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Photo bypinkcat009

敵は「構造」になる──2010年代、少年漫画は何と戦うようになったのか

    まず作品を読んでから記事を読みたい方はこちら

    0. はじめに

    前回の記事では、1980〜2000年代の少年漫画を振り返りながら、「敵」の描かれ方がどのように変化してきたのかを考えました。

    1980〜90年代の漫画では、敵は倒すべき悪として描かれていました。

    フリーザや戸愚呂のように、主人公が乗り越えるべき壁であり、物語の目的は「どうやって敵を倒すか」にありました。

    しかし2000年代になると、その構図は大きく変わります。

    『NARUTO』の長門(ペイン)やオビト、『ONE PIECE』の世界政府、『HUNTER×HUNTER』のメルエムなど、敵は単なる悪ではなく、それぞれが自分なりの正義や理想を持つ存在として描かれるようになりました。

    物語は「敵を倒すこと」だけではなく、「敵を理解すること」へと重心を移していきます。

    では、その先はどうなったのでしょうか。

    2010年代以降の作品を読み返していると、私はさらに大きな変化が起きているように思います。

    そこでは敵は、主人公と対立する一人の人物ではなくなっていました。

    主人公たちが本当に戦っている相手は、歴史であり、社会であり、制度であり、人々の価値観そのものだったのです。

    今回は、その変化について考えてみたいと思います。

    ⸻

    1. 2010年代──敵は誰なのか分からなくなる

    前回の記事では、2000年代の少年漫画について、

    「敵は悪ではなく、主人公とは異なる正義を持つ存在になった」

    という変化を見てきました。

    しかし2010年代に入ると、その流れはさらに一歩先へ進みます。

    もはや敵は「別の正義を持つ人物」ですらなくなっていくのです。

    その象徴が『進撃の巨人』『東京喰種』『約束のネバーランド』でしょう。

    『進撃の巨人』の序盤では、敵は巨人でした。

    人類を食べる怪物であり、倒すべき存在です。

    ところが物語が進むにつれて、展開が大きく変わります。

    巨人を操っていたのは人間であり、その背後には民族対立や歴史、国家同士の争いが存在していました。

    『東京喰種』も同様です。

    人間から見れば喰種は恐ろしい怪物です。

    しかし喰種の視点から見れば、人間社会の中で迫害され、生きるために食べるしかない存在でもあります。

    主人公・金木研は、その両方の立場を経験することで、「どちらが正しいのか」という問いそのものを抱えるようになります。

    『約束のネバーランド』もまた同じです。

    鬼は子どもたちを食料として育てています。

    しかし、それは鬼社会を支える仕組みの一部でもあります。

    エマたちが目指すのは鬼を皆殺しにすることではなく、人間も鬼も生きられる新しい世界を作ることでした。

    こうして見ると、2010年代の漫画では「敵とは誰なのか」という問いそのものが曖昧になっていきます。

    敵は一人の悪人ではなく、
    一方だけが悪という世界でもない。

    読者は主人公を応援しながらも、敵側の事情にも共感し、「本当に倒すべき相手は誰なのか」を考えるようになったのです。

    ⸻

    2. 勝っても終わらない世界

    敵が曖昧になると、物語の終わり方も変わります。

    1980〜90年代の少年漫画では、

    敵を倒す
    ↓
    世界に平和が戻る

    という構図が基本でした。

    フリーザを倒せば宇宙は救われる。

    戸愚呂を倒せば物語は一区切りを迎える。

    勝利そのものが、問題の解決でした。

    しかし2010年代の漫画では、そうはいきません。

    『進撃の巨人』では巨人を倒しても戦争は終わりません。

    むしろ世界の全貌が明らかになるほど、新たな対立が生まれていきます。

    『東京喰種』でも、一人の喰種や捜査官を倒したところで、人間と喰種の対立は続きます。

    『約束のネバーランド』でも、鬼を倒すことだけでは根本的な解決にはなりません。

    つまり、
    勝利そのものが目的ではなくなったのです。

    主人公たちが本当に求めているのは敵を倒すことではなく、世界そのものを変えることでした。

    だから2010年代の漫画では、戦いはゴールではありません。

    むしろ戦いは、新しい世界を作るための一つの手段として描かれるようになります。

    ⸻

    3. 本当の敵は「構造」だった

    では、なぜ敵を倒しても問題は解決しなくなったのでしょうか。

    それは、本当の敵が個人ではなく、「構造」へと変化したからです。

    『進撃の巨人』では、問題の根源はエレンでも巨人でもありません。

    民族の対立、積み重ねられた歴史、国家同士の憎しみ

    そうした構造が争いを生み続けています。

    『東京喰種』では、人間と喰種を隔てる社会そのものが対立を生み出しています。

    『約束のネバーランド』でも、鬼という存在そのものではなく、人間を食料として成立しているシステムこそが問題でした。

    敵を倒しても意味がないのです。

    そして、新しい敵が現れるからでもありません。

    敵を生み出す仕組みそのものが残っているからです。

    これは、前回までの少年漫画とは決定的に異なる点でしょう。

