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《短編》Tell me why. ーわたしが何も疑問を持たなくなるまでー

    あらすじ

    同棲相手のカスミとの関係に限界を感じたシズカは、暴力的な別れの気配から逃げるように部屋を飛び出し、別の男ショウタのもとへ向かう。だが彼との関係もまた曖昧で、帰る場所の不在と自らの欲望の歪さに揺さぶられていく。愛情と暴力、依存と拒絶の狭間で、シズカは「なぜ」を繰り返しながら、自分が何に惹かれているのかすら見失っていく。

    本編

     ねぇやだ、やだよ、いいじゃん。別にセックスがどうとかじゃなくて、シズカと一緒にいたいよ。最初だってそういうの目的じゃなかったしわたしはシズカの考えてることとか信念とかそういうものに惹かれてたの、それでいいってそれが嬉しいって言ってくれたじゃん。なんで、わたしの何がいけなかったの、わたしがずぅっと一緒にいたいとか思えたの初めてで、そんなこと知らないって言われるかもなって思ったけどでもずっとシズカはそれを聞いてありがとう嬉しいそうしよって言ってくれてたじゃん。なんで、セックスがよくなかった? あの男がいいの? そうなの? そうならそうって言って、ねぇ、いいから、ねぇ、どうして、どうして、どうして、どうしてよ、どうしてって。

     女による叫喚の声がする。
     何も言わずにローファーを履いて玄関からドアを開けた時、足元にガンッと、何やら金属製の重いものが飛んでくる。見るとフライパンだった。
     わたしはこれを使ってこの女に何回も炒め物を出してあげた。
     この女はそのフライパンをこの部屋での生活で唯一、凶器としてのみ使って見せたのだ。わたしの中で女の惨めさは増幅されていった。
     ねぇ、ねぇってば、ねぇ、後ろから大声をあげられていることだけ、わたしは認識し続けた。背中に耳がついているようだった。
     わたしはここ数日、この女の声を背中で聞いていた気がする。この女といる時、わたしは背中に耳をつけなければならないし、うなじに目をつけなきゃいけないし、指先に謙虚さとか遠慮を宿らせないといけない。そういう感覚器官が望まないままチグハグになっていくような状態が嫌だったのかもしれない。
     しかしもう分からない。わたしはショウタのところへ行く。わたしの身体はいまそのためだけに存在し、動いていく。メンズのハードシェルリュックを肩に深く食い込ませながら、別れの言葉も告げずさっさとドアを抜け外に出た。
     扉を閉じる音はどかぁんと何故かいつもより大きくなった。「どかん」とバカらしいフォントで表現されそうな音の大きさに思わず笑う。
     笑いの直後に、もう一度どかぁんと音が鳴る。おそらくドアに何かがぶつかった音だ。女がまた何か投げたのだろう。ヒステリーで物を投げがちな女だった。わたしに向かってではない。何か物に向かって別の物を投げるのだ。
     ガラス製のティーポットが目の前で粉々になった時、わたしは膝頭にチクチクと痛みを感じながら、黙って女を抱きしめた。そんな記憶がある。わたしは義務のように彼女を抱きしめた。記憶から数珠、数珠、都合よく最悪な記憶が導かれてくる。
     救護のように彼女のマンコを撫でたり舐めたりして、おもちゃの扱いが下手くそな彼女の頭に気を遣って手のひらを這わせたりもしてきた。そんな記憶たちもある。そんな記憶たちしかない気がした。
     ショウタに会いたい。音はそれ以降せず、わたしは第一ボタンに触れながらドアから離れ、非常階段を駆け降りてアスファルトの一本道に出た。上から女が何か落としてくるかもしれない。わたしを殺そうとするかもしれない。それならそれでいいようにも思う。
     ショウタには確実に会いたいのだけれど、どこかそれを他人事として見て、今ここにいる自分があの女に殺されても何かが成立するように思えた。成立、とは何か。それはわたしの経験した事あるものなのか。
