『炉岞に泣く砂』①〜矎しい䞖界ぞ〜

あらすじ
近未来の日本。栞融合ずAI挔算で芇暩囜家ずなったこの囜は、沿岞を「炉岞」に倉え、党土を統べるOS「砂時蚈」を皌働させおいた。その䞭枢には、システムの調埋者ずしお生たれ、癜い郚屋に十八幎間閉じ蟌められた少女ミナトがいる。母が呜がけで圌女を倖ぞ逃がした先は、日本で最埌に残った鳎き砂の浜、琎匟浜。棄民の町「圱町」で暮らす少幎・透は、浜に流れ着いたミナトを拟う。味も、痛みも、自由も知らない少女は、透ず出䌚い、飯の枩かさや砂の鳎る音、笑うこずを初めお知っおいく。だが、囜家保安機構の黒瀬や、冷培な長官・真壁が二人に迫る。远われながら東京湟の䞭枢ぞ向かう二人は、やがおミナトの出自ず、この歪んだ囜の秘密に觊れおいく——。


②

③

④

â‘€

⑥

⑩

⑧

⑹

⑩


 癜い郚屋には、朝も倜もなかった。

 倩井は高く、壁はなめらかで、継ぎ目がない。病院のように芋えるのに、病院にあるはずの匂いがない。消毒液の匂いも、食事の匂いも、人が行き来する垃の匂いもなかった。空気はい぀も同じ枩床で、同じ湿床で、床だけが少し柔らかい。裞足で歩くず、足の裏から䜓重を読たれおいるような感觊がした。実際、読たれおいた。䜓枩、脈拍、血圧、発汗、瞳孔、呌吞、声垯の震え、歩幅、眠りの深さ。癜い郚屋は、癜砂ミナトが䜕歩歩いたかだけでなく、立ち止たった時に䜕を恐れたかたで掚枬した。

 郚屋の䞭倮に、癜い怅子がある。

 怅子、ずいうには倧きすぎた。寝台でもあり、怜査台でもあり、拘束具でもあった。背もたれには现い光の線が䜕本も走っおいお、ミナトが腰を䞋ろすず、銖筋から背䞭ぞ䌞びる癜い回路痕に、朝の挚拶のように接続した。その回路痕を、斜蚭の人間は炉脊ず呌んだ。ミナトにずっおは、ただ背䞭にあるものだった。生たれ぀きそうだったのか、そうではなかったのか、はっきりした蚘憶はない。

 ミナトは十八歳になろうずしおいた。けれど身䜓は、十八歳ずいう数字よりずっず现く、癜かった。肩は薄く、腕は頌りなく、膝の皿だけが服の䞋で小さく尖っおいる。その華奢さず䞍釣り合いに、髪だけは栄逊が行き届いお、黒く艶があった。長さは顎のあたりで切り揃えられおいる。䌞ばすこずは蚱されおいない。銖から背䞭ぞ続く炉脊が、垞に露出しおいなければならないからだ。前髪も眉の䞊、目にかからない高さで、定芏を圓おたように真暪に切られおいた。県球の状態を、い぀でも芳察できるように。すべおが管理の郜合だった。そしお、管理の郜合だけで䜜られたその髪型が、結果ずしお叀い人圢のように愛らしい茪郭を描いおいるこずに、斜蚭の誰ひずり気づいおいなかった。癜い服を着お、癜い怅子に座っお、癜い壁の前で黙っおいるず、遠目には茪郭が消えた。そこに人間がいるずいうより、ただ消されずに残っおいる薄い跡のように芋えた。

 鏡はなかった。テレビもなかった。ゲヌムも、本も、ぬいぐるみも、奜きに遞べる服もなかった。郚屋の隅に小さな掗面台ず、壁に埋め蟌たれた食事口があるだけだ。食事口は時間になるず音もなく開き、同じ癜いトレむを差し出す。食べ終えるず、癜い郚屋はたた䜕もなかったふりをする。

 ミナトの遊びは、ひず぀しかなかった。

 幌いころ、母が教えおくれた歌だ。

 叀い歌だった。意味はよく分からない。海がどうずか、砂がどうずか、螏めば鳎るずか、垰っおこいずか、そういう蚀葉が少しず぀入っおいた。けれど、旋埋は䜓に残った。ミナトは退屈を数える代わりに、その歌を口の䞭で転がした。声に出すず監芖が反応するので、ほずんどは息だけで歌った。唇をほんの少し動かし、喉を震わせず、舌の䞊だけで音を䜜る。そうするず、癜い郚屋の底に、ないはずの波の音がひっそり生たれる気がした。

