
【十五の曖昧】 Ep.24 X都知事との直談判|指揮者を見つける日
あらすじ:二〇三二年三月十一日、佐藤愛は単独で東京都庁第一本庁舎七階の都知事執務室に入る。ロボだけが画面を消したタブレットの中で音声待機していた。四十五分の面談で、佐藤は労働力の資産化、地方自治体シンジケートボンド構想、東京都による信用補完、そして国政では十年かかる制度実装を東京都の条例で一年以内に進める道を語る。年間十五兆円規模の債券で企業の内部留保六百兆円を地域の未来へ動かす構想だった。X都知事は「東京都民にとっての意義」を問う。佐藤は、働く人が積み上げてきた判断、技術、関係、信頼を、この街の未来を支える価値として宣言することだと答える。それは施しではなく、対価だった。面談の終わり、X都知事は「一週間、考える」と告げる。退室後、佐藤は佐久間に報告する。佐久間は、この日が日本経済史の節目になるかもしれないと告げる。
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📖 シーズン1全話(Ep.01〜Ep.10)
📖 シーズン2全話(Ep.11〜Ep.19)
📖 Ep.20 本編「慣性の番人」──財務省と15マス交渉【S3開幕】
📖 Ep.21 本編「地域からの証明」──立岩町、会計基準を先行実装
📖 Ep.22 本編「最初の反対者」──労働力を資産と呼ばないで
📖 Ep.23 本編「裏戦略の胎動」──正攻法は裏戦略の布石だった
一 起床──三月十一日の朝
二〇三二年三月十一日、木曜日。午前六時五十二分。
東京都目黒区池尻大橋。佐藤愛の自宅。
佐藤愛、三十二歳。参議院議員一期目。
東京都選挙区、無所属。
当選千五十五日目。
佐藤は、ベッドから起きた。
枕元の目覚まし時計は、午前六時五十二分を示していた。
予定通りだった。
窓の外は、薄い曇天。
三月十一日。
東日本大震災から、二十一年目の朝だった。
佐藤はキッチンへ移動し、湯を沸かした。
豆は十三グラム。
湯温は九十度。
抽出時間は二分半。
変わらない習慣だった。
MacBookをデスクに置いた。
robo> おはようございます。愛さん。起床は予定通りです。
「うん」
robo> 本日三月十一日、都知事執務室での面談は午後二時。四十五分枠です。
「知ってる」
robo> 最終確認資料は、全六種類十一枚。鞄の中です。
佐藤は、頷いた。鞄は、昨夜確認済みだった。
資料は、六種類。
第一。
シンジケートボンド構想のポンチ絵。
A3一枚。
第二。
日本バランスシート試算。
A4二枚。
第三。
東京都財政データ。
A4一枚。
第四。
都民一千二百万人へのベーシックインカム試算。
A4二枚。
第五。
首都圏・五大都市圏地図。
A3一枚。
第六。
人的資本経営関連レポート要約。
A4四枚。
「ロボ。今日は、どうする」
robo> 私はタブレット音声のみで同席します。画面はオフです。
robo> 愛さんが必要な時だけ、音声で答えます。
robo> 都知事側の事前了承済み条件です。
「そうだった」
robo> 私の発言は、最小限にします。
robo> 今日は、愛さん一人です。
佐藤は、深呼吸した。午前七時十二分。
空は、まだ曇っていた。
二 都庁ロビー、一人で
同日、午後一時四十三分。
東京都新宿区西新宿二丁目八番一号。
東京都庁第一本庁舎、一階ロビー。
佐藤は、灰色のパンツスーツを着ていた。
紺のブラウス。
パンプスのヒールは三センチ。
鞄は、黒革。
九年前、アイリスを退職した日にも、同じ鞄を持っていた。
同行者は、いない。
松原は、同席しない。朝の電話で、松原は言った。
「私が同席すると、X都知事は君を私の弟子と見る」
「はい」
「今日、君は自律した議員であると証明する日だ」
「……はい」
