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少年漫画は何を描くようになったのか―1980-2010年まで―

    0. はじめに

    本記事では、1980〜2000年代の少年漫画を振り返りながら、「敵」「正義」の描かれ方がどのように変化してきたのかを解説・評論してみたいと思います。

    昔の漫画と今の漫画では、「敵」の描かれ方が全く違うのである。

    例えば『ドラゴンボール』のフリーザは、どう見ても悪役です。

    惑星を破壊し、人を殺し、自らの欲望のために暴力を振るう
    読者は悟空を応援し、フリーザを倒すことを願います。

    しかし、『ナルト』のペインやオビトはどうでしょうか。

    彼は確かに主人公と敵対する存在だが、単純な悪人ではありません。

    彼なりの正義があり、彼なりに世界平和を願っています。

    読者はナルトを応援しながらも、「長門にも一理あるのではないか」と考えさせられる

    さらに時代が進むと、『進撃の巨人』や『東京喰種』では、そもそも誰が敵なのかすら分からなくなりました。

    この変化は偶然なのでしょうか。

    私はそうは思いません。

    漫画は、その時代を生きる読者たちの価値観を映す鏡でもあると思います。

    だからこそ、漫画における「敵」の変化を追うことは、当時の読者が求める物語の変化、
    そして、日本人の正義観や価値観の変化を追うことにも繋がるのではないでしょうか。


    なお、本記事は漫画史全体を扱うものではありません。

    私自身が読んできた作品を中心に、その時代で特にに流行ったと思われる作品群を一読者としての考察・批評です。

    ⸻

    1. 80〜90年代──敵は倒すべき存在

    1980〜90年代の人気漫画を振り返ると、まず感じるのは物語の分かりやすさです。

    強敵が現れる
    ↓
    主人公が修行・練習する(努力)
    仲間がやられて覚醒する(友情)
    ↓
    そして勝つ(勝利)

    極めてシンプルな構造です。

    『ドラゴンボール』を例に挙げてみます。

    フリーザは圧倒的な悪として描かれます。
    彼は仲間を殺し、星を滅ぼし、人々を支配しようとする。
    ↓
    クリリンを目の前で殺された悟空は激怒し、スーパーサイヤ人へと覚醒する。
    ↓
    そしてフリーザを倒す。

