『オイルマネー・コード』
【挫折からの完結】12万字の物語に命を吹き込めた理由
実は、この物語は第5話あたりでストーリー展開に完全に行き詰まり、一度執筆を断念した作品でした。当時は公募作品の執筆へと意識を切り替えていたのですが、大きな転機が訪れます。
私が公開していたプロットをもとに、yukariyajp / Hiroki Kon さんがコラボレーション作品として物語を軽やかに先へ進めてくださったのです。その素晴らしい展開を目にしたとき、胸の奥で眠っていた熱い想いが再び湧き上がってきました。
「この物語を、もう一度最初から組み直そう」
そう決意してプロットを全面的に再構築。公募やKindle出版にも耐えうる完成度を目指し、なりふり構わず必死の思いで執筆に向き合いました。その結果、当初予定していた7万5,000字完結の構想は大きく膨らみ、実に12万字に及ぶ長編小説として無事に完結を迎えることができました。
あきらめかけた物語に再び息吹を与えてくださったHiroki Konさんへの深い感謝とともに、全力で紡ぎ切ったこの作品を皆さんにお届けします。
『オイルマネー・コード』
あらすじ
地方の高校生・神谷玲司が、自作AI「AION」でコンビニの廃棄弁当と電力価格の妙な一致に気づくところから始まります。たどっていくと、世界中の予測が同じ形で外れる「説明できない変数(NULL VARIABLE)」に行き着く。それを匿名で公開したら、本人は告発したつもりもないのに「17歳の宣戦布告」として世界が騒ぎ、中東の産油国アル・ナハルの実力者ファイサルに招かれます。
国家改革(まず水インフラ)を任される中で、エンジニアのユセフと出会い、玲司は「数字の向こうに顔がある」ことを知る。そして core の正体に気づく——THE CONSORTIUMという層が、世界中の予測に「この地域は衰える」という前提を配り、自己成就的に人を消していた。NULL VARIABLE=計算誤差ではなく、"数える価値がない"と切り捨てられた人々のことだった。相棒ユセフは「事故」に見せかけて消される。
第一章 数字の違和感
午前二時を過ぎても、机の上の三台のモニターだけが青白く光っていた。
神谷玲司の部屋は六畳ほどで、片方の壁を天井まで本とファイルが埋めている。もう片方には型落ちのデスクトップと、自分で継ぎ足したモニターが並ぶ。冷却ファンが低く回り続け、その音は夜のあいだじゅう途切れない。慣れてしまえば無音と変わらなかった。玲司にとっては、むしろ音のない部屋のほうが落ち着かない。何かが動いている気配だけが、この時間を彼のものにしてくれる。
膝の上には、表紙の角がめくれた大学ノートがある。中身は文章ではなく、短い問いの羅列だった。
なぜ駅前のコンビニだけ、夜になると弁当が余るのか。
なぜ雨の翌日は宅配が遅れるのか。
なぜ電気代が上がっているのに、昼の太陽光は捨てられているのか。
どれも、誰も気に留めない類いの疑問だった。父にいちど見せたことがある。父はページを一枚めくって、それきり閉じた。そんなこと調べて何になるんだ、と言った。玲司は答えなかった。答えられなかったからだ。何になるのかは、玲司にも分からない。ただ分からないままにしておくのが、どうにも据わりが悪い。それだけだった。
三日前から、玲司は一つの数字を追っていた。
きっかけはいつもの帰り道だった。放課後の教室を出るとき、前の席の生徒が、神谷、テスト何点だった、と聞いてきた。玲司は正直に答えた。相手は一瞬黙って、それから、化け物かよ、と笑った。悪意はない。ただその笑いのあとで会話が続くこともなかった。玲司は鞄を背負って、一人で校門を出た。それがふつうだった。誰かと帰るという発想が、そもそも玲司の中の選択肢に入っていない。
駅前のコンビニの裏に、回収を待つ弁当のケースが積まれていた。透明な蓋の向こうで、値引きシールの貼られた唐揚げ弁当が斜めに傾いでいる。珍しい光景ではない。珍しくないから、玲司はそれを数えた。三十七。前に通ったときより、明らかに多い。数える理由はなかった。数えずにいられない、というだけだった。街灯の下で、玲司はしばらくその積み重なりを見ていた。誰も見ていないものを見ている、という感覚だけが、玲司にとっては見慣れたものだった。
家までは歩いて十五分ほどだった。シャッターの下りた商店街を抜け、川沿いの道に出る。夜のこの町は、どこも同じ顔をして眠っている。玲司はその静けさの下で、たくさんの数字が今も動き続けているのを知っていた。眠っているのは町だけで、電気も、物流も、金も、休まない。
家に帰って、地域の電力データを開いた。電力会社が三十分ごとに公開している、卸電力価格の推移だ。玲司はそれを半年ぶん、AIONに読ませてあった。
AION。
Adaptive Integrated Optimization Network。
高校一年の冬から、玲司が一人で書き続けているプログラムの名前だった。
文章を書くためのものではない。絵を描くためのものでもない。AIONがすることはひとつだけで、ばらばらの数字のあいだに線を引くことだった。気象、電力、物流、港湾、為替。世界はそれぞれ別の窓口で数字を配っているが、その数字たちが互いに知らんぷりをしているわけではない。どこかで手をつないでいる。AIONは、その手のつなぎ目を探す。それだけの機械だった。
AIONが初めてまともに当てたのは、去年の梅雨だった。玲司は、来週の木曜、市内の宅配便がふだんより遅れる、と自分のノートに書いた。理由は説明しなかった。ただ気象と物流と、隣県の高速道路の工事予定を、AIONが勝手に結んだ結果だった。木曜、荷物は半日遅れた。玲司はそれを誰にも言わなかった。言う相手がいなかったし、当たったからといって、何かが変わるわけでもない。ただ、AIONが世界の一部を先に見た、という事実だけが、玲司の中に静かに残った。それ以来、AIONの出す数字を、玲司は自分の勘より信じている。
玲司は弁当の数と電力価格を同じ画面に並べた。
最初は何も見えなかった。廃棄の多い日と、電力の高い日。二本の折れ線は、それぞれ勝手な方向に暴れている。関係があるとは思えない。ふつうなら、ここで手を止める。二つの線が別々に動いているのを見て、なるほど無関係だ、と結論づける。それが正しい態度というものだった。
玲司は手を止めなかった。廃棄が増えた日から一日ずらし、二日ずらし、気温の記録を横に置いた。線を平らにするのではなく、時間のほうをずらしてやる。原因と結果のあいだには、いつも少しの間がある。その間を、玲司は経験から知っていた。
一日ずらしても、線は寄らなかった。二日ずらしても同じだった。玲司は苛立たない。合わない、という結果もまた、一つの答えだった。合わない場所を潰していけば、合う場所はいつか残る。玲司は湿度を足し、曜日の並びを足した。関係のなさそうなものほど、いちど試してみる価値がある。世界は、玲司が予想した順番では手をつないでくれない。
三日目のずらしで、二本の線が、ふいに寄り添った。
弁当の廃棄が増える日の翌々日、その地域の昼間の電力需要が落ちていた。落ちているのに、価格は動かない。まるで誰かがあらかじめ需要の穴を見越して、供給の栓を先に閉めておいたかのようだった。
玲司はキーボードに指を置いた。
「これ、偶然?」
打ち込んでから、声に出していないことに気づく。深夜の癖だった。画面の隅で、AIONの応答欄がひとつ下に伸びた。
偶然である確率は八・三パーセントです。
八・三。
玲司はその数字をいったん忘れようとした。九割以上は偶然でない、という言い方もできるが、逆に言えば、百回に八回は、こういう一致がただの偶然として起きる。世の中には、意味のない偶然のほうがずっと多い。玲司はそう自分に言い聞かせて、画面を閉じかけた。
閉じられなかった。供給の栓を先に閉めておいたかのよう、というさっきの自分の感触が、指の先に残っていた。偶然なら、栓は需要が落ちてから閉まる。先に閉まっているなら、誰かが先に知っていたことになる。
誰が、とまでは玲司は考えなかった。人の顔を思い浮かべるのは、いつも最後だ。まずは数字がどう動いたか。動いた順番。順番さえ正しく並べば、そこに立っている人間の影は、あとから自然に浮かんでくる。玲司は影を探しにいくのではなく、影が落ちるのを待つ。
偶然でないなら、原因がある。原因があるなら、その原因にも原因がある。玲司はいつもそこから始める。弁当が余るのは、客が来ないからだ。客が来ないのは、その日、街に人が少ないからだ。人が少ない日は、近くの工場の稼働が下がる日と重なるかもしれない。工場が止まれば、電力の使い方が変わる。物流のトラックの本数も変わる。
玲司は一つずつ、データの窓を開けていった。
コンビニの売上。
それを引くと、地域の人流が出てきた。
人流を引くと、その裏に工場の操業カレンダーがあった。
工場を引くと、原料を運ぶ港のコンテナ量につながった。
港を引くと、船の燃料価格が顔を出した。
燃料をたどると、はるか遠くの、名前も知らない産油国の指標に行き着いた。
弁当の蓋の傾きから始めた線が、いつのまにか海を越えていた。
一つ一つは、当たり前のつながりだった。経済とはそういうものだ。玲司にも分かっている。誰かが困れば誰かが儲かり、その皺寄せは巡り巡って、地方都市のコンビニの棚にまで届く。教科書に書いてある話だった。世界は一枚の大きな布で、端を引けば反対の端も動く。それだけのことだ。
ただ、教科書に書いていないことが一つあった。
この一本の線の、途中のどこかで、数字が合わなくなる。
廊下の明かりがついた。
トイレに立った父が、ドアの隙間から漏れる光に気づいて、足を止めた気配がある。ノックはなかった。ただ少しだけ間があって、また廊下の奥へ戻っていく足音がした。何になるんだ、という声は、もう聞こえない。父はとっくに諦めている。息子が夜中に何をしているのか、理解することを。理解しないまま、それでも明かりを咎めずにいる。玲司はキーボードに戻ろうとした指をいちど止めた。それから、また打ち始めた。
玲司は、線の全体をもう一度AIONに通した。始点は弁当、終点は産油国の指標。その間にある、数十の数字。それぞれの関係の強さを、AIONに計算させる。どこがどれだけ効いているのか。どこが飾りで、どこが本物か。
結果は、きれいに並んだ。
どの数字も、隣の数字で八割方は説明がつく。残りは誤差だ。誤差はどこにでもある。観測の粗さ、記録の抜け、人の気まぐれ。それらが積もって、線をわずかにぼやけさせる。玲司はそこまでを確かめて、そろそろ寝るか、と椅子の背にもたれた。時計は三時に近い。明日は平日で、朝は来る。
そのとき、応答欄が、もう一度動いた。
玲司が何も打っていないのに、だ。
説明できない変数が一つあります。
玲司は背を起こした。椅子の脚が床を鳴らした。
「変数って、どれ?」
特定できません。既知のどの項目にも一致しません。ただ、全体の誤差の四割が、その未知の一点から生じています。
四割。
玲司はその割合をもう一度読み返した。誤差というのは、たくさんの小さな原因が散らばって生まれるものだ。ひとつの正体不明の点が、その四割を一手に引き受けている――それはもう誤差ではない。誤差の顔をした、何か別のものだった。
玲司は試した。まず、いちばん怪しい産油国の指標を線から丸ごと外してみた。誤差は減らなかった。次に港のコンテナ量を外した。減らない。工場、人流、気温。一つずつ抜いていっても、その未知の四割は、どこにも寄りかからず、そこに居座った。どの数字の陰にも隠れていない。どの数字とも手をつないでいない。それなのに、線全体を内側から歪ませている。
玲司はそれをいちど図にしてみた。数十の点が、糸でつながれている。どの糸も、隣の点へまっすぐ伸びている。ただ一か所、どの点にもつながっていないのに、まわりの糸をわずかに引き寄せている場所があった。糸はそこへ向かって、ほんの少しだけたわんでいる。見えない何かが、その一点で重さを持っている。玲司は画面から目を離せなくなった。
画面のどこにも、その変数の名前はなかった。値もない。単位もない。AIONは、自分が見つけたものを、自分でも呼べずにいた。仮の名だけが、ログの末尾に残っている。
NULL VARIABLE。
空白の、変数。
玲司は、その二語を声に出さずに読んだ。冷却ファンの音が、ふいに耳についた。部屋は変わらず静かで、モニターだけが青白く光っている。それなのに、たったいま、この六畳の部屋のどこかに、名前のないものが一つ、まぎれ込んだような気がした。
玲司はふと、AIONを書き始めた最初の夜のことを思い出した。
高校一年の冬。新しいプログラムの、まっさらな一行目に、玲司は目的を書く癖がある。何を作ろうとしているのか、自分に言い聞かせるための一行だ。あのとき打ち込んだのは、成功を予測する、ではなかった。
// Predict the reason for failure.
――失敗の理由を予測せよ。
うまくいく未来を当てるためのAIではない。うまくいかなかったとき、なぜそうなったのかをあとから知りたい。ただそれだけのために、玲司はAIONを作った。二年半、その一行は変えていない。
だからいまAIONが差し出してきたのは、成功でも失敗でもなかった。説明のつかない一点。誰も名前をつけていない、空白。玲司が二年半かけて教えこんだやり方で、AIONははじめて、答えではなく、答えられない場所を見つけてきた。
玲司はその一点にフォルダを一つ作った。名前をどうつけるか少し迷って、AIONが残した仮の名をそのまま使うことにした。null_variable。半角の、小さな文字。フォルダはからっぽだった。中に入れるものが、まだ何もない。玲司は、そのからっぽの箱をしばらく見ていた。箱の中身を、これから自分が埋めていくことになる。そのときは、まだそれくらいにしか思っていなかった。
玲司はもう眠くなかった。朝が来ることも、明日が平日であることも、頭の隅から抜けていた。
NULL VARIABLE、と打ち込んで、玲司は問いを一つ足した。この癖だけは、二年半、変わらない。分からないものを見つけたら、まずそれに話しかける。
「お前は、どこにいる?」
応答欄は、しばらく沈黙していた。
ファンだけが、回り続けていた。
第二章 数えはじめる
名前のないものに、名前だけをつけた。玲司はその空白を毎晩、覗きに行くようになった。
あの夜から、一週間。玲司の作った、からっぽのフォルダは、まだからっぽのままだった。中に入れるものが、見つからない。玲司は、それが気に入らなかった。分からないことがあるのは、いい。ただ、分からないまま、名前だけがある。それが玲司には、いちばん落ち着かなかった。空白に名前をつけるとその名前が毎晩、玲司を呼ぶようになった。
玲司は、あの一点をつかまえようとした。
帰ってくると玲司は、AIONの前に座った。弁当の廃棄と、電力価格。あの二本の線のあいだにある、説明のつかない、四割。玲司は、その四割を削ろうとした。データを足す。気温。湿度。曜日。近くの工場の稼働。祭りの日。給料日。思いつくかぎりの、あらゆる数字を玲司は、その空白にぶつけていった。
どれも、当たらなかった。
足せば足すほど、玲司には、はっきりしてきた。その空白は玲司の知っている、どの数字ともちがう。世界が窓口で配っている、ふつうの数字の中にはない。それは、どこにも記録されていないものだった。記録されていないのにたしかにそこにある。存在するのに、名前がない。玲司はそういうものに、生まれて初めて出会っていた。
いちど玲司は正体をつかんだ、と思ったことがある。
弁当の廃棄が増える日は近くの高速道路の、事故が多い日と、少しだけ重なっていた。玲司はそれだ、と思った。事故で、道が混む。物流が乱れる。店に、客が来ない。弁当が余る。きれいな線だった。玲司は、その線をAIONに通した。
AIONは、否定した。事故の数を全部抜いても、あの四割は減らなかった。玲司の見つけた線は、本物のように見えて、ただの飾りだった。世界には、本物らしく見える偽物の線がいくらでもある。玲司はその一本に、危うくだまされかけた。あの空白はそういう、分かりやすい顔をしない。玲司はそこで、相手の手ごわさを少しだけ知った。
その日から、玲司の眠る時間は、また少し短くなった。布団に入っても、頭の中で、二本の線が動いていた。合わない。まだ合わない。どこをどうずらせば、合うのか。玲司は目を閉じたまま、数字を並べ替えつづけた。眠りに落ちる、いちばん最後の瞬間まで玲司は、その空白のことを考えていた。朝、目が覚めるといちばん先に、同じことを考えはじめた。取り憑かれる、というのは、こういうことかもしれない、と玲司は思った。ただ、いやではなかった。頭の中に片づかない問いが一つある。それは生きている、という感じに近かった。
ふつうなら、玲司は、そこでやめただろうか。
やめなかった。むしろ、玲司は、そのつかまえられなさに、引き込まれていた。玲司がこれまで追ってきた違和感はたいてい追えば、正体が割れた。なぜ弁当が余るのか。なぜ宅配が遅れるのか。少し粘れば、答えは出た。今回だけ、ちがった。粘っても、粘っても、正体が逃げていく。玲司は、その逃げていくものを追うのが、いやではなかった。逃げるものほど、追う値打ちがある。玲司の中の、いちばん古い部分がそう言っていた。
AIONを、玲司が作りはじめたのは、高校一年の冬だった。
きっかけは、たいしたことではなかった。中学の終わりごろ、玲司の、いちばん仲のよかった友だちの一家がある日、急に引っ越していった。町の工場が一つ閉まって、その父親の仕事がなくなったからだ、とあとで聞いた。玲司にはそれが、うまく飲み込めなかった。工場はその半年前まで、忙しそうに動いていた。それがなぜ、急に閉まったのか。誰に聞いても、答えは同じだった。仕方がない。景気だ。時代だ。運が悪かった。
仕方がない。玲司は、その言葉がきらいだった。
仕方がない、というのは、理由を探すのをやめる、ということだ。玲司には、それができなかった。友だちが、いなくなった。その裏には必ず、理由があるはずだった。工場が閉まった理由。その工場に、仕事が来なくなった理由。そのまた、裏の理由。誰も、そこまではたどらない。たどっても、友だちは戻らないからだ。
その友だちとは引っ越しの日に一度だけ会った。トラックに、荷物を積みこむ横でその子は玲司に、ゲームのソフトを一本、押しつけた。返さなくていい、と言った。玲司は何か言おうとして、うまく言えなかった。がんばれ、もちがう。また会おう、も、たぶん嘘になる。結局、玲司はうん、とだけ言った。トラックが、角を曲がって見えなくなるまで玲司は、そこに立っていた。友だちの父親の、うつむいた背中を玲司は、いまでも覚えている。あの背中には、理由が必要だった。仕方がない、では足りなかった。
ただ、玲司はたどりたかった。戻らなくても、せめて、なぜ、を知りたかった。
だから、玲司は、AIONを作った。うまくいくことを当てるためではなかった。うまくいかなかったとき、その理由をあとからたどるため。玲司がAIONの、いちばん最初の行に書いたのはその一言だった。
// Predict the reason for failure.
失敗の理由を予測せよ。二年半、玲司は、その一行を変えていない。
AIONは賢い機械ではなかった。少なくとも、玲司は、そう思っていない。AIONは、答えを知らない。AIONにできるのは玲司が、まだ気づいていない、線のつなぎ目を、玲司より少しだけ早く見つけることだけだった。玲司が問い、AIONがつなぎ目を返す。玲司が、そのつなぎ目の意味を考える。二人で一つの頭のように玲司は、AIONと夜を過ごしてきた。二年半、玲司の、いちばん長く一緒にいた相手は、人間ではなかった。AIONだった。それをさびしい、とは、玲司は思わなかった。数字は、人よりも正直だった。
その二年半で玲司はAIONに、たくさんのことを教わった。いや、教わった、というのはちがう。玲司が問い、AIONが返し、その往復の中で玲司自身が少しずつ、世界の見え方を変えていった。世界は、ばらばらの出来事でできているのではない。すべては、細い糸でつながっている。ただ、その糸はふだん、目に見えない。玲司とAIONの仕事は、その見えない糸を一本ずつ、明るいところへ引っぱり出すことだった。今回の空白も、その糸の、どこかにつながっているはずだった。つながっていない糸など、この世界にはない。玲司は、そう信じていた。だからこそ、つなぎ目の見えない今回の空白は玲司を、いつまでも放さなかった。
玲司の、昼の顔は変わらなかった。
朝、決まった電車に乗り、決まった席に座る。授業を聞き、板書を写す。成績だけは、よかった。ただ、それ以外のことで、玲司が話題になることはなかった。休み時間、玲司は、たいてい窓の外を見ていた。教師たちは、玲司のことを頭はいいが、何を考えているか分からない生徒、として扱った。悪い扱いではなかった。ただ、玲司と、深く関わろうとする教師はいなかった。玲司も、それを望まなかった。
一度だけ、一人の教師が玲司に、まっすぐ聞いたことがある。数学の、若い教師だった。神谷は将来、何になりたいんだ、と。玲司は、少し考えて答えた。分からないことを、分かるようにする仕事、と。教師は、笑った。それは学者か、研究者か、と教師は言った。玲司は、首をかしげた。玲司の言いたかったことはそのどちらとも、少しちがった。玲司は、有名になりたいわけでも、何かを発見したいわけでもなかった。ただ、目の前にある、分からないものを、分からないままにしておくのが、いやなだけだった。それは職業にはたぶんならない。ただの、性分だった。
その夜、玲司は夕食のあいだ、父の横顔を見ていた。
父の会社も、大きくはなかった。もし、ある日、父の会社に、仕事が来なくなったら。うちも、あの友だちの家のように、この町から消えるのだろうか。玲司は、そんなことを考えた。考えて、父には言わなかった。言えば、父は笑って、縁起でもない、と言うだろう。ただ、玲司は知っていた。あの友だちの一家も、消える半年前までは消えるなんて、思っていなかった。消される側はいつも最後まで、自分が消されることを知らない。
玲司はその夜、寝る前に、自分の町のことを少し考えた。この町も、ゆっくりと小さくなっていた。玲司が子どものころ、駅前にあった店の半分はいまは、シャッターが下りている。同級生の何人かは卒業したら、この町を出る、と言っていた。町は、消えるのではない。ただ、少しずつ薄くなっていく。人が減り、灯りが減り、そのぶんだけ、夜が広くなる。玲司の追っている空白はもしかしたら、この薄くなっていく町の、いちばん奥にも、潜んでいるのかもしれなかった。玲司はその考えを、まだ数字にできなかった。ただ、覚えておこうと思った。
母が、いちど玲司の部屋をのぞいたことがある。夜中だった。玲司が、モニターの前に座っているのを見て、母は何も言わずに温かいお茶を、机の隅に置いていった。玲司が何をしているのかは、聞かなかった。ただ、玲司が夜ふかしをしていることだけは、心配しているらしかった。玲司はそのお茶を、冷めるまで飲まなかった。飲んだときには、もうぬるくなっていた。それでも、玲司は残さず飲んだ。母の、言葉にしない心配が、そのぬるいお茶の中に入っている気がした。
一か月が過ぎた。
玲司の、からっぽのフォルダは、まだからっぽだった。玲司は自分の町の数字を、ほとんど使い果たしていた。コンビニも、電力も、この町の、あらゆる窓口の数字を玲司は、AIONに読ませた。それでも、あの空白の正体は見えなかった。
玲司は、一つのことに気づいた。
この町の数字だけでは、足りない。あの空白は、この町の中で生まれたものではないのかもしれない。もっと大きな、どこかで生まれて、巡り巡って、この町の、弁当の廃棄にまで届いている。だとしたら、玲司が見なければならないのは、この町ではなかった。もっと外だ。もっと大きな数字だ。
外の数字に手を出すのは玲司にとって、少し勇気の要ることだった。自分の町の数字なら、玲司は、誰にも迷惑をかけない。ただ、自分でこつこつ集めて、こつこつ眺めているだけだ。ところが国の数字、世界の数字に手を伸ばすということは玲司の知らない、大きなものの、すそに触れる、ということだった。何かが、いる。玲司の追っている空白の、向こう側に。玲司には、その気配だけがあった。気配は、数字にならない。数字にならないものを玲司は信じない。それでも、その夜の気配だけは妙に消えなかった。
玲司はAIONに、新しい問いを打ち込んだ。この空白と同じ形のものが、ほかの場所にもあるか。
AIONは、しばらく黙って計算した。それから、応答欄に短く答えた。
探すにはこの町の外の、データが要ります。
玲司は、キーボードから手を離した。窓の外は、暗かった。町は、いつものように眠っている。ただ、その眠っている町の、ずっと向こうに、玲司の探しているものがあるらしかった。玲司は、それを追いかけることに決めた。
玲司はAIONに、一つだけ確かめた。この空白を放っておいたら、どうなる。玲司の、いつもの癖だ。分からないものを見つけたら、まず、それが、放っておける種類のものか、確かめる。AIONの答えは、短かった。判断できません。データが、足りません。玲司はその答えに少し笑った。放っておけるかどうかも、分からない。それなら、確かめるしかない。玲司は、そういう性分だった。
追いかければ、どこへ行き着くのか。玲司には、まだ分からなかった。分からないまま、玲司はその夜、初めて自分の町の外の数字に手を伸ばした。すべてが、そこから大きくなっていく。ただ、そのときの玲司は、まだそれを知らなかった。
第三章 十七歳の宣戦布告
null_variable と名づけたフォルダは、二週間、からっぽのままだった。
玲司の日々は変わらなかった。朝は決まった電車に乗り、決まった席に座る。授業を聞き、板書を写し、休み時間は窓の外を見ている。誰も、この生徒が夜ごと世界の裏側を覗いているとは思わない。玲司自身、教室にいるあいだはそのことをほとんど忘れていた。昼の玲司と夜の玲司は、別々のダイヤで走る二本の電車のようなもので、駅で交わることはめったにない。
その日も、二本の電車は交わらなかった。四時間目に、教師が経済の話を少しした。来年の景気がどうの、専門家の見通しがどうの、という話だ。教師は、専門家がこう言っている、と黒板に数字を書いた。玲司は、その数字を写しながら、ゆうべ自分がAIONに見せた同じ種類の数字のことを考えていた。こう言っている、の先に、では実際どうだったのか、がない。予測は、外れたあとは誰も振り返らない。当たったことだけが記憶に残り、外れたことは、そっと忘れられていく。玲司には、その忘れられていくほうが、ずっと気になった。
ただ、からっぽの箱のことだけは、忘れられなかった。
玲司は、探す範囲を広げた。自分の町の数字では、あの未知の一点の正体はつかめない。もっと大きな数字が要る。玲司は公開されている各国の統計に手を伸ばした。政府が出す経済見通し。中央銀行の予測。国際機関の需給レポート。どれも、これから世界がどうなるかを、あらかじめ数字で言い当てようとしたものだ。
集めるだけで、何日もかかった。国によって数字の出し方が違う。単位も、区切り方も、隠し方も違う。ある国は丁寧に過去の予測を残していて、ある国は都合の悪い予測を、いつのまにか差し替えていた。玲司は、その差し替えの跡まで拾った。消された数字は、消されたという事実そのものが、一つの情報になる。へんな癖だと自分でも思う。ただ、こういう地道な作業を、玲司は嫌いではなかった。この時間だけは、世界が玲司に嘘をつかない。数字は、集めた者にだけ、正直な顔を見せる。
玲司がAIONにさせたのは、予測そのものではなかった。予測と、実際に起きたこととの差だった。
言い当てた未来と、本当に来た未来。そのずれ。
ずれは、当然あった。未来を完璧に当てる予測など、どこにもない。玲司が見たかったのは、ずれの大きさではなく、ずれの形だった。外れ方に、癖はあるか。
癖は、あった。
国が違う。年が違う。扱っている品目も通貨も違う。それなのに、予測が外れるとき、外れ方が同じ方向を向いていた。まるで世界じゅうの予測が、そろって同じ一点を見落としているかのように。
たとえば、ある年、いくつもの国がそろって景気の回復を予測した。数字の根拠も、使ったモデルも、それぞれ別のはずだった。それなのに、回復は来なかった。来なかった、というだけなら、よくある話だ。玲司が引っかかったのは、外れた幅までが、国をまたいで似ていたことだった。まるで全員が、同じ紙を写して答えを書いたかのように。写した紙に、同じ間違いが刷ってあったかのように。
玲司は、その見落としの形を、自分の町で見つけた空白と重ねてみた。
重なった。
弁当の廃棄と電力価格のあいだにあった空白と、国家の経済見通しの底にある空白は、同じ輪郭をしていた。片方は人口十数万の地方都市の話で、もう片方は世界経済の話だ。桁が、何段も違う。それなのに欠けている場所の形だけが、寸分たがわず同じだった。
玲司は、それを信じなかった。信じないというのは、玲司にとって、もう一度確かめるという意味だ。データの取り方を変え、期間を変え、計算のやり方を変えた。それでも、二つの空白は重なった。角度を変えても、同じ影が同じ形で落ちる。偶然が、こんなに何度も同じ顔で現れることはない。玲司はようやく、認めた。これは、たまたまではない。
玲司は、誰かの陰謀を思い浮かべたわけではない。そこまで話を大きくする材料は、まだない。ただ事実として、こう言えた。世界のあちこちで別々に作られたはずの予測が、同じものを同じ形で、勘定に入れ忘れている。
入れ忘れているのか、外してあるのか。それは、まだ分からなかった。
玲司は、AIONの一行目を思い出した。失敗の理由を予測せよ。いま目の前にあるのは、まさに失敗の山だった。世界じゅうの予測が、そろって同じ失敗をしている。そして、その理由が、どこにも書かれていない。理由が書かれていないなら、書くしかない。玲司にとって、それは正義でも使命でもなかった。ただ、空白の箱を、空白のままにしておけない。それだけのことだった。
玲司は、調べた結果をひとつの文章にまとめた。名前は入れなかった。名乗る意味が分からなかったからだ。誰が見つけたかは、どうでもいい。見つかったものが本当かどうかだけが、大事だった。
投稿する前に、玲司はいちど指を止めた。止めた理由は、こわさではなかった。これを出したら、誰かが困るだろうか、と考えたのだ。数字が合わない、と言うだけで困る人間がいるとしたら、それは、合わないことで得をしていた人間だ。玲司には、その人間の顔が見えない。見えないものを気づかってやる義理は、玲司にはなかった。玲司は、指を戻した。海外のデータ研究者が集まる公開の場所に、その文章を匿名で置いた。
何も起きなかった。
一日たっても、三日たっても、玲司の文章に反応する者はいなかった。閲覧数の数字だけが、ぽつぽつと増えていく。玲司は、詰めていた息をひとつ吐いた。世界は、見落としを指摘されても、まだ気づいていない。それならそれでいい。玲司はまた、昼と夜の二本の電車に戻った。あの文章のことは、半分、忘れかけていた。
その週の夕食で、母が、最近夜ふかししすぎだと言った。父は、テレビを見ながら、また何か調べてるのか、とだけ言った。玲司は、うん、と答えた。何を調べているのか、二人は聞かなかった。聞いても分からない、と最初から決めているのだろう。玲司も、説明しようとは思わなかった。世界じゅうの予測が同じ間違いをしている、とこの食卓で言ったところで、醬油を取ってくれ、と言うのと、たいして変わらない扱いを受けるだけだ。玲司は、黙って白い飯を食べた。この家では、それがいちばん平和なやり方だった。
変わったのは、九日目だった。
北欧のある研究者が、玲司の文章に短い返信をつけた。名前は伏せられていた。文面も素っ気なかった。ただ一行、こう書いてあった。
――これは、あなた一人の発見ではない。私も、三年前に同じ空白を見た。そして、黙ることにした。
玲司は、その一行を何度も読んだ。私も見た、という部分より、黙ることにした、という部分に、指が止まった。見つけて、黙る。玲司には、その選択がうまく飲み込めなかった。見つけたなら、なぜ調べないのか。なぜ書かないのか。黙るという判断が要るということは、黙らせる何かが、そこにあるということだ。
玲司は、その研究者に、一行だけ返した。あなたを黙らせたものは、何ですか。返事は、来なかった。次の日も、その次の日も、来なかった。ただ、玲司の文章の閲覧数だけが、静かに増え続けていた。誰かが、黙ったまま、読んでいる。玲司は、その気配を感じた。名乗らずに読む者の中には、きっと、玲司の味方でない者も混じっている。
その一行がついた翌朝から、数字が跳ねた。
北欧の研究者の返信が、別の誰かに拾われ、その誰かがさらに広げた。玲司の匿名の文章は、半日で、世界じゅうのデータを扱う人間たちのあいだを駆け抜けた。閲覧数は、桁を二つ変えた。そして、あちこちで同じ問いが上がりはじめた。
これを書いたのは、誰だ。
誰だ、という問いは、日に日にしつこくなった。文体から国を当てようとする者がいた。使われたデータの種類から、職業を推し量ろうとする者がいた。大学の研究者だ、いや、どこかの国の情報機関だ、と言い合う者たちもいた。まさか、と玲司は思った。誰も、十七歳の高校生が、地方都市の六畳の部屋でコンビニの弁当を数えるところから始めた、とは考えていない。真実は、たいていいちばん疑われない場所にある。玲司は、その事実に守られていた。守られながら、少しずつ、追い詰められてもいた。
玲司は、寄せられた言葉を追いかけて、少しずつ自分の書いたものが別のものに変わっていくのを見た。
玲司は、予測が同じ形で外れている、と書いただけだった。ところが、それを読んだ人々は、こう言い換えた。世界の予測システムは、同じ欠陥を共有している。さらに別の誰かが、こう言った。世界の予測は、どこかで一つにつながっている。そしてまた別の誰かが、もっと短く、こう書いた。
誰かが、世界の未来予測に噓が混じっていると告発した。
告発。玲司は、その二文字の前で立ち止まった。自分は、誰も告発していない。ただ、数字が合わない場所を指さしただけだ。それなのに、指さした先にはいつのまにか、大きな影が立っていた。玲司が影を探したのではない。玲司が数字を並べたら、影のほうが、あとから浮かび上がってきた。あの夜、自分で思ったとおりに。
玲司が書いた文章には、たくさんの、まだ分からない、が入っていた。入れ忘れているのか、外してあるのか、分からない。偶然か、そうでないか、分からない。玲司にとって、その分からない、は、いちばん大事な部分だった。ところが、広まっていくにつれて、その分からない、が、ひとつ、またひとつと、削り落とされていった。残ったのは、言い切りの言葉だけだった。世界は、玲司のためらいには、興味がなかった。
玲司は、文章を消そうとした。書いた本人なのだから、消すことはできる。ところが、消せなかった。玲司の文章は、もうとっくに、あちこちに写し取られていた。誰かが保存し、誰かが訳し、誰かが切り取っていた。元の一つを消しても、写しは残る。玲司は、そこで初めて理解した。世に出した数字は、もう玲司のものではない。書いた者の手を離れて、勝手に歩き出す。玲司が止められるのは、書く前まで。書いたあとは、もう誰にも止められない。
その日の夜、玲司は、自分の文章について書かれた記事の一つを見つけた。書いたのがどこの誰かは分からない。見出しだけが、やけに大きかった。
――十七歳の匿名の少年、世界の予測産業に宣戦布告か。
宣戦布告。
玲司は、その言葉を声に出さずに読んだ。宣戦布告というのは、戦うと決めた者がするものだ。玲司は、戦うと決めた覚えがない。相手が誰かも知らない。戦場がどこかも知らない。ただ、失敗の理由を探しただけだ。それなのに世界のほうは、もう玲司を、戦いを仕掛けた側として数えはじめていた。
戦いには、相手がいる。玲司を宣戦布告者と呼ぶなら、その布告は、誰に向けられたことになるのか。玲司は、そこを考えて、少し寒くなった。自分が名指した覚えのない相手が、この文章を読んで、名指された、と受け取っているかもしれない。しかも、その相手は玲司よりずっと大きく、玲司の知らないところにいる。玲司が影を見つけたつもりでいるあいだに、影のほうも、玲司を見つけていたかもしれなかった。