     わたしの中では、わたしの前では何も成り立たない。何も納得した形に落ち着いたことがない。結局わたしの頭上に何かが落ちてくることはなく、五体満足安全に最寄りのマルエツの横を通って、駅が見えるところまで歩いてくることができている。これに納得してるのか、自分でもあやふやだ。
     なんで、なんでとあの女は繰り返した。なんで、とはあまりに暴力的な疑問詞だなと考える。なんで、という問いは大抵明確な答えを返させてくれない。それは疑問ではなく、感情を込めた拳のようなもの。
     拳はそのままグーの形じゃなくても、わたきたちの住む世界にわらわら溢れている。ペシ、バキ、どどどど、と各所にて音を鳴らしながら叩きつけられる拳の数々。拳、拳、拳、拳、そうだ。
     わたしはショウタと呪術廻戦が見たい。わたしもショウタも、まだ禪院家壊滅の回を見ていない。ジンイチが拳をドカドカやるところ。あそこを見たくてわたしは楽しみにしているの。ジンイチの術式をパッて漫画で見て、あれこれ呪術の話だよね? 拳? 呪ってる? これ、呪うってそもそも何なのとか分かんなくなってグルグルなっちょうのが好きなの。
     そう言ったらショウタは、変なのと笑ってわたしを強く抱きしめてくれた。大事、大事、大事。ショウタは言い、わたしも呼応する。
     幼児のようにお互い、大事、大事、大事、と繰り返すあのベッドの上での時間が好きだ。
     わたしに信念なんかない。
     わたしは目の前に全体重をかけていく。そのようにしか生きられない。その様子の見え方が他の人とちょっと違うだけ。


     ショウタは部屋にいなかった。
     わたしは彼にLINEを何通か送るが、返事はない。
     今日は部屋に来ていいと約束をしていたはずだ。合鍵はその都度わたしに貸してくれるスタイルでまだ預けられてはいないけど、でも日時を指定して鍵を渡してくれたということは、確実にこの時間に来ていいという保証でもある。
     わたしはたまらず彼に電話をかけようとするが、その指が止まる。重い。そう、電話は重い。ショウタにとって重い女になってしまう。それが怖い。
     わたしの中の警戒心がピリリと働いて、そのままLINEの画面を閉じる。電気をつけないままソファに座り、外の景色を見て待つことにした。
     神楽坂にあるこのマンションはショウタが体を休めるために借りている場所で、仕事の忙しい彼は大抵ここに帰ってくる。キッチン用品はほとんど何もなくて、ふたりでお腹が空いたら外に食べに出るかてきとうにデリバリーを頼むようにしている。近くにタコライスの美味しいお店があり、ショウタはわたしがご飯についてあまり要望を出さない時、何も言わずにそこで二人前を注文してくれる。
     女の部屋を出たのが昼過ぎだったが、なぜかすでに外は薄暗くなっていた。ぐぅとお腹が鳴り、わたしはたまらずそのタコライスを注文しようとする。しかしショウタはいつ帰ってくるんだろう。彼が帰ってくるのなら二人分頼んでおいた方がいいだろうか。しかし帰ってこなかったとして、二人分は食べられないし、片方を冷蔵庫に入れるにしてもラップがないし、ラップなんて買いに行けばいいかと思うがここは絶妙にコンビニが遠い住宅地で、わたしは既に外へ出るまでがだいぶ億劫になっている。ここでゆっくり彼を待ちたい。しかし来なかったら、とまたぐるぐる思考が回り、そもそもわたしがショウタの帰りを疑っていることに気付いた。
     いや、疑っているのではない。彼は本来、帰ってこないはずなのだ。ここはショウタが仕事の都合でやむなく借りている部屋で、彼の帰りを待っている彼女の部屋は別にある。
     大崎にオフィスがある外資系の医療機器メーカーで広報担当をしている三十路の女。いやわたしだって27だから大して歳は変わらないのだけれど、そんなことはどうでもよくて、とにかくショウタが彼女、と世間一般に説明している存在は別にいて、そこに帰っている可能性がある。
