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大きな物語が終わったあと──『チェンソーマン』は何を描いたのか

    まず作品を読んでから記事を読みたい方はこちら

    0. はじめに

    私は『チェンソーマン』を初めて読んだとき、この作品をうまく理解できませんでした。

    設定や世界観は面白い
    しかし、主人公・デンジだけがどうにも掴めませんでした。

    ナルトは火影になりたい
    ルフィは海賊王になりたい
    エレンは自由になりたい

    しかしデンジは違います。

    「ジャムを塗ったパンが食べたい」
    「女の子と仲良くなりたい」
    「普通の生活がしたい」

    私は長い間、「この主人公は本当は何をしたいんだ?」
    と思っていました。

    しかし読み返していくうちに、デンジの分からなさは、そのまま現代を生きる私自身の分からなさでもあるように思えてきました。

    実は、この三回にわたる漫画論を書こうと思ったきっかけも、この違和感でした。

    第1回では、1980〜2000年代の少年漫画を振り返り、「敵」が悪から別の正義へと変化したことを書きました。
    第2回では、その敵がさらに歴史や民族、社会制度といった「構造」へ広がっていく過程を見てきました。

    しかし、私が本当に考えたかったのは、そのさらに先にある『チェンソーマン』という作品です。
    これまでの二本の記事は、そのための助走だったと言ってもいいかもしれません。

