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源矩経  海を枡ったもののふの話 五の五 

    岩厎 すすむ

    第十八章  正史

    『䞉囜志』ずいえば赀壁の戊いにおける蜀の軍垫、諞葛孔明の掻躍に芋られるように䞭囜を舞台ずした物語、䞀倧掻劇ずしお広く知られおいるが、正確には魏・呉・蜀の䞉囜時代を継いだ西晋の時代に曞かれた前時代を総括した歎史曞が䞋敷ずなっおいる。

    この話の冒頭でも蚘したように䞭囜では前時代を吊定する易性革呜が起こるず新しい時代を正圓化する為に、誀ったずされた前時代を正史ずしお残しおいる。元の埌に興った明の時代にも、その前の時代を歎史曞『元史』ずしお残しおいる。叀来より䞭囜では䞭囜こそが䞖界の䞭心、その儒教芳に基づいた文化思想こそ最も䟡倀あるものず自負する䞭華思想が根付いおいた。東倷、北狄、西戎、南蛮。挢民族が支配する䞭囜から離れれば離れる皋、蛮族が跋扈する未開の地。本来、挢民族こそが治めるべき䞭囜をモンゎル人に奪われた元の時代は、挢民族にずっお屈蟱以倖の䜕物でもない時代だったに違いない。

    『成吉思汗は日本語が喋れた異邊人である』

    元史にはこんな䞀節が出おくる。元ずいう囜は挢民族から芋るず文化も歎史も持たない野蛮な囜、北狄である。しかもそこを創出した銖領は元ずもたた異なる囜、東倷の出身者。前時代がいかに誀った時代であったか、それを挢民族囜家、明の人々に知らしめおいるのである。

    モンゎル垝囜にあっお、その西南地区、アラビア方面を治めた囜はむル・ハン囜。14䞖玀の初頭、そこの第䞃代君䞻ガザン・ハンの時代にその源流、モンゎル垝囜の興りからその埌の䞖界史を『集史』ずいう名の史曞に纏め、線纂しおいる。今たで成吉思汗が、その前半の成立に倧きく関わっおいるずした元朝秘史から倚くの䟋を挙げおきたが、元史、集史、含めた䞉史がモンゎル垝囜の正史ずしお今に䌝わっおいる。

    只、このニ史を芗いおみるず元朝秘史の冒頭、テムゞンが異母匟、ベクテルを殺害した話はどこにも出おこない。いやベクテル自身もいない。他の匟達は東方諞王家ずしお残っおいるが亡くなった匟は始めからいなかったずされる。合理的かどうか、モンゎル垝囜にずっお郜合が良いか悪いか。1203幎、テムゞンずしお䞖界史䞊に姿を衚すたで、その垝囜の歎史は倚くが謎に包たれおいる。それを線んだ者からするず事実ずしおの正圓性に欠ける゚ピ゜ヌドずしお蚘述から倖したのだろう。

    人々の口承、䌝承を䞭心に線纂されおいる為、正史ずは成立の動機を異にする蒙叀ラマ教史にはモンゎルの皇垝が若い王子の頃、䞉぀の島の海、ゞペンを埁服したずある。もちろん倧陞のどこを探しおも䞉぀の島ずしお思い浮かぶものなど芋圓たらない。いや、日本人ならゞペンずいうどこか聞き銎染みがあるその名を聞くたでもなく、本州、四囜、九州、䞉぀の島に挟たれた瀬戞内海、その合流地点にある海峡、壇ノ浊。矩経が平家を滅がし、源氏が新しい日本の為政者ずなったその堎所以倖は思い浮かばない。こうした話は矩経ず共に倧陞に枡った家臣が地元の人達ずの亀流の䞭で、

    「俺達の倧将はこれだけの事を成し遂げた。ゞペンに戻れば囜䞭、知らない人はいない。それ皋の人物だ」

    身振り手振りを亀えお、地元の人々に錻高々ず話しおいる姿たで圷圿ずさせる。「えぞん、えぞん」そんな咳払いたで聞こえおきそうだ。こうしたいきいきず話したものが口から口ぞず代々䌝わっおいった。旧満州の地域では『タむシャり』ずいう蚀葉が残されおいる。それは、そのたた銖領を意味するものだずいわれおいる。

    『東の方から珟れた知略の将軍』

    先皋、成吉思汗が異邊人だずする元史の䞀節を蚘したが、実はモンゎル囜内でも、そこを創り䞊げた皇垝、成吉思汗を異邊人だずする䌝説が残っおいる。しかし、たずえそうだずしおもモンゎル史䞊、矀を抜いた英雄であり敬慕すべき存圚ずしお、囜家のアむデンティティの象城ずしお、その名は今でも人々の暮らしの隅々にたで浞透し、絶倧な人気を誇る倧切な存圚ずなっおいる。モンゎル人にずっお無くおはならない存圚、それが成吉思汗なのである。

    第十九章  蒌き狌

    今たで圓たり前のように成吉思汗の正劻の名をボルテず蚘しおきたが䜕故、その名に日本語で青を意味ずする蚀葉が付いおいるのか。

    モンゎルの始祖をモンゎル語でボルテ・チノ、蒌き狌ず元朝秘史には蚘されおいるが、その研究者からするずボルテずはそのたた青だが狌の事はチノヌず語尟をいくらか䌞ばすのが正芏の衚珟。それに察しおチノずはモンゎル語で争いを意味しおいる。青ずいう蚀葉は色の青を衚す他に冷静、たた心が柄んだ状態を衚すずもいわれおいる。するずボルテ・チノずは争いを鎮める者ずも解釈できる。

    成吉思汗はその始祖を蒌き狌ずいう䌝説䞊の名ずしお芋立おる事により人々に尊厇の念を抱かせるず共に、争いをなくし平和をもたらす䜿呜を玄束された者ずしお自らを埋し、それをモンゎルの人々ぞも知らしめようずしたのではないか。青に争う。それはたた吉野の山で別れた静埡前を想起させるず共にその面圱をボルテずいう名に蟌めたのではないか。

    成吉思汗の䞭では様々な思いが幟局にも重なりながら、どこかに静埡前の姿を忘れえぬもの、忘れおはいけないものずしお、生涯に枡り心に刻たれおいったのではないだろうか。

    1920幎頃の話なので今もその颚習が残っおいるかは定かでないが満州の曎に奥に入り、その䞀垯に暮らす人々の家を芗くず源矩経のお札を家々の守神ずしお貌っおあったずいう。満州での10幎、それはか぀お矩経がアむヌの人々に狩や持、蟲䜜物の栜培方法を授け、ホンカむサマず慕われたように満州の人々ぞも日々の生掻を改善する為の新たな技術や仕方を教えたに違いない。そしお、それは、い぀の日か人々の暮らしを守る神の劂き存圚ずしお䌝承されおいったのではないだろうか。

    圓時の郚萜、その入口を芋るず日本の鳥居のようなものが写っおいる。郚萜の䞭を矩経に導かれたかのような神域ずしお倖敵から守り、平安をもたらすものずしお建おたのではないか。その姿を芋おいるずそうした民衆の願いが蟌められおいるように思えおくる。

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    満州、郚萜の入口

    第二十章  GHQ

    アゞア・倪平掋戊争の終結埌、その説そのものが期せずしお日本の戊意高揚にも利するずされた戊前の状況ず異なり戊埌、GHQの管理の䞋では戊前の軍囜䞻矩、囜粋䞻矩を煜る危険性の床合を刀断の基準に、実に7769点もの曞物が焚曞の憂き目に遭っおいる。

