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【第5章】うつ病15年の先にあったのは父の死、母の介護、自身の更年期障害、2つのゴミ屋敷ー毒親? 発達障害グレーゾーン?~氷河期世代の私の困った人生

    深拍-mihaku-

    ここまで生育環境のこと。就職氷河期に大学を卒業、派遣社員を経てからの正社員。しかしうつ病を発症し精神科を受診。そこから15年に及ぶ闘病生活についてお話してきました。

    この章では2021年、突然やってきた体の変化とその後の混乱についてお話します。

    【Caution】精神薬の減薬・断薬に関する記述があります。私はかなり無茶な断薬をしていますが、ご自身で行う場合は必ず医師に相談、指示を仰いだ上で行ってください。

    □ある朝、目覚めたら15年が飛んでいた

    ◇2021年3月の変化

    2021年3月。
    前月の2月に体が動かなくなり契約途中で終了したにも関わらず、3月半ばには別の派遣会社に登録し、仕事を始めていました。

    この頃、突然体調が良くなりました。
    具体的に言うと、出社する時、電車の中で寝なくなりました。
    15年にも渡ってひどい体のだるさを抱えており、いつ、どんな時であろうとも電車の中で寝ないことは不可能でした。
    とくに朝は一つのつり革を両手で縋るように持ち、腕に体を預けて朦朧とした状態で出社していました。

    シャキッと頭が冴えるとまではいきませんが
    「電車の中で目を開けていられる」
    それは私にとって画期的な変化でした。

    一方、お腹を壊し始めました。
    それまで体調的なもの+抗うつ薬の副作用で重めの便秘があり、抗うつ薬とセットで下剤も服薬していました。
    それでも出ない時は5日間くらい出ないことはよくあることでした。
    それが1日に3度くらい大をするように。それも水下痢のような状態です。
    かといって、電車に乗っている時に途中下車をしないといけないような便意に襲われるわけではありません。
    自宅や職場など、トイレに行ける環境で普通に便意をもよおし、トイレに行くと水下痢が出る。これが1日に3度くらい。
    もちろん下剤はすぐに飲むのをやめましたが、症状は変わりません。
    ただ気にはなるものの、これ自体は生活に支障が出るわけではなく。
    「私の体、どうしちゃったんだろう?」と思いつつ、対策は取らないままでした。

    良くも悪くも体にいまだかつてない変化が起こってる。

    そう感じるも、具体的な次の行動が決まらない中、派遣会社と揉めました。
    揉めたというか、給与支給のためにこちらが書かないといけない書類があったのですが、再三言っても担当営業がその書類を持参も送付もしてこないのです。
    その契約の前まで名前を聞いたこともない派遣会社で、このまま働いて本当に給料がもらえるのだろうか?
    日に日に不安が募りました。
    それ以外に諸々担当営業には不審な点があり、そのことを派遣先にも伝え、1週間で辞めてしまいました。
    (その後、担当営業の上長から謝罪があり、1週間分の給与は支払われました)

    ともかくまた来月の家賃のために稼がなければなりません。
    次は大手の派遣会社に登録しました。
    大手の派遣会社の場合、1社目の紹介をもらうまで、こちらの実績が何もないので時間がかかることがあります。
    この時は一日に10件くらいwebエントリーする(タップするだけの作業ですが)ことを2週間くらい続けました。
    軽く100社以上落とされ、私にしては苦戦しました。
    当時、私も40代半ば、そしてコロナ禍。
    今までのようにトントンではいかないか・・・と思いつつ、毎日webエントリーを続けている中、ようやくある大手企業での面接が決まりました。

    面接は派遣会社に赴き、派遣先とはオンライン面接でした。
    帰りの電車の中で、採用連絡をいただきました。

    ◇抗うつ薬+抗精神薬3種を3週間で断薬

    3月から4月初旬にかけて、仕事を始める→辞める→職探し→見つかると、目まぐるしく日々を過ごしました。
    この採用してくださった会社ですが、開始日は約3週間後、ゴールデンウィークの直前から就業することになりました。

    私としては急にぽっかり時間が空いた形です。

    体の変化・・・
    ・異常な体のだるさがなくなり、目を開けていられる
    ・下痢
    ーは続いています。

    「もう薬を飲まなくていいんじゃないだろうか?」

    当時メインで飲んでいたのは、抗うつ薬のイフェクサーとリフレックス、抗精神薬のエビリファイ。あとは睡眠薬と抗不安薬です。
    私はこの3週間を使って減薬・断薬を試みることにしました。

