「偶然」にしては出来過ぎているテーマの重なりに、私が思うこと
最近、自分が心を込めて生み出した大切なテーマやアイデアについて、考えさせられる出来事がありました。
文章やイラストで「自分らしさ」を表現しようとすればするほど、ふとした瞬間にテーマやモチーフが誰かと被ってしまったり、真似されたように感じて切なくなってしまうことがあります。
「ただの偶然」「オマージュ」「リスペクト」という言葉で片付けられてしまうのかもしれないけれど、自分自身が心を寄せて温めてきた発想だからこそ、胸がぎゅっとと締め付けられるような悲しさを感じてしまうのです。
そんなモヤモヤの中で、記憶の奥底に眠っていた「小学校のときのこと」を思い出しました。
当時、友達のAちゃんが書いた素敵な作文が、教育系の雑誌に掲載されたことがありました。自分のことのように嬉しく誇らしかったのを覚えています。
けれど、Bちゃんが、そのAちゃんの作文をそのまま丸パクリして、自分の作品として小学校の卒業文集に載せてしまったのです。
私が卒業したけど、小学生の先生に言う!というのに、言わなくていいというAちゃん。
ずっと形に残る卒業文集に、誰かの大切な言葉が横取りされて載っている景色。幼い心に「自分が心を込めて生み出した言葉や表現が、こんな風に軽々と扱われてしまうんだ」という、言葉にできないショックと強い違和感が刻まれました。
その後、Bちゃんは大きな交通事故に遭い、巷ではバチがあたったと騒がれ、BちゃんはAちゃんに高価すぎるプレゼントを渡すなど奇妙な出来事となりました。
大人になった今でも、自分の好きなテーマや時間をかけて描いたモチーフのテーマが創作大賞の中間に選ばれるなど、創ったものが軽々と扱われたように感じるとき、あの頃に感じた切なさや悔しさが蘇ってくるのだと思います。
たとえば、「ベージュベイビー」というハッシュタグも、私がnoteでは一番最初に使った大切なものでした。
ほかにも、まだ珍しい観点だと、一から温めてきた発想や言葉も、それが軽々と扱われたりあまりにも類似して被ったりしてしまうのは、本当に悲しいです。
もっとタチが悪いのは、過去記事を書き換えて、類似記事を書く人。記事を量産する仕事が実際に存在する汚い世界なのでしょうか?
たったこれだけの数の中で同じようなテーマが重なるのは、偶然にしては出来過ぎているのではないか……そう感じてしまうくらい、胸が痛む出来事でした。
文章を書くことも、イラストを描くことも、私にとっては「自分自身」を表現する大切な営みです。
東野圭吾さんの『黒笑小説』のように、業界や創作の裏にある理不尽さを作品として昇華させる作家さんもいますが、誰かの真似や借りてきた言葉ではなく、自分自身の体験や素直な感情から生まれた「本物の言葉」だからこそ、届くものがあると信じています。
切り口がよかったから真似されたし、参考にされたんだよなんて慰めも、今は心に響ません。
悲しさや悔しさがすぐに消えるわけではありませんが、真似されたことにとらわれて自分が描きたい世界を見失ってしまうのが、何より一番悔しいと思っています。

noteのアカウント以外の、ドンキホーテや家庭科部も、創作大賞の中間にあったし…
色々続いて、悲しいです😭
私はネタ帳なの?
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ひとつの言葉が、誰かの心に届く。
その奇跡を、明日の糧に変えて。
いただいた光で、また新しい物語を紡ぎます