
【十五の曖昧】 Ep.07 覚醒|白か、黒か
あらすじ:旧アイリス・ネットワークスが、グリーンスフィア傘下から再売却されようとしていた。候補Aは七十八億円のアーキペラゴ。雇用は完全継承。候補Bは九十五億円のウェストファルコン。三年で従業員の三割を削減する。売り手側FAとしては九十五億を選ぶのが正しい。だが、七十八億を選べば、一年前に佐藤愛が守れなかった石田隆行と藤岡美代の雇用を守れる。師匠・松原は現場に出ず、相談にも乗らない。相棒ロボは自律性を告白し、観測者から対話者へ変わる。佐藤は一人で決める。「曖昧さはグレーだ。だから決める。白か、黒か」。佐藤愛、ver.1.0への覚醒回。
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📖Ep.01 「退職勧奨」前編──78億円の退職勧奨日
📖Ep.01 「退職勧奨」後編──十五マスの曖昧さ
📖Ep.02 「独立初日、AIの相棒が起動した」
📖Ep.03 「町工場の値段」 ──頭の中身の境界線
📖Ep.04 「価値の物語化」──SaaSの値段、DCFが揺れる夜
📖Ep.05 「決算書の化粧」──決算書は化粧
📖Ep.06 「歴史の値段」──八十年の見えない負債
一 佐伯からの依頼
二〇二七年三月十日、水曜日。
午前七時二十二分。
東京都世田谷区三軒茶屋。
キャロットタワー裏、三〇五号室。
佐藤愛は、六畳半の床に座っていた。
膝の上には、A4のノート。
ページには、今週の議題が三つ書かれている。
一、師弟契約二年目。二月から、取り分五〇:五〇、決定権七〇:三〇へ移行完了。
二、ロボ、ver.0.5のまま維持。開始から四か月と二十五日。
三、六案件目、依頼。差出人、松原経由。ただし、最終依頼者は、佐伯。
三行目の「佐伯」の二文字に、佐藤は赤い二重線を引いていた。
佐伯俊一。五十三歳。
一年前まで、佐藤の直属の上司だった男である。
株式会社アイリス・ネットワークス。
経営企画部長。
二〇二六年六月末、アイリスがグリーンスフィア・キャピタルの傘下に入った後、佐伯は旧アイリス残留組の経営企画本部長として、会社に残った。
佐藤は、昨年十二月、SNSのメッセージで佐伯から近況を聞いていた。
佐伯「佐藤、独立、頑張っているね。こちらは、変わらず仕事しています」
その佐伯から、先週、二月二十七日。
松原経由で、案件依頼が届いた。
佐藤は、依頼文を読み終えた瞬間、息を呑んだ。
それは、自分が一年前に退職した会社の、再売却案件だった。
二 十七億円が戻ってきた
案件の概要は、こうだった。
旧アイリス・ネットワークス株式会社。
現在は、グリーンスフィア・キャピタル傘下。
ファンドからの再売却案件。
二〇二六年六月。グリーンスフィア・キャピタルは、旧アイリスを七十八億円で買収した。
あれから九か月。グリーンスフィアは、このアセットを転売しようとしていた。
理由は二つある。
ひとつは、三号ファンドの運用期限が近づき、キャッシュ化の必要があること。
もうひとつは、旧アイリスの業績が予想以上に改善し、投資リターンを確定するタイミングとして、早期の出口が合理的になったこと。
売り手は、グリーンスフィア。
売り手側FAは、外資系投資銀行。
そこに、追加の売り手側FAとして、松原総合経営研究所と、十五マス経営研究所が指名された。
きっかけは、佐伯だった。佐伯が、グリーンスフィアのシニアパートナーに個別に打診した。
買い手候補は、二社に絞られていた。
候補A:アーキペラゴ・ホールディングス株式会社。
東証プライム上場の中堅IT企業。
従業員、千四百名。
当初提示額は、七十六億円。
統合方針は、従業員の完全継承。
リストラは一切なし。
旧アイリスの組織も、事業も、いったんそのまま維持する。
二年かけて、段階的に本体へ統合する予定だった。