    読者はその瞬間にカタルシスを得られます。

    なぜなら、倒されるべき悪が倒されたからです。
    そこには迷いはありません。

    悟空が正しく、フリーザが間違っている

    物語の構図は非常に明快です。

    『幽遊白書』も同様です。

    戸愚呂弟は強大な敵として立ちはだかります。

    幽助は仲間を守るために戦い、限界を超え、勝利する。

    ここでも敵は乗り越えるべき壁であり、打倒すべき存在である。

    『スラムダンク』も本質的には近いです。

    スポーツ漫画なので悪役というよりかは、倒すべき相手として強豪校が描かれます。

    桜木花道は基礎練習、リバウンドの練習、シュート練習を繰り返し、湘北は強敵に挑みます。

    努力と成長の先に勝利がある
    非常に王道的な物語です。

    また、ベジータや飛影のように、かつての敵が仲間になるケースもあります。

    しかし、彼らが仲間になるためには、一度主人公に敗北しなければならない。

    つまり、

    「悪を倒す」
    ↓
    「改心する」
    ↓
    「仲間になる」

    という流れで、
    あくまで主人公側の価値観が正しいという前提は崩れません。


    そして、仲間は主人公を強くする存在として機能する。

    クリリンが殺される、桑原が倒れる

    すると主人公は怒り、覚醒する。

    このように『友情』の在り方は、精神的な支えであると同時に、戦う力の源泉でもありました。

    さらに修行の描写も、のちの作品と比較すると多いです。
    悟空は修行し、桜木花道は反復練習を繰り返す。

    努力の過程が丁寧に描かれ、その結果として勝利が訪れる

    だから読者も納得できます。

    強くなった理由が分かるからです。

    こうして振り返ると、80〜90年代の漫画は「どうやって敵を倒すか」を中心に描いていたように思えます。

    敵は悪であり、倒すべき存在でした。

    正義と悪の境界は比較的明確であり、読者は迷うことなく主人公を応援できました。


    ⸻

    2. 変化の兆し──敵にも事情がある

    もっとも、80〜90年代の漫画を振り返ると、「敵は悪だった」と完全に言い切ることはできません。

    実際には、この時代の後半から既に変化の兆しは現れていました。

    例えば『ドラゴンボール』において、

    初期のピッコロ大魔王やフリーザ、またその側近は典型的な悪役でした。

    しかし人造人間編になると事情は変わります。
    17号や18号は確かに敵として登場するが、フリーザほど邪悪ではありません。

    彼らは世界征服を企んでいるわけでも、人類を滅ぼそうとしているわけでもありません。

    むしろ車で旅をしたり、自由気ままに行動したりと、どこか人間的ですらある。

    特に16号は象徴的で、
    彼は孫悟空を殺すために作られた人造人間であり、それが自身のアイデンティティながら、動物や自然を愛している描写がいくつか見られます。