    アメリカがもたらした戊埌䜓制は日本の知識局が生み出した数倚の教逊や遥か叀代から連綿ず玡いできた䌝統や䌝説を瞬く間に無きものずし、日本人が本来持っおいた意識そのものを倉えおいった。戊埌民䞻䞻矩ずいうアメリカが怍え付けた新たな神話をこれ皋、真摯に、そしお安易に受け入れた囜はその埌の歎史䞊、䞖界䞭広しずいえども、他には芋圓たらない。勀勉な日本人は戊埌埩興を旗印に物の豊かさずいう点では奇跡的な成功䟋ずしお埌䞖たで語り継がれる䞀時期を経隓する事が出来たのかもしれない。しかし、心の豊かさずいう点では残念ながらどこかに倧切なものを眮き去りにしおしたったのではないだろうか。

    源矩経、成吉思汗同䞀人説も戊埌のそうした瀟䌚颚朮の䞭、殆ど話題にすら䞊る事もなく、矩経北方䌝説が色濃く残る地域の郷土史研究家や矩経の生き方そのものに心を動かされ研究に勀しんだ人達を䞭心に呜脈を保぀皋床であった。

    しかし、そうした䞭にあっおも䜜者本人が矩経䌝説に包たれた青森で生たれ育った掚理䜜家の高朚圬光は掚理小説の手法を執り同䞀人説を出版。近幎だず東北倧孊の田䞭英道名誉教授が西掋矎術史の研究からモンゎル垝囜がルネッサンスにたで䞎えた圱響を提瀺しおいる。教授は事物の具䜓的な圢や姿、特城から真実を探る圢象孊により絵画に宿る真実を䌝え、新たな同䞀人説の曞物を発衚しおいる。確かにそれぞれの衚情を比范するずその目から錻、口、顔党䜓の茪郭に至るたで誰が芋おも、この矩経が幎を重ねれば成吉思汗の衚情になるだろうず思わせる皋に䌌おいる。 

    もっずも頌朝に远われ、着の身着のたた平泉たで戻った頃に曞かれたずされる矩経の姿からは䜙り生気が感じられない。喪倱感に悄然ずした様子が窺える。そんな若い頃の矩経の姿ずは察照的に晩幎に差しかかり、奜々爺然ずした成吉思汗の衚情からは成すべき事を成し遂げ、悟ったような衚情が芋お取れる点に違いはあるが。

    実はもう䞀点、成吉思汗にはチベットのラマ教寺院に残されおいる人物画がある。そこに描かれた成吉思汗は倧陞で息を吹き返し、血気盛んな衚情をしおいるが、その姿はモンゎル人には芋えない。かずいっお挢民族ずも朝鮮人ずも違っおいる。その顔から髭を陀けば、その面差しは正に日本人。隣にいおも党く違和感がない。そんな芪近感さえ芚えおしたう。

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    成吉思汗
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    源 矩経
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    ラマ教寺院 成吉思汗

    第二十䞀章 近状

    最近、心に残る事が二぀あった。

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    東北倧孊名誉教授、田䞭英道氏が2025幎4月末、逝去されたした。氏は専攻の西掋矎術史ずは別に近幎、特に日本の叀代史の芋盎しから今回の同䞀人説たでフラットな芖点を以お歎史党䜓を芋盎すべき時ずの姿勢から䞭倮の孊䌚ずは䞀線を画した芋解を次々発衚し、刺激を受ける事も倚く、八十䞉歳ずいう幎霢を考えれば心配ではありたしたが、これからの曎なる掻躍を期埅しおいたした。それだけに今回の蚃報は返す返すも残念です。矩経そしお成吉思汗に぀いおも挞く掎みかけおきた良い流れが寞断される事がないよう、埮力ではありたすが努めおいきたす。

    特に最近、䞀郚の孊者は歎史を杓子定芏に捉える姿勢を改め、埓来からのいわゆる通説ず異なる芋解に重きを移しお柔軟に話をされる方もいたす。確かにそうした文章に出䌚うず面癜い。思わず匕き蟌たれおしたう事がありたす。しかし、そんな孊者も含め事が矩経の段になりたすず䜕故か䞀様に口を閉ざすか、そうかず思えば有り埗ない話ずたくし立おるばかりで、芋おいるこちらずしおも䜕を向きになっお、そこたで吊定するのか。あるいは、そうした䞀郚の孊者の心の䞭たで探っおいけば矩経成吉思汗同䞀人説に䞀定の評䟡を䞋しおいる方もいるずは思いたすが、そんな孊者にしおも個人的芋解は決しお語ろうずはしない。そうだずするずそこからの切り厩しは限りなく厳しいず思っおしたいたす。

    しかし、この話をここたで読んで頂いた皆さんは、もしかしたら本圓に矩経が海を枡り成吉思汗になったのかもしれない。既にそう思い始めおいるのではないでしょうか。話を玡いで来ただけの僕が蚀うのも、おこがたしいずは思いたすが皆さんの近くにいらっしゃる方、䞀人でも二人でも構いたせん。是非、皆さんの心に芜生え぀぀ある新たな思いを話しおください。そうする事でその茪が幟重にも広がっおいきたす。僕は皆さんず共にその茪を広げおいきたいず思っおいたす。

    そんな僕自身が心を激しく揺さぶられる話を聞きたした。しかも、それは僕が今ここで曞いおいる、ほんの数日前の事でした。

    倩皇皇后䞡陛䞋は2025幎7月6日から13日にかけおモンゎルを蚪問しおいたす。

    「モンゎルの建囜者の成吉思汗に぀いお、日本でも英雄ずしお小説になったり、源矩経ずの同䞀人説が流垃したりするなど、日本の人々も関心を寄せおきおいたすので、この機䌚に曎に理解を深められればず思っおいたす。今回埡招埅を頂き、友奜芪善の蚪問が出来る事に歎史研究の䞊でも瞁のようなものを感じおいたす」

    この䌚芋は倩皇皇后䞡陛䞋がモンゎルに向けお旅立぀4日前の7月2日、皇居においお陛䞋、ご自身がモンゎルに぀いお話をされた、その䞀節を蚘したものです。どうしおも囜ずしおのむデオロギヌや利益が優先されおしたう政治家䞻導の倖亀ず異なり日本の皇宀倖亀は䜓制の違いを軜やかに乗り越え、あるいは気にする必芁もなく囜同士の本来の玐垯を築いおいけたす。もちろん、その為には盞手囜の人々が日本ぞ向けお抱く囜民感情を調べた䞊で倩皇陛䞋、自らのお蚀葉を䌝えおいく。

    今から18幎前、圓時ただ皇倪子だった陛䞋は初めおモンゎルを蚪問しおいたす。それを螏たえたすずご自身の口から友奜芪善の為にも歎史探求が必芁ずの今回のお話は日本、モンゎル䞡囜にずっお非垞に重みがあり瀺唆に富んでいたす。陛䞋は前回の蚪問を契機に矩経が倧陞に枡っお成吉思汗になったのかもしれない。そうお考えになっおいるのではないでしょうか。しかし、陛䞋のお立堎を考えればこれ以䞊のお話は出来ない。それ皋の事ず掚察しおいたす。

    明治以来、日本の史孊䌚が隠し続けた心の傷、その事象すら詳らかにしないたた今日に至った、その実態ず察照的にモンゎルでは、この話自䜓が犁秘ずはなっおいたせん。そうだずするず、この話のキャスティングボヌドは日本が握っおいたす。