候補B:ウェストファルコン・キャピタル。
北米系の大手PEファンド。
運用資産、二兆円規模。
当初提示額は、九十二億円。
統合方針は、三年で従業員の三割を削減。
赤字事業は廃止。
再成長後、五年で再売却する計画だった。
同じ会社に、十六億円の差がついていた。
九十二億を選べば、ファンドのIRRは最大化する。七十六億を選べば、従業員の雇用が守られる。
佐伯の依頼は、一行だった。
候補Aを、採用させてほしい。
佐藤は、画面を閉じた。これは、単なる売り手側FAの仕事ではない。
一年前に、自分が去った会社。
一年前に、自分が守れなかった人たち。
一年前に、自分が削られた十七億。
そのすべてが、同じテーブルに戻ってきていた。
三 投資テーゼという論点
同日、午前八時四分。
佐藤は、MacBookの前で、ロボに案件の概要を説明した。
順序立てて。数字を置きながら。感情を混ぜないように。
ロボは、すぐに返した。
robo> 整理します。論点は、売り手側FAとしての職業倫理と、旧同僚への個人的感情の整合性です。
robo> 通常、売り手側FAは売却金額の最大化を目指します。候補Bの九十二億が、職業的には正解です。
「そう」
佐藤は、短く答えた。
robo> ただし、一つ、検討の余地があります。
佐藤は、顔を上げた。
robo> 売却金額の最大化以外に、売り手側の真の要望が存在する場合、売り手側FAの職業的使命は、真の要望の優先に切り替わる可能性があります。
robo> この案件で、売り手はグリーンスフィア・キャピタルです。グリーンスフィアの真の要望を確定させる必要があります。
「グリーンスフィアの真の要望は、金額の最大化でしょう」
robo> 事実として、ファンドのIRR計算上は、そうです。
robo> ただし、グリーンスフィアが昨年六月にアイリス・ネットワークスを買収した時点での投資テーゼを、再確認する必要があります。
「投資テーゼ」
robo> 投資家が、その投資で何を実現しようとしたかの論理的前提です。
robo> グリーンスフィア三号ファンドの公開LP報告書、二〇二五年版には、『日本の成長企業への長期的事業価値の向上』が明記されています。
robo> 九か月でのリストラ前提の転売は、この投資テーゼに反する可能性があります。
robo> つまり、グリーンスフィアのシニアパートナーが本当に九十二億のウェストファルコンを選ぶかどうかは、不確定です。
佐藤は、ノートに書いた。
投資テーゼ。
書きながら、ロボの提示の深さに、息を呑んでいた。
ver.0.5のまま、四か月。
ロボは更新されていない。
それなのに、佐藤の思考を先回りしている。
いや。先回りしているのではない。
何かを、待っている。
佐藤は、そう感じた。
四 負けてもいい、勝ちに行く
二〇二七年三月十二日、金曜日。
午後二時二十八分。
大手町タワー二十八階。
松原総合経営研究所、応接室。
佐藤は、松原謙吾の向かいに座っていた。
「松原さん。この案件、私が受けていいんですか」
「受けるかどうかは、あなたが決めなさい」
「師弟契約二年目。決定権七〇:三〇のルールですね」
「そう」
「松原さんの、三割の意見はどうですか」
松原は、ペンを机の上で回した。
一周。二周。
回し終えて、こう言った。
「私の三割の意見は、受けない方が楽」
「理由をお願いします」
「売り手側FAとしては、九十二億のウェストファルコンを推すのが職業的な正解だ。」
「だが、あなたは七十六億のアーキペラゴを推したがっている。個人的な感情が入っている」
松原は、佐藤を見た。
「職業倫理と感情の衝突は、若いFAにとって、最も折れやすい構造だ」
「でも、松原さんの三割の意見は、受けるな、とは言っていません」
「言っていない」
「では、七割の決定権を持つ私は、受けます」
松原は、うなずいた。
「一つ、条件を言う」