    今回は、『チェンソーマン』を通して、現代の少年漫画がたどり着いた新しい主人公像、そして新しい「敵」の姿について考えてみたいと思います。

    前回の記事はこちらから↓


    1. 敵は「概念」に

    『チェンソーマン』では、敵はさらに一段階抽象化されています。

    『進撃の巨人』では民族や歴史が、『東京喰種』では人間社会が、『約束のネバーランド』では社会のシステムが、主人公たちの前に立ちはだかります。

    しかし、『チェンソーマン』では、その流れがさらに一歩先へ進んでいるように思えます。

    この作品では、敵は国家でも、民族でも、社会制度でもありません。

    支配
    戦争
    飢餓
    落下
    闇
    死

    どれも、人間が太古から恐れ続けてきたもので、こうした人間が根源的に恐れる「概念」そのものが敵として現れます。

    『チェンソーマン』に登場する悪魔は、人々の恐怖から生まれる存在です。

    つまり、「支配の悪魔」は支配されることへの恐怖から、「戦争の悪魔」は戦争への恐怖から生まれます。

    敵は誰か一人の悪人ではありません。
    社会制度そのものでもありません。

    人間という存在が抱えている恐怖や不安、そのものが姿を持って現れているのです。

    ここは『進撃の巨人』との違いを考えると分かりやすいでしょう。

    『進撃の巨人』では、争いの原因は民族や国家、積み重ねられた歴史にありました。

    つまり、敵は社会の中に存在していたということです。

    しかし、『チェンソーマン』ではさらに深い場所まで降りていきます。

    支配も、戦争も、飢餓も、人類が存在する限り完全にはなくならないものです。

    敵を倒したからといって、それで恐怖そのものが消えるわけではありません。

    だから、この作品では「敵を倒せば世界が平和になる」という発想自体が成立しません。

    ここまでシリーズを振り返ると、少年漫画における敵は、次のように変化してきたように思えます。

    1980〜90年代は、「悪」
    2000年代は、「別の正義」
    2010年代は、「構造」

    そして『チェンソーマン』では、「概念」

    敵は、人から社会へ、そして社会から、人間存在そのものへと広がっていきました。

    しかし、『チェンソーマン』の本当の新しさは、敵だけではありません。
    もっと大きく変わったのは、主人公の方だったのです。


    2. 主人公は「理念」を失う

    しかし、『チェンソーマン』が面白いのは、敵だけではありません。

    主人公もまた、それまでの少年漫画とは大きく異なっています。

    これまでの主人公たちは、みな大きな目標を持っていました。

    悟空は、もっと強くなりたい
    ナルトは、火影になりたい
    ルフィは、海賊王になりたい
    エレンは、自由を手に入れたい。

    主人公は、それぞれが自分なりの理念や目的を掲げ、そのために戦っていました。

    ところが、デンジは違います。

    彼が最初に望むものは、
    「ジャムを塗ったパンが食べたい」
    「女の子と仲良くなりたい」
    「胸を揉みたい」
    「普通の生活がしたい」

    そんな、ごく身近な欲望ばかりです。

    しかし、不思議なことがあります。

    デンジが本当に求めているのは、「パン」や「胸」そのものなのでしょうか。

    私は、少し違うように思います。

    もしかするとデンジが求めているのは「パン」や「胸」そのものではなく、
    「何かを欲しいと思えること」なのかもしれません。

    だから一つの願いが叶っても、彼は満たされない。また別の欲望が生まれ、再び何かを求め始めるのです。

    もっと不思議なのは、彼が戦う相手についても、ほとんど哲学的に考えようとしないことです。
    これまでの漫画史の文脈を鑑みるなら、そもそも

    支配とは何か
    戦争とは何か
    恐怖とは何か

    を掘り下げると思います。
    しかし、そんなことをデンジは一度も語りません。

    支配の悪魔が現れても、彼は「支配とは何か」を考えません。
    戦争の悪魔と戦っても、「戦争の本質」を語りません。
    彼が考えているのは、その時その時の生活です。

    「腹が減った」
    「今日は何を食べよう」
    「普通に暮らしたい」

    それだけなのです。

    私は、このズレこそが『チェンソーマン』という作品の最大の特徴だと思っています。

    敵は、これまでの少年漫画で最も抽象的になりました。
    一方で、主人公は、これまでで最も具体的になりました。
    敵は「支配」「戦争」「飢餓」という人類全体の問題を背負っている。