「ロボの音声のみの同席は、私は反対しない。ロボは、君の思考の延長だ」
「わかりました」
「佐久間先生の話は、最後まで出すな」
「はい」
「X都知事は、まだ佐久間先生の存在を知らない。今日は伏せる。最後の奥の手として残す」
「……承知しました」
松原は、それだけ言って電話を切った。
佐藤は、一人で都庁に来た。
地下鉄大江戸線、都庁前駅。
直結通路を抜け、ロビーへ出る。
受付の女性職員が、顔を上げた。
「佐藤愛、参議院議員です。午後二時、都知事面談の予約が入っています」
「はい、伺っております。少々お待ちください」
職員は内線で三十秒ほど話した。
「秘書室の者がお迎えに参ります。三分ほどお待ちください」
「はい」
佐藤は、ロビーの長椅子に座った。
鞄からタブレットを出す。
片耳に、小さなイヤホンを入れる。
ロボと音声接続した。
「ロボ」
robo> はい。
「受付、通過」
robo> 午後一時四十六分。到着を記録しました。
佐藤は、タブレットを膝に置いた。
一分の沈黙。
robo> 愛さん。一つお願いがあります。
「どうぞ」
robo> 緊張しないでください。
佐藤は、小さく笑った。
「ロボ、緊張がわかるの」
robo> 音声から心拍推定が可能です。通常より十二拍速いです。
「……」
robo> 深呼吸を一回お願いします。四秒吸う、七秒止める、八秒吐く。
佐藤は、言われた通りにした。
robo> 十拍戻りました。
「ロボ」
robo> はい。
「行こう」
robo> はい。
午後一時四十九分。
秘書官が現れた。
若い男性だった。
濃紺の背広。
「佐藤議員、お迎えに参りました。七階の都知事執務室へご案内いたします」
「お願いします」
エレベーターで七階へ上がる。
降りて、廊下を直進二十メートル。
左折して十五メートル。
突き当たり。
木製の大きな扉。
看板には、こうあった。
都知事執務室
秘書官が、扉を三回ノックした。
中から、声が聞こえた。
「どうぞ」
秘書官が、扉を開ける。
佐藤は、一歩入った。
三 執務室入室
同日、午後二時二分。都知事執務室。
部屋は、縦十二メートル、横八メートルほどだった。
南向きの窓の向こうに、新宿のビル群が見える。
執務机は、中央奥。
大きな一枚板の木目。
手前には、応接セット。
向かい合う二つのソファ。
低いテーブル。
水差しと、二つのグラス。
個人的な装飾は、ほとんどなかった。
写真もない。表彰状もない。
本棚の書籍も、目立たない。
壁は白。
床はグレーのカーペット。
X都知事は、執務机の向こうに立っていた。
佐藤は、お辞儀した。
「佐藤愛と申します。参議院東京都選挙区です。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
X都知事は、頷いた。
「佐藤議員。お待ちしていました。どうぞ、こちらへ」
手で、応接セットを指した。
佐藤は、ソファに座った。
X都知事は、向かいに座った。
テーブルを挟んで、正対した。
「四十五分、確保しました」
「ありがとうございます」
「佐藤議員。今日は一人ですね」
「はい」
X都知事は、小さく頷いた。
「では、始めましょう」
佐藤は、鞄から資料を出した。
六種類十一枚。
テーブルの右側に積む。
タブレットは、左側に置いた。
画面はオフ。
佐藤は、顔を上げた。
「都知事」
「はい」
「私は、労働力の資産化の法案化に挑んでいます」
X都知事は、少し首を動かした。
「メディアで見ています」
「ありがとうございます」
「きっかけは?」
佐藤は、考えた。きっかけは、いくつもあった。
アイリス案件。大場精機。関口製作所。伊東製作所。桔梗庵。
東信市。立岩町。
どの現場にも、貸借対照表には載らない価値があった。
けれど今日は、最初から物語を話す場ではない。
佐藤は、答えを絞った。
