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【十五の曖昧】 Ep.03 町工場の値段|頭の中身の境界線

    あらすじ:埼玉県川口市の町工場、大場精機。創業四十五年、従業員十七名、医療機器部品の精密切削加工を手がける会社を、二代目社長・大場清一は事業承継のため売却しようとしていた。新米M&Aコンサルの佐藤愛に託された二件目の案件である。論点は、七件の特許のうち三件が社長個人名義であり、職務発明規程も存在しないこと。つまり、その技術が会社の資産なのか、個人の資産なのか、境界線が未確定だった。松原謙吾は佐藤に、これは「目に見えない資産の境界線」を扱う案件だと告げる。佐藤は、特許をどう引き継ぐかを大場自身に選ばせる。依頼主に境界線を引かせることの意味を、初めて実務で知る回。


    ▶ 本編・前話を未読の方はこちらから

    📖Ep.01 「退職勧奨」前編──78億円の退職勧奨日
    📖Ep.01 「退職勧奨」後編──十五マスの曖昧さ
    📖Ep.02 「独立初日、AIの相棒が起動した」
    📖Ep.02 Side A 岩永POV ──「シンガポールへの境界線」


    一 雨の川口、第二案件

    二〇二六年七月二日、木曜日。午前十時四十分。
    埼玉県川口市西青木二丁目。

    東北自動車道から車で十五分。
    住宅地と中小工場が混在する区画の、奥まった一画。

    「大場精機株式会社」──壁面に貼られた錆びたアクリル板の文字が、雨で半分、色落ちしていた。

    創業昭和五十六年。敷地面積は四百八十坪。
    本社棟と、その奥に二階建ての第二工場棟が続く。

    佐藤愛は、三軒茶屋からレンタカーを借りて、ここまで来た。
    助手席には、MacBookと、A4ノート二冊と、十五マスの表。

    駐車場でエンジンを切ると、工場の方から精密切削の規則正しい金属音が聞こえてきた。

    十一時。二代目社長・大場清一、五十八歳との初回面談。
    松原から受け取った案件概要書には、こう書かれていた。


    大場精機株式会社
    設立:一九八一年(創業者・大場正雄)
    代表者:大場清一(二代目・五十八歳・就任十五年目)
    従業員:十七名(うちパート三名)
    主力事業:医療機器部品の精密切削加工
    売上:四億二千万円(直近期)
    EBITDA:四千八百万円
    想定譲渡価額:一億六千万円
    依頼理由:後継者不在(一人娘は医師/事業承継意思なし)
         社長の健康不安(軽度の狭心症・六月に手術)
    譲渡希望期限:二〇二六年十一月末


    この案件を、松原は佐藤にこう託した。

    「定石1の、次の層だ。前回の岩永案件は、目に見える資産の境界線だった。今回は、目に見えない資産の境界線──具体的には、知的財産権と個人と法人の資産の混在の境界線。難易度は、前回の二倍」


    二 「全部」は契約書に書けない

    応接室に通された。革張りの応接セットは、二十年以上使い込まれている質感だった。奥の壁には、額装された写真が一枚。

    創業者・大場正雄の白黒写真。隣に、二代目・大場清一と先代の並んだカラー写真。その隣に、賞状が三枚。

    経済産業省「ものづくり白書・優秀中小企業」選定(二〇一八年)
    埼玉県「医療機器関連・成長企業賞」(二〇二一年)
    特許庁「中小企業知財貢献賞」(二〇二三年)