    しかし主人公は、「パン」「性欲」「普通の生活」という個人の欲望だけを抱えて生きています。

    普通なら、この二人は噛み合わないはずです。

    しかし藤本タツキは、このアンバランスな構図をそのまま物語にしてしまいました。

    だからデンジを見て
    「この主人公は何をしたいんだ?」と戸惑います。

    しかし、その戸惑いこそが現代的なのではないでしょうか。

    現代を生きる多くの人はおそらくナルトやルフィのような、大きな目標を目指しているわけではありません。

    毎日の仕事をして、ご飯を食べて、恋愛をして、休日を過ごす。

    デンジの欲望は、一見すると非常に小さく見えます。

    しかし、その小ささこそが、現代を生きる私自身の姿でもあるように思えるのです。

    敵はどんどん抽象的になっていく
    しかし主人公は、どんどん具体的で、身体的で、日常的な欲望へと降りていく

    この逆方向の変化こそが、『チェンソーマン』の奇妙さなのだと思います。


    3. 欲望は達成されても終わらない

    前章では、デンジという主人公は、これまでの少年漫画の主人公とは違い、大きな理念を持たないことを書きました。

    彼が求めるのは、「世界を救うこと」ではありません。
    ごく身近な欲望です。

    しかし、『チェンソーマン』を読み進めていると、不思議なことに気付きます。

    では、デンジの小さな欲望は、叶えば彼を満たすのでしょうか。

    ここに『チェンソーマン』のもう一つの奇妙さがあります。

    デンジは、その欲望を叶えても満たされないのです。

    ジャムを塗ったパンを食べる。
    胸を揉む。
    普通の生活を手に入れる。

    どれも、一度は叶います。

    しかし、そのたびに新しい欲望が生まれます。

    次はキスがしたい
    恋人がほしい
    家族がほしい

    そして、また、それらも失う

    また別の何かを求める

    欲望は終わりません。

    私はこの構造を見ていて、19世紀の哲学者ショーペンハウアーを思い出しました。

    ショーペンハウアーは、人間は欲望を満たすことで幸福になる存在ではないと考えました。

    人は何かを欲している間は苦しみます。

    しかし、その欲望が叶えば今度は退屈になる。

    だからまた新しい欲望を生み出す。

    人生とは、「欲望」と「退屈」の間を揺れ動き続けるものだというのです。

    デンジは、まさにその姿を体現しています。

    彼は一つの夢を叶えて物語を終える主人公ではありません。
    欲望を満たしては、新しい欲望を見つける。
    それを繰り返しながら生きています。

    だから『チェンソーマン』は、「欲望を達成する物語」ではなく、「欲望そのもの」を描いた物語なのではないでしょうか。


    4. 「コンビニと性欲」の物語

    ここまで読んでくると、『チェンソーマン』という作品は、
    一見すると、とてもスケールの小さな物語に見えます。

    デンジが考えているのは、

    今日のご飯
    コンビニのパン
    ゲーム
    女の子
    普通の生活

    そんなことばかりです。

    『進撃の巨人』のように民族や国家の未来を語ることもありませんし、『NARUTO』のように世界平和を語ることもありません。

    そのため、初めて読んだ私は、
    「この作品は一体何を描きたいのだろう」
    と戸惑いました。

    しかし、読み返したり、作品について考えてみると、むしろ逆なのだと思うようになりました。

    この作品が描いているものは小さいものではありません。

    大きなものを、小さな言葉で語っているのです。

    デンジは難しい言葉を知りません。

    だから、
    「愛されたい」
    とも言いません。

    「承認されたい」
    とも言いません。

    「共同体がほしい」
    とも言いません。

    彼が口にするのは、

    「パンが食べたい」
    「胸を揉みたい」
    「普通に暮らしたい」

    という、ごく具体的で身体的な言葉だけです。

    しかし私は、それらを単なる幼稚な欲望とは思えません。

    むしろ、その奥には、

    「生きたい」
    「誰かと繋がりたい」
    「愛されたい」
    「安心できる居場所がほしい」

    という、人間の根源的な願いが隠されているように思えます。

    ここで私は、哲学者リチャード・ローティの「終極の語彙(ファイナル・ボキャブラリー)」という考え方を思い出しました。

    ローティは、人はそれぞれ、自分の人生や価値観を語るための「最後の言葉」を持っていると言います。

    それ以上説明できない、自分にとって最も大切な語彙です。

    ある人にとっては、
    「自由」
    かもしれません。

    ある人にとっては、
    「正義」
    「神」
    「国家」
    「家族」
    「愛」

    かもしれません。

    では、デンジにとっての終極の語彙とは何でしょうか。

    それは
    「パン」
    「女の子」
    「普通の生活」

    なのだと思います。

    もちろん、デンジが本当に欲しいのはパンそのものではありませんし、女の子そのものでもありません。

    しかし彼は、「愛」や「承認」や「共同体」といった抽象的な言葉を持っていません。

    だから、自分の欲望を、自分が知っている言葉でしか語ることができないのです。

    つまり、
    「パンが食べたい」

    という言葉の奥には、
    「生きたい」

    という願いがある。

    「胸を揉みたい」
    という言葉の奥には、

    「誰かと繋がりたい」
    という願いがある。

    「普通に暮らしたい」
    という言葉の奥には、

    「安心して生きられる居場所がほしい」
    という願いがある。

    デンジは、自分自身の欲望を哲学的な言葉では語れません。

    しかし、だからこそ彼の言葉は妙に切実です。

    私は以前、『進撃の巨人』を「歴史と民族の物語」と表現しました。

    それに対して『チェンソーマン』は、言うならば「コンビニと性欲の物語」です。

    もちろん、本当に描いているのがコンビニや性欲だけという意味ではありません。

    『進撃の巨人』が、歴史や国家という大きな物語を通して人間を描いた作品だとすれば、
    『チェンソーマン』は、コンビニのパンや性欲といった小さな言葉を通して人間を描いた作品なのです。