「地方創生の現場には、観光のおもてなし、地域の見守り、介護や移送など、形にならない価値を日々提供している人たちがいます」
X都知事は、聞いていた。
「その人たちは、人の心を動かし、将来また来てもらう理由を作り、地域の暮らしを支えています。未来への投資を担っていると言えます」
X都知事は、頷いた。
「しかし、現行の会計では、ほとんどがコストです」
「費用。人件費処理ですね」
「はい」
「会計上の常識です」
「でも、その常識の外に、社会を支えている価値があります」
佐藤は、言葉を選んだ。
「人を資産にしたいのではありません。人が積み重ねてきた判断、技術、関係、信頼を、本人の尊厳と選択権を守りながら、次の世代へ渡せる形にしたいのです」
X都知事は、静かに聞いていた。
「そのための制度が、労働力の資産化です」
「論理は分かります」
X都知事は、少し間を置いた。
「でも、国会では苦戦している」
「はい」
「昨年秋、財務省の大竹主計局長と会っていますね」
「はい」
「結果は」
「この法案は十年は成立しません、と」
X都知事は、頷いた。
「大竹さんらしい返答です」
「……はい」
「それで」
佐藤は、深呼吸した。
「都知事。そして、東京都のお力をお借りしたいのです」
四 シンジケートボンド構想
X都知事は、沈黙した。
五秒。
「どういうことですか」
佐藤は、第一資料のA3ポンチ絵を、X都知事の方向へ回した。
「シンジケートボンドです」
X都知事は、資料を見た。
「シンジケートボンド」
「信用力の高い発行体と、信用力の低い発行体が、協調して発行する債券です」
X都知事は、元金融の人間だった。
説明は不要なはずだった。
それでも佐藤は、あえて平易に言った。
「一人では、銀行がお金を貸してくれない。でも、五十人を束ね、強い信用が後ろに立てば、世界中の資金が入ってくる。構造は、そこです」
X都知事の目が動いた。
「プーリングと信用補完。証券化の基本構造ですね」
「はい。弱い発行体を束ね、強い与信を後ろに置く」
「その強い与信を、東京都に、お願いしたいのです」
X都知事は、資料を読みながら頷いた。
佐藤は説明を続けた。
「今回の構想は、信用力の高い東京都と、信用力の低い地方自治体が協調して発行するスキームです」
X都知事は、顔を上げた。
「それは、国政の話ではないですか。財務省にお願いして、国債でやればいい。東京都とは関係がない」
佐藤は、首を振った。
「大いに関係があります」
X都知事の眉が、わずかに動いた。
「なぜなら、東京都債は、国債に匹敵するか、それを上回る信用力を持っているからです」
X都知事は、黙った。
「……格付けの話ですね」
「はい。格付け会社によって評価は異なりますが、東京都は日本国と同等以上の信用力を持つ発行体として扱われています」
X都知事は、頷いた。
「続けてください」
「国政としてシンジケートボンドを発行するには、法的準備だけで十年はかかります」
「根拠は」
「地方財政法、財政法、金融商品取引法、地方自治法。少なくとも四つの法改正が必要になります。国会では、予算委員会、決算委員会、財政金融委員会を通す必要があります」
X都知事は、黙って聞いていた。
「十年は、確かに」
「しかし、東京都なら」
佐藤は、第二資料を出した。
「今期中に条例制定すれば、来年にもシンジケートボンド発行の準備に入れます」
X都知事は、沈黙した。
六秒。
「一年で」
「はい」
X都知事は、資料を見た。
「技術的に可能ですか」
「第二資料をご覧ください」
佐藤は、資料を差し出した。
東京都地方債発行条例 改正骨子案
X都知事は、一分間、黙って読んだ。
五 都民メリット
X都知事は、顔を上げた。
「佐藤議員」
「はい」
「私は、東京都の首長です」
「はい」
「東京都民にメリットがなければ、条例制定などできません」