    大場清一は、白髪混じりの痩せ型の男だった。夏なのに、ネイビーのカーディガンを羽織っている。左手を、心臓の上に時々、軽く置いていた。

    「佐藤さん、遠くまで、ありがとうございます」

    「こちらこそ、よろしくお願いします」

    「松原先生から、あなたは新米だと聞きました」

    「はい。本件は、私にとって二件目の案件です」

    「二件目」

    「はい」

    大場は、一度、目を閉じた。

    「……松原先生は、なぜ、私の会社をあなたに?」

    「社長の案件は、知的財産権と個人資産の切り分けが論点で、私の訓練としては最適だと判断したそうです」

    「正直な方だ」

    「はい」

    大場は、かすかに笑った。

    「佐藤さん。私はね、自分の会社をいくらで売れるかには、そこまでこだわってないんです」

    「……では、何にこだわってらっしゃいますか」

    「引き継がれることに、こだわっています」

    「引き継がれる、とは」

    「技術が、です」

    大場は、そこで一度、言葉を切った。

    「四十五年、親父と私が少しずつ磨いてきた、切削の精度。うちの職人が退職せずに、新しい経営者の下でも仕事を続けられる。それが、私の唯一の条件です」

    「技術を引き継がせるために、譲渡対象に何を含めるべきだとお考えですか」

    大場は、少し沈黙した。

    「……全部、でしょうね」

    「全部とは、どこまでですか」

    「この建物、設備、従業員、顧客、特許、ノウハウ。全部、譲る」

    佐藤はノートを開き、ペンを握った。

    「社長。私、全部という言葉は、契約書には書けない、ということを最近、学びました」

    大場は、佐藤の顔を見た。

    「全部は、優しさのように聞こえて、実際には、一番、曖昧です」


    三 個人名義の特許

    七月七日、火曜日。午後二時二十分。
    大場精機、第二工場棟、二階の資料室。

    佐藤は、大場社長と、経理担当の女性・小野寺さんと、三人で資料を広げていた。資料室の窓から、夏の工場街の低い屋根並みが見えていた。

    MacBookには、ロボが起動している。

    robo> 社長の発言記録を、マス別に整理しました。
    robo> ①買収対象物の決定 に該当する発言:4件。
    robo> うち、明示的境界線の引かれた項目:0件。
    robo> 確認が必要な論点:12件。

    佐藤は、画面を小野寺さんに見せないよう、少し伏せていた。

    「社長、特許について伺います」

    「はい」

    「貴社が保有する特許は、現在、何件ありますか?」

    「……七件、だったかな。小野寺さん」

    小野寺は、書類の束の中から特許原簿の写しを出した。

    「保有特許、七件です。登録名義は――」

    小野寺が、一瞬ためらった。

    「――四件が、株式会社大場精機。三件が、大場清一・個人名義です」

    佐藤は、ノートにそれを書いた。

    「大場社長、個人名義の三件は、いつ登録されたものですか?」

    「えーと……二〇一一年、二〇一五年、二〇二二年」

    「発明者は、社長ご自身ですか?」

    「そうです」

    「これらは、業務の中で発明されたものですか? それとも、業務外の、個人的な発明ですか?」

    大場は、初めて少し困った顔をした。

    「……どっちとも言えない、としか」

    「と、いいますと」

    「工場の中で思いついたものです。でも、書類仕事は自宅でやった。特許事務所への費用も、最初は個人のカードで払った。後で、会社から戻したりもしたけど、全部じゃない」

    「職務発明の扱いですね」

    「職務発明?」

    「特許法第三十五条。従業員――社長を含む――が、業務に関連して発明したものは、原則として使用者、つまり会社のものになる、という規定です。ただし、社内規程で別途定めがあれば、発明者個人に帰属させることもできます」

    大場は、小野寺を見た。

    「うちに、そんな規程、あったかな」

    小野寺は、首を横に振った。

    「社内規程集を、全部見ました。職務発明に関する規程は、存在しません」

    佐藤は、ペンの先を止めた。

    「社長。この三件の個人名義特許は、法的には、誰のものか、現時点では、確定していません」


    四 三つのマスがつながる

    同日、午後六時四十分。東京、大手町タワー二十八階、松原総合経営研究所。

    佐藤は、川口から直接、松原の事務所に来ていた。

    「──個人名義特許、三件。職務発明規程なし。帰属が不確定」

    松原は、万年筆を、持ったまま、聞いていた。

    「佐藤さん、この案件は、どのマスに落ちる?」

    画像
    15マス曖昧論点表

    「①-①、買収対象物の定義、だと思います」

    「それだけ?」

    「……」

    「もう一つある」

    松原は、十五マスの表を、指さした。

    「④-① 純資産の定義。誰の資産かが、未確定」

    「……はい」

    「そして、もう一つ」

    「……②-② 評価の金額根拠」

    「そう。個人名義特許三件の一件あたり評価は、四百万〜二千万のレンジ。三件合計で、三千万〜六千万の価格変動要因になる。想定譲渡価額一億六千万円に対し、二割〜四割の振れ幅」