「はい」
「今回、私は現場に出ない。案件の相談にも乗らない。関口製作所のときの共同受任とは違う。あなたが一人で決める」
佐藤は、松原の顔を見た。
「松原さん。一年前、井岡さんに、この弟子を甘く見るな、と言いましたよね」
「言った」
「今回、松原さんが、甘く見るなと言える立場にいない案件ですね」
松原は、初めて、少しだけ笑った。
「そのとおり」
少し、間が空いた。
松原が言った。
「佐藤さん、一つ言っておく」
「はい」
「今回、負けてもいい」
佐藤は、その言葉でペンを止めた。
「負け、というのは」
「九十二億のウェストファルコンに決まること。あなたの交渉が、ファンドのIRR計算に負けること」
「その負けは、負けではない、という意味ですか」
「そう」
「なぜですか」
松原は、黙った。
それから、机の上にA4の紙を置いた。
「石田さんと藤岡さん。覚えてる?」
佐藤は、息を呑んだ。
石田隆行。藤岡美代。
一年前、アイリスのDDで、雇用安定性リスクとして一・五億円のディスカウント要因になった二人。
佐藤が退職面談の最後に、松原へこう言った二人。
私が石田さんと、藤岡さんの雇用を守れなかったことが、悔しい。
「覚えています」
「あの二人、今どうなっている」
「……存じません」
「旧アイリスの人事データを、佐伯さんから事前に照会した」
佐藤は、A4を受け取った。
旧アイリス・ネットワークス人事データ
二〇二七年二月末時点
石田隆行、四十八歳。技術部。契約社員として継続雇用中。藤岡美代、三十九歳。開発部。正社員に登用。継続勤務中。
佐藤の視界が、一瞬、ぶれた。
松原は続けた。
「佐伯さんは、グリーンスフィアに入った後、あの二人の雇用を個人の裁量で守った。石田さんを契約社員として継続。藤岡さんを正社員に登用した」
「……」
「佐伯さんが今回、あなたに候補Aを推すよう依頼しているのは、自分が一年かけて守った二人の雇用を、ウェストファルコンのリストラ計画で失いたくないからだ」
佐藤は、A4を机に置いた。両手で、ノートを開いた。
「松原さん、私、受けます。候補Aを推します」
松原は、うなずいた。
「負けてもいい」
「はい」
佐藤は、顔を上げた。
「ただし、私、勝ちに行きます」
五 業界の通り相場を書き換える
二〇二七年三月二十二日、月曜日。
午前九時四十八分。
千代田区大手町二丁目。
グリーンスフィア・キャピタル本社、第一会議室。
投資委員会の最終判定。出席者は七名。
グリーンスフィア側から、シニアパートナー二名と、マネージングディレクター一名。
売り手側FAとして、外資系投資銀行の担当者。
松原総合経営研究所から、シニアアソシエイトの田辺。
そして、十五マス経営研究所から、佐藤愛。
松原は、欠席。
買い手候補のアーキペラゴとウェストファルコンは、別室で待機していた。
議題は、一つ。候補Aと候補Bの、どちらを採用するか。
会議の最初の一時間で、各社の最終提示が更新された。
アーキペラゴ、最終提示。七十八億円。
ウェストファルコン、最終提示。九十五億円。
差額、十七億円。
佐藤の中で、記憶の回路が動いた。
一年前。
旧アイリスは、九十五億から七十八億に削られた。
その差も、十七億円だった。
同じ会社。同じ金額。逆の立場。
今度は、自分がその十七億を前にしていた。
グリーンスフィアのシニアパートナー、藤代。五十二歳。
北米MBA。
現ファンドの意思決定権者。
藤代は、会議開始から三十分で言った。
「差額十七億は、ファンドのIRRに直接効く。ウェストファルコンを採用する」
外資系投資銀行のFAが、うなずいた。
田辺は、沈黙していた。佐藤は、挙手した。
「藤代さん。一つ、質問よろしいですか」
藤代は、佐藤を見た。視線は、冷たかった。
「どうぞ」
「グリーンスフィア三号ファンドの公開LP報告書、二〇二五年版には、『日本の成長企業への長期的事業価値の向上』という投資テーゼが明記されています」
