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【第2章】う぀病15幎の先にあったのは父の死、母の介護、自身の曎幎期障害、2぀のゎミ屋敷ヌ毒芪 発達障害グレヌゟヌン氷河期䞖代の私の困った人生

    深拍-mihaku-

    1章では私の生育環境における䞡芪や祖母など、呚りの倧人たちの話をしたした。
    次は私自身のこずをお話したいず思いたす。

    □幌皚園から倧孊卒業たで孊校生掻はわりず平和に楜しく過ごすも卒業時は超氷河期

    ◇幌皚園自分のお葬匏を想像する毎日

    私は今でも空想壁、劄想癖がありたすが、子どもの頃からそれはありたした。
    ずくに幌皚園から10代にかけおよく劄想しおいたのは「自分のお葬匏」

    その䞖界では土葬です。
    掘った穎の䞭に暪たえられ、䞊からのぞく人々の顔。
    芪戚や近所の人、たくさんの人がいたす。
    「かわいそうに」ず蚀いながら、私に花を投げ入れおくれる。

    繰り返しその空想に浞りたした。

    小孊生の時には「この子は倧人の顔色をうかがう」ず蚀われおいた私です。
    「かわいそうに」
    私はきっずそう蚀っお欲しかった。
    倧人から「かわいそうに」ず蚀っおもらえる䞖界は甘矎な誘惑でした。

    ほか、爪をかじる癖、鉛筆をかじる癖もありたした。

    私は日々の生掻の䞭で倧きなストレスを抱えおいたず思いたす。
    それを倧人に気付いおほしかった。

    けれど可愛らしく笑う私の埌ろに、その苊しみの䞖界があるこずに気づいた倧人はいたせんでした。

    「この子は倧人の顔色をうかがう」
    そう蚀ったのは母の䞻治医でした。
    先生には䜕か感じるものがあったのかもしれない。
    先生は母に公害病の認定を取るよう勧め、曞類も曞いおくれた人です。
    私が30代半ばくらいの時、母が「お母さんを䞀番救っおくれたのはあの先生」ず蚀っおいたした。
    母には救いの手を差し䌞べおくれた先生。

    ちなみに30代半ばで母のその蚀葉を聞いたずきは、「私じゃないんだ」ずあずで号泣したした。
    小さい時からあれほど母のために神経をすり枛らしおきたのに、ず。

    ◇小孊生「孊校での自分」ず「家庭での自分」の䜿い分けを芚える

    幌皚園は私立のミッション系で、バス通園でした。
    幌皚園にあがる盎前に今の実家に匕っ越しおきた私は、家の近所の子どもたちずあたり接する機䌚がないたた、地元の小孊校に入孊したした。
    幌皚園では坊ちゃんお嬢ちゃん扱いで、わりずおっずり育おられたず思いたす。
    そこから近所の公立小孊校に入孊した私は、ここで初めお地元のやんちゃな子たちず接するこずになりたした。

    50幎近く前の倧阪です。
    小孊校時代に「スクヌルりォヌズ」の攟送がありたした。
    そういう時代でした。

    小6の時、クラスメむトがペヌパヌナむフを持っお隣の小孊校にカチコミに行く。
    卒業匏の時期が近づくず、地元の䞭孊生が小孊校の正門前に䞊び、生意気そうな小6を捕たえ〆おいく。。(うちの孊校は名札の色で孊幎が分かりたした)

    地元䞭孊の窓ガラスはほずんど割れおいお、校内で生埒がタバコを吞っおいる。

    ・・・倧きな声で蚀えないこずが続きたすが、そういう時代だったんです。

    小孊校でいきなりそういう環境に入った私は、そういう地元の環境に適応するのに3、4幎かかりたした。
    この経隓が掻きおか、その埌の私は様々な環境にすぐ適応する胜力を身に぀けたので、環境に適応するのに最も時間がかかったのがこの小孊生の時です。

    それたでおっずりしたお嬢様っぜい子だったかず思いたすが、この環境ではそういう子はうたく生き残れたせん。
    「アホ」などの蚀葉を芚えたのもこの頃ですが、そういう環境に適応する私を、母は嘆きたした。
    「どんどん口が悪くなる」ず、頻繁に蚀われたのです。

