
【青橙ノ余白】青橙ノ記憶─始まりの物語
◆この記事を書くきっかけ
noteでブログを書き始めてから1年と少し。
自分が書き始めるようになってから、他の長崎サポーターの方のブログも、ちょこちょこ読ませていただくようになった。
その中で、私が好きな作者の方がいる。
ぽんずさんと言って、ヴィヴィくんと笠柳選手のことを主に書いている方だ。
心が温まる優しい言葉が素敵なブログなので、ぜひ皆さんにも読んでほしい。
その、ぽんずさんの下記のブログを見て気づいた。
……あれ?私のブログ、自己紹介的な記事が無いな。
このブログを運営して1年余りになるが、今更、そのことに気づいた。
つまり、今まで読者の皆様は、ただ、異様に照山選手が好きな中年女性のサポーターのブログをずっと読まされていたことになる。
大変申し訳ない気持ちもあるが、得体のしれない不審者の記事を読み続けている読者の皆様も、たいがい物好きである。
だから、せめて、多少は私のことを説明しなければならないだろう。
──なぜ、私がV・ファーレン長崎を応援するのか、そして、なぜ、この「青橙ノ記憶」を始めることになったのか。
ちなみにこの記事では、なぜ照山選手を好きになったのかの話はあまりしない。
……多分。
もうこのブログで話しているし、読者の皆様には十分ご理解頂けていると思うからだ。
──あくまで、この記事は私とサッカーの話である。
◆サッカーとの出会い
私は元々運動音痴だ。
クラスでは必ずビリから2番目に足が遅かった。
サッカーをするなんてもってのほかだ。
確実にボールではなくて地面を蹴っていた。
だから、あえて、学校の授業ではボールがこないポジションにいた。
同じようなことをバスケットや似た競技でもしていたため、なぜかドッジボールを避けるのだけはやたら上手かった。
だから、私にとってサッカーは「見るもの」だった。
私の実家は、日本代表戦になると必ずテレビを付け、日本を応援していた。
私も、何となく親に引きずられ、応援していた。
ただ、サッカーを見るのは楽しかった。
もちろん、戦術なんてものは分からなかったが、単純に国を掛けて戦うという事に、幼心ながらロマンを感じていた。
当時、私の母は中田英寿選手を応援していた。
中田選手は野菜が嫌いで、野菜ジュースで栄養を摂取しているらしい。
本当かどうか分からないその噂に母は踊らされ、一時期、家には大量の野菜ジュースがあった。
子供心ながらに、母は何をやっているんだろうと思ったが、今なら気持ちが分かる。
母も母なら娘も娘である。
確実に母のDNAは私に受け継がれている。
そうでなければ、私はてりたまバーガーを1日に3個も食べないだろう。
だからこれは、私のせいではなく、母のせいである。
ただ、中学、高校、大学とライフステージが進むたび、私は少しづつサッカーから離れて行った。
他にも興味があることがたくさんあったからだ。
家で日本代表を応援するという機会は次第に無くなっていった。
◆V・ファーレン長崎との出会い
2013年の4月ごろだったと思う。
会社のパソコンの前で昼休憩を取っていた。
何の気なしに、ヤフーニュースのトップ画面を見た。
そこにはこんな文字があった。
「J2長崎、快進撃!」
長崎という文字が気になり、その記事をクリックした。
もう、内容はうろ覚えだが、J2リーグに昇格したばかりのV・ファーレン長崎が予想に反して大健闘しているというものだったと思う。
私はそこで初めて長崎県にプロサッカーチームがあることを知った。
そして、家族で日本代表を応援していたあの頃を思い出した。
……見に行ってみたいな。
それが私とV・ファーレン長崎との出会いだった。
ただ、観戦するにはしばらく時間を要した。
というのも、この時の私は月曜日から土曜日まで仕事をし、日曜日に資格学校に行くというとんでもない生活を送っていたからだ。
結局私の初観戦は資格試験が終わった、その年の10月20日に行われたFC岐阜戦だった。
この試合、3-0で快勝した。
スタジアムは盛り上がり、私はすっかり現地観戦の虜になった。
ただ、奥埜選手が退場してしまったのが気がかりだった。
逆に大丈夫かなと思ってむしろ気になるようになった。
ただ、実を言うと、本当に現地観戦にハマったのはこの試合ではない。
2014年、第8節の愛媛戦だ。
この試合、1-0で長崎が負けていた。
だけど、まず、石神選手のフリーキックで1点返した。