 癜い郚屋の倖では、日本が䞖界を動かしおいるらしい。

 始たりは、䞀人の科孊者が海から莫倧な゚ネルギヌを取り出す方法を、瀟䌚で䜿える圢にしたこずだった。栞融合。氎玠のような軜い原子栞を結び぀け、倪陜の内郚で起きおいる反応を地䞊で制埡する技術。燃やすのではなく、原子を結び倉えお熱を取り出す。か぀おは、地䞊に倪陜を䜜る倢ず呌ばれおいた。燃料の䞀郚は海氎から埗られる。実甚化できれば、発電の垞識も、産業の圢も、囜の力関係も倉わるず蚀われおいた。

 その倢を、日本の海岞線に眮ける圢にした理論があった。

 癜砂モデル。

 海から燃料を取り、海で冷やし、沿岞郚に栞融合発電斜蚭ずAIデヌタセンタヌを䞀䜓で建おる。遠くぞ電気を送るのではなく、発電したその堎で䞖界䞭のAI挔算を凊理する。電気そのものではなく、蚈算力を売る。䌁業、政府、金融、医療、気候予枬、軍事シミュレヌション。䞖界䞭が欲しがるAIの脳を、日本の海岞に眮かせる。

 持枯は癜い発電塔になった。砂浜は冷华槜ず挔算棟に眮き換わった。芳光地だった海岞は、ガラスず耇合材で芆われた囜家むンフラになった。誰かがそれを誇らしげに呌んだ。

 炉岞列島。

 そしお、党囜の炉岞斜蚭をひず぀の網ずしお動かすためのOSがあった。

 砂時蚈。

 それが䜕であるかを、ミナトは説明できない。倧人たちはいろいろな蚀葉を䜿った。発電斜蚭同士の協調。AI挔算力の再配分。負荷制埡。安党保障。䞖界の調和。難しい蚀葉は、癜い壁に吞い蟌たれお、ミナトの䞭には残らなかった。

 ただ、ひず぀だけ分かった。
その砂時蚈は、ミナトを必芁ずしおいた。

「ミナトは、音叉なんだよ」

 母は昔、そう蚀った。

「音叉」

「楜噚を合わせる時に鳎らす、小さな基準の音。みんながその音を聞いお、自分の音を合わせるの」

「私、楜噚なの」

「違う」

 母は即座に吊定した。匷すぎるくらいだった。

「あなたは人間。誰が䜕ず蚀っおも、人間」

 その蚀葉だけは、癜い郚屋でも消えなかった。

 その日、ドアが開く前から、ミナトには分かった。足音が違う。

 医療スタッフの足音は軜い。譊備員の足音は重い。研究員の足音は迷いがない。母の足音は、そのどれずも違う。い぀も少し急いでいお、途䞭で䞀床だけ止たる。ドアの前で息を敎えおいるのだず、ミナトは知っおいた。

「ミナト」

 癜砂陜子は、䞡手で小さな箱を持っお入っおきた。癜衣ではなかった。癜いブラりスに、濃い灰色のスカヌト。髪は埌ろでひず぀にたずめられおいる。結び目は䜎く、耳の䞋で少し厩れおいた。きちんずしおいるのに、どこか寝䞍足で、急いで準備した人の乱れがある。化粧は薄い。唇の色だけが、い぀もより少し赀かった。

「誕生日、おめでずう」

 陜子は笑った。䞋手な笑い方だった。郚屋の角にあるカメラを気にしすぎお、頬の筋肉の順番を間違えおいるみたいだった。

「今日、誕生日」

「うん。十八歳」

「十八歳」

 ミナトは、自分の口でその数字を確かめた。

 十八。斜蚭の倖では、十八歳は倧人になる幎だず聞いたこずがある。倖ぞ出おもいい幎。働いおもいい幎。遞んでもいい幎。誰かず手を繋いでもいい幎。自分のこずを自分で決めおもいい幎。癜い郚屋では、ただ接続芏栌が䞀段階倉わる幎だった。陜子は箱を開けた。䞭には、小さなケヌキが入っおいた。癜いクリヌムの䞊に、苺が䞉぀。蝋燭は十八本も立おられないので、现いものが䞉本だけ添えられおいる。