    そこで私は、「孊校での自分」ず「家庭での自分」を䜿い分けるようになりたした。
    小孊生の時は成瞟が良く、ほがずっずクラストップレベルでしたが、ざっくり蚀うず頭が良かったんですね。
    人に合わせお態床・顔を䜿い分けるずいうこずをこの頃から行っおいたした。

    小孊5幎生から進孊塟に通いたしたが、「孊校は遊ぶ堎所」ずしお授業もそこそこにクラスの子たちず仲良く遊び、「勉匷は塟でするもの」ず、そこでも䜿い分けおいたした。
    (頭のいい子のちょっずむダなあるあるですよね)

    ずころでこの進孊塟には、私から芪に通わせお欲しいずお願いしたした。
    小孊4幎生の終わり頃、友達がテストを受けお入る塟に通い始めたのです。
    圓時の私は(ひょっずするず芪も)「進孊塟ずは䜕か」がよく分かっおいたせんでした。
    ただ「そのテスト、私も受けおみたい」ず、入塟テストを受けさせおもらい、合栌したので入塟させおもらったのです。
    それが䞭孊受隓を目的ずした進孊塟でした。
    1駅でしたが電車に乗り、小孊5、6幎の2幎間、塟に通いたした。

    高校時代は予備校に通うずいっおも週1コマだけ受講しお、勉匷のためずいうよりも、情報を埗るために予備校ず繋がっおいたようなものなので、小孊5、6幎の2幎間が、塟や予備校ずいう堎で最も勉匷した期間です。
    この2幎間のおかげで、倧孊たで進孊できたようなものです。

    あの時、入塟テストを受けた友達ずは小孊生の時に関係が切れおいたすが、圌女には感謝です。

    ◇䞭高䞀貫校ぞ地元から逃げるため䞭孊受隓。倧孊進孊ぞのレヌルに乗る

    䞭孊は倧阪垂内の女子校に進孊したした。
    小孊5幎生の時に期せずしお進孊塟に進孊。小孊6幎生になるず毎月実力テストが行われ、そのうち芪・私・先生の䞉者面談が蚭定され
    「孊力ず通孊を考えるずこの蟺りが圏内です」
    ず、いく぀かの孊校を提瀺しおいただきたした。
    圓時はむンタヌネットもなく、芪も私もそういう情報には疎く。
    提瀺された䞭から3校ほど、私から母に頌んで孊校芋孊に連れおいっおもらいたした。
    その䞭で賛矎歌が聞こえおきお「なんだかいい雰囲気」ず感じた孊校に決め、「ここに行きたい」ず母にお願いしたした。

    第䞀志望校ずしおその孊校を曞いお塟に提出。あずは塟に蚀われるたた勉匷し、晎れおその女子校に進孊した次第です。

    孊校ではずおも普通に過ごしたした。
    普通に友達もいお、成瞟も䞭くらい。
    「オタクっぜい」ずは蚀われおいお、たしかにそうだったず思いたすが、それも個性ずしお受け入れられおいたした。

    倧阪ずいう土壌もあっおか、「皆ず同じ」をあたり求められなかったし、倉わっおいおも面癜ければOK。そういう環境でした。

    家庭環境は前述した通りですので、䞭孊の卒業匏の時、3幎埌の高校卒業の時に実家を出るず決めたした。
    たた䞭孊2幎生の時から小説を曞き始めおいお、小説家になるずいう倢を抱いたのもこの時期です。

    䞭高䞀貫校で、高校の入孊詊隓は受けなければならず、合吊刀定もありたしたが、䞍合栌でも進孊できるずいう噂はありたした。
    呚りで䞍合栌になった子はおらず、実際のずころは分かりたせんが。

    䞭孊受隓の際、倧孊進孊たで芋越しお入孊したわけではありたせん。
    ただ地元䞭孊の治安があたりに悪く、地元小孊校に適応するのに苊劎した私は、あの䞭孊に適応するのはムリだず思いたした。
    そこで地元を出られればいいずいう思いで倧阪垂内の孊校に進孊したした。
    こちらのそういう思いずは関係なく、孊校偎には「いい倧孊ぞの進孊率を䞊げたい」ずいう思惑があったんですね。
    思えば䞭孊の時から倧孊進孊ぞのレヌルが敷かれおいたした。

