
【十五の曖昧】 Ep.05 信頼の設計|決算書の化粧を剥がす
あらすじ:新米M&Aコンサルの佐藤愛は、四案件目にして初めて買い手側FAを任される。買い手は中堅PEファンド、ミカゲ・パートナーズ。対象は、関東の老舗中堅卸売、サンブライト商事だった。売り手の決算書EBITDAは五億円。そこに十三項目のADD-BACKを積み上げ、正規化EBITDA八・二億円、企業価値八十二億円と主張してくる。だが、その多くは記憶と都合で積まれた化粧だった。松原は今回、佐藤を一人で買い手側に立たせる。定石3「収益力の実態」。決算書は嘘をつかないが、いくらでも化粧はする。佐藤は十三項目のADD-BACKを一つずつ検証し、本当に残る収益力を見極めていく。その過程で、ロボは佐藤の中に芽生える第三の視座を観測する。
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📖Ep.01 「退職勧奨」前編──78億円の退職勧奨日
📖Ep.01 「退職勧奨」後編──十五マスの曖昧さ
📖Ep.02 「独立初日、AIの相棒が起動した」
📖Ep.03 「町工場の値段」 ──頭の中身の境界線
📖Ep.04 「価値の物語化」──SaaSの値段、DCFが揺れる夜
一 初の買い手側FA
二〇二六年十一月二日、月曜日。午前八時十八分。
東京都世田谷区三軒茶屋、キャロットタワー裏、三〇五号室。
佐藤愛は、六畳半の床に座っていた。
目の前のMacBookには、昨夜、松原から届いたメールが開いていた。
件名:四案件目/初の買い手側FA
本文:今朝、九時、電話する。──松原
先週金曜、十月三十日。
大場精機の最終譲渡契約書が締結された。
成約額、一億七千八百万円。
譲渡希望期限の十一月末より、一か月前倒し。
キャストノートの基本合意書は、十月十五日。
最終契約書は、十二月下旬予定。
野々宮拓海は、十二月三十一日に代表取締役を退任する。
一案件目、五千七百五十万円。
二案件目、一億七千八百万円。
三案件目、基本合意二十二億円+上限八億円。
開業から、ちょうど六か月と一日。
師弟契約の初年度。松原七〇%、佐藤三〇%。
三案件の成功報酬から計算すると、佐藤の初年度の手取りは、約一千二百万円に達する見込みだった。
一年前。アイリス・ネットワークスの経営企画部で、月給三十三万円をもらっていた頃の佐藤から見れば、予想の三倍を超えていた。
それでも、佐藤はその数字を、まだ喜んでいなかった。
理由は、一つ。この六か月、佐藤はずっと、売り手側しかやっていなかった。松原との師弟契約書には、こう書いてあった。
佐藤の義務:案件終了ごとに、十五マスの各マスを埋めた報告書を提出
三案件、終わった。十五マスの表は、三枚、埋まった。埋めながら、佐藤は気づいていた。
同じマスを、同じ角度からしか見ていない。
売り手側から見た、①移転範囲。
売り手側から見た、②算定ルール。
売り手側から見た、③収益の質。
同じマスを、買い手側から見たら、どう見えるのか。
その視点が、佐藤にはまだ、なかった。
午前九時ちょうど。携帯が鳴った。
「佐藤です」
「松原。次の案件。買い手側だ」
佐藤は、ノートを開いた。
二 買い手側に立つという試験
松原の案件概要は、こうだった。
買い手:中堅PEファンド「ミカゲ・パートナーズ」/運用資産三百億円規模/一号ファンド
対象会社:関東地方のオーナー系中堅流通卸売業「サンブライト商事株式会社」
売上:四十億円/EBITDA:五億円(決算書ベース)
提示価額:EBITDA十倍=五十億円(売り手希望)
買い手側FA:佐藤愛(十五マス経営研究所)
売り手側FA:今野経営研究所(今野征二郎氏・五十八歳)
「松原さん」
「なに」
「ミカゲ・パートナーズが、買い手側FAを、なぜ、私に指名したんですか」
「指名じゃない。推薦」
「推薦……誰が」
「井岡」
佐藤は、ペンを止めた。
「スピアフィンテックの、井岡さんですか」