    「……」

    「この案件の本当の論点は、①-①だけじゃない。①-①と④-①と②-②の三つのマスが、一つの事実──個人名義特許──によって、繋がっている。これが、十五マスの構造的処理だ」

    佐藤はノートに三つのマスに赤で、線を引いた。

    ①-① × ④-① × ②-②
    = 個人名義特許三件

    「佐藤さん。今から三日以内に、大場社長に三つの選択肢を提示しなさい」

    松原は、紙に、こう書いた。

    選択肢A:三件を、全て会社に譲渡してから、買い手に売る(会社の資産として統合)
    選択肢B:三件を、大場社長個人が保持し、買い手にはライセンス契約で使用許諾
    選択肢C:三件のうち、業務発明と明確に認定できる一件だけ会社に譲渡、残り二件は個人保持+ライセンス

    「それぞれの選択肢の、価格影響を数字で出す。大場社長が数字を見て、決める。佐藤さんが決めるんじゃない。大場社長に決めさせる」

    「……はい」

    「定石1の真髄は、境界線を引くことじゃない」

     松原は、万年筆の蓋を、閉めた。

    「境界線を、依頼主に引かせること、だ」


    五 社長が引いた境界線

    七月十日、金曜日。午前十一時。
    大場精機、応接室。

    佐藤は、ロボで作成した三つの選択肢の比較表を、A3用紙で、応接テーブルに広げた。

    画像
    特許の譲渡パターン比較表

    大場清一は、A3の表を、ゆっくりと、読んだ。

    「……Aが、一番高く売れる、ですか」

    「はい。買い手にとって、特許が全部会社の資産になることが、事業価値の最大化になります」

    「Bは、なぜ、下がるんですか?」

    「買い手は、ライセンス期間経過後、特許が切れるかライセンスが更新されないリスクを、価格に織り込みます。三千万円ほど、値引きされる見込みです」

    「Cは?」

    「折衷案です。業務発明と認定しやすい二〇一五年登録の一件──切削精度制御アルゴリズム──は、工場の日報と技術会議議事録に、発明プロセスが記録されています。これは、明確に業務発明です。残り二件は、社長の自宅で構想された、と社長ご自身がおっしゃっている発明です」

    大場は、左手を心臓の上に置いた。

    「……もう一つ、聞いていいですか」

    「はい」

    「引き継がれる、という観点では、どれが一番いいですか」

    「A、です」

    「なぜ」

    「特許がすべて買い手に移れば、買い手は、独立した事業として継続できます。技術が、社長の個人に依存しない。職人の皆さんの仕事も、特許と一体になって、守られます」

    「……もし、私の手元に、特許を残したら?」

    「社長個人の、財産として残ります。ライセンス料の収入もあります。しかし、引き継ぎの観点では、社長依存のリスクが残る、と買い手側FAは、必ず指摘してきます」

    大場は、表を、もう一度、眺めた。それから、胸ポケットから、万年筆を取り出した。

    A3の表の、Aの欄の上に、二重丸を、書いた。

    「Aで、いきましょう」

    「……本当によろしいですか」

    「引き継がれることが一番だと、私は最初からあなたに言った」

    大場は、万年筆を、胸ポケットに戻した。

    「一億七千五百万円と、一億四千二百万円の差は、三千三百万円。私の残りの人生で、三千三百万円を自分で稼ぐのは、もう難しい。でも、三千三百万円で、うちの職人十七人の職場が、二十年守られるなら、これは安い取引です」

