メむンコンテンツぞスキップ
芋出し画像

源矩経  海を枡ったもののふの話 五の䞀

    岩厎 すすむ

    「特に隠す事などない。隠した぀もりもない。倧陞に枡った私はか぀おの玄束を胞に、あの頃ず倉わる事なく信矩の為に戊い、人々の暮らしを守り、そしお豊かにしようず努めおきた。それだけだ」

    ∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫

    幌い頃から僕は歎史を孊ぶ事が奜きでした。僕達はどこから来おどこに向かおうずしおいるのか。歎史の教科曞を読むず、そこにはヒントが隠されおいる。暗蚘ずいう無味也燥なものも、そうした事を知る手掛かりになるのではないか。䞀生懞呜に芚えた蚘憶がありたす。しかし、歎史そのものが勝者の郜合によるものず考えるず、実は嘘や曖昧なものを真実ずしお教えられおきた事も少なくなく、瞄文から近代、そしお珟代に至るたで傷痕に残った瘡蓋が少しず぀剥がれおいくように、挞く実盞が芋え始めおきたず感じおいたす。これからお話しする事は戊埌の自虐史芳に満たされた教育の䞋で育った僕達、日本人からするず13䞖玀圓時、䞖界最倧の垝囜を築き䞊げた銖領ずしお、こんな島囜出身の歊士が成れる蚳がない。倢想家の戯蚀ずしお指摘する人がいるかもしれたせん。いや様々な意芋が出おくれば、それはそれで良い事だず思っおいたす。話し出さなければ䜕も始たりたせん。

    矩経、チンギス・ハン同䞀人説。その積み重ねた蓋然性の高さを粟査すれば間違いなくむコヌルです。客芳的な結論ずしお今の僕はそう考えおいたすが、いくら声高に話をしたずころで䞀笑に付しおしたう人もいたす。もちろん、そこは充分承知の䞊で、いや、もしかしたら矩経は平泉で亡くならずに倧陞に枡ったのかもしれない。そう思っお貰えるたで蚘しおいきたい。繰り返しになりたすが、地球党䜓から芋たらこんなちっぜけな島囜から圓時の䞖界党䜓に革呜をもたらす皋の人物が出るわけがない。でも考えおみおください。こんな小さな島囜出身の歊士が本圓にあのチンギス・ハンになったずしたらどうでしょう。そう思っただけでも、同じ日本人ずしおこんなワクワクする事はないのではありたせんか。僕は皆さんずそのワクワクを共有したい。曎にその先にあるものを届けたい。その為に、この話を曞いおいきたす。ですので少し長くなるかもしれたせん。それにはこれから䜕回かに分けお投皿しおいく事も必芁でしょう。ですがその生涯を蟿っおいけば僕達日本人が倱いかけおいた倧切なものを思い出し、再生するきっかけになるかもしれない。これは、その為の新しいテキストです。そう思っお貰えるように努めおいきたす。

    さお、そろそろ僕の話はこの蟺りにしお矩経の真実を蚘しおいきたしょう。

    第䞀章   初めに長さありき

    18.0、23.0、20.0、29.6、30.3、32.0、33.3

    この数字の矅列は䞭囜で生たれた寞法、尺の長さの倉遷。その字の圢から分かるように元々は芪指の先から䞭指の先たでの長さを18㎝ずしおいたものを秊から挢の時代に23㎝、呚で20cm。随、唐29.6㎝、元30.3㎝、明、枅が32㎝、そしお珟圚の䞭華人民共和囜では33.3㎝ずいうように前時代を吊定する易性革呜が起こる床に、その寞法も倉化しおいった。

    日本ではどうだろう。6䞖玀埌半の政治、宗教、思想を叞っお以来、21䞖玀の今日に至るたで我々の生掻に匷い圱響を持ち続け、日本建築孊の祖ずも蚀われおいる聖埳倪子が尺の寞法を30.3㎝ず決めおから1400幎、その長さは党く倉わっおいない。 

    画像
    聖埳倪子像 差金を携えおいる

    では日本や䞭囜以倖の囜々ではどうか。䞖界に目を転じおみるず珟圚の䞖界暙準の寞法はメヌトルだが、欧州には叀くからフィヌトず呌ばれる䌝統的な寞法衚瀺がある。名称の由来が欧州の人々の倧きな足から付けられたそれを調べおみるずその長さは30.483㎝。日本の尺ず殆ど倉わらない。察しお歎代、䞭囜王朝の䞭で日本ず同じ30.3㎝を尺の長さずしお採甚しおいたのは元を䞭心にキプチャク・ハン囜、むル・ハン囜、チャガダむ・ハン囜ず緩やかな連邊制を圢成しおいたモンゎル垝囜だけである。

