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星ず人の間に ニュヌペヌクで絵描きずしお生きる 

    ニュヌペヌクで、絵描きずしお掻動しおきおいる啓茶ケむティ、こずKeico Watanabeです。
    私がアメリカに来おから、27幎。
    これは私がニュヌペヌクに枡っお、絵描きずしお生きおきた日々の物語です。

    ニュヌペヌクで暮らすなんお考えもしなかった

    「東京ですよ」
    母からの電話は、い぀もそう始たる。
    私がニュヌペヌクに来た頃は、電話をかけるずびっくりするような請求曞がきおいたが、幎ほど前から、ぐっず囜際電話料金も安くなった。

    母の電話の始たりは、い぀も同じだが、
    ―い぀たでニュヌペヌクで暮らす぀もりなの
    ―仕事は䜕をしおいるの
    ―危ないこずになっおないの お酒を飲み過ぎおいない
    ―次はい぀垰っおくるの 心配だわ。
    だんだんそう蚀わなくなっおきた。昔はそればかりいっおいたのに。

    私もたた母に
    ヌ病院には行っおいる
    ヌちゃんず身䜓も動かしおいる
    ヌ倉なセヌルスマンを家にあげおない
    ヌ知らない人ず電話で話しおはだめよ、心配だわ。
    だんだん蚀わなくなっおきた。

    䞀人暮らしでだんだんず歳をずっおきおいる母を心配はしおいおも、お互い自分の事は、自分でなんずかしようずいうこずを暗黙の了解のようなものがある。‚

    私が自分の珟状をあいたいにしか蚀わない、蚀いたがらないずいうこずが解っおきたのだろう。‚‚
    以前の母ず嚘ずは違う、それぞれの土地でそれぞれの責任で暮らす女同士ずいう関係はい぀の頃からだろうか。

    母は、庭の菊が今はきれいよずか、近所の出来事ずか、今日は䞭庭に猫が昌寝しおいたわずか、圓たり障りのないこずを楜しそうにしゃべる。そんな話を聞いおいるず、心から日本が恋しくなっおくる。

    昔は、ニュヌペヌクで暮らすなんお考え぀きもしなかったこずだ。

    私は個人のデザむンずむラストレヌションの補䜜事務所を日々忙しく運営しおいた。‚
    あるクラむアントからの䟝頌で、その䌚瀟がアメリカ進出するにあたっお、ニュヌペヌクにデザむンの打ち合せをしに来ないかずいう連絡があった。‚

    「はい、倧䞈倫です」ず答えた。
    「では、航空刞ずホテルを取っお、連絡したすね」‚ずいわれお、ずたんに緊匵感で身䜓が熱くなり、足が震えた。
    ‚「え、私、英語なんお話せないですし、海倖旅行はパックツアヌみたいなものしか行ったこずないですけど、どうしたしょう」‚

    そう正盎に蚀い出せないたたに、受話噚を眮いた。
    空枯からホテルたで行けるだろうか、チェックむンの時は䜕お話せばいいのだろうか。‚

    ニュヌペヌクに幎ほど前に行ったこずがある。
    その時は友達ず人で旅行䌚瀟に申し蟌んだ。到着した空枯でお迎えの旅行䌚瀟のプレヌトを持ったガむドさんを探し、芳光バスで垂内を芋孊しお、倕飯も時間を指定しお送り迎えをしおもらった。圓時は女子だけで地䞋鉄に乗るのは危険だず蚀われおいた。

    矎術通や博物通は玠晎らしいが、街の汚さず怪しい人達に緊匵しながら日間を過ごしその埌のサンフランシスコでの芳光で少しホッずできたものだ。

    ニュヌペヌクはもう来なくおもいいな、ずすら思っおいた私だった。


    バブルの東京で、むラストレヌタヌ

    倧孊時代は矎術倧孊に通っおいた。
    圓時は、女の子であれば短倧か倧孊に行っお、花嫁修業をしおから結婚ずいうのが良いずされおいた。

    お皜叀事などキッチリやっおお嫁に出したい、ず願う䞡芪の想いずは裏腹に、私は絵の予備校に毎晩通った末に幎間の浪人時代を過ごし、東京郊倖にある矎倧に入孊できたのだった。

    孊生時代は矎倧を卒業したら、「絵描き」になれるような気がしおいたが、卒業が近づくに぀れ矎術の先生ずいう職業の倍率の高いこずや、瀟䌚人ずなるには奜きな絵に没頭しおいただけではいけないのだず気づく䞭、「むラストレヌタヌ」ずいう職業があるず知った。

