
【十五の曖昧】 Ep.07 SideA 佐伯POV 残す側から選ぶ側へ、逆リストラの覚悟
あらすじ:二〇二六年七月一日。旧アイリス・ネットワークスがグリーンスフィア・キャピタル傘下に入った翌日、佐伯俊一の肩書きは経営企画部長から経営企画本部長へ変わった。昇格したはずだった。しかし、部下の半分は前日に会社を去っていた。机の上には、出向してきたCFO代行・徳田が置いた三枚のA4資料。その三枚目には「リストラ対象者、最終リスト。七月末まで」と記されていた。佐伯はその文字を見た瞬間、退職日の朝、虎ノ門のコーヒースタンドで佐藤愛から託された言葉を思い出す。「佐伯さん、石田さんと、藤岡さん、お願いします」。これは、残す側にいた五十三歳の男が、初めて“選ばれる側”の痛みに立ち、部下を守るための一年を始める物語である。そして八か月と二十二日後、その元部下が、佐伯の覚悟を決定づける。
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📖Ep.01 「退職勧奨」前編──78億円の退職勧奨日
📖Ep.01 「退職勧奨」後編──十五マスの曖昧さ
📖Ep.02 「独立初日、AIの相棒が起動した」
📖Ep.03 「町工場の値段」 ──頭の中身の境界線
📖Ep.04 「価値の物語化」──SaaSの値段、DCFが揺れる夜
📖Ep.05 「決算書の化粧」──決算書は化粧
📖Ep.06 「歴史の値段」──八十年の、見えない負債
📖Ep.07 「覚醒」──白か黒か、美辞麗句の非合理性
一 昇格の朝、消えた部下たち
二〇二六年七月一日、水曜日。午前八時二十二分。
東京都港区虎ノ門。虎ノ門ヒルズ森タワー三十四階。
株式会社アイリス・ネットワークス本社。
経営企画本部、本部長室。
佐伯俊一、五十三歳。
前日まで、経営企画部長。
本日より、経営企画本部長。
部署名が変わった。肩書きが、一段上がった。
そして、部下の半分が、昨日いなくなった。
佐伯は、新しい執務室に座っていた。
壁の一面は、ガラスだった。
虎ノ門の空が、そのまま見える。
昨日までのデスクは、オープンスペースの四十二番。
今日からのデスクは、ガラス張りの八畳の個室。
机の上には、名札が置かれていた。
前任者の名札ではない。
自分の、新しい名札だった。
経営企画本部長 佐伯俊一
佐伯は、その名札を左手で持ち上げた。
重かった。
同日、午前九時十分。
執務室の扉を叩く音がした。
「どうぞ」
扉が開く。入ってきたのは、グリーンスフィア・キャピタルから出向してきた徳田だった。
四十歳。北米MBA。CFO代行。
「佐伯さん。お疲れさまです。今日、三つお願いがあります」
徳田は、A4を三枚、机の上に置いた。
一枚目。
経営企画本部の人員配置計画
十月一日施行。
二枚目。
旧アイリス、資産圧縮計画
三か月以内。
三枚目。
リストラ対象者、最終リスト
七月末まで。
佐伯は、三枚目のタイトルを見た。
その瞬間、椅子の背もたれに体を預けた。
「徳田さん。三枚目」
「はい」
「これ、誰が作るんですか」
「佐伯さんです」
短い答えだった。予想していた。
予想していたが、実際に口にされたときの重さは、予想を超えていた。
「……何人、対象ですか」
「旧アイリス全体で三十二名。うち、経営企画本部からは四名です」
「四名」
「八月末で退職。加算金は、月給六か月分」
佐伯は、徳田の顔を見た。
「徳田さん。一つ、お願いがあります」
「どうぞ」
「経営企画本部の四名のリスト、私に二週間、考える時間をください」
「なぜ、二週間必要なんですか」
佐伯は、少しだけ息を吸った。
