
新出雲物語37|第六章 須佐之男命、日向国で日巫女に遇う② |父の遺作を公開する
この作品は、父が生前に書き残したものです。
原稿用紙のまま残されていたものを、書き写して公開しています。
原文には手を加えず、読みやすさだけ整えています。
興味を持ってくださった方は、是非最初からお読みいただければ幸いです。
日向の集落を統一してこの地に国の形態を築いたのは伊邪那岐であった。尊一行が日向国に到着した三年前に伊邪那岐は他界しており、遺言により一人娘であった日巫女が後を継ぎ、父の片腕であった中津守が補佐役となって伊邪那岐亡き後の国を治めていた。
日巫女の館は西都にあった。その遺跡は西都原古墳群として現在も残っている。須佐之男命一行が日向国に入った時、実りの秋を迎えた日向国は一つの難題を抱えていた。それは南の鰐塚山地に居住していた曽於族との爭いであった。曽於族は狩猟し、栃の実や団栗を食していたが木の実が不作の年には日向国を侵し稲穂を略奪した。
実りの秋となり日向国では曽於族の侵掠に備え多くの若者を国境に派遣し北の備えは手薄となっていた。そこへ北から見知らぬ一団が近づいているとの知らせに日巫女の館で中津守、高木守などの側近達が集まり対策を話し合っていた。
中津守は
「都農よりの早馬での知らせによれば彼等は遥か北の国の者にて米や粟を求めているとのこと・・・剣を持ちたる者多く追い返さんとすれば多くの命を失うことになりましょう。ここは彼等の申し出を聞くがよろしいかと思いまする」
と、日巫女に具申した。
日巫女は、
「米や粟を求めてやってきたとのことであれば使いの者をよこすでありましょう・・・高木守よ、伴人と共に砦に行き話し合いを進めて来てもらいたい」
と、指示した。
※中国の正史とされる「三国志」の魏志の一節に「倭人伝」があり、その中に女王「卑弥呼」の名が記されている。「卑弥呼」という文字は古代中国における特異な使い方で「卑」とは「いやしい」とか「低い」の意である。先にあげた「奴国の奴も身分の低いことを表わし、奴僕と言えば下男とか召使いのことである。
魏志倭人伝は陳寿の著作とされているが、陳寿が倭国へ来たという記録はなく、「倭人伝」はそれまでの倭国に関する書物を読み、これを基に書き上げたものである。
「卑弥呼」は本来「日巫女」である。「後漢書」や「倭人伝」の年代的記述はおおむね信用できるとしても倭国への方位、距離、風俗については古代中国における独特な誇張、見下し的表現があり額面通りには受け取れない。※
👈須佐之男命、日向国で日巫女に遇う①
👉須佐之男命、日向国で日巫女に遇う③