    エビリファイは3ヶ月くらい飲んではしばらく止めて、また復活してを繰り返している薬で(3ヶ月くらいで薬効が感じられなくなり、しばらく間を置くとまた感じられるようになったので)手始めにそれから。
    減薬期間はおかず、いきなり断薬しても問題ありませんでした。

    次はリフレックス。
    MAX処方(定められている処方量の上限)から1日に少しずつ減らし、1週間で断薬。

    最後はイフェクサー。
    これは離脱症状がきついと言われていて、一番警戒しましたが、10日ほどで断薬。
    シャンビリと言われている、耳元でシャンシャン鳴るというか、意識が遠のくのと近づくのを繰り返す離脱症状が少しありましたが、聞いていたよりはあっさり断薬できました。

    15年間、多くの精神薬を飲んでいましたが、最終的に3週間で抗うつ薬と抗精神薬を断薬しました。

    この頃は月一の通院で、医師にはほぼ事後報告でした。
    私の場合、特異な事情で勝手に断薬を行いましたが、たいした離脱症状もなく断薬出来たのは本当に本当に幸運なことです。

    今、減薬・断薬を検討されている方は必ず医師に相談の上で行ってください。

    ◇私の体に何が起きたのか? 飛んだ15年・記憶の洪水・混乱の日々

    最初に起きた変化はすでに書いたように体の変化でした。
    そこから15年にわたって飲み続けた精神薬をいっきに断薬。

    ここから様々な混乱の日々が始まります。
    とくにうつ期間の15年にもわたる記憶のほとんどが飛び、タイムスリップしたような感覚に襲われました。
    幼少期の過酷な家庭環境、経験が怒涛のように思い返されますが、一方でそれが自分の体験だという実感も沸きません。

    私という体は、昨日空間が裂けてそこからポコっと生まれ落ちたのではないか?
    そんな妄想にも囚われました。

    記憶の混乱は、自分が何者か分からないということでもあります。
    今、自分の考え方を支えているものは、これまで生きてきた経験と言ってもいいでしょう。

    この「生きてきた経験」「記憶」が抜け落ちたり、自分のものでないように思えたりするのです。

    このあとの1年間で私は生まれてから二十歳までの20年間を、続く2年目に二十歳から三十歳までの10年間を、頭の中で追体験したかと思うほど、記憶の洪水に襲われました。

    これは日々、自分が生まれ変わっているような感覚です。
    昨日の自分と今日の自分が同じ人間だと思えなかったり、物の考え方が昨日と今日とでまるで違ったり。
    同じものを見ても「どう認識するか」が日々刻刻と変化しました。

    最初のきっかけは何だったのか?

    振り返るとある日、不思議な感覚に襲われた朝がありました。
    2021年3月のある朝のことです。

    目覚めて自分の体に触れると、やたらむくんでいます。
    とくに脚などは悪い病気ではないだろうかと思うほどです。
    そして自分の肌を触った感触が昨日までとまるで違っています。
    ふにゃっと柔らかいのです。
    最初は腕など体の一部の肌が変化したのかと思いましたが、瞼さえも、触れると昨日とは違う感覚です。

    全身の皮膚が一夜にして生まれ変わった・・・?

    この違和感は、結局「今」の自分の皮膚に慣れるまで1週間ほど続きました。

    この夜、私の中で15年間が飛んだのではないかと思うのです。

    私の手が覚えている自分の肌を触った感覚は、15年前のものだった。

    15年・・・残念ながら肌の張りが失われたので、ピンと張った触り心地から「ふにゃっと柔らかく」感じられたのではないでしょうか。
    脚の異常なむくみは、むくみもありますが、単純に15年前より脂肪がついて太くなっているから、そう感じたのかもしれません。