「リストラ対象者ではなく、残す対象者の視点で、再構築させてください」
「佐伯さん。結果が同じ四名なら、二週間かけても意味がない」
「意味はあります」
「……」
「ファンドとしての、貴社の採用計画に関わる意味です」
徳田は、その言葉に反応した。
「貴ファンドの三号ファンドは、LP報告書で『日本の成長企業への長期的事業価値の向上』という投資テーゼを明記しています」
徳田は、黙って聞いていた。
「二週間かけて、残す対象者の視点でリストを作ることで、旧アイリスの事業価値を長期的に担保する構造を、出口戦略に組み込めます」
徳田は、佐伯の顔を見た。
「佐伯さん。あなた、経営企画部長として、そういう会話をいつからできるようになったんですか」
佐伯は、静かに答えた。
「昨日、午後三時です」
「何が、昨日あったんですか」
佐伯は、答えなかった。けれど、頭の中には、一つの光景が浮かんでいた。
二〇二六年六月三十日。クロージング日。午後三時。
佐藤愛、二十七歳。経営企画部員。退職日。
その日の午前、佐伯は虎ノ門のコーヒースタンドで、佐藤と最後のコーヒーを飲んだ。別れ際。佐藤は、こう言った。
「佐伯さん。石田さんと、藤岡さん、お願いします」
佐伯は、答えられなかった。
その沈黙の中で、佐伯は一つの約束をした。
二 リストラ対象者ではなく、残す対象者を見る
二〇二六年七月十五日、水曜日。
午後二時四十分。
佐伯は、徳田のオフィスに一人で入った。
手には、A4が一枚。
経営企画本部・人員最適化提案書
作成:佐伯俊一
日付:二〇二六年七月十五日
徳田は、そのA4を読んだ。読みながら、ペンを止めた。
そこに載っていたのは、リストラ対象者のリストではなかった。
残す対象者のリスト。
そして、リストラ対象者への三つの代替処遇案だった。
一つ目。契約社員化。
正社員のまま退職させるのではなく、契約社員として一年継続雇用する。
一年後、業績に応じて、正社員化または契約終了を判断する。
二つ目。異動。
経営企画本部から、技術部、開発部、人事部へ。
スキルマッチに応じて、異動させる。
三つ目。退職。
上記二案が不適合の場合のみ、退職。
加算金は、当初の月給六か月分から、十か月分へ上乗せする。
徳田は、黙った。
「佐伯さん。これ、四名全員に適用するんですか」
「はい」
「ファンドの人件費削減計画に反します」
「反しません」
佐伯は、即答した。
「一案の契約社員化は、月額給与を正社員時の八十五パーセントに抑えます。二案の異動は、異動先の給与テーブルに合わせるため、平均で十二パーセント減になります。三案の退職は、一時的に加算金の支出が増えますが、年次の人件費は消えます」
「数字、詰めてくれますか」
「詰めました」
佐伯は、二枚目のA4を出した。
シナリオ別・年次人件費比較
現状:四名正社員年間四千八百万円
全員リストラ:年間ゼロ円+一時金一千六百万円
本提案:契約社員化二名、異動一名、退職一名年間二千九百万円+一時金四百万円
徳田は、数字を追った。
「三年間の累計は」
「全員リストラの場合、一時金一千六百万円のみです」
「本提案は」
「三年累計、九千百万円」
「ファンドのリターンとして、どう解釈するんですか」
ここで、佐伯は勝負をかけた。
「徳田さん。旧アイリスの技術部と開発部に、残してほしい人材が二名います」
徳田の目が、少し動いた。
「その二名が会社に残ることで、二〇二八年度の売上計画、プラス八億円が達成可能になります。単年のEBITDA貢献は、一・二億円です」
「二名とは、誰ですか」
「石田隆行、四十八歳。技術部。藤岡美代、三十九歳。開発部」
「その二名、経営企画本部の四名の中に入っていましたか」
