
【飯食ったか。】 第二話
第二話
「30までに結婚できないって終わってるよね」
彼女たちが話しているのは、自分のことなのだろうか。それとも一般論なのだろうか。
二見奈津美は、手に持ったカップを握りしめて給湯室の前で立ちすくんでしまった。
「あ、奈津美さんお疲れ様です。珈琲おかわりですか?」
奈津美に気づいた後輩の一人が屈託のない笑顔で話しかけてきた。
――あ、今の話は、私のことじゃなかったのか。
「奈津美さんみたいに仕事こなせてたら、一人も悪くないですよね。あたしたちの仕事なんてお茶汲みですよ。今時、パワハラですよね。」
彼女たちに悪気はない。むしろ奈津美を、一人で颯爽と生きるカッコいい女性だと捉えてくれているらしかった。
「そんなことないけど、ありがとう。」と差し障りのない笑顔を向けた。
「奈津美さんは結婚とか興味ないタイプですもんね!」
「んー、そうかな。」
と、微笑んだ笑顔は宙に浮いた。
興味がない。
その一言が、思っていたよりも奥まで刺さった。
自分でそう言ってきたはずだった。仕事が楽しいから。一人が気楽だから。だから興味はない。何度も、何度も自分に言い聞かせてきた言葉だった。
なのに他人の口から言われると、まるで判決文のように重い。
数日前、会社の元同僚たちと行った居酒屋でも、似たようなことがあった。
もう何年も前に同じ部署で机を並べていた仲間たちは、今では家庭を持ち、子どもを育てている。旦那の惚気話、姑の愚痴、育児の大変さ――彼女たちにとっては当たり前の日常が、テーブルの上を飛び交っていた。
「奈津美はいいよね、自由で。」
誰かがそう言った。悪気なく、羨ましそうに。
私は違う。
そこは、まだ足を踏み入れたことのない場所の話でしかなかった。
笑って、相槌を打って、驚いてみせて。
ただそれだけの二時間だった。
そんな時、カウンターで飲んでいた誰かの声が耳に飛び込んできた。
「さすが、成婚率100%の敏腕相談員様だな。」
酔いが冷めるほどの嫌悪感を抱いた。
100%
この数字が意味すること。
完璧。
その場から逃げ出したくなるような感覚。
取引先の会社からの帰り、雑居ビルの2階に小さな看板が見えた。
「縁結婚相談所」
そういえば、あの居酒屋で。
「成瀬ちゃんは、えん結婚相談所――」
「いい加減覚えてよ。」
そう言って、女将が笑っていた。
立ち止まって、看板を見上げる。
「ここにあったんだ。」
今日はこのまま直帰だし、寄ってみてもいいかもしれない。
は? あたし、何考えてるんだろう。
自分の考えを否定してみたものの、足は自然と階段を上っていた。
別に結婚には興味はない。
興味があるのは、なぜ成婚率100%と言える実績がどこにあるか、と言うところだけだ。
インターホンを押す指が、思っていたより震えていた。
ドアを開けたのは、思っていたよりずっと柔らかい雰囲気の男性だった。
「いらっしゃいませ。お名前をお伺いします。」
「二見……奈津美です。予約はしてないんですけど。」
「大丈夫ですよ。今日お見えになる方はいらっしゃらないので」とソファに促した。
腰を下ろすと
「お飲み物は珈琲、紅茶、どちらになさいますか?」
「あ……じゃあ、紅茶で。」
「温かいものでよろしいですか?」
無言で頷いた。
茶葉の入ったポットにお湯を勢いよく高い位置から注ぎ込む。
茶葉のダンスが始まる。
成瀬はどこか楽しげに、その様子を見つめていた。
ここでも一日二十四時間という軸とは別の時間が、そこだけ流れている。
「お待たせしました。」
温かい香りの高い紅茶が差し出される。ひとくち飲むと、思っていたより優しい味がした。
「今日は、どういったきっかけで?」
成瀬と名乗ったその相談員は、まっすぐにこちらを見て聞いてきた。
あまりの紅茶の美味しさに思わず気持ちが緩んでいた。
ハッと我に返り
「先日居酒屋さんで成婚率100%と豪語しているのが聞こえ、どうしたらその数値が打ち出せるのかと興味を持ちました。」
奈津美は嫌味混じりでそう告げた。
笑いながら「あー、そうなんですね。聞かれてましたか。」
人差し指を上に向け
「あれはこの上にいる友人がそう言ってるだけですよ。」
やはりそうだった。
100%なんて所詮打ち出せる数値ではない。
成瀬は続けた
「相談者様の誠意や想いが形になっていくだけで、私が何かするわけでも、できることなどもありません。」
謙虚そうにものを言ってるわけではなさそうだ。この人は本当にそう思っているのだろう。
「私はただ、お話を聞かせていただいてるだけです。」
この部分だけは今までとの口調とは違う、はっきりと揺るぎない決定的な強さを感じた。
「奈津美様は、結婚というより成婚率にご興味があるということですね。」