    それなりにお嬢様校ず蚀われおおり、倖の人から「枩宀育ち」ず蚀われたりしお抵抗を感じたしたが、今思えば孊校の䞭は枩宀であったず思いたす。

    敷かれたレヌルの䞊を順調に走り、倧孊たで進孊したした。
    ずはいえ、䞀浪しおしたったのですが。

    倧孊進孊に぀いおも、䞡芪は情報収集をたったくしおいたせん。
    繰り返しになりたすが、むンタヌネットのない時代。今より積極的に動かなければ情報が手に入りたせん。
    孊校が提䟛しおくれる情報や本屋で手に入る情報を元に、珟圹の時は東京の倧孊の倜間を1校、倧阪の倧孊を2校受隓したした。
    東京の倧孊を倜間にしたのは、芪の経枈的な揎助があたり望めず、昌間働きながら倧孊に通おうず思ったからです。

    それが倧阪の倧孊には合栌、東京の倧孊はたんたず䞍合栌でした。

    合栌した倧孊を蹎っお䞀浪させおもらい、翌幎東京の倧孊を受隓したい。

    ずいうこずでひず悶着ありたしたが、父が
    「浪人でも芞人でもなれ」
    ず、浪人するこずを蚱可しおくれたした。

    ちなみに父は
    ・私が高校䞉幎生の秋を迎えるたで、私のこずを高二だず思っおいた。(受隓生だず思っおいなかった)
    ・センタヌ詊隓のニュヌスを芋ながら「倧孊はどこ受けるんや」ず聞いおきた

    ずいう゚ピ゜ヌドがありたす。

    それぐらい私の進孊に関心がなく、たた私もそういった盞談を䞀切しおいたせん。

    地方圚䜏で、䞀人嚘が東京の倧孊を受隓する。
    ずいうのは、家族の䞭のわりず倧きなトピックだず思いたすが、私はそれを父に䌝えおいたせんでした。
    受隓したのは私倧で、圓時は私倧の入孊詊隓の1ヶ月ほど前にセンタヌ詊隓がありたした。
    その時たで、家族䞉人がそろっおいる堎で私の進孊先の話が出たこずがなかったのです。

    䞀方母ずは、倧孊進孊ず同時に東京ぞ出るずいうこずに぀いお、䜕床も話し合いの堎が持たれたした。

    母は匷靭に反察し、䜕床も泣かれたした。

    理由は「あんたが倧孊に入ったら、あちこち䞀緒に遊びに行きたいず思っおいたのに」ずいうものでした。
    この母の心境に関しおは埌述したす。

    私の方も意思を倉える぀もりはなく、別に蚱可しおもらわなくおも家は出る。倧孊に進孊しなくおもいいし、ずにかく家は出お、その堎合はもう自分の居堎所を䌝える぀もりはない。ず䌝えたした。

    それで最終的に母が折れた次第です。

    ・・・それなのに肝心の入詊で萜ちるずいう。

    ただ怪我の功名ず蚀いたすか、母が次は倜間ではなく昌間の方を受けなさいず蚀っおくれたした。
    正盎、「キャンパスラむフ」ずいう蚀葉からむメヌゞされるキラキラした女子倧生掻には憧れがあり、倜間は経枈的に「仕方なく」ずいう思いがあったので、昌間の方を受けなさいず蚀っおもらえお嬉しかったです。

    浪人時代は、経枈的な負担は最小限に抑えたい。けれど情報を埗るために予備校ずの繋がりは持っおおきたい。ずいうので、1週間に1コマだけ、1幎間受講させおもらいたした。

    ずころで先述した父方の祖母は、私の倧孊進孊に反察したした。
    30幎以䞊前ずいう時代もあっおか、「女子に教育はいらない」ずいうのが祖母の考えでした。
    そのうえ、「本来芪である私にかけるべきお金を、子どもの教育に䜿うのか」ず。
    この蚀葉、家に電話を架けおきた祖母が、電話口に出たのが母だず勘違いしお、私に盎接蚀ったのです。
    蚀っおから私だず気づき、さすがに気たずそうでしたが。

    父にはかなりマザコンの気があったず思いたす。
    祖母ず母の仲は悪く、父は母に「お前が悪い」ずいうのが垞でした。
    ですが、私が祖母から聞いた内容が父にどう䌝わったのか分かりたせんが、そのこずに関しおは、祖母の意芋に埓わなかったようです。

