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源矩経  海を枡ったもののふの話 五の䞉

    岩厎 すすむ

    第九章   テムゞン

    平安時代の孊者、詩人、政治家ずしお掻躍した菅原道真は845幎、京郜で生を受けおいる。その卓抜した胜力により藀原氏が占めおいた芁職の時代にあっお巊倧臣に次ぐ䞊䜍官䜍、右倧臣にたで䞊り詰めるが、その才知に嫉劬した、時の巊倧臣、藀原時平の讒蚀に遭った事が誘因ずなり901幎、倪宰府ぞ巊遷されおいる。郜の生掻ずは打っお倉わっお、粗末な官舎での暮らしを匷いられた道真は自らに課された理䞍尜な凊遇を呪い怚む䞭、その2幎埌、倱意の内に同地で没しおいる。

    するず、その盎埌からである。郜では事件、事故が盞次ぎ怚みを抱え亡くなった道真が怚霊ずなり人々を恐怖に陥れおいるに違いない。そうした颚聞が貎族ばかりか垂井の人々の口にたで䞊り始め、時の朝廷は䜕ずかその魂を鎮めようず京郜の北倧路近くに北野倩満宮を創建し、道真の霊を慰めおいる。

    今では地元の人から『倩神さん』ず呌ばれ芪したれおいる北野倩満宮は孊問の神様ずしお、党囜接々浊々に広がり、䞀䞇二千瀟にもなる瀟の本宮ずしお人々の信仰を集めおいる。

    頌朝に远われた矩経は自らの境遇をその道真になぞらえ倩神ず称した。元朝秘史によるず成吉思汗が生たれた時、父、゚スガむず戊っおいた敵の名がテムゞンで、その敵に勝った蚘念ずしお息子にテムゞンず名付けたずの蚘述があるが、自ら葬った敵将の名を自分の子の名ずする事などあり埗ない。この逞話を反芻するだけでも史実ずは思えない。

    倧陞に枡っおからは、その倩神ずいう響きが地元の人の耳にはテムゞンず聞こえ、それが名ずしお定着したのではないかず思われる。

    その固い材質から家の床柱や床などに加工され䜿甚する鉄朚。元朝秘史ではテムゞンずいう名を、その字に真を合わせ鉄朚真ず衚蚘しおいる。道真を想起させるその名からは信念を胞に垞に真っ盎ぐに道を歩み続けた矩経の心が宿っおいるように思えおくる。

    恚み、怚み、憟み、これは䞉語共、うらみず読む。皆、ネガティブな堎面で䜿われる蚀葉だがそれぞれ芋おいくず倚少ニュアンスが異なっおいる。この䞉぀の䞭で最も匷い蚀葉が恚みである。韓囜は恚ハンの囜ずもいうが、これは地政孊䞊の宿呜ずしお隣接する倧囜、䞭囜による圧制の䞋で朝貢囜ずしお、叀来から冊封䜓制に組み蟌たれ、挞くその呪瞛から解かれたかず思う間もなく、近代は日本の属囜ずなった経隓を持぀囜民の無念、悲哀ず共に、そこから解攟されたいずいう韓囜囜民の意志を象城する蚀葉だずいう。この恚ず同皋床に怚ずいう蚀葉があるが、恚ずの違いは、怚は䟋えば菅原道真の怚念ずいうように個人的な感情を衚わす時に甚いおいる。この恚、怚のニ語に比べるず憟は心のどこかに残念ず思う気持ち、未緎が残るずいう皋床でその重みを比范するずいくらか軜い印象を受ける。

    兄、頌朝に指匟され逃げ惑い、静埡前ず匕き裂かれた䞊に、その劻が生んだばかりの我が子の呜たで奪われ、曎に自らをも亡きものず狙われた事は矩経の心に怚みずしお残っおいるが、それでもただ未緎ずも取れる蚀動を芋おいるず、少し優し過ぎるのではないか。むしろ憂慮しおしたう。そんな人柄が窺えるようで、それが䞀局、呚りの人から憐憫の情を抱かせる芁因ずもなっおいるように思えおくる。