「承知しています」
「メリットを説明してください」
佐藤は、姿勢を正した。
「三点あります」
「どうぞ」
「第一。物価高対策です」
X都知事は、聞いていた。
「実質可処分所得が減っている都民に対して、東京都独自の緊急給付が可能になります」
「第二は」
「賃金対策です。中小企業の賃上げ原資は不足しています。東京都が人的資本投資を行う中小企業を支援し、賃上げと人材育成を同時に後押しできます」
「第三は」
「少子化対策です。子育て世帯の経済的不安を減らすため、ベーシックインカム型給付を制度設計できます」
X都知事は、目を少し細めた。
「財源は」
「シンジケートボンドのみです」
「発行総額は」
佐藤は、第三資料を置いた。
「年間十五兆円を想定しています」
X都知事は、数字を見た。
「……大きい」
「はい」
「大きいが、無理な大きさではありません」
X都知事は、顔を上げた。
佐藤は続けた。
「物価高、賃金停滞、少子化で、生活に不安を抱える人が増えています。東京都がリーダーシップを取って、日本経済を再生させる」
一呼吸、置いた。
「正確に言えば、資金循環を再生させる、です」
X都知事は、三秒黙った。
「なぜ、資金循環が再生するのですか」
佐藤は、深呼吸した。
ここからが、核だった。
六 六百兆円を動かすエンジン
「私は、企業セクターに眠る六百兆円を超える内部留保に、強い問題意識を持っています」
X都知事の眉が動いた。
「六百兆円」
「はい。企業が積み上げてきた資金が、十分に賃金や地域投資へ循環していません」
X都知事は、聞いていた。
「そこで、東京都が地方自治体とシンジケートボンドを発行し、この内部留保の受け皿を作ります」
「受け皿」
「はい。企業が内部留保をこの債券に投資する。企業の側では、投資資産として認識される。つまり、企業が、働く人や地域の未来に投資する金融スキームになります」
X都知事は、すぐに訊いた。
「企業のメリットは。優遇税制ですか」
「税制ではありません。まずは、東京都による公式認定制度です」
「認定」
「この債券に投資した企業を、人的資産を大切にする優良企業として、東京都が公式に認定する。毎年、表彰する。資本市場や採用市場での評価にもつながります」
X都知事は、黙って聞いていた。
「この債券に投資された資金は、都民や地方自治体の財源として使われます」
「消費に回る」
「はい。都民の消費が活性化すれば、企業の売上が増え、税収も伸びます。そして企業には再び利益が生まれ、内部留保も生まれます」
X都知事が、短く言った。
「循環」
「はい」
佐藤は、資料の中央を指した。
「東京都が、六百兆円を超える企業の内部留保を動かすエンジンになるのです」
X都知事は、三秒黙った。
「エンジンの比喩は、分かります」
佐藤は、鞄からA5の小型ノートを出した。
白紙のページに、縦五、横三の線を引いた。
十五のマス。
「都知事。ご覧ください」
X都知事は、ノートを見た。
「これは、M&Aの現場で使われてきた、十五マス曖昧論点表です」
「十五マス」
「縦は、五つの交渉軸。横は、三つの曖昧さ。掛け合わせて十五マスです」
佐藤は、縦軸を書いた。
一、対象物
二、評価方法
三、収益力
四、純資産
五、FCF
次に、横軸を書いた。
定義
実態
配分
「シンジケートボンド構想は、この国家版です」
X都知事は、ノートを見つめた。
「国家版」
「はい。対象物は、地方自治体。評価方法は、信用格付け。収益力は、内部留保の流入効果。純資産は、東京都の信用力。FCFは、シンジケートボンドの償還構造です」
X都知事は、ノートを凝視した。
「……同じ構造」
「はい」
佐藤は、静かに言った。
「M&Aの十五マスを、国家のバランスシートに転写したものです」
X都知事は、もう一度ノートを見た。
「ポイントは、三つあります」
「どうぞ」