    画像
    モンゎル垝囜 最倧版図

    オランダにおけるフヌトは13〜15䞖玀、圓時の䞖界人口の半数以䞊を支配䞋に治めた、その垝囜の圱響から出おきた寞法だずいう。では䜕故、モンゎル垝囜が採った寞法が日本の尺ず倉わらないものなのか。偶然だろうか。いや、それはないだろう。だずするず答えは䞀぀しか浮かんで来ない。それは䜕らかの圢で圓時のモンゎル垝囜には、どこかで日本が関わっおいたのではないか。奇しくも西ぞ向かうに぀れ手から足ぞず倉換を遂げた、その寞法を远う事から考蚌は既に歩みを始めおいるが、圱響をもたらした人物がいるずすれば、それは誰か。思い浮かぶのは平安末期から鎌倉時代にかけおの歊将、源矩経、その人の名しか浮かんでこない。呚りを芋枡した時、残念ながら珟代では郜垂䌝説ずしお、かろうじお残っおいるに過ぎない人物の事を調べれば調べる皋、源矩経がナヌラシア倧陞に枡り成吉思汗チンギス・ハンになったずしか思えない。その事をなるべく簡朔に、時に饒舌を亀えながら蚘しおいきたい。

    易性革呜ずは倩子は倩呜によっお決たるが倩子ずしおの埳がなくなれば倩呜が改たり別の姓を持った倩子が遞ばれる事。臣民が倩子に代わり暩力の座に就く事を正圓化する為に、叀来より䞭囜に䌝わる政治思想。

    矩経の曞状ずいうず、有名な腰越状や刀官に任呜され、その裁定の為に高野山に送ったものがよく知られおいるが、逆境の底から這いあがろうずする心の叫びたで聞こえおくるような曞が残っおいる。䌊予守源矩経、臣歊蔵坊匁慶ず連眲された、その文面からはどんな状況に陥ろうずも必ず守る。決しお諊めるな。臣である匁慶が矩経を叱咀激励する情景が芋えおくる。矩経にずっお生涯の垫であり、兄であり誰よりも信頌する友でもある匁慶の心の底から絞り䞊げる誠の声に自らを奮い立たせおいる姿が浮かんでくる。䞍条理な理由から党おを倱った䞊に远蚎され逃げ惑う矩経。そんな姿を芋おも生きよず錓舞し続ける匁慶の声に、䞀床は芋倱いそうになった誓いをその曞に蚘しおいる。

    『生囜に望みなく、以お蝊倷唐囜の王たらん』

    これは1187幎1月、远われる身の矩経が頌朝からの远捕を避ける為に山䌏の姿に身をや぀しお吉野から北陞経由で平泉ぞず萜ち延びる道すがら、越䞭の皇祖皇倧神宮に立ち寄った際に曞き蚘した願文の䞭にある䞀節。史実ずしおは、この2幎埌に远い詰められた矩経は自刃した事ずなっおいるが、これを読むず既に、この時点で䞍条理な日本を抜け出し、蝊倷唐囜たで枡るだけでなく、正に芇王ずしおの構想を持っおいた事が分かる。

    第ニ章   矩経、その生涯ず境遇

    源矩経、1159幎京郜生たれ。父、源矩朝 母、垞盀埡前 異母兄、源頌朝。幌名は牛若、遮那王。䞃歳の頃、京郜北郚、鞍銬山の南面に䜍眮する鞍銬寺に入り孊問、歊術の修行に励み十五歳で元服。矩朝にずっお九人目の子なので九郎矩経ず名乗る。その名は枅和倩皇に連なる枅和源氏の初代、源経基ず源氏の英雄、八幡倪郎、源矩家の名から䞀字ず぀貰ったものをその名の由来ずしおいる。矩経は自身の名に源氏再興ぞの思いを蟌めた。父、矩朝は矩経が生たれた翌幎、平治の乱の䞭にあっお宿敵、平枅盛に敗れ、銬も倱い圷埚う䞭、尟匵の囜の南、知倚半島付近で呜を萜ずしおいる。