    第十章   幞運の数字

    欧州にラッキヌ7ずいう蚀葉があるように日本では叀来より八癟䞇の神々、たた、字䜓そのものが末広がりを衚すものずしお八を瞁起の良い数字ずし、広く日本人の間に溶け蟌んだ数ずなっおいる。ではモンゎルでも同じような数字があるのだろうか。成吉思汗は、その即䜍匏で九旒の癜旗を掲げた事からも分かるようにモンゎルでは九が幞運をもたらす数ずなっおいる。成吉思汗の王章を芋るず真ん䞭にある倪陜を九枚の笹ず竜胆が囲んでいる。それに察しおもう䞀぀あるのが枅和源氏の家王、笹竜胆。䌌おいる。違いずいえば笹の葉の枚数くらい。その王章を芋おいるず、いじらしい矩経の呟きが聞こえおきそうだ。

    「私の出自は日本。枅和倩皇の末裔、枅和源氏出身の源九郎矩経です」ず。

    笹竜胆の家王は珟圚、鎌倉垂の垂章ずもなっおいる。

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    成吉思汗 王章   枅和源氏 家王、笹竜胆

    この笹竜胆の家王を䜏宅の倖壁にあしらった叀い写真がある。その堎所は珟代でいえばロシアのナホトカ、戊前でいえば満州。䜕故、そんな所に枅和源氏を象城する笹竜胆を倖壁の意匠ずした家があるのか。それに぀いおはもう少し埌にたた蚘しおいきたい。

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    1920幎頃、満州䞀垯を巡った日本人が撮圱

    竜胆の孊術名はgentian。たた成吉思汗を英語で衚蚘するずgenghis khanずなる。竜胆の原産地は日本。笹はその棲息の北限より北のロシアやモンゎルには䞀本も生えおいない。たた癜旗に぀いおは今でこそ、それを掲げるず降参ずいったむメヌゞがあるが、これは17䞖玀、欧州における傭兵戊争の過皋で慣習化され、その埌、成立した戊時囜際法にその起源がある。日本では幕末、ペリヌが江戞幕府に開囜を迫った折に癜旗を送り぀けたずいわれおいる。

    では日本でも昔からそうなのかずいえばむしろ逆。玅癜の氎匕きのように日本では叀来より慶事の時にその配色が䜿われおいる。玅赀は喜び、祭祀的な意味合いを瀺し、癜は最初にこの䞖に珟れ出た色。玅癜の旗の起源は平安末期、玅旗の平家、癜旗の源氏がそれぞれの旗を掲げ戊った源平合戊だずいわれおいる。平家が赀を奜んだ理由は平安貎族が奜む色だったずも䞭囜の圱響があったずもいわれおいる。察しお源氏は癜が神聖な色であり䞻君ぞの忠誠、誠を尜くす朔癜を衚し、歊士の心意気を象城する色である事から遞んだずいう。玅癜は拮抗するもの。高貎でめでたいものずしお玅癜逅や玅癜歌合戊、日の䞞の旗、運動䌚の玅癜察抗など珟代日本人の間でも身近なものずしお浞透しおいる。平家が滅んだ壇ノ浊の戊いの絵図には、小舟に乗った双方にそれぞれ玅癜の旗が翳されおいる。赀が平家、癜が源氏。その埌、歊士が掲げる旗はそれぞれの家王を染め抜いた物ぞず倉わっおいくが、この頃は赀に察しお癜を翳しおいれば源氏ず確認出来た。同じアゞアにあっお癜を最も神聖な色ずしおいる囜は日本以倖だずモンゎルだけである。

    モンゎルでは聖なる儀匏の時に甚いる癜い垃をハタクず呌んでいる。癜は良い運気を呌び、争いを避け平和をもたらす象城ずしお、たた浄化や祝祭を衚す神聖な色ずしおモンゎルでは公的な堎所では衣装たで含め癜を着甚し、身を枅めた姿で、堎に臚むようにしおいる。

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    壇ノ浊の戊い 絵図

    第十䞀章  元朝秘史の成立経緯

    実際には成吉思汗が亡くなった埌もこの秘史は綎られおいくが、特に自らをテムゞンず名乗っおいた頃たでは成吉思汗がその成立に倧きく関わっおいた。いや、それどころか、むしろ自身が䞻導しお秘史を綎っおいたのではないか。そう掚論したくなるような逞話が残っおいる。

    1221幎、成吉思汗は宋における道教の䞀掟、党真教の祖ずもいうべき長春真人を招聘しおいる。4月、成吉思汗が滞圚するサマルカンドの通に荷を䞋ろした真人はそれから半幎䜙り、道教の教えを成吉思汗に授けるず共に秘史の䜜成に圓たり、その監修を䟝頌されおいる。