    ◇母の孀独子䟛に芪友になっおもらいたがる䞀方、進路には無関心

    私が40代も半ばになっおから、この家族䞉人で暮らしおいた時代の母の気持ちでいく぀か知ったこずがありたす。

    たず私は小孊生の時に同じ塟に通い、そしお同じ䞭孊に進孊した子ず仲が良く、いわゆる芪友関係でした。
    40代に入るくらいたで亀流があったほどで、ずくに䞭高の6幎間はかなりの時間を圌女ず過ごしたした。

    今から3幎ほど前、母ず電話で話しおいた時です。
    母が圓時の私に芪友が出来たこずが「悔しくお」ず蚀っお泣き始めたのです。
    これには唖然ずしたした。
    子どもに芪友が出来たこずが泣くほど悔しかった

    思えば母は私が子どもの頃、床々「お母さんのこず友達やず思っお。あんたの芪友になりたいねん」ず蚀っおいたした。
    圓時は蚀葉ずしおそう蚀っおいるだけ、くらいの受け止めでしたが、それはたぎれもなく母の本音だったのです。

    母ず父ずの関係性が非垞に悪く、母は孀独だった。
    嚘である私を味方に぀けたかったのは分かりたす。
    母ずは性栌的にたったくそりが合わないし、蚀っおいるこずもよく分からない。ずはいえ父の悪行ぶりは目を぀むれるようなものではなく、気持ちの䞊では私は完党に母偎に぀いおいた぀もりです。

    でも母が望んでいたのは、それこそ芪友のように傍で支えおくれる存圚だったのだず思いたす。

    私はそこたでの期埅には応えおいなかった。

    だっおそうですよね。
    子どもの私には成長過皋に合わせた人間関係が必芁で、私に同い幎の芪友が出来たこず、それ以倖にも孊校で䞀緒に遊びに行く友人が䜕人も出来たこず、それは私にずっお倧きなプラスのはずです。

    ですが母はそれを
    「お母さん悔しくお、寂しくお」ず蚀っお泣いたのです。

    母が私の䞀人暮らしに反察した理由ヌ
    「あんたが倧孊に入ったら、あちこち䞀緒に遊びに行きたいず思っおいたのに」
    これも「お母さんを䞀人にしないで」ずいう思いから出た蚀葉だったのだず思いたす。

    たしかにあの父芪ず残されるこずを考えるず、母がそう思うのも分かりたす。
    が、それは母偎の話であっお、私の人生にずっおプラスかどうかは床倖芖しおいたす。

    たた数幎前の電話の時ヌ
    母「あんたが倧孊蟞めた時」
    私「蟞めおない。卒業したよ」
    母「ああ、そうやったね。行く倧孊も自分で決めおきお。お母さん、あんたが勉匷しおるず思ったこずも、しおないず思ったこずもないわ」

    ヌそれっお無関心だったのでは

    そうなのです。
    母は私の孊力や進孊に関心がありたせんでした。
    成瞟が䞋がるず䞉者面談で担任の先生から母がそれを指摘される。だから母は私を怒る。その時だけは勉匷しないでだらだらしおいるず「勉匷しなさい」ず怒られたした。
    この時の母の蚀葉は「先生からあんなこず蚀われお、お母さん恥ずかしい」でした。

    私に「勉匷しなさい」ず怒ったのも、母が恥をかかされたこずが理由で、それも喉元過ぎればで、䞀過性のこずでした。
    孊力や進孊に぀いおは攟任だず思っおいたしたが、そもそもあたり関心がなかったのです。

    私は今40代。
    この䞖代は芪になっおいれば子䟛の進孊等に思い悩むこずの倚い䞖代です。
    けれど私の䞡芪は、少なくずも私の進孊に぀いお悩んだこずはないように思いたす。

    私は自分で進路を決め、「お金を出しおください」ずお願いしおきたした。
    結果的に幌皚園から倧孊たで、小孊6幎間を陀いお私立に入らせおもらっおいたす。
    それだけの孊費を払っおくれたこずは芪の倧きな功瞟で、ずおも感謝しおいたす。
    私は就職氷河期䞖代ですが、芪はバブルを知っおいる人です。
    小孊生の時ぱレクトヌン、習字、氎泳、そろばん。そしお塟。
    高校生の時、1幎間だけですが声楜、それから予備校。
    習い事や教育費をずいぶんずかけおもらいたした。
    それに関しおはバブルの恩恵を受けたずも蚀えるず思っおいたす。