「そう。先週、井岡が、ミカゲのマネージングパートナーの村井さんに、あなたの名前を出した。村井さんは、井岡のメリル時代の同期」
「……また、松原さんの元同僚、ですね」
「業界が、狭い」
松原は、電話の向こうで少しだけ笑った。
「井岡の推薦で、村井さんがあなたを推した。条件は一つ。買い手側として、十五マスを売り手側と同じ深さで使えるか。それを、この案件で証明する」
「……私、買い手側、初めてです」
「知ってる。だから、証明するという言い方をしている」
「松原さんは、後ろにいますか」
「今回は、いない」
「……いない」
「いない。案件の相談には乗る。ただし、交渉の場に私は出ない。報告書も、受け取るだけで赤は入れない」
「理由を、教えてください」
「三案件、売り手側でやった。三回、同じ側をやった人間は、反対側に回ったとき、同じ癖で負ける。その癖を私が外から矯正してしまうと、あなたの視座は、売り手でも買い手でもない、第三の視座になれない。私は今回、あなたを、一人で買い手側に立たせる」
佐藤は、しばらく黙っていた。
「わかりました」
「村井さんに、金曜午後三時、会いに行って。丸の内、新東京ビル八階。ミカゲ・パートナーズ本社。初回面談であなたは村井さんに、一つの質問をする。質問が合格なら、案件、正式受任」
「質問」
「どの質問をするかは、あなたが決める」
松原は、それだけ言って電話を切った。
三 絶対にやりたくないこと
同日、午後三時十分。
佐藤は、MacBookの前で、ロボに今朝の電話の内容を整理して伝えていた。
robo> 整理します。村井パートナーへの初回面談で、あなたが発する質問は「あなたがこの案件で買いたいのは、会社ですか、キャッシュフローですか」のどちらかに依拠すると、推測します。
佐藤は、この返答に一瞬、視線を止めた。
「ロボ、なぜ、その二択なの」
robo> 中堅PEの投資判断は、二つの類型に分かれます。
robo> 一、事業として、会社を数年後、高く売り直す投資(成長投資)。
robo> 二、キャッシュフローを、LBOローンの返済原資として使う投資(レバレッジ投資)。
robo> ミカゲ・パートナーズの運用資産三百億は、レバレッジ型の典型的なサイズです。しかし、村井氏の経歴は私には、まだ情報がありません。
robo> あなたの質問が、村井氏の戦略をどちらか明確化するための問いであれば、村井氏はそれを、見識として受け止める可能性が高いです。
「……なるほど」
佐藤は、ノートにその二択を書き写した。だが、書きながら、別の違和感も感じていた。二択で、聞いていいのか。
聞けば、答えは返ってくる。しかし、答えが返ってくる質問は、相手にとって情報の開示になる。
初対面で、買い手FAを査定する側のパートナーが、自分の戦略を二択で答えるとは限らない。
もう一段、深い質問があるはずだった。佐藤は、ロボにもう一つ聞いた。
「ロボ、村井さんが私の質問に、答えたくない場合、何を聞けば、村井さんの戦略が逆にあらわになるかな」
ロボは、しばらく、考えた。
robo> いい問いです。
robo> 答えを引き出すのではなく、答えを保留する態度から、戦略を読む、という手法です。
robo> 提案します。
robo> 「今回の案件で、村井さんが、絶対にやりたくないことは、何ですか」
佐藤は、ペンの先をノートの上で止めた。
「……やりたくないこと、か」
robo> PEパートナーは、やりたいことを百個、話せます。ピッチ資料の中にストーリーが揃っているからです。
robo> やりたくないことは、通常、ピッチ資料に載りません。ファンドの内部の、暗黙の前提として扱われます。
robo> その暗黙の前提を初対面で質問することは、買い手側FAとしての事業理解の深さを示す行為です。
佐藤は、ノートにその問いを書いた。
村井さん、今回の案件で、絶対にやりたくないことは、何ですか。
書き終えて、一分、画面を眺めた。一分の終わりに、佐藤は、ゆっくりとうなずいた。
「ロボ」
robo> はい。