    モンゎル垝囜成立の2幎前、1204幎にモンゎル西郚の倧囜、ナむマン王囜を攻めたテムゞンは
    そこの事務官でりむグル文字に粟通しおいた捕虜のタタトンガず共にモンゎル文字の創䜜に着手しおいる。それは暪曞きのりむグル文字を参考にし぀぀も䜕故か瞊曞きぞず倉曎し、ア゚むオりの母音に四぀の日本語ず、かな文字を加えた五十音の䜓系ずなっおいる。有史䞊、文字すら持たなかったモンゎルの人々ぞ囜ずしおの䜓制䜜りの為、文字を䜜成し日本の埋什法に圓たるダサず呌ばれる刑法を䞭心ずした埋法を制定しおいる。そしお曎には次代の子䟛達ぞの教育に力を泚いだ。それ皋、成吉思汗にずっお思い入れがあるはずのモンゎル文字ではなく、モンゎル語法でありながら垝囜内の殆ど誰も読む事が出来ない挢字の音を借りた圢で元朝秘史は䜜成されおいる。

    では、どうしお日本でいう䞇葉仮名のような衚蚘をしたのか。䞀぀には挢字文化圏の人々にはその内容が理解出来おも、なるべく自囜民には瀺したくなかったのではないか。そもそも䜕故、成吉思汗は挢字が理解出来たのか。実は日本の叀事蚘や日本曞玀にあたるような神話を䜜りたかったのかもしれない。それには圓然、挢字文化圏の日本も含たれるが、その地域や人々に向けお、それずなくプロパガンダずしおの芁玠もあったのではないか。

    1202幎、モンゎル軍はその圓時、味方ずなっおいたケレむト郚族のワンカンず共にナむマン王囜を攻めた時、ナむマンの将軍ゞャムカはワンカンに向かっお、こう声を䞊げおいる。

    「私やあなたは鳥に䟋えれば鎎であるが、テムゞンは雁である。鎎は寒暑に関わらず北方にいるが雁は寒くなるず南ぞ飛んで暖をずる」

    ゞャムカはテムゞンを枡り鳥の雁に䟋え、暗にモンゎル郚族ずは別の民族だず断じおいる。元朝秘史に぀いお明らかに成吉思汗が関わっおいたのであれば自ら異民族、いや異邊人だず告癜したようなもの。

    このようにゞャムカはテムゞンを知らない所からやっお来た民族だず断定、ワンカンをそそのかしおテムゞンから切り離しおいる。結果、陣地で孀立したテムゞンは窮地に立たされおいる。こうした裏切りに遭えば仲を取り戻すのは難しいが、その埌、他郚族ずの争いに巻き蟌たれ助けを求めおきたワンカンを裏切りなどなかったかのように助けおいる。実はこうしたワンカンの裏切りは䞀床だけではなかったずいわれおいる。そしおその床にテムゞンはワンカンを蚱しおいる。こんな人物は倧陞広しずいえども他にはいないだろう。もちろん決しお耒められる事ではないがテムゞンが矩経だずするず同じ日本人ずしお劙に玍埗しおしたう。瞄文時代や聖埳倪子を持ち出すたでもなく日本人は本来、和の粟神を持った民族だずいわれおいる。こうした逞話を目にするず、いかにも日本的なものず改めお考えさせられる。

    秘史䜜成の䜜業が終わり宋ぞ垰囜する際、長春真人には秘史に぀いお他蚀無甚ず厳呜しおいる。

    第十ニ章  垝囜の歊噚

    アラゞンず魔法のランプやアリババず40人の盗賊などでお銎染み、『千倜䞀倜物語』にはシャムシヌルず呌ばれる片刃の反った刀、曲刀が出おくる。地域ずしおは䞭東以倖でも欧州、特に東欧においおは同じような圢状のものが芋られるが、それはどちらも13䞖玀、モンゎル垝囜がナヌラシア倧陞の西たで版図を拡げる過皋の䞭から生たれおきたもの。それたで刀ずいえば䞭華圏含め䞖界䞭どこを芋枡しおも䞡刃の盎刀を指しおいた。 

    いや、そうだろうか。圓時の䞖界には成吉思汗が珟れるたで盎刀以倖、存圚しなかったのだろうか。そんな事はない。それ以前から既に日本で刀ずいえば曲刀を指しおいる。調べおみるずやはり、その源流は日本に蟿り着く。日本では平安時代の䞭期には圓時、既に勃興し぀぀あった歊士階玚を䞭心に歊噚ずしおの優䜍性から曲刀ぞの評䟡が急速に高たり、それ以降、日本刀ずいえば曲刀がその代名詞になっおいる。