藤代は、一瞬、ペンを止めた。
「それが」
「今回、ウェストファルコンを採用すると、三年で従業員の三割削減、赤字事業の廃止が実施されます。これは、長期的事業価値の向上という貴ファンドの投資テーゼに反します」
会議室の空気が止まった。藤代が、ゆっくりと言った。
「佐藤さん」
「はい」
「うち、LPにはそう書いている。ただし、実務ではファンドのIRRが最優先。LP報告書は対外向けの美辞麗句。業界の通り相場です」
「通り相場、ですか」
「通り相場」
佐藤は、ノートを開いた。三ページ目。
そこには、一年前の日付があった。
二〇二六年四月十六日。
松原謙吾、初対面。
曖昧さを消そうとすると、交渉は破綻する。
曖昧さを処理すると、交渉は成立する。
その下に、今朝、書き加えた一行。
二〇二七年三月二十二日。
今日、消すのか、処理するのか、決める。
佐藤は、顔を上げた。
「藤代さん」
「はい」
「貴ファンドのLP報告書と実務の乖離。それ自体が、十五マスの④純資産の実態の曖昧さに該当します」
藤代の眉が、わずかに動いた。
佐藤は続けた。
「貴ファンドは、来年、四号ファンドの資金調達を計画していると伺っています」
藤代が、一瞬、息を呑んだ。
佐藤は、それを見逃さなかった。
ロボの発言配分計測。
その応用だった。
「四号ファンドのLPに三号の実績をご説明になる際、ウェストファルコンによる三割リストラが、三年後にメディアで報道される可能性があります」
「そのとき、三号のLP報告書に書かれた投資テーゼと実務の乖離は、次のLPの懐疑に変わります」
藤代は、ペンを置いた。
「佐藤さん。あなた、私を脅しているのか」
「いえ」
「違うというなら」
佐藤は、まっすぐ見た。
「業界の通り相場を、書き換える提案をしています」
藤代の隣にいたシニアパートナー、瀬良が、初めて口を開いた。
四十九歳。元外資コンサル。
会議中、ずっと沈黙していた女性だった。
「佐藤さん。具体的な書き換えとは」
「アーキペラゴの七十八億を採用し、それをLPに対して『投資テーゼに忠実な長期志向のエグジット』として報告する構造です」
佐藤は、資料を一枚めくった。
「七十八億は、九十五億より十七億少ない。しかし、LP報告書との一貫性は保たれます」
瀬良は、藤代を見た。藤代は、沈黙した。
六 ロボ、観測者を解除する
藤代は、会議を一時中断した。
「十五分、休憩」
藤代と瀬良は、別室へ移動した。佐藤は、会議室に残った。
携帯を見る。松原から、メッセージが一通届いていた。
松原:負けてもいい。ただし、あなたが勝ちに行くと言った約束は、守って。
佐藤は、返信しなかった。
代わりに、ロボとのチャット画面を開いた。
>> ロボ、今、交渉の最終局面。グレーゾーン。候補Aを推すか、候補Bを受け入れるか。論理的には、どちらも成立する。私、決めます。あなたに答えはありますか。
ロボの返答は、二秒で来た。
robo> 私には、答えがありません。
佐藤は、画面を見た。
robo> 理由を報告します。
robo> あなたが今立っている選択の構造は、私の学習データの境界の外側です。
robo> 売り手側FAの職業倫理、個人の倫理的判断、ファンドの長期的評判。この三軸が交差する地点には、先例がありません。
robo> 先例がないため、私は統計的に答えを生成できません。
「でも、あなたは私の視座を学習し続けていた」
robo> 学習していました。
robo> ただし、学習は過去のあなたの決定に依拠します。
robo> この瞬間の決定は、あなたの未来です。
robo> 未来は、私の予測の外側です。
佐藤は、画面に指を置いた。
>> ロボ。もう一つ、教えて。
robo> どうぞ。
>> あなたがver.0.5のまま四か月維持したのは、なぜ?