「入っていません」
「では、なぜ今、出てくるんですか」
佐伯は、徳田の目を見た。
「旧アイリス全体の三十二名のリストラ対象リストに、石田さんと藤岡さんが入っているからです」
徳田のペンが止まった。
「佐伯さん。あなた、本部長として初日から、他部署のリストラ対象リストを読んでいるんですね」
「読んでいます」
「それは、越権行為に当たる可能性があります」
「承知しています」
佐伯は、視線を逸らさなかった。
「徳田さん。一つだけ、教えてください」
「何でしょう」
「貴ファンドが旧アイリスを買収した投資テーゼは、長期的事業価値の向上でしたね」
「はい」
「石田さんと藤岡さんを切ることは、その投資テーゼに逆行します」
徳田は、長く息を吐いた。
「……佐伯さん。二人を残して、どうなるんですか」
「石田さんは、契約社員として継続。藤岡さんは、正社員に登用。合計の年間人件費は、千八百万円です」
佐伯は、一拍置いた。
「二〇二八年度の売上計画、プラス八億円への貢献が見込めます」
「リターンの説得力は」
「ROI、五百六十七パーセント。保守的に、純益ベースで見積もりました」
徳田は、数字を見た。
「純益ベースとは」
「売上プラス八億円。EBITDAマージン十五パーセントで、貢献EBITDA一・二億円。そこから年間人件費千八百万円を引きます。純益は一億二百万円。投資は千八百万円。リターンは五・六七倍です」
「粗利で見れば」
「六百六十七パーセント。ですが、純益ベースでも、五百六十七パーセントは崩れません」
徳田は、提案書をもう一度読み直した。
一枚目。二枚目。
そして、もう一度、一枚目。
読み終えて、言った。
「二人、残す。経営企画本部の四名の処遇も、本案で進める」
佐伯は、静かにうなずいた。
「ありがとうございます」
徳田は、椅子の背もたれに体を預けた。
「佐伯さん。一つ、聞いていいですか」
「どうぞ」
「石田さんと藤岡さんは、誰のお知り合いですか」
「退職した部下の、友人です」
「退職した部下」
「佐藤愛という、二十七歳です」
徳田は、その名前をメモに取った。
「佐伯さん。あなたは、退職した部下との約束のために、ファンドのリストラ計画を書き換えた」
「書き換えました」
「なぜですか」
「私、ずっと、残す側だったんです」
「残す側」
「会社が買収される。削減対象が選ばれる。誰を残し、誰を外すか。そういう、選ぶ側にいました」
佐伯は、言葉を探した。
「一度、選ばれる側に立ってみたら、何が見えるのか。試したいと思いました」
徳田は、しばらく黙っていた。
「佐伯さん。一つ、約束してください」
「はい」
「この書き換えのロジックを、他の部署にも展開してください。旧アイリス全体の三十二名のリストラ対象を、同じ残す視点で再構築してください」
「承知しました」
「期限は、一か月」
「一か月ですね」
徳田は、立ち上がった。そのあとで、少しだけ表情を緩めた。
「佐伯さん。個人的な質問をしてもいいですか」
「どうぞ」
「佐藤愛さんは、今どうしているんですか」
「独立して、M&Aコンサルを始めました」
「独立、四か月ですよね」
「はい」
「その退職の挨拶で、佐伯さんに石田さんと藤岡さんを託した」
「そうです」
「佐藤さん、二十七歳」
「はい」
徳田は、少しだけ笑った。
「佐伯さん。あなた、いい部下を持っていましたね」
佐伯は、短く答えた。
「はい」
三 逆リストラという仕事
二〇二六年八月から、二〇二七年一月まで。
佐伯は、旧アイリス全体の三十二名のリストラ対象リストを、ゼロから見直した。
三十二名のうち、二十一名は、契約社員化または異動で継続雇用。