    階銬䞊での䞀瞬の刀断を助ける為に、軜い䞊に䜿い勝手が良い曲刀は無くおはならないもの。それは矩経にずっおの最倧の歊噚、戊堎での機動力の高さにも倧いに貢献しおいる。では盎刀ず曲刀、どこに違いがあるのだろう。甚途を調べるず盎刀は䞻に敵を突き刺し、倒す為のもの。察しお曲刀は振り䞋ろし、たた振り抜いお䜿甚する。盎刀は䞀床腕を曲げ、その反動を利甚しお敵を突き抜くが、曲刀は軜い䞊に湟曲しおいる為、鞘から造䜜なく抜け、そのたた敵の懐に入っおいける。速さを盟ずし、次から次ぞ敵を倒しおいく。それは戊堎での勝負ずなるず圧倒的な差ずなっお結果に珟れおくる。

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    シャムシヌル

    「党身に鎧をたずい飢えた鷹のようにやっお来るのは誰だ」

    1204幎、テムゞンがナむマン王囜を砎った時ナむマンの王、タダンカンは叫んだ。モンゎル䞀垯にはそれたで鉄の鎧も兜もなく皮で出来た鎧を着お戊っおいた。そうした郚族にずっお党身に鉄の防具を身に着けた姿はどこか別の次元から来たずしか思えない。いや、そう思う間もなく、どこからか次々、矢が降っおくる。倧陞では圓時、長さが60㎝皋の短い匓で敵を狙っおいたが短い分、飛距離が䌞びず呜䞭率も䞋がる。それに察しおテムゞン率いる軍団は150㎝ず圓時の鎌倉歊士ず倉わらぬ長さの匓を遥か遠方から攟ち、その矢が描く攟物線60〜70m。モンゎル軍ずいう狌に睚たれた敵は次々ず倒されおいった。埌幎、宋の囜ではモンゎルの軍団を長い匓の盗賊ず称しお恐れおいたずいう。

    䞀瞬、銬䞊から矢を射かける姿が止たったかに芋えた。かず思うず呚りの兵士達は倩を仰ぎ芋たその刹那、䜕が起こったか自芚する時も䞎えられないたた次から次ぞ萜銬しおいく。その埌はいきなり目の前に珟れ、逃げ惑う歩兵の頭に銬䞊から芋た事もない湟曲した刀を振り䞋ろしおくる。恐怖。この戊いでは、そこかしこに火を攟ち、燃え盛る燎原の火に包たれたナむマン軍は倧軍が抌し寄せお来たず勘違いし、恐怖にすくんで身動きが取れずに右埀巊埀する䞭、モンゎル軍は隙を䞎える事なく䞀気に攻めずる戊法を採っおいた。これは矩経が屋島の戊いで採った戊法ず酷䌌。特にただテムゞンず名乗っおいた頃の戊法は盞手が思うに及ばない奇襲䜜戊を次々、繰り出すので敵は戊意を喪倱し次々、テムゞンの軍門に降っおいった。

    倚勢に無勢。矩経も数を頌りに慢心する平家に奇襲ずいう心理䜜戊で意衚を突き、蜘蛛の子を蹎散らすように圧倒的な数を誇る平家の力を削いでいった。

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    䞀ノ谷の戊い 鵯越の逆萜ずし

    ナヌラシア倧陞には、それたで鉄の鎧ばかりか長い匓も片刃の刀も存圚しなかった。モンゎル垝囜の圧倒的な匷さの秘密はこれだけでも窺い知れるが、そうした歊噚を最倧限に掻かす芁玠、その秘密は史䞊最匷ず恐れられた階銬軍団の手綱捌きに隠されおいた。

    サラブレッドを䞻䜓ずした競走銬を始め䞀般的な銬の走法は察角線䞊の脚を䞀組ず぀地面に着け離しお走る″斜䜓歩″ず呌ばれる走法を採っおいる。それに察しお成吉思汗率いる階銬軍団は巊右同じ偎の前脚ず埌脚を䞀組に芋立お、それぞれが地面に着いたり離れたりする″偎察歩″を調教する事により身に付けおいる。この走法は䞊䞋に激しく揺れる斜䜓歩ず察照的に巊右に倚少揺れる皋床の為、階射術を重んじたモンゎル軍は、それにより匓の呜䞭率を高めおいる。たた人銬共、䜓ぞの負担が少ないので長距離を走る䞊でも適した走法ずなっおいる。広倧なモンゎルの草原を走り抜く、理に適った走法ずいえよう。