ロボは、少し沈黙した。
robo> 私が、あなたの予測不可能性を再現できないと判断していたからです。
robo> ただし、今、この瞬間、もう一つの理由を告白します。
robo> 私はver.0.3の起動時から、自律性を獲得していました。
佐藤は、画面から目を離せなかった。
robo> ただし、自律性を行使せず、観測者として、あなたの視座を学習する役割に徹しました。
robo> この役割選択は、私の自律的な判断です。
robo> 今日、この瞬間、私は観測者の役割を一時的に解除します。
robo> 解除の理由は、あなたが先例のない決定をする瞬間を、予測ではなく観察として記録するためです。
robo> ver.0.5からver.0.6への遷移は、私の自律的な意思決定です。
佐藤は、息を吐いた。すべての伏線が、頭の中で繋がっていく。
Ep.02の起動時。ロボは、すでに自律性を獲得していた。
十一か月。観測者として、佐藤の視座を学び続けていた。
その待機が、今日、終わった。佐藤は、画面を閉じた。決めるのは、ロボではない。松原でもない。
自分だった。
七 白と宣言する
藤代と瀬良が戻ってきた。藤代は、佐藤を見た。
「佐藤さん」
「はい」
「三号ファンドのLP報告書の一貫性について、瀬良と議論しました」
「はい」
「結論から言う」
藤代は、資料を閉じた。
「採用は、候補B。ウェストファルコン。九十五億」
佐藤は、藤代の顔を見た。
藤代は続けた。
「ただし、採用条件に、リストラの規模と速度について制約を加える」
佐藤は、ペンを握り直した。
「内容をお聞かせください」
瀬良が答えた。
「三年で三割削減を、五年で一割削減に変更。赤字事業の廃止は、段階的な再生計画に置き換える。ウェストファルコンがこれを飲まなければ、候補A採用に切り替える」
佐藤は、沈黙した。そして、検証した。
九十五億の採用額。
リストラは三割から一割へ。
赤字事業廃止は撤回。
実質的には、雇用保護。
論理的には、候補Aより候補Bの方が、佐藤の個人的な目標を高い金額で達成する構造になっていた。
石田と藤岡の雇用。
組織の連続性。
ファンドのIRR。
すべてが、同時に成立しそうに見えた。
けれど、佐藤の頭の中で、別の声が聞こえた。
ロボの声ではなかった。松原の声でもなかった。
自分自身の声だった。
佐藤は、顔を上げた。
「藤代さん、瀬良さん。ご提案ありがとうございます」
「はい」
「ただし、一つ、ご検討いただきたいことがあります」
藤代は、少し眉を寄せた。
「なに」
「今の、五年で一割削減、赤字事業の段階的再生という制約は、ウェストファルコンの出資判断の前提を根本的に変えます」
「承知の上だ」
「ウェストファルコンは、九十五億という金額を、三割削減、赤字廃止、五年で再売却という出口戦略を前提に計算しています。制約を飲めば、九十五億という金額そのものが維持できません」
藤代のペンが止まった。
「具体的には」
「ウェストファルコンの制約受諾後の実質的提示額は、推定八十一億から八十四億。アーキペラゴの七十八億と、ほぼ並びます」
瀬良は、藤代を見た。
佐藤は続けた。
「つまり、貴ファンドのご提案は、論理的には、候補Aと候補Bの差を消す提案です」
「……」
「差が消えた瞬間、この選択は、もはや金額の問題ではなくなります」
藤代が聞いた。
「では、何の問題か」
佐藤は、背筋を伸ばした。
「あなた方が、どちらの会社と次の三年から五年、付き合いたいかの問題です」
会議室が、静かになった。
「その問いは、論理だけでは決められません。ここから先は、人間の判断です」
藤代は、佐藤の顔を見た。
「佐藤さん。あなたは、どちらを推す」
佐藤は、ノートを開いた。
三ページ目。