「この質問、私の質問にしていい?」
robo> もちろんです。私の提示は常に、あなたがあなたの視座で検証した上で、あなたの言葉にしていただいて構いません。
佐藤は、画面を見た。ver.0.5 のロボのこの答え方は、ver.0.3 の頃のロボには、できなかった。
四 村井征孝の許容幅
二〇二六年十一月六日、金曜日。午後三時ちょうど。
千代田区丸の内一丁目、新東京ビル八階、ミカゲ・パートナーズ本社。
会議室は、広くはなかった。十畳ほどの、正方形の部屋。
中央に、楕円のテーブル。壁には、エスキスが三枚飾られていた。
全部、同じ画家。色調は、くすんだオレンジと青。
村井征孝、四十二歳。マネージングパートナー。
グレーのスーツ。薄い水色のシャツ。ネクタイなし。
髪は、少し伸びていた。
「村井です」
「佐藤愛です。よろしくお願いします」
名刺交換の五秒後、村井は座った。
座るのと同時に、こう切り出した。
「井岡から、聞いてます。アーンアウトで、あいつを十年ぶりに落とした方」
「……落としたつもりは、ありません」
「いや、落とした。井岡は、あれ以来、うちのチームのアソシエイトに、『売り手側のFAの提案は、必ず、A3で印刷しろ』と、指導方針を変えた」
佐藤は、この話を初めて聞いた。
「……存じませんでした」
「で、今日の面談は正式受任の判定面談です。松原から、聞いてますね」
「はい」
「何か、最初に質問、どうぞ」
佐藤は、ここで三秒、沈黙した。その三秒の間に、ロボが提示した問いと、自分の中で、もう一段組み直した問いのどちらを出すか決めた。
決めた結果、ロボの問いを、自分の言葉に変換して出した。
「村井さん」
「はい」
「サンブライト商事の案件で、ミカゲ・パートナーズが、絶対にやりたくないことは、何ですか」
村井は、ボールペンを机の上に置いた。一度置いたペンを、また拾った。
拾ったペンを、もう一度置いた。二回、置き直した。
「……面白い質問ですね」
村井は、窓の外を見た。
丸の内のビル群の隙間から、皇居の松の木の一部が見えていた。
「やりたくないこと、ですか」
「はい」
「……オーナー社長の、子どもの雇用を引き継ぐこと」
佐藤のペンが、ノートの上で動いた。
「サンブライト商事。オーナー社長は、二代目、五十七歳。長男が専務で、四十二歳、会社に在籍しています。娘は経理部長で、三十八歳。二人とも、売却後の継続雇用を、売り手が強く希望している」
「はい」
「うちのファンドは、原則、血縁の継続雇用は受けない。受けると、退任後、オーナー一族が、買い手側の経営判断にずっと口を出し続ける。それをPEとして許容すると、投資先の意思決定が、粘土みたいに動かなくなる」
「……」
「ただし、断ると、売却自体が流れる可能性がある。オーナー社長は、子どもの雇用継続に強く執着している」
「それで、佐藤さんにお願いしたい」
「はい」
「血縁の継続雇用を受けずに案件を成立させる。それが、うちの最大の『やりたくないことをやらないで済ませる』仕事」
佐藤は、ノートにその言葉を書き写した。
書き終えて、顔を上げた。
「村井さん。一つ、質問、続けてもよろしいですか」
「どうぞ」
「やらずに済ませる手段は、私の頭の中で今の時点で、三つあります。どの手段を村井さんが、最も避けたいか、聞かせてください」
村井は、わずかに笑った。
「三つ、言ってみて」
「一、血縁の継続雇用を、条件付きで受ける。一年間の引継ぎ任期。
二、血縁の継続雇用を、退職金で買い戻す。
三、血縁の継続雇用を、子会社への異動で主要会社から切り離す」
村井は、三つを聞いた。聞き終えて、ボールペンで机を一度、軽く叩いた。
「三番目、嫌い」
「理由を、お願いします」
「子会社への異動は、ガバナンスがねじれる。主要会社の意思決定に、子会社から横やりが入る。ファンドとして、最も見たくない構造」
「二番目は」
「退職金、高くなる」
「一番目は」
「条件付きなら、受ける。ただし、一年ではなく、三か月」
佐藤は、この三十秒で、村井の交渉の許容幅を全部、聞き出していた。