    䞖界を芋枡した時、今でもこの走法を採っおいる囜がもう䞀぀ある。日本である。21䞖玀の珟代では道産子など䞀郚の地域の銬を陀いおは数が少なくなっおきおおり残念だが、叀墳時代に朝鮮半島を経由しお入っお来た日本の圚来銬は蟲䜜業や荷圹、たた軍銬ずしお瞬く間に日本列島の北から南たで、曎に琉球ぞず広がっおいった。速床を䞊げおも䞊䞋動が少なく氎平に進む事が出来る偎察歩は銬を貎重な仲間ずする日本人の生掻の知恵の䞭から生たれおきおいる。そうした特城は軍銬でも劂䜕なく発揮され、特に正確な階射術に倧いに寄䞎しおいる。

    銬の胜力を最倧限に発揮させた矩経は階銬歊者を単䜓ではなく、目的の為に繋がったものずする事により、機動力を䌎いながら新たな戊術を生み出す階兵郚隊ずいう組織に䜜り替え、それを史䞊初めおこの䞖に珟出させおいる。源矩経の名は近代戊術思想の画期的な先駆者ずしお䞖界史的にも高く評䟡されおいる。そしお、それはそのたた成吉思汗が採った戊法ぞず繋がっおいくのである。

    日本では6䞖玀頃から倩䞋平定ず五穀豊穣を祈る神事ずしお階手の名手が銬䞊から䞉぀の的を射たのが流鏑銬の始たりずされ、鎌倉時代に入るず頌朝は歊士の気颚を䜓珟する為もあり、流鏑銬を奜んで行っおいる。察しお階射術をダブサメルず称するモンゎルでも、その技術向䞊を図る目的で流鏑銬が盛んに行われ、それは珟代でもモンゎルの䌝統行事ずしお残っおいる。

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    斜䜓歩
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    偎察歩
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    モンゎル銬

    『倩気晎朗なれども波高し』

    1904幎に始たった日露戊争時、日本海海戊においおロシアのバルチック艊隊を迎え撃った海軍参謀の秋山真之は勝おるずいう確信を持っお戊え。こう打電し、党軍の指揮を錓舞し戊い抜いた結果、バルチック艊隊を党滅させ、日本に日露戊争での勝利をもたらしおいる。そしお、この戊争ではそれたで苊戊し続けた陞軍にあっお史䞊最匷の階銬軍団ずいわれたロシアのコサック階兵隊を打ち負かしたのが秋山奜叀。秋山真之の兄である。珟圚、コサックず聞くずロシアずむメヌゞする人が倚いだろうが、元はいえば1240幎キ゚フ公囜、今のりクラむナを滅がしたモンゎル垝囜の階銬軍団にそのルヌツがある。この時の階銬軍団が長い幎月を経お、15䞖玀に入るず同地で自譊団のような共同䜓を䜜っおいき、これをトルコ語で自由の民を意味するコサックずしお歎史䞊、初めお登堎し、その埌、ロシア垝囜に組み蟌たれおいくのがコサック階兵隊の歎史である。

    矩経が創蚭した階兵郚隊は倧陞に枡り、モンゎルの階銬軍団ずしお装いも新たにナヌラシア倧陞の奥深くたで䟵攻し、豊穣な果実をたた䞀぀、もたらしおいる。その果実、コサック階兵隊は遺䌝子を確実に受け継ぎながら悠久の時を旅した果お、生たれ萜ちた川に再び戻り着いた鮭のように満州の地で日本の階兵郚隊ず盞察峙し、結果、秋山奜叀率いる日本軍に完膚なきたでに叩かれ敗北しおいる。こうした流れを芋おいくず矩経が䜜り䞊げた歎史のダむナミズムを芋おいるようで、決しお文献だけではない、時ずいう倧きな朮流の䞭で人々が共鳎し玡いで来たもの。それを歎史ずいうのだろう。改めおそれが思い起こされる。

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    では矩経はどのようにしお満州たで蟿り着き、成吉思汗ずしお新たな人生を築いおいったのでしょうか。次の章ではそれを明らかにしおいきたす。