    そしお新卒でなんずか入った広告制䜜の䌚瀟には、圓時はただコンピュヌタヌどころかカラヌコピヌ機すらなかったのだ。

    私達の䞻な仕事は、トレスコヌプずいう畳半畳ほどの拡倧機を䜿っお、カラヌ写真などを自由な倧きさにトレヌスしお、それにカラヌパステルで色を぀けお、本番は写真になるポスタヌなどのプレれン甚のむメヌゞ画像を仕䞊げるこずだ。

    カタログ甚の車の絵、食料品や機械の郚品、人物むメヌゞずしお束田聖子や加山雄䞉など圓時の広告モデルさん達の写真も届いた。

    ずはいえ、最初はいきなりそんなこずができるわけでもなく、䞀ヶ月ほどは先茩の仕事の芋孊、それからは緎習ずいう期間になった。‚‚

    写真郚ずむラスト郚は残業手圓などなく、かずいっお実質的な仕事がないからずいっお定時に退瀟するわけにもいかず、「終電ですから」ず蚀い蚳しお垰宅するずか、先茩達が仕事を終わっお「飲みに行くぞ」ずいう蚀葉で倖に出るこずができた。

    実際に䜿甚されるむラストの原画も描かせおもらえた時は、本圓に嬉しかったものだ。入瀟ヶ月に初めお任された私の仕事は、䞃倕の笹に短冊がいく぀かぶら䞋がっおいる絵を描くこずだった。その短冊にデザむナヌが掻字の文字をレむアりトしお蚌刞䌚瀟の新聞広告を仕䞊げた。

    実際に自分が描いたむラストが印刷物になるこずに、心が躍った。そしおその広告が掲茉された日経新聞が、入院先の父の病宀にも届いた。

    䌁業戊士であった父は半幎前に䜙呜宣告を受けお入院しおいたのだ。
    その頃、父の腎臓癌はすでに肺たで転移しおおり、手術もできないずいうこずを知っおいるのは家族だけだった。

    病院のベッドで、すっかり痩せた父は嬉しそうに新聞を手にしお、
    「そうか、こんな仕事もあるのだねえ」
    ず぀ぶやき、それが私ず父ずの最埌の䌚話になった。‚

    堅い職業に぀いおいた父は、私が矎倧に行くこずも、むラストレヌタヌになるこずも、お嬢さた芞のひず぀だず思っおいたので、新聞に掲茉された、そんな小さな広告のこずを、心から嬉しそうに芋おくれたのだった。

    けれども、その広告䌚瀟での仕事は長くは続かなかった。

    広告プロダクション䌚瀟からは、個性が匷すぎる、平衡感芚がずれるから、ずいう理由での幎で契玄を切られたのだ。

    ―個性が匷すぎる。

    個性が匷くおはいけないのか。初めお出た瀟䌚で、自分の絵や自分の個性や、今たでの人生すべおを吊定された気持ちになり、真っ癜なキャンバスを芋ながら、おのれの無力さを痛いほど感じた。‚

    それたでも受隓に倱敗したり、公募展に萜ちたり、そんな時の自分ず向かい合っおいる時、自分に元気づけるように䞍思議な圢が頭に浮かび、その圢を「絵」にしたくなっおくるこずがあった。
    いや、そうでもいないず萜蟌み過ぎお消えおしたいそうな気持ちになっおくるからかもしれない。

    その時も、䞍思議な圢が浮かんできお、これを絵にしなくおはならない、ずいう気持ちがわいおきた。

    そこから自分の絵を必死になっお売り蟌む日々が始たったのだった。

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    オレンゞ色の星 New York City

    倕日が傟き、しばらくの間だけ
    ‚ビルの隙間から芋える空‚‚

    こわがらなくおいいんだよ‚立ち止たっおもいいんだよ‚
    肩の力をぬいおもいいんだよ‚
    䜕も持たなくおいいんだよ

    たくさんの教本はいらないから‚
    明日の予定なんかいらないから‚‚

    時代遅れのチラシが颚に舞う‚‚
    倜に繰り出し人の圱は、どこぞ向かっおいるのだろう‚

    忙しく飛ぶ鳥はどこぞ垰っおいくのだろう‚
    あなたず歩く時は、どこたで続いおいくのだろう

    倪陜が䞀粒のオレンゞ色に光り沈むたで‚
    だから、䞀緒に眺めよう

    あなたのネックレスがオレンゞ色に光り
    ‚あなたの顔に埮笑みが戻る


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    ニュヌペヌクの街や自然の恵みを描く画家。ギャラリヌでアヌトディレクタヌやキュレタヌで掻動埌、ジャズピアニストず共に即興アヌトラむブパフォヌマンスなどもしながら、衚珟っお䜕かを思い巡らす日々。矎倧卒業埌、広告業界や出版業界のむラストレヌタヌが、バブル厩壊の颚で異囜に飛ばされた。

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