    だから私は、この作品を読んでいると、不思議とデンジよりも自分自身のことを考えてしまいます。

    少なくとも私にとって、デンジは「理解できない主人公」ではありませんでした。

    むしろ、「うまく言葉にできない自分自身」を映している主人公だったのです。

    「国家」や「宗教」「進歩」といった大きな物語が力を失った時代を「ポストモダン」と呼びます。

    私は、『チェンソーマン』は、そのさらに一歩先を描いているように思います。

    そこでは、大きな物語だけではありません。

    「大きな言葉」すら失われています。

    デンジは、「自由」や「正義」では生きていません。

    「パン」「女の子」「普通の生活」

    そんな小さな語彙だけを手がかりに生きています。

    だから『チェンソーマン』とは、「大きな物語が終わったあと」の物語であると同時に、

    「大きな言葉」を持たない主人公の物語なのではないでしょうか。


    5. 『チェンソーマン』は真似できるのか

    ここまで読んできて、私は一つ疑問を抱きました。

    『チェンソーマン』のような作品は、今後も数多く生まれるのでしょうか。

    私は、その答えは少し違うように思います。

    もちろん、「大きな物語の喪失」や「欲望の空虚さ」といったテーマ自体は、決して新しいものではありません。

    文学で言えば村上春樹や、さらに遡ればニーチェやショーペンハウアーも、それに近い問題を考えてきました。

    つまり、テーマそのものは再現できます。

    しかし、『チェンソーマン』という作品は、テーマではなく主人公の作り方が極めて特殊なのです。

    これまでの少年漫画には、必ず主人公を導く大きな目的がありました。

    悟空は強くなりたい。
    ナルトは火影になりたい。
    ルフィは海賊王になりたい。
    エレンは自由を求める。

    だから物語には一本の軸があります。
    主人公は、その目的へ向かって成長していくのです。

    しかしデンジには、それがありません。

    彼は、その時その時で欲しいものが変わっていきます。
    食べ物、性欲、恋愛、普通の生活、家族。

    欲望の対象は移り変わり、手に入れてもまた次の欲望が生まれる。

    目的そのものが揺れ続ける主人公

    これは物語として非常に扱いづらい構造です。

    普通なら、物語の軸がぶれてしまいます。

    しかしこの作品は、その「ぶれ」をあえて主人公の本質として描きました。

    『進撃の巨人』や『東京喰種』のように、社会や構造を描く作品は今後も現れると思います。
    しかし、第二の『チェンソーマン』は簡単には現れないのでは、と思います。

    なぜなら『チェンソーマン』の特殊さは、設定やテーマではなく、
    「何を望んでいるのか本人にも分からない主人公」を、物語の中心に置いたことにあるからです。


    6. おわりに──敵よりも、自分が分からない時代

    このシリーズでは、三回にわたって少年漫画の「敵」の変化を追いかけてきました。

    1980〜90年代
    敵は倒すべき悪でした。

    2000年代
    敵は異なる正義を持つ存在になりました。

    2010年代
    敵は個人ではなく、歴史や民族、社会制度といった「構造」へと広がっていきました。

    そして2020年代
    『チェンソーマン』が描いているのは、「敵との戦い」ではなく
    「自分自身との距離感」なのだと思います。

    私はこの作品に、これまでの少年漫画にあったような大きなカタルシスを感じませんでした。

    代わりに残るのは、不思議な虚無感と、妙に現実味のある読後感です。

    少なくとも私は、この作品を読んでいると、
    自分自身もまた、
    何を信じればいいのか
    何を目指せばいいのか
    何を手に入れれば満たされるのか
    その答えを持たないまま生きているのではないかと思ってしまいます。

    もし、第1回の記事を「敵は悪だった」、第2回を「敵は構造になった」と要約するなら、第3回はこうまとめられるでしょう。

    敵よりも、自分が分からない

    少年漫画は長いあいだ、「敵とは誰か」を問い続けてきました。

    しかし『チェンソーマン』は、その問いを反転させます。

    敵ではない
    社会でもない
    歴史でもない

    最後に残った問いは、

    「自分は本当は何を望んでいるのか」

    だったのです。

    私は、これが『チェンソーマン』という作品の本質なのだと思います。


    読んでくださってありがとうございました!
    感想に共感いただけた方、もしよければチップいただけると嬉しいです。
    次回作へのモチベーションになります!

    参考図書

     
     

    杉山

     
     
    小説・漫画・美術を横断し、自由、欲望、救済、社会と世界について考える批評を書いています。 作品を未読・未鑑賞の方にも、考えるきっかけになる文章を目指しています。 基本無料。チップ歓迎。メンバーシップでは批評リクエストや質問・DMを受け付けています(初月無料)。

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