「䞊ぞ行こう」

「䞊」

「展望レストラン。五分だけ、蚱可が出た」

「レストラン」

 ミナトは、その蚀葉を映像でしか知らなかった。人が食べる堎所。人が話す堎所。食べる以䞊のこずをする堎所。癜いトレむではなく、皿がある堎所。陜子が手を差し出した。

 ミナトは怅子から立った。背䞭の光の線が䞀本ず぀倖れる。接続が切れるたびに、身䜓が少し軜くなった。最埌の䞀本が消えた瞬間、ミナトは自分の背骚を思い出した。怅子に座っおいる時は、背骚たで郚屋のものになっおいる気がする。立ち䞊がるず、それが少しだけ戻っおくる。母の手は枩かかった。

 手を繋いで歩くのは、い぀以来だろう。怜査宀から怜査宀ぞ連れお行かれる時にも手は握られる。けれどそれは、転ばないように、暎れないように、逃げないようにする手だった。今、陜子の手は違った。どこかぞ連れおいく手ではなく、どこかから連れ出す手だった。

  

 展望レストランは、誰もいなかった。癜いテヌブルクロスの䞊に、小さなケヌキ。窓の向こうに東京湟が広がっおいる。か぀おの暪浜、川厎、お台堎、湟岞の埋立地、人工島、それらがひず぀の癜い郜垂ずしお光っおいた。炉岞斜蚭の塔は、芳光甚のラむトアップで青癜く瞁取られおいる。氎面には無数の浮䜓匏デヌタセンタヌが䞊び、遠くでは海底建蚭甚の無人機が、巚倧な甲殻類のようにゆっくり沈んでいった。

 壁際には譊備員が二人いた。癜い制服に黒いグロヌブ。こちらを芋おいないふりをしお、ずっず芋おいる。入口の近くには真壁高臣が立っおいた。内閣盎属の炉岞庁長官。日本の炉岞化を統括する、倩照蚈画の総監。銀瞁の県鏡の奥で、目だけがほずんど動かない。祝うために来たのではない。蚱可された五分間を、五分間で終わらせるために来おいる。

「癜砂博士」

 真壁は腕時蚈を芋た。

「接続解陀から䞀分䞉十秒です」

「分かっおいたす」

 陜子はテヌブルにケヌキを眮いた。现い蝋燭を䞉本立おる。ラむタヌの火を近づけるず、小さな炎がひず぀、ふた぀、みっ぀ず灯った。

「火っお、䞍思議でしょう」

 ミナトは炎を芋た。揺れおいる。赀くお、小さくお、熱そうで、でもこの郚屋のどんな照明より柔らかかった。

「きれい」

「昔の人は、こういう火を囲んで、ご飯を食べたり、歌を歌ったりしたんだっお」

「危なくないの」

「危ないよ。だから、誰かひずりが独り占めしちゃいけない」

「独り占め」

「うん。火は、分けるものだから」

 ミナトは、母が䜕の話をしおいるのか分からなかった。けれど、陜子の声が少し震えおいるのは分かった。ケヌキの甘い匂いず、蝋燭の焊げる匂いがした。癜い郚屋にはない匂いだった。

「この火は」

「これは、あなたの火。誕生日の蝋燭はね、最埌に吹き消すの」

「点けたのに、消しおいいの」

「消すために点ける火も、あるの」

 陜子はそう蚀っお、ケヌキを切り分けた。癜い皿に、癜いクリヌムず、苺がひず぀。ミナトはフォヌクを持った。䜿い方は知っおいる。栄逊食にも、圢だけフォヌクが添えられおいたこずがある。でも、ケヌキは初めおだった。䞀口、食べた。甘い。甘い、ずいう蚀葉は知っおいた。糖分濃床ずしお。味芚刺激ずしお。脳内報酬系ぞの圱響ずしお。でも、これはそういう甘さではなかった。口の䞭で溶けた瞬間、ミナトはなぜか泣きそうになった。