    大場が、自分の言葉で、境界線を引いた。松原が三日前に言った言葉が佐藤の頭の中で、もう一度、響いた。

    ── 境界線を、依頼主に、引かせること。


    六 職人十七人の職場

    八月二十八日、金曜日。午後三時十分。
    埼玉県川口市、大場精機、応接室。

    クロージング。

    買い手は、中堅医療機器メーカー「サガミメディカル株式会社」。横浜本社。従業員四百二十名。

    最終譲渡価額:一億七千八百万円。

    想定の一億六千万円を、千八百万円上回った。
    理由は、特許七件を全て会社資産として統合したことで、サガミ側が「事業の独立性」を高く評価したため。

    サガミ側のFA──大手町のブティック系、佐藤が知らない顔──は、佐藤に、こう言った。

    「佐藤さんのリスト──譲渡対象資産一覧、A4で三十七ページ、百六十二項目──あれは、見事でした。特に、特許の職務発明認定のロジックと、職人雇用継続条項──二十年の雇用保証付き──は、うちのFAから、業界の新標準になるかもしれない、と報告が上がっています」

    「恐縮です」

    「どこで、学ばれたんですか」

    佐藤は、短く、答えた。

    「M先生、という方に」

    相手のFAは、一瞬、息を呑んだ。

    「……まさか、松原先生ですか」

    「はい」

    「……そうですか」

    相手のFAは、書類を静かに閉じた。


    七 ロボ ver.0.4

    同日、午後八時三分。東北自動車道、下り。

    佐藤は、レンタカーで、川口から三軒茶屋へ向かっていた。
    サービスエリアで、一度停まる。
    MacBookを開いた。

    robo> 佐藤さん、大場案件のクロージング、確認しました。
    robo> 二件目。一億七千八百万円。想定比、+十一パーセント。
    robo> ①-①・④-①・②-②の三マス連動処理、成功。
    robo> 次の案件の通知が、松原事務所から、届いています。
    robo> 件名:SaaSスタートアップ売却/ARR三億円/依頼主・シリーズB疲弊の創業CEO(三十四歳)。

     佐藤は、キーボードに指を置いた。
     そして、打った。

    >> 開いて、相棒

     ロボは、即座に、返した。

    robo> 了解しました。
    robo> ……佐藤さん、一つ、提案があります。
    robo> この案件は、②評価方法の軸が、主論点になる可能性が高いです。
    robo> 十五マスの②-②のマスを、重点的に準備しますか?

    佐藤は、画面を見た。今日までロボは、佐藤に問い返すことはあっても、自分から提案することは、一度もなかった。起動から、ちょうど三か月。

    佐藤は、もう一度打った。

    >> はい、準備して

    robo> 了解しました。
    robo> ver.0.3 → ver.0.4、軽微アップデート、適用します。

    サービスエリアの自販機の明かりが、フロントガラスに小さく映った。佐藤は、車のエンジンをもう一度かけた。

    二〇二六年八月二十八日、金曜日、午後八時十一分。

    佐藤愛、ver.0.3。
    ロボ、ver.0.4。

    十五マス経営研究所、案件第三号、準備、開始。


    (第三章 了)


    📖 次回予告 ── Ep.04 本編「価値の物語化」──SaaSの値段、DCFが揺れる夜

    ARR三億円、シリーズB疲弊の創業CEO、三十四歳。

    譲渡希望価額は、ARRの十倍──三十億円。
    しかし、買い手側のDCFモデルは、十四億円しか、出さない。

    定石2、評価方法の決定。
    新米コンサル佐藤愛と、ver.0.4となった相棒ロボの、②-②のマス、初めての主戦場。

    📖Ep.04 「価値の物語化」──SaaSの値段、DCFが揺れる夜


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    M&Aアドバイザー歴30年で辿り着いた境地「労働力は費用ではなく、資産ではないか?」を世に問う小説『十五の曖昧──労働力を資産に変える女・佐藤愛』。十五マス曖昧表を駆使し、AI相棒「ロボ」と共に歩む希望再生の近未来を予測する。

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