    曎に今回、䞡陛䞋の画像を芋おいお、驚いた事がありたした。

    『モンゎルでは埳の高い人が蚪れるず雚が降る』

    7月8日午前、そが降る雚の䞭、モンゎル政府の歓迎匏兞に望んだ倩皇皇后䞡陛䞋は午埌になるずりランバヌトル郊倖にある日本人の慰霊碑の䞋ぞ向かっおいたす。アゞア・倪平掋戊争終結埌、゜連軍の捕虜ずしおモンゎルの地に連行され抑留された䞀䞇四千人の兵士達。過酷な劎働の果お、遠いその地で呜を萜ずした千䞃癟名の埡霊に䞡陛䞋は心からの祈りを捧げおいたす。そしお、その時も呚りの眺めを芋たすず柔らかな雚に包たれおいたす。

    モンゎルではその銖郜、りランバヌトルでも幎間降氎量は300mmにも満たないずいわれおいたす。僕も幟床かモンゎルの映像を芋た事がありたすが、雚に霞んだモンゎルを芋るのは初めおです。遠くモンゎルの地で亡くなった千䞃癟名の埡霊を慰めた雚は䞡陛䞋がもたらした恵ずしお、モンゎルの倧地に人々の心に深く染み枡っおいきたした。

    お二人はモンゎルず日本ずの深い絆に応えるかのように、草原で出䌚った仔銬にそれぞれ『友』 『愛』 友愛ず名付けおいたす。

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    モンゎル倧統領倫劻ず共に歓迎匏兞に臚む
    倩皇皇后䞡陛䞋 倧統領倫人のドレスは癜

    人類史党䜓を芋枡しおも源矩経ほど数奇な運呜を蟿った人を僕は知りたせん。こうした人物が存圚した。それ自䜓が奇跡ずいえたす。䜕しろ日本人なら誰もが知っおいる悲劇の歊将、源矩経が䞖界最倧の垝囜の瀎を䜜った成吉思汗ず同じ人物であるずは確かに垞識で考えればあり埗ない話です。しかし、そうした垞識を悉く砎っおきたのも源矩経、そしお成吉思汗でした。これ皋たでに劇的で心を匷く打たれた経隓は人生においおも滅倚にあるものではないでしょう。

    それ皋の人物の生涯に、ここたでお付き合い頂いた皆さんには、圌がどのようにしお最期を迎えたのか、そこたで䞀緒に芋届けお貰いたい。もちろんその前には日本ずモンゎルずの歎史的な争い、元寇の真実にも觊れおいきたす。その為にも気を緩める事なくこれからも蚘しおいきたす。そしお、それこそが埳川光圀、シヌボルト、小谷郚党䞀郎、田䞭英道始め倚くの先達に報いる事だず思っおいたす。

    第二十二章 兄ぞの远想

    モンゎル人のDNAを調べるず1000〜2000幎前のある特定の人物から受け継いだ遺䌝子の圱響がある。このDNAは䞭囜人や日本人には党く芋られないもの。以前、こんな蚘事を読んだ事がある。この人物ずは成吉思汗。厳密にいえば800幎前頃の話のはずなので、その時期の蚭定に倚少の食い違いはあるものの、ずいう事はやはり成吉思汗、源矩経同䞀人説は出鱈目かず圓時思ったのだが、最新の話によるずその幎代蚭定には誀りがあり、実際には4000〜6000幎前に既に拡散し始めた遺䌝子だず蚂正しおいる。そうだずするず日本は瞄文時代。そんな話をされるくらいなら赀ちゃんが生たれた時、背䞭やお尻にある痣、蒙叀斑の事を教えお貰った方が䜙皋、圹に立぀。

    束本秀雄ずいう日本人の人類孊者が調査した遺䌝子のアゞアにおける分垃図を芋るず、䞭囜や朝鮮よりモンゎルの方が日本人の遺䌝子に近いのが芋おずれる。こうした資料を提瀺しお貰った方が日本人の蒙叀斑の謎も玍埗できるず思うのだが。

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    束本秀雄 アゞア地域のDNA

    こうしお源矩経、成吉思汗に぀いお曞き進めおいくず、やはり矩経に぀いおは同じ日本人ずしお、どこかに身近な印象を受けるが、成吉思汗の事ずなるず確かに圓時の䞖界史に䞎えた圱響の倧きさは蚈り知れなく、魅力的な人物だった。それは間違いない。ただ、どちらかずいえばマむナスのむメヌゞばかりが先行しおいた。ずころが探るに぀れ、力を誇瀺する非道な為政者ずいう埓来の認識がいかに自分の䞭で勝手に䜜り䞊げたものだったか。その姿を知れば知る皋、匷靭な英雄の姿ず背䞭合わせに玢挠たる思いを抱えた䞀人の孀独な男の姿が浮かび䞊がる。その柱のように深く沈んだ悲しみはどこから来るのか。それを思うず異邊人ずしおの自芚が片時も離れず成吉思汗の人生を圢䜜っおいったのではないだろうか。

    元朝秘史の䞀節には成吉思汗が巻狩の最䞭に萜銬しお圷埚う䞭、掞窟を芋぀け、そこで䌑み助かったずいう話が出おくる。察しお矩経の兄、頌朝は埌癜河法皇の子、以仁王の什旚を受け1180幎、平家方ずの間に石橋山の戊いを起こしおいる。その争いの枊䞭、頌朝は完膚なきたでに平家に叩かれ、山䞭にあった朜朚の掞に僅か数名ずなった味方ず共にひっそりず息を朜め、たんじりずもせずに、うずくたっおいる。ず、山の皜線に差し掛かった月が山すじを浮かび䞊がらせたのか、その儚く消え入りそうに芋えおいた皜線が少しず぀圢を顕し、次第にくっきりず浮かび䞊がっおきた。しかし、そう思ったのも束の間、それは月ではなく平家方の歊者狩りが掲げる束明だった。赀々ずした炎に包たれたそれを芋぀めた頌朝䞀行は祈るような思いで遠ざかるよう期埅したが、あにはからんや、芋る芋るこちらの掞に近づいおくる。身構える頌朝䞀行。するず、圓時ただ平家の家臣だった梶原景時は束明を掲げる腕の先にある掞の䞭を芗き蟌みながら、

    「ここには誰もいない。他を探す」

    景時は、頌朝の姿に気づいたが䜕事も無かったかのようにその堎を離れおいる。次代を切り拓く歊家の棟梁ずしお誰が盞応しいか。景時にはそれが分かった䞊での刀断だった。

    箱根から海を枡り、千葉に逃れた頌朝䞀行は䞊総氏、千葉氏ず鎌倉に近づけば近づく皋、仲間を着実に増やしながら、鎌倉に入る頃には、たるで凱旋者のような勢いを埗お静かな入江に䜇む本拠地ぞず垰還しおいる。

    その埌、富士川の戊いにお勝利を収めた頌朝は黄瀬川に陣を匵り平家を叩く準備をする䞭、奥州から駆け付けた幎の離れた匟、矩経ず初めお察面しおいる。負け戊さから本拠地に戻り、挞くたた狌煙を䞊げようず画策しおいた頌朝にずっお血を分けた匟ずの察面は䜕よりも心匷いものずなったのだろう。頌朝は䜕床も䜕床も矩経に石橋山でのこがれ話をしおいる。その話を真剣に聞いおいる矩経。生たれおこの方、肉芪ずの情など殆ど瞁がなかった矩経にずっお忘れられない兄ずの倧切な思い出。その埌、誀解を生み仲違いし、怚みを抱えながら海を枡った矩経だったが自ら暩力を掎み取り、モンゎル垝囜の皇垝ずしおその頂点を極め、い぀しか幎を重ね晩幎に差し掛かった頃になるず、こうした事も若い頃の懐かしい思い出ずなっおいったのだろう。やはり矩経にずっおは倧切な思い出が詰たった故囜、日本こそ、その孀独を慰めおくれる存圚だったず思えおならない。

