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鐘を鳎らすな、象が通る

     矢䞊を発っお六日になる。道は倧村の海沿いを北ぞ向かい、䞉月の现かな雚が、朝から象の背を濡らしおいた。濡れるこず自䜓を、象は嫌がらない。嫌うのは濡れた石畳の方だず、貞十郎は六日のうちに芚え蟌んだ。

     機嫌は耳に出る。耳がゆっくり扇いでいればよし、付け根が匷匵れば悪し。錻が地を䜎く掃くのは退屈の印で、退屈は悪戯の前觊れである。昚日は人足の笠が䞀蓋、錻に攫さらわれお畑ぞ飛んだ。垳面には、笠䞀蓋、ず付ける。誰の萜ち床ずも曞きようがないので、それだけを付けた。

     圌杵の浜にかかったずころで、阿犏が初めお、貞十郎ぞたっすぐ声をかけた。

    「みず」

     海を指しおいる。和語である。い぀芚えたのか、誰に習ったのか、問い返す間もない。阿犏は象の前脚を軜く叩き、象はもう、浜ぞ䞋り始めおいた。

     朮の匕いた遠浅ぞ膝たで入り、象は錻で海氎を吞い䞊げおは、背ぞ济びせる。䞀床ごずに、ばさり、ず叀垆を打぀音が鳎った。小雚の䞋で、灰色の巚䜓から湯気が䞊がる。芋物は今日も数癟を数え、今日も声がない。声のない浜に、象の济びる氎音だけが、やけに近く聞こえた。

     䞃官が傍らで扇子を開いた。

    「楜しそうで」
    「象が、ですか」
    「暋口様が」

     返す蚀葉を探しおいるうちに、象がこちらぞ錻をひず振りしお、塩蟛い飛沫が頬たで届いた。䞃官が声を立おお笑い、人垣の方々からも堪えきれない笑いがいく぀か挏れ、挏れおから皆が慌おお口を結んだ。觊れを曞いた圓人は、頬を拭いながら、誰かを咎める気は起きなかった。

     垳面に付ける。圌杵の浜にお氎济び、半刻。それより先は、曞く蚀葉が芋぀からない。玙の癜いずころを、しばらく芋぀めた。

    ◇

     䜐賀平野を抜け、筑前に入るず、内野の手前で冷氎峠にかかる。長厎街道でも名うおの難所で、雚はここで䞉日目になっおいた。

     峠道に入っお䞉町ばかり、象が止たった。

     阿犏が短く声をかける。動かない。耳の付け根が匷匵り、右の前脚が、地を探っおは匕っ蟌む。阿犏は象の前ぞ回り、䜕事か䜎く蚀いながら、その前脚を持ち䞊げさせた。足の裏を怜めお、顔぀きが倉わる。

     䞃官が芗き蟌み、蚳すより先に唞った。足裏の分厚い肉に、髪筋ほどのひびが幟本も走っおいる。濡れた石畳を六日、あの目方で螏み続けた足裏である。

    「歩けたすか」

     䞃官が問いを蚳す。阿犏は銖を暪に振り、峠の䞊を指し、それから象の足を指しお、指を二本立おた。

    「無理をさせれば、ひびが裂けお膿む。裂ければ、ふた月は立おぬ、ず」
    「ふた月」

     血の気が匕いた。次の宿堎は明日の入りで觊れおある。小倉の枡しは䞉日埌、怜䜿が立ち䌚う手筈で、その先の宿割りも、逌の觊れも、すべお日付で組んである。その日付をひず぀残らず組んだのは、自分の筆である。

     昌過ぎ、先の宿堎から䜿いの䟍が雚の䞭を駆け䞊がっおきた。明日の埡着きは、ず問う。延びる、ず貞十郎は答えた。い぀たで、ず問われ、象の足が癒えるたで、ず返す。䟍は気色ばんだ。

    「日限は公儀のお定めにございたしょう」
    「象が歩けぬものは、公儀でも歩かせられたせん」

     蚀っおしたっおから、自分の蚀葉に自分で驚いた。䟍より驚いおいたず思う。圹所勀めの十幎、日限を曲げる偎に回ったのは、これが初めおである。

     逗留ず決たれば決たったで、甚は次々に湧いた。䞉日分の逌の觊れは出おいない。宿堎の笹はその日のうちに尜き、藁の倀は倍に跳ね、したいに貞十郎は山ひず぀分の竹林を、村の肝煎から買い䞊げた。

     垳面に、竹林䞀山、ず付ける。圹所勀めで竹林を買った者は、おそらく自分が初めおである。前䟋は、ない。あの五文字が、このごろ少しず぀、嘆きばかりには聞こえなくなっおきた。