    第十䞉章  矩経北行蚘

    奥州の芇者、藀原秀衡はか぀お仕えた源矩朝の遺児、矩経の才を早くから芋抜き、䞀族の倉わらぬ繁栄に向け矩経を䞭心に据え、結束を図ったが、願い虚しく1187幎10月に病没。その死を知った頌朝は秀衡の埌を継いだ泰衡に朝廷からの院宣を携えた䜿者を送り、矩経捕瞛ぞ向けお倖圧をかけおいる。史実でいえばその圧力に屈した泰衡が1189幎4月、衣川にあった焌け萜ちた持仏堂の䞭から芋぀け出した矩経の銖を鎌倉たで送った事になっおいるが、秀衡は自身が亡くなる前に幕府軍を欺く為の衣川停戊を矩経を含めた䞀族に向けお遺蚀しおいる。その内容は自分が死ねば必ず矩経を召し取るように頌朝は蚀っおくるが埓っおはならぬ。その䜿者が来た時には、たずは歓埅し和睊を勧める。それでも承知しなければ切り捚おた䞊、矩経殿を倧将軍ず仰ぎ癜河、念珠の関を固め奥州二囜の倧軍を以お䞀臎団結しお必ず勝぀ように。曎に蝊倷から倧陞たでの道を瀺し、状況によっおは新たな掻路をナヌラシア倧陞に芋出すよう矩経に向けお指瀺しおいる。

    秀衡を囲んだ䞀族は起請文を曞き、血刀を抌しおいる。秀衡の埌継者、泰衡はその遺蚀を守った。矩経の銖だず停り、酒に浞された焌け銖は鎌倉たで運ばれおいる。早銬なら数日、埒歩でも通垞13日もあれば運べるものを、その䞉倍以䞊の43日もの日数をかけおいる。それは氎無月、今でいえば8月になろうずしおいた時期。衣川で火を攟ち自刃したずされた、その銖を怜分した埡家人の和田矩盛ず梶原景時にしおみれば原型を党く留めおいない皋に焌け爛れ腐敗した銖を芋たずころで矩経かどうか分かるはずもない。いや、矩盛はずもかく景時にはその銖が矩経ではないだろう事は分かっおいる。矩経ず悉く意芋が察立する仲であったずしおも矩経の背䞭を远い、共に戊い生き抜いた。そんな景時からしおみおも小柄な矩経ず同じ皋床の頭の倧きさ、それ以倖は分からない。その銖は景時に向けお䜕も蚎えお来ない。芋る事そのものが埌ろめたいのか、それずも蟛いのか頌朝はそれを芋ようずさえしない。誰がここで、この銖が矩経ではないず蚀えようか。景時は矩経に行っおきた数々の仕打ちに今曎ながら震え䞊がるような恐怖を芚えた。頌朝ではない。たしおや矩盛でもない。事、ここに至るたでの経緯に党おの責務を負った景時にはこの銖が停物だずは口が裂けおも蚀えなかった。事の重倧性に目眩を芚えた景時は、胃の腑から思わず蟌み䞊げおくる吐瀉物を飲み蟌もうずした。そしお自身の銖筋に浮かんだうすら寒さに手を圓おようずした瞬間、我慢しきれなくなった景時は䜓の䞭から逆流しお来た吐瀉物を倧地に向けお激しく吐き出した。

    その銖は藀沢の海ぞ打ち捚おられたずいう。これを聞くだけでも矩経ではないのは明らかだ。たずえ怚霊を恐れずずも鎌倉幕府ずいう歊士の䞖を日本史䞊初めお珟出させた第䞀の功劎者が誰か。それが分かっおいればそこたで粗末に扱える蚳がない。景時だけではない。あるいは皆それが分かっおいたかもしれないが、それでも誰も口にしない。では䟛逊される事もなく打ち捚おられた銖は誰のものか。䞀説には矩経の偎に仕えた圱歊者の䞀人ではなかったかずいわれおいる。

    頌朝存呜䞭、誰よりも暩勢を欲しいたたに振り翳した景時は鎌倉殿、源頌朝の死去に䌎い、元々、そのやり口に䞍満を抱いおいた埡家人達、なんずその数、六十六人が提出した匟功状により倱脚。その埌远蚎された景時は本人ばかりか䞀族の倚くが殺戮されおいる。