画面の向こうで、知らない人間たちが、玲司のことを話していた。玲司の名前は誰も知らない。それなのに、玲司という存在の形だけが、勝手にふくらんでいく。応援する者、疑う者、正体を暴こうとする者。その全部が、玲司の見たことのない言葉で、玲司について語っていた。
玲司は、モニターを消した。
部屋が、急に暗くなった。冷却ファンの音だけが残る。いつもと同じ音のはずなのに、その夜は、やけに大きく聞こえた。玲司は、カーテンの隙間から外を見た。町は変わらず眠っている。誰も、この部屋に十七歳の宣戦布告者がいるとは思っていない。玲司自身、そんなものになったつもりはない。
玲司は、机の上のノートを開いた。あの、短い問いばかりが並んだノートだ。いちばん新しいページに、いつものように問いを書こうとして、ペンを止めた。今夜の問いは、これまでのどれとも違った。なぜ弁当が余るのか、ではない。書こうとして頭に浮かんだのは、これだった。僕は、これから、どうなるんだろう。玲司は、その問いを書かなかった。数字にならない問いを、このノートに書いたことは、一度もなかったからだ。
ただ、心臓が、いつもより速く打っていた。その理由だけは、玲司にも、数字にできなかった。
第四章 幕間 沈黙した女
アストリッド・リンドクヴィストは三年かけて、自分を小さくしてきた。
その冬も、雪は早く来た。アストリッドの住む町は北の、海に近い、小さな町だった。十一月にはもう朝、窓が白く曇る。アストリッドは毎朝、同じ時間に起きて、同じ道を通って、研究所へ行く。同じ時間にコーヒーを淹れ、同じ机に座る。三年、その繰り返しだった。三年前までは、ちがった。ただ、いまのアストリッドは、繰り返しの中にいた。繰り返しは、安全だった。何も起こらない。何も、起こさない。
同僚たちは、アストリッドを静かな人、と呼んだ。昔は、ちがった。若いころのアストリッドは会議で、いちばん鋭い質問をする人間だった。データの、いちばん都合の悪いところを、遠慮なく指さす人間だった。いまは、そういう質問をしなくなった。会議ではうなずいて、当たり障りのないことだけを言う。誰も、それをおかしいとは思わなかった。人は歳をとると丸くなる。まわりは、そう受け取った。アストリッドが、丸くなったのではなく、欠けたのだ、ということには、誰も気づかなかった。
アストリッドの仕事は、経済の予測モデルを検証することだった。
どこかの機関が作った、未来の見通し。それが、正しく組まれているかを数字の上で確かめる。派手な仕事ではなかった。ただ、アストリッドはその世界では、名の知られた研究者だった。かつては。いまも、名前だけは残っている。ただ、この三年、アストリッドは、当たり障りのない検証しかしてこなかった。危ないものには、近づかない。近づかないことをアストリッドは、自分に課していた。なぜ、そう決めたのかは、この町の誰も知らなかった。
その投稿を、アストリッドが見つけたのは、ある夜のことだった。
仕事の帰り、コーヒーを片手にアストリッドはいつものように、データ研究者たちの集まる、公開の場所を眺めていた。習慣だった。読むだけ。書きこむことは、もうしない。その夜、一つの、匿名の文章が目に留まった。世界じゅうの予測が、同じ形で外れる。その、外れ方の底に説明のつかない、同じ空白がある。
アストリッドの手から、コーヒーカップが、あやうく滑り落ちるところだった。
その空白を、アストリッドは知っていた。三年前、アストリッド自身が見つけた空白だった。誰にも言わずに、机の奥にしまいこんだ、あの空白だった。それがいま、見知らぬ誰かの言葉で目の前にあった。
アストリッドは、画面を閉じようとした。いつもの癖だ。危ないものからは、離れる。指が、閉じるボタンの上で止まった。止まったまま、動かなかった。三年、アストリッドはこの瞬間を、どこかで待っていたのかもしれなかった。誰かが自分の代わりに、あの空白を見つけてくれるのを。見つけて、口に出してくれるのを。ただ、その誰かがこんなに若い、こんなに無防備な文章の書き手だとは、思っていなかった。
三年前。
アストリッドには、恩師がいた。名をヨハン、といった。学生のころから、アストリッドに、数字の読み方を教えてくれた人だ。ヨハンは、もう五十に近かったが少年のような目で、数字を見る人だった。休みの日には二人でよく山を歩いた。歩きながら、ヨハンは、いつも同じことを言った。数字は、嘘をつかない。嘘をつくのは数字を、都合よく読む人間のほうだ、と。
いちど山の上でヨハンが、こんなことを言った。二人で汗をかいて、頂上の岩に腰を下ろしたときだ。眼下に町が、小さく見えていた。ヨハンは、その町を指さして言った。あそこに、何万人が暮らしている。その一人ひとりに名前があり、明日がある。私たちの数字は、その一人ひとりの明日の集まりだ。数字を、雑に扱うということはその明日を、雑に扱うということだ。アストリッドはそのとき、まだその言葉の重さを、本当には分かっていなかった。分かったのはヨハンが、いなくなってからだった。
その年の春、二人は一つの、おかしなことに気づいた。いくつもの国の予測が、同じ形で外れる。国も、通貨もちがうのに外れ方だけがそろっている。まるで世界じゅうが、同じ一点を見落としているかのように。
最初に気づいたのは、アストリッドのほうだった。ある国の予測が、外れた。よくあることだ。アストリッドは、その外れ方をヨハンに見せた。するとヨハンが別の国の、まったく関係のない予測を持ってきた。その二つの、外れ方が重なった。二人は面白がって、三つ目、四つ目と並べていった。並べるほど、同じ形が現れた。深夜の研究室で二人は、コーヒーを何杯も飲みながら、地図の上に、国を塗りつぶしていった。塗りつぶすたびに部屋の空気が、少しずつ重くなった。面白がっていたはずの二人がいつのまにか、黙りこんでいた。最後の国を塗ったとき、ヨハンがぽつりと言った。これは、偶然じゃない。
ヨハンは、それを論文にしようとした。
アストリッドは、ためらった。
この発見は大きすぎる、と、アストリッドは感じた。世界じゅうの予測が、同じ間違いをしている。それを名指しで書く。誰が、その名指しを喜ぶだろう。アストリッドはヨハンに、もう少し慎重に、と言った。ヨハンは、笑った。慎重すぎる者は、何も見つけられない、と。ヨハンは論文の、いちばん危ないところに、自分の名前を載せようとしていた。アストリッドの名前は、うしろに隠すつもりだった。君は、まだ若い、とヨハンは言った。危ないところは、年寄りが引き受ける、と。
それがヨハンと交わした、まともな話の、最後になった。アストリッドはあのとき、もっと強く止めればよかった、とあとで何度も思った。あるいは逆にもっと一緒に、前へ進めばよかった、とも。止めることも、進むことも、どちらもできなかった。アストリッドは、ただ、ためらっていた。ためらっているあいだにヨハンは一人で、危ない場所へ足を踏み入れ、そして、戻ってこなかった。ためらいは、優しさのようでいて、いちばん、人を一人にする。アストリッドは、それを三年かけて学んだ。
ヨハンが死んだのは、その数日後だった。
心臓の発作だった、と記録された。まだ健康な男だった。前の週も、二人で山を歩いた。息一つ、切らさなかった。その人が山でもない、ただの、自分の部屋の床で倒れていた。
アストリッドは、その死を疑った。
疑いたくは、なかった。疑えば、こわくなる。それでも、アストリッドの中の、数字を読む部分が、勝手に確率をはじいた。健康な五十男が論文を書きあげる、その数日前に突然死ぬ。その確率をアストリッドは、何度も計算した。低すぎた。低すぎて、アストリッドはその数字を、見なかったことにした。見てしまったら、次は自分の番だ、と思ったからだ。
葬儀のあとアストリッドは、しばらくまともに眠れなかった。夜、廊下で、小さな音がするたびに体が固くなった。郵便受けに、見慣れない封筒があると開ける前に手が止まった。誰かに見られている、という感覚。それが数字ではなく、皮膚から離れなかった。アストリッドは、ヨハンの論文の下書きを家じゅうから集めて、一つ残らず消した。紙も、データも。消しながら、アストリッドは、自分が何を消しているのかを分かっていた。ヨハンの、最後の仕事を消していた。ヨハンの死を無駄にする方向へ、自分の手で進んでいた。それでも、アストリッドは消した。生きるために。生きて、そして、その生きた自分を三年、許せなかった。
アストリッドは、論文を机の奥にしまった。
それから、三年。アストリッドは、危ないものには近づかなかった。当たり障りのない仕事だけをして、生きてきた。生き延びた。生き延びて、ただ、毎朝、鏡を見るのがいやになった。鏡の中の顔は、無事だった。無事なだけの顔だった。ヨハンが、危ないところを引き受けて、死んだ。その、引き受けてくれた場所をアストリッドは三年、空けたまま逃げていた。
三年のあいだにアストリッドは山に、一度も登らなかった。ヨハンと歩いた、あの山だ。登ろうとすると、頂上の岩に腰を下ろした、あの日のことを思い出す。数字は、一人ひとりの明日の集まりだ。その言葉が、耳の奥で鳴る。アストリッドは、その言葉から逃げていた。山からも、数字の、都合の悪いところからも、逃げていた。逃げているあいだ、世界のどこかで誰かの明日が、静かに消されつづけているのを、アストリッドは知っていた。知っていて、目を閉じていた。
いま、その空けた場所を見知らぬ誰かが、一人で埋めようとしていた。
アストリッドは、その匿名の文章を何度も読み返した。文章は、荒削りだった。ただ、その荒削りの中にアストリッドは、あるものを見つけた。この書き手はたくさんの、分からない、を残していた。断定をしていない。入れ忘れているのか、外してあるのか、分からない。偶然か、そうでないか、分からない。その、分からない、を書き手は、消さずに置いていた。
アストリッドはその誠実さに胸をつかれた。
三年前、ヨハンも、同じだった。分からないことを分からない、と言える人だった。数字を、都合よく読まない人だった。この書き手は、ヨハンに似ていた。そして、たぶん、ヨハンと同じ危ない場所へ、一人で歩いていこうとしていた。
放っておけば、と、アストリッドは思った。放っておけば、この書き手も、いつか、ヨハンと同じことになるかもしれない。健康な人間がある日、突然、自分の部屋の床で。そして、そのときも、世界の誰も、その死の、本当の理由を知らないままだろう。アストリッドだけが、遠くから知っている。また一人、同じ場所で消えたことを。三年前と、同じだ。ちがうのは今度は、消される前の相手を、アストリッドが見ている、ということだった。三年前、アストリッドは、ヨハンを止められなかった。今度は。
アストリッドは、コーヒーを机に置いた。とっくに、冷めていた。
返事を書くべきか。書けば、アストリッドはまた、あの危ない場所に戻ることになる。三年、逃げてきた場所に。書かなければ、アストリッドは安全なままだ。無事な顔のまま、あと何年でも生きていける。
アストリッドは、窓の外を見た。雪が降っていた。音もなく、町を白く埋めていく。この静けさの中でアストリッドは三年、生きてきた。安全な静けさ。何も起こらない静けさ。ヨハンのいない静けさ。
アストリッドは、ふと思った。ヨハンなら、どうするだろう。
答えは、聞くまでもなかった。ヨハンは、迷わず返事を書く。慎重すぎる者は、何も見つけられない。そう言って、笑いながら。
アストリッドは、キーボードに手を置いた。
書くべき言葉は、たくさんあった。三年ぶんの沈黙が、そこにあった。ただ、アストリッドは、そのほとんどを書かなかった。書いたのは、たった二行だった。
これは、あなた一人の発見ではない。私も、三年前に同じ空白を見た。そして、黙ることにした。
アストリッドは、その二行をしばらく見ていた。黙ることにした。過去形だった。もう黙らない、とは書かなかった。まだそこまでの勇気はなかった。ただ、三年ぶりにアストリッドは、あの空白のことを他人に口にした。
指が、少し震えた。三年前、ヨハンの論文を消したのも、この指だった。同じ指でいま、アストリッドは三年ぶりにあの空白のほうへ一歩、戻ろうとしていた。たった二行。まだ逃げ道の残った二行だ。それでも、この二行を送れば、もう完全な沈黙には戻れない。アストリッドは、それを分かっていた。分かっていて、指を動かした。
送信、を押した。
押してから、しばらく何も起きなかった。当然だった。相手は、地球の反対側にいる。いま、眠っているかもしれない。それでも、アストリッドは、画面を閉じなかった。三年、閉じたままだった何かがその夜、ほんの少しだけ、開いていた。
雪は、まだ降っていた。ただ、アストリッドの、無事なだけの静けさにその夜、初めて小さなひびが入った。
第五章 招待状
その朝、二本の電車が、初めて交わった。
玲司はいつもどおりの時刻に家を出た。いつもどおりの改札を抜け、いつもどおりのホームに立つ。違ったのは、駅を出てからだった。
校門の手前に、見慣れない車が停まっていた。屋根に白いアンテナを立てた車だ。その前で、カメラを肩に載せた大人たちが、登校してくる生徒を一人ずつ目で追っている。誰かを探している。ただ、誰を探せばいいのかは、まだ分かっていない様子だった。
玲司は、その前をいつものように、うつむいて通り過ぎた。誰も、玲司を止めなかった。カメラは、玲司の隣を歩く背の高い三年生のほうを追っていた。玲司ではなく、玲司らしく見える誰か、を探している。真実は、いちばん疑われない場所にある。玲司は、その言葉を、自分で証明しながら校舎に入った。
教室は、いつもとちがった。生徒たちが、机を離れて窓に張りついている。校門の車を見下ろして、あれは誰を撮りに来たんだ、と言い合っている。うちの学校の誰かが、すごい発表をしたらしい。世界的な発見だとか。海外のニュースにもなっているとか。玲司は、自分の席に座った。話の輪には入らない。いつものことだ。ただ、心臓の打ち方だけが、いつもとちがった。
前の席の生徒が、振り返って、玲司に言った。テストの点を聞いてきた、あの生徒だった。神谷、お前、こういうの好きだったよな、データとか。玲司は、うん、とだけ答えた。生徒は、それ以上は続けなかった。ただ、いつもの、化け物かよ、という笑い方は、しなかった。玲司のことを少しだけ、こわいものでも見るように見て、前に向き直った。玲司は、その視線の変わり方を、覚えておこうと思った。人は、相手が自分より大きく見えた瞬間に、笑うのをやめる。それも、一つのデータだった。
窓の外の車は、増えていた。世界は、この校舎の中に、大きな何かがいると思っている。玲司は、その大きな何かが、まさか自分の、このいつもの席に座っているとは、生徒たちも外の大人たちも、思っていないだろうと考えた。大きく見えているのは、玲司が書いたものであって、玲司ではない。書いたものと、書いた人間のあいだには、いつもずれがある。そのずれの中に、玲司は、まだ隠れていられた。あと半日だけ。
どうして、この学校まで、たどり着かれたのか。玲司は、自分の書いた文章を、頭の中でもう一度たどった。そして、思い当たった。最初の例だ。玲司は、あの文章の冒頭で、いちばん小さな例を挙げていた。ある地方都市の、コンビニの廃棄と、電力価格。世界経済の話をするのに、わざわざ、こんな小さな町の数字から始める人間はいない。その町に住んでいる者でなければ。
玲司は、自分の丁寧さで、自分の首を絞めていた。
もう隠れられない。玲司は、それを朝の教室で理解した。文章は消せなかった。今度は、自分自身も、消せない。生まれた町の数字を使ったということは、生まれた町に、自分の居場所を書き残したのと同じだった。玲司は、世界に向かって空白を指さしたつもりで、その指の根元に、自分の住所を書いていた。
昼を過ぎて、玲司は職員室に呼ばれた。
担任が、机の上に一枚の紙を置いた。プリントアウトされたメールだった。差出人の欄に、玲司の知らない名前が並んでいる。Al-Nahr International Future Forum。担任はその紙を、まるで扱いに困る貴重品のように、指先だけで玲司のほうへ滑らせた。
「……神谷。これ、お前のことで、合ってるか」
担任の声は、いつもの、生徒を叱るときの声ではなかった。玲司を生徒として見ていいのか、決めかねている声だった。三年間、頭はいいけど変わった子、で通してきた相手をどう呼べばいいのか、分からなくなっている。
玲司は、紙を読んだ。
それは、招待状だった。
世界じゅうの投資家、政府関係者、企業の経営者、科学者が集まる国際会議への招待。差出人は、玲司の匿名の文章を読んだと書いていた。あなたが誰であるかは、我々にとって問題ではない、とも書いてあった。我々が知りたいのは、あなたの年齢でも、経歴でもない。あなたが見たものだ。壇上で、それを話してほしい。
会議の名前の下に、開催地が書かれていた。玲司の知らない国の、知らない都市だった。地図で見れば、海の色が、日本のあたりとはちがう。砂漠と、湾と、石油の国。玲司が、これまで数字の上でしか触れたことのない場所だった。その数字の向こう側に、これから、自分の足で立つことになる。
文面は、丁寧で、静かだった。玲司を天才少年としても、告発者としても、扱っていなかった。ただ一人の、何かを見た人間として、扱っていた。玲司がこの数週間で受け取ったどの言葉とも、ちがっていた。世界じゅうが玲司の正体を言い当てようと騒いでいるあいだ、この差出人だけは、正体になど、まるで関心がなかった。
メールの最後に、一行、こう添えられていた。年齢は、予測の精度とは関係がない。玲司は、その一行を二度読んだ。誰かに認められて嬉しい、という感じ方は、玲司にはよく分からない。ただ、この一行を書いた人間は、玲司の見ているものを、同じ高さから見ようとしている。それだけは、伝わった。世界にはまだ数字を、数字として扱う人間がいる。玲司はそのことに、少しだけ息がしやすくなった。
ただ、玲司は、忘れていなかった。この招待は、世界じゅうが玲司を探しているさなかに、届いたものだ。玲司の正体を、いちばん早く突き止めた者の一人が、この差出人だということになる。関心がないのではない。関心がないふりが、いちばんうまい。玲司は、その可能性を、頭の隅に畳んでおいた。畳んだまま、それでも、行く理由のほうが重かった。
玲司は、行くべきか、しばらく考えた。
考える材料は、いつもどおり、感情ではなかった。玲司が欲しいのは、称賛ではない。壇上に立って拍手をもらうことに、意味を感じない。玲司が欲しいのは、まだあの空白だった。null_variable という名前の、からっぽの箱。その中身が、まだ埋まっていない。
そして、玲司は気づいていた。あの空白の正体は、この町の数字をいくら集めても、出てこない。予測のモデルは、この六畳の部屋にはない。それは、世界を動かしている人間たちの手の中にある。政府の、企業の、投資家の手の中に。つまり――あの国際会議に集まる、まさにその人間たちの中に。
答えを探すなら、答えのある場所へ行くしかない。
危ない場所かもしれない、とは思った。空白を隠している者がいるなら、その者は、玲司が近づくことを歓迎しないだろう。それでも玲司は、こわさを、行かない理由にはしなかった。こわさは、まだ数字になっていない。数字にならないものを玲司は、判断の材料に入れない。
玲司は、顔を上げた。
「行きます。」
担任は、何か言いかけて、やめた。行くな、とも、がんばれ、とも、言えなかったのだろう。目の前の生徒が、どこへ行こうとしているのか、担任にも、玲司自身にも、まだはっきりとは見えていなかった。
放課後、校門の車は、朝より増えていた。
昼のあいだに、玲司の名前は、どこからか漏れていた。誰が漏らしたのかは、分からない。同級生の誰かが、あいつだ、と言ったのかもしれない。役所か、電力会社の誰かが、あの地域のデータを高校生が請求していた、と気づいたのかもしれない。理由はどうあれ、夕方には、玲司の名前と、玲司の学校と、玲司の顔が、細い糸でつながっていた。
玲司が昇降口を出ると、朝は玲司の隣を素通りしたカメラが、いっせいに玲司のほうを向いた。
レンズは、正直だった。数字と同じだ。玲司がそこにいる、という事実だけをまっすぐに映す。玲司は初めて大勢の目に見られるということが、どういうことかを知った。見られると、体が重くなる。歩幅が分からなくなる。いつもどおりに歩く、というだけのことが、急に、難しくなる。玲司は、うつむいたまま、人の壁のあいだを抜けた。マイクが伸びてきて、いくつもの声が重なった。あなたが書いたんですか。何を見つけたんですか。世界の何を告発したんですか。
告発、という言葉が、また聞こえた。玲司は、答えなかった。答えれば、その答えが、またひとり歩きを始める。玲司は、それをこの数週間で、いやというほど知っていた。
誰かが、玲司の名前を大声で呼んだ。神谷くん、神谷玲司くん。自分の名前が、知らない大人の口から、こんなにたくさん出てくるのを玲司は初めて聞いた。名前というのは、呼ばれる回数が増えると、だんだん自分のものでなくなっていく。玲司は、うつむいたまま、その音の中を歩いた。ようやく人の壁を抜けたとき、玲司は、朝、自分がここを誰にも気づかれずに通ったことを思い出した。たった半日で、世界は、玲司を見つけ出していた。空白を見つけるのに、玲司は何週間もかけたのに、玲司を見つけるのに、世界は半日しか、かけなかった。
その夜、家は、玲司の記憶にないほど静かだった。
父は、テレビを消していた。いつもなら、この時間、野球かニュースが流れている。今夜は、その画面が、黒いままだった。ニュースに息子が映るのを見たくなかったのかもしれない。あるいは、もう見てしまったあとなのかもしれない。
母が、玲司の前に、いつもの夕食を並べた。変わりばえのしないおかずだった。母は、何も聞かなかった。ただ、玲司の茶碗に、いつもより多めに飯をよそった。それが、母の言葉だった。
父は、しばらく黙って箸を動かしてから、ぽつりと言った。
「そんなこと調べて、何になるんだ、って、俺は前に言ったな」
玲司は、箸を止めた。
「なった、みたいだな」
父の声は、怒ってはいなかった。かといって、喜んでもいなかった。ただ、自分の知らないところへ、息子が一人で歩いていってしまう、その足音を、初めて聞いた者の声だった。玲司は、うまく返す言葉を持たなかった。ただ、いつもより多めによそわれた飯を、最後まで残さず食べた。この家では、それが、いちばん近い返事だった。
食器を下げるとき、父が、玲司の背中に、もう一つだけ言った。危ないことは、ないんだろうな。玲司は、少し迷ってから、ないよ、と答えた。嘘だった。危なくないとは、玲司にも言い切れない。ただ、この家に、こわさを持ち込みたくなかった。父は、それ以上は聞かなかった。聞かないことで、父もまた、玲司の嘘に乗ってくれた。台所で、母が、蛇口の水を止めた。家の中が、また、静かになった。
出発の日、玲司は、初めて飛行機に乗った。
荷物は、少なかった。着替えと、ノートと、一台のノートパソコン。そのパソコンの中に、AIONの核だけを移してあった。あの部屋の何台ものモニターも、積み上げたデータも、置いてきた。それでも、AIONは、玲司についてきた。AIONは機械の塊ではない。玲司がAIONに教えた、失敗の理由を探せ、というたった一つの癖――それだけが、AIONの正体だった。癖は、持ち運べる。
窓の外で、見慣れた町が、みるみる小さくなっていく。コンビニも、川沿いの道も、六畳の部屋のある家も、雲の下に隠れて、やがてただの地図になった。玲司は、その地図を見下ろしながら、膝の上のノートを開いた。あの、短い問いのノートだ。
ペンを構えて、玲司は、ふと手を止めた。
招待状のことを思い返していた。世界じゅうが正体を知りたがったのに、あの差出人だけは、正体に関心がなかった。ふつうなら、それは、礼儀の話だ。ただ、玲司は、別の読み方もできることに、気づいていた。正体を知りたがらないのは――もう知っているからかもしれない。
玲司は、その考えを、まだ数字にできなかった。材料が足りない。ただ、ひとつだけ、確かなことがあった。玲司が影を見つけて、こちらから会いにいこうとしているこの旅は、もしかすると、影のほうが玲司を呼び寄せた旅なのかもしれない。
それでも、玲司は、引き返す、という選択肢を、初めから持っていなかった。文章を書いたときと、同じだった。分からないものを見つけたら、確かめにいく。確かめないままでいるほうが、玲司には、ずっと耐えがたい。危ないと分かっていても、空白の中身を知らないままでいることには、勝てなかった。
飛行機は、雲を抜けた。窓の外が、急に明るくなる。玲司は、目を細めた。この光の下のどこかに、あの空白の正体がいる。玲司は、それだけを頼りに、生まれて初めて自分の町の外へ出ていく。
第六章 同じ未来
空港を出た瞬間、熱が、壁のように立っていた。
玲司の町にも夏はある。ただ、この熱は種類がちがった。湿り気がない。水分をぜんぶ絞り取ったあとの、乾いた熱だ。玲司は、迎えの車に乗るまでの数十歩で、シャツが背中に張りつくのを感じた。車のドアが閉まると、今度は凍るほどの冷房が待っていた。この国は、外と中とで、季節が二つに分かれているらしかった。
運転手のほかに、もう一人、助手席に若い男が乗っていた。案内役だという。ミスター・カミヤ、と男は玲司を呼んだ。ミスター、と呼ばれたのは、生まれて初めてだった。男はこの国の話を、聞かれてもいないのに少しずつしてくれた。人口の半分以上は、外から働きに来た人たちだということ。石油と天然ガスが、地面から、いくらでも出てくること。そのおかげで、税金がほとんどないこと。玲司は、うなずきながら、別のことを考えていた。この塔を建てたのも、この道路を敷いたのも、この緑に水をやっているのも、たぶん、この国で生まれた人間ではない。豊かさは、内側で作られたのではなく、外側から買われてきた。買えるうちは、いい。買えなくなった日に、この景色は、どうなるのだろう。
窓の外を、ガラスの塔が流れていく。どれも、玲司の町のいちばん高いビルより、何倍も高い。塔は日を照り返して、まぶしくて、直視できない。その足元に砂漠がある。人が住むために、無理やり水を引いて、無理やり緑を植えた跡が、道の両側に細く続いている。この豊かさが、すべて外から運び込まれたものだということが、玲司には風景だけで分かった。
玲司は、制服を着ていた。ほかに、まともな服を持っていなかったからだ。母が、いちおう、と持たせてくれた、しわの寄ったブレザー。世界じゅうの金と権力が集まる会議に、地方の県立高校の制服で行く。おかしいのは分かっている。ただ、玲司には、それを気にする回路がもともと薄かった。何を着ていくかより、何を話すかのほうが、玲司にはずっと重い問題だった。
会場は、玲司の想像の、二回り大きかった。
控室のモニターに、客席が映っていた。何千という席が、扇形に広がっている。そのひとつひとつに、玲司が数字の上でしか知らなかった名前が、座ろうとしていた。国を動かす者。金を動かす者。世界の予測を実際に使って、実際に賭けている者たち。玲司が数週間かけて集めたデータの向こう側にいた人間が、いま同じ建物の中にいる。
玲司は、手のひらが冷たくなっているのに気づいた。冷房のせいではなかった。玲司は、その冷たさを、いつもの癖で観察した。心拍。呼吸。指の震え。全部、数字にできる。数字にできるなら、こわくない。玲司は、そう自分に言い聞かせた。言い聞かせても、手のひらは冷たいままだった。
玲司は、膝の上でノートパソコンを開き、AIONを起動した。壇上で見せる図をもう一度確かめる。世界じゅうの予測が、一本につながっていく、あの図だ。AIONは、いつもの応答欄に、いつもの静けさで、成功確率という言葉を出さなかった。玲司が、そう作ったからだ。AIONは、うまくいくかどうかを玲司に告げない。ただ、失敗したら、その理由をあとで教える。玲司は、その約束だけを頼りに、パソコンを閉じた。
控室に、主催者らしい女性が顔を出した。出番の段取りを早口で説明していく。持ち時間は十五分。質疑は、五分。そのあいだ、女性はいちども玲司と目を合わせなかった。玲司を、一人の登壇者としてではなく、今日のプログラムの埋め草のように扱っているのが伝わってきた。話題づくりの、高校生。世界的な会議に、若い顔を一つ混ぜておく、その一つ。玲司は、それでかまわなかった。埋め草だと思われているうちは、誰も、玲司の話を本気で止めにこない。玲司は、そう考えて、むしろ少しだけ楽になった。
名前を呼ばれて、玲司は壇上に出た。
照明が、まっすぐに顔に当たる。客席は、光の壁の向こうで、黒く沈んでいた。人の姿は見えない。ただ、そこに何千の目があるという圧力だけが、暗がりから押し寄せてくる。玲司が歩み出た瞬間、その暗がりがざわめいた。制服。子供。誰かが、小さく笑った気配もあった。招かれたのは大物の代理か、それとも何かの余興か。玲司には、そのざわめきの意味が、手に取るように分かった。分かっていて、玲司は気にしなかった。
玲司は、光の壁をまっすぐに見た。顔は見えないのに、玲司にはそこに誰がいるか、だいたい分かっていた。数週間、彼らの出した数字ばかりを見てきたからだ。数字には、癖がある。強気の予測を出す国。都合の悪い数字をそっと消す企業。玲司は、その癖の一つ一つに、もう顔なじみのような親しみさえ感じていた。今日、初めてその数字たちの、持ち主の顔を見る。ただし、向こうからは、玲司の顔しか見えない。制服を着た、十七歳の顔しか。
玲司は、マイクの前に立って、最初にこう言った。
「僕は、国を改革する方法を、発表しに来たのではありません。」
ざわめきが、少し収まった。
「僕が説明するのは、国がなぜ改革できないのか、です。」
会場が静かになった。笑いは、もう聞こえなかった。
玲司の背後の大きなスクリーンに、図が映った。
最初は、ただの折れ線の集まりだった。世界じゅうのエネルギー価格。国ごとの、投資の動き。ばらばらの、何十本もの線。玲司は、それを一本ずつ動かしていった。時間をずらし、縮尺を合わせる。ちょうど、あの夜、弁当と電力価格でやったのと同じことを、世界の規模でやってみせた。
線が、寄りはじめた。
「みなさんは、それぞれの国が、それぞれ独立して未来を予測していると思っています。」
玲司は、淡々と続けた。声を張らなかった。張る必要がなかった。静けさが、玲司の声を、会場のすみずみまで運んでくれた。
「でも、違います。」
スクリーンの図が、切り替わった。
ばらばらだったはずの、何十本もの予測が、一点に向かって集まっていく。国も、通貨も、企業もちがう。それなのに、線は、同じ結び目へと吸い込まれていった。世界じゅうの予測が、たった一本の、見えないネットワークでつながっていた。
「みなさんは、みんな、同じ未来を見ています。」
会場が、揺れた。
それが何を意味するのか、玲司はあえて言わなかった。言う必要がなかった。ここに座っているのは、その意味を、玲司よりずっと早く理解できる人間たちだ。世界じゅうが同じ未来を見ているなら、その未来は、もう予測ではない。みんなで見ているうちに、みんなで、そこへ歩いていってしまう。予測が、現実を引っぱっている。玲司が図で示したのは、それだけだった。あとは、賢い客席が、勝手にいちばん恐ろしい結論まで走っていった。
どよめきが、波のように広がった。立ち上がる者。隣と言葉を交わす者。スクリーンを指さす者。玲司は、光の壁の向こうの、その動きを感じ取っていた。
ただ、玲司が見ていたのは、動いた人間ではなかった。
動かない人間のほうだった。
客席のいくつかの場所で、ざわめきに加わらない一団があった。玲司の話に驚いていない。驚いていないということは、初めて聞く話ではない、ということだ。彼らは、玲司が見つけたものをとっくに知っていた。知っていて、黙っていた。北欧の研究者の、あの一行が、玲司の頭をよぎった。私も見た。そして、黙ることにした。黙った者たちが、いま、この会場にも座っていた。玲司は、暗がりの中に、初めて影の輪郭を見た気がした。
どよめきが少し落ち着いたころ、客席から、一つの声が上がった。マイクを通した、低い、落ち着いた声だった。
「証拠は。」
それだけだった。声の主は名乗らなかった。玲司には、姿も見えない。ただ、その一言の中に、これまでのどのどよめきよりも重いものが混じっていた。
玲司は、こわくなかった。証拠を聞かれるのは、玲司にとって、いちばん答えやすい種類の質問だった。
「証拠は、みなさんが、毎日使っています。」
玲司は言った。
「みなさんの予測が、そろって同じ方向に外れる。その外れ方を集めただけです。僕は、新しい数字を、一つも作っていません。全部、みなさんが、自分で出した数字です。」
声は、それきり、何も返さなかった。返せなかったのかもしれない。あるいは、これ以上、玲司にしゃべらせないほうがいい、と判断したのかもしれない。玲司には、その沈黙の理由までは、まだ読めなかった。
発表が終わって、玲司は控室に戻った。
拍手があったのか、なかったのか、玲司はよく覚えていなかった。耳の奥が、まだあの静けさの続きのように、しんとしていた。玲司が椅子に座って、ようやく手のひらの冷たさが引きはじめたころ、控室のドアが開いた。
一人の男が、入ってきた。
仕立てのいい、けれど地味な色のスーツを着ていた。歳は、玲司の父より少し上に見えた。顔に、表情がほとんどなかった。喜びも、怒りも、興味さえも、表に出ていない。ただ、目だけが、玲司をまっすぐに見ていた。品定めではなかった。もっと静かな見方だった。
玲司は、その男の静けさを、どこかで見たことがある気がした。すぐに思い当たった。AIONだ。AIONは、玲司が何を入力しても、驚かない。ただ、入ってきたものを静かに、関係の網の中に置く。この男も、同じ目をしていた。玲司の発表を、驚くべきものとしてではなく、すでに知っている網の一つの結び目として見ている。
男は名乗らなかった。代わりに、こう聞いた。
「君は、あれが何を意味するか、分かっているのか。」
玲司は少し考えて、正直に答えた。
「まだ全部は。」
男の口元が、ほんの少しだけ動いた。笑ったのかもしれないし、そうでないのかもしれない。
「それが分かっていないところが、」
男は言った。
「君の、最大の価値だ。」
玲司は、その言葉の意味をすぐにはつかめなかった。分からないことが、価値になる。玲司の中では、分からないことは、いつも埋めるべき空白でしかなかった。それが価値だと言われたのは、初めてだった。
「あなたが、」
玲司は聞いた。
「僕を呼んだんですか。」
男は否定しなかった。それが答えだった。ちょうど、消された数字が、消されたという事実で答えになるのと、同じように。
「私は、ファイサル・アル=ラシード。」
男は、初めて名乗った。
「この国の、金を動かしている。」
ファイサルは、椅子を引いて、玲司の向かいに座った。急ぐ様子はなかった。世界じゅうの予測が一本につながる、というたったいまの発表を、まるで天気の話でもするように、脇に置いていた。
「君は、世界が同じ未来を見ている、と言った。」
ファイサルは、静かに続けた。
「では、聞く。もし、一つの国だけが、その未来から外れてみせたら、どうなる。」
玲司は、顔を上げた。
それは、玲司がまだ自分にも問うていなかった問いだった。空白の正体を、探すことばかり考えていた。その空白から抜け出せるかどうかは、考えていなかった。ファイサルは、玲司の探しているものの、一歩先をもう見ていた。
「君が探している空白は、」
ファイサルは言った。
「一つの国を丸ごと使わなければ、埋まらない。」
玲司は答えなかった。答える言葉を、まだ持っていなかった。ただ、心臓が、壇上のときとはちがう打ち方をしていた。こわさではなかった。もっと危ないものだった。
それは、欲しい、という気持ちに近かった。玲司は、これまで物を欲しがったことがあまりなかった。服も、金も、名前も、どうでもよかった。ただ、目の前のこの男は、玲司がただ一つ欲しいもの——あの空白の中身——を埋められる場所を、差し出そうとしている。欲しいものを差し出されると、人は、その相手に弱くなる。玲司は、生まれて初めて自分の弱いところを、他人に握られた気がした。