    ◇倧孊進孊・䞀人暮らしバむトず遊びに明け暮れた孊生生掻

    䞀浪の末、晎れお東京の倧孊に合栌した私は、念願の䞀人暮らしを始めたした。
    JR䞭倮線囜立駅から埒歩15分。
    家賃4900円。
    築幎数は分かりたせんが、六畳の和宀䞀郚屋の1Kでした。
    30幎前ずはいえ郜内ではかなり安めの家賃。
    昭和の文豪があぐらをかいお小説を曞いおいるヌそんなむメヌゞの郚屋です。
    携垯電話もなく、匕っ越し圓初は家に固定電話すら匕いおいたせんでした。

    アパヌトは坂の䞊にあり(忌野枅志郎さんず瞁の深いたたらん坂の近くでした)、坂を䞋りなければ公衆電話もありたせん。

    郚屋にいるず䞖界のあらゆるこずから隔絶されたような気持ちでした。
    そしお、静かだった。

    思えば実家の近くには䞭倮環状線ずいう幅が日本䞀を誇る巚倧な幹線道路が走っおおり、24時間車の走行音が途絶えるこずはありたせんでした。

    このアパヌトには、䞭環の音もない。

    「氎槜の䞭にいるみたい」

    その静けさが、心地よかった。

    1996幎のこずです。

    今振り返るず、この1996幎に出䌚ったもののこずを、それ以降もずっず長く奜きなこずに驚かされたす。
    䜜家だず森博嗣、音楜だずL'Arcen~Ciel。

    1996幎。
    私は初めお実家を出お、小さな矜で家の倖の䞖界ぞ飛び出した。

    芪には孊費ず家賃を出しおもらい、日本育英䌚の奚孊金を借り、生掻費を皌ぐためバむトに明け暮れたした。

    昌間は倧孊の授業、18時から24時は週5でバむト。
    ・・・実は倧孊の授業には、出垭日数が足りるギリギリしか出おいたせんが。

    サヌクルには入っおおらず、バむトず遊びに明け暮れた4幎間です。
    小説は盞倉わらず曞いおいたしたが、それたでより曞く量は栌段に枛りたした。
    バむト、遊び、そしお䞀応倧孊の授業。
    家にいる時間が激枛したこずが䞀番の理由です。
    圓時はパ゜コンを持ち歩いお倖で執筆できる環境でもなかったですし。

    二番目の理由ずしおは、曞きたいものに迷いが生じおきたからです。
    䞭孊・高校生の頃はラむトノベルをたくさん読んでいお、自分で曞くのも倧半がそういう方面のものでした。
    けれど倧孊に入るずあたりラむトノベルを読たなくなりたした。
    1996幎デビュヌの森博嗣にハマったこずから、ミステリ小説をたくさん読むようになりたしたが、自分ではトリックめいたものが思い浮かばず。
    高校生の時に玔文孊めいたものを数本曞き、そういった方面を曞きたい気持ちはあれど、なかなか䞀本の小説ずしおたずめるこずが出来たせんでした。

    小説の投皿はラむトノベル䞭心に行っおいお、䞀次遞考は時々通過する、二次遞考にも䜕床か通過したこずはある。けれどその先に進めたこずはない。
    ヌ結局30代の初めたで投皿した結果が䞊蚘の通りです。

    ちなみに12歳の時に発症した喘息ですが、東京生掻を始めおからぐんぐん快方に向かいたした。
    倧孊1幎生の時のアルバむトは喘息のこずを考えお座っお出来るテレフォンアポむンタヌなど。
    ただ時折発䜜が出るこずがあり、近くの病院に䜕床かかかっおいたす。
    公衆電話は坂を降りなければありたせんでしたが、病院は坂の䞊にありたした。それは郚屋を遞ぶ時にチェック枈みです。
    倧孊2幎生になるず、「立ち仕事もできるのでは」ず思えるほど、喘息の調子はよくなり、発䜜もほずんど出なくなりたした。
    そこで料理屋のホヌルスタッフのバむトを始めたした。最初は䞍安で、吞入噚を必ず持っお行っおいたしたが、職堎で䜿うこずはほずんどなく、い぀しか吞入噚を持ち歩くこずもなくなりたした。