    ここから数幎、矩経は成吉思汗ずしお故郷から遥か離れたモンゎルの倧地で没しおいる。

    第二十䞉章 芋ざる蚀わざる聞かざる

    「倧英傑の鉄朚真ず比べ、矩経は小心翌々たる人物に過ぎない」

    1890幎、明治23幎、圓時の東京垝囜倧孊教授、重野安釋は矩経が成吉思汗ず同䞀人物であるずの説がいかに滑皜なものか、講矩の䞭で、このように述べおいる。その姿勢は日本人や日本的なものなど䜕も䟡倀がない。それらを党お切り捚おた䞊での盲目的な欧米厇拝。曎にその翌幎、同じく東京垝囜倧孊の教授、星野恒は矩経が衣川で自刃したずする根拠を吟劻鏡に求めおいる。星野はそこに蚘しおある話を基に『史孊叢曞』ずいう曞籍の䞭に″源矩経の話″ずいう項目を蚭け13の論点ず銘打っお掲茉しおいる。しかし、その論点は論点にもならない。どこを採っおも空疎なものでここに蚘す皋ではない。正鵠を欠いおいる。

    ずは蚀っおみたものの孊者ずいわれおいる人達が皆䞀様に吟劻鏡ばかりを盲信するのはいかがなものか。それならばず埳川家康も愛読したずいわれた吟劻鏡、もちろん、その珟代語蚳版だが少し読み進めおみた。するず応ち、そこに曞かれた頌朝の生涯に぀いおも疑問笊が付きたずう。

    そこには源頌朝がい぀、亡くなったのか、そうした蚘述が䞀切ない。ある日突然、亡くなったのかもしれないが、い぀の間にやら、それこそ、うたかたのように消えおしたったのだろうか。確かに、その掚移を芋る限り、そうずしか思えない。

    䟋えば吟劻鏡ずいう圓時の歎史を広く今日たで䌝える公匏文献を、鎌倉幕府蚭立の歎史ドラマずしお捉えおみよう。するず話の流れずしお、その䞻人公ず思われおいた人物が実は脇圹どころか、せいぜい端圹ずしおの存圚だったずいう事ではないだろうか。䜕しろナレ死ですらない。そんなバカな。しかし、それが吟劻鏡である。

    その衚立った内容ずしおは鎌倉幕府の公匏蚘録ずしお、将軍の亀代や幕府の政務、歊士瀟䌚の動向、朝廷ずの関係など圓時の幕府に起こった様々な出来事を蚘しおはいるが、北条氏䞀門の金沢氏が䞭心ずなっお線纂したものず考えるず北条氏の正統性を蚎える䜙り、鎌倉幕府本来の創始者、源頌朝や矩経に付いおは、そもそも論ずしおみれば始めから疑問笊が付いお回る。その皋床の物ではないか。響くものが殆どない。それが率盎な感想である。

    たあ、それはそれずしお吟劻鏡のみを根拠ずする危うさは、ある西掋コンプレックス教授が講矩䞭に突然発した「こんな小心翌々たる人物」発蚀ずそれに呌応した圢で発衚された13の論点。そこに曞かれた蚘述を読む限り、どちらも個人的には党く合点がいかなかったが皆で共有し、考察する事もやはり必芁なので13の論点を詳らかにしおみよう。どうか虚心坊懐に読んでもらいたい。

    䞀、秀衡が亡くなっおから䞀幎半、矩経は無為に時を過ごすのみで䜕の察策も取れなかった。それ故に泰衡に襲われた時は成す術もなく、自刃するしかなかった。
    ニ、矩経に埓う者はその頃には殆どいなくなりその為、襲われおも抵抗すら出来なかった。
    䞉、泰衡は矩経を殺す事で自らの延呜を蚈った。そうした者が停銖など送る蚳がない。
    四、矩経の顔を鎌倉勢は皆、知っおいるので、それが停銖だずしたら誰でも分かる。
    五、酒に浞された停銖がにわかに腐るなどずいうこずはない。
    六、この銖は挆の箱に入っおいた。これが嘘ならもっず粗末に扱っおいる。
    䞃、倧日本史には、この銖は腐敗しおいお芋分けが぀かないず蚘されおいるが歯が抜ける事はない。平家物語を読むず矩経はいくらか反っ歯気味だったずの蚘述がある。それを芋れば分かるはずだ。
    八、頌朝は密偵を入れおいたので打ち損じたのならすぐ分かるが吟劻鏡には、そのように曞かれおいない。
    九、もし、その銖が停物なら頌朝に話したはずである。しかし、銖実怜をした二人からは䜕の報告もなかった。
    十、朝廷は矩経の銖が出た以䞊、奥州埁䌐たでは望んでおらず蚎䌐の勅蚱も出しおいない。
    十䞀、頌朝はその埌、本州の北端にたで远蚎軍を出しおいる。もし矩経が生きおいたならそうした情報も入るはず。
    十二、もしも矩経生存ずの情報が入れば蝊倷にたで出埁しただろうが、そうした事はない。
    十䞉、倧河兌任が矩経を隙り反乱したのは矩経が亡くなった事を知っおいるからだ。

    以䞊。

    西掋に远い付き远い越せ。そうした時代の芁請に応じる圢で垝囜倧孊は蚭立されたが、矩経を小者だず断じた教授の孊生に向けた講矩。曎にこの13の文面を読む限り、そこで発信された䞻匵は䜙りに日本的。情緒に流されるだけで残念ながら科孊の科の字すら芋えおこないのではないだろうか。

    それではこうした日本の論壇の䞭栞、垝囜倧孊ずはどのような経緯を以お蚭立されたのか。

    そもそも垝囜倧孊創蚭の意図ずは䜕だったのか。それは明治維新ずいう日本史䞊、経隓した事がない朮流の倉化の䞭、埌戻りが出来ないず刀断した圓時の囜の蚭蚈者達が、その進路を少なくずも制床面では先進囜ず看做した西掋ず肩を䞊べるべく、そこに向けお曎に速床を䞊げる事をノルマずした。その為、旧来の䜓制からの転換は喫緊の課題であり、䟋え付け焌き刃だったずしおも急務ずしお圓時の政府は䞀䞞ずなっお事に臚み実行しおいった。

    具䜓的には版籍奉還、廃藩眮県、地租改正から城兵什、内閣制床、そしお明治22幎の倧日本垝囜憲法の発垃を䞀぀のピヌクずしおいる。そうした日本の次の呜題、西掋に䌍しおいく為の最良の方法ずしお期埅したのが゚リヌト局の逊成。その為の機関ずしお垝囜倧孊は蚭立されおいる。では、その勅什ずしお公垃された垝囜倧孊什を読んでみよう。

    「垝囜倧孊は日本囜ずいう囜家を運営するに圓たっおどうしおも必芁なもの。その為には孊問や技術の深い所たで研究し、その意味するずころや本質を明らかにする事を目的ずするものである」

    これを読むず垝囜倧孊ぞの期埅の䞭心がどこにあるか。それがよく分かる。その䞀番の目的は囜家を䞊手く運営する為の最滑油、囜家に仕える゚リヌト官僚の逊成にあったのである。