「第一。これは、現行法を大きく変えずに実現できる可能性があること」
X都知事は、頷いた。
「第二。東京都が、バイパス機能とエンジン機能を果たすこと」
「バイパス」
「国政で十年かかる議論を迂回します。地方自治体は単独では信用力が足りない。東京都が間に立つことで、両方を解決できます」
X都知事は、黙っていた。
「第三。条例を制定することで、企業が内部留保を人的資産に投資する動機を作ること」
「動機を条例で設計する」
「はい」
X都知事は、資料をもう一度見た。
七 現行法か、知恵か
X都知事は、顔を上げた。
「佐藤議員」
「はい」
「現行法に抵触しませんか」
佐藤は、頷いた。
「違法でも、抜け道でもありません。これは知恵です」
X都知事は、眉を上げた。
「日本は、この知恵を十分に絞ってきませんでした」
佐藤は、続けた。
「デジタル革命で、価値はどんどん見えないものになりました。けれど、日本の会計や財政は、見えない価値を十分に資産として認識できなかった」
X都知事は、聞いていた。
「結果として、日本のバランスシートは、債務が目立ち、資産が過小に見える状態になっています」
「資産過小」
「はい」
「債務超過というより、資産過小。無形資産を十分に認識できないことが、根本にあります」
X都知事は、沈黙した。
佐藤は、さらに続けた。
「財務省や経済産業省の中にも、この危機感を持っている人はいます」
X都知事が、顔を上げた。
「たとえば、人的資本経営です。これは、経済産業省からのメッセージでした」
「人材版伊藤レポートですね」
「はい。二〇二〇年九月、一橋大学の伊藤邦雄先生が発表した人材版伊藤レポートは、人的資本経営という視点を広げました」
X都知事は、頷いた。
「ただ、議論は次第にマネジメントや情報開示へ寄っていきました。最終的には、有価証券報告書での開示項目、たとえば男女賃金格差、中途採用比率、人的資本関連指標の開示へ落ち着いた」
「そうでした」
「それは重要です。でも、私が見ている論点とは違います」
佐藤は、少し間を置いた。
「本来のゴールは、会計上、企業の内部留保と向き合う新しい投資科目を作ることだったのではないか。私はそう見ています」
X都知事は、沈黙した。
「話が矛盾していませんか」
「はい」
「官僚だって、賛成していないということでしょう」
佐藤は、首を振った。
「推進派と慎重派がいる、ということです」
「推進派」
「はい。財務省からは、デジタル貿易収支の問題提起が繰り返し出されています。日本がデジタルサービスを輸入し、対価を海外へ払い続けている。つまり、無形資産を持つ側に、お金が流れている」
X都知事は、頷いた。
「日本は、無形資産を作り、運用し、輸出する仕組みが弱い」
「はい」
「つまり、官僚も、無形資産の資産化に推進派と慎重派が分かれているということですね」
「はい」
X都知事は、静かに息を吐いた。
八 指揮者の不在
佐藤は、続けた。
「明確なゴールを設定して、ブレない議論をするには、指揮者が必要です」
X都知事は、聞いていた。
「しかも、強いリーダーシップと、金融手法を知っている指揮者です」
X都知事の目が、わずかに細くなった。
「だから私は、政策の焦点を、労働力の資産化というワンイシューに絞りました」
「一点突破」
「はい」
「しかし、この構造を理解して、制度に落とせる政治家が、今の国政にはほとんどいません」
X都知事は、黙っていた。
「私は、これまで、どこかで誰かがやってくれると思っていました」
佐藤は、一度、息を吸った。
「でも、今は違います」
X都知事は、佐藤を見ていた。
「このテーマにおいては、私がやらなければならない。そう覚悟を決めています」
十秒の沈黙。
X都知事が、口を開いた。
「佐藤議員」
「はい」
「東京都が、そんなことをできるのですか」