すぐには答えられなかった。
本当は、結婚そのものに興味もある。
結婚したいとも思っているのかもしれない。
ふと、頭をよぎったが即座に否定した。
「いえ、100%と言える自信や実績がどこにあるのかと気になっていただけです。」
「そうですか、ではご結婚に興味があるとか成婚率とかではないということでしたか、それは申し訳ありません。」と成瀬が頭を下げた。
「いえ、私の方こそ、結婚相談所に来て結婚に興味がないなどと、失礼でした。」と頭を下げた。
「ここは色々な方がお見えになりますよ。突然『私は結婚したいんでしょうか?』って聞かれる方もいらっしゃいました。」と、成瀬は笑って言った。
「そういう時はどう対応するんですか?」
成瀬は「そんな時はこれです。」
とスマホを取り出した。
「これでAIに聞いてみましょう。」と
「AIですか?」
思わず呆れて、成瀬の返しもおかしく思わず笑ってしまった。
「奈津美様はAIは使いますか?」と好奇心旺盛の小学生のような顔で聞いてきた。
「はい、最近は動画見るよりAIと話してる方が多いです。」
「あ、同じです。またAIと戯れてるのか、って奴に言われます。」とまた人差し指で上を指しながら笑った。
「ハマりますよね。」
奈津美は、自分と同じようにAIにハマってる人がいることが嬉しくなった。
まるで、昔からの友だちのような気にもなってきた。
「周りでも使ってる人はいるんですが、検索とか、どこかケーキの美味しいところ探してくらいで、なんかこうもっといろんなことできちゃうのに、って思いながら聞いてるんですけどね。」
「奈津美様はどんな使い方をされるんですか?」
「あたしもあまり変わらないんですけど、愚痴を聞いてもらったりとか、でも服の写真撮ってコーデとかしてもらったり。」
「成瀬さんは、どんな感じで使うんですか?」
「僕は、幸せとは何か?なんて聞いたりもしてます。職業柄ですかね。」照れたように笑った。
「あたしは、聞いたことないです。どんな返事がもらえるんだろう?」
「聞いてみませんか?」と成瀬に促され
興味を覚えた奈津美はスマホを取り出した。
「幸せって何?」そう打ち込んだ奈津美は
目を見開き、戸惑いの表情を見せた。
「どうされました?」
「予想外というか、思ってもみなかったことが書かれていて。」
「どんな回答だったんですか?」
「ここです。」
と奈津美は成瀬に画面を向け、自分では腑に落ちていない部分を指差した。
一般的な幸せというのは、から始まった回答。
指を刺した部分は
なっちゃんは頑張り屋だから、支え合って生きていける旦那様と、美味しいものをたくさん食べることが、幸せなんじゃないかな。と書かれていた。
顔を上げると、成瀬がこちらを見ていた。
「でも、無理なんです。
あたしには結婚すること自体、無理なんです。」
と、感情的に言い放った。
成瀬は少し考えるように、視線を宙に置いた。
「奈津美さん、AIってね。」
静かに続けた。
「自分を映し出す鏡なんだと思うんですよ、私は。」
涙が、こぼれ落ちた。
声を出したら、そのまま泣き崩れてしまいそうで、奈津美はうん、うんと声を出さずに頷いた。
けれど、堪えきれなかった。
嗚咽が漏れた。
隠して、見ないふりをしてきた結婚への想いに、触れてしまったのだ。
しばらくして奈津美は話し始めた
「母が、なんでもできる人なんです。仕事も、家のことも、近所付き合いも。」
そんな母を見ていると、なにもできない自分が結婚などできるわけがない、と思っていた。
「お付き合いされた経験は?」
「あります。でも、半年も経たないうちに、他に好きな人ができたと言われて別れました」
「なので、私には恋愛も無理だし、結婚も無理だと、ただひたすら仕事をしてきました。」
成瀬は、続きを待つように黙っていた。
「でも、結局何をやっても中途半端で頑張ろうと思っても完璧にできなくて。」
「でも、本当は…」
「もし、結婚するとしたらどんな人がいいな、と思いますか?」
「こんなダメな私を受け入れてくれて、支え合って生きていける人。」
「じゃあ、まず奈津美さん、自分で自分を認めてあげましょうよ。」
「AIの回答にも書いてありますよ?
頑張れる人だ、って。」
「ちょっと頑張りかた間違えちゃっただけですよ。あなたは決してダメな人なんかじゃない。
そもそも完璧になんでもできる人なんていませんよ。」
静かで、穏やかな話し方が奈津美の心に滲みてくるようだった。
ふと、成瀬の目のふちが、微かに赤らんでいることに奈津美は気づいた。
なぜだろう。そう思ったが、聞けるような空気ではなかった。
「成瀬さん、私も結婚できるかな?」
奈津美は涙を拭い、笑いながら成瀬に聞いた。
(第3話へ続く)