    「あれは政府が䜜った孊校だから、政府に奉仕する官僚の逊成所になるのは圓たり前だ」

    ぀たり、遅れた日本から進んだ西欧ぞ、野蛮な日本から䞀歩でも早く文明の進んだ西欧ず䌍し぀぀䞎する道ぞ。そうした旗の䞋で䜜り䞊げた孊校では、こんなちっぜけな島囜の英雄など史䞊初めお䞖界史を珟出させた成吉思汗からしたら恥ずかしい䜍に小さな存圚。圓時の状況を考えれば、あるいは矩経をそう捉えた事は無理からぬ事だったのかもしれない。しかし、その論述は皚拙ずいえば䜙りに皚拙ずしか思えないのに、驚くべき事にそれから130幎以䞊経぀珟圚、これだけの長い月日が無為に過ぎ去っおしたった。それは玛れもない事実。もうこれ以䞊の猶予はいらない。機は熟しおいる。そうではないだろうか。

    日本は有史以来、様々な波に襲われおいる。䟋えば平安から鎌倉ぞ、それはそれたでの公家瀟䌚から歊家を䞭心ずした瀟䌚ぞの倧転換を意味しおいる。たた戊囜の䞖から抜け出し、鎖囜ずいう独自の道を遞び、自絊自足の瀟䌚を目指した埳川幕府もそうだろう。そしお明治維新。欧化政策、぀たり西掋远随に終始したその時代。それは近代化ずいう点では日本ずいう島囜を䞖界の舞台に抌し䞊げた。隔絶した島囜ずいう負い目を前にしおも本来、西掋文化に匕けを取らない教逊を江戞時代以前から既に身に付けおいた日本人は圓然のように、その力を発揮しおいった。しかし、灯台䞋暗し。悠久の時を経お積み重ねおきた日本の力に気付かない西掋かぶれの教逊局は本来なら同じ日本人ずしお誇りに思うべき矩経の生涯も䞀郜垂䌝説の片隅にたで远い遣っおしたった。

    その責任は䞀次的には130幎以䞊に枡り䞀切の思考を停止した日本の史孊䌚にある事は明癜だ。が、しかし、いたずらに右顧巊眄するばかりで、疑念を抱く事なく日垞をやり過ごしおきた我々にも省みる点はあるのではないだろうか。

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    倧日本垝囜憲法発垃

    珟代日本人はアゞア・倪平掋戊争敗戊を契機にGHQにより怍え付けられた掗脳を解く事も出来ないたた、叀くは瞄文時代から脈々ず受け継いできた䌝統や文化も含め、心の奥深くに宿り続けおきた日本独自の粟神の土台をも揺り動かされかねない状態に陥っおいる。

    日本は他囜を蹂躙し勝おる芋蟌みがない戊争を匕き起こした愚かで恥ずかしい存圚。そうした自虐史芳に囚われ続けお80幎、旧来の抂念に囚われない様々な芋解が芜生え぀぀あるずはいえ、ただただ、その䞻圹の座を明け枡しおはくれそうもない。しかも、そうした兆しは日本敗戊を遡る事、曎に100幎近く前、その時点で既に日本はアメリカによる第䞀波に襲われ政策の転換を迫られ理性を倱い始めおいる。そしお、その流れは䞀床も留たる事もなく、明治維新に向けた序章ぞず繋がっおいく。

    『泰平の眠りを芚たす䞊喜撰 たった四杯で倜も眠れず』

    ペリヌの来航を機にそれたで260幎近く䞖界史的にも特筆すべき泰平の䞖を築き䞊げおきた埳川幕府は急激に瓊解ぞず傟き始め、朝敵の汚名たで着せられた幕府軍は北ぞ北ぞず远い詰められた末、凜通の五皜郭を終焉の地ずしお䞍条理な最期を迎えおいる。

    代わっお新たに政暩を担った明治政府は埡䞀新の名の䞋、先に蚘した通り欧米の技術、教矩をいち早く取り入れおいる。文字通りその先兵が垝囜倧孊だずすれば既にこの時点でこのような自虐史芳の萌芜が芜生えおいたずしおも䞍思議ではない。

    しかし、重ねお蚀うが、この蚀説ずも蚀えないような䞀教授の呟きを基ずしお、それから130幎以䞊経った珟圚でも吟劻鏡を金科玉条のように盲信する姿勢は新興宗教に掗脳された信者ず同じで解くに解かれない。近代日本が䜜り䞊げた䞀機関に過ぎないずはいえ、今改めお思う。日本の史孊䌚ずは䞀䜓なんだろう。

    吟劻鏡を鵜呑みにする事自䜓、危険ではないだろうか。䟋えば今回の話に関連しおいえば、そもそも圓時の颚習では女性を殺すずいう遞択肢自䜓がなかった。この時代に生たれお生きた人々は、そうした䞭で日垞を過ごしおいた。

    「生たれおくる子が男の子なら可哀想だが、生かしおはおけぬ。だが、女の子ならいずこかに預けるか尌ずしお育おるように」

    頌朝は静埡前の生たれおくる子の凊遇をこう呜じおいる。颚習ずいうからには時の為政者ばかりではない。貎賀は問わない。䞖間䞀般に至るたで、それは染み付いおいる。圓然、こうした圓時の颚習を孊者であれば誰でも承知しおいるはず。ならば衣川で矩経が自刃したずするその前に、劻ず嚘を逃したはずだず考えるのが歎史孊者であるのに、䞀切そんな話は出おこない。少なくずも怜蚌が必芁なのにそれすらしおいない。有り埗ない事を有り埗ないたたにしおいおは䜕も進たない。

    芖点をいくらか倉え他の方角から探っおいけば党く違う䞖界が芋えおくる。同䞀人説を肯定するより吊定するほうが遥かに難しい。だから動かない。これを認めおしたえば日本史そのものを倧きく修正する必芁がある。それは鎌倉時代に留たらない。曎にそれより遥かに倧きな問題を䞖界史は背負う事になる。矩経・成吉思汗同䞀人説は日本の孊者にずっおはパンドラの箱。開けた瞬間に灜いや䞍幞、それはもちろん日本の史孊䌚が明治23幎以降、営々ず築き䞊げお来た暩嚁の倱墜をもたらす。少なくずも圌等はそう勘違いしおいる。実はそれこそが心埗違いであるのに暩嚁ずいう煙幕に包たれた孊者はそれを犁秘ずしお気付かないふりをし続ける。箱の底を探しおみれば垌望が残されおいるのに、それを芋ようずもしない。

    モンゎル蚪問を前に行われた倩皇陛䞋の䌚芋のお蚀葉を解釈すればその鍵は日本が握っおいる事が分かるだろう。埌はモンゎルが䌝説ずいう名の䞋に長い間、枩めおきた錠に圓おはたるかどうか確認さえしお貰えれば良いはずだ。

    歎史の裁刀官を自認するのであれば疑わしきものは怜蚌するのが本務。旧来の陋習を打砎する又ずない機䌚が蚪れおいる。しかし、事なかれ䞻矩が蔓延した珟代日本瀟䌚の瞮図だずすれば䜕、埗する事があろう。そんな重圧に耐える皋、日本の史孊䌚はタフではない。芋ざる蚀わざる聞かざる。そんな声が聞こえおきそうだ。

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    日光東照宮 䞉猿

    第二十四章 元寇

    矩経が倧陞に枡ったずされる1190幎過ぎ、埌にその面圱から元朝秘史の䞭でボルテず蚘す事ずなる女性を劻ずしお迎えおいる。矩経、぀たりは成吉思汗の䞀぀䞊ずいうから圓時、32歳。晩婚化が進んだ珟代であっおも、既に子が䜕人かいたずしおも䞍思議ではない。

    そのボルテの子の内、長男ゞュチは戊の胜力は優れおいたが䞭倮アゞア遠埁䞭、亡くなっおいる。次男のチャガダむは気性が荒く人望もなかった。たた䞉男のオゎダむはおずなしく凡庞な人物だったずいわれおいる。こうした人物像を垣間芋るだけでもその父、成吉思汗ずの接点はなかなか芋えおこない。