玲司は、控室を出るとき、いちど振り返って、閉じかけたドアの向こうの会場のほうを見た。あの、動かなかった一団が、まだ暗がりに座っているはずだった。玲司が影を見つけたと思ったとき、影のほうも、玲司をしっかりと見返していた。これから玲司が踏み込もうとしているのは、その見返してくる影の、ただ中だった。
それでも、玲司はファイサルの問いを頭から追い出せなかった。一つの国だけが、未来から外れてみせたら、どうなる。玲司は、その答えを知りたかった。知りたい、という気持ちだけは、この数週間、一度も揺らいだことがなかった。
第七章 幕間 国を動かす男
ファイサル・アル=ラシードは、自分の一生を数えたことがある。
六十まで生きるとして、あと十四年。そのうち、判断力の残っている年月はたぶん、十年。その十年でこの国の、次の百年を、決めなければならない。ファイサルの仕事は、いつもそういう計算から始まった。時間は、有限だ。金も、有限だ。石油はなおさら、有限だった。
サミットの、あの少年の発表をファイサルは、いちばん後ろの席で聞いていた。
制服姿の少年が壇上で、世界の予測が一本につながる図を見せた。会場が、ざわめいた。ファイサルは、ざわめかなかった。ファイサルにはあの図が意味することが最初から、分かっていた。分かっていたからこそ、ファイサルは、その少年をこの会議に呼んだのだった。
招いたのは、ファイサルだ。
少年の、匿名の文章を最初に見つけたのはファイサルの、部下たちだった。世界じゅうの、危ない兆候を拾いあげるのが、彼らの仕事だった。その報告書の中にあの文章はまぎれていた。ほとんどの部下はそれを若者の、目立ちたがりの、たわごと、として、片づけた。ファイサルだけが、片づけなかった。
なぜ、自分だけが片づけなかったのか。ファイサルには、うまく言えなかった。ただ、その文章にはほかの若者の、目立ちたがりの文章にはないものがあった。書き手は自分の名前を、どこにも書いていなかった。発見を誇ってもいなかった。ただ、数字が合わない、という一点だけを淡々と置いていた。名誉を欲しがらない人間は、あつかいにくい。金でも、地位でも、釣れないからだ。そして、いちばん遠くまで行くのも、そういう人間だった。ファイサルは長い人生で、それを学んでいた。
ファイサルはその文章を三度、読んだ。
三度読んでファイサルは背筋が冷たくなった。この少年は、気づいている。ファイサルが十二年、目をつぶってきたものに。世界が同じ未来を見て、その未来から、人を外していく仕組みに。ファイサルはその仕組みの中で、この国を生き延びさせてきた。乗るべきときには、乗った。目をつぶるべきときには、つぶった。そうやって、砂の上の国をここまで大きくした。
大きくした国の、その土台の下に消えた村や、消えた人々が、砂のように埋まっている。ファイサルは、それを知っていた。知っていて、その上に塔を建てた。塔が高くなるほど、下に埋まったものは見えなくなる。見えなくなるだけで、消えたわけではなかった。あの少年の見つけた空白は、その埋められたものたちの、声のようなものだった。
その仕組みを十七歳の少年がたった一人で、暴こうとしていた。
ファイサルは、その少年を消すことも、できた。
部下の何人かはそう、進言した。危ない芽は小さいうちに摘む。それがこの国の、これまでのやり方だった。ファイサルは、その進言を退けた。理由を部下たちには、うまく説明できなかった。ただ、ファイサルには分かっていた。この少年を消しても、少年の見つけたものは消えない。いつか、別の誰かが、同じものを見つける。それに――と、ファイサルは、思った。この少年は消すには惜しかった。
惜しい、という感覚をファイサルは久しぶりに味わった。
ファイサルの記憶に一人の、若い男がいる。十二年前の、ファイサル自身だ。
あのころのファイサルは、まだ目をつぶることを覚えていなかった。北の、小さな漁村が、コンソーシアムのモデルに、切り捨てられると告げられたとき、ファイサルは戦った。その村を守ろうとした。データが、その村に未来はない、と言っても、ファイサルは信じなかった。未来は、決まっていない。人が、決めるものだ。当時のファイサルは、そう信じていた。あの少年と、同じことを信じていた。
あのころのファイサルは書類を抱えて、いくつもの部屋を走り回った。この村には、漁がある。加工場を作れば、雇用が生まれる。観光の芽もある。数字は死んでいるが、人は生きている。ファイサルは、そう訴えた。上役たちは、うなずいた。うなずいて、何もしなかった。数字が死んでいる土地に、金は流れない。それがこの世界の、いちばん硬い法則だった。ファイサルの熱意は、その硬い法則の前で、一枚の書類ほどの重さもなかった。
ファイサルは、負けた。
村を守ろうとして、ファイサルは、国のもっと大きな部分を危うくした。コンソーシアムは、村を切り捨てない国には、次の融資をしぶった。次の技術を渡さなかった。ファイサルの守ろうとした一つの村のために国じゅうの、何十万もの人の、明日が遅れかけた。ファイサルは選ばなければ、ならなかった。一つの村か。国全体か。ファイサルは、国を選んだ。
村は、消えた。予測どおりに。
その村に一人の、老いた漁師がいた。ファイサルが、村を守ろうと通っていたころ、何度か、言葉を交わした男だ。漁師はファイサルに、獲れたての魚を押しつけた。役所の偉いさんに、こんなものは口に合わんかもしれんが、と笑いながら。あんたは、この村を覚えていてくれるか。漁師は、いちどそう聞いた。ファイサルは覚えている、と答えた。それだけは、本当にした。村がなくなったあとあの漁師が、どこへ行ったのかを、ファイサルは知らない。ただ、あの魚の匂いのする手と、覚えていてくれるか、という声だけはいまも、ファイサルの中に残っている。
その日から、ファイサルは、目をつぶることを覚えた。目をつぶるたびにファイサルは、消えた村の名前を心の中で、となえた。忘れないために。忘れてしまえば、自分がコンソーシアムと同じものに、なってしまうからだ。コンソーシアムは、切り捨てたことを忘れる。ファイサルは、忘れないことだけを自分に許した。それがファイサルの、最後の、線だった。
目をつぶることを覚えてから、ファイサルは出世した。皮肉なものだ、とファイサルは思う。村を守ろうとした若いファイサルは、危険人物として疎まれた。村を見捨てることを覚えたファイサルは、有能な男として引き上げられた。国家投資庁の副総裁。石油の国の、金庫の鍵を握る立場。そこまで登るのに、ファイサルが払ったのは才能でも、努力でもなかった。目をつぶった回数だった。登れば登るほど、つぶるべき目の数は増えた。ファイサルは、その一つ一つを覚えている。覚えているだけの男が、この国の金を動かしていた。
ファイサルの、机の、いちばん奥の引き出しに一冊の、古い手帳がある。誰にも、見せたことはない。中に書いてあるのは地名と数字だけだ。目をつぶった地区。切り捨てた事業。予測どおりに消えていった町。ファイサルはその一つ一つを、自分の字で書きとめてきた。裁く者は、どこにもいない。だから、ファイサルは自分で、自分の罪状を書いていた。誰かに罰してほしかったのかもしれない。あるいは、ただ、忘れたくなかっただけかもしれない。その手帳はいまも、少しずつ厚くなっていた。厚くなるたびにファイサルは少しずつ、眠りが浅くなった。
少年を招いたのはその消えた村への、遅すぎる詫びだったのかもしれない。
ファイサルは、認めていた。この国はいま、大きな岐路にいる。石油はあと二十年か、三十年で尽きる。国を作り替えなければ、ならない。ただ、その作り替えに、世界と同じ予測モデルを使えば、この国は、みんなと同じ未来へ歩いていく。小国が、大国と同じ道を走って、勝てるはずがない。この国が生き延びるには誰かがあの予測の外へ、国を連れ出さなければ、ならなかった。
ファイサルの上には、王族がいた。下には何万もの役人と、その家族の暮らしがあった。横にはコンソーシアムの、静かな圧力があった。ファイサルは、そのすべてのあいだに立っていた。どれか一つの機嫌を損ねれば、この国の歯車はたちまち狂う。ファイサルの自由になるものなど、本当は、ほとんどなかった。ただ一つ、ファイサルに残された自由は誰に、この国の未来を賭けるか、それを選ぶことだけだった。その、たった一つの自由をファイサルは、あの少年に使うことにした。
その、誰か、をファイサルは四十年、探してきた。
自分では、なかった。ファイサルは十二年前に負けた男だ。予測に逆らって、負けた。ファイサルには、もう逆らう力は残っていない。ただ、逆らえる誰かを見つけて、その誰かに、この国を賭けることはできる。あの少年は、予測を動かせる変数として、見ていた。ほかの全員が、動かせない前提として、見ているものを。それは十二年前の、ファイサルの目だった。ただし、ファイサルにはなかった、道具をあの少年は持っていた。
賭けよう、とファイサルは決めた。
賭けて、外れれば、ファイサルは終わる。国家投資庁の、副総裁の椅子も、これまで築いたものも、すべて、失う。それでも、ファイサルは賭ける気になっていた。安全な老後を送って、目をつぶったまま、死んでいくよりはましだった。一度くらい、若いころの自分のように、負けるかもしれない賭けに、乗ってみたかった。老人の、最後の、道楽だった。
サミットの控室でファイサルは初めてその少年と向き合った。
近くで見る少年は思ったより、痩せていた。目だけが妙に静かだった。何かを恐れている目では、なかった。ただ、目の前のものを、まっすぐに見ようとする目だった。ファイサルは、その目を知っていた。鏡の中で昔、見た目だ。
君は、あれが何を意味するか、分かっているのか。ファイサルは、そう聞いた。
まだ全部は。少年は、答えた。
ファイサルの口元が、ほんの少し動いた。それが分かっていないところが、君の最大の価値だ。ファイサルは、そう言った。本心だった。すべてを分かっている人間は、賭けない。分からないからこそ、人は前へ進める。分からないものへ、手を伸ばせる。ファイサルが十二年前になくしたものがこの少年の中には、まだまるごと残っていた。
この少年はいつか、私を恨むかもしれない。ファイサルは、そう思った。
国のために私はいつか、この少年を、切り捨てるかもしれない。十二年前、村を切り捨てたように。そのとき、この静かな目は、私をどう見るだろう。ファイサルは、その未来を想像した。想像して、それでも、賭けることをやめなかった。恨まれる覚悟のない賭けは、賭けではない。ファイサルは、その覚悟を四十年かけて、身につけていた。
控室を出ていく少年の、細い背中をファイサルは見送った。
あの背中にこの国の、次の百年が乗っている。ファイサルは、そのことを少年には言わなかった。言えば、重すぎる。少年は、ただ、自分の空白を埋めたいだけなのだ。その、個人的な、小さな動機のほうが、国の未来などという、大きな言葉より、ずっと遠くまで人を運ぶ。ファイサルは、それを知っていた。だから、黙って、見送った。
窓の外に砂漠が広がっていた。
ファイサルは、その砂漠をしばらく見ていた。四十年前、ここには何もなかった。石油が、すべてを変えた。ただ、その石油も、いつか、尽きる。尽きたあとこの砂漠に何を残せるか。ファイサルの、一生の、問いだった。答えは、まだ出ていない。ただ、今日、その答えを託せるかもしれない、一人の少年にファイサルは出会った。
夜、ファイサルは久しぶりに、あの手帳を開いた。消えた村の名前の、いちばん最後の行の、その下にファイサルはペンを当てた。新しい名前を書き足すためではなかった。逆だった。ファイサルは、その空いた行をしばらく見ていた。もし、この賭けに勝てば、この手帳に、新しい名前が増えない日が、来るかもしれない。ファイサルが、四十年で初めて抱いた、そのばかげた希望をファイサルは、誰にも言わなかった。言えば、消えてしまいそうだったからだ。
賭けは、始まった。あとはこの老いた手でその少年を、どこまで守れるかだった。
第八章 契約
世界が、六畳の部屋に押し寄せてきた。
玲司が日本に帰って数日で、あの部屋のパソコンは、朝から晩まで通知を鳴らし続けるようになった。メール。面会の申し込み。代理人からの連絡。画面の端で、未読の数字が、止まることなく増えていく。玲司が数週間、こつこつと数字を集めていたあの部屋に、今度は世界のほうから数字が流れ込んでくる。玲司は、その逆転を、少し不思議な気持ちで眺めた。
部屋の外でも、同じことが起きていた。玄関のチャイムが、日に何度も鳴った。名刺を持った大人が、代わる代わる訪ねてくる。学校の前には、まだ車が停まっていた。担任は、玲司の進路の欄を、どう書けばいいのか決めかねていた。大学。就職。そのどちらにも、玲司の行き先は収まらなかった。母は、訪ねてくる大人たちに、お茶を出すべきかどうかいつも迷っていた。父は、そういう客が来ると、奥の部屋に引っこんだ。この家は、こういう種類の来客のために作られていなかった。玲司の起こしたことは、玲司の家には、大きすぎた。
届いたのは、招きの言葉ばかりだった。
アメリカの、名前を聞けば誰でも知っている研究所。ヨーロッパの、古い大学と、新しい資本。アジアの、国を挙げたプロジェクト。そして、いくつもの投資ファンド。どれも、玲司に同じものを差し出していた。金。設備。自由。好きなだけ研究していい、という約束。玲司の年齢を、誰も問題にしなかった。サミットの壇上で玲司が何を示したかを、彼らは正確に理解していた。理解した上で、玲司を囲い込もうとしていた。
玲司は、その申し出を一つずつ読んでいった。感心も、興奮もしなかった。ちょうど、統計を読むときと同じ目で読んだ。数字を見れば、その裏の意図が透けて見える。多くのオファーは、玲司が欲しがっているものを金で言い換えていた。研究の自由、という言葉の下に、ただし成果はこちらのもの、という小さな文字が隠れている。彼らが欲しいのは、玲司ではなく、玲司の見つけたネットワークのこちら側の入口だった。
中には、日本まで人を送ってきた相手もいた。玲司は、駅前のいちばん大きなホテルの一室で、その代理人と会った。相手は、玲司の三倍は生きているだろう、という男で、終始玲司を対等の相手として扱った。用意された金額は、玲司の父が一生かけても稼げない額の、何十倍もあった。玲司は、それを聞いても、心が動かなかった。金額が大きすぎて、実感が湧かない、というのもあった。ただ、それ以上に、玲司は、その男が一度も玲司の見つけたものの中身については聞いてこないことに気づいていた。彼らは、玲司が何を見たかには興味がない。玲司を、他所に取られないことにだけ興味がある。玲司は、丁寧に断って、ホテルを出た。
中に、一つだけ、毛色のちがうものがあった。
差出人は、企業だった。エネルギーも、電力も、水も、港も、データセンターも持っている、という会社。名前を、ヘリックス・グローバル、といった。その申し出は、どれよりも気前がよかった。個人の研究所。莫大な資金。何の制約もない自由。玲司が何を作っても口を出さない、と書いてあった。あまりに気前がいいので、玲司は、かえって身構えた。人が、見返りを求めずに何かをくれるとき、たいてい見返りはこちらに見えていないだけだ。玲司は、その封筒をいちばん下に置いた。
ただ、いちばん下に置いても、その会社の名前は、妙に頭に残った。エネルギーも、水も、港も、データも持っている。ということは、この会社は、国が石油をやめても、次の何かでまた儲けられる。改革されても、されなくても、損をしない。玲司は、そういう相手が、いちばんこわいと思った。倒すべき敵がはっきりしている相手より、どちらに転んでも勝つ相手のほうが、ずっと始末に負えない。
どのオファーにも、玲司が本当に欲しいものは、書いていなかった。
金は要らない。研究所も要らない。玲司が欲しいのは、まだあの空白の中身だった。世界が同じ未来を見ているとして、その未来から、一つだけ抜け出すことができるのかどうか。それは、机の上では確かめられない。いくら金を積まれても、部屋の中では試せない。
その、ただ一つを差し出してきたのが、ファイサルだった。
ファイサルからの連絡は、ほかのどれともちがっていた。
資金の額も、設備の話も、書いていなかった。ただ、一度話がしたい、とだけあった。玲司が応じると、画面の向こうに、あの表情のない顔が現れた。サミットの控室と、同じ静けさだった。
「君が欲しいのは、金ではないだろう。」
ファイサルは、前置きなしにそう言った。
玲司は、少し黙ってから答えた。
「未来を試したいんです。」
言ってから、玲司は、自分でも意外だった。誰かに、こんなにまっすぐ、自分の欲しいものを言ったのは、初めてだった。両親にも、教師にも言ったことのないことを玲司は、このまだ二度目に話す男に言っていた。
ファイサルは、うなずきもしなかった。ただ、こう言った。
「なら、国家を一つ、使えばいい。」
玲司は、その言葉の重さに、うまくついていけなかった。
「どうして、」
玲司は聞いた。
「どうして、僕なんですか。もっと経験のある人は、いくらでもいます。」
ファイサルは、少しのあいだ黙った。それから、初めて自分の側の話をした。
この国は、石油で立っている。地面から、金が湧いてくる。ただ、その金は、あと二十年か、三十年で湧かなくなる。そうなる前に、国のかたちを、根こそぎ作り替えなければならない。再生可能エネルギー。水。半導体。食料。石油以外の何かで立つ国に、変わらなければならない。
「だが、」
ファイサルは言った。
「その計画を立てるとき、我々も、同じ予測モデルを使う。世界じゅうが使っている、あのモデルだ。つまり、我々が国を作り替えようとすればするほど、我々は、みんなと同じ未来へ歩いていくことになる。同じ方向へ、みんなで走れば、勝つのはいつもいちばん大きい者だ。我々のような小さな国が、大国と同じ道を走って、勝てるはずがない。」
玲司は、理解した。ファイサルが欲しいのは、改革の方法ではない。改革が、必ず失敗する理由——玲司がサミットで示した、あの空白——のほうだった。
「君だけが、あの未来を、動かせる変数として見ている。ほかの全員は、あれを、動かせない前提として見ている。」
ファイサルの声は、静かなままだった。
「私は、この国の未来を君の、その見方に賭ける。賭けて、外れれば、私は終わる。それでも、みんなと同じ未来へ、黙って歩いていくよりは、ましだ。」
玲司は、その賭けの片方の皿に、自分が載せられていることをはっきりと感じた。ふつうなら、こわい話だった。一つの国の未来と、一人の男の人生が、自分の見方一つにぶら下がっている。ただ、玲司の中で、いちばん大きく鳴ったのはこわさではなかった。試せる、ということだった。世界が同じ未来を見ているなら、その未来から、一つの国だけを外してみせられるかどうか。その問いの答えが、ここに来れば、分かる。玲司は、ほかのどのオファーにも、この一言を言えなかった。ファイサルにだけ、言えた。
「やります。」
条件は、数日後に、正式な書類として届いた。
十年。国家戦略AIプロジェクト。玲司は、その設計者——プロジェクト・アーキテクトとして、アル・ナハルに迎えられる。予算の桁を玲司は、何度か数え直した。数え間違いかと思った。間違いではなかった。一つの町の、一年の予算では、まるで足りない。一つの国が、十年をかけて動かす金の話だった。
玲司は、その書類について、ほとんど条件をつけなかった。給料の額も、住む場所も、どうでもよかった。玲司が確かめたのは、一つだけだった。この国のデータに、どこまで手を伸ばせるのか。電力も、水も、物流も、金融も、全部、見られるのか。答えは、全部だった。玲司が欲しいのは、それだけだった。国じゅうの数字を、一つの網につなげること。それができるなら、あとの条件は、玲司にとって飾りにすぎなかった。
書類は、分厚かった。玲司は、それを最初から最後まで、一行ずつ読んだ。数字を読むときの、あの丁寧さで。
その中に、一つ、玲司がさらりと通り過ぎた条項があった。
AIONの、基幹コードの所有権は、国家に帰属する。
玲司は、その一行を読んで、少しだけ考えた。そして、たいしたことではない、と判断した。玲司にとって、AIONは、コードの塊ではなかった。あの部屋で玲司が何度も思った通り、AIONの正体は、たった一つの癖——失敗の理由を探せ——だった。癖は、コードの中には書いていない。癖は、玲司の中にある。コードを国家に渡したところで、癖まで渡すことにはならない。玲司は、そう考えて、その一行の上を通り過ぎた。
玲司は、自分の哲学に守られているつもりだった。その哲学が、いちばん深いところで、自分を売り渡していることには、まだ気づいていなかった。
そのとき、玲司には、コードと癖は別のものに見えていた。切り離せる、と思っていた。ただ、癖というのは、どこかに書き留めておかなければ、次の日には少し形を変えてしまう。玲司の癖を、いちばん忠実に書き留めていたのは、ほかでもない、あのコードだった。玲司の哲学は、玲司の頭の中ではなく、玲司が国家に渡した、あのコードの中にいちばん濃く残っていた。玲司は、自分のいちばん大事な部分を契約書の一行で、他人の名義にした。それを、たいしたことではない、と思いながら。
書類には、もう一か所、玲司一人では埋められない欄があった。
玲司は、まだ十七歳だった。保護者の署名が、要った。
玲司は、その紙を父の前に置いた。父は、老眼鏡をかけて、しばらくそれを見ていた。書いてあることの、半分も分からなかったはずだ。英語も、法律の言葉も、金の桁も。父は、ひととおり眺めてから、玲司の顔を見た。
「これに名前を書いたら、お前は、遠くへ行くのか。」
「たぶん。」
「戻ってこられるのか。」
玲司は答えなかった。分からなかったからだ。分からないことをこの人には、嘘でごまかしたくなかった。
父は、しばらく玲司を見て、それから、ペンを取った。息子の言葉を、分からないまま信じることに決めた顔だった。父の署名は、いつも荷物の受け取りに書くのと同じ、少し右上がりの字だった。その、いつもの字が、玲司を国一つと、十年に縛りつけた。
春が来て、玲司は卒業した。
式は、静かに過ぎた。同級生たちは、それぞれの春へ散っていく。大学。就職。浪人。誰もが、自分の、手の届く範囲の未来へ歩いていった。玲司も、証書を受け取った。式のあと、担任が玲司を呼び止めた。三年間、頭はいいけど変わった子、と呼んできた、あの担任だった。
「神谷。お前、卒業して、何をするんだ。」
玲司は、少し考えて答えた。
「仕事です。」
「どこで。」
玲司は、いちど窓の外を見た。見慣れた校庭の、そのずっと向こうを。
「国で。」
担任は、それが、どこの国のことなのか、聞き返さなかった。聞いても、自分の知っている世界の言葉では答えが返ってこない、と分かっていたのだろう。担任は、ただ、ひとつうなずいた。がんばれ、とも、気をつけろ、とも言わなかった。教師が生徒に言える範囲を玲司は、もうはるかに超えていた。
出発の前の夜、玲司は、自分の部屋で荷物をまとめていた。
持っていくものは、少なかった。着替えと、あの問いばかりのノートと、AIONの核を入れた、一台のパソコン。何台ものモニターも、積み上げたデータも、置いていく。
この部屋で、玲司は、世界の裏側を覗いた。弁当の数から始めて、産油国の指標まで、たどった。その全部が、この六畳から始まった。玲司は、がらんとした机をいちど見た。明日から、この机は、ただの誰もいない机になる。玲司は、その机に、少しだけ済まないような気持ちになった。うまく言葉にはできなかった。ただ、電気を消す前に、いちどモニターの黒い画面を指で軽く触れた。
玲司は、最後に、null_variable という名前の、からっぽのフォルダを久しぶりに開いた。中は、まだからのままだった。ただ、これまでと、一つだけちがっていた。この空白を埋めるために、玲司はもう一つの国を手に入れていた。
玲司は、その事実を、うまく実感できなかった。ただ、指の先が、また冷たくなっていた。壇上の前と、同じ冷たさだった。あのとき、玲司は、それをこわさではない、と思った。今も、そう思おうとした。
思いきれなかった。
第九章 水
アル・ナハルの空港に、二度目に降り立ったとき、玲司を出迎えたのは、拍手ではなかった。
前に来たときは、招かれた客だった。今度は、違った。玲司は迎えの車の窓から、前と同じガラスの塔を見上げた。ただ、見え方が変わっていた。前は、まぶしくて直視できない、遠い景色だった。今はその一本一本に電力が引かれ、水が運ばれ、金が流れていることが、玲司には数字として見える。この街を動かしている網の、その端をこれから自分が握る。玲司はそのことを、まだ体では信じきれていなかった。
車は、塔の並ぶ大通りを抜けて、少しずつ、街のふちへ向かった。景色が変わっていく。ガラスの光が消えて、低い建物が増える。作業着の男たちが日の当たる道を、列になって歩いていた。肌の色も、着ているものも、大通りの人たちとはちがった。案内役が、聞かれてもいないのに教えてくれた。あの人たちが、この国を建てた。外から来て、塔を建て、道を敷いて、水道を通した。玲司は窓越しに、その列をしばらく目で追った。この国の豊かさは、地面から湧いた石油と外から来た、この人たちの手でできている。数字の上では、両方とも、ただの「コスト」の一行だった。玲司は、初めてその一行の中に、歩いている人の姿を見た気がした。
玲司に与えられたのは街の外れの、大きな建物だった。
中に入ると、空気がひやりと乾いていた。何百というサーバーが、低くうなっている。あの六畳の部屋の、冷却ファンの音がここでは何百倍にもなって、建物じゅうを満たしていた。玲司はその音を聞いて、少しだけほっとした。知っている音だった。世界じゅうで玲司がたった一つ、迷わずにいられる場所は、この音のする部屋だった。
ただ、その部屋は、もう玲司一人のものではなかった。サーバーの並ぶ通路を歩くと何人もの技術者が、モニターの前に座っていた。玲司の書いたAIONを動かし、試し、支える人間たちだ。玲司はこれまで、ずっと一人でAIONと向き合ってきた。誰かと一緒にAIONを動かす、ということがどういうことか、玲司には、まだうまく掴めなかった。自分の頭の中にあったものが建物になり、人になって、目の前に立っている。玲司はその規模の前でうれしいとも、こわいともつかない、落ち着かなさを覚えた。
建物の奥で一人の男が、玲司を待っていた。
三十代の後半くらいに見えた。この国の生まれで、外国の大学で工学を学んだ、という。名前をユセフ、といった。ユセフは玲司を見ると、握手のために手を差し出した。玲司が、少しためらってから、その手を握るとユセフは笑った。
「そう緊張しなくていい。ここにいるのはみんな、君の書いたものを読んで、面白いと思った人間ばかりだ。」
玲司は、その言葉に、うまく返せなかった。玲司の書いたものを面白い、と言った人間はこれまでいなかった。すごい、とか、こわい、とか、そういう言われ方はした。面白い、は初めてだった。
ユセフは玲司を、施設の中を案内しながら、いろいろな話をした。
ユセフは数字の話は、あまりしなかった。代わりに、人の話をした。この街の、どの地区で、水がいちばん足りないか。どの家が夏になるとエアコンを止めて、電気代を節約するか。ユセフにとって、データの一つ一つの向こうには、いつも顔のある人間がいるようだった。玲司は、それを少し不思議に思った。玲司にとって、数字は数字だった。数字の向こうに人がいることは、知っていた。ただ、その人の顔まで見ようとしたことはなかった。
その日の終わりにユセフは、玲司を屋上に連れていった。
日が落ちて、砂漠の熱が、少しだけ引いていた。ユセフは手すりにもたれて、暮れていく街を見た。ユセフは、玲司より二十近く年上だった。外国の大学を出て、外国で働くこともできた。給料も、そのほうが、ずっとよかったはずだ。それでも、ユセフは、この国に帰ってきた。玲司がその理由を聞くとユセフは、少し笑って答えた。
「この国の水を、生まれて初めて飲んだのは、俺だ。俺の子どもにも、飲ませたい。それだけだよ。」
玲司には、その気持ちが、まだよく分からなかった。分からないまま、ただ、覚えておこうと思った。ユセフは、玲司の見ていないものを見ている。そういう人間が、隣にいる。玲司にとって、それは初めてのことだった。誰かが自分の隣にいて、しかも、その誰かが、自分とは別のものを見ている。玲司は、その状態を少し心地よく感じた。
ファイサルとは玲司は、めったに会わなかった。
ファイサルはこの建物には、ほとんど姿を見せなかった。ただ、玲司の作るものはすべて、ファイサルのところへ報告として上がっていく。玲司には、それが分かっていた。自分の引いた図の一枚一枚が、どこか高いところにいる、あの表情のない男の机に、静かに積まれていく。見られている、という感覚は、いやなものではなかった。ただ、玲司は、ときどき思った。ファイサルは、玲司の成功を見ているのか。それとも、玲司の失敗が、いつ出るかを待っているのか。ファイサルの賭けは、そのどちらでも成り立つように、できている気がした。
玲司が、最初に取りかかったのは、エネルギーではなかった。
水だった。
砂漠の国にとって、水は電力と同じくらい、あるいは、それ以上に大事だ。この国は、飲む水のほとんどを、海の水から作っていた。海水を真水に変える。そのために、莫大な電力を使う。電力は、天然ガスを燃やして作る。玲司がAIONに、その一続きを読ませるとAIONは、すぐに一つのことを言った。
この国は水と電力と燃料を、別々の問題として扱っている。
別々の問題として扱う。それは、この国だけの話ではなかった。世界じゅうが、そうしていた。水は水の専門家が、電力は電力の専門家が、それぞれの持ち場だけを見て、最適にしようとする。一つ一つは、正しい。ただ、正しいものを足し合わせても、全体が正しくなるとはかぎらない。むしろ、それぞれが自分の持ち場で正しくあろうとするほど、境目のところに、誰も見ていない隙間が生まれる。玲司が探している空白は、いつもその隙間に潜んでいた。誰の担当でもない場所。誰も、責任を持たない場所。
玲司はそれを、一つの網につなぎ直した。
海水を真水に変える工程。その電力。昼間だけ余る、太陽光。夜のための、蓄電。作った水で育てる、農業。足りないぶんを補う、食料の輸入。それを運ぶ、港。ばらばらに動いていたそれぞれを玲司は、一枚の大きな図の上に並べた。ちょうど、あの夜、弁当と電力価格を、同じ画面に並べたときのように。
図の上で線が、つながりはじめた。
太陽がいちばん強い時間に、いちばん多くの水を作る。余った電気は捨てずにためる。ためた電気で夜のあいだも、水を作り続ける。その水で、これまで捨てていた土地に作物を植える。作物が採れれば、輸入が減る。輸入が減れば、港の負担が減る。港が空けば、別のものを運べる。一つの改善が、次の改善を呼ぶ。玲司にはその連なりが、はっきりと見えた。
玲司は、その図をしばらく眺めていた。ばらばらだったものが一つにつながるとそこには、妙な美しさがあった。むだがない。どこにも、捨てられるものがない。玲司が、いままで見つけてきたのは、いつも世界の綻びのほうだった。合わない場所。欠けている場所。今回、初めて玲司は合う場所を、自分の手で作っていた。壊れているものを見つけるのと、うまくいくものを作るのとはちがう。どちらが得意か、玲司には、まだ分からなかった。ただ、後者には前者にはない、手ごたえのようなものがあった。
玲司が図を引くとユセフが、それを現実に変えていった。
玲司の図の中では水も電気も、ただの線だった。ユセフは、その線を実際のポンプに実際のパイプに実際の人手に置き換えていく。ここには古い設備がある。ここには、動かせない事情がある。ここには去年、水が止まって、困った村がある。ユセフは玲司の完璧な図に現実の、でこぼこを教えてくれた。二人は、うまく噛み合った。玲司が遠くを見て、ユセフが足元を見た。
二人はよく、夜まで施設に残った。玲司が、図の一か所を直すとユセフがそれだと、あの村の水が三日遅れる、と言う。玲司が、では、と別の線を引く。ユセフがそれなら通る、と言う。そういうやり取りを二人は、何日も繰り返した。玲司はそれまで、誰かと一緒に何かを作る、ということをしたことがなかった。一人で正しい答えにたどり着くほうが、速いと思っていた。ただ、ユセフといると玲司一人では、けっして引かなかった線が引けた。正しさだけでは届かない場所にユセフは、玲司を連れていった。
計画が、形になった。
玲司は最後に、それをAIONに通した。この計画を実行したら、どうなるか。AIONは、しばらく静かに計算した。そして、いつもの応答欄に、一つの数字を出した。
成功確率、七十二パーセント。
玲司は、その数字を見た。
悪くない数字だった。むしろ、これだけ大きな計画で七割を超えるのは上出来だ。ユセフも、隣でいい数字だ、と言った。ただ、玲司はその数字の前で、動けなくなっていた。
なぜ、百ではないのか。
七十二という数字はユセフには勝ちに見えた。玲司には、負けの予告に見えた。二十八パーセントぶんの何かが、まだ玲司の網の外にある。その何かはいつか、必ず、この計画のどこかで牙をむく。玲司は当たる七十二より、外れる二十八のことばかり考える性分だった。
玲司は、AIONに聞いた。残りの、二十八パーセントは何だ。
AIONの答えは玲司が、いちばん聞きたくないものだった。
説明できない変数が、含まれています。
玲司は、画面を見つめた。
あの、空白だった。弁当の廃棄と、電力価格のあいだにあった、あの名前のない一点。世界じゅうの予測の底にあった、あの同じ形の欠落。玲司が、埋めるためにこの国まで来た、あの空白が——玲司が引いた、この計画の中に、もう混じっていた。
玲司はこの国に、あの空白から抜け出すために来た。それなのに、玲司が最初に作った計画の中にあの空白は、もうしっかりと居場所を持っていた。玲司は逃げてきた先で逃げてきたものとまた、顔を合わせていた。
ただ、今度は前とは一つ、ちがっていた。前はその空白は画面の中の、ただの数字の欠落だった。今は、その二十八パーセントの向こうにユセフの言う、顔のある人間たちがいる。玲司が、うまく国を動かせなかったとき、そのぶんの割を食うのは、あの作業着の列を作っていた人たちであり、水を待っている村であり、ユセフの子どもたちだった。空白は、もう玲司一人の、知的な問題ではなくなっていた。
「どうした。」
ユセフが、玲司の様子に気づいて聞いた。玲司は少し迷ってから、正直に言った。
「この二十八パーセントが、何なのか、まだ分からないんです。」
ユセフは、画面をのぞきこんだ。それから、玲司の予想しなかったことを言った。
「分からないなら、」
ユセフは、あっさりと言った。
「その二十八パーセントが、どこの誰の暮らしなのか、見にいけばいい。数字で分からないものは、たいてい現場に落ちている。」
玲司は、顔を上げて、ユセフを見た。
数字で分からないものは、現場に落ちている。玲司はその言い方を、これまでしたことがなかった。玲司は分からないものを、いつももっと大きなデータで埋めようとしてきた。ユセフは、逆のことを言った。小さくしろ、と。近づけ、と。
「明日、」
ユセフは言った。
「いちばん水が足りていない地区に、連れていってやる。数字じゃなくて、蛇口を見にいこう。」
玲司は、うなずいた。うなずいてから、少し意外だった。玲司はこれまで、分からないことがあると部屋にこもって、データを増やしてきた。外に出て、誰かの家の蛇口を見にいく、という解き方は、玲司の中になかった。ユセフは、玲司の知らない道具をいくつも持っている。玲司はその道具を、一つずつ借りてみたいと思った。
玲司には、まだ分からなかった。ただ、その二十八パーセントの中に何か、数字ではないものが隠れているような気がし始めていた。
第十章 現場をまわる
ユセフは玲司を、あちこちへ連れていった。
水の計画が動きはじめてから、ユセフは、口ぐせのように言った。図だけ見ていても、この国は分からない。玲司はその言葉を最初は、うまく飲み込めなかった。玲司にとって、図は、国そのものだった。国のすべては数字になって、玲司の画面に映っている。それ以上、何を見る必要があるのか。ユセフは笑って、車の助手席のドアを開けた。乗れ、と言った。分かってから言え、と。
二人は週に一度、車で、地方を回るようになった。