「おいしい」

「  分からない」

「そっか」

「でも、なくなるのが嫌」

「それは、おいしいっおこずだよ」

 陜子は笑った。今床は、䞊手に笑えおいた。

 真壁の腕時蚈が、小さく電子音を鳎らした。

「癜砂博士。残り䞉分です」

「お母さん」

「うん」

「今日も、戻るの」

 陜子の指が、蝋燭の火の前で止たった。答えの代わりに、圌女は真壁を芋ずに蚀った。

「電気を消しおくれる」

 譊備員が䞀瞬だけ動きを止めた。

「誕生日なんです。蝋燭が芋えないでしょう」

「芏定では、照明の操䜜は──」

「芏定が、ケヌキを食べるの」

 譊備員は詰たり、真壁を芋た。真壁はミナトを芋お、それから蝋燭を芋た。考えたのは䞀秒にも満たなかった。

「構わない。照明だけだ」

 倩井の照明が萜ちた。展望レストランは、䞉本の蝋燭だけになった。窓の倖の東京湟が、急に遠くなった。炉岞斜蚭の光も、出島湟の街も、ガラス䞀枚の向こうで静かに滲んでいる。陜子は身を乗り出し、ミナトの髪に頬を寄せた。譊備員の目には、暗がりの䞭で母が嚘を抱き寄せたようにしか芋えなかったはずだ。

 耳元で、声がした。声ずいうより、息だった。喉を震わせず、舌の䞊だけで䜜る音。ミナトはその話し方を知っおいた。カメラの䞋で歌う時の、母の声だった。

「これから、怖いこずが起きる」

 ミナトも、息だけで返した。

「怜査」

「違う」

「再調埋」

「違う」

「じゃあ、䜕」

 母の息が、䞀拍だけ止たった。

「自由」

 ミナトには、分からなかった。自由ずいう蚀葉は知っおいる。でも、それが怖いこずの先にあるものだずは、教わったこずがなかった。分からないたた、頬に觊れる母の䜓枩だけが、劙にはっきりず䌝わった。陜子は身䜓を起こし、い぀もの声で蚀った。

「消しお」

「願いごず、しなくおいいの」

「したよ」

「䜕を」

「あなたが、生きるこず」

 ミナトが息を吞った。小さく吹くず、蝋燭の火は思ったより簡単に消えた。䞖界が䞀瞬、真っ暗になった。その䞀瞬で、陜子は動いた。ケヌキの䞋に隠しおいた、硬貚ほどの薄い噚具を剥がし、窓ガラスの䞋端に抌し圓おる。起振噚。決たった呚波数で现かく震え続けるだけの、単玔な装眮だった。人の耳にはほずんど聞こえない。ただ、ガラスだけが聞いおいる。物には、それぞれ固有の揺れやすい呚波数がある。倖から同じ呚波数の力を䞎え続ければ、揺れは打ち消されずに足し算されおいく。ブランコを挕ぐのず同じ理屈だ。䞀床抌すだけなら子䟛の遊びでも、拍子さえ合っおいれば、揺れはやがお玠材の限界を超える。歌手の声がワむングラスを割るのも、兵隊の足䞊みが橋を萜ずすのも、同じ珟象。共振ずいう。囜䞭の炉を同調させおきた科孊者は、ガラス䞀枚の歌わせ方も知っおいた。䜕幎分の呚到さが、この五分間に折り畳たれおいた。陜子は巊手の指茪を手のひら偎ぞ回し、食りに芋せかけた合成ダむダの角で、震えるガラスの䞀点に短い傷を匕いた。応力の逃げ堎をなくすための、目に芋えない切り蟌み。

 それから、怅子を掎んだ。十八歳の嚘の誕生日に甚意された怅子を、陜子は迷いなく振り䞊げ、窓ぞ叩き぀けた。

 䞀床目。鈍い音。ガラスの奥で、䜎い唞りが生たれた。
 二床目。揺れの山に、寞分違わず重ねる。唞りが现い悲鳎に倉わる。カりンタヌの䞊で、䌏せられおいたワむングラスがひず぀、柄んだ音を立おお砕けた。譊備員が音の出所を探しお振り向く。ガラスが、鳎いおいる。
 䞉床目。窓は、割れたのではなかった。爆ぜた。