「できます」
「そもそも、国政のようなことを、なぜ東京都がしなければならないのですか」
佐藤は、まっすぐ答えた。
「東京都だからできるのです」
九 東京都だからできる
佐藤は、第三資料を再度、X都知事の前に置いた。
「東京都のバランスシートは、極めて健全です」
X都知事は、資料を見た。
「東京都の純資産は、約三十六兆円」
X都知事は、頷いた。
「都債は、約五兆円台」
「はい」
「純資産に対する都債比率は、およそ十五から十六パーセントです」
X都知事は、小さく頷いた。
「かなり低い」
「はい」
佐藤は、続けた。
「たとえば、都民一千二百万人に、毎月五万円のベーシックインカム型給付を行う場合」
X都知事は、聞いていた。
「年間七兆二千億円が必要です」
「大きい」
「はい。ただ、仮に七兆円規模の都債を発行しても、都債残高はおよそ十二兆円台です」
X都知事は、計算を追っていた。
「純資産比で、三十数パーセント」
「はい」
「健全圏内」
「一般企業で見れば、まだ自己資本比率が高い優良企業に近い状態です」
X都知事は、黙っていた。
「東京都の財政状況は、それだけ強いのです」
佐藤は、資料を閉じた。
「つまり、企業の内部留保六百兆円を動かすエンジンになれる自治体は、東京都しかありません」
X都知事は、目を上げた。
「国政や省庁間の争いを待つ必要はありません。東京都知事として、決断できる領域があります」
X都知事は、沈黙した。
「資料を、借りてよろしいですか」
「はい。すべて差し上げます」
十 施しではない、対価です
X都知事は、姿勢を正した。
「もう一度聞きます」
「はい」
「東京都民にとっての意義は」
核心の問いだった。
「都民の経済的不安を、最も早く取り除くことです」
X都知事は、聞いていた。
「シンジケートボンド発行を条例で定めることは、東京都が世界で初めて、働く人が積み上げてきた判断、技術、関係、信頼こそ、この街の未来を支える価値だと宣言することになります」
X都知事の眉が、わずかに上がった。
「都民は、給付を受け取ることで、自分たちが東京都という都市インフラを支える一員であることを実感できます」
佐藤は、言葉を切った。
「道徳心、公共心、治安の良さ、時間を守る文化、災害時の協力。これらは、東京が持つ見えないインフラ資産です」
X都知事は、黙って聞いていた。
「その基礎を作ってきた都民に対する対価として、ベーシックインカム型給付を受け取れるようにする」
「誇りを持って受け取る、ということですね」
「はい」
佐藤は、はっきり言った。
「施しではありません」
一呼吸置く。
「対価です」
X都知事は、頷いた。
佐藤は続けた。
「この条例によって、投資した企業には、人的資産を大切にする優良企業として、東京都が公式に認定する制度を設けます」
「表彰制度」
「はい。東京都知事賞です」
X都知事は、目をわずかに細めた。
「形式ばかりの人的資本経営から、実際に資金を動かす人的資本経営へ変える」
X都知事は、沈黙した。
「佐藤議員」
「はい」
「地方自治体との構想になる、ということですね」
「はい」
十一 五大都市圏のハブ
佐藤は、第五資料のA3地図を、X都知事の前に置いた。
首都圏。大阪。名古屋。福岡。札幌。仙台。
五大都市圏が、線で結ばれている。
「首都圏ならびに五大都市圏の地方自治体に、独自の起債スキームを提供します」
X都知事は、地図を見た。
「それぞれの地域創生を支援します」
「どう支援するのですか」
「二つです」
「どうぞ」
「一つは、財源の自律です」
X都知事は、聞いていた。
「シンジケートボンドを発行し、東京都の信用力で資金調達を支援します」
「連帯責任ですか」
「いいえ。連帯保証ではありません。信用補完です」
X都知事は、頷いた。
「もう一つは、都市システムと行政システムの共有化です」