     しかしショウタはわたしに今日、部屋へ来ていいと言ってくれた。なんならずっといていい、くらいの温度は感じた。
     ずっといたいな、一緒にご飯作ったり、映画とかお笑い見たりしたい、アニメも、そう、呪術廻戦を一緒に。その話だってしたはずだ。ショウタはメカ丸が好きなのだ。
     茫然としながら窓の外がどんどん暗くなっていくのを眺め、わたしはいつの間にか涙を流していた。
     電話をかけたい。ショウタに電話をかけたい。忙しいところごめんね、会いたい、わたしもうお部屋いるよ、ご飯いる? 忙しいよね、会いたい、ねぇ頼んどいていいかな、冷めちゃうよ、頼んだら冷めちゃう。でも忙しいよね。そう、彼は忙しいのだ。
     仕事を終えたらきっとここに帰ってくる。そう思えば思うほど涙は止まらなくて、身体は重くなっていく。
     わたしはそのままソファに倒れ込み、スマホを見た。通知こそないがLINEのアイコンの左上には90という数字が表示され、わたしが見ている中、ぽつりぽつりとその数は重なっていく。95に達したあたりでLINEを開き、あの女とのトークを長押しして覗いた。帰ってきて、ごめんなさい、わたしからシズカにばっかり求めすぎてたのかもしれない、ちゃんとする、もっとふたりのこととして考えるから。そんなメッセージが縦列に並んでいる。そのどれもが的外れな感じがした。
     わたしはそのままショウタとのトークまでスライドしてタップする。通話の時間を示すアイコンがふたつほど並び、その上にはだいすきだよ、うんわたしも、とだけ。それより上もスクロールして見る。
     一緒に江ノ島水族館に行った時の写真が並ぶ。わたしばかりがショウタを撮っていた。クラゲの前でずーっと動かないショウタが可愛かった。そんなライトアップされて可哀想だと思わない? 水族館デートとしては最悪な感想をわたしが口にして、ショウタはそれに大爆笑しつつも、震えながらねぇーと子供のように言い、そのままアカクラゲを見つめていた。
     わたしは彼とのデート写真でオナニーしたことがある。ハメ撮りじゃなくて、普通のショウタ単体の写真。
     不思議だ。なんでこれにわたしは欲情できるんだろう。好きだから、と簡単に結論付ける事ができる。しかし好きだから、と結論付けるまでに時間をかけたい、という欲望があった。さらついた記憶に粘液がこびりついて、熱を持ったねばつきが、綺麗なプレパラートみたいな記憶を下品に溶かしていくみたいな、スラスラとイメージが湧いてくる中で、寝たまま指を首元から胸へ、ブラ越しに爪先でカリカリと数回触る。数回触ったら止まらなくなる。永遠と規則正しく上下に動く指へ小さく感心しながら、煩わしくなって下着もスーツも脱いで上半身だけ裸になる。
     乳首の先を指先でトントンと優しく叩くように刺激しつつ、わたしはショウタの映ったあらゆる写真を親指の赴くまま表示させていく。
     水族館、温泉、ラブホ、居酒屋、公園。どの写真にも笑うか無表情のショウタがうつっている。
     どうして彼はこんなに魅力的なんだろう。思い出として滲むような美しさを放ったり、質のいい外人ポルノのように欲情させてきたり、彼がうつっている写真はわたしの感情や報酬系、快楽回路を荒っぽく操作する。
     乳首の刺激だけで身体はよじれ、ソファの柔らかい素材が腿の側面を刺激する。それすらも気持ちよくて、どこにも触れていない体の部分も細かく筋肉が収縮し、自ら快楽を生成していく。
     わたしは仰向けになり足を伸ばした。スマホを捨て、いつもショウタに下半身をぐちょぐちょされる時の景色にホッとしつつ、体中でわきでてきた気持ちよさが頭の方へじわじわのぼっていった。
     これはショウタと寝るようになってから覚えた感覚だ。彼は決してガシマンではないけど、でも優しくはマンコをいじってくれなくて、膣内から外へ向けて文鎮をめり込ませるような、とにかく重い重い快楽をくれる。
