
【飯食ったか。】 第一話
第一話
「飯食ったか?」
ドアを開けるなり、有村薫はそう言った。
「また聞く?」
「食べたよ。」
(もう大丈夫なのに。)
苦笑しながら、成瀬憲一はパソコンから顔を上げる。
「口癖みたいなもんだな」と有村は笑った。
パイプ椅子を引き寄せて腰掛け、
「それより、今日だろ、あの向坂とかいう客。」
「うん。戻って来てくれると思ってたよ。」
成瀬は小さく笑った。怒って帰ったあの日から、ちょうど一週間が経っていた。
ブブッ
ブブッ
短く続くインターホンの音。
ドアを開ける。
「いらっしゃいませ。」
そこに立っていたのは、一週間前と同じ、隙のない身なりの男だった。だが表情は、あの日よりいくらか硬い。
「先日は、失礼しました。」
向坂は開口一番、そう言った。
「いえ、こちらこそ。」
成瀬はいつもの調子で、ソファへと促す。
「珈琲でよろしいですか?」
「はい、アイスコーヒーを、ブラックで。」
一週間前と同じ答え。だが今日は、その口調に、あの日ほどの棘はなかった。
一週間前――
サイフォンがコポコポと音を立てる。管の中を黒い液体がゆっくりと上っていく光景。一日二十四時間という軸とは別の時間が、そこだけ流れているようだった。
「あの、」
パーテーションの向こうから、苛立ちを隠しきれない声がした。
「すみません。書類か何か、先に書いてしまえるものはありますか。」
(せっかちな人だ。)
この珈琲を淹れる時間さえ、彼にとっては無駄でしかないのかもしれない。
「もう少しだけ、お待ちくださいね。」
グラスいっぱいの氷にコーヒーを注ぐ。カランと涼しい音。
「お待たせしました。」
向坂は「報告のみなので、ちょっと失礼します」とスマホの画面に指を走らせて言った。
調査票を差し出すと、スマホをテーブルの脇に置き、項目を確認しながら書き出す。
先ほどまでスマホの画面を叩いていた指が、そのままの速さでペンを走らせている。
希望条件欄にも、手を止めることなく
専業主婦とだけ書き込まれる。
成瀬はそこに目を落としたまま、顔を上げずに聞いた。
「効率的に物事を進めていける方だとお見受けしております。仕事にも今はAIを使いこなしていらっしゃるんでしょうね。」
「もちろんです。プレゼンの資料も、人が作るより短時間で仕上がりますから。」
「私は現場を離れて、もうだいぶ経ちます。今は『幸せとはなんでしょう』などと聞いたりしてます。職業柄なんでしょうかね。」
「ふっ」と一瞬鼻であしらわれ、
「そういう正解のないことものには使いませんね。」
「ご自分のスマホでも、やはり仕事関連でAIをお使いになっているんですか?」
「それはありませんが、主に知りたいことの検索くらいでしょうか。」
「知りたいこと、ですか。」
これ以上説明するのも時間の無駄だと思ったのか、向坂は自分のスマホを取り出し、AIアプリを開き成瀬に差し出した。
「見ればわかると思うので、どうぞ。」
差し出された画面には、検索した話題の一覧が並んでいた。
成瀬は聞いた。
「どんな内容か読ませてもらってよろしいですか?」
またしても
「ふっ」とあしらわれ
「どうぞ。」と一言。
一覧の中のひとつに指を伸ばした。
開かれた画面には、向坂とAIとのやり取りが、そのまま残っている。
一つの問いに対して、同じような質問が、言葉を変え、角度を変え、何度も重ねられていた。
「もっと具体的に」「他の可能性は」「それは本当に正しいのか」——。
一往復で終わるはずのやり取りが、一つの話題だけで何十行にも渡って続いている。
成瀬は、そのやり取りに静かに目を通し、一つの疑問を感じた。
「そんなものが何かの役に立つんですか?」
待たされている向坂にとってはどうでもいいようなことで時間使いたくないのだ。
そこで向坂は、成瀬の周りの空気が、違うように思えた。
いつもののんびりとしている穏やかそうな空気とは違う、何かを見定めようとするような、静かな圧。
だが、それはすぐに、あののんびりとした穏やかな空気に戻った。
(勘違いだったのか。)
「向坂様はこのようにAIをお使いになるんですね。私は聞きかたが曖昧過ぎて、やりとりが長くなり過ぎてしまって、参考になりました。」
成瀬はそう言って、スマホを返した。
向坂は、その空気感に違和感を覚えた。
この、のんびりとした穏やかな雰囲気を作っているのかもしれない。
多くの人と関わってきている経験が人を見る目を養ってきていると自負している自分にとってこの違和感は見逃せないものだった。
だが、結婚相談所の相談員という立場なら、この雰囲気を作っているとしても当然だと、自分に納得した。
「お手間をとらせて申し訳ありません。先に進ませていただきますね。」
「専業主婦を希望されている方をお探しということですね。」
「はい、自分が忙しいので、家のことをそつなくこなしてくれる人がいいんです。」
(とにかく早目に済ませよう。)
言い切った向坂の言葉に、成瀬は何かを堪えるように、一瞬だけ視線を落とした。
それから、静かに顔を上げた。
「向坂様。この条件のみというのはご紹介は致しかねます。」
「結婚は、確かにご縁のものです。ただその先の結婚生活を続けるとなると、またそこには違うエッセンスを加えていくことになりますよね。」