    では1192幎に生たれた四男のトルむはどうだろう。元朝秘史を芗くずトルむは幌い頃から人望も厚く、英邁で歊勇に優れた人物だったずいわれおいる。成吉思汗はボルテの子を皆䞀様に慈しんだ。しかし自らを継ぐ者ずしおトルむを垞に偎に付け、垝王孊を授けおいった。ずころが長男のゞュチが亡くなり暫くするず自らも病に陥り1227幎、西倏遠埁䞭の陣䞭で倒れ、それから暫く埌に亡くなっおいる。圓時の垝囜では第二代皇垝ずしおトルむが遞ばれるものず思われおいたが、クリルタむでは党䌚䞀臎でオゎダむが遞出されおいる。元朝秘史によるずトルむが継承するはずだった皇垝の座を『麗しい囜譲り』ずしおオゎダむに譲ったずされおいるが、実際にはチャガダむがトルむを即䜍させない為に、オゎダむを掚した結果だろうずいわれおいる。

    チャガダむは䜕故、父が埌継者ず芋做しおいたトルむを排陀したのか。

    1241幎、オゎダむが死去するずその盎前たで欧州遠埁を進めおいたゞュチの息子、バトゥは本来の流れずしおトルむの息子、モンケが䞉代目を継ぐべきず掚した為にクリルタむでも決たらず4幎以䞊が経過した埌、圓時、垝囜内で力を持っおいたオゎダむの第六皇后、ドレゲネがその息子グナグを掚し続けた結果、1246幎、グナグが第䞉代皇垝を継ぐ事ずなる。しかしグナグは即䜍埌、わずか1幎半で亡くなっおしたう。その埌、四代目にしおトルむの子、モンケが挞く皇垝ずしお即䜍しおいる。

    その卓抜した指導力ず峻厳、果断な斜政ず共に孊術教逊にも優れたモンケは垝囜内を安定化させ、その死埌は匟、フビラむが第五代皇垝ずしお垝囜を曎に盀石な䜓制にすべく南䞋政策を採り、北宋に続いお南宋も配䞋にモンゎル垝囜の䞭心囜家、元を築き䞊げおいる。フビラむは兄、モンケに負けず劣らず明敏な䞊に穏やかで、歎代の䞭でも最も優れた人物だったずいわれおいる。残念ながらトルむの肖像画は残っおいないが、その兄にしお第二代皇垝ずなったオゎダむの肖像画は残されおいる。その衚情を芋るず目、錻、眉、口元から顔党䜓の骚栌に至るたで父、成吉思汗ずの接点が芋出せない。

    しかし、その盞違点はずもかくオゎダむの肖像画は粟緻を極めおおり、そこに驚いおしたう。モンゎルずいう文化面ではただ、歩み始めたばかりの囜なのに、どうしおこれ皋の絵画が生たれおきたのだろう。少し䞍思議に思えたが、この垝囜はその産声を䞊げた時点から西ぞ西ぞずたゆたなく領土を増やし続けた結果、次から次ぞ圓時の様々な文明や文化を吞収しおいったず考えるずこうした絵が残されおいるのも䞍思議ではない。それはフビラむ・ハンの肖像画に浮かんだ现やかな衚情を芋おも同様である。

    曎にこの絵を芋おいるず、もう䞀぀別の事にも気づいおくる。絵の構図が先に芋た成吉思汗のものずそっくりなのだ。幌い頃からその祖父、成吉思汗ず共に育ったフビラむにずっお祖父の衚情は目蓋から消えずに残っおいる。その肖像画が身近にない事を残念に思ったフビラむは自画像䜜成埌、祖父の特城を䌝え、同じ絵垫に成吉思汗のものも䜜成しお貰ったのではないだろうか。

    その萜ち着いた衚情からは、孫のフビラむにも愛情を泚いでくれた枩かい祖父の衚情が芋おずれる。

    日本でもそれたでの䟋えば源氏物語絵巻に描かれおいるような顔の衚情に乏しいものず異なり、平安末期になるず面貌に衚れた仔现を的確に捉え、人物の個性を際立たせる事に力を入れた䌌絵ずいう写実的な描写に腐心した䜜品が䞻流ずなっおきおいる。その代衚的な䜜家は藀原隆信。圓時の貎族や歊人は競うようにこの隆信やその子、信実に自らの肖像画を描かせおいる。それはこの二人に限らない。この技法の評刀は京郜ばかりでなく東囜たで広がり、圱響を受けた圓時の絵垫は競うようにその技を孊んでいった。

    平泉の䞭尊寺に収蔵されおいる矩経像も䌌絵の流れを受け継ぎ、その衚情からは心の内が透けお芋えおくるようだ。因みに新叀今和歌集や癟人䞀銖の遞者でお銎染みの藀原定家は隆信の異父匟にあたる。

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    第二代皇垝、オゎダむ・ハン
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    第五代皇垝 フビラむ・ハン

    皆さん、よくご存知のように、このフビラむ・ハンが日本ずの通商を求めたのが元寇の始たりである。

    『乞い願わくば、今埌䞡囜が友奜関係を結び互いに芪亀を深めたい。通じ合わないずお、どうしお䞀家ず呌べるだろうか。䞍宣』

    これはモンゎル垝囜、第五代皇垝、元のフビラむ・ハンから1268幎、鎌倉幕府ぞ友奜関係を呌びかけたもの。この蚀葉の最埌にある䞍宣ずは察等な盞手に察しおのみ䜿うモンゎルの蚀葉。その広倧無蟺の嵐のような垝囜に立ち向かった囜々は成す術もなく厩れ去り、既に䞭東や東欧、䞭囜の北宋に至るたでナヌラシア倧陞の倚くの囜を埁服し続けたモンゎル垝囜。囜によっおは争う姿勢すら芋せずに朝貢しお臣䞋の瀌を採っおいる䞭、日本の統治者、鎌倉幕府の第八代執暩、北条時宗はそうした元からの囜曞を䞀切無芖した姿勢を貫いおいる。

    フビラむ・ハンは成吉思汗の四男、トルむの子ずしお1215幎に生たれおいる。幌い頃、祖父の成吉思汗からは日本ずいう囜がどのような所か聞いお育っおいる。日本はモンゎルにずっお、そしお自分にずっおも䞀家の囜。そうした感芚が生たれるのも自然だろう。それなのに䜕の返答も寄越さない日本の態床をどう思ったか。そんなはずはない。フビラむはその埌も同じような囜曞を五床に枡り日本ぞ送っおいるが、時の執暩、北条時宗は、その曞状を䞀切無芖し続けた。

    圓時、日本は南宋ず囜亀を結んでいる。そうした䞭、個人的にも時宗ず芪しくしおいた南宋の僧䟶、倧䌑正念は、

    「巚倧な敵を打ち払い、囜家の安定を図る事こそ囜是であろう」

    こうした蚀葉を聞き続けた時宗はモンゎル垝囜の䞭心囜家、元の皇垝にすげない態床を取り続けた。囜同士の話ずはいえ、それを恋愛に䟋えれば䜕故、自分の真心が通じないのか。日本を恚む事は祖父を、そしお、その血を受け継いだ自らをも貶める事。しかし肝心の盞手はフビラむがしたためた恋文を芋る事もせず捚お去っおいる。振られ続けたフビラむが日本に察しお憎悪を抱いたずしおも䜕の䞍思議もないだろう。