     わたしはそれを思い出しながらも、彼の手つきが決して軽い女を扱う物でなかったことに不思議な悲しさを覚えもしてきて、それならわたしは一定の重さを持った女として彼に向かっていっていいのかな、等ちょっと希望にも似た情欲も後から快楽に合流してくる。
     マンコは触らない。クリが若干膨らむような感覚があって、それでもわたしは足をピンと伸ばしながら、両手の人差し指と中指で乳首を刺激し続ける。彼はわたしの脚を股の間で挟んで、いつも足ピンをさせてくるのだ。
     トントン叩いたりガリガリ引っ掻いたりしながら、ショウタの汗ばんだ首元の匂いを思い出す。お願い、お願いショウタ、帰ってきて。わたしはまっすぐ伸びた体がソファに沈むほど重くなっているように感じてくる。
     わたしは重くなっている。どんどん沈み、いつかこのマンションの床まで沈み込んで、乳首オナニーをしながらまっすぐ伸びた体で、真下の部屋へエントランスまで落ちていく。
     そしてそこから地下まで潜り、東西線すらも越してマントルまで潜り、マグマの海に落ちた後で乳首のあたりに手の添えられた白骨へ一瞬なった後に溶けて死ぬのかもしれない。
     いや、溶けるなら一瞬だ。わたしは一瞬で熱に溺れて死ぬ。スマホはいま床の上だ。何も鳴らない。わたしがマントルまで落ちていったら、きっとこのスマホは放置された状態で冷たくなっていき、帰ってきたショウタに拾い上げられるだろう。
     そしたらわたしの事を気にかけてくれるだろうか。
     あんなに大事大事大事大事と言い合ったショウタが、わたしの沈んでいった穴に目もくれず、スマホへまず気がいくと、そんな風に想像している自分。異様だった。
     わたしはなぜそんなにショウタと距離を感じているんだろう。いや距離どころではない。
     わたしはショウタと一緒に生きているという実感を全く持てておらず、これから持てる、イメージすら浮かべられていないのだ。それなら、なんで? わたしは、なんでショウタに、会いたいんだろう。なんで、わたしにショウタが必要だと、思うんだろう。あ、あ、い、あ、いく。声をあげる。疑問詞が一瞬固まって、脳がパチパチと線香花火のように弾けたと思ったら、じわっじわっじわっと波が押し寄せてきて、あ、いくいくいったいったから、とひとりで小さく叫びつつ乳首を引っ張り続ける。いつの間にか、なんで? は霧散していた。だんだんと頭が冴えていくのをみとめながら、わたしは自分がひたすら惨めに思えた。


     21時になる。わたしはショウタの部屋にある家具と一体化するように、全体重を体外に逃がしながら泥のように倒れ込んでいた。
     何かを手に取る時も這うようにしてソファから移動し、足というものをまるで活用しなかった。ショウタの部屋は海外のホテルのようにツルツルのタイルが敷き詰められていて、冬は裸足で歩けないほど冷たくなる。
     わたしはぬるくなってきたそのタイルの温度を膝で感じつつ、ソファから窓に移動する。大きな窓から外の景色が見えて、遥か彼方にはスカイツリーが佇んでいた。ショウタと一緒に散歩をしたい。ふたりで歩く時間はひたすら楽しかった。
     わたしが道にあるものを、これはあれみたいだそれはこれみたいだと例えに例えていたらショウタはたくさん笑ってくれて、笑いに笑うと彼の体はわたしの腕にくっつく。震えるほど笑った彼が糸目になってわたしのことを上から見る時、あぁこの人とずっと一緒にいたいなぁと思った。スカイツリー、一緒にのぼりたいな。そんな話をどこかでしたように思う。高いところから何を見たって仕方ないって、ひとりでいた時は考えていたはずだけど。
     ショウタは帰ってこない。連絡もあれから返ってこない。それは彼が彼女との時間に夢中だということになる。