    本来なら「殺戮兵器」であるはずの存在が、作中でもっとも生命を尊重する。

    これは非常に興味深い逆転でしょう。

    これは私の憶測ですが、作者の鳥山明は、フリーザのような分かりやすい悪役像を破壊し、新しい表現を提示したかったのではないでしょうか。

    また、魔人ブウ編も同様で、

    ブウもフリーザのような悪人ではありません。

    彼はむしろ子供に近く、
    善悪というより、本能や欲望によって行動しています。
    また、界王神や人間を吸収するほど、欲深い人間に近づいていきます。

    だからこそ、読者は彼を単純な悪役として見られませんでした。

    『幽遊白書』の仙水編も大きな転換点だったと言えます。

    仙水は元々、人間を守る側の人間でしたが、
    人間の残虐さを目の当たりにしたことで、人間そのものに絶望し、敵側になりました。

    つまり彼は単純な悪になったのではなく、
    自身の正義を追求した結果、人間への不信に辿り着いただけです。

    これは戸愚呂とは全く異なる敵です。

    さらに『るろうに剣心』の志々雄真実や雪代縁も同様で

    彼らは世界征服を企む悪党ではなく、

    彼らには彼らなりの思想、信念や彼個人の復讐譚などがありました。

    主人公・剣心との戦いは、剣術の勝負であると同時に、価値観の衝突でもありました。

    こうして振り返ると、90年代後半には既に変化が始まっていたことが分かります。

    敵は単なる悪ではなくなり始めていました。

    彼らには事情があり、過去があり、思想がある。

    読者は敵を倒してスッキリするだけでなく、

    「もし自分が同じ立場だったらどうなっていただろう」

    と考えるようになりました。

    そして、この流れは2000年代に入ると、さらに大きく発展していきます。

    ⸻

    3. 2000年代──敵は別の正義を持つ存在になる

    2000年代の少年漫画を振り返ると、敵の描き方はさらに変化します。

    もはや敵は「悪」ではなく、
    主人公とは異なる正義を持つ存在になります。

    その象徴が『ナルト』です。

    ナルト前半に登場した敵・我愛羅は、孤独と差別によって歪められた存在でした。

    そして、物語後半になると、その傾向はさらに強くなります。

    長門(ペイン)は世界平和を願っており、
    オビトもまた恒久的な世界平和、そして理想の世界を作ろうとしています。

    ライバル・サスケも同様です。

    彼らは単なる悪人ではありません。

    目的だけを見れば、むしろ主人公と近い部分すらあります。

    違うのは手段や考え方です。

    だからナルトの戦いは、敵を倒すことが目的ではなく、
    敵を理解し、対話し、時には救うことが重要になります。

    『ワンピース』もその系譜を辿ります。

    この作品では、そもそも主人公が海賊で、
    本来なら海軍こそ正義の味方のはずです。

    しかし世界政府は腐敗しており、天竜人のような特権階級も存在する。

    一方で海賊にも善人がいる。

    読者は次第に、「正義とは何か」を考えさせられるようになりました。

    また、『ワンピース』においては敵だけでなく仲間にも重い過去が与えられるようになりました。
    善悪の対立というより、それぞれの事情や背景を理解する物語へと重心が移っていきました。
    (なお、過去を描く手法はるろうに剣心からの系譜)

    『ハンターハンター』も同様に

    キメラアント編では、人間と蟻のどちらが怪物なのか分からなくなります。

    王であるメルエムは徐々に人間性を獲得し、従来の主人公のように精神的に成長していきます。

    反対に、人間側は「貧者の薔薇」という核兵器を使用します。

    読者は単純な勝敗以上のものを突きつけられ、善悪そのものが曖昧になりました。

    ⸻

    4. 正義が一つでなくなり、強さも一つでなくなる

    敵の描き方が変わったのと同時に、戦い方も変化していきました。

    80〜90年代の人気漫画では、基本的に「強い者が勝つ」というルールです。

    代表例は『ドラゴンボール』です。

    もちろん戦略や工夫が全くなかったわけではありません。

    しかし最終的には、より強い力、高い戦闘力を持った者が勝利する。

    敵はどんどん強くなり、主人公もそれを上回る力を手に入れる。
    物語は常に「さらなる強さ」を求めて進み、どんどんインフレ化していく。

    非常に分かりやすい世界です。

    読者も、
    「次はどれほど強くなるのか」
    を楽しみにしていたと思われます。

    しかし2000年代に入ると事情が変わります。

    『ワンピース』では悪魔の実による能力の相性が重要になります。
    例えばエネルは作中でも屈指の強敵で、
    雷そのものになれる能力を持ち、ほとんどの相手では勝負になりません。
    しかしゴム人間のルフィは雷が効きません。