その後、後半アディショナルタイム、山田選手が得意のドリブルで持ち上がった。
その時、トラスタがものすごい歓声に包まれたのだ。
本当にすごかった。
全員が、「いけーーー!」と言っていた。
そして、山田選手が東選手にボールを送り、そのままシュートを決めた。
もう、トラスタは地鳴りのような歓声が鳴り響いた。
──今までこんな体験、したことがなかった。
本当の意味で現地観戦の醍醐味を知ったのがこの試合だった。
その時の歓声を味わいたくて、私はスタジアムに通うようになった。
2014年は初めていわゆる「推し」の選手ができた。
GKの大久保選手だ。
大きな体でゴールを守るのが頼もしいなという単純な理由だった。
その頃はどうやって応援したらいいのかよく分からなかった。
ただ可愛いからという理由だけでアウェイのピンクのGKユニフォームを買った。
しかも背番号がついていない。
今ならなんで番号付きを買わなかったんだと思うが、本当によく分からなかったのだ。
大久保選手は2016年まで在籍をしていたが、金銭的に厳しかった私は2014年のユニフォームでずっと応援を続けていた。
◆ 歓喜、そして激動の経営危機
2017年、「推し」を失った私はどうしようかなと思っていた。
そこに、とんでもないニュースが飛び込んできた。
1億2千万円の赤字。
え?これ大丈夫なのか?と思った。
ただ、この時点では、第三者割り当てを実施するという事だったので、まぁ、大丈夫なのか…?と思っていた。
その不穏な空気の中で行われた開幕戦。
1点目、角度がキツいフリーキックのボールがそのままゴールに入った。
今までの現地観戦で、私はそんなゴールを見たことがなかった。
この瞬間、私の「推し」はそのキックを蹴った島田選手に決まった。
この頃の私は、島田選手という「人」を応援していた。
ボランチというポジションがどんな役割なのかなんて、正直ほとんど分かっていなかった。
ただ、あのとんでもないフリーキック(と、男前な見た目)に心を奪われた。
私には、それだけで十分だった。
しかし、そうも言ってられない事態になってきた。
きな臭い話題が次々に出てきた。
やれ鍼灸院が不正だの、長崎の番記者さんを追い出しただの、極めつけは来月の選手の給料が払えないと言い出した。
下手したらクラブが無くなりかねない事態だ。
多分、この頃を過ごしたサポーターさんは皆そうだと思うが、私も、もれなく疲弊していた。
会社の前に信号のない、横断歩道があるのだが、ぼーっとして渡ってしまい、危うく車に引かれそうになったこともある。
……見守ることしかできない自分が歯痒かった。
紆余曲折あり、何とかジャパネットが子会社化してくれると知った時は、本当に安堵した。
まだ、V・ファーレン長崎を応援できることに感謝した。
その年の快進撃は私が語らずとも長崎サポーターならご存じだろう。
高木監督が5年かけて作り上げたチームがやっと実を結び、この年、J1に昇格した。
あの讃岐戦、私もトラスタにいて涙を流した。
この苦境を乗り越えてJ1という舞台をつかんでくれたみんなに感謝した。
◆ 離れてしまった時間、そして2024年の再会
ただ、2018年、初のJ1の舞台は甘くなかった。
その当時の最下位の最高勝ち点で長崎は降格した。
高木監督は退任した。
正直、これが私にとって、ものすごくショックだった。
私は高木監督の走るサッカーが好きだった。
2019年も変わらず長崎を応援するつもりだった。
ただ、私にとって初めての監督交代で気持ちがついて行かなかった。
せっかく「推し」の島田選手が残留してくれたのにも関わらずだ。
今振り返れば、島田選手を応援していたつもりで、していなかったんだと思う。
──ただ、表面の彼のプレーをなぞって満足しているだけだった。
また、間が悪いことに、この2019年から2023年の5年間、私の人生が大きく変わるライブイベントが立て続けに起きた。
島田選手も2020年に長崎を去った。
だから、トラスタに行く回数は目に見えて減っていた。
ハイライトやテキスト速報で何となく試合の確認をする程度だった。
特に、カリーレ監督の時は三角形戦術が分からなすぎて、激しく見る気を失ってしまった。
当時、所属してくれた選手には申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
また、きちんと応援しようと思ったのは2024年だ。