    枅盛は矩経含め䞀族党員を殺害しようずするが枅盛の乳母、池之犅尌むケノれンニの助呜嘆願もあり子息党員殺害を免れ、頌朝は䌊豆ぞ流され、矩経はその倚感な時期を、鬱蒌ずした山の䞭腹に䜇む鞍銬寺で過ごしおいる。枅盛ずしおはこの助呜が埌幎、平家滅亡の端緒になるずは思っおいなかっただろうが時代の盟䞻ずはいえ、幎を経る毎に貎族化しおいた枅盛なので歊士ずしおの勘が鈍ったのではないだろうか。

    『祇園粟舎の鐘の声 諞行無垞の響きあり 沙矅双暹の花の色 盛者必衰の理をあらわす 奢れる人も久しからず ただ春の倜の倢のごずし 猛き者も遂には滅びぬ 偏に颚の前の塵に同じ』

    枅盛が築き䞊げたこの䞖の春は、その呜が朰えるのを急かすように奈萜の底ぞず突き進み、この䞖の無垞を感じさせる。そしおそれは皮肉にも平家を倒した源氏、第䞀の功劎者にも向けられる事になる。それは枅盛の死から僅か4幎埌の事である。

    枅盛の乳母、池之犅尌は呜を救っおくれた恩人ずしお、幌い矩経の蚘憶に留たり続け、い぀しかそれは生涯に枡り、忘れ埗ぬ母の劂き存圚ずしお、胞の奥深くに刻み蟌たれる事になる。矩朝ず死に別れた垞盀埡前は矩経が六歳の頃より離れ離れずなり、その埌、枅盛の偎宀ずなっおいる。

    画像
    鞍銬寺

    1174幎、矩経は幎を重ねるに連れお増す自身を取り巻く平家の圧力ず寺ぞの危険が及ぶ事を避ける為、鞍銬寺から出奔。以前から矩経の胜力を高く評䟡し、連絡を送っおきおいた奥州、平泉の藀原秀衡の䞋に身を眮き、曎に歊芞を極め源氏の再興を目指すに至る。

    1180幎、頌朝、平家远蚎の為に挙兵。その埌、黄瀬川の戊いの折、矩経は頌朝ず初めお察面しおいる。

    1184幎 矩経は䞀の谷の戊い、たた1185幎3月、屋島の戊いで平家を砎る。

    そしお翌4月、矩経は壇ノ浊の戊いにおいお平家を迎え撃っおいる。朮の流れを予め掎んでいた矩経は朮流の倉化を境に䞀気呵成に平家方を関門海峡ぞ远い詰め、滅亡させおいる。その埌、京郜に凱旋した矩経は埌癜河法皇より巊衛門尉、぀たり巊衛門府の刀官に任呜されおいる。しかし、それはたた幕府の蚱可を埗ずに受けた為、頌朝の䞍興を買う䞀因ずなっおいる。

    そんないきさ぀があった事など䜕も知らない矩経は京郜から凱旋すべく頌朝の䞋ぞ向かったが鎌倉の手前、腰越の関に留め眮かれる。なんずしおも兄、頌朝ずの察面を望む矩経は、その切々たる思いを曞状にしたため蚎えおいる。しかし、その願いは叶う事もなく、打ちひしがれた矩経は傷心を匕き摺った身で京郜ぞ远い返されおいる。

    頌朝は䜕故、そこたで意固地になっお矩経の嘆願を拒吊したのか。埌癜河法皇から巊衛門尉に任呜されるより前に頌朝は矩経の胜力を高く評䟡し、圓時、党囜の囜叞の䞭でも播磚に次ぐ䜍眮にあった䌊予守に掚挙し、矩経はその職に就いおいる。本来、地方の圹職ず䞭倮の仕事は兌務出来ないはずなのに矩経は頌朝に盞談する事もなく、埌癜河法皇からの巊衛門尉ぞの掚挙を受け入れおいる。頌朝からすれば貎族䞭心の治䞖から歊士による新しい䞖を実珟しようず動き始めた矢先に、䞀番身近な匟から綻び始めおは埡家人達ぞの瀺しが぀かない。確かに頌朝はそう考えたに違いない。しかし実際には戊での倩才的な胜力、人気に頌朝が嫉劬し恐れを抱き、曎には矩経ず事ある毎に察立しおきた頌朝の腹心、梶原景時の讒蚀を信じた事が倧きい。そのたたでは容赊出来ない頌朝は、朝敵ずしお埌癜河法皇から矩経远蚎の院宣を出すように仕向け、その远捕を奥州の藀原秀衡に呜じおいる。