運転するのは、いつもユセフだった。玲司は助手席で、膝の上のノートパソコンを開いていた。走りながら、玲司は、その土地の数字をAIONに読ませる。人口。水の使用量。電力。所得。数字は玲司に、その土地のことを教えてくれた。ただ、窓の外を流れる景色は数字とは、少しちがう顔をしていた。数字の上では、同じ「地方都市」でも、実際に走ってみると、一つ一つ、匂いが、ちがった。
最初に着いたのは内陸の、農業の町だった。
玲司の水の計画でいちばん最初に、灌漑が届くはずの町だ。ユセフは玲司を、一軒の農家へ連れていった。日に灼けた、老いた農夫が、二人を畑に案内した。乾いた土から、細い緑が顔を出していた。トマトの苗だ、と農夫は言った。この土地で、トマトが採れる日が来るとは思わなかった、と。農夫はその苗を、まるで孫でも見るように見ていた。
玲司は、その苗をしばらく見ていた。
玲司の画面の上ではこの町は農業生産量、という一行の数字だった。その数字がこれから、少しずつ、増えていく。玲司は、その増加を予測していた。ただ、玲司はその数字の中にこの細い緑の苗が入っているとは、考えていなかった。数字は、増える。その増えた数字の、いちばん下にこの農夫の、しわの寄った手があった。
「見えたか。」
帰りの車で、ユセフが聞いた。玲司は少し考えて、答えた。
「農業生産量が、〇・三パーセント、増える予定です。」
ユセフは、笑った。声を出して、笑った。
「お前は、まだ図を見ている。」
玲司は、むっとした。むっとした自分に、少し驚いた。玲司はめったに感情が顔に出ない。ユセフといるとなぜかその、めったに出ないものが出た。ユセフは玲司の、そういうところを、面白がっているようだった。
昼になると二人は道ばたの、小さな食堂に寄った。ユセフは必ず、その土地の、いちばん安い定食を頼んだ。高い店は、その土地の本当の顔を隠す、というのが、ユセフの持論だった。安い店の、油の匂いと、店主の無愛想さの中にこそ、その町の暮らしがある、と。玲司は、出されたものを黙って食べた。ユセフは食べながら、よくしゃべった。子どものころの話。留学先での、失敗の話。玲司は、聞き役だった。玲司の人生には、しゃべるような話があまりなかった。ただ、ユセフの話を聞いているのは、いやではなかった。誰かの人生の話を、こんなに近くで聞いたのは玲司には、初めてのことだった。
次の週は海沿いの、漁港の町へ行った。
その町は玲司の計画では、電力コストが下がることで製氷所がまた動きはじめる、はずの町だった。氷がなければ、魚は運べない。氷が安くなれば、遠くまで、魚を売りに行ける。玲司の図の上ではそういう、きれいな線だった。ユセフは玲司を、その止まったままの製氷所に連れていった。
製氷所は、まだ動いていなかった。
錆びた機械の前で一人の男が、玲司たちを待っていた。製氷所の、持ち主だという。まだ四十代に見えた。男は玲司の顔を見て、少し困ったような顔をした。こんな若い子が、と、口には出さなかったがその顔に書いてあった。玲司はそういう顔には慣れていた。慣れているつもりだった。
「いつ、動くんですか。」
男は、玲司に、そう聞いた。責めるでも、すがるでも、ない、静かな声だった。ただ、その静かさの中に玲司は、長いあいだ待たされてきた人間の、疲れを聞いた。玲司は、答えようとした。玲司の計画では、電力コストが下がるのは三か月後。製氷所が動くのは、そのあと。玲司はその日程を正確に覚えていた。ただ、玲司は、その正確な日程をうまく、口にできなかった。
三か月後、と言うのは簡単だった。ただ、この男にとって、三か月は玲司の三か月とはちがう。この男の三か月は、動かない機械の前で、氷のない毎日を数える三か月だった。玲司は、初めて自分の日程表の、一マスの中に誰かの、三か月ぶんの暮らしが、入っていることを知った。
「三か月です。」
結局、玲司は、そう言った。ただ、そのあとに一言、足した。
「必ず、動かします。」
言ってから、玲司は、自分でも、驚いた。玲司はこれまで必ず、という言葉を使ったことがなかった。数字を扱う人間は必ず、とは言わない。確率でしか、ものを言わない。それなのにその男の前で玲司は、確率ではない言葉を口にしていた。
帰りの車でユセフはめずらしく、何も言わなかった。
しばらく走ってから、ユセフがぽつりと言った。あの言葉は、重いぞ。必ず、というのは。玲司は、うなずいた。分かっています、と答えた。ユセフは前を向いたまま、続けた。ただ、な。人は確率では生きられない。八割、うまくいく、と言われても、残りの二割のことを考えて、夜、眠れなくなる。必ず、と言ってくれる誰かが要るんだ。たとえ、その言葉が、嘘になるかもしれなくても。
玲司はその言葉を、覚えておこうと思った。
三か月後、製氷所は動いた。玲司の計画どおりに。ただ、玲司が、その報告を受けたとき、いちばん先に思い浮かべたのは生産量の数字ではなかった。あの、静かな声の男の顔だった。氷がまた、作れる。あの男はいま、どんな顔をしているだろう。玲司は、初めて数字の向こうの顔を自分から、見にいこうとしていた。
ただ、うまくいくことばかりではなかった。
ある町では玲司の計画が、古い商売を一つつぶした。水が安くなったことでそれまで、水を売って暮らしていた男の仕事がなくなった。玲司の図の上ではそれは改善だった。むだが、一つ消えたのだ。ただ、その「むだ」の中で、一人の男が暮らしていた。男は玲司に、文句は言わなかった。ただ、時代だな、と言って、笑った。仕方がない、と。玲司はその仕方がない、という言葉を久しぶりに聞いた。中学のときから、玲司が、いちばん嫌いだった言葉だ。その言葉をいま、玲司自身の計画が、誰かに言わせていた。
ユセフは、そういう見方を玲司に少しずつ、移していった。
ユセフはいつも数字の話は、あまりしなかった。代わりに、人の話をした。この町の、この家の、この人の話を。玲司は最初、それを遠回りだと思った。数字を見れば、分かることをなぜ、わざわざ、会いに行くのか。ただ、回を重ねるうちに玲司は気づいた。数字を見れば分かること、と、会わなければ分からないことはちがう。そして、後者のほうが、ときどき、前者より、ずっと大事だった。
いつのころからか、玲司は車の窓から、数字ではなく、人を見るようになった。バス停で、バスを待つ老人。畑で、腰を曲げる女。学校帰りの、子どもたちの列。玲司は、その一人一人を目で追った。以前の玲司なら、その景色を人口密度、という一つの数字に変えていた。いまは、ちがった。玲司にはその景色が一人一人の、顔の集まりに見えはじめていた。ユセフの見ている世界が少しずつ、玲司にも見えてきた。それは、便利な変化ではなかった。むしろ、めんどうな変化だった。一人一人の顔が見えると数字を動かすのがこわくなる。その一つの数字の下に、こんなにたくさんの顔があるのだから。
ある日、玲司はユセフに聞いた。どうして、そこまで人にこだわるんですか、と。
ユセフは、少し黙った。それから、自分の話をした。ユセフの父も、この国の、地方の出だという。ユセフが子どものころ、その町には水が足りなかった。夏になるとユセフの母は遠くの井戸まで、水を汲みに行った。ユセフは、その母の背中を覚えている。水を担いだ、母の背中を。だから、ユセフは、水の仕事を選んだ。この国の、どの子どもの母親も、もうあの背中をしなくていいように。
いちどユセフは玲司を自分の家に、夕食に呼んだことがある。
玲司は、行かなかった。うまく断った。他人の家というものに玲司は入った経験が、ほとんどなかった。どういう顔をすればいいのか、分からなかった。ユセフはまた今度な、と言って、それ以上は誘わなかった。玲司はそのとき、断ったことを、なんとも思わなかった。また、いつでも行ける、と思っていた。ユセフの家には妻と、二人の子どもがいる、と聞いていた。上の子が、そろそろ字を書けるようになった、とユセフは、嬉しそうに話していた。その字を玲司は、とうとう見ることがなかった。また今度、は来なかった。
「俺の見ている数字の、いちばん下には、」
ユセフは、言った。
「いつも母の背中がある。お前の数字の、いちばん下には何がある。」
玲司は、すぐには、答えられなかった。
玲司の数字の、いちばん下。玲司は、それを考えたことがなかった。玲司にとって、数字はそれ自体が、面白いものだった。数字の下に、何があるか。玲司は、初めてその問いを自分に向けた。すぐには答えが出なかった。ただ、玲司の頭にぼんやりと一つの背中が浮かんだ。中学のとき、この町から、消えていった、友だちの父親の、うつむいた背中だった。
「お前は、危ういな。」
いちどユセフが、そう言ったことがある。夕暮れの、車の中だった。お前は数字がよく見えすぎる。見えすぎると人は数字だけで世界を動かせる、と思ってしまう。実際、お前にはそれができる。ただ、な。数字だけで動かせる世界は、数字だけで壊せる世界でもある。玲司は、その言葉の意味をそのときは、半分しか分からなかった。ユセフは、続けた。だから、お前には隣に、数字の下を見る人間が要る。玲司は、聞いた。ユセフさんが、それですか。ユセフは笑って、答えなかった。答えなかったことが、答えだった。
その日から、玲司の数字は少しだけ、重くなった。
軽い数字を玲司は、速く動かせた。重い数字は動かすのに力が要った。ただ、その重さは、いやなものではなかった。重い数字は玲司に、その下にある顔を忘れさせなかった。ユセフは玲司に、その重さを教えた。玲司がそれまで二年半、AIONと二人きりで見てきた、軽い数字の世界にユセフは、初めて人の重さを加えた。
二人はその秋、たくさんの町を回った。
うまくいった町も、あった。まだ動いていない町も、あった。玲司の計画は七割、当たり、三割、外れた。あの、七十二パーセント。外れた三割の町では玲司は頭を下げた。数字を扱う人間が頭を下げる、というのも、玲司には、初めてのことだった。ユセフはその横でいつも黙って、立っていた。責めもせず、慰めもせず、ただ、玲司の隣に立っていた。
夜、宿に泊まる日もあった。安い宿の、隣り合った部屋で二人はそれぞれ眠った。壁が、薄かった。ユセフの、低いいびきが、聞こえてくることもあった。玲司は、そのいびきを聞きながら、眠った。一人ではない夜、というものを玲司はその旅で初めて知った。あの六畳の部屋で玲司は、いつも一人だった。冷却ファンの音だけが、隣にいた。いまは壁の向こうに、生きている人間の寝息がある。玲司はそれを悪くない、と思った。
いま思えば、あの秋がいちばん、よかった。
玲司は、まだそれを知らなかった。ユセフと二人で車で町を回る。その、なんでもない時間が玲司の、一生でいちばん、あたたかい時間だったことを。人は、いちばんあたたかい時間の、まん中にいるとき、たいていそれに気づかない。気づくのはいつもそれが、終わってからだった。
第十一章 蛇口
翌朝、ユセフの車は玲司を乗せて、街とは反対の方向へ走った。
ガラスの塔が、後ろへ遠ざかっていく。道はだんだん、細く、白くなった。舗装の割れ目から、砂が這い出している。エアコンの効いた車の中と窓の外の景色とが、うまくつながらなかった。玲司はこれまでこの国を、上から見た数字でしか知らなかった。電力の消費量。水の使用量。地区ごとの、平均所得。その数字たちがいま、窓の外を、少しずつ実物になって流れていく。玲司は数字がこんなに白っぽく、埃っぽいものだとは思っていなかった。
玲司は、手持ちぶさただった。いつもなら、手のなかにパソコンか、少なくとも画面があった。今は、何もない。窓の外の景色を、ただ目で見るしかない。目で見るというのは玲司にとって、頼りない情報の集め方だった。数字にならない。記録にも残らない。ただ、見たものがそのまま、胸のどこかにこびりつく。
ユセフは運転しながら、ときどき玲司に話しかけた。難しいことは聞かなかった。この道は昔、舗装されていなかった、とか、あの丘の向こうに昔、井戸があった、とか。ユセフの話には、いつも時間が流れていた。玲司の見る数字は、いつも今この瞬間の切り取りだった。ユセフの語る土地には昔があり、今があり、この先があった。玲司はそれを、少しうらやましく思った。
着いたのは街の端の、労働者の住む地区だった。
低い建物が、肩を寄せ合うように並んでいた。国を建てた人たちが暮らす場所だ。塔を建て、道を敷いた手が、一日の仕事を終えて帰ってくる場所。玲司は、車を降りた。とたんに、熱が体を包んだ。サーバー室の、あの乾いた冷気とは正反対の熱だった。生きている人間の、汗のにおいがした。
地区の真ん中に、共同の水道があった。
金属の蛇口がいくつか、コンクリートの台から突き出している。その前に、人が並んでいた。ポリタンクを提げた女。空のバケツを持った子ども。順番を待つ列は日陰のない場所に長く伸びていた。玲司が見ているといちばん前の女が蛇口をひねった。
水は、出なかった。
女は、驚かなかった。慣れた手つきで蛇口を二度、三度とひねり直した。それでも出ない。女は、空のタンクを提げたまま、列を離れた。文句も言わなかった。ここでは、それがふつうのことだった。玲司は、その「ふつう」を、初めて目で見た。
列の後ろのほうに、一人の老人がいた。
肌は日に灼けて、革のようだった。この国の言葉ではない言葉を、小さな声でつぶやいている。ユセフが、その老人に近づいて、二言、三言、声をかけた。老人は、ユセフの手を両手で握った。ユセフは玲司に、その老人のことを教えてくれた。三十年、この国で道路を作ってきた人だ、という。この国のいちばん大きな高速道路も、この人の手が混じっている。その人がいま、自分の飲む水のために、日陰のない列に並んでいる。
玲司はその老人の、節くれだった手を見た。あの高速道路を、玲司は数字で知っていた。総延長。建設費。開通した年。ただ、その数字のどこにも、この手のことは、書いていなかった。
地区をひとまわり歩いた。どの家も似ていた。窓の小さい、四角い建物。屋根の上に、水のタンクが載っている。空の、タンクだ。玲司はユセフに、この地区に何人が暮らしているのかを聞いた。ユセフが答えた数は、玲司の生まれた町の人口と、あまり変わらなかった。玲司の町の、一つぶんの人間が、この乾いた四角のなかで水を待っている。そして、こういう地区は、この国にいくつもある、とユセフは言った。玲司の頭のなかでそのいくつも、が、静かに桁を上げていった。
玲司の集めた数字の中でこの地区は、たった一行だった。給水率、基準値以下。そう書いてあった。玲司は、その一行を何度も見ていた。見ていたのに、何も感じなかった。基準値以下、という文字は、ただの文字だった。
いま、その一行が、空のバケツを持った子どもの、乾いた唇になって、玲司の前に立っていた。玲司は胸のあたりが、うまく動かなくなるのを感じた。数字は正しかった。正しすぎた。その正しさが、この子の渇きを一行に片づけていた。
玲司はこれまで正しい、ということを、いちばん大事にしてきた。数字が合うこと。予測が当たること。正しければ、それでいい、と思っていた。ただ、この地区ではその正しさが、人を置き去りにしていた。給水率、基準値以下。その一行は、正しい。正しいまま、この子を何年も渇かせてきた。玲司は、初めて正しいだけでは足りない、という感覚に触れた。触れて、うまく処理できなかった。数字にできない感覚を玲司は、どう扱えばいいのか、知らなかった。
「これが、二十八パーセントだ。」
ユセフが、玲司の隣で、静かに言った。
「お前の図の中で、うまくいかない二十八パーセント。その中に、この人たちが入っている。」
玲司は、答えられなかった。
ユセフが、玲司をここに連れてきたのには理由があった。
玲司の水の計画は、この地区にも届くはずだった。届くように、玲司が線を引いた。ユセフが、その線をパイプに変えた。今日はその新しい水が、初めてこの地区に通る日だった。
新しい水が通るまで、みんなで待った。玲司は、こういう時間の過ごし方を知らなかった。何かが起きるのをただ待つ。計算するのでも、調べるのでもなく、待つ。日陰で地区の人たちが、玲司を遠巻きに見ていた。よそ者だ。しかも、子どもだ。その子どもが、自分たちの水を変えるという。信じている顔は、ほとんどなかった。玲司は、その信じていない目を、責める気にはならなかった。この人たちは何度も期待して、何度も裏切られてきたのだろう。空のタンクが、それを語っていた。
昼を過ぎて、遠くで低い音が鳴った。ポンプが動きはじめた音だ。地区の人たちが、共同の水道の周りに集まってきた。誰かが、蛇口をひねった。
水が、出た。
最初は細く、濁っていた。それからだんだん、太く、澄んでいった。誰かが声をあげた。子どもが、その水に手を突っ込んで笑った。列が崩れて、人が蛇口の周りに群がった。ユセフは、その光景を腕を組んで見ていた。ユセフの横顔を玲司は見た。ユセフは笑っていなかった。ただ、目のふちが少し濡れていた。
さっきの子どもが、両手で水をすくって、玲司のところへ走ってきた。手のひらから、水がこぼれ落ちていく。子どもは、その半分になった水を玲司に差し出した。飲め、という意味らしかった。玲司は、少しためらってから、その水を口に含んだ。ぬるくて、少し鉄の味がした。世界でいちばん高い塔の建つ国の、いちばん端で玲司は、生まれて初めて自分の引いた線の味を知った。おいしい、とはちがった。ただ、忘れられない味だった。
玲司は、その水をしばらく見ていた。
これが勝利、というものらしかった。玲司の引いた線が、この子の渇きを消した。悪くなかった。むしろ、玲司がこれまでに感じたどんなことよりも、体の奥のほうがあたたかくなった。ただ、玲司の頭の隅では、まだあの数字が消えずに点滅していた。七十二パーセント。うまくいったこの光景も、まだあの二十八パーセントの外には出られていない。
帰りの車の中で玲司はユセフに、ずっと引っかかっていたことを聞いた。
「どうして、この地区だけ、こんなにひどかったんですか。」
水も、電力も、この国全体では足りていた。足りているのに、この地区にだけ回ってこない。分配の問題だ。玲司はその分配を、AIONに調べさせていた。そして、おかしなことに気づいていた。
この地区の、水の割り当ては何年も前から、少しずつ減らされていた。ゆっくりと、気づかれないくらいの速さで。まるでこの地区が、いつかいなくなることを、あらかじめ見込んでいたかのように。
ユセフの、車を運転する手が少し止まった。
「お前も、そこに気づいたか。」
ユセフは、しばらく黙って運転した。それから、ぽつりと話しはじめた。
ユセフはこの数年、おかしなことをいくつも見てきた、という。水を減らされた地区。仕事を、突然打ち切られた労働者。国の統計から、いつのまにか消えていた、何百人という人の数。どれも、一つ一つは、ただの行政のミスや、景気の話で片づけられた。ただ、ユセフにはそれが全部、同じ方向を向いているように見えた。
ユセフは、いちど車を路肩に停めた。それから、上着の内ポケットから、折りたたんだ紙を取り出した。手書きの、名前と数字の並んだ、一枚の紙だった。ユセフが、自分で少しずつ書き溜めた記録だという。消えた地区。減らされた予算。名簿から消えた、人の名前。ユセフはそれを、誰にも見せていなかった。玲司が、初めてだった。
「俺は、技術者だ。政治は分からない。ただ、数が合わないのだけは分かる。」
ユセフは、その紙を、玲司の膝の上に置いた。紙は、何度も開いたり閉じたりされたらしく、折り目が、白く擦り切れていた。
「俺の紙は、」
ユセフは、車を、また走らせながら言った。
「ただの、俺の勘だ。数が合わない、というだけの勘だ。誰も、勘では動かない。」
ユセフは、いちど玲司のほうを見た。
「だが、お前のAIONは、勘を証拠に変えられる。俺が何年もかけて、少しずつ集めた違和感をお前なら、一晩で形にできる。俺がお前を、ここに連れてきたのは、水を見せたかったからだけじゃない。」
玲司は、その言葉の重さを感じた。ユセフは玲司に、水の礼を言いに来たのではなかった。ユセフは玲司に頼みに来たのだ。この国の、数えられなかった人たちのことを一緒に数えてくれ、と。
玲司は、しばらく膝の上の紙を見ていた。擦り切れた折り目。手書きの、几帳面な数字。この紙一枚のためにユセフが何年、この違和感を一人で抱えてきたのかを玲司は想像した。想像は、うまくできなかった。玲司はこれまで、違和感を一人で抱えたことなら、いくらでもあった。ただ、それを、誰かのために抱えたことはなかった。
「調べます。」
玲司は言った。自分でも意外なほど、迷いがなかった。
「その、数の合わないところを全部。」
ユセフは、前を向いたまま、うなずいた。ありがとう、とは言わなかった。ただ、ハンドルを握る手の力が、少しだけゆるんだのが、玲司には分かった。長いあいだ一人で持っていたものを初めて半分、誰かに預けられた。そういう、ゆるみ方だった。
「消されていくのは、いつも同じ種類の人たちだ。」
ユセフは言った。
「数えても、得にならない人たち。国の未来の絵に、入っていない人たち。誰かがこの国の未来を描いたとき、その絵から、はみ出した人たちだ。」
玲司の背中が、冷たくなった。
はみ出した人たち。玲司の頭の中でその言葉が、あの名前のない変数と重なった。NULL VARIABLE。世界じゅうの予測が、勘定に入れ忘れていた、あの空白。あれは、ただの計算の誤差では、なかったのかもしれない。誰かが意図して、勘定から外した人たち——その、外された人々の集まりだったのかもしれない。
もし、そうだとしたら。玲司の見つけた空白は、世界の計算違いではなかった。世界の意思だった。誰を数え、誰を数えないか。誰の未来を描き、誰の未来を、はじめから無いことにするか。世界じゅうの予測が同じ形で、同じ人たちを勘定から外している。だから、どの国の予測も、同じ場所で、同じように外れる。玲司があの夜、弁当の廃棄からたどり着いた空白の、いちばん底には、数えられなかった人間の顔が並んでいた。
玲司はこの国に、あの空白を埋めるために来た。
ただ、いま、玲司は、初めてこわくなった。あの空白の正体が、もし人間だったら。誰かが数えないと決めた、人間の集まりだったら。それを埋める、というのは、いったいどういうことなのか。玲司には、まだ分からなかった。
車は、ガラスの塔の並ぶ街へ戻っていった。塔は夕日を受けて、さっきよりもまぶしく光っていた。その光の下で玲司は、後ろをいちど振り返った。労働者の地区は、もう砂の色に沈んで見えなかった。見えなくても、そこに人がいる。玲司はそれを、もう知ってしまっていた。
知る前には、戻れなかった。
第十二章 幕間 消えた町
その町の名を覚えている人間は、もうほとんどいない。
港のある、古い町だった。二万人がそこで暮らしていた。漁で、生きてきた町だ。海が荒れる冬でも、朝になれば、船が出て、市場が開き、子どもが走った。ふつうの町だった。世界のどこにでもある、名前のある、ふつうの町。ここではその町に最後まで残った、一人の女の話をする。名をナディア、といった。
ナディアの朝は、早かった。夫が、まだ暗いうちに船を出す。ナディアは、その背中を玄関で見送ってから、朝の支度をした。港のほうから、男たちの声が、風に乗って届いた。魚を水揚げする声。値をつける声。笑う声。怒鳴る声。その声を聞くとナディアは今日も、町が動いている、と安心した。昼には市場に魚が並んだ。近所の女たちと値切り、世間話をし、夕方には子どもたちが、路地を走り回った。なんの変哲もない一日。ただ、そのなんの変哲もない一日が二万人ぶん、毎日、この町で繰り返されていた。それが町、というものだった。
ナディアの記憶では、町が変わりはじめたのはある年の、春だった。
最初は、小さなことだった。町の、いちばん大きな水産加工場が、人を減らしはじめた。理由は、はっきりしなかった。ただ、注文が来なくなった、と、工場の人は言った。それまで遠くの国から、たくさん来ていた注文がある月を境にぱたりとやんだ。ナディアの夫も、その工場で働いていた。夫は家に帰ると、首をかしげていた。魚は、獲れている。腕も、落ちていない。それなのに注文だけが来ない。まるでどこかの誰かがこの町を名簿から、外したみたいだ、と。
夫の言葉は、当たっていた。ただ、そのことを夫も、ナディアも、そのときは知らなかった。
工場が人を減らすと町から、少しずつ、人が減った。
若い家族から、出ていった。仕事のある、別の町へ。ナディアの、隣の家も、空き家になった。そのまた隣も。空き家が一軒増えるたびに夜の町から、灯りが一つ、消えた。灯りが消えるとその分だけ、闇が広くなった。ナディアは夕方、洗濯物を取りこみながら、その広くなっていく闇を見ていた。
ナディアの、二人の子どもも、その闇の中へ出ていった。上の息子が、先だった。この町には、仕事がない。若い息子に、それを責めることはできなかった。息子は都会の工場で、働き口を見つけた。駅のホームでナディアは息子に体だけは大事に、とだけ言った。ほかに言うことが、思いつかなかった。娘は、その一年後に出ていった。娘は、泣いた。ナディアは、泣かなかった。母親が泣けば、娘は、後ろ髪を引かれる。ナディアは、娘の背中を押した。行きなさい、と。二人を送り出したあと、ナディアと夫の家は急に広くなった。広い家は、寒かった。
役所は、何もしなかった。
ナディアたちは何度も、役所に行った。この町に、仕事をと。若い議員が、いちど来たことがある。熱心な、いい人だった。この町には未来がある、と、その議員は言った。加工場を作り直し、観光の芽もある、と。ナディアは、その言葉を信じたかった。ただ、その議員は二度と来なかった。あとで聞いた話ではその議員は、この町を守ろうとして、上の人たちに疎まれ、遠くへ飛ばされた、という。
名をファイサル、といった。ナディアがその名を知るのは、ずっとあとのことだ。
その年の、夏。町の、給水が、止まりがちになった。
水道の水が日に何度も、途切れた。役所に聞くと設備が古い、という答えだった。ただ、ナディアには分かっていた。設備は去年まで、ちゃんと動いていた。急に古くなるはずがない。誰かが、この町への水を少しずつ、絞っている。ナディアは、そう感じた。感じても、証明する術はなかった。ナディアは、ただの、漁師の妻だった。
ただの漁師の妻でも、分かることがあった。ナディアは水の出ない日を、カレンダーに印をつけはじめた。夫が、注文の来ない日を数えていたように。ナディアは、水の止まる日を数えた。数えていくと印は、でたらめについているのではなかった。少しずつ、増えていた。しかも、増え方に規則があった。まるで誰かが、目盛りを少しずつ絞るように。ナディアは、そのカレンダーを役所に持っていった。役所の人は、それをちらりと見て、設備の問題です、と繰り返した。ナディアのカレンダーは机の上で、一度も開かれなかった。数えても、聞いてくれる相手がいなければ、数字は、ただの、紙の染みだった。
水が絞られると町は加速して、薄くなった。
水のない町に人は住めない。残っていた家族も、一つ、また一つと荷物をまとめた。ナディアの、いちばんの友だちも、出ていった。別れの日、友だちはナディアに一緒に来ないか、と言った。ナディアは、首を横に振った。この町で、生まれた。この町の海で夫と出会った。二人の子どもも、この町で育てた。ナディアにはこの町を離れる、ということがうまく、想像できなかった。町はナディアにとって、住む場所ではなかった。ナディア自身の、一部だった。
自分の体の、一部を置いて、出ていく。それがナディアにはできなかった。
その冬、ナディアの夫が死んだ。
海では、なかった。工場が閉まってから、夫は、船を出さなくなっていた。出しても、売る先がなかったからだ。夫は家で日に日に静かになった。話さなくなった。笑わなくなった。
夫は毎朝、港へ行った。船を出すためではない。ただ、海を見に行くのだ。何時間も、岸壁に座って、動かない海を見ていた。漁師は海を見て、その日の漁を決める。夫には、もう決める漁がなかった。それでも、夫は海を見に行った。見に行くことだけが夫に残された、漁師の、最後の仕事だった。ナディアはその背中に、声をかけられなかった。かける言葉が、どこにもなかった。
そして、ある朝、起きてこなかった。医者は心臓だ、と言った。ナディアは、その言葉を信じなかった。夫を殺したのは心臓ではない。夫を殺したのは、注文の来なくなった工場であり、絞られた水であり、消えていく町だった。町が先に死にはじめた。夫はその町と一緒に死んだ。
夫の葬儀に来た人は、数えるほどだった。町に残っている人が、もうそれだけしか、いなかったからだ。かつてなら、町じゅうが集まったはずだった。漁師の葬式は、そういうものだった。海で死んだ仲間をみんなで送る。ただ、夫は、海で死んだのではない。町と一緒に、静かに死んだ。だから、送る仲間も、もういなかった。ナディアは数人の老人と夫を見送った。涙は、あまり出なかった。涙より先にナディアの中には、静かな怒りがあった。誰に向ければいいのか、分からない怒りだった。相手の顔が、見えないからだ。ナディアの夫を殺した相手には顔がなかった。
ナディアはそれでも、町を離れなかった。
最後の年、その町に残っていたのはナディアとあと数人の、老人だけだった。店は全部、閉まった。学校も、閉まった。電気は、まだかろうじて、来ていた。
その最後の年、ナディアは毎朝、まだ朝の支度をした。誰も、船を出さない港に向かって、ナディアは玄関を開けた。かつて、夫を見送った、その場所で。港からは、もうなんの声も届かなかった。風の音だけがあった。それでも、ナディアは、その声のない港に向かって、いってらっしゃい、と小さく言った。癖だった。三十年、続けた癖は町が死んでも、消えなかった。人は、大きなものを失っても、小さな癖の中で、しばらくその大きなものと、一緒に生きつづける。
子どもたちはたまに電話をくれた。都会での暮らしは、楽ではないようだった。それでも、二人とも、母さんも、こっちに来れば、と言った。ナディアはそのたびに、もう少しここにいる、と答えた。子どもたちには、分からなかった。なぜ、母が誰もいない町に、一人でしがみつくのか。ナディアにも、うまく説明できなかった。ただ、ナディアがこの町を出れば、この町のことを覚えている人間がまた一人、減る。ナディアは、それがこわかった。忘れられることは二度、死ぬことだ。一度目は、町が消えたとき。二度目は覚えている人が、いなくなったとき。ナディアは二度目を、少しでも遅らせたかった。
夜、ナディアはたった一つ、自分の家の灯りだけが、ついている町を窓から見た。かつて、二万の灯りがあった町だ。いまは、一つ。ナディアの、灯り、一つ。
ナディアは、その灯りを消さなかった。
消せば、この町が本当に消える気がした。ナディアの灯りはこの町が、まだここにある、という、たった一つの、しるしだった。ナディアは毎晩、その灯りをつけた。誰も、見ていない灯りを。二万人がいた、という、その事実を一人で灯しつづけた。
やがて、その灯りも、消えた。
電気が、止まったのだ。理由は、告げられなかった。ある日、スイッチを入れても、何も、つかなかった。ナディアは暗い家の中で、しばらく座っていた。それから、荷物をまとめた。もう灯すものが、ない。しるしを続けられない。ナディアは最後に、玄関の鍵を閉めた。閉める相手も、いないのに。長年の、癖だった。
鍵を閉めてから、ナディアは、その鍵をどうすればいいのか、分からなかった。返す相手も、いない。この家を買う人も、もういない。ナディアはしばらくその鍵を、手のひらの中で握っていた。冷たい、鉄の感触。この鍵でナディアは三十年、この家の戸を開けてきた。子どもの泣き声のする戸を。夫の帰ってくる戸を。その全部が、もうこの鍵の向こうにはなかった。ナディアは結局、その鍵を捨てなかった。ポケットにしまった。開ける戸のない鍵をナディアは、いまも持っている。それがナディアとあの町をつなぐ、最後の、細い糸だった。
町を出る朝、ナディアは、いちど振り返った。
誰も、いない町。灯りの、一つもない町。ナディアの記憶の中の、子どもの走る声も、市場のざわめきも、もうどこにも、なかった。ナディアは、その静けさに向かって、小さく、頭を下げた。さようなら、とは言わなかった。さようなら、はまた会える相手に言う言葉だ。この町とは、もう会えない。ナディアは、ただ、覚えておく、とだけ、心の中で言った。覚えている人間が一人でも、いるかぎり、この町は完全には消えない。ナディアは、そう信じたかった。
役所の記録ではその町の住民はみな、自然に別の街へ移った、ということになっている。
人口減少による、自然な、消滅。統計にはそう、書かれた。誰も、殺されていない。誰も、追い出されていない。ただ、みんなが自分の意思で出ていった。書類の上では、そうなっていた。その書類を書いた人間はナディアの夫の、静かになっていく背中を見ていない。ナディアの、たった一つの灯りを見ていない。書類は、いつもいちばん大事なものを書かない。
二万人が消えた、その月。その町のことを書いた記事は世界のどこにも、なかった。
同じことが世界のあちこちで起きていた。ナディアは、それを知らない。ナディアにとって、消えたのは自分の町、ただ一つだった。ただ、遠く離れた、別の国でも、別の言葉を話す土地でも、同じことが起きていた。注文が、来なくなる。水が、絞られる。人が、出ていく。町が薄くなり、そして、統計の上で、自然に消えたことになる。それぞれの町に、それぞれのナディアがいた。灯りを一つ、消さずにいた誰かが。名簿から外された町の数だけ、その消せない灯りが、世界に散らばっていた。ただ、その灯りは、互いに見えなかった。一つ一つが暗闇の中でたった一人で灯っていた。
ずっとあとになって。一人の少年が遠い国の、壇上で、その町の名を読み上げる。数えられなかった人々の、名簿の中の、一つとして。ナディアは、それを知らない。ナディアはいまも、どこか別の街の、小さな部屋で生きている。夜になるとナディアはいまでも、寝る前に家の灯りを必ず、つける。消し忘れではない。癖でも、ない。それは、いまはもう地図にない、あの町への、ナディアの、たった一人の、灯りだった。
第十三章 監視
その夜、玲司は、サーバー室にこもった。
机の端に、ユセフの紙を置いた。何度も開かれて、折り目の擦り切れた、あの一枚だ。玲司は、そこに書かれた名前と数字を一つずつ、AIONに打ち込んでいった。消えた地区。減らされた予算。名簿から消えた人の名。ユセフが何年もかけて、勘で集めたものを玲司は一晩で、形に変えるつもりだった。
打ち込みながら、玲司は、いつもと少しちがう気持ちでいた。これまで、玲司がAIONに読ませてきたのは、いつもただの数字だった。今回は、ちがう。この数字の一つ一つには、ユセフが会った人の顔が貼りついている。玲司は、初めて顔のついた数字を、AIONに読ませていた。
紙にはユセフの字が、びっしりと並んでいた。几帳面な、小さな字だった。同じ地区の名前が、何度も出てくる。そのたびに日付が、少しずつ新しくなっていた。ユセフは、一度で書いたのではない。何年も、同じ紙を内ポケットから出してはまた一行、足していったのだ。玲司は、その一行ずつの積み重ねを指でたどった。玲司なら一晩でできることをユセフは何年もかけて、手でやっていた。速さでは、玲司が勝つ。ただ、この紙の、擦り切れた折り目には、玲司の一晩にはないものがあった。玲司はそれが何なのか、うまく言えなかった。ただ、粗末に扱ってはいけない、ということだけは分かった。
AIONはいつもの静けさで、線を引きはじめた。
最初に見えたのは、玲司の予想した通りの形だった。消された地区はばらばらに見えて、同じ癖を持っていた。どこも、いなくなる少し前から、静かに、予算を細らされていた。人がいなくなってから切るのではない。いなくなるように仕向けてから、いなくなったことにする。順番が、逆だった。
一つ、玲司の目を長く引きとめた地区があった。三年前まで、そこには二万人が暮らしていた。港の近くの、古い労働者の町だ。統計の上ではその町はある年を境に、するすると人口を減らし、去年、ゼロになっていた。役所の記録では住民が自然に別の街へ移った、ということになっていた。ただ、玲司が電力と水と、通信のデータを重ねてみると、話が合わなかった。人が自然に出ていくなら、明かりは少しずつ、まばらに消える。この町の明かりはある月に、まとめて消えていた。一晩で、二万人がいなくなるように消えていた。玲司はその月の、その町のニュースを探した。何も、なかった。二万人が消えた月に、その町のことを書いた記事は一つもなかった。