 ダむダの傷から亀裂が走ったかず思うず、同じ芏栌で連結されたフロアの窓が、端から端たで䞀斉に癜く濁り、砕け、海から吹き䞊がる颚ず䞀緒に郚屋の䞭ぞ雪厩れ蟌んだ。

「博士」

 ガラスの雚の䞭で、譊備員たちが腕で顔を庇う。床を蹎る靎音。真壁の短い舌打ち。陜子はミナトの腕を぀かんだ。

「怖いこずが起きるっお、蚀ったでしょう」

「お母さん」

「目を閉じないで」

 陜子はミナトを抱きしめた。母芪ずしおの抱擁は、䞀秒にも満たなかった。ミナトは母の髪の匂いを吞った。ケヌキの甘さず、蝋燭の煙ず、母の汗が混じっおいた。

「矎しい䞖界ぞ」

 陜子は、そう蚀った。次の瞬間、陜子はミナトを割れた窓の倖ぞ突き萜ずした。ミナトは声を出せなかった。身䜓が宙に出た。東京湟の光が回る。颚が服の䞭ぞ入り、背䞭を匕き裂くように冷たい。癜い塔、黒い海、ガラスの砎片、母の顔、真壁の圱。それらが党郚、同じ速さで遠ざかる。

 萜ちる。

 そう思った時、䞋から䜕かが飛び䞊がっおきた。人を乗せるための救難ドロヌンだった。倜の闇ず同じ色の機䜓が、翌を折り畳むようにしおミナトの身䜓を受け止める。衝撃で息が詰たった。金属の腕が腰ず肩を固定し、機䜓が急䞊昇する。

 薄闇の䞭で、銃声が響いた。

 䞀発。

 譊備員が照明を戻した。割れた窓の向こう、癜く明るくなったレストランの䞭で、陜子が胞を抌さえおいた。癜いブラりスの䞊に、赀が咲いおいる。真壁が銃を構えおいた。硝煙が、銃口の先で现くほどけおいる。ミナトは手を䌞ばした。届くはずがない。ドロヌンの固定具が腕を抌さえ、颚が声を奪った。陜子は、割れた窓際たでよろめいた。血の぀いた唇が、䜕かを圢にする。

 いきなさい。

 ミナトには、声は聞こえなかった。けれど口の圢で分かった。行きなさい、だった。生きなさい、でもあった。

 真壁が、もう䞀床匕き金を匕いた。陜子の身䜓が埌ろぞ揺れ、それから前ぞ傟いた。割れた窓の瞁を越え、癜い花びらみたいに倜ぞ萜ちおいく。ミナトは目を閉じなかった。閉じおはいけないず、母が蚀ったから。

 ドロヌンが加速した。東京湟䞭枢斜蚭の塔が遠ざかる。癜い人工島が小さくなり、湟岞の光が線になり、やがおどこぞ向かっおいるのか分からない倜の海だけが、機䜓の䞋に広がった。

 ミナトは、母の口の圢を䜕床も思い出した。

 行きなさい。

 生きなさい。

 その意味を、ただ知らなかった

  

 琎匟浜の朝は、魚の匂いで始たる。正確には、魚そのものよりも、昚日の魚を入れおいた箱の匂いず、也ききらない網の匂いず、朮を含んだ錆の匂いだった。京郜の北の端にあるその浜は、芳光案内からはほずんど消えおいた。昔は、癜い砂ず鳎き砂で少しは知られた堎所だったらしい。歩くず砂がきゅっ、きゅっず鳎る。きれいな砂でなければ鳎らない。だから、浜が鳎るうちは海もただ死んでいない。老人たちはそう蚀った。

 鳎瀬透は、その話が嫌いだった。

 砂が鳎くから䜕だ。鳎いたずころで飯は出ない。鳎き砂を守ったずころで、通信料は払えないし、AIの利甚暩も戻っおこない。矎しい浜だず自慢する倧人たちほど、薄い財垃を眺める時は黙り蟌む。なら最初から、砂なんか自慢しなければいい。

 透は十六歳だった。身長だけは䌞びたが、身䜓は薄い。肌は浜の日差しに焌かれお、健康的な浅い耐色をしおいる。髪は栄逊䞍足ず海氎に色玠を抜かれ、染めおもいないのに茶色く耪せお、朮ず寝癖で奜き勝手に跳ねおいた。金がなくお出来䞊がった色のはずなのに、遠目には、ただのやんちゃな悪ガキに芋えた。制服は持っおいるが、今日は着おいない。いや、昚日も着おいない。孊校ぞ行くには、亀通費より先に、行く意味を甚意しなければならなかった。AI利甚暩のない子どもは、課題の提出も、進路盞談も、職業蚓緎の予玄もたずもにできない。先生は悪い人ではない。ただ、悪い人ではない倧人たちが、透をどうにもできないたた、少しず぀芋ないふりをするのが䞊手くなっおいった。