    私の記憶にある「昨日の自分」とは、「15年前の自分」だった。

    そんなことが起こりえるのかどうか、分かりません。

    けれどこれが私の経験したことです。

    ◇自分を探して彷徨う日々

    「人の声が聞こえる!」
    そう思ったのもこの頃です。

    15年間、もちろん人の声が聞こえていなかったわけではありません。
    人と会話もし、仕事をしていた時期も長くあります。

    けれどこの時の私は
    「15年ぶりに人の声を聞いた」
    と思いました。

    私が知っているのは平成中期頃までの人々の声です。
    とくに街中で聞こえる会話は目まぐるしい世情を反映し、平成とは違って聞こえます。
    「令和の人たちはこんな風にしゃべるんだ」
    そう思いました。
    ですが人と会話する自分の声を、話し言葉を聞いてみると、自分もまた令和の現代人のしゃべり方をしているのです。

    嘘みたな話ですが本当の話で、愕然とするほど衝撃を受けました。

    「15年飛んだ」
    そう書いていますし、そう認識もしていますが、実際に完全に記憶が失われたわけではありません。
    その間に働いた数々の会社名や、出会ったたくさんの人。名前までは覚えていなくても、顔を覚えている人はたくさんいます。
    勤務地、仕事内容も時に断片的ですが記憶にあります。

    けれどとくに2021年~2023年にかけては、うつ期の15年間というのは「本当にあったのかどうか分からない出来事」「自分が体験したのかどうか分からない記憶」という感覚が強かったです。

    一方、うつ病を発症するまで、30才まではまるで昨日経験したことのように鮮明に蘇ります。
    学生時代のバイト先に放り込まれても、普通に働けると思えるほどに。
    その頃好きだった人に強烈に会いたくなったりもしました。

    けれど30年近く前のバイト先はとうに建物ごとなくなっている。
    好きだった人なんて、今会ってもお互いに分かるかどうか分からない。向こうも私も何十年と年を重ねたのです。

    記憶に翻弄されるように、この頃から私は想い出巡りを始めました。
    うつ病を発症するまで、とにかくたくさん歩いていた私なので、「かつてよく歩いた道」だけでも数えきれないほどあります。

    2021年4月から働き始めた派遣先は、幸い在宅ワークがメインでした。残業もほとんどありません。
    私は仕事後や休日、あちらこちらへ出かけ、記憶にある「あの道」を辿りました。

    ◇道はあっても~どれだけ歩いてもどこにも辿り着けない

    15年もメンタル疾患を抱え、薬を大量に服用していたわりに、私の体はよく動きました。
    生育時代に書きませんでしたが、家でじっとしていられないタイプの父は、私が小学生の時は毎週末、山や公園へ私を連れていってくれていました。
    子どもの体づくりとしては十分運動していた方なのかもしれません。
    そこから喘息で動けない期間を挟み、東京に出てきて喘息が快方に向かうと、私は歩ける喜びを爆発させるように本当によく歩きました。
    そしてうつ時代も完全に家に引きこもってしまわないよう、出かけられる時は極力外を歩くようにしていました。
    様々な幸運が重なり、私の健脚は維持されていたようです。

    想い出巡りで「道」に焦点を絞ると、ほとんどの道が現存していました。
    道沿いのお店、建物などは変わっていても、大都市圏に作られた「大通り」はそうそう形を変えるものではありません。
    仕事帰りに〇〇駅を目指して歩いた△△通り。
    そういった道のほとんどは変わらずありました。

    中でも一番歩いていた時代。
    20代後半の浜松町時代。
    浜松町を起点に東京駅方面、品川方面、六本木方面、五反田方面。
    驚くほど広範囲を歩いており、その辺りは想い出巡りでよく赴きました。

    浜松町時代はうつ病を発症する直前の時代だからでしょうか。
    本当によく思い出しました。
    15年が飛んだ私にとって、「昨日」とは浜松町時代でした。

    元気だった最後の時間。
    よく通り抜けていた東芝ビル(現・浜松町ビル)には2階くらいにテラスのようなゾーンがありました。そこから見上げる切り取られた空をよく思い出します。

    あの頃、小説家になるという夢はその空に浮かぶ雲のようなものでした。
    高く、手が届かない。
    けれどきっと掴んでみせると思っていた時代。
    まだ自分の可能性を信じられていた時代。
    若く体力もあり、仕事も、結婚や出産も、まだ色々な選択肢が、道があると思えていた時代。

    想い出巡りでたくさんの道を歩いて思ったのは
    「どこまでも歩いても、どこにも辿り着けない」
    ということでした。

    ◇母との関係~お母さんってこんなに汚い性格だった?