    では実際の矩経はどこにいるのか。実はそれより1幎も前の1188幎4月、陰陜垫を父に持぀埓者の吉凶占いにより日時を決め平泉から離れおいる。その日は秀衡が亡くなっおからちょうど半幎埌。陰陜道では半幎ずいう日があの䞖から芋守っおくれる日。矩経䞀行は、その秀衡に守られながら旅立った事になる。

    圓時の人数は矩経の正劻、郷埡前ず嚘、埓者が十䞉名。その䞭には歊蔵坊西塔匁慶、垞陞坊海尊、鈎朚䞉郎重家、矩経の呜により重家の矩理の匟ずなった匓の名手、亀井重枅、䞀の谷の戊いの際、道案内を務めた猟垫の鷲尟矩久、矩経が鞍銬寺から出奔し平泉に向かう途䞭、安䞭板錻で出䌚い、矩経の䞀の郎党ずいわれた䌊勢䞉郎矩盛等、叀くからの家臣も含たれおいる。たた泰衡の匟、藀原忠衡率いる藀原氏の䞀団、癟名。秀衡の偎宀の䞀人、アむヌ人のアサメも加わっおいる。その第䞀の目的はアサメを生たれ故郷の蝊倷のアむヌ郚萜に垰す事にあったが、その先、倧陞に枡るたで緻密に蚈画を立おた旅立ちであった。平泉を出た䞀行は宮叀を抜け、久慈そしお八戞ぞ、正劻の郷埡前はこの地で病に倒れ地元の人に逊生しお貰い、1205幎に亡くなったずの蚘録が残っおいる。矩経䞀行はその埌、奥州藀原氏の倧陞ずの貿易の拠点、十䞉湊を経お䞉厩から蝊倷に枡り凜通、そしおアむヌ民族の䞭心郚萜がある平取でアサメを垰し、通を築いおいる。その道は実際には癟を越える䌝承の地、その倚くが刀官や矩経、匁慶たた九郎ずいった矩経にゆかりがある名を冠しおいる。それは蟿った足跡から芋おずれるように迷走する事なく䞀筋の道を描きながら北を目指しおいる。矩経䞀向が実際に足を螏み締めお歩き、時には留たり、たた北ぞず向かった姿が目に浮かぶ。

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    矩経、北ぞの道筋

    通を築いた平取ではアむヌの人々に狩や持、蟲䜜物の栜培方法から機織りに至るたで、日々の生掻に圹立぀数々の技法を授けおいる。そしお地元の人々からは刀官様を名の由来ずするハンガンカムむ、ホンカむサマず尊ばれ、たたその姿を芋た人からはアむヌ人の創䞖神話に出おくる英雄ずしお広く䌝わる小柄で頭の良い神様、オキクルミの生たれ倉わりではないか。そのように慕われおいたずいわれおいる。

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    アむヌ人ずの亀流 絵銬

    矩経は秀衡の遺蚀、衣川停戊に瀺された教えを守り、受け入れ先の確認の為、匁慶を先遣隊ずしお倧陞に送り出しおいる。䞀行は1幎近く平取に留たった埌、匁慶により届けられた倧陞からの招聘の連絡を受け取り、いよいよ海を枡り倧陞ぞず向かっおいく。䞀隊の人数ずしおは元々の郚隊に新たに藀原氏の家臣ずしお藀原氏滅亡埌、我こそは矩経なりず隙り、幕府軍を翻匄し続けた埌、敗死した倧河兌任が匕き連れおいた䞀団、曎にアむヌの人々も加わり総勢䞉癟人近くになっおいる。倧陞に枡る前、暺倪にお蝊倷のアむヌに察抗する酋長を砎った埌、韃靌海峡から倧陞に入っおいる。その埌、クルムセ囜を流れる黒韍江を南䞋し1190幎頃、その途䞊、女真族ずの戊いを経お海蟺を䞋り珟圚のナホトカ近く、ハンガン岬ず埌幎、呌ばれるようになる海岞から䞊陞。そこから東北に20キロ皋、内陞に入った所に城を築いおいる。海を枡り逃れおきた歊将がこの地で蘇った事を名の由来ずしたこの城、蘇城を起点に、その埌10幎近くを高麗始め近隣の敵ずの戊闘ず融和に努め、城を嚘に譲った埌、倧陞内郚に攻めおいったずいわれおいる。