「私は末長く幸せな結婚生活を続けていけるようなご縁を紡いでいただきたい。」
「今のお話は、家政婦を探しているように聞こえてしまって。」
「そんなことは分かっているつもりです。」
向坂は苛立ちを覚えた。
「役割を尊厳に全うするということではないんでしょうか?」と強めに言ってしまった。
成瀬は答えられずにいた。
「もう結構です。成婚率100%の相談員がいると聞いて来てみましたが、時間の無駄だったようですね。」
一週間後の今、向坂は同じソファに座っていた。指は組まれたまま、動かない。
「本日は、どういったご用件で。」
成瀬は、声をかけた。
「……この一週間、家政婦を探していると言われたことが耳に残っていて、自分なりに色々と考えてみたんですが、考えがまとまらなくて。」
短い沈黙のあと、成瀬は静かに切り出した。
「お聞きしましょうか?」
効率重視で、決断も早く、ことを早急に進めていく向坂のイメージが、この時だけは違い、長い沈黙があった。
「母は専業主婦でした。」
「父は忙しい人で、休みの日にもほとんどが接待などで家を空けることが多く。」
「なので、自分もそうなるのかとと思っていたんです。」
「家事はもちろん、僕ら――あ、私には姉がいるんですが、学校行事などもとにかく家のことは全て母がこなしていました。」
そう話しながら、向坂は運動会にも一度も顔を見せることがなかった父、周りの友だちはお父さんも来ていて羨ましくもあり、寂しかったことを思い出していた。
頷きもせず、時の経つのをただ待っている成瀬。
長い間があり、向坂が再び話し始めた。
「母は弱音を吐いたり、泣いたりする人ではなかった。」
「感情的に怒ったりするところも見たことがなかったですね。」
考えをまとめるわけでもなく、ただ思い出しながら言葉にしているといった様子である。
初回の向坂からのイメージからは想像もできない別の向坂がここにはいる。
「おかえりなさい、向坂さん。」
唐突に言われた言葉に
「あ、はい……お世話になります。」
向坂は軽く会釈をして、続きを話し始めた。
「先週、ここの帰りに姉に連絡をしたんです。ここを紹介してくれたのが姉だったので……」
「姉は結婚していて、子どもが一人います。共働きで、フルタイムで仕事をしていて、僕は義兄が不甲斐ないので姉に仕事をさせてる。と思っていたので、義兄はあまり好きじゃなかった。」
成瀬は俯いた。
「成瀬さんが前回言ってくださったことがわかったような気がします。このまま結婚して子どもができたとしたら、自分のように寂しい思いをさせてしまっていたのかもしれません……」
成瀬はそっと頷いた。
「再度、調査票、ご記入されますか?」
向坂は声を出さずに、首を縦に振った。
成瀬に差し出された真新しい調査票に、前回のような答案用紙にわかっている答えを書くような素早さはなく、じっくりと読み、考え、記入していく向坂の姿があった。
成瀬はそんな向坂の様子を、じっと見ていた。
一週間前、あのAIとのやり取りを思い出していた。言葉を変え、角度を変え、何度も重ねられていた問い。
今、目の前で向坂は、迷い、言葉を探し、書いては止め、また書いている。
成瀬は、そんな向坂の姿を微笑ましく見つめていた。
調査票を書きながら、向坂はふいに聞いてきた。
「……成瀬さんは、ご結婚されてるんですか。」
少し間があり、
「はい。」と答えた。
「寄り添って歩んでいる理想的なご夫婦なんでしょうね。」
結婚相談所の敏腕相談員。成瀬のイメージは向坂にとってそう感じたのだろう。
成瀬は、何も答えなかった。ただ、いつもの微笑みだけを浮かべていた。
数週間後。
夕方、事務所に向坂から電話が入った。
「成瀬さん、ご紹介いただいた方と、お付き合いすることになりました。」
来所初日の無機質な「アイスコーヒーをブラックで」と言い放った向坂は、もうここにはいなかった。
「彼女とご挨拶に伺います。その時は紅茶をお願いします。彼女、紅茶が好きだと言うので」と笑い声が聞こえた。
その夜、成瀬と有村はいつもの居酒屋の暖簾をくぐった。
「とりあえず生。」
「じゃ、俺も」
「お、いいことあったな。成立したか?」と有村は成瀬を覗き込んだ。
「さすが、成婚率100%の敏腕相談員様だな。」
「やめてくれよ、その言い方」
二人は笑った。
その声は、奥のテーブルにまで届いていたらしい。
「――成婚率100%?」
「結婚もなかなかいいもんだよ。ま、一人の時間も恋しいけどさ。」と話す友だちの話に
「なにそれ、お惚気って言うやつ?」とツッコミを入れながら笑っていた二見奈津美の耳に飛び込んできた。
100%、なんて相談所、あるわけないじゃない。
酔いが冷めてしまうような嫌悪感を感じた。
その夜、いつものように成瀬は家の小さな仏壇の前に座った。
線香に火をつけ、手を合わせる。
「今日、向坂さんから連絡があってね。」
静かに切り出す。
「お付き合いすることになったって。声が、初めて会った時とは別人のようだったよ。」とクスリと笑った。
線香の煙が、まっすぐに立ち上っていく。
「それにね、有村、また今日も飯食ったか?って聞いてきたよ。笑っちゃうよね。」
揺れる蝋燭の火を見つめながら
「ごめんね、
ありがとね。」
線香の灰が、静かに落ちた。
(第2話へ続く)