玲司は、その範囲を国の外へ広げた。
同じ形が、ほかの国にもあった。名前も、言葉も、通貨もちがう。それなのに消え方の癖だけが同じだった。ちょうど、あのサミットで見せた、世界じゅうの予測が一点につながる、あの図と重なった。世界は、同じ未来を見ているだけではなかった。同じ未来を見て、その未来の絵から、同じやり方で、同じ種類の人間を消していた。
玲司はAIONに、消された人の数をざっと数えさせた。数字が出るまでに、少し時間がかかった。それだけ、多かった。出てきた数を見て、玲司は、それを一度で飲み込めなかった。国一つの人口ではきかない。いくつもの国の、いくつもの町の、消された人を足し合わせた数だった。その一人一人に、あの水を待つ列に並んでいた老人のような顔が、あったはずだった。玲司は、その数をしばらく見ていた。数が大きすぎると人はそれをまた、ただの数字として見てしまう。玲司は自分がいままさに、そうしかけていることに気づいて、目をそらした。
玲司はその消す仕組みの、中心を探した。
どの国の政府でもなかった。どの企業でも、なかった。それは国と企業の、あいだにあった。世界じゅうの予測モデルに静かに、同じ前提を配っている、一つの層。玲司の集めたデータの中でその層は、名前を持っていなかった。ただ、いくつもの契約書と、いくつもの報告書の、いちばん下の隅に同じ短い文字が、繰り返し現れていた。
THE CONSORTIUM。
玲司は、その文字をしばらく見ていた。
コンソーシアム。共同事業体。名前としては、どこにでもある言葉だった。だからこそ、誰も、気に留めない。世界を、同じ未来へ歩かせている手は、いちばん目立たない名前の下に隠れていた。玲司があの夜、弁当の廃棄からたどりはじめた線の、いちばん奥にその名前は座っていた。
玲司は、コンソーシアムが何をしているのかを、少しずつ組み立てていった。
コンソーシアムは、命令を出しているわけではなかった。どこかの地区を消せ、と言うのではない。もっと静かなことをしていた。世界じゅうの予測モデルに、同じ「前提」を配っているだけだった。この地域は、これから衰える。この産業は、もう伸びない。この人たちは、投資に見合わない。そういう前提をそっと、みんなのモデルに入れておく。するとあとは、世界が勝手に動く。衰えると予測された地区には、金が来ない。金が来なければ、本当に衰える。予測が、現実を作る。誰も、手を下していない。それなのに予測どおりに人が消えていく。玲司がサミットで示した、あの仕組みの、いちばん暗い使い道がそこにあった。
玲司はその仕組みを見て、気分が悪くなった。
これは玲司の考え方と同じだった。数字をつなぐ。関係を見つける。未来を先に読む。玲司があの六畳の部屋で、面白がってやっていたことと、コンソーシアムがやっていることは、根っこが同じだった。ちがうのは、使い道だけだ。玲司は、失敗の理由を探すためにそれをやった。コンソーシアムは、誰を失敗させるかを決めるために、それをやっていた。同じ道具が、片方では問いになり、片方では刃になっていた。玲司は、自分の作ったAIONがもし、あちら側にあったら、と考えて、その先を考えるのをやめた。
もう一つ、繰り返し現れる名前があった。
ヘリックス・グローバル。玲司に、あの気前のよすぎるオファーを送ってきた会社だ。ヘリックスはコンソーシアムの、あちこちに顔を出していた。消された地区の、次に土地を買った会社。細らされた予算の、行き先。ヘリックスは、国が人を切るたびにその空いた場所で、静かに儲けていた。改革されても、されなくても、損をしない。玲司が、いちばんこわいと思った相手がこの仕組みの、いちばん得をする場所に座っていた。
ヘリックスは、予測を信じているのではなかった。予測を使っていた。どの地区が消えると予測されているかをいちばん早く知り、その土地を消える前に安く買う。消えたあとでそこに、データセンターを建て、発電所を建て、港を作る。予測が当たれば、安く買った土地が宝になる。予測が外れても、建てたものは残る。ヘリックスにとって、未来がどうなるかは、どうでもよかった。未来を、誰よりも早く知っていることだけが大事だった。そして、その未来を、いちばん早く配っているのが、コンソーシアムだった。
玲司は、そこまでを一枚の図にまとめた。
図の上ですべてがつながっていた。消された人々。世界じゅうの予測。コンソーシアム。ヘリックス。玲司が、この国に埋めに来た、あの空白の正体が、初めて輪郭を持って、目の前にあった。玲司はその図を、しばらく動かずに見ていた。
そのとき、画面の隅で小さなことが起きた。
玲司の開いていたファイルの、更新時刻が変わった。玲司はそのファイルに、何も書き込んでいなかった。ただ、開いて、見ていただけだ。それなのに更新の時刻がたったいま、書き換わっていた。玲司ではない、誰かが、同じファイルを同じ瞬間に触っていた。
玲司は、手を止めた。
部屋の音が、変わったように感じた。実際には、何も変わっていない。サーバーは、さっきと同じようにうなっている。ただ、玲司の耳がその音の、奥のほうを、聞こうとしはじめていた。この音のどこかに、玲司ではない誰かの、指の動きが、混じっているのではないか。玲司はそんなはずはない、と思った。思いながら、キーボードから、そっと手を離した。
AIONは、この国のサーバーで動いている。玲司の書いた基幹コードの、所有権は国家にある。契約書の、あの一行。玲司が、たいしたことではない、と通り過ぎた、あの一行だ。玲司の作るものはすべて、ファイサルのところへ上がっていく。玲司は、それを知っていた。ただ、今夜まで玲司は、その意味を本当には、分かっていなかった。
玲司が、コンソーシアムを見つけたその瞬間に、コンソーシアムのほうも、玲司が見つけたことを見ていた。
玲司は、試すことにした。
わざと、意味のない検索を一つ、走らせた。ある地区の、去年の降水量。誰も気に留めない、どうでもいい数字だ。玲司はその検索を投げて、AIONの、別のログをじっと見張った。
数秒後、玲司の投げていない場所で同じ地区の、同じ数字が呼び出された。玲司の検索をどこか別の場所が鏡のようになぞっていた。玲司が何を見ているかを誰かがリアルタイムで見ていた。
試して、分かった。分からなければよかった、と玲司は思った。
玲司は、もう一度試した。今度は、少しだけ際どい検索を投げた。コンソーシアム、という言葉そのものをAIONに探させた。投げた瞬間、玲司の背筋をいやなものが走った。これは、降水量とはわけがちがう。これは、玲司が何を探しているかを、はっきりと相手に告げる検索だった。
数秒、何も起きなかった。
それから、玲司の画面の、いちばん上に、小さな通知が出た。システムからの、事務的な一行だった。一部のデータへのアクセスが、制限されました。理由は、書いていなかった。玲司がたったいま、その名前に触れた、それだけが理由だった。玲司が近づいた場所には、もう壁が下りていた。玲司が名前を口にする前から、その壁は下りる準備をして、待っていた。
玲司はAIONの前で、しばらく動けなかった。この部屋は玲司が世界でたった一つ、迷わずにいられる場所のはずだった。知っている音のする、安全な部屋。今夜、その部屋の壁が、透けていることを玲司は知った。玲司の覗いている画面を壁の向こうから、誰かが、ずっと覗き返していた。
そして、玲司の頭にいちばん最後に、ユセフの顔が浮かんだ。
あの紙を玲司に渡したのは、ユセフだった。玲司が、いまなぞっている線の、最初の一本を引いたのはユセフだった。もし、この部屋の壁が透けているなら、壁の向こうの誰かは、もう知っている。この調査が、どこから始まったのかを。玲司が誰と、これを始めたのかを。
玲司は急いで、ユセフに連絡を取ろうとした。それから、手を止めた。連絡そのものが、見られている。玲司が、ユセフを心配して連絡すれば、それはユセフがこの件の、玲司の相棒だと教えるのと同じことだった。
玲司は、携帯を机に置いた。置いたまま、しばらくそれを見ていた。ユセフに逃げろ、とも、気をつけろ、とも言えない。言えば、それが、ユセフを指すことになる。玲司は、生まれて初めて誰かを守りたい、と思った。そして、同じ瞬間に守る方法が何もない、ということも知った。玲司の力は遠くの、見えないものを見つけることには長けていた。すぐ隣にいる、たった一人を守ることには、まるで役に立たなかった。
玲司は、初めて自分の力をうらやましいとも、こわいとも思った。玲司は、数字をつなぐことができる。誰も見ていないものを、見つけることができる。ただ、その力は玲司が見た瞬間に、玲司が何を見たかを相手にも、教えてしまう。
画面の中で、コンソーシアムの図は静かに光っていた。
玲司は、その図を消さなかった。消せば、消したことも、見られる。玲司は図を開いたまま、椅子の背に体を預けた。冷却ファンの音がいつもの、あの音が今夜だけは誰かの息のように聞こえた。
第十四章 近づく足音
監視に気づいてから、玲司の日々は二重になった。
昼、玲司はいつも通り、国の設計者だった。水の次の、電力の計画を進める。会議に出て、報告を上げる。ファイサルの机に玲司の図が、静かに積まれていく。ただ、その裏で玲司は、線のつながらない一台の中で、コンソーシアムの調べを続けていた。ユセフの紙を証拠に変える作業を。表と裏。玲司は、その二つを一日の中で何度も、行き来した。
行き来するたびに玲司は、足音を聞くようになった。
実際の足音では、ない。数字の中の、足音だった。玲司がある地区の、消えた記録に近づく。すると数日後、その記録への、アクセスが制限される。玲司がある企業の、土地の取引をたどる。するとその取引の、いちばん奥の部分がいつのまにか、閲覧できなくなっている。玲司が一歩、進むたびにその一歩の、少し先で誰かが扉を閉めていた。玲司の進む速さと扉の閉まる速さが少しずつ、近づいていた。
玲司はそれをこわいとは思わなかった。
こわがっている暇がなかった、というほうが正しい。玲司は、ただ、扉が閉まるより、速く、進もうとした。閉まる前に、必要な記録をあの一台の中に写し取る。玲司と見えない相手の、競走だった。ただ、その競走の、相手の顔が玲司には見えなかった。顔の見えない相手と走るのは走っても、走っても、追いつかれているような、感覚だった。
一度間に合わなかったことがある。玲司がある町の、水の割り当ての、五年ぶんの記録にたどり着いた夜だ。開いた瞬間、玲司はそれが、探していたものだと分かった。この記録があれば、割り当てが、意図的に絞られていたことが証明できる。玲司は急いでそれを、あの一台に写しはじめた。半分、写したところで、画面が暗くなった。残りの半分は、二度と開かなかった。玲司の手元には意味のない、前半だけが残った。証拠は、いつもいちばん大事なところで、指の間からこぼれた。玲司はその夜、写し取れた前半を何度も見返した。前半だけでは、何も証明できなかった。ただ、玲司は、それを消さなかった。いつか、後半に、もう一度たどり着く日のために。
変化は玲司の周りからも、起きた。
施設の、玲司のチームから、人が減りはじめた。転属、という言葉で一人、また一人と静かにいなくなる。理由は、告げられなかった。ある朝、来たら、隣の席が空いている。それだけだ。残った者は玲司と、目を合わせなくなった。玲司が近づくと話し声がやんだ。玲司の周りから、少しずつ、空気が、抜かれていくようだった。
玲司はそれが、何を意味するのかを考えた。
誰かが玲司を、一人にしようとしている。一人にしてから、どうするつもりなのか。二つ、考えられた。一つは玲司を孤立させて、動きを封じること。もう一つは――玲司は、そのもう一つを考えて、ユセフの顔を思い浮かべた。玲司の隣には、まだユセフがいた。ユセフだけは変わらず、玲司の隣に立っていた。もし、玲司を本当に、一人にしたい者がいるなら。その者が次に手を伸ばすのは。
玲司は、その先を考えるのをやめた。考えたく、なかった。
ただ、やめても、その考えは夜、勝手に戻ってきた。玲司はユセフに、警告すべきだろうか。危ないかもしれない、と。ただ、玲司が、ユセフに警告するということは玲司と、ユセフのつながりを見ている相手に、はっきりと教えることになる。この二人は組んでいる、と。玲司が、ユセフを心配して動けば、その動きこそが、ユセフを指さす矢印になる。玲司は、動けなかった。守りたい相手がいるのに守るための、どの動きも、その相手を、危険に近づけてしまう。玲司は、生まれて初めて自分の頭のよさが、役に立たない場所に立っていた。数字は、いくらでも読めた。ただ、隣にいる、たった一人を、どう守ればいいのかは、どの数字にも書いていなかった。
いま、この物語は少しだけ、玲司の見ていない場所へ移る。
サミットのある国の、ヘリックス・グローバルの、地域本部。その、いちばん上の階の、静かな部屋に一人の男がいた。名をロス、といった。ロスは窓の外の、ガラスの塔の群れを見下ろしていた。塔の一つは、ヘリックスのものだった。ロスの机の上には一枚の、報告書が置かれていた。
報告書の、題はそっけなかった。ある地区の、給水率の異常な照会について。
中身は、こうだ。国家戦略AIプロジェクトの、若い設計者がこの数か月、国の記録の、奇妙な場所に繰り返し、アクセスしている。改革の仕事とは、関係のない場所に。消えた地区。減らされた予算。名簿から消えた人の数。設計者はそれらを一つずつ、たどっている。
ロスはその報告書を二度、読んだ。
ロスは、驚かなかった。ロスはめったに驚かない。ロスの仕事は驚くことではなかった。起こりうることをすべて、あらかじめ、勘定に入れておくこと。それが、ロスの仕事だった。この、若い設計者がいつか、消えた地区に気づくことも、ロスは、勘定に入れていた。人はいつか、気づく。気づく人間はいつの時代にも、一定の割合で生まれる。ロスたちの仕組みはその一定の割合の、気づく人間をいつも想定して、作られていた。
気づく人間が現れたら、どうするか。
ロスたちの、答えは決まっていた。消す。ただし、派手には消さない。事故のように。病のように。あるいは、もっと静かに。転属。退職。失踪。方法はいくつも、あった。どれを使っても、あとには何も、残らない。統計に小さな染みが一つ、増えるだけだ。その染みは、すぐに次の月の数字に上書きされる。
ロスは、その手際を芸術だとは思わない。むしろ、退屈な事務だと思っている。派手に殺す者は二流だ、と、ロスは考えていた。派手さは、痕跡を残す。痕跡は、疑いを生む。疑いは、いちばんのコストだった。ロスたちの、本当の商品は石油でも、電力でもなかった。「当たり前」だった。世界が明日も、今日と同じように回る、という、その安心。人々が疑わずに金を動かし、物を買い、ローンを組む、そのなめらかさ。ロスたちは、そのなめらかさを売っていた。一つの派手な死がそのなめらかさに傷をつける。だから、ロスは、いつも静かに処理した。誰も気づかないように。誰も疑わないように。世界が明日も、なめらかに回りつづけるように。
ただ、この設計者だけは少し勝手がちがった。
この少年は世界に顔が知られていた。サミットで国を変えた、若き天才。いま、この少年を事故にすれば、世界は、その事故を素直には信じない。少年が、暴こうとしていたものと、少年の死を結びつけて、考える人間が出てくる。それはロスたちの、いちばん嫌う、事態だった。人が、疑いはじめること。当たり前を当たり前として、飲み込まなく、なること。
ロスは、しばらく考えた。
直接、少年に触れるのは、まだ早い。ロスは、そう判断した。代わりにロスは少年の、周りから、始めることにした。少年を支えているものを一つずつ、外していく。仲間を減らす。逃げ場を塞ぐ。そして、少年に、一つのことを思い知らせる。お前が進むたびにお前の周りの、誰かが消える。お前の探究には、値段がある。その値段をお前ではなく、お前の周りの人間が払う。
それがいちばん、応える。ロスは経験から、それを知っていた。志のある人間は自分の命では止まらない。ただ、その志のために隣の誰かが死ぬとなるとたいてい止まる。
ロスは報告書の、一つの名前に印をつけた。
設計者の、いちばん近くにいる、人物。プロジェクトの、主任技術者。名をユセフ・ハラフ、といった。地元の生まれ。妻と、二人の子ども。この男を通じて、少年は現場の、細かな記録に手が届いていた。この男がいなくなれば、少年の手足は半分、もげる。それに――と、ロスは、報告書の、続きを読んだ。この技術者自身も、この数年、独自に、おかしなものを嗅ぎ回っていた。二重の、意味で始末する価値があった。
ロスはその名前の横に、短い一言を書き添えた。
筆跡は、丁寧だった。急いでも、いなかった。ロスにとって、それは何度も、してきたことの、一つにすぎなかった。書き添えたのは、こういう言葉だった。自然な形で。
自然な形で。その四文字が、どういう手順に翻訳されるのかをロスは、いちいち指示しない。指示しなくても、下の者たちがうまくやる。ロスは、ただ、方向を示すだけだ。あとは、仕組みが勝手に動く。誰が、実際に手を下すのかも、ロスは知らない。知らなくて、いい。知らないことが、ロスを守った。ロスの手は、いつもきれいだった。ペンより重いものを持ったことがない。それでも、ロスのペンはこれまで何人もの人間を、統計の染みに変えてきた。ペンは剣より静かでそして、剣より、たくさんの血を流さずに人を消した。
ロスは、ペンを置いた。窓の外の、塔が夕日を受けて、赤く光っていた。ロスは、その光をしばらく見ていた。罪の意識は、なかった。ロスは自分を悪人だとは思っていない。ロスは、ただ、仕組みの、一部だった。歯車が、回るのを助けているだけだ。歯車を止めようとする、砂粒を取り除く。それは悪ではない。整備だ。ロスはそう、信じていた。信じていられるようにロスは四十年かけて、自分を作り替えてきた。
ロスにも、若いころがあった。その話はロス自身、めったにしない。ただ、ロスも、かつては正しさ、というものを、信じていた時期があった。世界を少しでも、よくしたい。そう思って、この業界に入った。いつ、どこで、それを手放したのか。ロスには、はっきりとは思い出せない。たぶん、少しずつだ。一つ、目をつぶる。次に、また一つ。つぶるたびに、少し楽になる。楽になった先に、いまのロスがいた。ロスはあの少年の、まっすぐな目を報告書の写真で見た。見て、ほんの一瞬だけ、遠い昔の、何かが疼いた。ロスは、その疼きを無視した。無視するのも、四十年で、うまくなっていた。
同じころ。玲司は施設でユセフと、明日の打ち合わせをしていた。
ユセフはいつものように笑っていた。次に回る町の話をしていた。あそこの水道は古いから、気をつけないとな、と。玲司は、うなずいた。玲司は、まだ知らなかった。遠いガラスの塔の、いちばん上で一枚の報告書に、ユセフの名前の横に印が、つけられたことを。
打ち合わせのあとユセフは玲司に、コーヒーを淹れてくれた。施設の、まずいインスタントコーヒーだ。ユセフはそれでも、丁寧に淹れた。砂糖を二つ。ユセフは玲司が、甘いのが好きなことを、いつのまにか覚えていた。玲司はそれを、当たり前のように受け取った。当たり前のように飲んだ。人は、いちばん大事なものを、いつも当たり前の顔をして受け取る。それが、当たり前でなくなる日が来るとは思わずに。玲司が、ユセフの淹れたコーヒーを飲むのは、その日が最後だった。玲司は、それを知らない。ユセフも、知らない。二人とも、ただ、まずいコーヒーを飲んでいた。いつもの、夕方だった。
その夜、玲司はあの一台の前でまた、足音を聞いた。
いつもの、数字の中の足音だ。ただ、その夜の足音は少しだけ、これまでとちがって、聞こえた。玲司の記録に近づく足音では、なかった。玲司の、少し横のほうへ。玲司ではない、誰かのほうへ。回り込んでいく足音だった。玲司は、その方向を確かめようとした。確かめる前に画面が一つ、暗くなった。またアクセスが、制限されたのだ。玲司は舌打ちをして、別の入口を探した。玲司はその夜、その足音の、向かった先に、誰がいるのかを最後まで気づかなかった。
気づいたのは、数日後。ユセフが電話に、出なくなってからだった。
第十五章 事故
次の日から、玲司は調べ方を変えた。
国のサーバーは、使わなかった。あそこで何を検索しても、壁の向こうの誰かに筒抜けになる。玲司は、日本から持ってきた、あの一台のパソコンを机の奥から出した。AIONの核だけが入った、線のつながっていない一台だ。玲司はそれを、どのネットワークにもつながないまま動かした。調べたことが、外に漏れないように。
ユセフとは施設の中では、その話をしなかった。二人は、昼休みに建物を出て、歩きながら話した。人の多い、市場のそばだ。雑踏の音が、二人の声を隠してくれた。玲司は、生まれて初めて誰かと声をひそめて、何かを分け合った。妙な感覚だった。こわいのに、一人ではないというだけでそのこわさが半分になった。
歩きながら、ユセフは玲司に、家族の写真を見せた。妻と、二人の子ども。上の子は、そろそろ字が書けるようになった、という。ユセフは、その写真を見せるとき、少し照れたように笑った。玲司は写真の中の、小さな手を見た。この子たちのためにユセフは、この国に帰ってきた。この子たちに飲ませる水のために、玲司の図をパイプに変えた。玲司はそれまで、自分の引く線の先に、こういう顔があることを、あまり考えたことがなかった。ユセフは玲司に、線の先を見せてくれる人だった。
「危ないことは、もうやめませんか。」
玲司は、めずらしく、自分から言った。
ユセフは、また笑った。
「お前が、それを言うのか。いちばん、やめられない男が。」
玲司は、返せなかった。ユセフの言う通りだった。玲司も、ユセフも、分かってしまったものを、分からなかったことにはできない性分だった。二人は、似ていた。それが少しだけ、うれしかった。それがあとで、いちばんこたえた。
ただ、玲司には一つ、片づかないことがあった。
AIONの核は玲司の頭の中と同じものだ。玲司の考え方の癖が、そのままコードになっている。そして、そのコードの、いちばんもとになったものの所有権は国家にある。契約書の、あの一行。つまり、相手は、玲司が次に何を考えるかを玲司の作った道具で先に読める。玲司が、どんなに隠れて調べても、玲司の「調べ方」そのものが、相手の手の中にあった。玲司は、自分の影から逃げているようなものだった。
それでも、二人は一つの、確かなものにたどり着いた。
ユセフが古い知り合いから、一枚の書類を手に入れてきた。ある土地の、売買の記録だ。三年前に消えた、あの港町の、すぐ隣の土地。その土地は、町の人口が減りはじめる半年も前にある会社に、安く売られていた。買ったのは、ヘリックスの子会社だった。
半年前。町が、まだ生きていたときだ。人がまだそこで暮らしていたときに、その土地は、もう「消えたあと」の値段で売られていた。
誰かが、その町が消えることを、半年前から知っていた。知っていて、安く土地を仕込み、それから、町を消した。玲司の見つけていた「順番の逆」が、この一枚の紙で、証明された。
玲司はその紙を見て、勝った、とは思わなかった。
証拠は、手に入った。ただ、玲司は気づいていた。この仕組みは、証拠で倒れる仕組みではない。証拠を出せば、相手はその証拠を消す。証拠を出した人間ごと、消す。二万人の町を一晩で消せる相手にとって、一枚の紙も、一人の人間も、同じ、消せるものだった。
玲司は、その紙をパソコンの、いちばん奥にしまった。使えない証拠をそれでも、玲司は捨てなかった。いつか、この一枚が誰かに届く日が、来るかもしれない。その日まで、玲司が生きていられるかどうかは分からなかった。玲司は、初めて自分の命の長さのことを少しだけ考えた。これまで玲司にとって、明日は、いつも当たり前に来るものだった。いまは、ちがった。玲司の調べているものは人を、明日から消すことができる仕組みだった。玲司も、その消される側にいつでも移れる。
玲司は、ファイサルに会いに行った。
ひさしぶりに見るファイサルは、少し痩せて見えた。玲司が、書類のことを遠回しに切り出すとファイサルは、最後まで黙って聞いた。それから、静かに言った。
「それ以上は、言うな。」
玲司は、ファイサルの顔を見た。ファイサルは、驚いていなかった。玲司の見つけたものをファイサルは、もう知っていた。ずっと前から、知っていた。
「あなたも、知っていたんですか。」
「知っている。」
ファイサルは、隠さなかった。
「知っていて、私は、この国を選んだ。この国が生き延びるためには、コンソーシアムの配る未来に乗るしかない時期があった。乗るために私は、いくつかのことに目をつぶった。目をつぶった数を私は覚えている。忘れたことは、一度もない。」
ファイサルは、しばらく窓の外を見ていた。
「十二年前だ。」
ファイサルは、ぽつりと言った。
「北に、小さな漁村があった。コンソーシアムのモデルがそこを切り捨てる、と告げてきた。私は、その村を守ろうとした。守ろうとして、負けた。守ろうとしたことで私はこの国の、もっと大きな部分を危うくしかけた。だから、次からは、守ろうとしなかった。目をつぶるほうがこの国のためだと、自分に言い聞かせた。」
ファイサルの声は、静かなままだった。ただ、その静けさは、あきらめの静けさだった。長いあいだ、自分をだましつづけた人間の声だった。
「君を見ていると、あのときの、私を思い出す。守ろうとして、負ける前の、私を。」
ファイサルは、玲司の目をまっすぐに見た。
「私は、君に賭けた。君なら、目をつぶらずに、この国を生き延びさせられるかもしれない、と思った。だから、君を守る。ただ、」
ファイサルは、そこで、いちど言葉を切った。
「私が守れるのは、君だけだ。君の周りの全員は、守れない。」
玲司は、その言葉の意味をそのときは、まだ半分しか分からなかった。分かったのは、その日の夜だった。
ユセフが、電話に出なかった。
玲司は最初、気にしなかった。ユセフは、忙しい男だ。ただ、夜になっても、次の朝になっても、連絡がつかなかった。玲司は、いやな予感を、数字にできないまま抱えていた。
玲司は、その予感を打ち消そうとした。数字にならないものを、玲司はいつも信じないことにしてきた。予感は、データではない。データでないものに振り回されるのは、玲司の流儀ではなかった。玲司は、そう自分に言い聞かせて、パソコンに向かった。向かって、一行も進まなかった。画面の中の数字が、いつもの意味を持ってくれなかった。玲司は、初めて数字が頼りにならない夜を過ごした。
昼前に施設の誰かが、玲司に教えてくれた。
ユセフが亡くなった、と。
玲司はその言葉を、すぐには意味として受け取れなかった。亡くなった。音としては、聞こえた。ただ、その音が、ユセフという人間と結びつくまでに、少し時間がかかった。昨日、ユセフは、家族の写真を見せて、笑っていた。上の子が、字を書けるようになった、と言っていた。その男が、亡くなった。玲司の頭はその二つを、同じ一人の人間の話として、うまく並べられなかった。
昨夜、海沿いの道で、車がガードレールを越えた。単独の事故だという。カーブを曲がりきれなかった。運転を誤った。そう記録されていた。
玲司は、その説明を聞いていた。聞きながら、頭の隅でいつもの癖が勝手に動いた。ユセフの運転を玲司は、何度も助手席で見ていた。ユセフは、あの海沿いの道を何百回も走っていた。この国で生まれ、この国で育った男が、自分の育った道のカーブを曲がりきれない。その確率を玲司は、頭の中ではじいた。
低すぎた。
玲司は、その低すぎる確率を誰にも言わなかった。言っても、事故は、事故のまま記録される。二万人の町が、自然に人口を減らした、と記録されたのと同じだ。この仕組みは、人を撃たない。刺しもしない。ただ、事故の確率を少しだけいじる。ありえないことを、ありえることの範囲にそっと押し込む。そうして、誰にも証明できないやり方でじゃまな者を、統計の中にしまい込む。ユセフは、殺されたのではなかった。ユセフは、事故にされた。
玲司はその日、施設の、自分の席に、ずっと座っていた。
誰も、玲司に話しかけなかった。玲司の前で何人かが、事故は悲しいことだ、と言い合っていた。悲しい。玲司はその言葉を、うまく自分のものにできなかった。悲しい、では足りなかった。もっと体の芯のほうが、動かなくなるような、重いものだった。
ユセフは玲司に、水を見せてくれた。数字の向こうに顔があることを教えてくれた。一緒に数えてくれ、と頼んでくれた。その、ただ一人がいなくなった。事故、という、たった二文字でいなくなった。
玲司は、あの二万人が消えた町のことを思い出した。あのとき、玲司はその月の、その町のニュースを探して、何も見つからなかった。二万人が消えても、記事は一つもなかった。
玲司は、ユセフの名前を検索した。
小さな、事故の記録が、一つ出てきただけだった。名前と日付と単独事故、という言葉。それだけだ。この国の水を、生まれて初めて飲んだ男の、三十年、道路を作りつづけた男の、その一生が、記事にもならなかった。ユセフもまた、一行に片づけられていた。
玲司の頬を何かが伝った。玲司は、それを拭わなかった。
葬儀のことは玲司はあとから聞いた。行くことは、できなかった。玲司が行けば、玲司とユセフのつながりを、みんなの前で証明することになる。それはユセフの家族を、次の危険にさらすことだった。玲司は遠くから、その日、手を合わせた。
ただ、一度だけ、玲司は、ユセフの子どもを見た。
施設の近くの道で、偶然だった。母親に手を引かれた、小さな子だ。写真で見た、あの字を書けるようになった、という子だった。子どもは、玲司のことを知らない。玲司が、父親と何を分け合っていたかも、知らない。ただ、まっすぐに前を見て、母親の手を握って歩いていた。玲司は、その小さな手を見送った。ユセフがあの手のために、この国に帰ってきたことを玲司は知っていた。その手に玲司は、もう水しか返せない。ユセフ本人は、返せない。
玲司の机の上にはユセフの、あの紙が置いてあった。擦り切れた折り目の、手書きの記録。ユセフが何年もかけて、一人で書き溜めたもの。いまは、それを持っている人間はこの世界に、玲司ひとりになった。
玲司はこれまで空白を、埋めるために調べてきた。分からないものを、分かるようにするため。ただの、好奇心だった。
今夜からは、ちがった。
玲司は、その紙を手に取った。折り目に沿って、そっと開いた。そこに並んだ名前の、いちばん下に玲司は新しい名前を一つ、書き足したかった。ユセフ。ただ、玲司は書かなかった。書けば、この紙は、ただの、死んだ者の名簿になる。玲司は、そうはさせたくなかった。
玲司はこれまでAIONに、失敗の理由を探させてきた。うまくいかなかったことの原因を、あとから知るための道具。それが、AIONだった。 // Predict the reason for failure. 高校一年の冬に玲司が、いちばん最初に書いた、あの一行。玲司はいま、その一行の意味を、初めて裏返して考えた。失敗の理由が分かるなら、その理由を、わざと起こすこともできる。相手を失敗させる理由を先に見つけて、そこを突く。AIONはそのためにも、使える道具だった。玲司が、そう作ったわけではない。ただ、そう使えることに玲司はユセフを失って、初めて気づいた。
玲司は、ペンを置いた。代わりに、パソコンを開いた。線のつながっていない、あの一台だ。玲司はAIONにこれまで、いちども打ったことのない種類の問いを打ち込んだ。
どうすれば、この仕組みを壊せるか。
第十六章 幕間 きれいな事故
その男には名前がいくつもあった。仕事のたびに、名前を変えた。だから、ここでは名前を書かない。ただ、その日、その男が、していたことを書く。
男は朝、いつものように目覚めた。
安いホテルの、狭い部屋だ。男の仕事にいい部屋はいらない。目立たないことがいちばん、大事だった。男は顔を洗い、髭を剃り、コーヒーを淹れた。インスタントの、安いコーヒーだ。男はそれをうまいとも、まずいとも、思わなかった。味を感じる仕事では、なかった。
机の上に一枚の、紙があった。
前の晩に、届いたものだ。誰から、とは書いていない。男の仕事に差出人はいらない。紙には、ただ、必要なことだけが書いてあった。対象の、名前。ユセフ・ハラフ。年齢。職業。住所。毎日の、行動の、記録。何時に家を出て、何時に施設へ着くか。どの道を通るか。どこで、給油するか。子どもをどこの学校へ、送っていくか。すべてが几帳面に並んでいた。
そして、いちばん下に四文字。自然な形で。
男は、その四文字を見た。この四文字がいちばん、手間がかかる。ただ殺すだけなら、簡単だ。難しいのは誰にも、殺しだと、気づかせないこと。事故に、見せること。事故の中でも、いちばん、疑われない事故に。男は対象の、行動記録をもう一度読んだ。読みながら、男の頭の中でいくつもの、事故が組み立てられ、そして、消されていった。
この対象は毎晩、決まった時刻に海沿いの道を車で帰る。
男の目がその一行で止まった。海沿いの道。カーブの多い、暗い道だ。街灯は、少ない。ガードレールは、古い。そして、その時刻、対象はたいてい一人だ。男はその道を頭の中で走ってみた。何度も。どのカーブでどの速さなら、車は、ガードレールを越えるか。越えたあとどう見えれば、居眠りか、と片づけられるか。男はその計算を丁寧にした。玲司が、数字を丁寧に扱うように。男も、数字を丁寧に扱った。ちがうのはその数字の、行き先だけだった。
男はその日、海沿いの道を自分の足で歩いた。
昼のうちに、下見をする。それが、男の流儀だった。男は、問題のカーブに立って、ガードレールを手で押してみた。古い。錆びている。少し細工をすれば、あるいは細工さえ、いらないかもしれない。男は路面の、傾きを見た。夜、雨が降れば、この傾きは車を外へ流す。天気予報を男は、確かめた。三日後の夜、雨。男はその夜に決めた。
自然が、手伝ってくれる夜がいちばん、きれいだ。
下見の帰り、男は対象の家の、近くを通った。
通る、予定はなかった。ただ、道が、そこを通っていた。男は、車の速度を落とさなかった。落とせば、目立つ。ただ、窓の外に一瞬、対象の家が見えた。小さな家だ。庭に子どもの、自転車が倒れていた。物干しに小さな服が干してあった。ふつうの、家だった。男は、そのふつうの家を一秒だけ、見て、また、前を向いた。
男は、その一秒のことを考えないようにした。
男の仕事にいちばん、いらないものがそれだった。対象の、暮らし。対象の、家族。対象が、ふつうの人間である、という、事実。男は長い年月をかけて、それを見ない訓練をしてきた。対象は、対象だ。名前と行動記録の、集まりだ。庭の自転車や、干された小さな服は記録には載っていない。載っていないものは、存在しない。男はそう、自分に教えてきた。
ただ、その日は少しだけ、その訓練がほころんだ。
男にも、かつて、家族がいた。いまは、いない。理由は、書かない。ただ、あの干された小さな服を男は昔、どこかで、見たことがある気がした。自分の、記憶の中で。それとも、別の、対象の家で見たのだったか。男には、もう区別がつかなかった。たくさんの、対象の、たくさんの、ふつうの暮らしを男は見て、そして、消してきた。その一つ一つがいまは男の中で混ざり合って、一つの、灰色の、しみになっていた。
三日後の、夜。雨が、降った。
予報どおりだった。男は、決めておいた場所で待った。海沿いの道の、問題のカーブの、少し手前。暗がりの中で男は一台の車の、ヘッドライトが、近づいてくるのを見た。時刻も、車種も、記録どおりだった。対象はその日も、一人だった。仕事の帰りだ。少し疲れて、いるだろう。雨の、暗い道。男の、しておいた、ささやかな細工。あとは自然が片づける。
その先のことは、書かない。
ただ、記録にはこう、残った。深夜、海沿いの道で単独事故。運転者、死亡。カーブを曲がりきれず、ガードレールを越えて、転落。飲酒は、なし。事件性は、なし。雨による、スリップと居眠りの、可能性。ありふれた、事故だった。その週、その国で起きた、いくつもの交通事故の、一つ。統計の、小さな、一行。
男はその夜のうちにその国を出た。
空港で、コーヒーを飲んだ。またしても、まずい、インスタントコーヒーだ。男はそれをうまいとも、まずいとも、思わなかった。ただ、その一口を飲んだとき、男の頭にふとあの庭の自転車が浮かんだ。倒れた、子どもの、自転車。男は、その像をコーヒーと一緒に飲み下した。飲み下せば、消える。長年、そうやって、消してきた。今回も、消えるはずだった。