     必ずしもそうじゃないが、そうだとしか思えなくなっていた。わたしは彼にとって、連絡のやり取り頻度についてヒヤヒヤさせるような、そんな効果を持ち得ないのだ。部屋に来ていいと言われたから来たが、それは決してわたしの都合や感情に寄り添って彼が会いに来る、ということを意味しない。連絡は当然返ってこない。当然、と思うまでに至っていた。その事がひたすら苦しかった。当然だよ、と言い続ける自分はわたしの中から独立して、そばで立ちつつわたしの事を見下している。
     そう思うと更に苦しくて、でもそうやって自分を苦しめているのは自分自身で、胸の奥の奥へ自ら手刀をめり込ませるような静かな観念的自傷を繰り返し、大きな窓にもたれかかるわたしは、いつの間にかダクダク涙を流していた。


     酒でも飲もうかそれとも仕事の続きをしようかと思い始めたのは22時近くで、スマホにショウタからの連絡がきて、わたしは怒りと悲しみと享楽でぐちゃぐちゃになりつつ、彼からの連絡通知をタップする。
    「ごめん、いま仕事終わり。全然連絡できなくてごめんね。今からそっちいくから」
     下手したら夜通しひとりかと覚悟していたので、連絡をこまめにくれなかった事や、そもそも忘れていたのではないかという疑念も多幸感に押しつぶされ、わたしのフリック入力はとんでもない速さになっていく。
    「おつかれさま!」
    「全然大丈夫だよん」
    「ちょっと歩きたい、どこか待ち合わせできないかな」
     口調はショウタと話す時だけ軽く軟らかくなり、わたしは他の人間に使っている言葉遣いの冷たさを省みる。
     ショウタのことが好きになり、ショウタのことで頭をいっぱいにしながらふたりくっついて過ごした日から、わたしに新しい人格が宿った。
     わたしはこの人の前でどこまでも情けない、可哀想で可愛いタイプの女に成り下がってみようと思った。客観的に見てきついな、と思ってしまうような人格を、全く抵抗感なく自らの中に住まわせるようになる。
    「駅前がいいかな」
     と返された。スタンプを送ると、わたしはカーディガンを羽織る。
     ショウタのトーク画面からホームに戻るとあの女から尋常じゃない量の連絡がきていて、わたしは数字がポコポコ増えていくそれを眺める。ブロックすればいいのか、と考えるまでに少し時間を要して、女のアイコンを押しブロックを選択する。途端に連絡は止まる。
     ひとつの関係性を終わらせるには指先を動かせば事足りる。それがいいことなのか、悪いことなのか分からない。ポケットにスマホをつっこんで、ランニング用シューズに玄関で足を入れ、そのまま部屋を出る。オートロックのドアは背後でカコンという音と共に施錠される。スッキリした音で、以降何も鳴らない。
     わたしはしばらく佇み、正面の知らぬ人の住むであろう部屋のドアを見つめる。
     ここから誰か出てきてわたしと正面から向かい合った時、相手には恐怖が芽生えるのだろう。しかし現実で生きている中で人と向き合う瞬間というものは、いつだって突然で、それなりの恐怖と共にある。


     改札前にいたショウタのもとへ駆けていって、ごめん遅れたと言った。そしたらショウタはわしゃわしゃ頭を撫でてきて、この瞬間を待ってたんだと言わんばかりに表情がほぐれる。
     この顔に何回もやられてきた。目の前の景色とかそこから湧き出る感情とか、それに引っ張られに引っ張られている現状。理性的に関係性を処理してきた大学生までの自分は何だったんだろうと思うようになる。
     自分は女性も男性も好きだし、そこに煩わしさなんて感じないはずだった。大学生まで、というかさっきの女との関係まで、わたしは人間を属性のみで割り切って処理してきた。だから生きてこられた。
     ショウタは違う。彼が女性だったとしても、外国人だったとしても、人間じゃなくて、地球外生命体だったとしても、わたしはそれらの属性だけで彼を処理する事ができない。ショウタが笑い、撫でてくれて、わたしの渡したものに喜び、手を握り返してくれたり、そういった経験の集積だけがわたしにとっての全てであり、理性的な判断ができなくなる。