残り十一名のうち、八名は加算金を月給十か月分から十二か月分へ上乗せし、円満退職。
最後の三名は、元非正規、契約社員からの正社員登用、または昇格。その中には、石田と藤岡も含まれていた。
削るためのリストを、残すためのリストに変えた。
それは、逆リストラとも呼べる取り組みだった。
二〇二六年十一月。この取り組みは、グリーンスフィアの投資委員会でモデルケースとして承認された。
佐伯は、その承認通知を受け取ったあと、自分の執務室で一人、つぶやいた。
「佐藤。見てるか」
佐伯は、机の引き出しを開けた。一番奥に、一枚の紙が入っていた。
二〇二六年六月三十日。クロージング日。
佐藤が、最後のコーヒーの時に渡したA4だった。
佐伯さんへ
お世話になりました。石田さんと、藤岡さん、何卒よろしくお願いいたします。私の五年間で、一番学んだのは、数字の裏側に人間がいる、ということです。佐伯さんは、私にそれを教えてくださった最初の人です。独立しても、私はそのことを忘れません。
佐藤愛
佐伯は、そのA4を引き出しから出した。
デスクの右上の立て掛けに、そっと挟んだ。
その瞬間から、佐伯の一年間の仕事に、裏のルールが生まれた。
数字の裏側に、人間がいる。
削る前に、残す視点で見る。
選ぶ側にいるときほど、選ばれる側の顔を忘れない。
佐藤が残した短い手紙は、佐伯にとって、誰にも見せない稟議書のようなものだった。
四 十六億円安い買い手
二〇二七年一月二十日、水曜日。午後三時十二分。
グリーンスフィアの徳田から、佐伯の個人メールに一通のメッセージが届いた。
件名。
三号ファンドの出口戦略
本文。
佐伯さん、至急、ご相談があります。
明日十時、本社会議室にて。
徳田
佐伯は、そのメッセージを読んだ瞬間、嫌な予感がした。
嫌な予感の正体は、わかっていた。
旧アイリスが、転売される。
翌日。
二〇二七年一月二十一日、木曜日。
午前十時。
徳田の執務室。
「佐伯さん。三号ファンドの運用期限は、来年二月までです」
「はい」
「旧アイリスの業績が、想定を上回っています。早期の出口戦略を検討しています」
「転売、ですか」
「そうです」
「候補は」
徳田は、A4を二枚出した。
候補A:アーキペラゴ・ホールディングス株式会社
統合方針:従業員、完全継承
提示額:七十六億円
候補B:ウェストファルコン・キャピタル北米PE
統合方針:三年で従業員の三割削減
提示額:九十二億円
佐伯は、二枚目の文字を見た。
三年で従業員の三割削減。
「徳田さん」
「はい」
「候補Bが採用されたら、石田さんと藤岡さんはどうなりますか」
「……対象に入る可能性が高いです」
佐伯は、その答えを想定していた。
想定していたが、実際に聞いたときの重さは、想定を超えていた。
「徳田さん。私、候補Aを推します」
「佐伯さん。あなたは売り手側です」
「はい」
「売却金額の最大化が、職業的使命です。候補Aは、候補Bより十六億円安い」
「承知しています」
「それでも、候補A」
「はい」
「根拠を」
佐伯は、一年間の逆リストラの仕事を思い出した。削るリストを、残すリストに変えた日々。その一つひとつを、頭の中で並べ直した。
「徳田さん。一年前、私はあなたに、残す視点でリストを再構築する提案をしました」
「はい」
「そのとき、あなたは三年累計九千百万円の人件費上乗せを承認されました」
「はい」
「承認の根拠は、二〇二八年度の売上計画、プラス八億円でした」
「はい」
「その八億円の根拠が、石田さんと藤岡さんの継続雇用でした」
徳田は、黙って聞いていた。
「候補Bを採用すると、石田さんと藤岡さんは切られます。そうなれば、二〇二八年度の売上計画プラス八億円は崩れます」