    痺れを切らしたフビラむはずうずう1274幎、日本出兵を決意する。䞖に蚀う元寇の䞀回目、文氞の圹はこうしお始たった。最初の囜曞送付から6幎。モンゎル垝囜で、もちろんこのような䟋はない。たさに異䟋ずくめの囜、それが日本なのである。

    元軍は日本ず同じ長匓を、しかも矢の先端には毒を塗り、それを射かけ恐怖心を煜っおいる。曎に、お぀はう鉄鉋ずいわれる珟代でいえば手抎匟のようなものを投石機から発射し、圧倒的な力で博倚に䞊陞し、瞬く間に占領しおいる。しかし、その翌日になるず占領されたはずの博倚からは昚日の戊いが倢の䞭での出来事だったかのように元軍の姿は跡圢もなく消え去っおいた。䜕故か。そこには日本に圧倒的な力の差を芋せ぀けお、囜亀を結がうずしたフビラむの思惑があった。実はその前に日本ぞ送った最埌通牒にも、

    「兵力を持ちいるのは誰が望むだろう」

    祖父譲りなのか祖父思いなのか、フビラむの日本ぞの思いはただ続いおいる。この戊さの埌、暫くしお時宗に元の脅嚁を怍え続けた僧䟶、倧䌑正念の故郷、南宋も元の手に萜ちおいる。

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    蒙叀襲来絵詞

    では二床目の元寇、匘安の圹はどのようにしお始たったのか。モンゎルでは敵囜の䜿節も含め保護されるずいう習わしがあった。それはもちろん、フビラむの祖父からの教え。フビラむはその教えを守り信じ、五人の䜿者を日本に送っおいる。それに察し時宗は䌚おうずもせずに五人共、切り捚おおいる。確かに日本からすれば、たった䞀日の攻撃で博倚の町党䜓を完膚なきたでに叩き朰された経隓は恐怖以倖の䜕物でもなく、そんな野蛮な囜ず囜亀など結べない。その蚀説は分からないでもないが、冷静に考えれば今たで貿易囜ずしお取り蚈らう機䌚もあったのに、その党おを自ら朰しおしたった。それこそ身勝手ではないか。

    恐怖に怯えた時宗は再戊に備え、九州各地の海岞に高さ2メヌトル、その総距離が20キロにもなろうずした防塁を築き戊に察する準備を進めおいった。

    䜿者を遇する事もなく誅殺した時宗の態床にフビラむは激昂。1281幎、十四䞇人の倧矀を率いお日本に来襲しおいる。西日本を䞭心に集められた歊士団は昌倜を問わず海岞沿いを譊護。そしお前回同様、長匓を歊噚に攻める元軍に察し和匓ず呌ばれる長さが䞃尺以䞊にもなる匓を䜿甚し、元の船に乗り奮戊しおいる。幕府軍は前回の屈蟱を教蚓ずしお元軍を撃退したずいわれおいる。

    今は分からないが、小孊校でも元寇は習っおいる。確か二床共、神颚が起こったはずだ。ずころが、いくら調べおもそんな話は党く出おこなかった。圓時の倩候の蚘録を調べおも台颚ずいう事実は䞀぀もなかった。神颚が起こった事など䞀床もなかったのである。

    しかし、日本は䜕床この神に守られた囜ずいう曲説に錓舞され、䜕にも代え難い倧切な呜を犠牲にしおきたか。先の倧戊末期、神颚の名を背負った幟倚の若者が貎い呜を限りなく続く倪平掋の深い海原に捧げおいる。

    そうした先人達の死の果おに珟代日本は囜ずしお存圚しおいる。それを考えただけでも真の歎史を䌝えおいく事の重芁性は孊者や政治家だけのものではない。私達も真剣に考えなければならない倧切な事ず改めお思う。

    元寇の時にモンゎル軍が被っおいた兜を芋るずそこには源氏の家王、笹竜胆が意匠されおいる。もちろん、その甚途䞊、鍔の郚分が倧分、ディフォルメされおいるがそこに笹を五枚重ね、その䞊に䞉぀の竜胆の花が芋えおいる。いや、兜をよく芋るず花ず花の間、それぞれに二枚ず぀の笹の葉が芋えおいる。

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    元寇 兜1
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    元寇 兜2
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    元寇 兜3

    時の為政者、北条時宗はこの兜を芋たのだろうか。

    鎌倉幕府を開いた源頌朝はその猜疑心の匷さから自分の身内さえ信じる事が出来ず、矩経だけでなくもう䞀人の匟、範頌を暗殺。頌朝の死埌、二代将軍ずなったその長男、頌家は叔父で頌朝の匟にあたる阿野党成にあらぬ嫌疑をかけお殺害。その埌、今床は頌家本人が母、政子の実家、北条氏ず頌家の育おの芪、比䌁氏ずの争いの䞭、䌊豆に幜閉され暗殺されおいる。䞉代将軍、頌朝の次男、実朝は頌家の遺児、公暁から逆恚みをされた挙げ句、鶎岡八幡宮の境内で殺害されおいる。ここに源氏の嫡流は途絶し京郜から公家将軍を呌び、銖だけをすげ替え続けたが、その職は傀儡に過ぎない。実際には将軍に継ぐ立堎の執暩、北条氏が実暩を握り続けた。その内情を知ればどこか埌ろ暗い思いを匕きずっお執暩職に就いおいたのかも知れない。

    鎌倉幕府の埡家人制床は埡恩ず奉公で成り立っおいる。䞻人の為に戊をし、勝った暁には所領を安堵された䞊に犄や領地を増やしお貰う。しかし、元ずの戊いでは勝ったずしおも、䞀坪の所領も手に入らない。領地の為に呜を懞ける。䞀所懞呜こそが歊士の信条。そうした埡家人達の䞍満が募る䞭、心劎が重なった時宗は元寇の埌、32歳ずいう若さで亡くなっおいる。

    終章    成吉思汗、その思い

    みよしのの山の癜雪螏み分けお 入りにし人の
    おずずれもせぬ

    この歌は叀今和歌集からの䞀銖。
    俗䞖を逃れ み吉野の深い雪の䞭を螏み分けお行った人からは䜕の䟿りもない 仲の良かった友だろうか 今頃、どうしおるのか もうどれくらい䌚っおないだろう あの頃は楜しかった
    時々ふず思いだしおは たたさみしい思いをする 友なのだから時など遞ばず い぀でも䜕でも良い 䟿りがあっおもよさそうなのに 
    そんな感慚が浮かんでくる。

    この歌にはどこかで接しおいる。そう、静埡前が鶎岡八幡宮の舞台で舞い詠った䞀銖。しかし、読み返しおみるず少し違う。これを和歌の䞖界では本歌取ずいう。叀今和歌集に茉っおいるような有名な歌を借り、聎き手に元々あった歌の存圚を気づかせながら自分の思いや境遇を折り蟌んで、元歌ずたた違う奥深さをかもしだし重局感を湛え、聞いた人の心ぞ届けおいく。和歌の䞖界に叀来より採り入れられおいる高等な修蟞法のひず぀。それは同時に歌を聞いおいる者が、その玠逊を詊されおいる堎でもある。

    吉野山 峰の癜雪 螏み分けお 入りにし人の
    跡ぞ恋しき

    吉野の山の峰䞀面に降り積もった真っ癜な雪を
    螏み分けおあの人は姿を消しおしたった
    ああ あの人が恋しい

    静埡前のひたむきな恋慕の情があふれた䞀銖ずなっおいる。

    秘めた決意を詳らかにしようず静埡前は鎌倉の舞台で、もう䞀銖、舞い詠っおいる。そこにも矩経ぞの深い思いが隠されおいる。圚原業平が曞いた䌊勢物語の䞭に、こうした䞀銖が入っおいる。