消えなかった。
男は、それを疲れのせいだ、と思った。歳の、せいかもしれない。男は、もう若くなかった。この仕事をあと何年、続けられるか。男は搭乗を待つ椅子でぼんやりと、そんなことを考えた。誰も、男の顔を覚えていない。男自身、自分の、本当の名前をもううまく、思い出せなかった。名前をいくつも、使ううちに本物がどれだったか、分からなくなっていた。名前のない男が、名前を消す仕事をして、名前のない場所へまた、消えていく。
飛行機が、飛び立った。
眼下でその国の、灯りが、遠ざかっていった。その灯りの、どこかにたったいま、一つ、消えた灯りがあった。男にはそれがどの灯りだったか、分からない。分かる必要も、なかった。ただ、男は窓に額をつけて、その遠ざかる灯りをしばらく見ていた。いつもは、しないことだった。男はなぜ、そうしているのか、自分でも、分からなかった。
同じころ、遠い施設で一人の少年が、電話をかけていた。
何度も、何度も。出ない相手に。少年は、まだ知らなかった。その相手が、もうこの世の、どの灯りにも、いないことを。男はそれも、知らなかった。知っていても、何も、変わらなかった。男は、ただ、次の紙が、届くのを待つだけの、男だった。きれいな事故をまた一つ、作るために。世界がなめらかに、回りつづけるために。
第十七章 逆算
ユセフがいなくなってから、施設は静かになった。
もともと玲司の周りは人が減っていた。ユセフが、最後の一人だった。その一人がいなくなって、玲司の席の周りには、誰も座らなくなった。玲司が通ると、話し声がやむ。玲司が去ると、また始まる。玲司は透明な壁の内側に、一人で置かれているようだった。
一度玲司は食堂のトレイの、自分の両隣が、いつも二席ずつ空いているのを数えたことがある。偶然ではない。人は、危ないもののそばには座らない。玲司が危ないのではない。玲司の、そばが危ないのだ。玲司と口をきいた人間が、次にどうなるかをみんな、ユセフで見てしまった。玲司は、それを責められなかった。玲司自身、隣の誰かを、もう巻き込みたくなかった。
玲司は、仕事を止めなかった。表向きは水の次の、電力の計画を進めていた。予定通りの図を引き、予定通りの報告を上へ上げた。ファイサルの机に玲司の図が、静かに積まれていく。玲司はその報告の中に何一つ、本当のことを書かなかった。玲司が本当に考えていることは、線のつながっていない、あの一台の中にしか、なかった。
玲司は、二つの計画を同時に動かしていた。昼のあいだ、国のサーバーの上で動かすのはまっとうな、電力の改革だ。誰が見ても、非のうちどころのない、正しい計画。玲司はそれを、いつも通り丁寧に作った。手を抜かなかった。抜けば、疑われる。玲司の本当の狙いは、その非のうちどころのなさの内側に隠れていた。
夜、線のつながらない一台の前で玲司は、もう一つの計画を育てた。名前は、まだなかった。ただ、玲司は、その計画のことを頭の中でユセフの紙、と呼んでいた。ユセフが、何年もかけて集めた違和感を証拠に変え、その証拠を、世界の見ている前で爆発させる計画。玲司はその爆発の、最初の火花をどこに置くかを毎晩、探していた。
玲司は、泣かなくなった。
ユセフのことで、いちど頬を濡らして、それきりだった。涙は玲司の中で、別のものに変わっていた。もっと硬くて、冷たいものだ。玲司はその硬いものを、うまく名前で呼べなかった。悲しみとも、怒りとも、少しちがう。ただ、それは玲司を朝、起こした。眠らせなかった。玲司をあの一台の前に、座らせつづけた。
ユセフの葬儀の数日後、ファイサルがめずらしく、玲司のところに来た。
ファイサルは、何も聞かなかった。ユセフのことも、事故のことも、口にしなかった。ただ、玲司の向かいに、少しのあいだ座っていた。それから、立ち上がりぎわに一つだけ言った。
「私は、あの事故の報告書に、判を押した。」
玲司は、顔を上げた。
「押さなければ、私が、次に、報告書に載る側になる。私は、押した。押して、この国に残った。」
ファイサルの声は、いつもの静けさだった。ただ、その静けさの底に玲司は、初めて震えのようなものを聞いた。ファイサルは、玲司に詫びていた。詫びながら、詫びる資格が自分にはない、と分かっていた。だから、詫びの言葉は使わなかった。ただ、判を押した、という事実だけを、玲司の前に置いていった。
「君に、止まれ、とは言わない。」
ファイサルは、ドアの前で言った。
「私には、もう止まれと言う資格が、ない。」
玲司はこの数日、一つのことだけを考えていた。
どうすれば、この仕組みを壊せるか。
証拠では、無理だった。証拠を出せば、証拠ごと消される。力でも、無理だった。玲司には、力がなかった。国も、軍も、金も、玲司の側にはない。正面からぶつかれば、玲司はユセフと同じ、単独事故の記録になる。
玲司は、思いつくかぎりの手を頭の中で並べた。世界に、全部を公開する。逃げて、どこか別の国の政府に駆けこむ。記者に、資料を渡す。どれも、玲司は、AIONに通してみた。AIONの出す成功確率は、どれも一桁だった。公開しても、情報は、洪水の中に沈められる。逃げても、逃げた先の政府も、コンソーシアムの配る未来に乗っている。記者に渡せば、記者が、次の単独事故になる。相手は、玲司が思いつく手を玲司より先に全部、想定していた。当たり前だった。相手は、玲司の作った道具で、玲司の考えを読んでいるのだから。
玲司は相手の、いちばん強いところを探した。玲司の癖だ。壊れているところではなく、いちばんうまくいっているところを探す。
コンソーシアムの、いちばん強いところ。それは金でも、情報でもなかった。
信用だった。
世界じゅうが、同じ未来を信じている。だから、その未来の通りに金が動く。人が動く。国が動く。コンソーシアムは、命令を出しているのではない。ただ、みんなに、同じ未来を信じさせているだけだ。その信用の上に、すべてが乗っている。
ということは、と玲司は思った。
もし、その未来が一度でも、みんなの見ている前で外れたら。誰の目にも、はっきりと外れたら。世界は、その未来を信じられなくなる。信じられなくなれば、コンソーシアムの配る未来は、ただの紙切れになる。証拠で倒すのではない。外して、みせる。
玲司は、それをこう考えた。世界が明日、雨が降る、と、みんなで信じている。傘をみんなが買う。傘の会社の株が、上がる。町じゅうが、雨の準備をする。もし、そこで晴れたら。ただ晴れるのではなく、雲一つない青空が広がったら。人は次の日から、その天気予報を信じない。コンソーシアムのやっていることは、天気予報と同じだった。ちがうのは、その予報が当たるように、みんなを動かしている、ということだけだ。玲司がやろうとしているのは一度だけ、その予報を、誰の目にも明らかに外すこと。予報が外れれば、人は自分の目で、空を見上げるようになる。
玲司はファイサルの、あの問いを思い出した。
もし、一つの国だけが、その未来から外れてみせたら、どうなる。
あのとき、玲司はその問いを、自分の空白を埋めるための、面白い問題として聞いていた。いまは、ちがう。それは、この仕組みを壊すための、たった一つの方法だった。ファイサルはずっと前から、その方法を玲司に渡していた。ただ、玲司が、それを武器として握る日が来るとはファイサル自身、思っていなかったかもしれない。
ただ、問題があった。
未来を、みんなの見ている前で外すにはAIONが要る。世界の予測がどこで、どう外れるかを先に読める道具。それは、AIONだ。ところがそのAIONの、いちばんもとになるコードは、国家のものだった。玲司の一手は打つ前から、壁の向こうに筒抜けになる。玲司が、未来を外そうとすれば、相手はそれを先に読む。
玲司はそこで手を止めた。
筒抜け。その言葉を玲司は、しばらく転がした。
見られている。玲司の考えることはすべて、相手に届く。ふつうなら、それは絶望だった。ただ、玲司はふと逆から考えた。相手に確実に届くのなら、それは相手に確実に嘘を届けられる、ということでもある。
玲司はこれまで、隠れて調べてきた。見られないように、線のつながらない一台を使ってきた。それは、まちがいだったのかもしれない。隠すのではない。見せるのだ。相手に玲司がこう動く、と信じさせる。信じさせておいて、まったく別のことをする。相手は、自分の読んだ未来を信じて、動く。その、信じたところを外す。
コンソーシアムが、世界にしてきたことを玲司はコンソーシアムに、し返すつもりだった。
やり方は、こうだ。玲司は監視されている、あの国のサーバーの上でわざと、一つの大きな計画を組み立ててみせる。この国の、次の改革の計画だ。数字も、日程も、全部、本物らしく。相手はそれを、玲司の本気の一手だと読む。読んでそれを前提に、自分たちの未来を組み直す。金を動かし、土地を仕込み、先回りをする。相手が、玲司の描いた未来を信じきったところで玲司は線のつながらない、あの一台の中で育てた、まったく別の一手を、世界の見ている前で打つ。相手の読んだ未来は、外れる。相手が、玲司の嘘に賭けたぶんだけ、その外れ方は大きく、派手になる。
計画の形が、少しずつ見えてきた。
ただ、玲司一人ではできないことがいくつもあった。玲司は、世界の予測を外してみせる、その瞬間を、世界に見せなければならない。玲司の声は、届かない。玲司は匿名の、一人だ。玲司が、いくら正しく未来を外してみせても、それを、世界に伝えてくれる者がいなければ、何も起きない。
玲司は隣の、空いた席を見た。
ユセフなら、と思った。ユセフなら、この続きを一緒に考えてくれた。ユセフには玲司にない、人とのつながりがあった。玲司は、それを持っていない。玲司は、生まれてからずっと一人で、数字と向き合ってきた。いまになって、初めて玲司は、一人であることの値段を知った。
これまで玲司は一人であることを、不便だと思ったことはあっても、こわいと思ったことはなかった。一人のほうが、速い。一人のほうが、迷わない。ずっとそう思ってきた。ただ、いま、玲司がやろうとしていることは、一人の速さでは届かない場所にあった。世界を動かすには、世界に声の届く人間が要る。玲司には、それがなかった。ユセフは、それを持っていた。玲司が、いちばん必要なときに、そのたった一つの橋がなくなっていた。
ただ、一人だけ、玲司には、心当たりがあった。
ずっと前、玲司が最初の文章を、匿名で世界に置いたとき。たった一人、返事をくれた人がいた。北欧の、研究者だ。私も、三年前に同じ空白を見た。そして、黙ることにした。そう書いてきた、あの人だ。
黙ることにした人。見つけて、こわくなって、口をつぐんだ人。玲司はその人のことを、ずっとうまく飲み込めずにいた。見つけたなら、なぜ調べないのか。なぜ書かないのか。いまは、分かる。その人も、たぶん、誰かを失ったのだ。玲司が、ユセフを失ったように。だから、黙った。
黙った人に、また口を開いてくれ、と頼むのはむごいことだ、と玲司は思った。その人は、一度こわい思いをして、静かな場所に逃げこんだ。玲司は、その静かな場所の戸を、外から叩こうとしている。もう一度あの、こわい場所に出てきてくれ、と。玲司にはその人を守る力はない。ユセフさえ、守れなかった。それでも、玲司は、その戸を叩くしかなかった。玲司一人では、この未来は外せない。玲司は、初めて自分の弱さを認めて、誰かの手を借りることにした。
連絡の取り方には、気をつけた。国のサーバーは、使わない。玲司はある、誰も見ていない、古い掲示板を思い出した。何年も前、玲司が、最初の文章を置いた、あの場所だ。あそこなら、玲司とあの研究者にしか、意味の分からない合図を残せる。玲司は、その埃をかぶった場所に、もう一度戻ることにした。すべてが始まった場所に。
玲司はその人に、もう一度連絡を取ることにした。
玲司は、あの一台の前に座った。
黙ることにした人に玲司は、何と書けばいいのか、しばらく考えた。うまい言葉は、思いつかなかった。玲司は飾らずに、ただ一行だけ打った。
あなたが黙ったものを僕は、外してみせます。手を貸してください。
送信する前に玲司は、いちど隣の空席を見た。それから、ユセフの、擦り切れた紙に、そっと手を置いた。玲司は、もう一人で数える少年ではなかった。玲司は初めて自分から、誰かに手を伸ばそうとしていた。
玲司は、送信した。
返事は、すぐには来なかった。
玲司は、画面を閉じなかった。閉じずに、待った。あの人が、また黙ったままなら、それでも、いい。玲司は一人でも、やる。ただ、玲司は、初めて一人ではない未来のほうを少しだけ、信じてみたかった。冷却ファンの音がいつものように、部屋を満たしていた。今夜はその音が、誰かの息のようには聞こえなかった。玲司は、もう見られていることを、こわがっていなかった。見られているなら、いつか、その目の前で外してみせる。玲司は、そう決めていた。
第十八章 共犯
返事は、三日後に来た。
玲司は、あの古い掲示板を毎晩開いていた。誰も来ない、埃をかぶった場所だ。
毎晩、玲司はその場所を開いて、何もないのを確かめて、閉じた。一日目。二日目。返事は、なかった。玲司は少しずつ、覚悟をしはじめていた。あの人は、もう出てこない。三年守ってきた沈黙を、玲司ごときのために破る理由はない。それでも、玲司は毎晩、その場所を開いた。開くこと自体が玲司にとって、たった一つ、できることだった。三日目の夜、そこに一行だけ、新しい書き込みがあった。玲司の合図に応える形の、短い一行だった。
――どうして、いま。
それだけだった。名前も、挨拶もない。ただ、その問いの中に、長いあいだ口をつぐんできた人間の重さがあった。どうして、いま。三年黙っていた人が、玲司に聞いていた。三年黙っていられたのになぜ、いまさら、その静けさを壊しにくるのか、と。
玲司は、飾らずに答えた。
――人が、死んだからです。僕の、たった一人の味方が。
しばらく返事はなかった。玲司は、画面の前で待った。相手がまた黙るなら、それでも仕方がない、と思った。玲司はこの人に、黙る理由があることを知っていた。
やがて、次の一行が現れた。
――私も、そうだった。三年前。
玲司はその一行だけでは信じなかった。信じることに、慣れていない。玲司は相手に一つ確かめた。三年前、あなたが、僕の文章に最初につけた返事を一字一句、そのまま書いてください。
しばらくして、返事が来た。私も、三年前に同じ空白を見た。そして、黙ることにした。一字も、違わなかった。玲司の記憶と、ぴたりと重なった。この掲示板のやり取りは当時、どこにも記録されていない。二人しか、知らない。玲司はそこで、初めて肩の力を抜いた。相手は、本物だった。少なくとも、あのとき返事をくれた、あの人だった。
それから、少しずつ、その人は話しはじめた。名前はアストリッド、といった。北欧の、小さな研究所で、経済予測のモデルを検証する仕事をしていた。三年前、アストリッドは、いくつもの国の予測が、同じ形で外れることに気づいた。玲司と、同じ空白を見つけた。そして、それを論文に書こうとした。
書きあげる前に共同研究者が一人、死んだ。
心臓の発作だった、と記録された。まだ四十代の、健康な男だった。
その男は、アストリッドの恩師だった。学生のころから、アストリッドに、数字の見方を教えてくれた人だという。休みの日にはよく、二人で山を歩いた。その人が論文の、いちばん危ないところに、名前を載せようとした矢先に山でもない、ただの、自分の部屋で倒れた。アストリッドは、その死を疑った。疑って、そして、こわくなった。論文を机の奥にしまった。それから三年、アストリッドは、当たり障りのない仕事だけをして、生きてきた。
――あなたのメッセージを見て、と、アストリッドは書いた。
――私は、三年前の自分に、戻りたくない、と思った。あのとき、私はこわくて、黙った。黙って、生き延びた。生き延びて、毎朝、鏡を見るのが、いやになった。
玲司は、その言葉を読んだ。玲司には、アストリッドを責める気持ちが、もうなかった。黙ることがどれだけの重さか、玲司も、いまは知っていた。
妙な関係だった。二人は、顔を知らない。声も、聞いたことがない。相手が、本当にどこにいるのかも、玲司には確かめようがなかった。それでも、玲司は毎晩、その古い場所へ通った。昼のあいだ、施設で誰とも口をきかない玲司にとって、夜の、その文字だけのやり取りがいつのまにか、一日の、いちばん息のできる時間になっていた。玲司は、ユセフのことを少しだけ、アストリッドに話した。アストリッドは、恩師のことを少しだけ話した。二人はそれぞれの、死んだ人のことを覚えている者どうしとして、つながっていた。
二人はそれから、毎晩、その古い場所で少しずつ話した。
玲司にないものを、アストリッドは持っていた。名前と、信用だ。アストリッドはその世界では、名の知られた研究者だった。アストリッドが何かを正しい、と言えば、少なくとも、専門家たちは耳を傾ける。玲司は匿名の、顔のない少年だ。玲司がいくら正しくても、玲司の声は誰にも届かない。アストリッドの声は、届く。
玲司は、自分の計画を少しずつ、アストリッドに話した。監視を逆に使う。囮の未来を相手に信じ込ませる。そして、本物の未来を、みんなの見ている前で外してみせる。アストリッドは、その計画を静かに聞いていた。それから、一つ、いちばん大事なことを聞いた。
――外した、その瞬間を誰が、世界に伝えるの。
玲司は、答えた。
――あなたです。
しばらく間があった。玲司はその間の中で、アストリッドが迷っているのを感じた。玲司はこの人にまた、こわい場所へ出てこい、と言っている。三年前、この人の恩師を消した相手の、まっただ中へ。
――私が、それを伝えて、と、アストリッドは書いた。――私も、恩師と同じ死に方をするかもしれない。
――します、と玲司は書いた。嘘は、つきたくなかった。――たぶん、危ないです。
返事は、少し遅れた。それから、こう来た。――正直な人ね。三年前の、あなたの文章も、そうだった。分からない、を分からない、と書いていた。私が返事をしたのは、それが理由。
玲司は、その一行を長く見ていた。三年前、玲司の、ためらいだらけの文章が、この人一人には届いていた。世界じゅうが、玲司のためらいを削り落としたなかでこの人だけが、そのためらいを信じてくれていた。
次の日から、玲司は、囮を動かしはじめた。
玲司は、国のサーバーの上で一つの、大きな計画を組み立てた。この国の、次の目玉になる、エネルギーの改革だ。太陽と風と、海の力を一つにつなぐ、巨大な計画。数字は、本物らしく。日程も、細かく。玲司は、その計画に手を抜かなかった。抜けば、相手に見抜かれる。玲司は本気で、その嘘の計画を作った。
いちばんむずかしかったのは、本気に見せることではなかった。玲司自身が、その計画を少しだけ、本当に作りたくなってしまうことだった。玲司の引いた、その嘘の改革はうまくいけば、たくさんの人の暮らしをよくするはずだった。玲司は、ときどき、これを本当にやれたら、と思った。思って、そのたびにユセフの、擦り切れた紙を見た。玲司のやるべきことは、暮らしをよくすることではなかった。仕組みを壊すことだった。
玲司はその線引きを、何度も自分に言い聞かせた。玲司の作る囮が、うまくできればできるほど、それは危なかった。うまくできた囮は、相手をだますだけでなく、玲司自身をも、だましかけた。これは、いい計画だ。これを本当にやるべきだ。玲司の中の、技術者の部分がそうささやいた。玲司はそのささやきを、聞かないふりをするのに苦労した。ユセフなら、と玲司は思った。ユセフなら、こんなとき、なんと言うだろう。たぶん、ユセフは笑って、こう言う。お前はそういう男だよ、と。玲司は、そのいない相棒の声を想像で埋めながら、囮を作りつづけた。
囮は、効いた。
数週間で玲司の作った、嘘の計画のまわりが動きはじめた。玲司の計画ではある地域が、これから大きく伸びることになっていた。するとその地域の土地が、静かに買われはじめた。買っていたのはいつもの、ヘリックスの子会社だった。相手は、玲司の描いた未来を信じた。信じて、その未来に、金を賭けはじめた。
玲司は、その動きをAIONで追った。相手が、玲司の嘘に深く賭ければ賭けるほど、その未来が外れたときの痛手は大きくなる。玲司は、罠に餌がかかっていくのを静かに見ていた。うれしくは、なかった。ただ、ユセフの紙が、少しずつ形になっていく、その手ごたえだけがあった。
ただ、一つ、玲司の想定していなかったことがあった。
囮の未来を信じたのは、ヘリックスだけではなかった。この国の、ふつうの人たちも、その未来を信じはじめていた。玲司の描いた、伸びる地域には、人が引っ越しはじめた。新しい店ができた。若い夫婦が、家を買った。玲司の、嘘の未来を信じて。玲司はその光景を見て、胃の奥のほうが重くなった。玲司が、この未来を外したとき、痛手を受けるのは、ヘリックスだけではなくなっていた。あの、若い夫婦も、玲司の嘘の巻き添えになる。
残っているのは、一つだけだった。
いつ、どこで、その未来を外してみせるか。
外し方は、派手でなければならない。誰の目にも、はっきりと分からなければならない。専門家だけが気づくような、外れ方ではだめだ。世界じゅうの、ふつうの人があれは外れた、と自分の目で分かる、外れ方。玲司は、その舞台を探しはじめた。
舞台だけでは、足りなかった。舞台の上で、何を外すのか。玲司は、それも決めなければならなかった。コンソーシアムが、いちばん自信を持って配る未来。世界じゅうが、それを疑わずに信じている、大きな予測。その、いちばん確からしいものが、いちばん派手に外れたとき、信用は、いちばん大きく崩れる。玲司はAIONに、コンソーシアムの予測の中で、いちばん多くの金と人が乗っているものを探させた。一つの数字が、浮かび上がってきた。エネルギーの、世界的な価格。石油と、その先の未来の値段だ。世界じゅうの国と企業が、その一つの予測の上に、自分たちの明日を乗せていた。玲司は、そのいちばん重い一点を外すことに決めた。
ある夜、アストリッドが玲司に一つ聞いた。
――もし、これがうまくいったら。世界が、コンソーシアムの未来を信じなくなったら。そのあと世界はどうなるの。
玲司は、すぐには答えられなかった。
考えていなかったわけではない。ただ、玲司は、その先をまだ見たくなかった。信用が崩れれば、世界は混乱する。誰も、明日を信じられなくなる。金も、人も、しばらくは迷子になる。玲司が壊そうとしているのは、たくさんの人を消してきた、悪い仕組みだ。ただ、その悪い仕組みは同時に、世界を動かしてもいた。
玲司の頭に、あの若い夫婦が浮かんだ。玲司の嘘を信じて、家を買った、あの人たちだ。玲司は、コンソーシアムを憎んでいた。人を数字にして、消す仕組みを。ただ、玲司が、いまやろうとしていることも、誰かを、自分の描いた未来の巻き添えにすることだった。ちがう、と、玲司は自分に言った。ちがうはずだ。ただ、そのちがいを玲司は、まだうまく言葉にできなかった。
――分かりません、と、玲司は正直に書いた。
――ただ、間違った未来を信じつづけるより、いちどみんなが、自分の目で、空を見上げたほうが、いいと思います。
アストリッドの返事は、しばらくなかった。それから、一行だけ来た。
――わかった。あなたが、空を外す。その空を私が、世界に指さす。
玲司は、その一行を何度か読んだ。三年、黙っていた人が、玲司の隣に立つことを決めた。玲司は、もう一人ではなかった。
玲司はAIONに、最後の問いを打ち込んだ。世界じゅうが、コンソーシアムの未来を、いちばん強く信じる瞬間はいつか。どこか。
答えは、すぐに出た。玲司の、知っている場所だった。一年前、玲司が制服を着て立った、あの壇上。世界じゅうの、金と権力が集まる、あの会議。次の、国際サミット。
玲司はそこで、空を外すことに決めた。すべてが始まった場所で。
サミットまでは、半年あった。
半年のあいだ、玲司は、二つの顔で生きることになる。昼は国のために、まっとうな改革を進める、若き設計者。夜は、その改革を丸ごと囮にして、世界の仕組みを壊そうとする、たった一人の男。玲司はその半年を、生き延びられるかどうか、分からなかった。ユセフは、もっと小さなことを調べただけで消された。玲司はいま、その何十倍も大きなことをしようとしている。
それでも、玲司はこわくなかった。正しくは、こわさより大きいものが、玲司の中にあった。ユセフが残した紙。アストリッドが破った沈黙。その二つを玲司は、もうなかったことにはできなかった。玲司は机の上の、擦り切れた紙に、いちど手を置いた。それから、囮の続きを書きはじめた。
第十九章 二つの顔
半年のあいだ、玲司は二つの顔で生きた。
昼の玲司は国の設計者だった。会議に出て、エネルギー改革の進み具合を報告する。数字を並べ、笑わない笑顔で握手をする。夜の玲司は、線のつながらない一台の前で、その改革を丸ごと外すための本物の一手を育てた。昼の計画は精巧な囮だった。夜の計画は、その囮を世界の見ている前で崩すための仕掛けだった。
二つの顔を混ぜないこと。それが、この半年の、玲司のいちばんの仕事だった。玲司は頭の中に、もう一つの、線のつながらない一台を作った。昼の玲司は夜の計画を考えない。夜の玲司は昼の顔を脱ぐ。二つのあいだに、玲司は分厚い壁を立てた。ただ、壁を立てても、漏れてくるものが一つだけあった。罪悪感だ。それは昼にも夜にも、同じ重さで玲司の底にたまっていった。
一日は長かった。昼、玲司は本物そっくりの改革を、本気で作った。手を抜けば見抜かれる。だから玲司は、実現する気のない計画に、実現する計画と同じ力を注いだ。会議で誰かに褒められるたびに、玲司の底の罪悪感が少し重くなった。夜になると、玲司はその昼の計画をどう崩すかだけを考えた。自分で建てたものを、自分で壊す設計。建てる自分と壊す自分が、一人の頭の中で毎晩すれちがった。
一度、危ないことがあった。深夜、線のつながらない一台で本物の一手を広げていたとき、ドアの外に足音がした。警備の見回りだった。玲司はとっさに画面を伏せた。足音はドアの前で止まった。数秒。玲司の心臓が打った。やがて足音は通り過ぎた。ただの見回りだった。それでも玲司は、そのあと一時間、動けなかった。見られていたらどうなっていたか。玲司はその先を考えないようにした。この半年、玲司は何度も、その「考えないようにする」をくり返していた。
玲司は痩せた。眠りは浅くなった。鏡の中の顔が、昼の顔か夜の顔か、分からなくなる朝があった。それでも玲司は止まらなかった。止まれば、今度はユセフの死が無駄になる。玲司を朝起こしたのは、使命感ではなかった。もっと硬い、名前のつかないものだった。涙が、変わったもの。玲司はそれを、まだ名前で呼べずにいた。
囮は、よくできていた。できすぎていた。
玲司の描いた嘘の未来では、ある内陸の町がこれから大きく伸びることになっていた。新しい産業が来る。人が集まる。土地が上がる。玲司がそう書いた。書いただけだ。それなのに、その町は玲司の嘘の通りに動きはじめた。
ある夜、玲司はその町の人口の動きをAIONで見た。増えていた。じわじわと、だが確かに。玲司の嘘を信じて、人がその町へ移り住みはじめていた。玲司は画面の中の、その増加の線をしばらく見ていた。線の一本一本が、引っ越してきた誰かの暮らしだった。
人だけではなかった。玲司の嘘の未来に、金も集まりはじめていた。玲司がAIONで追うと、その町の土地を静かに買っている会社があった。ヘリックスの子会社だった。相手は、玲司の描いた未来を本物だと信じて賭けはじめていた。玲司はそれを見て、罠に餌がかかる手ごたえを感じた。うれしくはなかった。餌の上に、あのカフェの灯りが乗っていたからだ。玲司は、敵をはめる同じ網で、知らない誰かの暮らしまでからめとっていた。
玲司はその町へ行ってみることにした。
ユセフなら、そうした。数字で分からないものは現場に落ちている。ユセフの声が玲司の中にまだ残っていた。玲司は、自分の嘘が現場でどんな顔をしているのかを、見ておかなければならない気がした。見るのがこわかった。こわいからこそ行かなければならない、とも思った。
その町は、玲司の嘘で明るかった。
駅前に新しい店がいくつもできていた。工事の音があちこちで鳴っていた。人々の顔に、これからよくなる、という期待があった。玲司はその期待の中を一人で歩いた。自分が書いた未来の、まんなかを。
玲司はふしぎな気持ちだった。ここにある明るさは、全部、玲司が一台のパソコンの中で書いた数字から生まれていた。玲司の指が動かした線が、現実の工事の音になり、現実の人の笑顔になっていた。玲司は、自分にこんな力があることを、初めてこわいと思った。良いことにも悪いことにも、同じだけ効く力。コンソーシアムが持っていたのと同じ種類の力を、玲司も握っていた。ちがうのは、玲司がそれをこわいと思えることだけだった。
玲司は一軒の小さなカフェに入った。開いて間もない店に見えた。若い夫婦が二人でやっていた。妻のほうが注文を取りにきた。玲司はコーヒーを頼んだ。待つあいだ、夫のほうがカウンターの奥で豆を挽いていた。その手つきは、まだぎこちなかった。前はちがう仕事をしていたのだろう。この町の未来に賭けて、慣れない商売を始めたのだ。
コーヒーを運んできた妻に、玲司は思いきって聞いた。この町は、これからどうなると思いますか、と。
妻は笑った。よくなりますよ、と。みんなそう言ってる。大きな計画があるんですって。都会から来た、すごい人が立てた計画。わたしたちもそれを信じて、ここに店を出したんです。前の町には、もう仕事がなかったから。妻はそう言って、奥の夫を振り返った。夫も顔を上げて笑った。二人は玲司の嘘の上に、新しい生活を建てはじめていた。
前の町の話を、妻は少しだけした。海の近くの、小さな町だったという。昔は漁で栄えたが、いつのまにか仕事が消えた。理由は誰にも分からなかった。気づいたら、人が減っていた。だから二人はその町を出た。そして、伸びると言われたこの町へ来た。今度こそ、消えない町で暮らすために。玲司はその話を黙って聞いた。二人が逃げてきた町も、二人がたどり着いたこの町も、同じ一つの手で形を決められていた。逃げても逃げても、同じ網の中だった。ただ、二人はそれを知らなかった。
玲司はそのコーヒーを飲んだ。
味はよく分からなかった。玲司の頭の中で、一つの数字が動いていた。この店が開いた日付。この夫婦がここに移ってきた時期。全部、玲司の囮が効きはじめた時期と重なっていた。この二人をこの町へ呼んだのは、玲司の嘘だった。そして玲司は、数か月後、その嘘を世界の見ている前で崩す。崩した瞬間、この町の未来は消える。この店も。この夫婦の、慣れない商売も。
玲司は、ユセフの消した町の話で聞いたことを思い出した。注文が来なくなる。人が出ていく。町が薄くなる。玲司がこれからやろうとしていることは、その逆回しのように見えて、終着点は同じだった。この町も、いずれ薄くなる。玲司の手で。
玲司はカフェを出て、しばらく歩けなかった。
玲司はコンソーシアムを憎んでいた。人を数字にして消す仕組みを。それなのに、玲司のしていることは、あの夫婦を玲司の描いた未来の巻き添えにすることだった。ちがう、と玲司は自分に言った。ちがうはずだ。コンソーシアムは、これをずっと黙ってくり返してきた。玲司は一度だけ、それを白日の下に引きずり出すためにやる。一度の痛みで、永遠のくり返しを止める。玲司はそう自分を説き伏せた。
説き伏せても、あの、ぎこちなく豆を挽く手は、玲司の中から消えなかった。
玲司は、自分の計画の成功確率を、AIONにまた計算させたことがある。世界の信用を崩す、その確率。数字は出た。ただ、その数字の下に、今はあのカフェの灯りがあった。確率が、一つの灯りを消す。玲司は、数字を以前のようには見られなくなっていた。ユセフが移した見方が、こんなときに玲司を苦しめた。顔を知らなければ、数字はただの数字だった。顔を知ってしまうと、数字は重くなる。玲司はその重さを引き受けると決めた。軽い数字で人を動かす側には、戻らない、と。
玲司は、計算をしてしまう自分がいやだった。あのカフェの夫婦は、二人。玲司が止めようとしている仕組みが、これまで消してきた人は、数えきれない。二と、数えきれない。天秤はどちらに傾くか。答えははっきりしていた。はっきりしているのがいやだった。はっきりした天秤の、軽いほうの皿に、あの豆を挽く手が乗っていた。玲司は天秤の答えに従う。ただ、軽いほうの皿を、見なかったことにはしない。見たまま、従う。それが玲司にできる精いっぱいだった。
その夜、玲司はアストリッドにそのことを書いた。
顔も知らない相手に、玲司は初めて、弱音のようなものをこぼした。僕のしていることは、あいつらと同じかもしれない。アストリッドの返事は、少し遅れてきた。
――ちがう、と私は思う。アストリッドは書いた。――あなたは、自分の崩す未来のまんなかまで、わざわざ見に行った。あなたは、巻き添えにする相手の顔を見た。あいつらは一度も見ない。見ないまま消す。顔を見て、なおやる人間と、顔を見ずにやる人間は、同じではない。あなたは一生、あの夫婦の顔を覚えているでしょう。それが、あいつらとのちがいよ。
玲司は聞いた。あなたは、どうやって生きてきたんですか。三年、黙って。アストリッドの返事は短かった。――毎朝、鏡を見ないようにして。玲司はその一行で、アストリッドが三年、どんなふうに生きたかを、少しだけ分かった気がした。見ないようにする。覚えないようにする。それが、生き延びる方法だった。玲司は、逆の道を選ぼうとしていた。見て、覚えて、そのうえで生きのびる。もっと難しい道だった。
アストリッドだけが、玲司の二つの顔を両方とも知っていた。昼の設計者の顔も、夜の、仕組みを壊そうとする顔も。施設の誰も、玲司の夜を知らない。日本の両親も、玲司がいま何をしているか知らない。顔も声も知らない、地球の反対側の一人だけが、玲司の全部を知っていた。妙な話だった。いちばん遠くにいる人間が、いちばん近くにいた。玲司は、夜のやり取りが終わると、いつも画面をすぐには閉じなかった。閉じると、また本当に一人に戻るからだった。
玲司はその言葉を何度も読んだ。慰めではなかった。ただ、覚えておけ、と言われた気がした。覚えていることが、せめてもの責任の取り方だった。ユセフの紙のように。玲司も、覚えておく側の人間になろうとしていた。
玲司は自分に一つ約束した。
この計画が終わったら。もし、生きて残れたら。あの町にもう一度来よう。あの夫婦に、何かを返そう。何を返せるのかは分からない。ただ、来るだけでもいい。顔を見に。崩した未来の、その後を見届けに。玲司はそう決めて、ようやくまた歩きだせた。
町は、まだ明るかった。玲司の嘘の灯りで。玲司はその明るさの中を、来たときとは少しちがう足取りで、駅へ戻った。背中で、工事の音が鳴っていた。未来を建てる音だ。やがて玲司が、自分の手で止める音だった。
駅のホームで、玲司は振り返って、もう一度町を見た。夕暮れの光の中で、町は生きているように見えた。玲司の嘘が、こんなにも人を生き生きとさせている。皮肉だった。玲司の本当の計画より、玲司の嘘のほうが、いまはたくさんの人を幸せにしていた。玲司はその皮肉を胸にしまった。いつか、この皮肉の代金を払う日が来る。玲司はそのことを忘れないために、ホームのその景色を目に焼きつけた。
半年は、そうやって過ぎていった。玲司の囮は日ごとに育った。信じる人が増えるほど、崩したときの痛手は大きくなる。玲司は罠を大きく派手に育てながら、その罠にかかる、顔のある人々の数も、同じだけ数えていた。敵の損と、巻き添えの損。二つの数字が玲司の中で並んで育っていった。
その夜から、玲司の二つの顔は、前より重くなった。
昼の顔も夜の顔も、同じ一つの約束を底に抱えるようになったからだ。覚えておく。そして、いつか返す。玲司はその重さを抱えたまま、また囮の続きを書きはじめた。半年の、残りを。
第二十章 幕間 ロス
ロスはその計画書を気に入っていた。
アル・ナハルの若い設計者が作った、エネルギー改革の計画だ。太陽と風と海の力を一つにつなぐ大きな構想。数字は緻密で、日程は現実的で、どこにも穴がなかった。ロスは長年、他人の計画を読んで本物と絵空事を見分けてきた。この計画は本物に見えた。本物に見えすぎる。それが唯一のひっかかりだった。
