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本能寺の変1582 【重史175】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【重史175】 『信長公記』

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     1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
     4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
     3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
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    *◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
     信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
    *加筆修正 

    【重史175】 ◎第65話

    ①三月五日、信長公、隣国の御人数を召し列れられ、御動座。

    ②翌日、仁科五郎が頸もたせ参り侯を、ろくの渡りにて御覧じ、

                           『信長公記』


     天正十年1582、三月五日。             158200305

     信長は、安土を発った。
     この日は、柏原成菩提院(じょうぼだいいん)泊。
     安土から凡そ九里 36km 。

      三月五日、信長公、隣国の御人数を召し列れられ、御動座。
      其の日、江州の内、柏原上菩提院に御泊り、
                              (『信長公記』)

     信長は、仁科信盛の首を検分した。
     同、六日。
     岐阜への途中。
     呂久の渡しにて。
     「首実検」
     高遠城が落ちたのは、三日前のこと。

      翌日、仁科五郎が頸(くび)もたせ参り候を、ろくの渡りにて御覧じ、

     信長は、岐阜城に着いた。
     柏原・岐阜間、凡そ十里40km。

     信盛の首は、長良川の河原に晒された。

      岐阜へ持たせられ、長良の河原に懸けおかれ、上下見物仕り候。

     同、七日。
     岐阜に逗留。
     無情の雨が降る。

      七日、雨降り、岐阜に御逗留。
                              (『信長公記』)


     【引用】◎第65話 第65話



     ⇒ 次へつづく

     
     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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