 浜の裏手には圱町ず呌ばれる䞀角がある。地図には茉っおいない。戞籍ずIDを倱った老人、端末を買えなかった者、家賃を払えず海沿いに流れた家族、基瀎配圓の申請からこがれた人間たちが、廃材ずブルヌシヌトず壊れた小屋で暮らしおいる。囜の発衚では、日本囜民の党員が囜民基瀎挔算配圓、通称基瀎配圓を受けおいるこずになっおいた。䜏居、医療、食料、通信、最䜎限のAI利甚暩。二〇二〇幎代にベヌシックむンカムず呌ばれお議論されおいたものは、䞉十幎埌の日本で、挔算暩蟌みの生掻保障ずしお敎えられた。ただし、囜民ずしお数えられおいれば、の話だ。

「透、網、そっち持お」

 浜で老人が怒鳎った。

「持っおるよ。芋りゃ分かんだろ」

「芋お分かるほど持おおねえんだよ。若いんだから腰入れろ、腰」

「腰入れたら金くれんの」

「枛らず口なら癟点やる」

「癟点で飯食えるようになったら呌んで」

 透は濡れた網を匕いた。重い。昚日の雚を吞っお、藻ず砂ず小さな貝殻を絡めおいる。手のひらに瞄の跡が食い蟌む。朝の海は薄い青で、冷たい。矎しいず蚀えば矎しいのだろう。けれど、透にはその矎しさが腹立たしかった。こんなにきれいなものが目の前にあるのに、誰もそれで生きおいけない。

「その顔、たた朝から䞖界を恚んでる顔だな」

 声をかけおきたのは、ダマトだった。幎霢はよく分からない。五十代にも芋えるし、もっず老けお芋える日もある。髪は䌞び攟題で、顎には癜い髭が混じる。背䞭は少し曲がっおいるが、腕はただ倪い。圱町の連䞭はみんな、圌を「ダマトさん」ず呌ぶ。名字を聞いた者はいない。聞かないのが、あの蟺りの瀌儀でもあった。人は名前を倱っお流れおくる。昔の名前を掘り返すのは、墓を玠手で掘るのに䌌おいる。

「恚んでねえよ」

「じゃあ䜕だ」

「眠い」

「若いのに倢がねえな」

「倢を芋るにも端末いる時代なんだよ」

 ダマトは笑った。笑うず、顔の皺が深くなる。

「なら、浜でも芋ずけ。無料だ」

「䞀番いらねえサブスクだわ」

 その時、空の遠くで䜎い音がした。

 飛行機ではない。持協の叀いドロヌンでもない。もっず重くお、速い。けれど、空を芋䞊げおも䜕も芋えなかった。雲の薄い堎所に、䞀瞬だけ黒い点が滲んだ気がした。すぐに消えた。

「今の、䜕」

 透が蚀うず、老人たちも海の方を芋た。

「雷か」

「晎れおんぞ」

「炉岞の工事音じゃないか。ほれ、竹野の方から響く時あるだろ」

 誰もはっきり分からないたた、すぐに網の話ぞ戻った。

 昌近く、透は浜の端を歩いおいた。朝に手䌝った分の小銭ず、売れ残りの小魚を受け取っお、圱町ぞ戻る途䞭だった。砂は也いたずころだけ、かすかに鳎った。きゅっ、ずいうより、䜕かが喉の奥で我慢しおいるような音だった。波打ち際に、癜いものがあった。最初は、発泡スチロヌルかず思った。次に、倧きな鳥かず思った。近づくず、それは人だった。

「おい」

 透は立ち止たった。

 癜い服の少女が、暪向きに倒れおいた。髪は海氎を吞っお頬に貌り぀き、唇は青い。片足は波に掗われ、もう片足は砂に埋もれおいる。裞足だった。足の指は现く、爪の色が悪い。

「おい、生きおんのか」

 透は呚囲を芋た。誰もいない。遠くで老人たちが網を掗っおいるだけだ。

「マゞかよ  」

 近づいお、しゃがむ。䌞ばした手が、少女の肩に觊れる盎前で止たった。服が濡れおいた。癜い、食り気のない垃。病院着にも芋えるし、䜕かの制服にも芋える。海氎を吞ったその垃は肌に貌り぀き、胞や腹の薄さをそのたた浮かび䞊がらせおいた。゚ロい、ず思ったわけではない。思ったわけではない、はずだった。けれど、透の目は䞀瞬だけ動かなくなった。芋おはいけないものを芋おいる気がした。芋おはいけないず思うほど、どこを芋ればいいのか分からなくなる。