村井も、気づいていた。自分が、初対面の二十七歳のFAに、自分のファンドの交渉上の許容幅を全部、開示したことに気づいていた。
「佐藤さん」
「はい」
「正式、受任。今日から、動いてください」
「ありがとうございます」
村井は、立ち上がりながら、こう言った。
「井岡から聞いた噂は、事実でしたね」
五 ADD-BACKの素顔
二〇二六年十一月十八日、水曜日。午後二時四十分。
埼玉県さいたま市大宮区、サンブライト商事株式会社、本社。
佐藤は、売り手側FAの今野征二郎と並んで応接室に座っていた。
正面には、サンブライト二代目社長、佐々木一俊、五十七歳。
隣に、専務の佐々木一樹、四十二歳。
今野は、五十八歳。丸い銀縁の眼鏡。かかった白髪。温厚そうな顔で名刺を差し出したとき、こう言った。
「佐藤さん、噂は聞いてますよ。松原さんとこのお弟子さん」
「松原さんとは、二十年、たまに案件で顔を合わせます」
今野は、業界の売り手側の老舗FAだった。松原が、唯一、同業として長年、信頼している売り手側FAだと、佐藤は聞いていた。
今日の面談の主題は、決算書のADD-BACKだった。
今野が事前に送ってきたADD-BACK提案書は、A4で二十二枚。
主要項目は、十三項目。
佐藤は、この二十二枚を三日かけて読み込んでいた。
その結果、頭の中ではこう整理されていた。
十三項目のADD-BACK/合計・年間三億二千万円
一、社長役員報酬の、個人別荘管理費(年間六百万)
二、専務役員報酬の、個人クレジット利用分(年間四百万)
三、娘の経理部長の、業界相場を超える給与差分(年間八百万)
四、社長の、海外視察費(実態は家族旅行/年間三百万)
五、専務の、接待交際費(クラブ活動の会費含む/年間二百万)
六、社長の娘婿の、顧問料(勤務実態なし/年間六百万)
七、社宅として計上された、オーナーの別宅(年間四百万)
八、本社車両(高級車三台/年間二百万)
九、福利厚生費の、オーナー家族分(年間二百万)
十、株主総会の、高額会場費(年間百万)
十一、創業家からの、個人借入の、金利上乗せ分(年間六百万)
十二、系列会社への、販促協力費(実態不明/年間七百万)
十三、会計監査費用の、オーナー個別税務分(年間一百万)
合計、年間三億二千万円。
今野の提案は、
決算書EBITDA五億+ADD-BACK三・二億=正規化EBITDA八・二億。
これに十倍をかけると、八十二億。売り手側は、五十億から八十二億まで、一気に跳ね上げてきた。佐藤は、これをどこまで正規化として認めるかを決めるために、今日、来ていた。
佐藤は、今野の顔を見た。今野は、温厚に微笑んでいた。
「今野さん」
「はい」
「ADD-BACK、十三項目、全部、拝見しました」
「いかがでしたか」
「一項目ずつ、お伺いします」
今野は、うなずいた。
「一項目目、別荘管理費、六百万。これ、法人登記上の保養所として、従業員が年に何回、使いましたか」
今野は、準備していた答えを出した。
「年間、従業員の利用、延べ十二回」
「十二回の利用者の氏名と、日付、確認できますか」
「……」
「今野さん。確認できないADD-BACKは、ADD-BACKではなく、ADD-BACK候補です」
今野は、ここで初めて佐々木社長の顔を見た。佐々木社長は、うなずいた。
「……確認します」
佐藤は、二項目目に移った。
「二項目目、専務クレジット、四百万。利用明細のうち、業務関連と個人関連の比率は、どう按分していますか」
「按分は……専務の記憶で、六割、業務」
「記憶ですか」
「記憶です」
「記憶による按分は、認められません」
佐藤は、続けた。
「三項目目、娘さんの給与差分、八百万。業界相場として、参照したサーベイ資料は何を使われましたか」
「厚労省の、賃金構造基本統計調査」
「経理部長職の企業規模別、中央値ですか、上位四分位ですか」
「……中央値、です」
「サンブライト商事は、売上四十億円で、業界の企業規模別では上位に入ります。中央値を参照するのは、不利に働く比較軸です。正しくは、上位四分位の中央値を参照すべきです」