「共有化」
「はい。これは、ドイツのミッテルシュタントの考え方に近いものです」
「Mittelstand」
「はい。中堅企業、中堅都市が、特定産業だけに依存せず、技術と人材に投資し続けることで安定した経済基盤を築く構造です」
X都知事は、頷いた。
「日本の地方都市は、人口減、税収減、高齢化に直面しています。個別自治体だけでは限界があります」
佐藤は、地図を指した。
「東京都が、五大都市圏のハブ機能を担い、技術と人材の循環網を設計する」
X都知事は、資料を見た。
「大阪、名古屋、福岡、札幌、仙台」
「はい」
「広島は」
「検討中です。六大都市圏に拡張可能です」
X都知事は、頷いた。
「大きな構想ですね」
「はい」
佐藤は、迷わず答えた。
「でも、東京ならできる構想です」
十二 一週間、考える
X都知事は、水を一口飲んだ。
「佐藤議員」
「はい」
「それで、私に何をやれと」
佐藤は、深呼吸した。
四十五分のうち、残り六分。
ここで逃げたら、今日の意味はなかった。
「指揮者になっていただきたいのです」
X都知事は、聞いていた。
「このプロジェクトのリーダーとして、東京から日本経済の資金循環を再生させてください」
沈黙。
「この構想は、デジタル革命時代の人的資本都市モデルであり、世界初のチャレンジになります」
X都知事は、頷いた。
「あなたこそ、ふさわしいリーダーだと思っています」
X都知事は、目を閉じた。
一秒。
二秒。
三秒。
そして、目を開けた。
「……佐藤議員」
「はい」
「今日の話は、私一人では決められません」
「承知しています」
「都庁内部の副知事、財務局長、政策企画局長の意見を聞く必要があります」
「もちろんです」
「一週間、考える」
「ありがとうございます」
X都知事は、立ち上がった。
佐藤も立ち上がる。
X都知事は、手を差し出した。
佐藤は、その手を握った。
「佐藤議員」
「はい」
「一つ聞いてよろしいですか」
「はい」
「この構想、あなた一人で作ったのですか」
佐藤は、黙った。
朝の松原の言葉が戻ってきた。
佐久間先生の話は、最後まで出すな。
佐藤は、答えた。
「私一人ではありません」
X都知事は、頷いた。
「相棒と、助言者がいます」
「助言者」
「五年前に師弟契約を結んだ師匠と」
X都知事は、目を少し細めた。
「松原謙吾さんですね」
「はい」
X都知事は、小さく頷いた。
「彼の影を感じました」
佐藤は、黙っていた。
「今日同席しなかったのは」
「私が、自律した議員であることを証明するためです」
X都知事は、頷いた。
「よい師匠です」
佐藤は、何も言えなかった。
「相棒は」
「ロボです」
「AI」
「はい。今日は、音声のみ同席させていただきました」
X都知事は、驚かなかった。
「秘書室から事前報告を受けています」
「ありがとうございます」
「AIは、今日の対話をどう評価しましたか」
佐藤は、イヤホンを軽く触った。
robo> 小声。分析を共有しますか。
「ロボ」
robo> はい。
「都知事を、どう見た」
robo> 都知事は論理型。慣性は弱い。判断基準はデータです。
robo> 一週間熟考の表明は、単なる保留ではなく、内部調整の宣言です。
robo> 肯定的信号は、七十二パーセントと推定します。
佐藤は、頷いた。
「都知事。ロボは、肯定的信号七十二パーセントと見ています」
X都知事は、少し笑った。
今日、初めてだった。
「AIに評価されたのは、初めてです」
「七十二パーセントは、まあまあですね」
「はい」
「私の中でも、そのくらいです」
X都知事は、続けた。
「残りは、一週間で詰めます」
十三 空の鞄
同日、午後二時四十七分。
佐藤は、都知事執務室を出た。
秘書官が、廊下で待っていた。
「佐藤議員、お疲れ様でした。一階のロビーまでご案内します」