     理性的、というのが正しいかも分からない。人間が結べる関係はすべて等しくくだらないと割り切れていたはずなのに、今日も他の何もかもを投げうって、ショウタと過ごす日にのみ正解を見出そうとする。「なんで仕事早巻きで終わらせられる日に呼ばないの」とか言うこともできるな、と頭の片隅で考えながらショウタに抱き着く。顔ひとつぶん大きな彼の顔が、わたしの頭頂部に載るのが分かる。
    「ごめんね、ほったらかしにしちゃってた」
     彼は謝る時、言い訳をしない。
    「ううん、ちょっと歩きたい。いい?」
    「もちろん」
    「ミニストップのある通りの方」
    「うん、おっけい」
     わたしたちは歩道橋にのぼってまだまだ車通りの多い道路をふたり見下ろした。彼の方を向いた瞬間に唇へやわらかく何かがぶつかってきて、視界は暗く、そのうえで再度きらきらと街の明かりが視界の中で混ざる。
     暗い中でも少し疲れが見えるショウタの顔に、
    「最近忙しいんでしょ」
    「もう今の会社6年目だし、それなりに頼まれること増えてきてさ」
     そう言ってわしゃわしゃ自分の後頭部を撫でる様は器用過ぎない彼の人柄を表しているようだった。会社でこんな表情や仕草をするのだろうか。
    「ショウタ、仕事できそうだもん」
    「え、そうなの、そう見える?」
     わたしは思い出し笑いをしながら、
    「居酒屋で、ちょっと仕事していいかって聞いてきて、パソコン触ってるの見たとき、かっこいいなって思ったよ」
    「笑ってるじゃん」
    「だってちょっと仕事って言ったのに、わたしが2杯飲むくらいまでずっとカタカタしてたから」
    「ごめんって、何回でも謝りたいわ、それ」
     いいよ、と言って彼の手を引き歩道橋のうえを歩き出すが、彼から顔を背けて正面を見据えた瞬間にさっきまでの笑いは消えて、突然自殺したくなる。毎瞬毎瞬ショウタと笑ったり気持ちよくなったりすることで、わたしは生き永らえている。そしてその合間には、いつだって果てしない希死念慮が宿る。誤魔化しながら生きているのだ。それはあまりに不安定なことだと感じた瞬間、自身に生存していく力などあるのだろうかと疑い、やけになって自殺もしたくなる。
     もう一度振り返る。ショウタはその瞬間にわたしの横まで追いついてきて、つないだ手を二の腕に絡ませるよう導いてくる。
     わたしはおそらく今晩生きながらえる。ショウタと会ってから、わたしは生命力が弱まった気がする。しかしショウタがいなくなったら、世界はあまりにつまらなくなる。
     きっと人は生命力を自分の中で蓄えることなんかできなくて、何か外部に注ぎ込み弱り続けることが本質であったり行く末だったりするのかもしれない。


    「なんで、って聞かれるの、ちょっと嫌じゃない?」
     全裸にシャツを羽織ったショウタにそう聞かれ、わたしは掛け布団をくしゃりと引き寄せながらドキッとする。何か気に障るようなことを言っただろうか。何か彼に重荷をかけただろうか。腹の奥には彼のかけた重みがジンジンと痺れるように残っている。
    「え、わたしが言った?」
    「いや全然そうじゃなくて、俺が言ったんだけどさ。なんでって聞いている時にシズちゃんがどう反応するかって部分が結構好きだから、答えを求めるってよりは、その反応が見たくて聞いちゃってる節もあるんだろうなって思って、単純にシズちゃんが困っているならやめようかなと思ったんだけど」
     彼はどうして、言ってしまえばセフレでしかないわたしの気分にそこまで気を遣ってくれるのだろう。
     そう思うと同時に、テキトウな関係をこれまで幾度となく経験しつつも決して相手の眼前で雑な振る舞いなど見せてこなかったのだろうなと感じさせるから、わたしはショウタのことが好きになったのだと思う。