    この時期、急に母と会話が出来なくなりました。
    「母ってこんなに汚い性格だったっけ?」と、会話の端々に引っかかるものを覚えるようになったからです。
    常に周りの人の悪口を言っているし、私の話も聞いているようで聞いていない。
    一つ大きな出来事がありました。
    デイサービスの契約をするにあたって、母が連帯保証人に私を指定したのですが、そのことを施設の方からの電話で知りました。
    母とは電話で通話することこそ減っていましたが、メールはほぼ毎日していました。
    連帯保証人の件を私に伝える機会はいくらでもあったはずです。
    けれど母は施設の人に私の携帯番号を教え、自分からは私にそのことを伝えてこなかったのです。

    施設の方から電話をもらったあと、母に電話して尋ねました。
    母は「そうやねん。よー言わんかってん」と。

    要は言いたくないから言えなかった、言わなかったのでしょう。
    母にはこういうところがあります。
    「言いたくない」「やりたくない」ことは母の中では「できない」ことなのです。

    「お母さんできないから」
    にはその後も何度も困らせられます。

    思えば母は昔からたくさんのことが「できない」人でした。
    たくさんのことが「できない」から「やらない」まま、ここまで来てしまった人です。

    元からそういう性質だったのか。
    それともDV、モラハラの激しい父との長年の生活でそうなってしまったのか。
    今となっては分かりません。

    ◇「醜い世界」

    母の性格的な汚さに辟易すると同時に、世界が、社会そのものが汚く思えてきました。
    上辺だけを取り繕う利己的な人々。
    自分のことで精一杯な社会で、苦しみあがく人たちに手が差し伸べられることはない。そんな人たちを見ると自分も苦しくなるから「見ない」「ないもの」とする。
    様々な背景があっても現状は「自己責任」

    この頃からよく見ているある精神科医ユーチューバーの先生のお話で、印象に残ったものがあります。
    「この世が張りぼてだと気づく時がある」

    たしかにそうでした。

    社会は二極化が進み、一部の富裕層とそうでない層の分断が広がっている。
    富裕層の住む世界が美しいかというと、虚飾にまみれた世界に思える。

    世界はこんなにも醜かった。

    うつ期の私はあらゆる感覚が麻痺していました。
    喜怒哀楽の「哀」しかない世界でした。

    それが急速に浮上したことから、喜怒哀楽の感情がいっきに蘇ったのです。
    「15年ぶりに人の声が聞こえる」
    と思ったように、色々なことを感じるようになりました。

    その中で、最初に大きく噴き出したのは「怒」の感情でした。

    長いうつ期間。
    大学卒業の翌年、25才になる前に引っ越してきた家賃55,000円のボロアパートに20年経った45才の今も住み、しかも元からの片づけられない性格と、うつ期間の無気力さから、部屋は大変な荒れようです。
    数年前から部屋にもともと備え付けられていた照明は一切点かなくなっています。
    部屋の電灯に至っては、天井から外れかけ、斜めにぶら下がったまま。
    足の踏み場がないどころではなく、畳にたどり着くまでに幾層にも物が積みあがっています。

    仕事はここまで書いてきたように、まともに働けていた期間が短く。
    いわゆるキャリア形成なんて遠い話です。
    ここまで積み重ねてきたものが何もない。

    長いうつ期間で友人関係は切れ、夫も子どもも、彼氏という存在もいません。

    父とはもともと電話で話すような間柄ではなく(一人暮らしをしてから電話で会話したことは5回もありません)、母とも気持ち的な距離が出来ている。

    一方、3月から始めた派遣の方は、欠勤せずに勤められるようになったため、順調に契約更新を重ねていました。
    仕事内容も人間関係も、その時はとくに問題なく。
    けれど元々貯蓄のない私は、自転車操業であることは変わりありません。
    相変わらず来月の家賃のために働く毎日。
    その上、前年の勤怠不良時に住民税を滞納してしまっており、督促の電話が掛かってきています。

    ずっとずっと誰も助けてくれない世界だった。
    深海で一人苦しみ続け、海上に上がってきてもそこは荒波。
    自分で自分を助けられなかった私のせい?
    今もここから自分を救えないのは力のない自分のせいなんだろうか?