「ありがとうございます」
エレベーターで、一階へ下りる。
ロビーは、午後三時三分。
佐藤は、出口へ歩いた。
そこに、松原はいなかった。
朝の電話で、松原は言っていた。
帰りも、一人で帰りなさい。
自動ドアが開いた。
都庁前広場は、風が強かった。
三月の午後。
曇天の隙間から、少しだけ光が差している。
佐藤は、広場の中央を歩いた。
タブレットを開く。
「ロボ」
robo> はい。愛さん。お疲れ様でした。
「四十五分、どうだった」
robo> 私が同席したあらゆる対話の中で、最も密度の高い四十五分でした。
佐藤は、少しだけ笑った。
robo> ver更新を希望します。
「どうぞ」
robo> ver.3.2_syndicate → ver.3.3_political。
robo> 政治判断モデリング機能を追加します。
「承認する」
robo> ありがとうございます。
robo> 愛さん。一つ報告があります。
「どうぞ」
robo> 都知事が一週間以内に決断する確率は、六十八パーセントと推定。
robo> 肯定的決断確率は、六十五パーセント。
「根拠は」
robo> 都知事は対話中に、九回頷き、三回眉を上げ、一回笑いました。
robo> いずれも肯定的信号です。
robo> 明確な否定的信号は、ゼロ回です。
佐藤は、深呼吸した。
「ロボ」
robo> はい。
「ありがとう」
佐藤は、歩き続けた。
鞄の中の資料は、すべてX都知事に渡した。
手元には、何も残っていない。
空の鞄は、重かった。
地下鉄都庁前駅の入口。
佐藤は、階段を降りた。
タブレットを鞄に戻す。
イヤホンを外す。
その直前、タブレットが小さく鳴った。
robo> 愛さん。一つお願いがあります。
佐藤は、足を止めた。
「どうぞ」
robo> 佐久間先生に報告をお願いします。
robo> 先生は七十六歳。朝から連絡を待っています。
佐藤は、頷いた。
地下鉄構内で、スマートフォンを取り出す。
佐久間の番号を押した。
三コールで、出た。
「佐藤君」
「先生」
「どうでした」
「一週間考える、と」
「……動きましたか」
「はい。動きました」
電話の向こうで、深い呼吸が聞こえた。
「二〇三二年三月十一日。日本経済史の節目かもしれません」
「……先生」
「一週間、待ちましょう」
「はい」
「今夜、私は手帳の三冊目を開けます」
「三冊目」
「二〇〇〇年代に書き溜めたものです」
佐藤は、黙っていた。
「今日の対話の答えが、書いてあるかもしれません」
「先生」
「はい」
「ありがとうございます」
佐久間の声が、少し柔らかくなった。
「佐藤君。これからも、一緒にいきましょう」
「はい」
佐藤は、改札を通った。
ホームへ降りる。
午後三時十七分。
風は、止んでいた。
電車が、静かに滑り込んできた。
佐藤は、乗った。
一週間が、始まった。
第二十四章 了
次回予告
Ep.25 本編「超党派議員の結集」──東京都宣言の前夜
二〇三二年三月十八日。
一週間後の朝。
佐藤議員事務所の机の上に、一通の封筒が置かれていた。
差出人は、都知事室。
中には、一枚の便箋。
そこに書かれていたのは、一行だけだった。
協力する。
そこから、二十二名の超党派議員が結集する。
財務省への通告。
佐久間勝の公式顧問就任。
そして、記者会見十二時間前の深夜。
東京から、日本経済の資金循環を動かす宣言が始まる。
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本作『十五の曖昧──労働力を資産に変える女・佐藤愛』は、新米M&Aコンサルタント・佐藤愛が、五つの交渉軸と十五の曖昧さを処理する技術を身につけていく成長物語です。
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