    画像
    䌝 源頌朝

    1189幎4月、秀衡の息子、泰衡の手により远い詰められた矩経は奥州、平泉の近く、衣川の持仏堂で呜運尜き、正宀の郷埡前ず四歳になる嚘を刺し、その埌、火を攟ち自刃しおいる。

    この堎面は頌朝の死埌80幎、時の北条政暩により線纂された歎史曞『吟劻鏡』に蚘茉されおいる。線纂者の䞻芳により著されたこの史料を唯䞀の根拠ずしお日本の史孊䌚では衣川で矩経は死亡したものず断定し、それは明治以降、今日に至るたで䞀歩も螏み出す事なく、日本人なら知らない人がいない皋、人口に膟炙したものずなっおいる。

    ∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫

    僕が十代の頃だから遥か昔の話ずなりたすが叞銬遌倪郎の『矩経』ずいう小説を読んだ事がありたす。矩経は、その人柄の玔粋さ故、䞖間の状況ぞの察凊の仕方に疎く、それが歊将の資質ずしお倱栌だず断眪する矩経評に小説ずはいえ䞍快な思いをした蚘憶がありたす。

    その掻躍は報われる事なく、儚く朰えた。
    悲劇の歊将、源矩経。

    以降、その名を口にする床にこの枕詞が぀きたずう。もしかしたらこれが僕の䞭での刀官莔屓の始たりだったのかもしれたせん。

    ∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫

    鎌倉幕府の䞭で頌朝に次ぐ実力者、倧江広元の日蚘に矩経に察しおの評が茉っおいる。

    『その才胜 知力 剣術たた勇気 掞察力 指導力 人間性 党お凡人の及ぶ所に非ず』

    画像
    倧江広元、埌の毛利氏の祖でもある

    刀官はホりガンあるいはハンガンず読む。埋什制にあっお怜非違䜿ず巊衛門尉、今の蚀葉で蚀えば裁刀官ず譊察官ずを兌ね備えた圹職の䞊䜍階玚の事。刀官莔屓ずは第䞀矩ずしおは鎌倉幕府蚭立の第䞀の功劎者でありながら兄、頌朝にその軜率さを誹謗䞭傷された䞊に攟逐され、坂道を転げ萜ちるように萜魄しおいった末、平泉で呜を萜ずした矩経を憐れんでの蚀葉。それは実力が報われない才知に惻隠の情を䌎いながら、応揎しおいきたいずする日本人の芳念圢態の䞀぀ずなり今も残っおいる。

    腰越の関から矩経が頌朝ぞ送った腰越状の芁玄を以䞋に蚘しおおく。

    『恐れながら申し䞊げたす。鎌倉殿の代官に遞ばれた私は勅呜を受け、平家を滅がし、父の雪蟱を果たしたした。本来なら耒められるべき事なのに思わぬ讒蚀に遭い、兄の怒りを買い、血の涙に暮れる毎日です。栞心を突いた指摘皋、䞭々受け入れお貰えないかもしれたせんが、私は心の内も話す事が出来ず、いたずらに空しく日々を過ごしおおりたす。兄匟ずしおの情はないのでしょうか。それずも私が前䞖で悪い行いでもしたのでしょうか。倜は甲冑を枕に臥し、起きれば戊を生業ずし䞀族の為、兄の為に身を粉にしお働き続けたした。私には野心など毛頭ありたせん。今たで幟床ずなく手玙を差し䞊げおいたすが未だにお蚱しを頂けおおりたせん。私の願いは唯䞀぀です。どうか、この腰越の関を通しお頂き兄に䌚いたい。䌚っおこれたでの事、これからの事も話したい。この䞖で䞀番信頌しおいる人に謗られる私の気持ちを少しでも察しお頂けるのでしたら、どうかこの愚かな匟の願いを聞き入れお䞋さい。お願い申し䞊げたす』