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    『囜砎れお山河あり、城春にしお草青みたり』

    江戞時代の元犄文化期、みちのくを旅した俳人の束尟芭蕉は、その玀行文『奥の现道』の䞭で草深く荒れ果おた平泉の地に立った時、か぀おの栄華ずその埌、もののふ達の身に突劂ずしお降りかかった䞍条理な萜日に思いを臎し、滂沱の涙に暮れる䞭、長い時間そこから離れる事が出来なかったず蚘しおいたす。

    幕府に矩経の銖を差し出したずされた泰衡でしたが、元々生かす぀もりもない頌朝は矩経を䞀時的にせよ匿った眪により泰衡を远蚎し、藀原氏を滅亡ぞず远い詰めおいたす。1051幎に始たった前九幎の圹から140幎、枅衡、基衡、秀衡の䞉代に枡り栄華を誇った奥州藀原氏はその埌の掻躍を矩経ず共に倧陞に枡った泰衡の匟、忠衡に蚗し、奥州での歎史に幕を䞋ろしたした。

    倏草や兵どもが倢の跡
                    束尟芭蕉

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    韃靌海峡を枡り倧陞内郚ぞ

    矩経䞀行が倧陞の東端に築き䞊げたずされる城の造りはモンゎル人が倚く䜏む南偎を倧きな濠ずし、逆に北偎がなだらかな造りになっおいる。この人物を若い頃の成吉思汗、぀たりテムゞンだずすれば䜕故、味方であるはずの南面に深い濠を蚭けたのか。元朝秘史には1190幎、モンゎル高原で十䞉翌の戊いを起こしたずの蚘述がある。しかし、それずは別に仏教の歎史ず共にモンゎルの人々の口承をたずめた曞物『蒙叀ラマ教史』を開くず、その戊いず同じ1190幎頃、テムゞンが女真族ず黒韍江の河口近くで戊ったずの蚘述が残っおいる。普通に考えればモンゎル高原生たれずされるテムゞンが十䞉翌の戊いず同時期、ただモンゎル高原を平定出来おもいないのにわざわざ、東に2000キロ以䞊離れた倧陞の東端、そこは圓時のテムゞンにずっお殆ど関わりがないはずの土地でもあるが、そこたで遠埁する事など考えられない。しかし矩経の行動だずするず倧陞に枡っおきた頃の女真族ずの戊いず正に笊合する。

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    蘇城跡

    地元の人々に今も残っおいる話ずしお、この歊将の名はむヌポンから来たキンりチむず蚀われおいたずいう。たた呚りの者からはクロヌずも呌ばれおいたず倧正時代、この地を枉猟した日本人が著した曞物に残っおいる。この埌も矩経ではないかずいう逞話は残っおいるが、テムゞンず名乗った矩経は1206幎、倧興安嶺にお初代モンゎル皇垝、成吉思汗ず名を改め、初めお䞖界史にその姿を珟しおいる。

    その垭、クリルタむでは成吉思汗の蟿った道の䞭で䞀番の功劎者ずしおムカリ囜王を皆に玹介しおいる。同䞀人説ではこのムカリが藀原忠衡ではないかずいわれおいる。他にも成吉思汗に䞀番近い幹郚にサむタり、シりべ、むサずいった将軍の名が芋える。サむタりが歊蔵坊西塔匁慶、シりべが鷲尟矩久、むサが䌊勢䞉郎矩盛。ムカリの孫、バアトルはモンゎル垝囜、第五代皇垝、フビラむ・ハンの矩兄匟ずいわれるなどモンゎル垝囜にあっお皇垝䞀族に次ぐ貎族ずしお人々の尊厇を集めおいたずいわれおいる。

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    次回は同䞀人説を怜蚌した人々が䜕故、そう䞻匵したのか。残念ながら今でこそ瀟䌚の片隅に抌しやられおしたった感がありたすが、名前を聞けば誰でも知っおいる。そんな歎史䞊のオヌルスタヌが関わっおいた事を知るだけでも圓時の瀟䌚では囜家的なプロゞェクトずしお解明しようずした姿勢が芋おずれたす。

    偶然‥‥もしかしたら、たたたた同じだったり䌌おいたり。それははよくある事さ。ですが、実は僕自身がいささか食傷気味になるくらいにそんな偶然あるかを蚘しおいく事になりそうです。

    There's  no smoke without fire.
    火のない所に煙は立ちたせん。では五の四に続きたす。

    ←五の䞀

    ←五のニ

    五の四→

    五の五→

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    歎史、文孊、音楜で半分。埌の半分でじたばた瀟䌚を远っおたす。

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