私のプライベートも落ち着き、そして何よりカリーレ監督がある意味自ら身を引いてくれたおかげで、また、応援したいなという気持ちが湧いたのだ。
高木さんがまた、長崎に戻って来てくれたというのも私の中では大きかった。
私は再びスタジアムに行くようになった。
この時は推しというほどでもないが、ふんわりフアンマ選手と櫛引選手を応援していた。
2人に共通していたのはガッツがあるプレーだ。
だから、何となくと言ったら失礼かもしれないが、2人が出場している時は2人とも応援していた。
そして、この年の8月、私は運命の出会いをすることになる。
そう、照山選手だ。
その月に行われたファン感謝祭。
照山選手はサポーターに向けて、新加入のあいさつをした。
彼の姿を直接見たのはその時が初めてだった。
私はその明るいキャラクターとほんの少しの野心に魅了された。
家に帰ってからすぐ、古巣のプレーを見漁った。
今までも応援してきた選手はいる。
だけど、ここまでハマったのは彼が初めてだった。
それからは、照山選手を応援するためにスタジアムに通うようになった。
ただ、この年、彼が移籍してきてから、長崎は勝てなくなった。
彼が来てから6試合、勝ちなしが続いた。
やっと勝つことができたのは彼の古巣のいわきFC戦だった。
だけど、彼はこの試合、脳震盪で途中退場した。
そこから彼のコンディションは上がらず、それ以降、2024年は彼のプレーを見ることはなかった。
◆青橙ノ記憶の始まり
2025年、出だしは順調だった。
だが、第7節の藤枝戦で初の敗北を喫してから、チームは泥沼の中を歩くことになった。
3連敗がありつつの7戦未勝利。
やっと第14節の富山戦で勝利を挙げた。
ただ、少しづつ勝利を重ねていたものの、チームは波に乗り切れず不安定なままだった。
第18節、アウェイ水戸戦。
今から思えば、おそらくこの試合が当時監督をしていた下平監督を解任する要因になったのだと思う。
0-3で敗戦。
しかも前半3分から10分の間に立て続けに3失点した。
私はその後のチームを見るのが辛かった。
あからさまに、動きが停滞した。
でも、この試合、照山選手が長崎に来て初めてシュートを放った。
何とかしたい、という彼の気持ちを痛いほど感じた。
だけど状況を打開することはできず、そのまま敗戦した。
この時、私は、悔しいというよりも悲しかった。
でも、彼のシュートにほんの少しだけ希望を感じた。
だから、このもやもやした気持ちを前向きなやり方で解消しようと思った。
何となく、私は、メモに照山選手のことを書きだした。
そうやってできたのがこのブログの一番最初にある記事だ。
その文章をXに載せると思いのほか反響があった。
この時に、私は人に文章を読んでもらうという楽しさを知った。
あれ?私、意外と文章を書けるな?と思った。
ちなみに、今まで自分に文才があると思ったことはない。
というのも、夏休みの読書感想文は本当に苦手で、ほぼ、母の感想文になっていたからだ。
本を読んでも何も感想が思い浮かばなかった。
……今なら分かる。
余りにも語彙力と人生経験が足らな過ぎたんだと思う。
だから、今、このブログを書けているのは、照山選手が私の中にあった「書きたい」という気持ちを目覚めさせてくれたおかげだ。
──彼との出会いがなければ、このブログは生まれなかった。
文章を書く楽しさを教えてくれたのは、間違いなく彼だった。
だけど、その前から私には長崎との記憶がある。
歓喜も、降格も、経営危機も、少し離れてしまった時間も。
その全部が積み重なって、今の私がいる。
だから私は、このブログを「青橙ノ記憶」と名付けた。
青と橙の景色の中で出会った人たち。
スタジアムで感じた歓声。
選手たちが残してくれた背中。
そして、その時々の私の気持ち。
その景色を忘れないために、この場所へ書き残している。
きっと十年後に読み返したら、「こんなこともあったな」と笑う日が来るのかもしれない。
だから私は、今日も青と橙の記憶を書き続ける。
◆初めての方に、まず読んでほしい【青橙ノ記憶】3本
・私が照山選手を応援するようになったきっかけを書いています。
・上記のブログをさらに掘り下げた内容です。ファンサービスから2024年の戦いを振り返っています。
・2026年、栃木シティへの期限付き移籍が発表されたときのブログです。この【青橙ノ記憶】の1つの転機です。