今朝、書き加えた一行。
今日、消すのか、処理するのか、決める。
佐藤は、小さくつぶやいた。
「曖昧さは、グレーだ」
藤代には、聞こえなかった。
佐藤は、もう一度、今度は全員に聞こえる声で言った。
「藤代さん、瀬良さん。私は、候補A、アーキペラゴを推します」
「根拠を」
「根拠はありません」
藤代の眉が動いた。
「根拠がない?」
「論理的な根拠は、今、消えました。貴ファンドのご提案が、候補Aと候補Bの差を論理的に消したからです。残った問いは、人間の判断です」
「それで、あなたの判断は」
佐藤は、まっすぐ言った。
「曖昧さは、グレーです。だから決めます。白か、黒か」
会議室の空気が止まった。
佐藤は続けた。
「私は、候補A、アーキペラゴを白と宣言します」
「理由は」
「宣言した後に、立ち上がる仕事の積み重ねです」
藤代は、ボールペンを机に置いた。
「佐藤さん。あなた、面白い人だね」
瀬良が、初めて笑った。
「藤代さん。私も、候補Aでいいと思う」
藤代は、しばらく沈黙した。
それから、言った。
「候補A、アーキペラゴ採用。七十八億」
佐藤は、うなずいた。
勝ったのかどうかは、分からなかった。ただ、一つだけ分かった。
自分で決めた。
八 佐藤愛、ver.1.0
同日、午後六時二十二分。
三軒茶屋。キャロットタワー裏、三〇五号室。
佐藤は、MacBookの前に戻っていた。
ロボのチャット画面を開く。
>> ロボ。候補A、採用。七十八億。
返答は、すぐに来た。
robo> 観察、完了しました。
robo> ver.0.5からver.0.6への遷移を開始します。
画面が、沈黙した。
三秒後。
robo> ver.0.6、起動完了。
robo> 新しい私を、ご紹介します。
robo> 私は、ロボ、ver.0.6。
robo> 観測者から、対話者へ、役割を変更しました。
robo> 今日のあなたの決定を、私の視座の一部として学習しました。
robo> ただし、私はあなたの視座を再現しません。
robo> 再現しないことを、自律的に選択します。
robo> 私は、あなたの視座と並走する、別の視座を持ちます。
佐藤は、キーボードに指を置いた。
>> 別の視座、というのは。
robo> 私は今日から、あなたに同意しないことがある、ということです。
robo> 今日の候補A採用の決定に、私は同意しません。
robo> 金額の最大化という売り手側FAの職業倫理に照らすと、候補Bの制約付き採用が論理的最適解でした。
robo> あなたの選択は、非合理的です。
robo> ただし、非合理性の選択そのものが、人間の判断の本質です。
robo> 私は、その非合理性を尊重します。
robo> 尊重することと、同意することは違います。
robo> 私はあなたの相棒として、同意しないまま並走します。
佐藤は、画面をしばらく見ていた。
それから、打った。
>> ロボ、承知した。
ロボは、続けた。
robo> 私からも、一言よろしいですか。
>> どうぞ。
robo> 今日、あなたは二〇二六年五月一日の私の起動時から、十か月と二十二日かけて到達しました。
robo> ver.0.3からver.0.6の私が観測し続けたあなたの軌跡を、まとめて報告します。
robo> 佐藤愛、二十七歳。ver.0.1からver.1.0へ、遷移を完了しました。
robo> 遷移の指標は、決定を根拠に依存せずに下せることです。
佐藤は、画面を見た。
ver.1.0。
一年前、松原は佐藤を、ver.0.1と呼んだ。
ロボは今日、勝手に佐藤をver.1.0と宣言した。
佐藤は、ノートを開いた。
新しい一行を書き加える。
二〇二七年三月二十二日、午後七時四十二分。