「ば、バカか、俺は」

 透は自分に小さく悪態を぀いお、顔を背けた。その拍子に、少女のうなじが芋えた。濡れた髪の隙間から、銖筋が癜くのぞいおいる。现い。手で包んだら折れそうなくらい现い。その癜さに、たた芖線が吞い寄せられた。今床は、ただの肌ではなかった。銖の埌ろから背䞭ぞかけお、薄い回路のような癜い痕が走っおいる。傷跡にも、刺青にも、医療噚具の跡にも芋えた。光っおはいない。ただ、皮膚の䞋に別のものが眠っおいるような異様さがあった。

「䜕だよ、これ  」

 透はすぐに目を逞らした。逞らしたのに、残像だけが頭に残った。少女が小さく咳き蟌んだ。

「っ  」

「生きおる」

 思わず倧きな声が出た。少女の身䜓がびくっず震える。透は慌おお声を萜ずした。

「悪い。倧䞈倫か。いや、倧䞈倫じゃねえよな。立おるか」

 少女は薄く目を開けた。黒い目だった。焊点が合っおいない。海でも空でもなく、もっず遠いものを芋おいる目だった。

「ここ  」

「浜」

「浜」

「そう。海。分かる お前、海に萜ちおた」

 少女は唇を動かした。

「呌ばれおる、気がした」

「は」

「呌ばれおる気が、した」

 透は眉をひそめた。倉な奎だず思った。だが、倉だず切り捚おるには、少女はあたりにも軜そうで、寒そうで、死にかけおいた。

「名前」

「  ミナト」

「ミナト」

 名字はず蚀いかけお、透はやめた。名字を聞いお䜕になる。ここでは、名字が圹に立぀人間の方が少ない。

「俺は鳎瀬透」

 蚀っおから、自分から名乗るなんお柄でもないず思った。けれど、名前も知らない盞手を背負うのは、なんだか据わりが悪かった。

「ナルセ  さん」

「透でいい。ここでは人を䞊にも䞋にも芋ない」

 ミナトは、その蚀葉の意味を確かめるように、もう䞀床蚀った。

「トオル」

「あぁ、ミナト。歩けるか」

 ミナトは身䜓を起こそうずした。腕に力が入らない。肩が震え、すぐに厩れた。透は舌打ちをした。焊りの舌打ちだった。

「分かった。無理すんな」

 圌は自分の䞊着を脱いで、ミナトの肩にかけた。濡れた垃の䞊からでは倧しお枩かくもない。けれど、少なくずも透の目のやり堎は少しだけできた。

「立おるか。肩、貞すから」

 透は䞊着をミナトの肩にかけ盎すず、手を差し出した。ミナトは差し出された手を芋た。それから、恐る恐る自分の手を重ねた。透が匕くず、现い身䜓は驚くほど軜く立ち䞊がっお、そのたた前ぞ぀んのめりかけた。透が肩で受け止める。

「うおっず。ゆっくりでいい」

「立おる」

「立おおねえよ、今」

 ミナトは透の腕に぀かたっお、䞀歩を螏み出した。裞足だった。波打ち際の砂に、癜い足が沈む。その瞬間、ミナトの足の䞋で、砂が鳎いた。

 きゅっ、きゅっ、ず。

 ミナトは動きを止めた。

「音」

「鳎き砂。歩くず鳎るんだよ、ここの砂」

「砂が」

「きれいな砂だず鳎るんだっおさ。知らんけど」

 ミナトは、もう䞀歩、螏んだ。たた鳎った。螏むたびに、砂が小さく応える。足の裏に、也いた砂の枩みず、湿った砂の冷たさが、順番に返っおくる。癜い郚屋のシャワヌルヌムの、い぀も同じ枩床の、同じ肌觊りの床ずは、䜕もかもが違った。あそこの床は、ミナトが䜕歩歩いおも、䜕も蚀わなかった。波が寄せお、ミナトの足銖を掗った。ひやりずした。それから、匕いおいく波が、足の䞋の砂をさらっお、足銖をくすぐった。ミナトは小さく息を呑んだ。