ロスのオフィスは、塔の最上階にあった。広く、物が少なく、音がなかった。ロスは電話をほとんど使わない。指示は短いメモで下へ流れ、結果だけが短い報告で上がってくる。感情の入る隙が、どこにもなかった。部下たちはロスを、冷たいとは言わなかった。冷たい、というのは、まだ人間に使う言葉だ。部下たちはロスを、仕組みの一部のように扱った。ロス自身も、そう扱われることを好んだ。
ただ、そのひっかかりをロスは深く追わなかった。追う理由がなかったからだ。
計画が本物でも偽物でも、ヘリックスは損をしない。ロスたちは、未来が当たるほうに賭けるのではない。どちらに転んでも勝てる場所に、先回りして立つ。計画が実現すれば、買った土地は宝になる。実現しなければ、安く仕込んだ土地が残る。勝つか、引き分けるか。負けはロスの辞書になかった。四十年、一度も。
ロスは、いつかの、ある国の通貨危機を思い出すことがある。国が一つ沈んだ。何百万もの人の暮らしが、一夜で半分になった。その夜、ヘリックスは過去最高の利益を上げた。沈む側にも浮く側にも、同じだけ賭けていたからだ。ロスは、その夜のことを罪とは思っていない。天気のようなものだ、と思っている。嵐が来る。船が沈む。それを当てた者が儲ける。ロスは嵐を起こしているのではない。ただ、いちばん正確に嵐を読んでいるだけだ。ロスは、そう信じていた。
ロスは部下に指示を出した。
計画で伸びると書かれた地域の土地を、静かに買え、と。目立たないように、地元の小さな会社をいくつも間にはさんで。数週間で、その地域のめぼしい土地は、ヘリックスの見えない手の中に集まりはじめた。買い集めた土地の一つに、小さな町があった。駅前に、若い夫婦が、新しいカフェを開いたばかりの町だ。ロスは、その夫婦のことを知らない。知る必要もない。盤の上では、その町は、一つの数字でしかなかった。
一度、若い部下がロスに聞いたことがある。あの町の人たちは、どうなるんですか、と。買い集めた土地の、もとの住人のことだ。ロスはその部下をしばらく見た。それから静かに言った。それは我々の仕事ではない。我々の仕事は、正しく読むことだ。読んだあとの世界まで、我々は責任を持たない。部下はうなずいた。半年後、その部下は、もう同じ質問をしなくなっていた。この仕事は、人を少しずつ、ロスに似せていく。ロスは、それも知っていた。
ロスは、その報告を満足して聞いた。
満足、というのも正確ではない。ロスはもう長いあいだ、強い感情を持たなくなっていた。ただ、盤の上で石が思った通りに動くと、収まるべきものが収まった、という静かな感覚があった。あの若い設計者が、未来を一つ描く。世界がそれを信じて動く。ヘリックスは、その動きの先回りをして、果実だけを摘む。いつもの手順だった。少年は、知らないうちに、ヘリックスのために地ならしをしてくれている。ロスには、そう見えていた。
ロスが、少しだけ読み違えていたことが、一つある。
少年は、知らないうちに、ではなかった。少年は、知っていてやっていた。ただ、それをこのときのロスは見抜けなかった。見抜けなかったのは、ロスが間抜けだったからではない。逆だ。ロスがあまりに長く勝ちつづけてきたからだった。勝ちつづけた者は、自分がはめられる、という絵を盤の上に描けなくなる。ロスの盤には、ロス自身が獲物になるマスが、初めからなかった。
ロスの一日は、数字でできていた。
朝、世界の市場を確かめる。昼、土地と企業の買収を見る。夜、翌日の値動きを、翌日の天気のように予測する。ロスの頭の中には、世界が一枚の大きな盤として入っていた。どの石をどこに置けば、どう動くか。ロスはその盤を何十年も眺めてきた。眺めているうちに、石の一つ一つがかつては人間だったことを、ロスは忘れていった。忘れることは、ロスの才能だった。石は石。地区は地区。数字は数字。そう切り分けることで、ロスは四十年、この盤の前に座りつづけてこられた。
ただ、近ごろ、その盤に、落ち着かない点が一つあった。
あの少年だ。少年の現場の手足だった技術者が、事故で死んだ。あれはロスの盤の手だった。手足を失えば、人はたいてい止まる。志のある人間でも、隣の誰かが死ねば、たいてい我に返る。それが長年の経験だった。ところが少年は止まらなかった。止まるどころか、少年の動きは、技術者の死のあと、むしろ静かに速くなっていた。
ロスは少年の動きを、監視の報告で追っていた。少年は国のサーバーの上で、次の大きな改革の計画を組み立てていた。筋のいい計画だった。ロスはその計画にも先回りして、土地を仕込ませた。少年が本気で国を立て直そうとしている。ロスはそう読んだ。悲しみを仕事で埋めようとしている若者。その仕事が大きいほど、ヘリックスの摘む果実も大きくなる。ロスは、少年が大きく動くことを歓迎していた。歓迎しながら、その計画のどこにも、自分への罠が仕込まれているとは考えなかった。考える、という発想が、ロスの盤になかった。
ただ、その数週間、ロスは一つ、妙なことに気づいていた。少年の計画ができすぎていた。穴がない。穴がなさすぎる。本物の計画には、たいてい、どこかに担当者の迷いや妥協の跡が残る。少年の計画には、それがなかった。まるで、見せるために磨き上げられた計画のようだった。ロスはそのことを、何度か報告書の余白に書きかけた。書きかけて、消した。考えすぎだ、と思った。四十年勝ってきた男の、ただの取り越し苦労だ、と。ロスは、自分の直感を、初めて信じなかった。信じていれば、結末はちがったかもしれない。
ロスはそれを、悲しみのやけっぱちだと読んだ。
大事な人間を失った若者が、仕事にのめり込む。よくあることだ。いずれ燃え尽きる。ロスはそう判断した。だから少年に、まだ直接は手を出さなかった。燃え尽きるのを待てばいい。放っておいても、やがて少年は壊れる。ロスの盤の上で、少年はもう詰んでいる。ロスには、そう見えていた。
それが、ロスの生涯でいちばん大きな読み違いになる。ただ、ロスはまだそれを知らない。
ロスは、自分の盤を信じていた。
四十年、一度も負けなかった盤だ。信じない理由がなかった。ロスは、負ける者の気持ちをもう思い出せなかった。負けたことがないからだ。負け方を知らない。負けに備えたこともない。ロスの盤は硬かった。硬い盤は、どんな手も受け止める。ただ、硬いものには一つだけ弱点がある。硬いものはしならない。しならないものは、ある一点を超えると、受け止めるのではなく折れる。ロスはその、折れる、という目を、盤の上に一度も置いたことがなかった。
負けないことは、強さに見えた。ロスも長いあいだ、そう思ってきた。ただ、負けないということは、負けを知らないということでもあった。負けを知らない者は、負けの近づく気配も分からない。足音が聞こえない。少年はいま、ロスの盤の、いちばん硬い一点に向かって、静かに歩いていた。ロスには、その足音が聞こえなかった。四十年、勝ちつづけた耳は、負けの足音を聞く訓練をしていなかった。
若いころのロスは、ちがった。
世界を少しでもよくしたい。そう思って、この業界に入った。数字の力で、消えかけた町をよみがえらせる。そういう仕事をしたかった。いつ、その志を手放したのか、はっきりとは思い出せない。たぶん少しずつだ。一度、目をつぶる。次に、また一つ。つぶるたびに仕事は楽になり、給料は上がった。気づいたときには、ロスは、町をよみがえらせる側ではなく、消す側に立っていた。ロスは、その変化を後悔とは呼ばなかった。後悔は感情だ。ロスは感情を、とうに盤の外に置いてきた。
あの少年の目を見たとき、ロスは、盤の外に置いたものが、こちらを見返してくる気がした。
少年の目は、四十年前の、鏡の中のロスの目に似ていた。まっすぐに見る目。都合の悪い数字から目をそらさない力。ロスが楽になるために捨てたものを、少年は苦しくなるために握りしめていた。ロスは少年をうらやましいとは思わなかった。ただ、少しだけこわかった。
ロスは一度だけ、盤を降りようとしたことがある。ずっと昔だ。ある町を、どうしても石にできなかった。その町に、ロスの育った家があった。ロスはその町だけは守ろうとした。守れなかった。盤は、ロス一人の情で止まるようにはできていなかった。ロスの故郷も、予測どおりに消えた。その日から、ロスは二度と、盤を降りようとはしなかった。降りられないなら、いちばん上まで登るしかない。ロスはそう決めた。少年の目は、その、降りようとした日のロスの目だった。
ロスは、よく眠れた。盤の上で何人、石に変えても、ロスの眠りは浅くならなかった。ファイサルのような男は、消した数を覚えて、夜ごと浅く眠る。ロスはちがった。ロスは覚えない。だから眠れた。覚えない者が、いちばんよく眠る。それは才能のようでいて、たぶん別の名前の何かだった。ロスはその別の名前を知っていた。知っていて、口にしなかった。口にすれば、眠れなくなるからだ。
ロスには家族がいない。友人もいない。かつては、いたのかもしれない。ただ、盤をいちばん上まで登る過程で、ロスは盤の外にあったものを、一つずつ手放してきた。いまのロスに残っているのは、盤だけだ。盤を失えば、ロスには何も残らない。だからロスは盤を守る。少年がその盤を脅かすなら、少年を盤から外す。それは仕事ではなく、ロスにとって、生き残ることと同じだった。
夜、ロスは窓の外の塔を見た。
ヘリックスの塔だ。夕日を受けて赤く光っていた。その光の下に、たくさんの名前のない町が沈んでいた。ロスが石に変えてきた町だ。ロスは、その数を数えたことがない。数えれば、それはまた人間に戻ってしまう。ロスは数えない。覚えない。それが、ロスの生き延び方だった。
ただ、あの少年は、数えるだろう。
ロスには、なぜかそれだけは分かっていた。あのまっすぐな目の少年は、ロスが数えなかったものを、一つずつ数えるだろう。石を人間に戻すだろう。ロスはその絵を、一瞬だけ盤の上に思い浮かべた。盤の上に、たくさんの顔がよみがえる絵を。思い浮かべて、すぐに追い払った。追い払うのは得意だった。
ただ、その夜だけは、追い払った絵が、少しのあいだ盤の隅に残った。たくさんの顔。名前のない町の、名前のある人々。もし、あの顔が全部、盤の上に戻ってきたら。ロスのきれいに切り分けた世界は、どうなるのか。ロスはその問いを、長いあいだ自分に禁じてきた。禁じてきたのに、少年が一人現れただけで、その問いが盤の隅で、小さく息を吹き返していた。ロスはそれを認めなかった。認めれば、負けだからだ。ロスは、負けを知らない。
ロスは次の報告書を手に取った。盤は回りつづける。ロスが止めないかぎり。そして、ロスが盤を止めることはない。止め方を、ロスはとうに忘れていた。忘れたことさえ、ロスは忘れていた。
第二十一章 前夜
半年は長く、そして短かった。
玲司は二つの顔で、その半年を生きた。昼、玲司は、国の設計者だった。囮のエネルギー改革を着々と進める。会議に出て、数字を語り、笑わない笑顔で握手をする。夜、玲司は、線のつながらない一台の前で、その改革を丸ごと外すための、本物の一手を育てた。
二つの顔は少しずつ、玲司を削っていった。玲司は、痩せた。眠りは浅くなった。鏡の中の顔がどちらの顔なのか、玲司自身、ときどき分からなくなった。
一度危ないことがあった。昼の会議で玲司はうっかり、本物の一手の数字を口にしかけた。夜の頭のまま、昼の口が動いた。玲司は、途中で言葉を飲みこんだ。会議室の、何人かが玲司を見た。玲司は、咳をしてごまかした。その夜、玲司は、二つの顔を混ぜないためのやり方を、いくつも自分に課した。昼の玲司は、本物の一手のことを考えない。夜の玲司は、昼の顔を脱ぐ。玲司は自分の頭の中に、ユセフの紙のときと同じ、線のつながらない一台をもう一つ作った。
夜の、アストリッドとのやり取りだけが玲司を、玲司のままにつなぎとめていた。二人は、計画の話ばかりしていたわけではない。ときどき、どうでもいい話もした。アストリッドの住んでいる町では、もう雪が降りはじめた、とか。玲司の日本の町の、コンビニの弁当の話とか。顔も知らない二人の、そのどうでもいい話が玲司には、いちばんの薬だった。
囮は、育ちきっていた。
玲司の描いた、嘘の未来を世界は、すっかり信じていた。ヘリックスは、玲司の計画に合わせて、大きく金を動かしていた。コンソーシアムの配る予測も、玲司の囮を織り込んで、書き換わっていた。玲司がたった一人で世界の予測の中に、一つの嘘を埋め込むことに成功していた。あとはその嘘を、サミットの壇上で外すだけだった。
玲司は、ときどき、自分のしていることの大きさにめまいがした。玲司が六畳の部屋で、弁当の廃棄を数えていたのは、もうずっと前のことだ。その少年がいまは、世界じゅうの金が乗る一つの予測の中にたった一人で、嘘を仕込んでいる。もし、これがばれれば、玲司は消される。もし、うまくいっても、玲司はたぶん消される。うまくいく側の、消され方のほうが玲司には、まだましに思えた。少なくとも、ユセフの紙はそのとき、世界の、いちばん高い場所に届いている。
季節が二度、変わった。砂漠の国にも、わずかな冬と長い夏があった。玲司はそのどちらも、ほとんど外に出ずに過ごした。世界は、玲司の囮を信じきって、サミットへ向かって動いていた。各国の代表が来る。世界じゅうの、金を動かす人間が集まる。コンソーシアムはその場でこれからの十年の、世界の未来を発表する予定だった。エネルギーの、世界価格の見通し。世界じゅうが、その一枚の予測を待っていた。玲司も、待っていた。ただし、玲司が待っていたのは、その予測が発表される瞬間ではなかった。その予測が、外れる瞬間だった。
サミットまで、あと一月というころ。
玲司のもとに、一人の客が来た。
ヘリックス・グローバルの人間だった。名前をロス、といった。歳は、ファイサルと同じくらい。ただ、ファイサルの静けさとは種類がちがった。ロスの静けさは、いつでも笑える人間の余裕だった。何が起きても、自分は損をしない、と知っている人間の顔だった。
ロスは玲司の、囮の計画を褒めた。
「見事な計画だ。あれが実現すれば、この国は変わる。我々も、あの計画には、ずいぶん賭けさせてもらった。」
玲司は、笑わない笑顔で礼を言った。ロスが、本当に何をしに来たのかを玲司は待った。
ロスはまず、玲司を誘った。
ヘリックスに来ないか、と。玲司ほどの人間が、一つの小さな国のために働いているのはもったいない。ヘリックスなら、世界じゅうのデータが玲司の手に入る。好きなだけ、未来を読める。金も、名前も、思いのままだ。ロスの言葉はなめらかでどこにも、とげがなかった。玲司は、その誘いを聞きながら、思った。この男は玲司が、いちばん欲しがるものを正確に知っている。データ。未来を読む力。かつての玲司なら、この誘いに、心を動かしたかもしれない。かつての玲司なら。ただ、いまの玲司が、いちばん欲しいものは、ロスには渡せないものだった。ユセフを生き返らせること。それだけは、世界じゅうのデータを積んでも、できない。
ロスは、しばらく当たり障りのない話をしてから、ふと、声を少しだけ落とした。
「一つ、聞いていいかな。君は、我々のことをどう思っている。」
玲司は、答えなかった。
「我々は、いつも勝つ。」
ロスは言った。自慢でも、脅しでもない口ぶりだった。ただの事実を述べる口ぶりだ。
「未来が、こうなる、と言えば、我々は、そこに賭ける。未来がそうならなくても、我々は、別の場所で儲ける。上がっても、下がっても、我々は勝つ。この仕組みを始めてから、我々は、一度も負けたことがない。」
ロスは、玲司の目をまっすぐに見た。
「だから、君が、いま、何を考えていても、無駄だ、と、言いに来た。」
玲司の背中を冷たいものが走った。ただ、玲司は、顔には出さなかった。半年、二つの顔で生きてきた。玲司はいまや、自分の顔を、数字と同じように制御できた。
「僕は、」
玲司は、静かに言った。
「この国の、改革のことしか、考えていません。」
ロスは、玲司をしばらく見ていた。それから、ゆっくりと笑った。
「そうか。ならいい。」
ロスは、立ち上がった。ドアの前でいちど振り返って、こう言った。
「ただ、一つだけ、覚えておくといい。君の、あの死んだ技術者。彼も、無駄なことをしていた。」
玲司は、動かなかった。動けなかった、というほうが正しい。ユセフのことをこの男は口にした。玲司と、ユセフのつながりを知っている。知っていて、玲司にそれを教えた。次はお前だ、と。
ドアが、閉まった。
玲司は、一人になった。手のひらが、汗で濡れていた。玲司は、その汗を握りしめた。こわさは、あった。ただ、こわさの下から、別のものがせり上がってきた。ロスは、まちがえた。玲司を脅すために、ユセフの名を使った。それは玲司を、いちばん止められない場所へ押し込む、ひと押しだった。
玲司はその夜、アストリッドに、ロスのことを書いた。ヘリックスが、玲司に目をつけた。もう後戻りはできない。玲司がそう書くとアストリッドは、少しのあいだ黙った。それから、こう返した。――こわい? 玲司は、正直に書いた。――こわいです。アストリッドは言った。――いいことよ。こわくない人は、たいてい何も分かっていない。あなたがこわいのはあなたが、何をしようとしているか、ちゃんと分かっているから。玲司は、その言葉をしばらく見ていた。こわさを責めない言葉を玲司は、久しぶりにもらった。
ロスの言葉は玲司の中に、もう一つ、置き土産を残していた。我々は、一度も負けたことがない。ロスは、それを強さとして言った。玲司は、それを逆から読んだ。一度も負けたことがない者は、負け方を知らない。負けることを想定して、備えたことがない。ずっと勝ってきた仕組みはたった一度の、はっきりした負けにいちばんもろい。ロスは自分たちの、いちばん硬いところを玲司に教えて帰った。硬すぎるものは、しならない。しならないものは、折れる。玲司は明日、その折れるところを狙う。
サミットの、前夜。
玲司は、ファイサルに呼ばれた。
ファイサルは玲司に明日の壇上で、この国のエネルギー改革を、世界に発表するよう言った。表向きの、段取りの話だった。玲司は、うなずいた。ファイサルはそれから、少しのあいだ、玲司を見ていた。
「君は、明日、何かをするつもりだな。」
玲司は、答えなかった。
「私は、聞かない。聞けば、私は、止めなければならなくなる。」
ファイサルは、窓の外の砂漠を見た。
「ただ、一つだけ言っておく。私が、十二年前に守れなかった、あの漁村。あそこの人たちはいまも、私の夢に出てくる。もし、君が明日、私ができなかったことをするのなら。」
ファイサルは、玲司のほうを見た。
「私は、君の味方だ。壇上の、下で。」
玲司は、その言葉に、うまく返せなかった。
この一年、玲司は、ファイサルを恨むべきか、信じるべきか、決めかねてきた。ファイサルはユセフの、事故の報告書に判を押した男だ。同時にいまも、玲司を生かしている男でもある。人はそんなにきれいに、味方と敵に分かれない。玲司はこの一年でそれを学んだ。ファイサルは、悪い人間ではなかった。ただ、守りたいものが玲司とは、ちがう順番で並んでいた。国が、先。人が、あと。玲司は、逆だった。人が、先。その、たった一つの順番のちがいが、二人を味方でありながら、別々の道へ立たせていた。
その夜、玲司は眠らなかった。
線のつながらない一台の中に明日、打つ一手ができあがっていた。あとはそれを壇上で、世界の見ている前で放つだけだった。玲司は、その一手を何度も見返した。まちがいは、なかった。まちがいはないのに玲司の指は震えた。
玲司は、あの若い夫婦のことを思い出した。玲司の嘘を信じて、家を買った人たち。明日、玲司がこの未来を外せば、あの人たちも痛手を受ける。玲司はそのことを、まだうまく飲み込めずにいた。
ちがいは何だろう、と玲司はまた考えた。コンソーシアムは人を数字にして、消す。玲司も、明日、たくさんの人の賭けを外す。似ている。ずっと玲司は、その似ていることに苦しんできた。ただ、その夜、玲司は、初めて一つのちがいにたどり着いた。コンソーシアムは、自分のしていることを誰にも見せない。闇の中で静かに人を消す。玲司は、逆だ。玲司は、世界じゅうの見ている前でやる。隠さない。外した未来の責任を玲司は、自分の顔とともに差し出す。それが、ちがいだった。数えられなかった人を闇に葬る者とその闇を、白日の下に引きずり出す者の、ちがいだった。
玲司はいちど隣の、いない相棒に話しかけた。
声には出さなかった。ただ、頭の中で、ユセフに報告した。明日、やります。あなたの紙を、いちばん高い場所へ連れていきます。ユセフなら、なんと言うだろう。玲司は想像した。ユセフは、たぶん心配する。危ないことは、もうやめませんか、と、あの日の玲司に言い返す。それから、笑って、こう言う。ただし、やると決めたなら、ちゃんと生きて帰ってこい、と。玲司は、その想像の中の声にうなずいた。生きて、帰る。それがいちばん、むずかしい。
玲司はアストリッドに、最後の連絡をした。
――明日、やります。
――待ってる、と、アストリッドは書いた。――世界じゅうに指させる場所で。
玲司は机の上の、ユセフの紙を手に取った。半年、この紙を見ながら、玲司はここまで来た。玲司はその紙を明日、初めて外へ持ち出すことにした。壇上へ。世界の、いちばん見えるところへ。数えられなかった人たちの名前を玲司は、いちばん高い場所へ連れていく。
夜が、明けはじめた。
窓の外で、砂漠が白んでいく。玲司は、制服を着なかった。一年前、あの壇上に、玲司は制服で立った。今日は、ちがう。今日、壇上に立つのはあのときの、何も知らない少年ではなかった。
玲司は、鏡の前に立った。鏡の中の顔は痩せて、目の下に影があった。かつて、コンビニの廃棄を数えていた少年の面影は、もうあまりなかった。玲司はその顔に、いちどうなずいた。行ってこい、という、うなずきだった。それから、ユセフの紙を、上着の内ポケットに入れた。ちょうど、ユセフが、いつもそうしていたように。紙は、玲司の胸のあたりで、かすかに音を立てた。
外では車が、玲司を待っていた。一年前、玲司を、この壇上へ初めて運んだのと同じ道を今日も行く。ちがうのは玲司が今日、そこで何をするかだった。玲司は窓の外の、白みはじめた砂漠をいちど見た。この光の下のどこかに、あの空白の正体がいる。一年前、玲司はそう思って、この国に来た。いまは、その正体を玲司は知っている。知ったうえで玲司は、もう一度その光の中へ出ていく。
玲司は、立ち上がった。
第二十二章 空を外す
会議場は一年前より、大きく見えた。
あのときと同じ、扇形の客席。同じ、光の壁。ただ、玲司の見え方が変わっていた。一年前、玲司は何も知らずに、あの光の向こうへ歩み出た。今日、玲司はその光の向こうに、誰が座っているかを知っている。国を動かす者。金を動かす者。そして、その中にまぎれた、コンソーシアムの、静かな一団。人を、闇に葬ってきた者たち。玲司はその全員の前で話す。
控室で玲司は、上着の内ポケットの、ユセフの紙に、いちど手を当てた。紙は、まだそこにあった。玲司は手元のパソコンで、アストリッドとつながっていた。画面の隅に一行だけ、文字があった。
――準備は、できてる。あなたが空を外したら、私が世界に指させる。
玲司は、返した。
――行きます。
玲司は、パソコンを閉じた。
控室の外から、拍手が聞こえた。前の登壇者が、終わったのだ。玲司の番が、近づいていた。玲司は手のひらが、また冷たくなっているのに気づいた。一年前、同じ場所で、同じ冷たさを玲司はこわさだ、と思わないようにした。今日は、ちがった。今日はこわい、と素直に思った。こわいのは、分かっているからだ。アストリッドの言葉が、玲司を支えた。
廊下で、いちどファイサルとすれちがった。ファイサルは、玲司を呼び止めなかった。ただ、玲司の顔を一瞬だけ見て、小さくうなずいた。行ってこい、とも、やめておけ、ともつかない、うなずきだった。玲司も、うなずき返した。二人はそれきり、言葉を交わさなかった。交わせば、ファイサルは、止めなければならなくなる。玲司は、それを知っていた。
サミットの目玉は、玲司の前にあった。
コンソーシアムの名で、ではない。表向きはいくつもの、名の知れた研究機関の連名で。これからの十年の、世界のエネルギー価格の見通し。世界じゅうが待っていた、一枚の予測だった。大きなスクリーンになめらかな、右肩上がりの線が映った。会場が、うなずいた。誰も、疑わなかった。この線の通りに、世界は動く。みんなが、そう信じていた。信じているから、その通りになる。
壇上で、その予測を発表したのは白髪の、品のいい男だった。どこかの、名門の研究所の所長だという。男は落ち着いた声で、これからの十年を語った。エネルギーは、こう動く。経済は、こう伸びる。世界は、こういう形になっていく。男の声には、迷いがなかった。当然だった。この男は、未来を予測しているのではない。すでに決まっている未来を、読み上げているだけだ。会場の誰もが、そのことを知っていた。知っていて、安心して、うなずいていた。決まっている未来ほど、人を安心させるものはない。
玲司の番が来た。
名前を呼ばれて、玲司は壇上に出た。一年前と同じ、照明が顔に当たる。ただ、今日は、ざわめきはなかった。一年前、制服の少年を笑った客席はいま、この一年で国を変えた男を静かに見ていた。
玲司は、マイクの前に立った。手元のスクリーンには玲司の、エネルギー改革の計画が映る手はずになっていた。半年かけて作った、あの囮だ。
玲司は、その計画を映さなかった。
スクリーンは、白いままだった。係の者が、玲司の合図を待っていた。玲司がうなずけば、囮の計画が映る。玲司は、うなずかなかった。数秒の沈黙が、会場に流れた。その数秒のあいだに玲司は、もう後戻りできない場所に、片足を踏み入れていた。ここで囮の計画を映せば、玲司は生き延びる。何事もなかったことに、できる。国の設計者として、これからも生きていける。玲司は、その安全な道をいちど頭に浮かべた。それから、その道に背を向けた。
玲司は最初にこう言った。
「今日、僕がお見せする計画は、嘘です。」
会場が、ざわついた。玲司は、続けた。
「半年前から、僕が、この国のために作ってきた、エネルギー改革。あの計画は最初から、実現するつもりのないものでした。僕が一人ででっち上げた、嘘の未来です。」
ざわめきが、大きくなった。玲司は、声を張らなかった。一年前と同じだ。静けさが、玲司の声を運んでくれるのを待った。
「そして、その嘘の未来に、この一年、世界じゅうが賭けました。土地が、買われました。金が、動きました。みなさんの使っている予測も、僕の嘘を本当のこととして、織り込みました。」
玲司は、客席の、ある一団のほうを見た。ロスがいた。ロスの、いつもの余裕は少しだけ、消えていた。
「たった一人の人間が、部屋の中で、たった一台のパソコンででっち上げた嘘に、世界の予測が、だまされた。ということは。」
玲司は、いちど間を置いた。
「みなさんの信じている未来は、誰かが読んだ未来では、ありません。誰かが書いた未来です。」
会場が、いっせいにざわめいた。何を言っているんだ、という顔。あるいはまさか、という顔。玲司は、そのざわめきの上から、言葉を重ねた。
「予測というのは、未来を当てることだと、みなさんは思っています。ちがいます。いまの予測は、未来を決めることです。みんなが、同じ未来を信じる。信じたとおりに、金を動かす。金が動けば、その未来が、本当にやってくる。予測が、現実を作っている。だから、外れない。外れないのではなく、外させない仕組みになっている。」
玲司は、ロスのいる方向をまっすぐに見た。
「僕は、その仕組みに、一つ、嘘を食べさせました。半年かけて。そして、いま、その嘘を引き抜きます。」
会場の、係の者が、玲司のマイクに手を伸ばそうとした。玲司を、壇上から下ろそうとしたのだ。ただ、間に合わなかった。玲司は、もう手元の一台に指を置いていた。この一手だけは、誰にも止めさせない。玲司は半年、そのために生きてきた。玲司は、指を下ろした。
玲司はAIONに、最後の一手を放った。
半年、囮に賭けさせた、その賭けをいま、玲司は、いちどに裏返した。玲司の、本物の一手が動いた。玲司が隠していた、本当のデータ、本当の計画。それが、世界に放たれた瞬間、囮の未来は根拠を失った。
玲司がやったことは、単純だった。半年、玲司は囮の未来に、みんなを賭けさせた。その未来が来る、という前提で、世界は動いていた。玲司は、その前提をたった一つ崩した。囮の計画は実現しない、と証拠つきで世界に告げた。すると、その未来に賭けていた金が、いっせいに逃げ出した。逃げ出した金が、コンソーシアムの予測を内側から押し倒した。玲司は、一発の弾も撃っていない。ただ、みんなが自分で、自分の信じた未来から逃げ出した。その、逃げ足の速さがコンソーシアムの、確かな未来を砕いた。
会場の、大きなスクリーンにさっきの、なめらかな右肩上がりの線が映っていた。世界が信じていた、確かな未来。
その線が、折れた。
みんなの見ている前で。エネルギーの世界価格が、コンソーシアムの予測と、逆に動きはじめた。スクリーンの数字が、赤く変わっていく。会場じゅうの、手元の端末が、いっせいに鳴りはじめた。世界じゅうの市場がコンソーシアムの、確かな未来が外れたことに気づいた音だった。
最初は、一つの端末だった。次に、十。次に、会場じゅう。着信音と通知音が重なって、大きな、ざわめきの下地になった。スーツの男たちがいっせいに、自分の端末を覗きこんだ。誰かが、立ち上がった。誰かが、電話をかけはじめた。世界じゅうの市場でいま、何が起きているのかを確かめるために。スクリーンの、赤い数字は止まらなかった。世界が、確かだと思っていた未来から、みるみるずれていった。一枚の予測がみんなの目の前で、ただの紙切れに変わっていった。
玲司は、いちど客席の前のほうを見た。ファイサルが、いた。ファイサルは立ちも、騒ぎもしなかった。まわりの人間が、端末にしがみつく中でファイサルだけが、まっすぐに玲司を見ていた。その顔に初めて玲司は、静けさ以外のものを見た。ファイサルは、泣いてはいなかった。ただ、十二年前、守れなかった漁村をこの一年、夢に見つづけた男の顔がいま、その夢の続きを見ていた。ファイサルは玲司に向かって、ほんのわずかにうなずいた。よくやった、という、うなずきだった。壇上の、下から。
会場が、揺れた。一年前の、どよめきとはちがった。あれは、驚きのどよめきだった。今日のは、こわさのどよめきだった。世界じゅうの、金と権力を握った人間たちが、初めて自分たちの信じてきた未来が崩れるのを自分の目で見ていた。
玲司は、ロスのほうを見た。ロスは、立ち上がっていた。顔から、あの余裕が消えていた。一度も負けたことのない男が初めて負ける、その顔だった。硬すぎるものは、折れる。玲司の、予想した通りだった。
ロスは、玲司をまっすぐに見ていた。憎しみでも、怒りでもない目だった。ただ、理解できないものを見る目だった。ロスの仕組みは勝つか、引き分けるか、しかなかった。負ける、という目がその仕組みには、初めから入っていなかった。だから、ロスはいま、自分の身に、何が起きているのかを、うまく飲み込めずにいた。玲司はその顔を、覚えておこうと思った。ユセフの死を無駄なことだ、と言った男の、この顔を。
玲司は、上着の内ポケットから、一枚の紙を取り出した。
擦り切れた、折り目の、手書きの紙。ユセフの紙だ。玲司は、それを開いた。そして、マイクの前で、その紙に書かれた名前を、一つずつ読みはじめた。
消された、地区の名前。消された、人の名前。世界の予測が、勘定に入れ忘れた——いや、わざと外した、人たちの名前。玲司の声は、静かだった。ただ、その静かな声が会場の、大きなスクリーンの、折れた線の下で一つずつ、名前を置いていった。
玲司は、名前だけを読んだ。説明はしなかった。ただ、名前と、その人がいた場所を読んだ。海沿いの、二万人の町。その町の、いくつかの家族の名。水を減らされた地区。仕事を打ち切られた人たち。そして、いちばん最後に玲司は、一つの名前を読んだ。
ユセフ・ハラフ。
玲司の声がそこで、初めてわずかに揺れた。会場の誰も、その名前を知らない。世界の誰も、その男が何をした人間かを知らない。ただ、玲司だけが知っていた。この国の水を、生まれて初めて飲んだ男。子どもに、その水を飲ませたかった男。玲司に、線の先を見せてくれた、たった一人の相棒。玲司はその名前を世界の、いちばん高い場所で声に出した。
「この人たちは、」
玲司は言った。
「みなさんの、正しい未来の、外側にいた人たちです。数えても得にならない、という理由で、未来の絵から消された人たちです。僕が今日、みなさんに見てほしかったのはこの名前です。」
玲司は、顔を上げた。
「未来は、数字じゃありません。未来は、この一人ずつの名前です。」
会場は、静まりかえっていた。折れた線と、少年の読み上げる名前だけが、その広い空間を満たしていた。
玲司の手元の画面にアストリッドから、一行、来た。
――世界じゅうが、見てる。いま、あなたを。
玲司はその一行を見て、初めて自分が一人ではないことを思い出した。この壇上には、玲司ひとりしか立っていない。ただ、画面の向こうで、アストリッドが見ている。世界じゅうの、名もない人が見ている。玲司の読み上げた名前の、その家族が、どこかで見ているかもしれない。玲司は、もう一人で数える少年ではなかった。
玲司は、息を吐いた。空を外した。一年、二年、玲司がたどってきたものの、いちばん高い場所に、ユセフの紙は届いた。
ただ、玲司は知っていた。ここからが、いちばん危ない。世界の未来を外してみせた少年をこれから、世界じゅうの、あらゆる力が消しにかかる。玲司は、その紙をそっとたたんだ。
会場の、後ろのほうで動きがあった。黒いスーツの男たちが静かに、通路を進みはじめていた。玲司のほうへ。急いでは、いない。急ぐ必要が、ないからだ。この会場から、玲司が逃げられる場所はどこにもない。玲司は、それを見ていた。見ていて、こわくないと言えば、嘘になる。ただ、玲司は、もうやるべきことをやり終えていた。空は、外れた。世界は、それを見た。あとから、玲司を消しても、いちど外れた空は、もう元には戻らない。人々は、もう自分の目で、空を見上げてしまった。
玲司は、まだ生きて帰らなければ、ならなかった。
第二十三章 折れた線の下で
玲司が壇上で世界の未来を外してみせた、その瞬間。世界のあちこちで、別々の人間が、同時に同じ線を見ていた。これは、その折れた線の下で起きたことの記録である。
ロンドンの取引所。
大きな画面に、サミットの中継が映っていた。制服姿の少年が何かを話している。トレーダーたちは片手間にそれを見ていた。もう一方の手で、彼らはいつもの取引を続けていた。コンソーシアムの予測の通りに。エネルギー価格はこれから上がる。みんながそう信じて、同じ方向に金を置いていた。
少年がスクリーンに一本の線を映した瞬間、部屋の空気が止まった。右肩上がりの線が折れた。中継の中でも、手元の画面の中でも、同時に。最初の数秒、誰も動かなかった。信じられなかったからだ。確かな未来が目の前で外れる。そんなことは起こらないはずだった。やがて一人が立ち上がった。次に十人。部屋じゅうの人間がいっせいに売りはじめた。確かだったものが確かでなくなった瞬間、人は我先に逃げる。その逃げる足音が、世界の価格をさらに押し倒した。
ロンドンで始まった売りは、時差を追いかけて世界を一周した。ニューヨークが起き、価格が落ちた。シンガポールが起き、さらに落ちた。一つの取引所の恐怖が、次の取引所の開く時刻を待って伝染していった。コンソーシアムの予測は、世界じゅうの市場の共通の前提だった。その前提が抜けた。前提の抜けた市場は、何を基準に値をつければいいのか分からなくなった。価格は、羅針盤を失った船のように荒れた。たった一人の少年が、一本の線を折っただけで。
東京の、小さなアパート。
一人の若い会社員が、スマートフォンでその中継を見ていた。男は半年前、全財産をある予測に賭けていた。エネルギーが上がるという予測に。コンソーシアムの配る、確かな未来に。男はそれを信じた。信じて、借金までして賭けた。いま、その未来が画面の中で折れていた。男はしばらく動けなかった。それから、ゆっくりとスマートフォンを置いた。男の手は震えていた。世界が嘘だったのか。それとも、自分が間違っていたのか。男にはまだ分からなかった。ただ一つだけ分かったことがある。もう何も信じられない、ということだった。