    純粋な強さではエネルの方が上だったかもしれないが、相性によって勝敗が覆ります。

    ここでは「最強だから勝つ」という論理が崩れています。

    『ナルト』においても同様で、忍術、幻術、体術と
    能力の組み合わせによって勝敗は変化します。

    例えば、チヨバア&サクラvsサソリやサスケvsデイダラ
    はどちらも相性の有利不利や頭脳戦が大きく影響した戦いになりました。

    『ハンターハンター』に至っては、この傾向を徹底的に押し進めた作品のパイオニアとも言える存在です。

    念能力には無数の個性が存在し、能力そのものよりも、どう使うかが重要になりました。

    結果、強者が必ず勝つとは限らない。
    むしろ格上を知略で倒す場面すら珍しくありません。

    また、『デスノート』も象徴的です。

    そもそも肉体的な強さがほとんど意味を持たず、
    重要なのは知略や情報であり、心理戦です。

    こうして振り返ると、2000年代の漫画は「どちらが強いか」ではなく、「どのように戦うか」を描くようになりました。

    そして、この変化は単なるバトルシステムの変化ではありません。

    私は、その背景に正義観の変化があったように思います。

    ⸻

    5. 漫画は何を描くようになったのか

    ここまで見てきた変化を一言でまとめるなら、

    少年漫画は「悪を倒す物語」から「正義同士が衝突する物語」へと変化しました。

    80〜90年代の漫画は、
    「どうやって敵を倒すか」
    を描いていました。

    フリーザ、戸愚呂をどう倒すか

    強敵を倒す方法そのものが物語の中心でした。

    もちろん、その中には友情や努力も描かれています。

    しかし最終的な目的は勝利です。

    だから読者は主人公が強くなることを期待する。

    強くなり、敵を倒し、勝利する。

    そこに大きなカタルシスがありました。

    しかし2000年代になると、物語の重心が少しずつ移動していきました。

    ペインは戦争のない世界を望んでおり、ナルトもまた平和を願っています。

    両者は同じ目的を持ちながら、その手段が異なります。

    重要なのは勝敗でなく、なぜペインはその考えに至ったのか、ナルトは何を答えるのか

    そこに物語の中心が移っています。


    ワンピースにおいても
    アラバスタ編では国家の在り方や反乱が描かれ、エニエス・ロビー編では世界政府の正義が問われました。
    そしてルフィたちは世界政府に追われるニコ・ロビン一人救うために、巨大な権威に挑みます。

    そこでは単純な善悪ではなく、
    「国家の正義」と「仲間を守る正義」が衝突しています。

    『ハンターハンター』では、

    「人間を食料とする蟻たちは悪なのだろうか」

    「人類を守るためなら大量破壊兵器を使用しても良いのだろうか」

    という問いを読者に投げかける

    そして明確な答えを示さない

    ここで漫画が描くものは完全に変わりました。

    敵を倒す方法ではなく、
    敵を理解すること
    敵と自分の違いを考えること
    そして正義とは何かを問うこと

    それが2000年代の漫画が獲得した新しいテーマだったように思います。

    正義が一つではなくなった
    だから敵もまた単純な悪ではなくなった

    そして正義が複数存在する世界では、強さもまた一つではありえません。

    ドラゴンボールのような「より強い者が勝つ世界」から、
    相性や知略、価値観の違いが勝敗を左右する世界へ

    少年漫画は、敵の描き方を変えることで、世界そのものの見方を変えていったのです。


    ⸻

    6. 次回予告──敵は個人から構造へ

    ここまで見てきたように、少年漫画における「敵」は少しずつ変化してきました。

    1980〜90年代の漫画では、敵は倒すべき悪でした。

    フリーザや戸愚呂のように、主人公の前に立ちはだかる強敵であり、物語は「どうやって敵を倒すか」を中心に進んでいました。

    しかし90年代後半になると変化の兆しが現れ、
    人造人間16号や仙水、志々雄真実のように、敵にも事情や思想が与えられ始めた。

    そして2000年代に入ると、その傾向はさらに強まり、
    長門やサスケ、メルエムのように、敵は主人公とは異なる正義を持つ存在へと変化した。

    物語の中心は
    「どうやって敵を倒すか」
    から
    「なぜ敵と戦うのか」

    へと移っていきます。

    それに伴い、戦い方も変わりました。

    かつての漫画が「より強い者が勝つ世界」を描いていたのに対し、2000年代の漫画は能力の相性や戦略、価値観の違いを描くようになる。

    正義が一つではなくなったからこそ、強さもまた一つではなくなったのである。

    では、その先はどうなったのだろうか。

    2010年代以降の漫画を見ていると、さらに大きな変化が起きているように思えます。

    そこでは敵は単なる悪役でもなければ、異なる正義を持つ個人ですらない。

    『進撃の巨人』では歴史と民族が敵となる。

    『東京喰種』では人間とグールを隔てる社会そのものが問題となる。

    『約束のネバーランド』では鬼を倒して終わりではなく、システムそのものをどう変えるのかが問われる。

    敵は個人から構造へと姿を変えていくのである。

    そして、その流れとは別に、一つ気になる作品があります。

    次回は2010年代以降の漫画を振り返りながら、

    「敵が構造になる時代」

    について考えてみます。

    続き書きました↓

     
     

    杉山

     
     
    小説・漫画・美術を横断し、自由、欲望、救済、社会と世界について考える批評を書いています。 作品を未読・未鑑賞の方にも、考えるきっかけになる文章を目指しています。 基本無料。チップ歓迎。メンバーシップでは批評リクエストや質問・DMを受け付けています(初月無料)。

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