     その晩、貞十郎は宿堎の玍屋の隅で、遅延の届けを曞いた。雚倩続き、象の足裏に疵きず、療治のため䞉日逗留。末尟に、遅延の儀、責は匕請暋口に有り、ず曞き足す。曞き足した䞀行は、䞍思議ず筆が軜かった。

     玍屋の奥では、阿犏が膏を小鍋で炙っおいた。牛脂に束脂を溶いた、錻の奥に届く匂いである。象は壁際に身を寄せ、蚀われるたでもなく前脚を浮かせお、阿犏の手に足裏を預けおいる。䞀䞈の巚䜓が、四十男の手のひらひず぀に、片脚の重みを預けお立っおいる。

     その倜曎け、芋回りに立った貞十郎の袖ぞ、暗がりから錻が䌞びおきお、墚の匂いをひずしきり探っお戻っおいった。長厎の囲いで初めお䌚った日ず、同じ仕草である。手の甲に残った枩みも、同じだった。

     手圓おが枈むず、阿犏は貞十郎の方を向き、垳面を指した。それから象を指した。

     蚀葉はない。毎日象のこずを曞き付けおいる。そのこずを指しおいるのだず、しばらくしお思い圓たった。笹䜕荷、藁䜕荷、氎济び半刻、笠䞀蓋。怜分の蚀葉で曞いた、象の六日分である。阿犏は頷き、初めお貞十郎ぞ笑った。象ぞ向けるのず、同じ顔である。

     逗留の䞉日で雚は䞊がり、象の足裏は癒えた。峠を越える朝、象は阿犏が促すより先に、自分から坂ぞ足を進めた。

    ◇

     小倉の浜には、芋たこずもない船が舫もやっおいた。

     銬船を二艘、舳先を揃えお綱で組み、䞊ぞ厚板を枡しお土を敷いた、台のような船である。船倧工が十日がかりで仕立おたずいい、厚板の䞋では、艫綱ずもづなが朮に軋んでいる。察岞の䞋関たでは半里足らず。半里足らずの海が、早鞆ノ瀬戞ず呌ばれる急流である。

     厄介なのは目方である。船倧工は喫氎を案じ、詊しに人足を䞃十人、台船ぞ乗せお沈み具合を怜めた。䞃十人がぞろぞろず乗っおは䞋りる様を、象は岞で草を食みながら眺めおいる。怜分の答えは、人足䞃十人分、すなわち象䞀頭分。垳面に付けおから、貞十郎は劙な可笑しさに襲われた。あの生き物の目方は、この囜ではただ、人の数でしか量れない。

     䞡岞の浜は、倜明け前から人で埋たった。物芋の舟が出おは觊れで叱られ、岞ぞ戻される。鐘は今日も鳎らない。朮の音だけが倧きい。

     声を立おられない矀衆は、それでも工倫をする。枡るか、枡らぬか。沈むか、沈たぬか。指の䞊げ䞋げで静かな賭けが行われ、胎元らしき男が觊れ圹に芋咎められお、銖をすくめお匕っ蟌んだ。貞十郎は芋なかったこずにした。どちらに賭ければよいのか、こちらが教えおほしいくらいである。

     象は、枡し板の手前で止たった。

     前脚が船板に觊れ、匕っ蟌む。もう䞀床觊れお、匕っ蟌む。板の䞋で海が䞊䞋するのを、足の裏が聎いおいる――ず、貞十郎には芋えた。阿犏が声をかけおも、今床は耳の付け根が固いたたである。

     怜䜿の䟍は戞田ずいい、道䞭の日限を預かる立堎である。朮時が、ず急かす声には、本日を逃せば次は䞉日埌、ずいう事情がある。理屈は正しい。戞田はその正しさを疑わぬ顔で、人足頭ぞ顎をしゃくった。

    「構わぬ。綱を掛けお匕け」
    「お埅ちを」

     貞十郎は垳面を開き、初めの頁を戞田の県前ぞ突き出した。象の事、䞀切、阿犏どのに埓う事。我ながら、歊噚がこれ䞀冊かず心现くなる。

    「その垳面に、公儀の埡印はあるのか」
    「ございたせん。ですが象は、埡印を読みたせん」

     抌し問答の間にも、人足がふたり、怖々ず綱を回しにかかっおいた。綱の先が、象の埌脚に觊れる。

     象が、埌ろぞ退いた。

     䞀䞈の巚䜓が退けば、人の偎が抌し出される。杭が䞀本ぞし折れ、人垣の前列が厩れ、誰かが悲鳎を䞊げた。ひず声䞊がれば、あずは堰が切れる。鐘を鳎らすなず觊れられた浜が、初めお鳎った。鐘ではなく、数千人の声で。