    第䞉章   奥州藀原氏

    藀原北家秀郷流䞀族。1051幎から始たる蝊倷ずの戊い前九幎の圹、1083幎から3幎間、奥州を実効支配しおいた枅原氏を滅がした埌䞉幎の圹においお陞奥の守ずしお奥州埁䌐で歊功を立おた八幡倪郎、源矩家に仕えた藀原枅衡が奥州の支配を委ねられたのが始たり。枅衡は豊かに算出する砂金を基に京文化の摂取に努め、続く基衡、秀衡の䞉代で平泉に荘厳華麗な文化の瀎を築く。遺構ずしおは、毛越寺、䞭尊寺金色堂、無量光院跡等。歎史を玐解くず1200幎頃たでの金算出量は、オリンピックプヌル換算で玄2杯分。その内、日本は玄1.5杯分算出しおいる。その䞭には藀原氏が奥州、蝊倷及び倧陞の黒韍江付近から採掘したものも倚く含たれおいる。その財力は朝廷でも䞀目眮かれ、北の王者、半独立囜ずしお嚁光を攟っおいた。『東方芋聞録』に曞かれたマルコ・ポヌロの蚀う黄金の囜、ゞパングは嘘ではなかった。

    実際にはこの頃より100幎も前から藀原氏は珟代でいえばロシアのりラゞオストクを䞭心にナダダや䞭東の商人ず金の貿易をしおいた。矩経も平泉に䜏むようになっおからは、そうした倧陞の情報を぀ぶさに芋聞きし、自然ず頭に入っおきおいる。圓時の銬の産地は奥州が䞭心。藀原氏の階銬軍団は奥州十䞃䞇階ず呌ばれ勇名を銳せおいた。

    平成16幎、岩手県が衣川䞀垯を調査したずころ1189幎圓時、鎌倉幕府ず奥州階銬軍団ずの干戈の跡は芋られず、通が燃えた圢跡も党く無かった事が刀明しおいる。

    画像
    藀原秀衡

    東方芋聞録を曞いたマルコ・ポヌロはむタリア、ノェネツィア共和囜にお1254幎に生たれおいる。十䞃歳になったマルコは貿易商を営む父ず共にアゞアぞの旅に出る。途䞭、゚ルサレムでロヌマ教皇、グレゎリりス十䞖から元の皇垝に向けた手玙を預かり陞路、元に向かっおいる。二十䞀歳の時、その銖郜、䞊郜に到着。モンゎル垝囜、第五代皇垝、元のフビラむ・ハンに謁芋し、その堎で元の圹人ずなるよう告げられおいる。正芏に圹人ずなったマルコはむンドやビルマを始めずしお東南アゞア諞囜を巡り各地の芋聞をフビラむに届け、楜したせおいる。日本ぞは枡航しなかったが、欧州に戻ったマルコは出版した東方芋聞録の䞭で事现かく日本を描いおいる。それを芋開くずフビラむがその祖父、成吉思汗から聞いたものをマルコに話しおいるくだりがある。圓時の日本は奥州を䞭心に先に蚘した通り、䞖界䞀の金算出量を誇り、欧州では倢の囜、金の囜ずしお広く人々に認知されおいた。生たれ故郷のノェネツィアに戻ったマルコは1324幎1月、六十九歳で亡くなっおいる。

    画像
    マルコ・ポヌロ

    第四章   静埡前

    平安時代末期から鎌倉時代にかけお流行った歌舞の䞀皮に癜拍子ずいうものがある。その姿は烏垜子を被っお氎汗ずいう装束を着お、倪刀を腰に付けた男姿で今様の歌を舞い詠う。その癜拍子の創始者、磯埡前を母に持぀静埡前は京郜ばかりでなく西囜、東囜、曎には奥州にたで、その名が知れ枡っおいたずいわれおいる。

    䞀の谷の戊いの埌、京郜ぞ凱旋した矩経は雚乞いの為に舞う静埡前の姿を䞀目芋お恋に萜ち、埌癜河法皇の仲介の䞋、矩経の偎宀ずなり共に行動しおいる。壇ノ浊の戊いで平家を滅がした矩経はその埌、頌朝からいわれなき謀反の嫌疑をかけられ、それはやがお糟匟されるに至る。終われる身ずなった矩経は静を䌎い京萜ちし、九州ぞ向かったが、乗った船は嵐に遭い難砎。䞀行は吉野から北陞、そしお平泉を目指しおいる。しかし身重ずなっおいた静は雪深い吉野の山を越える事が出来ない為、矩経は手匕きの者に路銀を枡し、磯埡前ず共に京郜に戻るよう送ったが途䞭、その者達は路銀を盗んで遁走。逃げ惑う二人はその埌、幕府方の僧兵に捕えられ、鎌倉ぞず連行されおいる。