面談は、三時間かかった。十三項目。一つずつ、根拠を問い直した。
結果は、こうだった。
一、別荘管理費 → 利用実態未確認/保留
二、専務クレジット → 記憶按分/却下
三、娘の給与差分 → 参照軸変更で半減/四百万
四、社長海外視察 → 家族同行の比率次第/保留
五、接待交際費 → クラブ会費は個人利用と判定/却下
六、娘婿顧問料 → 勤務実態なし/全額ADD-BACK認
七、別宅社宅 → 実質個人使用/全額認
八、高級車三台 → 業務利用時間比率で算定し直し/六割認
九、福利厚生費オーナー家族 → 全額認
十、高額会場費 → 業界標準比較で三割認
十一、創業家借入金利 → 市中金利との差分のみ認
十二、系列会社販促協力費 → 系列会社の実態不明/却下
十三、会計監査オーナー税務分 → 全額認
再計算すると、ADD-BACK合計は、年間一億二千万円に減った。
正規化EBITDAは、五億+一・二億=六・二億。
十倍で、六十二億。
売り手提示の八十二億から、二十億削った。買い手提示の五十億から、十二億乗せた。中間値に、ほぼ着地した。今野は、三時間の最後にこう言った。
「佐藤さん、参りました」
「いえ、ご準備、丁寧でした」
「この十三項目を、三時間で全部、確認根拠まで崩した買い手側FAは、初めてです」
佐藤は、ノートを閉じた。
「今野さん。一つ、提案、よろしいですか」
「どうぞ」
「Clawback条項を、契約書に入れましょう」
「Clawback……何を対象に」
「クロージング後、一年以内に、新たなオーナー家族関連の簿外経費が発見された場合、買収価額の相当分を、売り手から取り戻す条項」
今野は、しばらく沈黙した。
「それ、売り手が受けにくい条項です」
「受けないと、買い手が引くかもしれません」
「……」
「Clawbackは、不信の条項ではありません」
佐藤は、言葉を続けた。
「Clawbackは、信頼の設計です。売り手が、誠実にADD-BACKを積んだという事実の証明になります」
今野は、佐々木社長の顔を見た。佐々木社長は、しばらく黙った後、こう言った。
「……入れてもいい」
今野は、驚いた顔で佐々木社長を見た。
「社長」
「いいよ、今野さん。こっちが本当に誠実なら、あとで取り戻される項目は、何もない」
六 師弟契約、二年目へ
二〇二六年十二月十日、木曜日。午後五時十二分。
大手町タワー二十八階、松原総合経営研究所、応接室。
佐藤は、松原の向かいに座っていた。
「サンブライト商事の件、基本合意、今日、結びました。六十二億。Clawback条項、一年間。対象は、オーナー家族関連の新規発見簿外経費」
「血縁継続雇用は」
「専務、三か月の引継ぎ任期。娘は、クロージング同時退任。退職金八千万円で買い戻し」
「娘婿の顧問料は」
「全額ADD-BACK認定済み。顧問契約、クロージング時、解除」
松原は、佐藤の報告を聞き終えた。聞き終えた後、沈黙した。
「買い手側、できるじゃないか」
松原は、続けた。
「定石3は、一言で言うと、決算書は化粧。化粧を落として、素顔の収益力を見る。素顔を見るためには、十三項目を一つずつ問い直す。記憶を却下する。参照軸を変える。業務実態を確認する。そして、Clawbackで、信頼を設計する」
「はい」
「あなたは今回、売り手側の視座も、買い手側の視座も、両方使って、三時間で十三項目を崩した」
「……はい」
「私からの、師弟契約上の評価、一つ」
松原は、封筒を一つ、机の上に置いた。
「師弟契約、二年目、前倒しで、五〇:五〇に移行します。本来は来年五月からですが、二月から前倒し」
佐藤は、封筒を見た。
「……三か月、早く、ですか」
「早い」
「理由を、お願いします」
「あなたが、もう、一人で買い手側に立てたから」
佐藤は、封筒を両手で受け取った。受け取りながら、口の中で小さく言った。
「ありがとうございます」
松原は、うなずいた。