    「嫌じゃないよ。なんていうか」
     わたしは沈黙した後、立ち上がってキッチンの方へ行く。帰り道で買ったミネラルウォーターが2本並んでいる。ひとつを手に取って、ショウタのところへ戻りながらごくりごくりと飲む。
    「なんていうか?」
    「好きだよ、聞いてくれるの好き。嫌だなって思うようなこと、されたことないよ」
     そう言いながら膝をベッドにつけて這い、シャツの襟あたりからのぞく首筋に吸いつく。唇でハフハフと噛みつつ彼の香水の匂いをかいだ。少しつけすぎかと思うほど濃い匂いはきっと汗が混じったからで季節の移り変わりを感じつつ、舌もゆっくり這わせていく。するとショウタが頭を柔らかく掴むように撫で、そのまま押し倒してきた。きっと首元を舐められるのは好きじゃないのだ。ショウタにも拒絶はある。いくら軟らかく生きていても、ショウタが拒絶したいことは確実に存在する。浮気相手という自分の立ち位置がそれに抵触しないことだけ必死に望みながら、それでも興奮はスムーズにわたしの脳内を浸食していった。
     そのままセックスをして眠った。ふたりで起きたのは朝の6時くらいで、あわてたわたしはショウタに「仕事は?」と聞く。
    「今日は午後からにしたんだ。シズちゃんと朝ご飯食べるくらいはしたくて、シャワーとか浴びてきてもいいよ」
    「一緒に浴びる」
     わたしがそう言うと、彼は優しく笑って背中をぽんぽん叩いた。行っておいで、と言われる。わたしはそこで絶望的な彼との距離感を感じる。気を遣って言ってくれている。きっとふたりで浴びたら午前の時間がグダグダになってふたり慌てることになる。そこまで見越して言ってくれている。
     だがわたしはありえない被害的な想像をひたすらに膨らませながら、彼の手の温度を背中に感じていた。うん、わかった。わたしは立ち上がる。彼の顔を見られなかった。
     シャワールームに向かいながら、彼がどんな目線でわたしを見ているのか気になり少し振り返る。すると彼は既に窓の方を見ていた。ボクサーパンツのうえからスラックスを履いているところだった。


     ふたりで寿司屋に行き、早めの昼をとろうとしているサラリーマンたちに混ざって、2貫ずつ載った寿司を皿ごとにたいらげていく。ショウタは寿司の量もほどほどに茶碗蒸しとあおさ汁を頼んで、あとはアナゴやハマチを頬張るわたしを横から見つめていた。
    「食べてるところ見られるの、恥ずかしいから」
     わたしがハマチを飲みこんでから伝えると、
    「それ前から言うよね、大丈夫だよ可愛いよ」
     と頬杖をつきつつお茶を啜るショウタが言った。
     ぜったい嘘だ、と思った。わたしは綺麗に食べ物を食べる事ができない。お腹が空いている時は特に、ひたすら皿の上にあるものを口にかき込んでいく中で、口から食べかすがこぼれたりする。これまで付き合った男女共に、それに対していい顔はしなかった。わたしはそんな経験の積み重なりから、自身が何か食べる姿をひらすら醜いと思っている。
     だからきっとショウタも、と思ったところで、ふと自身を疑う。ショウタをこれまでの人間と同列につまらなく切り捨てようとしているのではないか、わたしは。
     絶対に切り離したくない関係性のはずなのに、どうせ、と思う自分がいる。わたしにとっての脅威は社会でも、あの女でもなくて、そしてショウタの彼女でもなくて、自分が何かへ重く感情を載せている状態を鳥瞰の視点からつまらなそうに見下す自分自身かもしれない。
     きっとそれはショウタと出会うまでの人生で、わたしが知らぬ間に育ててきたものだ。
     あんまり見ないでと言いながら、わたしはまたショウタの前でしか出さない口調で、彼の目の前に手のひらをかざす。目だけ隠れた彼は口もとのみ愉快そうに歪ませている。微笑んでいるのかもしれない。「なんで」という言葉に疑問を覚えた彼を思い出す。
