
ぼうふらの涙
単なる記憶に過ぎないのだけれど、明治生まれの祖父が生前「ぼうふらの涙」という言葉を使っていた。
蚊の幼虫が涙を流すのは見たことはないが、絵本であればありかもしれない。何だか切ない。
無骨な明治生まれの職人の祖父がそんな詩的な表現をするとも思えないけれども。
私の中だけで、この「ぼうふらの涙」と言う言葉は独り歩きしていて本来の文脈での使われ方から随分と逸脱しているような気がするけれど、そもそも本来の文脈と言うことすらあやふやな記憶の彼方に消えてしまいそうなのだ。
微かな記憶をたどれば、「ぼうふら」はかぼちゃのことで「ぼうふらの涙」とはその切り口から出る水滴のことだ。広島地方の方言に違いないけれど、インターネットで調べても「ぼうふら」がかぼちゃのことだという事を裏付ける証拠はない。家族以外ではそんな類の話は聞いたことはない。広島大学の名誉教授だった方言学者、藤原与一先生にお聞きすれば何か手がかりがありかも知れないけれど、直接聞くことが出来ない世界に行かれてしまった。祖父も父も母とも話は出来ない世界に行っている。
家内や子ども達にもこんな話はしたことはない。こんな話は何の役にも立たないどうでもよい話で何の得にもならないけれど、爺さんに会って話が出来るのであれば聞いてみたいと思う。
「ぼうふらの涙」って何の事なの?
と
「ぼうふらの涙」の周辺には、記憶、言葉、見え方の違いに関する記事があります。
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