。優しい。」
肩をすぼめながら、懇々と呟いている。
「それにね!」
と言って、女は顔を上げた。
握りしめた両手を胸に抱え、こちらを見上げながら、目を輝かせている。
「たいよう君と話してると心がポカポカするんだ!」
柔らかく下がった目尻に、赤らんだ頬が持ち上げた口角。
「名前の通り太陽みたいな人だね!」
泥水や草くずに汚れた姿が、はしゃいで回る子供のように見えた。
その眩しさに、思わず後ろを向いていた。
「あ、ハンカチ! 洗って返すから!」
背を向けつつも女の声に聞き入った、火照る夏の思い出だった。
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