     象の耳が硬く立ち、錻が高く䞊がる。前脚が板を離れ、巚䜓が人垣の偎ぞ半回転しかける――

     歌が、聞こえた。

     阿犏である。

     䜎い声である。節は単玔で、同じずころをゆっくり回る。広南の蚀葉らしいが、蚀葉ずいうより、寄せおは返すものの調子に近い。象の耳が、止たった。扇ぐのでも匷匵るのでもなく、ただ歌の方ぞ向いお止たっおいる。

     半回転しかけた巚䜓が、ゆっくりず板ぞ向き盎る。二床目の繰り返しの途䞭で、象は前脚を板に茉せた。船が深く沈んで軋み、浜の数千人がいっせいに息を呑む音を、貞十郎は生たれお初めお聞いた。その音のうちに、象は四぀の足を船ぞ収めおいる。

     曳き綱が匵る。台船は急流を斜めに切っお、ゆっくりず岞を離れた。

     海の䞊の象は、静かだった。錻を高く䞊げお朮颚を探り、それきり埮動もしない。阿犏は歌い続けおいる。歌の切れ目に、象が䞀声、高く鳎いた。笛に䌌お、笛より遥かに倧きい。䞡岞の人垣が、声を出せないたた、いっせいに揺れるのが芋えた。

     枡しの半ば、朮目で船がひず぀倧きく揺れた。人足が綱に取り぀き、怜䜿が船瞁を掎む䞭で、象だけが足の眮き堎所を半歩ず぀盎し、揺れの真ん䞭に立ち続けおいる。船板を信じなかった獣が、いったん信じたあずは、船の誰より船に慣れおいた。

     傍らの䞃官に、貞十郎は小声で蚊ねた。

    「あの歌は、䜕ず」

     䞃官は珍しく、すぐに答えなかった。扇子を閉じ、歌の行く先をしばらく目で远っおから、蚀った。

    「  歌は、蚳すず歌でなくなりたすので」

     知っおいお蚳さない顔である。それくらいは読めた。読めたが、それ以䞊は蚊かずにおいた。海の䞊で問い詰める話でもない。

     䞋関の浜ぞ着くず、怜䜿が真っ先に船を䞋り、象は最埌に、来たずきず逆の順で足を運んで本州の土を螏んだ。荷揚げを怜めながら、䞃官が阿犏ぞ、軜口の調子で䜕か蚀った。唐の蚀葉に、船、ず聞こえる音が混じる。垰りは船で楜ができたすな、ずでも蚀ったらしい。

     阿犏は答えず、背を向けお、象の蜡瞄く぀わなわを解きに行った。

     䞃官の扇子が、開きかけお止たった。それきりその話は、誰の口にも䞊らなかった。

     倕刻、宿割りの蔵の前で、戞田がひずりで埅っおいた。

    「日䞭の儀だが」

     蚀い淀む䟍を、貞十郎は黙っお埅぀。埅぀のも圹目のうちである。

    「  綱の䞀件、埡甚留には」
    「残したす」

     戞田の顔が匷匵った。匷匵った顔のたた、曞かれれば腹を切る者が出る、ず䜎く蚀う。脅しではない。算盀を匟いた末の蚀葉だず分かる声である。貞十郎は垳面を出し、その堎で䞀行を曞いお芋せた。

     枡海の砌みぎり、綱掛けの儀あり。暋口、差し止め。仔现なし。

    「  仔现、なしず」
    「悲鳎は、垳面に曞く欄がございたせんので」

     戞田は長いこず垳面を芋お、それから深く頭を䞋げ、䞋げたこずもなかったかのように去った。

    ◇

     䞋関の宿は廻船問屋の蔵である。象は蔵の土間に収たり、倜半、貞十郎は行灯あんどんの䞋で垳面を開いた。

     本日、関門枡海。船賃、人足賃、綱代、怜䜿銳走料。数字は、い぀も通りに埋たった。䞊べ終えお、行を改めた。

     綱の儀の䞋ぞ、今日ふた぀目の、仔现なし、を曞く぀もりの筆が、止たった。

     仔现なら、あった。歌があり、息を呑む浜があり、海の䞊で鳎いた䞀声があった。それを入甚の蚀葉に盎す道を、貞十郎は知らない。䞀字目を眮く。二字目で迷った。䞉字目を埅たずに、墚を含たせ盎しお、䞊から消した。

     消した跡だけが、䞀行分、黒々ず残った。

     灯心の火がひず぀爆ぜる。蔵の奥で、象の寝息が長く続いおいる。江戞は、ただ遠い。

    話に続く


     
     
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