    1980〜90年代は「悪を倒す物語」

    2000年代は「異なる正義と向き合う物語」

    そして2010年代は、「人ではなく構造と向き合う物語」へと変化しました。

    漫画は、敵の描き方を変えることで、「世界の見方」そのものを描くようになったのです。

    ⸻

    4. もう一つの流れ──王道への再構築

    ここまで私は、『進撃の巨人』『東京喰種』『約束のネバーランド』を中心に見てきました。

    しかし、2010年代以降の漫画がすべて『進撃の巨人』の方向へ進んだわけではありません。
    むしろ少年漫画の世界では、もう一つ異なる流れも生まれていました。

    それが、『鬼滅の刃』『僕のヒーローアカデミア』『呪術廻戦』『ハイキュー!!』などの作品群です。

    これらの作品にも、もちろん2000年代までに培われた表現は受け継がれています。

    例えば『鬼滅の刃』では、鬼は単なる悪ではありません。

    倒される直前に過去や人生が描かれ、読者は敵にも悲しみや苦しみがあったことを知ります。

    『僕のヒーローアカデミア』でも、死柄木弔やトガヒミコなど、多くのヴィランは社会から取り残された背景を持っています。

    『呪術廻戦』でも、呪霊は人間の負の感情から生まれる存在であり「敵にも理由がある」という2000年代以降の価値観が反映されています。

    しかし一方で、物語全体を見ると善悪の構図は比較的明快です。
    主人公たちは人々を守るために戦い、読者も安心して彼らを応援できます。

    また、これらの作品には2000年代以前の王道作品とも異なる特徴があります。
    それは物語が最初から「倒すべき敵」を提示している点です。

    『鬼滅の刃』では鬼舞辻無惨
    『僕のヒーローアカデミア』では死柄木弔
    『呪術廻戦』では両面宿儺

    物語は最初から最終目標が示され、主人公たちはそこへ向かって成長していきます。

    『ドラゴンボール』や『ナルト』『ワンピース』では、章ごとに強敵が現れ、そのたびに物語の目的が更新されていきました。

    2010年代の王道作品は、この構造を整理し、ゴールを最初から読者へ提示する作品が増えたように思います。

    また、戦い方も能力や個性を活かした相性・戦略が中心となります。

    『呪術廻戦』の術式、『ヒロアカ』の個性などは、その代表例でしょう。

    つまり、この流れは2000年代までの少年漫画を否定したのではなく、その王道を継承しながら、新しい世代へ受け継いでいった作品群だったと言えるのではないでしょうか。

    ⸻

    5. 少年漫画は二つの方向へ枝分かれした

    まためると、2010年代以降の漫画は、一つの方向へ進化したわけではなく、

    二つの方向へ枝分かれしたように思えます。

    一つは、『進撃の巨人』『東京喰種』『約束のネバーランド』のように、

    敵を個人ではなく、歴史や民族、差別やアイデンティティ、制度やシステムといった「構造」へと広げていった作品群です。

    主人公は敵を倒すことよりも、世界そのものと向き合うことを求められます。

    これらの作品は、少年漫画の枠を超え、青年漫画的なテーマへと近づいていった作品群とも言えるでしょう。

    実際『東京喰種』は青年誌で連載されており、『約束のネバーランド』『進撃の巨人』も少年誌でありながら、そのテーマ性は従来の少年漫画とは一線を画していました。

    もう一つは、『鬼滅の刃』『僕のヒーローアカデミア』『呪術廻戦』『ハイキュー!!』のように、

    2000年代までに築かれた少年漫画の王道を継承していった作品群です。

    敵にも背景は与えられ、能力バトルは洗練される。

    しかし、主人公が成長し、ラスボスへ向かって進んでいくという物語の骨格は維持されています。

    つまり2010年代は、「敵とは何か」という問いに対して、二つの異なる答えが提示された時代だったのです。

    一方では「物語」を複雑化する流れ
    もう一方では「王道」を磨き続ける流れ


    そして、この二つの流れを見ていると、一つだけどちらにも収まりきらない作品があります。

    それが、『チェンソーマン』です。

    『チェンソーマン』は王道バトル漫画のようでもあり、構造を描く作品のようでもあります。

    しかし、そのどちらとも少し違う気がします。

    敵とは何か
    正義とは何か

    さらには、「少年漫画は何を描くのか」という前提そのものを問い直しているようにも見えます。

    私は、この作品は2010年代までに積み重ねられてきた少年漫画の歴史を、一度解体し、新しい地点へ踏み出した作品なのではないかと感じています。

    次回は『チェンソーマン』を中心に、「現代の少年漫画は何を描こうとしているのか」を考えてみたいと思います。 

    続き書きました↓

    読んでくださってありがとうございました!
    感想に共感いただけた方、もしよければチップいただけると嬉しいです。
    次回作へのモチベーションになります!

     
     

    杉山

     
     
    小説・漫画・美術を横断し、自由、欲望、救済、社会と世界について考える批評を書いています。 作品を未読・未鑑賞の方にも、考えるきっかけになる文章を目指しています。 基本無料。チップ歓迎。メンバーシップでは批評リクエストや質問・DMを受け付けています(初月無料)。

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