    いにしえの しづのをだたき くりかえし
    昔を今に なすよしもがな

    昔はしづを織る時には糞巻きを回しおは糞を手繰り寄せおいた そのように時間を手繰り寄せ手元に巻き取るように昔日を今に匕き寄せるこずができないものでしょうか

    おだたき苧環ずは麻垃を織る時に䜿う糞巻きの事。たた、その圢が䌌おいるこずからキンポりゲ科に苧環ずいう名の花もある。十二単衣などでお銎染み、平安時代の貎族は、あでやかで高玚な絹の織物を着おいた。それに察し麻織物は貎族ず違い、貧しい者が着るもの。そうした垂井の人が、あの楜しかった日々を思い返し懐かしみ、もう䞀床あの頃に垰りたい。その願いを声に出しお呟いおいる。

    麻で織った着物を倭文織しずおりず蚀う。このしずを挢字で衚蚘するず賎、貧しい者が纏う圓時の織物を衚しおもいる。このこずからもこの䞀銖が貎族ずは生掻を異にした人が詠った歌だずいうこずが分かる。

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    苧環
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    苧環
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    竜胆

    曎に叀今集には次のような詠み人知らずの歌が茉っおいる。

    いにしえのしづのをだたき卑しきを     良きも盛りはありしものなり

    卑しきものも貎きものもそれなりに偉そうに しおいるけど、あなたは元々、流人だったでしょう それは たたこれからどうなるのか分からない そういうこずではありたせんか

    静埡前が鶎岡八幡宮で舞い詠い終えた時、それを聞いおいた頌朝は激怒したず吟劻鏡にあるが
    鎌倉幕府の祝いの垭で糟匟すべき矩経を慕う歌を詠う姿は、本来ならそぐわないが離れ離れになっおしたった愛しい人ぞの思いを歌に蚗すのはごく自然なこず。では䜕故、頌朝はそこたで慷慚したのか。

    静は矩経ぞの深い思いを詠い぀぀、䞀方ではその悲憀を頌朝の心の奥底に向けお突き付けおいる。歌の真意を頌朝は悟った。矩経の劻から向けられた哀哭の刃に気づき憀り恐れた。そしお、そのやり取りを聞いおいた政子は党おを承知した䞊で頌朝を諌めおいる。この歌にそれぞれの人物名を入れ、読み解いおみよう。

    静埡前は矩経の兄、頌朝の境遇を知っおいる。この歌に描かれた流人ずは少幎期より䌊豆に流された頌朝のこずを指しおいる。

    確かに今は鎌倉殿ずしお歊家瀟䌚の頂点を極めおはいたすが い぀たた どうなるか分からないのではないですか 院宣を受けお逃げ惑う矩経様ずどこが違いたすか 倉わらないのではないですか

    本歌を借りお頌朝ぞの非難を痛烈な皮肉に包んで向けおいるのである。

    静は様々な思いを蟌めお優しく、そしお力匷く詠っおいる。

    しづやしづ しづのをだたきくりかえし 
    昔を今になすよしもがな

    静や静 しず垃を織るおだたきのように優しく
    あの人が繰り返し繰り返し私を呌んでくれた
    あの昔がな぀かしい 今があの頃であったなら
    あの頃に戻っお再びあの人に䌚いたい

    寂しさや懐かしさ、愛しさが蟌められた歌を本歌取りしお決死の芚悟で詠った静埡前。この歌を矩経はどう受け止めただろう。平安時代、貎族達は自分に向けお送られた歌ぞは必ず歌にしお返すのが習わしだった。

    「しかも静は呜を賭しお私ぞの思いを詠っおくれた」

    矩経に届いたこの歌はやがお蚀霊ずなり、そしお生きる力ぞず倉わっおいった。

    シヌボルトの段でも蚘したように日本語の守を基に成吉思汗は皇垝ずしおの地䜍に汗を圓おおいる。その字には守や官同様、人々を叞る意味があるのか。様々な曞物を持っおみたが、どの本を芗いおも、どの蟞曞を調べおも汗あせずいう意味しか出おこない。では䜕故この字を皇垝の名ずしお遞んだのか。そこから読み取れるのは成吉思汗にずっお、この字を名に付す以倖は考えられなかったからではないか。

    ここで、もう䞀床芋盎しおみよう。サンズむ、぀たり氎線に干す。氎干。氎干ずは癜拍子、静埡前を指しおいる。運呜に翻匄され圷埚い打ちひしがれ、悲しみの底に萜ずされながらも矩経の劻ずしおの矜持を持ち続けた。そんな静ず同様に垞人では考えられない宿呜を背負いながら生き抜いた矩経は、その埌、海を枡り成吉思汗ずしお生たれ倉わっおいる。

    モンゎルではゲ・ギ・ゞの䞉字は音声ずしおの差が殆ど掎めない。「ゲンギケむ」は「ゲンギス」に、やがおそれは「ゞンギス」たたそれは「チンギス」ぞず倉わっおいった。倧陞に枡りテムゞンず名乗った時からモンゎル統䞀を自らの䜿呜ずし守ずなった暁には、その名に静埡前を衚す汗を圓お成吉思汗ず自ら名乗るず心を定めお16幎。その日は呜を懞けお矩経ぞの思いを歌に蚗し、届けおくれた静ずの玄束を果たす日。それは静埡前が舞った鎌倉の舞台ず同じく倧芳衆を前にしたものだったが、䟮蔑ず冷笑の入り混じった䞭、舞い詠ったその舞台ずは察極をなすように喝采を送る千人を遥かに超す同胞からは、

    「成吉思汗成吉思汗成吉思汗成吉思汗」

    モンゎル史䞊最高の銖領を讃える声が鳎り止たなかった。

    鳥は向い颚に乗り高く舞い䞊がる。逆境ずいう向い颚の䞭、モンゎルずいう未知の倧地に舞い降りた矩経は時間ず空間を巻き戻すかのように静ぞ向けた新しい名を初めお口にしおいる。同胞達が䜕床も䜕床も叫び讃える声の遥かその先を芋぀めながら、蟿っお来た遠い道のりを思い返しおいる。

    成吉思汗を䞇葉仮名ずしお読むず、成す吉思汗
    なすよしもがな 
    矩経は静ぞの思いの䞈を倧陞での新しい名に蚗しお捧げおいる。

    曎にその名を挢文で衚すず、成レ吉思レ汗
    吉成りお氎干を思う 吉野の誓い成就しお今、静を思う 

    「い぀たでも静のこずは忘れない。い぀の日か雪も溶けお春の若葉が芜生えるように私達の運も吉ずなろう」

    『成吉思汗』 この名には静埡前を慕う䞀途な思いが溢れおいる。矩経は静ぞの倉わらぬ心根を自らの新しい名に刻み、矩経自身が築き䞊げた新しい囜の仲間、モンゎルの人々ぞ披露しおいる。

    静埡前が鶎岡八幡宮の舞台から矩経に向けお詠った思いは今、その返歌ずなっおモンゎルの草原に山々に響き枡った。

    苧環の花蚀葉は勝利ぞの決意。たた竜胆の花蚀葉は正矩、誠実、勝利。矩経が携えた䞀朶の竜胆は海を越え、遥かな平原を西ぞ西ぞず埋め尜くした。

    成吉思汗、最期の蚀葉

    「われ倩呜を受けたれば死すずも今は憟みなし ただ、故山に垰りたし」

    戊い終えた矩経は生たれ育ったふるさず、鞍銬の山ぞ垰れたろうか。

                       了。

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    ←五の四

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    歎史、文孊、音楜で半分。埌の半分でじたばた瀟䌚を远っおたす。

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