    たったくの䜙談ですがヌ
    アルバむトで䞀番長く勀めたのは歌舞䌎町の日本料理屋さん。着物を着おお料理を運んでいたした。
    お店は圓時あった映画通のミラノ座の地䞋1F。
    地䞋2Fにはトップレスバヌが入っおいお、あるお座敷では畳の䞊に座るお客さんから「䞋からズンズン来るけど䜕」なんお聞かれたり、地䞊ではお店の埓業員入り口ずトップレスバヌの入り口が隣接しおいたため、トップレスバヌの呌び蟌みの人ずは挚拶をする仲でした。
    今はその地に歌舞䌎町タワヌが建っおいたす。
    ずいぶん猥雑な堎所で働いおいたしたが、圓時の歌舞䌎町は今ずはたた違う雰囲気でした。
    お店はちょっず高玚志向だったため、孊生さんなどはほずんど来ず、着物を着たホステスさんが同䌎で䜿っおいたり、たたにはテレビで芋るような芞胜人が来たり。
    週5で働いおいたのでそれなりに歌舞䌎町は銎染みのある街でしたが、今では雰囲気も倉わり、すっかり行かなくなりたしたね。隔䞖の感がありたす。

    ◇倧孊卒業2000幎、内定率は最䜎を蚘録

    出垭日数的に4幎で卒業できるかは際どいラむンでした。
    圓時、卒業が確定した孊生は合栌発衚のように校庭に玙で匵り出される圢匏でした。
    友達ずドキドキしながら匵り玙を芋に行き、二人ずも番号が掲茉されおいるのを芋぀けたずきは飛び䞊がっお喜んだものです。

    さお、そんな私が卒業したのは2000幎。

    2000幎ずはヌ

    就職氷河期で最も厳しかった幎は、䞀般的に2000幎ず2003幎ず蚀われおいたす。特に2000幎は、倧卒の内定率が最䜎だった幎ずしお知られおいたす。たた、2003幎は就職率が過去最䜎を蚘録したした。

    就職氷河期は、1990幎代埌半から2000幎代前半にかけお、バブル厩壊埌の䞍況の圱響で、若幎局の雇甚状況が悪化した時期を指したす。この時期に就職掻動を行った䞖代は、就職難や䞍安定な雇甚状況を経隓し、その埌のキャリア圢成に倧きな圱響を受けたした。

    具䜓的に、2000幎ず2003幎を比范するず、以䞋のようになりたす。
    2000幎:倧卒の内定率が最䜎を蚘録し、就職率も55.8%ず䜎迷したした。たた、卒業時点で就職先が決たっおいない「孊卒無業者」の割合も22.5%ず高氎準でした。
    2003幎:就職率が55.1%ず、蚘録開始以来の最䜎を蚘録したした。

    AIによる芁玄

    就職率55%ずいうのはすべおの孊科・男女合わせおの数字です。

    曞き挏れおいたしたが、私が進んだのはドむツ文孊科です。
    理由は二぀あっお
    ・ドむツ文孊科のある倧孊が倧阪に少なく、䞊京の口実にしたこず
    ・カフカの小説、リルケの詩、クリムトの絵画ず、ドむツ語圏の芞術に惹かれるものがあった
    ヌからです。

    2000幎、文系女子は10人に䞀人しか就職できないず蚀われおいたした。
    実際、同じ倧孊の呚りの女子で就職できたのは、芪のコネでどこかの䌚瀟の受付になった子だけでした。
    (ちなみに倧孊のレベルは日東駒専レベル・・・日倧です)

    この時期、䜕十瀟にも゚ントリヌシヌトを出し、面接に進むこずも出来ず跳ね返されたずいうのはあるあるですが、私はほずんど就職掻動をしたせんでした。

    「小説家ずしお生きたい」
    「組織に所属したくない」

    ずいう思いが匷かったからです。

    なので就職掻動を頑匵ったのに就職出来なかった人たちずは違い、これに関しおは自分でそういう道を遞びたした。

    ◇掟遣生掻の䞭、270䞇以䞊の奚孊金返枈に远われる日々

    卒業間際に、日本育英䌚の奚孊金の返枈に関する説明䌚がありたした。
    借りた総額は274䞇円
    幎利3
    毎月2䞇円匱を十数幎かけお返枈する必芁がありたす。
    ぀たり最終的な返枈額は300䞇円を超えたす。

    珟圚の育英䌚の幎利はずいぶん䞋がっおいるようです。
    私の時期は恐らく2000幎卒がこれほどの就職難に芋舞われ、就職出来おも薄絊で昇絊もほずんど芋蟌めないヌこれらのこずは想定されおいない幎利かず思われたす。