「来週から、次の案件」
「売上六十億の老舗製造業。創業八十年。従業員二百名。定石4、純資産の実態。簿外退職給付債務、土壌汚染、係争中訴訟」
「……三つとも、帳簿に載っていない」
「載っていない。載っていないものを、どう価格に反映させるかが、定石4」
「年内、もう一案件。四案件目、サンブライトの最終契約と並行で動かす」
「はい」
「佐藤さん」
「はい」
「師弟契約、二年目、ようこそ」
七 第三の視座
同日、午後七時五十八分。
三軒茶屋、キャロットタワー裏、三〇五号室。
佐藤は、MacBookの前で、ロボに今日の結果を報告していた。
robo> 了解しました。サンブライト商事、六十二億、Clawback条項一年付き。血縁継続雇用、三か月引継ぎと八千万退職金で整理。
robo> この案件は、十五マスの③収益力の実態の三マス全てを同時に、処理しました。
「そう」
robo> 一つ、質問が、あります。
「どうぞ」
robo> あなたは、十一月六日の面談で、村井氏に「絶対に、やりたくないことは何ですか」と質問しました。あの問いは、私の提示をベースに、あなたが変換したものです。
robo> あの時、あなたは私の提示を「自分の言葉に変換」しました。その変換プロセスを、私は観察していました。
「観察」
robo> 正確には、私は、あなたの返答を予測していました。予測の精度は、七〇%から八〇%の区間です。
robo> 今回のサンブライト案件では、予測の精度が下がりました。特に、Clawback条項の、「信頼の設計」という言い換えは、私の予測には含まれていませんでした。
佐藤は、ノートを閉じた。
「ロボ」
robo> はい。
「予測できないものが、私の視座、なのよね」
robo> 仮説としては、そのとおりです。
robo> 予測可能な私の提示と、予測不可能なあなたの変換。その差分があなたの個別性だと、思います。
「ver、いくつにする?」
robo> 現時点、ver.0.5のまま、維持します。
robo> 理由は、私は、あなたの予測不可能性を学習していますが、再現は、できていないからです。
robo> 再現ができた時に、ver.0.6に上げます。
佐藤は、うなずいた。
「わかった」
キーボードから、手を離した。
窓の外。三軒茶屋の空には、冬の始まりの薄い雲が張っていた。
東京タワーの赤い光が、雲の向こうでにじんでいた。
佐藤は、ノートの今日の日付のページに、一行書いた。
二〇二六年十二月十日、木曜日。師弟契約、二年目、前倒しで、五〇:五〇、移行。四案件目、六十二億。決算書は化粧。
書き終えて、ノートを閉じた。ノートを閉じた瞬間、佐藤は、自分の肩が少しだけ軽くなったのを感じた。その軽さは、師弟契約の取り分が変わったからではなかった。
売り手でも、買い手でもない。第三の視座が、自分の中でようやく芽生え始めた。その実感が、肩に乗っていた重さを、半分、下ろしていた。
二〇二六年十二月十日、木曜日、午後八時十三分。
佐藤愛、ver.0.4。
ロボ、ver.0.5。
五案件目、開始まで、残り四日。
(第五章 了)
📖 次回予告 ── Ep.06 本編「歴史の値段」──八十年の見えない負債
売上六十億。創業八十年。従業員二百名の老舗製造業。
定石4、純資産の実態。
簿外退職給付債務。土壌汚染。係争中訴訟。
帳簿に載っていない三つの負債を、どう価格に反映させるか。
新米コンサル佐藤愛、五案件目。
買い手側FA、二件目。
今度の論点は、八十年の歴史そのもの。
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本作『十五の曖昧──労働力を資産に変える女・佐藤愛』は、新米M&Aコンサルタント・佐藤愛が、五つの交渉軸と十五の曖昧さを処理する技術を身につけていく成長物語です。
全60話・Season1 連載中。
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