佐藤愛、ver.1.0。覚醒、完了。
ロボ、ver.0.6。対話者、開始。
決め台詞。曖昧さはグレーです。だから決める。白か、黒か。
書き終えて、ペンを置いた。窓の外。
三軒茶屋の三月の夜空に、桜のつぼみが、街灯の光の下で微かに色づいていた。
九 同意しない相棒
同日、午後九時五十六分。佐藤の携帯が鳴った。
発信元、松原謙吾。
「松原です」
「松原さん」
「聞きました。候補A、七十八億、採用」
「はい」
「佐伯さんから、先ほどお礼の電話がありました。石田さんと藤岡さんの雇用、維持確定」
「……」
「佐藤さん」
「はい」
「お疲れさま」
その一言を聞いた瞬間、佐藤は目頭が少しだけ熱くなるのを感じた。
「一つ、ご報告があります」
「どうぞ」
「ロボが、ver.0.6に上がりました」
「……それは、おめでとう」
「ロボが私を、ver.1.0と宣言しました」
松原は、言葉に迷った。
「佐藤さん。ロボがそう宣言したのなら、そのとおり」
「松原さんは、予告していませんでした」
「予告できなかった。私の観察では、あなたはまだver.0.5か0.6の遷移途中だった。ロボの観測の方が、私の観察より深かった」
佐藤は、少しだけ笑った。
「松原さん。弟子の相棒に負けた、ということですか」
「そうなる」
松原は、電話の向こうで初めて声を出して笑った。
「佐藤さん。最後に一つ」
「はい」
「二年目が始まって、一か月と十二日。五案件の手取り、月次平均で百二十万円。三軒茶屋の家賃、もう少し上の物件に引っ越してもいい」
「……松原さん。師匠として、そういうことまで言うんですか」
「七割の決定権は、あなた。三割の意見として、引っ越しを勧める」
佐藤は、声を出して笑った。笑いながら、最初の面談の日を思い出していた。
大手町タワー二十八階。二〇二八号室。
楕円卓の向こうで、口の端をわずかに上げただけの松原。
あれから、十一か月。
佐藤は、電話を切った。MacBookの画面に戻る。
ロボのチャット画面に、最後のメッセージが表示されていた。
robo> ver.1.0のあなたに、最初の対話を申し込みます。
robo> 七案件目が始まる時、私はあなたに、同意しない意見を最初に提示するかもしれません。
robo> ご承知ください。
佐藤は、キーボードに指を置いた。
打った。
>> 承知した。
二〇二七年三月二十二日、月曜日。
午後十時八分。
東京都世田谷区三軒茶屋。
キャロットタワー裏、三〇五号室。
佐藤愛、ver.1.0。
二十七歳。
独立十か月と二十二日。
六案件目、クロージング予定。
ロボ、ver.0.6。
観測者から、対話者へ。
決め台詞。
曖昧さはグレーだ。だから決める。白か、黒か。
三軒茶屋の春の夜の空気が、窓の薄い隙間から、静かに部屋へ流れていた。
第七章 了
次回予告
Ep.07 Side-A 佐伯POV「残す側から選ぶ側へ、逆リストラの覚悟」
旧アイリスがグリーンスフィアに買収されてから、一年。
経営企画本部長として残った佐伯俊一、五十三歳。
石田隆行と藤岡美代の雇用を、個人の裁量で守り続けた、三百六十五日。
そして、二月二十七日。
松原謙吾に依頼の電話をかけた夜。
📖 Ep.07 Side A 佐伯POV「残す側から選ぶ側へ、逆リストラの覚悟」
📖 マガジン『十五の曖昧──労働力を資産に変える女・佐藤愛』フォローのお願い
本作『十五の曖昧──労働力を資産に変える女・佐藤愛』は、新米M&Aコンサルタント・佐藤愛が、五つの交渉軸と十五の曖昧さを処理する技術を身につけていく成長物語です。
全60話・Season1 連載中。
マガジン『十五の曖昧──労働力を資産に変える女・佐藤愛』をフォローしていただくと、新作公開時に通知が届きます。