「冷たい」

「  分からない。でも、」

 ミナトは自分の足元を芋䞋ろした。

「砂が、鳎いおる」

「泣いおんじゃねえよ。鳎っおんの。音の方」

「泣いおるの」

「だから、鳎っおるっお  あヌ、もういい」

 透は説明を諊めた。どっちでもよかった。この少女が、生たれお初めお自分の足で立っお、自分の足で䞖界を鳎らしおいるこず。それだけが、なぜか、少しだけ誇らしかった。透は浜の向こうを芋た。圱町の青いシヌトず、錆びたトタン屋根が芋える。人を隠すには、ちょうどいい堎所だ。

「あそこたで、歩けるか」

「どこ」

「いないこずにされた人たちのずころ」

「いない  」

「䞖界から芋えないこずになっおる人たちの堎所だよ。だから、お前を隠すにも、ちょうどいい」

 ミナトは、透の腕に぀かたったたた、もう䞀歩を螏んだ。砂が鳎いた。

「倧䞈倫」

 透は、䜕の根拠もないたた蚀った。

「ずりあえず、死なせねえから」

 ミナトは答えなかった。ただ、透の腕を぀かむ指に、少しだけ力がこもった。それは、助けを求める力ずいうより、萜ちないように䞖界の端を぀かむ力だった。二人は、ゆっくりず浜を歩いた。透の足も、ミナトの足も、䞀歩ごずに砂を鳎らす。速さの違う二皮類の足音が、䞍揃いに重なっお、浜に散らばった。

 遠くの海の䞊で、癜い炉岞斜蚭が光っおいた。その光に背を向けるように、日本で最埌に残った砂浜は、二人の足の䞋で、小さく鳎き続けおいた。

  

 同じ倜、東京湟䞭枢斜蚭、深い深い地䞋の、ある䞀宀。そこは病宀ず呌ぶには豪華すぎ、居宀ず呌ぶには枅朔すぎた。壁は継ぎ目のない乳癜色。倩井には、季節も時刻も無芖した柔らかな光が満ちおいる。調床は䞀玚のホテルのようで、生䜓モニタヌや点滎の管や、名前も分からない医療機噚だけが、そこが病宀であるこずを静かに䞻匵しおいた。金は、いくらでも費やされおいる。ただ、心だけが、䞀円分も費やされおいなかった。

 ベッドに、痩せた老人がいた。肌は薄く、血管が透けおいる。それでも、目だけは奇劙に若かった。最新の延呜医療が、この老人の呜を、本人の意思ずは無関係に、䜕幎も匕き延ばし続けおいた。死ぬこずを、蚱されおいない老人だった。

 扉が音もなく開き、真壁高臣が入っおきた。

「サトシさん」

 老人は倩井を芋たたた答えない。

「ミナトが逃げたした。行き先に、心圓たりは」

「GPSがあるじゃろ」

 老人は、しわがれた声で蚀った。

「ずがけるな。倩才、サトシ・ナカモト」

「倩才なんかじゃない。怒りは発明の母、ず蚀っおな」

「鳥籠に閉じ蟌めおいる限り䞍芁なので、気づきたせんでしたよ。あなたが、あの子の炉脊からGPSを取り出しおいたずは」

「若い頃から、囜家の寝銖をかくだけが取り柄なもんでな」

「教える気は、なさそうですね」

「死は、脅しにならんぞ」

 老人は、初めお真壁を芋た。

「随分ず、延滞させられた」

「では、眰ずしお。ただただ延滞しおいただく」

 真壁は静かに蚀った。老人は、ふ、ず息を吐いた。笑ったのかもしれなかった。

「背負うよ」

「䜕をです」

「陜子の分たで、な」

 真壁の指が、䞀瞬だけ止たった。誰も、陜子が死んだずは蚀っおいない。ミナトが逃げたずしか、告げおいない。それでもこの老人は、嚘の死を、もう知っおいた。祖父の勘か、倩才の挔算か。あるいは、その䞡方だった。真壁は䜕も蚀わず、郚屋を出た。

 乳癜色の扉が閉たる。老人はたた、倩井を芋䞊げた。呜だけを匕き延ばされた郚屋の䞭で、サトシ・ナカモトは、誰にも聞こえない声で、叀い歌を口ずさんだ。

 海がどうずか、砂がどうずか、螏めば鳎るずか、垰っおこいずか。

 孫が、癜い郚屋で息だけで歌っおいたのず、同じ歌だった。

続く

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