    もしあの時、うつ病にならなければ?
    今の自分に、お金も職歴も家族も、人生の積み重ねと言えるものが何もないことの原因の一番は、長くうつ病だったからです。

    けれど社会ではそれは「言い訳」
    いや、言い訳を聞いてくれる先すらない。
    「何も持たない人」「生産性のない人」はこの社会では無価値で、そんな人間の言葉は聞いてもらえません。

    深海は、とても静かだった。
    音も光も波もなかった。
    その時の私は「感じる」能力も失っていた。
    だから冷たさも感じなかった。

    そこから海面に急浮上した私に、今度は荒波が容赦なく襲ってきた。
    急にたくさんのことが見える、聞こえる。そして感じる。

    感じたの冷たさでした。

    うつのどん底期には、早くうつ病を治したいと思っていました。
    うつ病が良くなれば色々なことが出来るようになる。やりたいことが出来るようになるはず。

    けれどうつ病から回復して海面に浮上しても待っていたのは荒波。
    木の板一枚にどうにかしがみついている。
    いつまた沈むか分からない。
    事実、うつ病は長引くほど再発率の高い病気です。
    再発リスクに怯える中、泳ぐ力もなく荒波の中、木の板一枚にしがみついている。
    それが現実でした。

    ◇生き方迷子

    今思うとこんな状態で表面上はよく普通に生活できていたなと思いますが、先にも書いたように、仕事は順調でした。
    在宅ワークがメインで、出社は週1程度だったことも功を奏したのでしょう。

    心の内では記憶の洪水と怒りの嵐が吹き荒れていましたが、生活としてはフルタイム、残業はほぼなしで働き、それ以外の時間は外を彷徨う日々でした。

    これからの人生のためにやらなければいけないことはたくさんあるでしょう。
    けれど海で溺れている私は、自分が海の生き物なのか、陸の生き物なのかが分からなくなっていました。
    陸を目指し、大地の上をうまく歩けるようになればいいのか。
    それとも自分は海の生き物で、うまく泳げるようになるべきなのか。

    自分は何者なのか、どこを目指すべきなのか、そのための手段は?
    何がやりたいことで、何なら出来るのか?

    あらゆることが分からず、分かっているのはこの病気は再発リスクが高いということだけです。

    「無理は禁物」なのは承知していますが、自分にとっての「無理」な範疇が分かりません。

    メンタル的な意味で走れる体力が戻ってきているように思う。
    けれど走って大丈夫なんだろうか?
    走ってまた倒れたりしないだろうか?

    再発したら、一度海上を経験した自分はもう深海に耐えられるとは思えない。

    それまで死ぬほど頑張っても、朝起きられない、出社できない日々でした。
    それが体が動くようになった私は、普通に仕事をこなすことはそこまで頑張らなくても出来るようになっていました。
    エネルギーが余っていることは自覚していましたが、そのエネルギーを使っても大丈夫なのか、そして何にそのエネルギーを注げばいいのか。

    あらゆることが分からない日々。

    とにかく私は歩きました。
    昔から歩くことは好きです。

    歩いている間、たくさんのことを考えると同時に、風景の中に雑念が溶けていくように感じます。

    初めての場所にも行ったし、想い出巡りも続けていました。

    想い出巡りでは歩いて良かったと思うことの方が多かったです。
    ですが、うつ病を発症した会社にまつわる場所だけは、相変わらず苦しさが蘇りました。

    2021年10月、ある想い出の場所へ行った時の日記です。

    心って死に続けるよね。

    体って一回死んだら終わりだろうけど
    心は何度でも死ぬわ。

    死んで
    「ああ、生き返った」なんて思ってもないのに
    生き返る余地もなく死に続ける。

    時々、世界がすりガラスの向こう側にあるように感じられました。
    私の半分は過去の時間に置き去りにされたまま。

    あの会社で休職に入るまで勤めた期間は1年あるかないかです。
    あの時同じフロアで働いていた人たちを、私はよく覚えている。
    席の配置まで。

    あれから15年以上の時が経ち、私のことを覚えている人がいるかどうか。

    私だけが、あの場所、あの時間の中に閉じ込められている・・・。

    ◎各章へのリンク(全7章)

     

     
     
     
    🐟深海魚から回遊魚へ🐟 15年ほど深海生活を送りました。今はまあまあ浮上して回遊生活を送っています。 お散歩大好き。世界の美しさを描いて残したく、noteを開設しました。 大阪と東京の2拠点生活中。 色々あるけれど「それでも世界は美しい」

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