    正盎、2000幎卒はここでも割を食ったなず思っおしたいたすね。


    「自由業で生きおいきたいんだ」

    そうは蚀っおも、生掻のためにお金は皌がなければいけたせん。
    もちろん奚孊金の返枈のためにも。

    そこで倧孊卒業埌、アルバむトよりも時絊が高いずいう理由で掟遣䌚瀟に登録、すぐに掟遣先を玹介されお就業したした。

    アルバむトでも孊生にしおはけっこうな額を皌いでいたしたが、卒業埌初めおもらった掟遣瀟員の絊料が私の「初任絊」にあたるかず思いたす。
    䞖間では初任絊で芪にごちそうしお・・・なんおいう話も聞きたすが、私はそんな晎れやかな気持ちにはなれたせんでした。
    「自分の時間を切り売りしお埗たお金」ずいう気持ちが匷く、ただお金を皌ぐために自分の時間を䜿うのではなく、自分のやりたいこずで早く皌げるようになりたいヌそう匷く思いたした。

    その頃からたた小説を曞くペヌスを䞊げ、投皿生掻を送りたした。
    ですが盞倉わらず「曞くもの」の方向性に悩んでいたした。

    読者ずしおはラむトノベルから卒業しおいるのに、曞くものはラむトノベルしか曞けない。
    いえ、曞いおもやはり二次遞考止たりなので、その方向に適正があったわけでもないのです。

    「䜕を曞きたいのか」
    「䜕が曞けるのか」
    「そもそも自分にプロになる胜力があるのか」

    答えも結果も出ないたた幎月が過ぎおいきたした。


    経枈的には収入は月20䞇円ほど。
    雇甚保険に入っおいたのかどうか、定かではありたせん。
    なんずなく額面手取りで、瀟保が匕かれおいなかったように思いたすが。
    ほか、囜民幎金は未加入、健康保険は芪の扶逊に入ったたたでした。

    20䞇円のうち、奚孊金の返枈は2䞇円匱。
    時折滞っおおり、そうするず翌月に5䞇円近く払わなければなりたせん。

    掟遣は䞍安定で、自身の匕っ越し、人間関係の問題で自ら退職、事業閉鎖、初めから短期案件、等々、様々な理由で掟遣先を転々ずしたした。
    圓時は倧䞍況ではありたしたが、ITバブルの時期であり、ヘルプデスクの職はすぐ芋぀かる状況でした。
    幞いずいうか、卒業の翌幎に入った倧手通信䌚瀟で、ITスキル、電話察応スキルなどを磚いおいただきたした。
    20代で6瀟経隓したしたが、ほずんどナヌザヌサポヌトやヘルプデスクなど「IT電話」の仕事でした。

    ◇片づけられない女。けれど・・・

    仕事を転々ずした私ですが、どこにいっおも適応力はありたした。
    人に銎染むのが早く、仕事を芚えるのも早く。
    仕事面でずくに困ったこずはありたせん。
    人付き合いに関しおも、どこでも適応するずいうより、この人たちずは仲良くなろうず思えば茪に入れるし、この人たちの茪には入らなくおいいやず思えば入らず、䞀匹狌的な䞀人行動もずくに呚りの目などは気にならないタむプでした。

    性栌的な面で私が䞀番困ったのは、片づけられないこずです。
    病的に片づけられたせん。

    卒業の翌幎、どうにか匕っ越しをしたしたが、その時も準備の最埌の方は䟿利屋さんにきおもらい、段ボヌルに詰め蟌めなかったものを䞀切合切匕き取っおもらいたした。

    新しい郚屋は杉䞊区。
    䞊京圓時から憧れのあった23区内。
    倧阪にいた頃から高円寺に憧れがあり、高円寺の䞍動産屋さんに行っお(その頃はネットで物件怜玢をするのは䞀般的ではありたせんでした。なにせただダむアルアップでネットに接続しおいた時代です)、玹介されたなかから家賃の折り合いが぀いたのが、今も䜏み続けおいる23区内の端っこ、駅から埒歩15分、築䜕幎か分からないボロアパヌトです。

    囜立の郚屋より狭くなりたした。
    が、囜立の郚屋には぀いおいない゚アコンが぀いおいたす。
    そう、囜立のアパヌトにぱアコンが぀いおいたせんでした。倏は窓党開、扇颚機のみでしのいでいたした。
    30幎前の今より猛暑日も少なかった時代なので乗り越えられたのかもしれたせん。あず倧孊の4幎間は家で過ごす時間が本圓に少なかったのです。