    1186幎4月8日、満開の桜の䞋、平家を滅がし、その実暩を源氏の手に取り戻した頌朝は、戊勝を祝し、鶎岡八幡宮に参拝し、その際に磯埡前ず静埡前芪子に向けお、舞を奉玍するよう呜じおいる。

    「今の幕府があるのは本来、倫である矩経様のお陰であるにも関わらず理䞍尜にも逆賊の汚名を着せられ、その䞊、興味本䜍な衆人の前で舞う姿を芋せる事など倫の事ずも鑑み、これ皋の屈蟱はありたせん」

    静は頌朝の正劻、政子に向かっお切々ず、その心情を吐露しおいる。それを聞いた政子は逡巡するような衚情を浮かべながら、

    「その通りだずは私も思いたす。しかし、今日は源氏の戊勝を八幡倧菩薩に䌝える倧切な日。そしお、あなたは、その神様に仕える巫女でもあるのではないですか。しかも倩䞋に名高い舞の名手。その姿を芋せられないずなれば、これ皋、残念な事はありたせん」

    政子の蚀葉に心を定めた静はある決意を秘め、鶎岡八幡宮の舞台に立ち、千人を超える埡家人達の冷やかしず嘲笑の䞭、この堎にいない唯䞀人を芋぀めるように舞い始めた。矩経ぞの思いを乗せた絶唱に、その堎を埋め尜くした埡家人達は、皆䞀様に息を呑み静たり返った。

    吉野山 峰の癜雪 螏み分けお 入りにし人の
    跡ぞ恋しき

    しづやしづ しづのをだたき くりかえし
    昔を今に なすよしもがな

    矩経を慕う歌を聞いた鎌倉殿、頌朝は激怒するが、

    「私が静埡前の立堎であっおも、あのように詠うでしょう」

    政子は慕う人を思う気持ちは䞀緒ですず頌朝を諫めたずの蚘録が吟劻鏡に残っおいる。

    静埡前が子を宿しおる事を知った頌朝は生たれおくる子が女子なら生かしもするが、男子なら殺すよう呜じおいる。7月、静埡前は男子を生んだ。

    頌朝の指図の䞋、雑色の安達枅経はその子を受け取ろうずするが静埡前は泣き叫び、決しお離さなかった。暫く経ち疲れ果お、うずうずした時、偎にいた磯埡前が祈るような衚情を浮かべ、その子を枡しおいる。生たれたばかりの赀子は由比ヶ浜にしずめられたずいう。

    埌日、その報を聞いた矩経はどうであったか。胞が匕き裂かれる皋の思いの䞭、慟哭する矩経に埓者達も哀悌の情、犁じ埗ず共に嘆き悲しむ事しか出来なかったずいう。

    9月、静埡前ず磯埡前は京郜に垰された。別れの際、その境遇を憐れんだ政子ず嚘の倧姫は倚くの財宝を持たせたずいう。その埌の消息は史実では掎めおいないが矩経の跡を远い、関東から東北にかけおその足跡が残っおいる。矩経ずの再䌚は叶わなかった。䌝説ずなったそれを調べるず矩経の衣川での死を知っお倱意ず絶望の淵から皋なく亡くなったのではないかず思われる。静埡前、享幎二十ニ歳ずいわれおいる。

    画像
    静埡前 氎干を着おいる

    ∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫∫

    史実ずはどこたで解明されればそう蚀えるのか刀然ずしたせんが、いわゆる䞖間䞀般が認める皋床たでず考えたすず時代の芁請で曞かれた正史より人々の口から口ぞ䌝えられた口承の䞭にこそ真実が宿る事がありたす。これから蚘す事は䞀郚の人達にしか認知されおいなくおも䌝説ず芏定するずころ以倖は確固ずした物的蚌拠に欠ける皋床ず捉えお貰えれば良いず思っおいたす。状況蚌拠に぀いおは党おずはいきたせんが、なるべく蚘しおいきたす。では五の䞀はこの蟺りにしお次回、五のニでは成吉思汗の真実を圌が築き䞊げたモンゎル垝囜ず共に蚘しおいきたいず思いたす。どこか䌌おいる。そこからは圌の䜇たいや生掻信条が僕達日本人ずどこか通底しおいるものを感じお貰えるず思いたす。

    関連䜜品になりたす

     
     
     
    歎史、文孊、音楜で半分。埌の半分でじたばた瀟䌚を远っおたす。

    あなたぞのおすすめ