男は、悪いことをしていなかった。ただ、みんなが確かだと言う未来を信じただけだ。信じたことが罪になった。同じ夜、同じ中継を見て、同じように全部を失った人間が、世界に何十万人もいるはずだった。少年は大きな嘘を壊した。壊した瞬間、その嘘を信じていた人々も、一緒に床に落ちた。正しさは、いつも誰かを巻き添えにする。男は、恨む相手も分からないまま、暗い部屋に座っていた。
アル・ナハルの、内陸の新しい町。
若い夫婦の、小さなカフェ。妻がカウンターの奥のテレビで、その中継を見ていた。都会から来たすごい人の計画。二人が全部を賭けた、その計画。画面の中で線が折れた。妻には、最初、意味が分からなかった。ただ、その日の午後から、町の様子が変わった。工事の音が、一つ、また一つと止まった。土地を買っていた人たちが、急に手を引いた。新しい店の開店の予定が、次々と消えた。夜になるころには、町は昼とは別の場所のように静かになっていた。夫が豆を挽く手を止めた。これから、どうなるのかな。妻が小さく言った。夫は答えられなかった。二人はまだ知らない。自分たちの未来を折ったのが、いつかこの店に来た一人の客だったことを。
その夜、妻は、開店のときに撮った写真を見返した。二人で、慣れないエプロンを着て、ぎこちなく笑っている写真だ。あの日、二人はここでやり直せると思っていた。前の町で失くしたものを、この町で取り戻せると。写真の中の二人は、まだ何も知らずに笑っていた。妻はその写真をしばらく見てから、そっと伏せた。涙は出なかった。出るほど、まだ現実が追いついていなかった。
消えた、港町の跡。
そこにはもう、人は住んでいない。ただ、その日、一人の女が荷物を取りに戻っていた。ナディアだ。ナディアはラジオでそのニュースを聞いた。世界の予測が外れた。若い少年が壇上で、消された人たちの名前を読み上げた、と。アナウンサーが、少年の読み上げた、いくつかの町の名前を伝えた。その中に、ナディアの町の名があった。
ナディアはしばらく動かなかった。誰も覚えていないはずの町。記事にもならなかった町。その名前が、いま、世界のいちばん高い場所で読み上げられた。ナディアはその場に座り込んだ。涙が出た。悲しいからではなかった。自分たちが確かにここにいた、ということを、初めて誰かが世界に向かって言ってくれた。それが、三年たった一つの灯りを灯しつづけた女の胸をつらぬいた。
同じことが、世界のいくつもの場所で起きていた。名簿から消された、いくつもの町。そのそれぞれに、ナディアのような誰かがいた。消えた町の名が読み上げられるたびに、どこかで一人、また一人と、座り込む人がいた。自分の町が呼ばれた。自分たちがいたことを、覚えていてくれた人がいた。その人たちの灯りは、互いに見えないままだった。ただ、その夜、同じ一つの声が、散らばった灯りの全部を、同時に照らしていた。
ある国の、政策の部屋。
役人たちが、青い顔で集まっていた。この国の十年の計画は、すべてコンソーシアムの予測の上に組まれていた。その予測が外れた。計画の土台そのものが抜けた。どうする。誰かが言った。これから、何を基準に未来を決めればいい。部屋は静まり返った。誰も答えられなかった。長いあいだ、彼らは未来を自分で決めてこなかった。配られた未来に従ってきただけだ。配られるものがなくなったとき、彼らは自分の頭で未来を考える方法を、もう忘れていた。それを思い出すところから、始めるしかなかった。
ヘリックスの、塔の最上階。
ロスは、その瞬間、窓の外の塔を見ていた。報告が途切れなく入ってきた。エネルギー価格が崩れている。囮に賭けていた土地が、紙くずになりかけている。四十年、一度も負けなかった盤が、いま、ロスの目の前で折れていた。ロスは、自分の直感が正しかったことを思い出した。できすぎた計画。磨き上げられた罠。ロスはそれを見抜きかけて、自分で消した。負ける、という目が盤になかったからだ。
ロスはしばらく立っていた。それから、ゆっくりと椅子に座った。顔からいつもの余裕が消えていた。負け方を、ロスは知らなかった。だから、負けた今、どう振る舞えばいいのかも分からなかった。ロスはただ座っていた。盤が音を立てて崩れていくのを聞きながら。盤を失えば、ロスには何も残らない。ロスは、その何も残らない場所に、四十年ぶりに立たされていた。
北欧の、雪の町。
アストリッドは、研究室でその瞬間を待っていた。約束の瞬間だ。玲司が空を外す。その空をアストリッドが世界に指さす。中継の中で線が折れた。アストリッドは立ち上がった。三年沈黙してきた女が、いま、口を開く番だった。
アストリッドは、記者たちの前に立った。自分の名前を名乗った。三年前、恩師と同じ空白を見つけ、恐れて黙った女です、と。そして、その少年が暴いたものが何であるかを説明した。折れた線が何を意味するのか。世界の予測が、どう人を消してきたのか。名前と信用を持つ女の声が、玲司の匿名の発見を、世界が受け取れる形に翻訳した。声は、最初、震えた。三年ぶりに人前で本当のことを話す声だ。震えても、アストリッドは止めなかった。止めれば、また、あの鏡を見られない三年に戻る。話すほどに、震えは消えていった。消えたのは震えだけではない。三年、背中に貼りついていた冷たいものも、話すたびに剥がれていった。黙って生き延びる。それも一つの生き方だ。ただ、アストリッドは今日、別の生き方を選んだ。黙らずに、それでも生きのびる。ヨハンができなかった生き方を。
名前も知らない、どこかのふつうの人。
その人はたまたま、その中継を見ていた。経済のことは、よく分からない。予測だの、信用だの、難しい話だ。ただ、少年の最後の言葉だけは分かった。未来は数字じゃない。一人ずつの名前だ。その人は中継が終わったあと、窓を開けて夜の空を見上げた。なぜそうしたのか、自分でも分からなかった。ただ、ずっと、誰かに決められた明日を信じて生きてきた気がした。今夜だけは、その明日を、自分の目で確かめてみたくなった。空には、いつも通りの星が出ていた。ただ、その人には、少しだけちがって見えた。
会議場の客席。
ファイサルは動かなかった。まわりの人間が端末にしがみつく中で、ファイサルだけがまっすぐに壇上を見ていた。玲司が空を外した。ファイサルの賭けが当たった。ただ、ファイサルの胸にあったのは、勝った、という感覚ではなかった。十二年前、守れなかった漁村。目をつぶってきた、いくつもの町。その全部が、いま、少年の読み上げる名前の中によみがえっていた。ファイサルは、机の奥のあの手帳のことを思った。あそこに書いた名前が、いま世界に聞かれている。ファイサルは、壇上の少年に向かって、ほんのわずかに頭を下げた。詫びと、礼の、両方だった。
そして、玲司。
壇上の玲司は、その世界じゅうの同時の反応を見てはいなかった。玲司に見えていたのは、光の壁の向こうの暗がりだけだった。ただ、玲司には分かっていた。いまこの瞬間、世界のあちこちで、無数の人が同じ折れた線を見ている。その線の下で、ある者は金を失い、ある者は信じるものを失い、ある者は初めて自分の町の名を聞いた。玲司が外したのは一本の線だった。ただ、その一本の線の下に、これだけの顔があった。
会議場も揺れていた。世界の金と権力を握った人間たちが、いっせいに端末を覗きこみ、電話をかけはじめた。自分たちの帝国の足元が、たったいま崩れはじめたからだ。誰も、壇上の少年をもう笑っていなかった。一年前、制服姿を笑った同じ客席が、いま、その少年の起こしたものに飲み込まれていた。少年一人が、この部屋の全員より強い手を持っていた。ただし、その手は剣でも金でもなかった。たった一つの、本当のことだった。
玲司は、客席の暗がりに向かって、残りの名前を読みつづけた。もう、スクリーンの数字は見ていなかった。数字は、玲司の仕事を終えていた。残っているのは名前だった。一つ読むたびに、玲司は、その名前の持ち主が、どこかでいまの瞬間を見ているかもしれない、と思った。ナディアのような、誰かが。消された町の、たった一人の灯りが。届いていなくても、かまわなかった。玲司はただ、世界のいちばん高い場所で、その名前を、空白ではなく名前として呼んだ。それが、玲司にできる、たった一つの弔いだった。
折れた線は、もう元には戻らなかった。
人々は、その線の下で、それぞれの夜を迎えた。混乱する者。怒る者。初めて空を見上げる者。世界は、一枚の確かな未来を失った。その代わりに、無数の確かでない明日を手に入れた。どちらがましだったのかは、まだ誰にも分からない。ただ、折れた線は、もう元には戻らない。
第二十四章 国と未来
玲司は、殺されなかった。
サミットのあと玲司は、黒いスーツの男たちに囲まれて、会場を出た。抵抗はしなかった。抵抗しても、意味がなかった。玲司は街の外れの、窓のない部屋に入れられた。乱暴には、されなかった。ただ、外に出られないだけだった。
部屋には、時計がなかった。窓も、ない。玲司は、時間を食事の回数で数えた。一日に三度、ドアの下から、トレイが差し入れられる。それだけが玲司と、外の世界をつなぐものだった。玲司は、その味のしない食事を残さず食べた。ユセフのいない食卓の、あの日から、玲司は、出されたものは残さず食べる、と決めていた。生きて、帰る。それが、いちばんむずかしい約束だった。玲司はその約束のためにまず、食べた。
殺されなかった理由を玲司は分かっていた。世界が、玲司を見てしまったからだ。壇上で、名前を読み上げる玲司を。折れた線の下で。いま、玲司を単独事故にすれば、世界は、その事故を信じない。玲司が暴いた仕組みが、玲司を殺したと考える。玲司の、公開の一手は、玲司自身を守る盾にもなっていた。
窓のない部屋にも、外の様子は少しずつ届いた。世界は、揺れていた。
コンソーシアムの、確かな未来が外れた。たった一度。ただ、その一度で世界じゅうが、自分の信じてきた未来を疑いはじめた。金が迷った。市場が荒れた。何を信じればいいのか、誰にも分からなくなった。玲司が狙った通りだった。同時に、玲司がこわがっていた通りでも、あった。
ただ、一つだけ、玲司を支える知らせがあった。
アストリッドが、生きていた。サミットの、あの瞬間、アストリッドは約束通り、世界に指をさした。折れた線が、何を意味するのか。誰が、何を隠してきたのか。名前と信用を持つ、あの研究者の声が、玲司の暴いたものを世界じゅうの、ふつうの人にも分かる言葉に翻訳した。三年前、沈黙して生き延びた人が今度は口を開いて、なお生きていた。玲司は、その知らせを聞いて、窓のない部屋で、いちど天井を見上げた。一人では、できなかった。玲司は、そのことをかみしめた。
コンソーシアムのほうも、無傷ではなかった。名前を持たなかった組織が、初めて名指しで疑われはじめた。誰も、正体を知らなかったはずの、その層に、世界じゅうの目が向いた。ヘリックスの株は、落ちた。ロスの名も、ニュースに出るようになった。一度も負けたことのない者たちが初めて負ける、そのみっともなさの中にいた。玲司は、それを痛快だとは思わなかった。ただ、これで少しは、数えられなかった人たちの無念が晴れるだろうか、と考えた。晴れるはずが、なかった。死んだ人は、戻らない。それでも、玲司は、考えずにはいられなかった。
混乱は、悪い人間だけを襲ったわけではなかった。
玲司の囮を信じて、家を買った、あの若い夫婦。あの人たちの買った土地の値段も、崩れた。玲司の暴いた仕組みの巻き添えでたくさんの、ふつうの人が、明日の見えない場所に放り出された。玲司はそのことを、窓のない部屋で聞いていた。聞きながら、自分の手が汚れていることを玲司は認めた。玲司は、正しいことをした。ただ、正しいことをしても、人は傷つく。正しさは、無傷ではない。
玲司はその夜、眠れなかった。目を閉じると会ったこともない、あの若い夫婦の顔が浮かんだ。玲司の、勝手に作った顔だ。それでも、その顔は、玲司を責めなかった。責めないことが、いちばんこたえた。玲司はいつか、この人たちに償えるだろうか、と考えた。答えは、出なかった。ただ、玲司は一つだけ、自分に約束した。この混乱をまた、誰かが悪用するのを、黙って見ていることはしない。空を外したのは、玲司だ。外したあとの空を放っておく資格は、玲司にはない。
三日目に、ドアが開いた。
ファイサルだった。
ファイサルは、一人で入ってきた。護衛も連れずに。ファイサルは、玲司の向かいに腰を下ろした。しばらく二人とも黙っていた。言葉より先に玲司は、ファイサルの顔を見た。この一年で、いちばん疲れて見えた。
ファイサルは、すぐには話さなかった。膝の上で両手を組んで、しばらく床の一点を見ていた。玲司は、待った。この人はいつも話す前に長く黙る。その沈黙の長さが、これから話すことの、重さだった。玲司はこの一年でファイサルの、沈黙の読み方を覚えていた。今日の沈黙はこれまでで、いちばん長かった。
「世界は、」
ファイサルが、口を開いた。
「君のおかげで、目を覚ました。そして、君のおかげで混乱している。両方とも、本当だ。」
玲司は、答えなかった。
「この国も、揺れている。君の作った、まっとうな改革も、囮だったと分かった。この国の人々は、君を信じていた。いまは君にだまされた、と思っている。」
玲司は、それも、答えなかった。答えることが、なかった。全部、本当だったからだ。
「私は、」
ファイサルは、言った。
「この混乱を、収めなければならない。そのために、いちばん手っ取り早いのは、君を差し出すことだ。世界を混乱させた犯人として。君一人を悪者にすれば、この国は責めを免れる。人々も、憎む相手ができて、落ち着く。」
世界じゅうの国が、この国に、責任を求めていた。あの少年を雇ったのは、この国だ。あの少年に権限を与えたのはこの国だ。だから、この国が責めを負え、と。ファイサルはその圧力の、まん中に立たされていた。国を守るには、玲司を切り離すしかなかった。玲司を国の外に追い出し、国とは無関係の、一人の犯罪者に仕立てる。そうすれば、国は生き延びる。ファイサルの選択肢は、それしか残っていなかった。
玲司は、ファイサルの目を見た。
「そうするんですか。」
「そうする。」
ファイサルは、隠さなかった。
玲司は、その言葉を聞いても、動じなかった。動じない自分を少しふしぎに思った。一年前の玲司なら、たぶん、裏切られた、と感じた。ただ、この一年で玲司は人が、一つの顔だけでできていないことを学んでいた。ファイサルは、玲司を生かしてきた。同時にユセフの報告書に判を押した。守る手と見捨てる手が同じ、一人の人間の両手だった。玲司は、その両手を恨むことも、許すことも、しなかった。ただ、そういう人間なのだ、と受け入れた。大人になる、というのはたぶん、そういうことだった。
玲司は、その言葉を静かに受け止めた。ふしぎと裏切られた、という気持ちはなかった。玲司はいつか、この日が来ることを知っていた。ファイサルも、知っていた。二人とも、ずっと前から、この日のことを分かっていて、それでも、ここまで来た。
「私は、」
ファイサルは、言った。
「君を裏切ったんじゃない。」
ファイサルの声は、静かだった。ただ、その静けさは玲司がこれまで聞いた、どの静けさより重かった。
「私は、国を選んだ。」
玲司は、しばらく黙っていた。それから、うなずいた。責める、うなずきではなかった。分かる、という、うなずきだった。
「僕も、同じです。」
玲司は、言った。
「僕は、未来を選びます。」
言ってしまってから、玲司は、その言葉の重さを感じた。未来を選ぶ。かっこいい言葉だ。ただ、未来は玲司に、何も約束してくれない。国はファイサルに少なくとも、いま、目の前にある。玲司の選んだ未来は、まだどこにもない。玲司は、何もない場所を選んだ。ファイサルは、それを分かっていた。だから、ファイサルの目には、玲司をうらやむような色と哀れむような色が同時にあった。若さとは何もない場所を、恐れずに選べることだ。ファイサルにも、昔はそれがあった。十二年前に、なくした。
二人は、しばらく見つめ合った。
似た者どうしだった。ファイサルも、玲司も、守りたいものがあった。ただ、その守りたいものがちがった。ファイサルはいま、目の前にある国を守りたかった。玲司は、まだ来ていない未来を守りたかった。国と、未来。どちらも、大事だ。どちらかが正しくて、どちらかが間違っている、というものではなかった。ただ、この二つはこの場所で両立しなかった。だから、二人は敵になる。憎み合わないまま、別々の場所に立つことになる。
玲司は、ふと思った。ファイサルとコンソーシアムの、ちがいはなんだろう。両方とも、国のため、大きなもののために、小さなものを切り捨てる。ちがいはたぶん、一つだけだった。コンソーシアムは、切り捨てたことを忘れる。ファイサルは、切り捨てた数を覚えている。毎晩、夢に見る。忘れない人間は、まだ引き返せる。玲司がこの人を、憎みきれなかったのはたぶん、そのせいだった。
玲司はファイサルに一つだけ、聞きたいことがあった。
「後悔、していますか。」
国を選んだことを。玲司は、そう聞いたつもりだった。ファイサルは、その問いを正しく受け取った。しばらく考えてから、答えた。
「毎日、している。」
ファイサルは、言った。
「後悔しない選択を私は、一つもしていない。ただ、後悔しながら選ぶことが大人の仕事だ。君も、いつか、分かる。君が今日、選んだ未来のことも、いつか、後悔する日が来る。そのとき、逃げずに後悔したまま、前に進めるかどうかだ。」
ファイサルは、立ち上がった。ドアの前で、いちど足を止めた。
「君を差し出す。ただし、」
ファイサルは、振り返らずに言った。
「生きたまま、差し出す。裁判にかける。世界の、見ている前で。それが私にできる、精いっぱいだ。壇上の下から、君の味方でいる、と言った。あれは、嘘じゃなかった。」
玲司は、何か言おうとした。ありがとう、でも、ちがう。すみません、でも、ちがう。どの言葉も、この人との一年には足りなかった。結局、玲司は、何も言えなかった。ファイサルも、玲司の返事を待たなかった。待たないことが、この人の優しさだった。返事を求めれば、玲司は、何かを言わなければならない。ファイサルは玲司に、その荷物を負わせなかった。
玲司はその背中に頭を下げた。ファイサルには、見えなかった。ただ、玲司は、下げずにはいられなかった。
ドアが、閉まった。
玲司はまた、一人になった。窓のない部屋で。ただ、玲司の中にこわさはあまりなかった。玲司は、やるべきことをやり終えていた。空は、外れた。名前は、読まれた。仕組みは、ひびが入った。あとは世界がそのひびから、どうするかだ。それは、もう玲司の仕事ではなかった。
玲司を待っているのは、裁判だった。世界じゅうの、見ている前での。玲司はそこで、また話すことになる。今度は壇上ではなく、被告席で。玲司はそれでも、かまわなかった。被告席も、一つの壇上だ。人が、見ている。見ている前でなら、玲司はまた、名前を読める。数えられなかった人たちの名前を。裁く側が、玲司を黙らせようとすればするほど、その裁判は玲司の、次の壇上になる。
玲司は、目を閉じた。
ふと、あの夜のことを思い出した。何もかもが始まった、六畳の部屋で、コンビニの弁当を数えていた夜。あの夜、玲司はAIONに、たった一つの問いを投げた。これ、偶然? あそこから、すべてが始まった。あの夜の玲司はまさか、その問いがこんな場所まで、自分を連れてくるとは、思っていなかった。
玲司は少しだけ、笑った。
まだ終わっていない、と玲司は思った。AIONは、まだどこかで動いている。玲司が国家に渡したのは、コードだけだ。玲司がAIONに教えた、いちばん最初の一行は、まだ玲司の頭の中にあった。そして、その一行は、もう玲司だけのものではなかった。世界じゅうの、目を覚ました人々の中に、その問いは移っていた。
これ、偶然?
その問いさえ、誰かが持ちつづけるかぎり、この仕組みは二度と完全には人をだませない。
窓のない部屋にまた、トレイが差し入れられた。何度目かの食事だった。玲司は、それを手に取った。味は、しなかった。それでも、玲司は残さず食べた。生きて、帰る。ユセフとの約束のために。まだ会っていない、たくさんの人のために。そして、いつか、あの若い夫婦に償うために。玲司は、ゆっくりと食べつづけた。窓の外の見えない部屋で玲司は次に、自分が何をすべきかを、もう考えはじめていた。
第二十五章 裁判
裁判は、世界じゅうが見ている前で開かれた。
ファイサルが、そう仕向けた。玲司をこっそり消すのではなく、生きたまま公開の法廷に立たせる。それが、ファイサルに残された最後の守り方だった。闇の中でなら、玲司はいくらでも始末できた。ただ、世界の目の前ではできない。玲司の罪を裁く場が同時に、玲司を守る檻にもなっていた。
法廷は世界じゅうのカメラで埋まっていた。各国の記者が、席を奪い合った。玲司はその真ん中に一人で座っていた。弁護人は、国が用意した。ただ玲司はその弁護人に、ほとんど何も話さなかった。守ってもらうつもりが、なかったからだ。玲司がこの法廷に立つのは、無罪になるためではない。ここが、残された最後の壇上だったからだ。被告席も、一つの壇上だ。人が見ている。見ている前でなら玲司はまた名前を読める。玲司はそのためだけにこの檻を受け入れていた。
玲司にかけられた罪は、重かった。
世界経済を混乱させた。無数の人の暮らしを傷つけた。市場を意図的に崩した。検察は、玲司をこう描こうとした。一人の危険な天才。自分のAIで、世界を意のままに動かそうとした少年。世界を救ったのではなく、世界を人質に取った男だ、と。
検察は、数字を並べた。玲司の起こした混乱でいくつの企業が倒れ、いくつの職が消え、何人が路頭に迷ったか。その数字は、本物だった。玲司には、反論できなかった。反論する気も、なかった。ただ玲司はその数字を聞きながら、別の数字のことを考えていた。コンソーシアムが、これまで静かに消してきた人の数。法廷には、まだその数字が出ていなかった。片方の数字だけで、裁きが進んでいた。玲司はその、もう片方の数字をこの法廷に出すためにここにいた。
被告席の玲司は、静かだった。
争わなかった。検察が、玲司のしたことを一つずつ並べるたびに玲司はうなずいた。否定する点がなかったからだ。玲司は、本当に世界の予測を崩した。本当に市場を混乱させた。本当にたくさんの人を巻き添えにした。全部、玲司がやったことだった。玲司は、それを認めた。
法廷に、一人の証人が立った。
東京から来た、若い男だった。玲司の起こした混乱で、全財産を失った男だ。男は玲司をまっすぐに見て言った。あなたのせいで、私は全部を失った。妻も、家も。あなたは正義のつもりかもしれない。ただ、その正義の下で、私のような人間が何十万人も潰れた。あなたは、私たちのことを考えましたか。
玲司は、その男の目を見返した。そらさなかった。考えました、と玲司は答えた。あなたの顔は知りませんでした。ただ、あなたのような人がいることは知っていました。知っていて、やりました。玲司の声は言い訳ではなかった。ただの事実だった。僕はあなたを巻き添えにしました。その責任から、僕は逃げません。
法廷が静まった。被告が罪を認めている。しかも、堂々と。検察の描こうとした「危険な天才」の像が、少しずつずれていった。
法廷の外でも、世界は動いていた。名前を持たなかったはずのコンソーシアムに、各国の目が向いた。ヘリックス・グローバルにはいくつもの国で調査が入りはじめた。ロスの名も、ニュースに出るようになった。四十年、表に出なかった男が初めて、世に顔をさらした。玲司を裁く法廷は気づけば、玲司を裁くだけの場ではなくなっていた。玲司が暴いたものが法廷の壁の外で少しずつ、裁かれはじめていた。
次に、一人の女が証言台に立った。
アストリッドだ。女は自分の名前を名乗った。経済予測の研究者です、と。そして三年前、自分と恩師が玲司と同じ空白を見つけたこと。恩師が、それを論文にしようとして「心臓発作」で死んだこと。自分が恐れて、三年黙ったこと。全部を世界の前で話した。女の声は、もう震えていなかった。
女は、最後にこう言った。この少年は、たくさんの人を巻き添えにしました。それは本当です。ただ、この少年が崩したものはもっと長いあいだ、もっと静かに、もっと多くの人を消してきました。一度の派手な痛みと、永遠の静かな死。どちらが罪が重いか。それを決めるのが、この法廷の仕事のはずです。
証言を終えて、アストリッドは席に戻らなかった。しばらく、証言台の前に立っていた。三年前、同じ場所に立つはずだった人のことを思っていた。恩師はこの証言をするはずだった。それをする前に、消された。アストリッドはいま、その人の代わりに話した。遅すぎた。ただ遅すぎても、しないよりはましだった。アストリッドは小さく、頭を下げた。法廷にではなく、ここにいない一人に向かって。
検察は、その「静かな死」など存在しない、と言った。証拠がない、と。
玲司は被告席から、一枚の紙を出すことを求めた。擦り切れた折り目の、手書きの紙。ユセフの紙だ。消された地区。減らされた予算。名簿から消えた人の名前。一人の技術者が何年もかけて、手で書き溜めた記録。玲司は、その紙を法廷に提出した。これは、僕が作った数字ではありません。これを書いた人は、この記録のために殺されました。単独事故、として。
法廷がざわめいた。
そのとき、傍聴席のいちばん後ろから、一人の年老いた女が立ち上がった。
誰も、その女が誰なのかを知らなかった。女はゆっくりと通路を歩いてきた。手に、一本の古い鍵を握っていた。開ける戸の、もうない鍵だ。女は裁判長に向かって言った。発言を許してください。私の町の名前を、あの少年が読み上げました。消えた、と誰も気づかなかった、私の町の名前を。
ナディアだった。
ナディアは、自分の町がどう消えたかを話した。注文が来なくなった。水が絞られた。人が出ていった。夫が死んだ。誰も殺していない。ただ、町が消えるように仕向けられた。役所の記録では自然な人口減少、と書かれた。ナディアは、その記録を信じていなかった。ただ三年、それを証明する方法がなかった。あの少年が来るまでは。
ナディアは、玲司のほうを見た。
あなたは、たくさんの人を巻き添えにしたそうですね。ナディアは言った。それは悪いことです。ただあなたは、巻き添えにした人の顔を見ている。覚えている。私の町を消した人たちは一度も、私たちの顔を見ませんでした。私たちがいたことさえ、覚えていない。あなたとあの人たちのちがいはそこです。ナディアはそう言って、手の中の古い鍵を強く握った。
裁判長はしばらく、何も言わなかった。本来なら、傍聴人の勝手な発言は止められるはずだった。ただ裁判長は止めなかった。止められなかった、というほうが近い。法廷にいた全員がその古い鍵の話に飲み込まれていた。開ける戸の、もうない鍵。その一本の鍵がどんな証拠書類よりも、重かった。数字では証明できないものがその鍵の、擦り切れた金属の中にたしかにあった。
玲司にも、発言の機会が与えられた。弁護人は、無実を主張するよう勧めた。世界を救うためだった、と言え、と。玲司は、そうしなかった。立ち上がって、上着の内ポケットから、もう一枚の紙を出した。ユセフの紙の写しだ。そして、そこに書かれた名前を一つずつ読みはじめた。法廷で。世界の見ている前で。消された地区の名。消された人の名。弁護にも反論にもならない言葉だった。ただ、玲司はそれを読んだ。自分を守る時間を玲司は、死んだ人の名前を読むことに使った。裁判長は止めなかった。検事も止めなかった。名前は一つずつ、静かな法廷に落ちていった。
その様子を、世界が見ていた。玲司を、英雄だと呼ぶ者がいた。腐った仕組みをたった一人で暴いた少年だ、と。玲司を、犯罪者だと呼ぶ者もいた。世界を混乱に突き落とした危険な男だ、と。玲司は、そのどちらでもなかった。ただ、分からないことを、分からないままにしておけなかった、一人の人間だった。ただ世界は人を英雄か犯罪者か、どちらかに決めたがった。その中間の、ただの人間、という場所に、玲司を置いておいてはくれなかった。
玲司は裁判のあいだ、ときどき、あの内陸の町のカフェのことを思い出した。あの若い夫婦はいま、どうしているだろう。玲司の嘘で未来を建て、玲司の手でその未来を折られた二人。二人は、この裁判を見ているだろうか。見ていたら、玲司をどう思うだろう。恨むだろうか。当然だ、と玲司は思った。恨まれて、いい。玲司はいつか、あの町に戻ると決めていた。ただ、この法廷を出たあと、玲司に自由が残っているかどうかは分からなかった。戻れないかもしれない約束を玲司はそれでも、胸の底にしまっていた。
法廷は、静まり返っていた。
玲司は傍聴席の、別の場所にも、目をやった。
そこに、ファイサルがいた。国の代表としてではなく、一人の傍聴人として。この国は、玲司を切り離した。玲司を、国とは無関係の一人の犯罪者に仕立てることで生き延びた。ファイサルはそれを承知でここに座っていた。玲司と目が合うとファイサルはわずかにうなずいた。壇上の下で味方だ、と言ったあの約束をこの男は、まだ、守っていた。
あとで、玲司は聞いた。ファイサルが、この裁判を公開にするために、自分の立場をかなり危うくした、と。闇から闇へ玲司を消したがる者は、国の中にも外にも大勢いた。ファイサルはその全部を押し返して、玲司を明るい場所へ引き出した。守る、という約束の、精いっぱいの形だった。ファイサルは、国を選んだ男だ。玲司を切り離した男だ。それでも、切り離したその相手を、ファイサルはできる範囲で守りつづけていた。人は、そんなにきれいに味方と敵に分かれない。玲司は、この一年でそれを学んでいた。
裁判は、長くかかった。
世界じゅうが見ていた。被告が罪を認め同時に、もっと大きな罪を告発する。被害者が被告を責め、別の被害者が被告をかばう。善と悪の、はっきりした裁判にはならなかった。誰も、きれいな結論を出せなかった。それでも、一つだけ確かなことがあった。世界は、もう見てしまった。消された人々の顔を。名前を。見てしまったものは、なかったことにはできない。
裁判は、季節をまたいだ。そのあいだに、世界は少しずつ変わっていった。いくつかの国が、これまで信じてきた予測を見直しはじめた。消えると決められていた地区に、もう一度水を引く町が出てきた。玲司の裁判は、まだ終わっていない。ただ、その裁判が続いているあいだにも、折れた線の下で人々は、自分の明日を自分の手で決めなおしはじめていた。玲司が何の罪に問われようとそれだけは、もう止まらなかった。
裁判の終わりのほうで、一人の検事が立ち上がった。
玲司を、世界を支配しようとした危険なAIの作り手として裁くための、最後の尋問だった。検事は玲司に向かって、問いを放った。玲司がこの一年、ずっと待っていた問いだった。
君はあのAIで、世界の未来を書き換えた。ちがうかね。
玲司は、顔を上げた。
終章 最初の一行
玲司は、少し考えてから答えた。
「いいえ。」
「では、君は、何をしたんだ。」
玲司は、傍聴席にも、カメラにも、世界にも聞こえるように、はっきりと言った。
「僕が書いたのは、」
玲司は、言った。
「最初の一行だけです。」
法廷が静まった。検事は、その意味が分からない、という顔をした。玲司は、続けた。
AIONを作ったとき、玲司がいちばん最初に書いた一行。成功を予測するためではなかった。失敗の理由を探すためだった。うまくいかなかったとき、なぜそうなったのかをあとから知るため。玲司が書いたのは、その問いだけだった。
「そのあとのことは、AIONが自分で見つけました。世界が同じ未来を見ていること。その未来から、人が外されていること。全部、僕が書いたことじゃありません。僕はただ、最初に問いを一つ置いただけです。」
玲司は、いちど間を置いた。
「未来を書いたのは、僕じゃありません。未来を書いたのは、それを信じたみなさん全員です。」
検事は、何も言い返さなかった。
言い返せる言葉が、なかった。
長い裁判のあいだに、玲司は、消せない人間になっていた。
被告席で、玲司は何度も、消された人たちの名前を読んだ。読むほどに、その名前は、世界の記憶に刻まれた。いまさら玲司を闇に葬っても、世界は、その死を素直には信じない。玲司を黙らせようとするほど、玲司の声は遠くまで届いた。数えられなかった人たちを数えた人間は、もう、数から消せなかった。
そして、世界は少しずつ変わった。
コンソーシアムは、なくならなかった。ああいう仕組みは、たぶん簡単にはなくならない。ただ、世界は、もう一枚の予測を疑わずに信じることは、しなくなった。誰かが、これからの未来はこうだ、と言うたびに、人々はいちど立ち止まるようになった。ほんとうに、と。その、たった一言が、世界じゅうに生まれた。
小さな変化は、あちこちで起きた。ある国の議会が、これまで信じてきた経済の見通しを、いちど白紙に戻して話し合いをやり直した。ある町が、消えると予測されていた地区に、あえて水を引き直した。予測に逆らってみる、ということを、人々は少しずつ始めた。うまくいくとは限らなかった。逆らって失敗することもあった。ただ、失敗も、こんどは自分たちで選んだ失敗だった。誰かに決められた未来ではなく、自分で選んだ未来。それが、玲司の壊した仕組みの向こう側に、少しずつ広がっていった。
玲司が、そのあとどうなったのかは、はっきりとは伝わっていない。
国に送り返された、という人もいる。どこか別の場所で、静かに暮らしている、という人もいる。世界は、玲司を英雄だと呼んだり、犯罪者だと呼んだりした。玲司自身は、たぶんそのどちらでもなかった。玲司はただ、分からないことを、分からないままにしておけなかった、一人の人間だった。それだけだった。
ただ、一つだけ確かなことがある。玲司は、生きていた。ユセフとの、あの約束——生きて帰る——を、玲司は守った。いちばんむずかしい約束を、玲司は果たした。どこにいるのかは分からない。ただ、玲司はどこかで、まだ数字を見ているはずだった。合わない数字を。誰も気に留めない、小さな違和感を。それを分からないままにしておけない、あの性分は、たぶん一生変わらない。
ファイサルのことも、少しだけ伝わっている。
あの国は、生き延びた。玲司を切り離すことで。ファイサルはいまも、国の金を動かしている。ただ、あれ以来、コンソーシアムの配る未来に、前ほどは乗らなくなった、という。守れなかった漁村と、消されたユセフと、追い出した玲司。ファイサルの夢に出てくる者が、また一人増えた。忘れない人間は、まだ引き返せる。玲司は遠い場所で、そのことを信じていた。
AIONの基幹コードは、いまもあの国の金庫の中にある、という。国家のものだ。契約書の、あの一行の通りに。ただ、それを動かせる人間は、もうどこにもいない。玲司の癖を持っている人間が、玲司ひとりだからだ。金庫の中のコードは、たぶん二度と目を覚まさない。
それでも、アストリッドは言った。AIONは死んでいない、と。
AIONの正体は、コードではなかった。たった一つの問いだった。その問いはいま、世界じゅうの、目を覚ました人たちの中に移っている。誰かが身の回りの、小さな違和感に気づく。ほんとうに、これは偶然だろうか、と立ち止まる。そのたびに、AIONはその人の中で目を覚ます。
たとえば、こんなふうに。
どこかの、小さな町の深夜。一人の、名前も知らない誰かが、机の前に座っている。手元には、どうでもいいような数字が並んでいる。コンビニの廃棄の数かもしれない。電気の値段かもしれない。その誰かが、ふと、二つの数字が妙に揃っていることに気づく。
これ、偶然?
その一言が、世界のどこかでまた生まれる。
玲司がいつかの夜に、六畳の部屋で投げた、たった一つの問い。それが玲司の手を離れて、名前も知らない誰かの中で、また動きはじめる。玲司が書いたのは、最初の一行だけだった。その、たった一行が、いつまでも消えずに、世界のあちこちで、次の一行を待っている。
その誰かは、玲司のことを知らないかもしれない。あの裁判のことも、折れた線のことも、ユセフという男がいたことも、知らないかもしれない。それでも、かまわなかった。名前は、伝わらなくていい。問いさえ、伝われば。玲司が、この世界に残したかったのは、自分の名前ではなかった。たった一つの、問いのかたちだった。
未来は、まだ書かれていない。
了
ここから始まった長い旅。
yukariyajp / Hiroki Konさんのコラボ作品全集です!
再開されたのでこの後が楽しみですがあまり無理なさらぬように・・・
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