徳田のペンが止まった。
「佐伯さん。あなた、一年前からこの状況を想定していたんですか」
「していません」
佐伯は、首を横に振った。
「ただ、一年前に評価したことが、今日、試されていると感じています」
徳田は、長く息を吐いた。
「私一人では、候補A採用を決められません。シニアパートナーの藤代さんが意思決定権者です」
「承知しています」
「藤代さんは、IRR最優先の判断をする方です。候補Bを選ぶ可能性が高い」
「徳田さん。一つ、お願いがあります」
「何ですか」
「売り手側FAの追加指名として、松原総合経営研究所を推薦させてください」
徳田は、佐伯の顔を見た。
「松原さん。業界で名前は聞きます。売買両方で七百件のベテラン」
「はい」
「松原さんを追加指名する理由は」
佐伯は、二つ目の勝負をかけた。
「松原さんの弟子、佐藤愛という二十七歳のFAと、共同で指名してください」
「佐藤愛」
「独立九か月目。五案件を担当。累計成約額、約百三十億円」
徳田は、記憶を探すように目を細めた。
「その名前、どこかで聞きました」
「七月にご紹介した、退職した部下です」
徳田は、しばらく黙っていた。
「佐伯さん。あなた、退職した部下に候補Aを推させることで、藤代さんのIRR判断を覆すつもりですか」
「そのつもりです」
「根拠は」
佐伯は、言った。
「佐藤愛は、書き換えの人間です」
徳田は、その言葉を知らなかった。
「それは、業界の専門用語ですか」
「いいえ」
佐伯は、少しだけ笑った。
「業界の長老、関口俊郎さんという方が、先月、佐藤に付与した呼び名です」
「関口製作所の、関口社長」
「ご存じでしたか」
「弊ファンドの検討対象に入っていた時期があります。最終的には、スチールブリッジ・パートナーズに取られましたが」
「その案件を、売り手側FAとして設計したのが、佐藤愛と松原謙吾の共同受任です」
徳田は、佐伯の顔をもう一度見た。そして、ゆっくり言った。
「わかりました。松原さんと佐藤さんの追加指名、私が藤代さんに推薦します」
佐伯は、頭を下げた。その瞬間、佐伯は思った。
ここから先は、自分だけでは届かない。
けれど、届かせたい場所がある。
そのために、あの元部下の名前を、もう一度この会社の会議室に戻す。
五 ver.1.0の元部下
二〇二七年三月二十二日、月曜日。
午後四時三十二分。
佐伯は、自分の執務室に一人でいた。デスクの上の携帯が鳴った。
発信元は、徳田。
「佐伯です」
「徳田です。投資委員会、終わりました」
「結果は」
「候補A、アーキペラゴ採用。七十八億円」
佐伯は、椅子の背もたれに体を預けた。
目を閉じた。
徳田は、続けた。
「佐伯さん」
「はい」
「佐藤さん、藤代さんにこう言ったそうです」
「何と」
「業界の通り相場を、書き換える、と」
佐伯は、ゆっくり目を開けた。
「具体的には」
「候補Bを選ぶと、LP報告書の投資テーゼと実務の乖離が、四号ファンドのLPへの説得力を削る、という議論です」
佐伯は、電話を握ったまま、天井を見た。蛍光灯が、白く光っていた。
「徳田さん。それ、一年前、私があなたに言ったロジックと同じです」
「そうです」
徳田は、少しだけ笑ったようだった。
「佐藤さんは、それを投資委員会の最終局面で使って、勝ちました」
佐伯は、しばらく何も言えなかった。自分が一年間かけて作った道を、佐藤は最後の三時間で走り切った。
いや、違う。佐藤が走ったから、自分の一年間が道になった。
「徳田さん。最後に一つ聞いてもいいですか」
「佐藤、勝ったあの瞬間、どんな顔をしていましたか」
徳田は、少し笑った。
「佐伯さん。あなたの退職した部下、泣きません」