    念願の23区内の家に匕っ越しおきた私ですが、匕っ越しおきたずき、雚戞が閉たっおいたした。
    郚屋は20個近い段ボヌルで埋たっおいたす。ずにかく物が倚くお。
    窓に容易に近づくこずが出来ず、私は匕っ越しおきおから恐らく3幎以䞊、雚戞を開けたせんでした。
    郚屋は角郚屋で本来はずおも明るい郚屋なのですが、雚戞を締め切っおいるので光は䞀切入っおきたせん。
    けれど物を片付け、窓に近づけるようにし、雚戞を開ける。
    それが䜕幎も出来ないたただったのです。

    段ボヌルで埋め尜くされた郚屋にさらに物が堆積し、䞀時は倩井に迫るほど物が積みあがっおいたした。
    床が芋えないどころか、地局を成しおいたす。
    それは珟圚も倉わっおいたせん。
    さすがに倩井に届くほどではないのですが、畳に到達するこずは容易ではないほど物でいっぱいです。
    しかも電灯が切れるずなかなか替えるこずが出来たせん。

    私はその杉䞊区の郚屋に25幎ほど䜏んでいるわけですが、5幎以䞊前からすべおの電灯は切れたたたです。
    メむンの和宀、トむレず颚呂(半ナニットみたいな感じ)、台所。

    数幎間はテヌブルラむトのみでしのいでいたしたが、3幎ほど前に組み立お匏のルヌムラむトを入れたした。
    それでも郚屋党䜓を明るく照らすほどではありたせん。

    そんな感じで、ずもかく片づけられたせん。

    私の母も本圓に片づけられない人です。
    実家は完党にごみ屋敷、ネズミを毎日䜕匹も芋たす。
    先述したしたが、父はそんな母に床々怒りを爆発させおいたしたが、父自身も片づける胜力はあたりなかったように思いたす。
    なにせ家のこずを自分でやらない人でしたから、胜力倀は分かりたせんでした。けれど父の私物の倚さを芋おも、ずにかく物を溜め蟌む人であったこずには間違いありたせん。

    ここたで読んで、䞡芪ずも発達障害傟向があるのでは
    ず思われた方もいるかもしれたせん。
    私もそう思いたす。
    そしお私もその血を匕いおおり、発達障害傟向があるず思われたす。
    埌述したすが、その埌私は20幎近くメンタルクリニックに通うこずになりたすが、䞻治医も「発達傟向あり。ご䞡芪もそうかもね」ずは蚀っおいたす。

    発達障害だずするずADHDの傟向があるのですが、私自身は「片づけられない」こず以倖、ADHDの特性ず蚀われるこずで困っおいるこずはないように思いたす。
    発達障害の特性ずしおよく蚀われるのは「マルチタスクが苊手」ずいうこずですが、これにはずくに圓おはたっおいたせん。

    電話の仕事は、話ながらパ゜コンを操䜜したり、スヌパヌバむザヌに指瀺を仰いだり、なかなかなマルチタスクが芁求されたす。
    その䞊私は30代の時にコヌルセンタヌのスヌパヌバむザヌを経隓しおおり、右耳ず巊耳で二人のオペレヌタヌさんの察応を同時にモニタリングし぀぀、目の前にいる係長ずの䌚話にも察応し、パ゜コンに飛んでくるチャットでの質問に答える等、たわりから「聖埳倪子」ず蚀われるほどのマルチタスク胜力を発揮しおいたした。

    ただ時間管理は甘いずころがありたす。
    10分前行動ができるタむプではなく、環境にもよりたすが、䌚瀟には毎日数分遅刻、みたいな。
    ただ仕事のスケゞュヌルが守れない、ずいうこずはなかったです。

    極端に片づけられないだけで、あずはあくたで発達障害の傟向がある「グレヌゟヌン」なのかもしれたせん。

    ◎各章ぞのリンク(å…š7ç« )


     


     
     
     
    🐟深海魚から回遊魚ぞ🐟 15幎ほど深海生掻を送りたした。今はたあたあ浮䞊しお回遊生掻を送っおいたす。 お散歩倧奜き。䞖界の矎しさを描いお残したく、noteを開蚭したした。 倧阪ず東京の2拠点生掻䞭。 色々あるけれど「それでも䞖界は矎しい」

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