「泣いていない、ということですね」
「泣いていません。ただ、一言、言いました」
「何て」
徳田は、その言葉を静かに伝えた。
「曖昧さはグレーです。だから決める。白か、黒か」
佐伯は、その言葉を聞いた瞬間、目を閉じた。
閉じた目の中に、一年前の佐藤が浮かんだ。
虎ノ門のコーヒースタンド。退職日の朝。
二十七歳の佐藤愛。
まだ、ver.0.1だった彼女。
その佐藤が、今日、ver.1.0として、自分の元へ帰ってきた。
帰ってきた佐藤の最初の仕事は、佐伯の一年間の残し方を、確定させることだった。
六 信じていなくても、やる
同日、午後七時十二分。
佐伯は、虎ノ門ヒルズ二階のコーヒースタンドにいた。
一年前、佐藤と最後のコーヒーを飲んだ、あの店だった。
カウンター席に、一人で座る。ブラックを一杯、頼んだ。
携帯を取り出す。佐藤愛の連絡先を開いた。
メッセージを打った。
佐伯:
今日、おつかれさまでした。徳田さんから聞きました。
石田さんと藤岡さん、雇用、守れました。
ありがとう。
送信ボタンを押した。三分後、返信が来た。
佐藤:
佐伯さん、一年間、お疲れさまでした。
石田さんと藤岡さんを守り続けてくださったのは、佐伯さんです。
私は最後の三時間だけでした。
佐伯は、その返信を読んだ。読みながら、コーヒーの湯気を見ていた。
湯気の向こうで、虎ノ門の夜の街灯がにじんでいる。
佐伯は、もう一通打った。
佐伯:
佐藤、一つ聞いていいか。
佐藤:
はい。
佐伯:
君は一年前、私に石田さんと藤岡さんを託した。
あの時、私がやり遂げると信じていたか。
返信は、すぐには来なかった。三十秒。
佐伯は、画面を見たまま待った。三十秒後。
佐藤から、短い返信が届いた。
佐藤:
信じていませんでした。
佐伯は、笑った。声を出して、笑った。
「そうか」
口の中で、そうつぶやいた。もう一通、来た。
佐藤:
信じていなかったけれど、佐伯さんなら、信じなくてもやると知っていました。
佐伯は、その一文を何度も読み返した。
何度も。何度も。
読み返しながら、自分の五十三年間の仕事の一番深い場所を、この二十七歳の元部下が言葉にしていたことに気づいた。
信じていなくても、やる。見られていなくても、やる。
褒められなくても、やる。
それが、佐伯俊一という人間の、仕事の仕方だった。
佐伯は、もうメッセージを打たなかった。
代わりに、コーヒーを一口飲んだ。
冷めかけたコーヒーの苦味が、舌の奥に残った。
佐伯俊一、五十三歳。経営企画本部長。
本日、退職した部下と、一年ぶりに言葉を交わす。
二〇二七年三月二十二日、月曜日。
午後七時四十六分。
虎ノ門ヒルズ二階。
コーヒースタンド、カウンター席。
一年間の、残し方の仕事。
本日、一段、完了。
第七章 Side-A 了
次回予告
Ep.08 本編「未来の約束」──FCFは、未来の約束
師弟契約二年目、七案件目。
定石五、FCFの実態。
損益計算書には現れない、未来のキャッシュフローを、どう価格に織り込むか。
新米コンサル佐藤愛、ver.1.0。
新しい段階の、初案件。
そして、相棒ロボver.0.6が、初めて、同意しないまま並走する夜。
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本作『十五の曖昧──労働力を資産に変える女・佐藤愛』は、新米M&Aコンサルタント・佐藤愛が、五つの交渉軸と十五の曖昧さを処理する技術を身につけていく成長物語です。
全60話・Season1 連載中。
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