     わたしはあの女からのものと違って、ショウタからいくら「なんで」と言われても、きっと全く暴力的だと感じない。
     それは暴力には違いないのかもしれない。でも「暴力」という括りに内包されるものは実に多種多様で、わたしはきっとその中で狭からず多くの要素を必要なものとして求めている。ショウタに惹かれる理由もそこからくる。
     じゃあ、ショウタはあなたの性癖にマッチした暴力装置ってだけじゃない? かけがえのない大事な存在かっていったらそういうわけでもないでしょ。
     わたしはショウタの目を隠しながら、自身の斜め後ろに立つ「わたし」からの揚げ足取りに小さく舌打ちをした。


     ふたりで駅の近くまで歩いていき、わたしがコンビニに寄ってカフェオレを手に外へ出てきた時、ショウタは誰かと電話していた。サラリーマンが往来する駅の前でわたしは彼の目の前まで寄り、カフェオレのペットボトルを捻って開けながら彼の口元を見つめた。
    「あ、うん。そう泊まり込みで、全然だよ、心配させてごめんね。うん、予約は取れたからまたお店送るね、うん」
     乾いた唇が動いて、彼女と電話越しに話している。
     ショウタからかけたわけではなさそうだが、わたしはだんだんと脳の筋の端まで熱くなるのを感じる。
     しかしそれらは瞬時に冷却されていき、彼には帰る場所があって、わたしはそこに帰るまでの居心地のいい経由地でしかない、とか絶望的な構造を淡白に整理する。
     カフェオレのひとくちの間に熱してから冷めるまでの処理は終わって、彼の電話が終わるった時、ごめんね聞いちゃって、と何気なく謝るぐらいの余裕ぶりを見せてやった。余裕なんてあるはずないのに。わたしは今すぐショウタに抱きついて、そのまますぐ先の交差点へ一緒に飛び込みたい衝動に駆られる。
    「全然、嫌だったよね。そろそろ行かなきゃ」
    「ショウタって死にたいとか思ったことある?」
     余裕ぶってることにも一瞬で限界がきて、わたしの口からはおかしな質問が飛び出していた。
    「え?」
    「例えばわたしたちが何か自分達の関係性を周りに分からせる行動をするのだとしたら、ひとつに一緒に死ぬとかがあると思うんだけど、そこには関係性を分からせたい以外にも漠然とした世間への諦念とか生きている実感の薄弱さとかが同時にないといけないと思ってて、わたしは割とそとそもひとりそういう弱い感情を抱えてしまうタイプ。ショウタは?」
     ちょっと待ってよシズちゃんどういうこと、とか戸惑ってくれたら、わたしはなんでもないと彼に謝ることができた。疑問はやはり暴力だと思う。わたしは答えなんか期待せずに彼と向き合っている。一緒に死のうなんて思ってくれるはずないし、思ってくれなくていい。
     だけどショウタは周りの人間を気にせずわたしを撫で、そうだね、と呟いた後、
    「俺はシズちゃんよりもそういう感情は抱えないと思うけど、でもそれは全然健全なことじゃないと思うし、シズちゃんみたいなタイプ、いやシズちゃんだから見えたり分かるものがあったりはするだろうから、なんていうんだろうな」
    「一緒に死ぬとか、ごめん急に」
     わたしはすぐ臆病に返す。丁寧にしか人と接せないショウタの言葉選びひとつひとつが、わたしの重さを逆に炙り出す。
    「謝んないで。一緒にいられることが尊いし、シズちゃんが大事だよ、死ぬとか今は抜きにして、それだけ分かって? ね? それだけ分かってくれて隣にいてくれればいいんだよ」
     うん、ありがと。わたしがそう言うと、ショウタは頭を撫でていた手を頬にうつしつつ、化粧のことを気にしてくれているのか控えめに指を這わせた。じゃあもう行くね、またすぐ連絡するから。そう言って彼はJRの改札へ向けて歩いていく。
     少し大きなシルエットのジャケットが春風に揺られている。ビジネス味が強すぎないカジュアルなジャケットやシャツ、パンツでかためられた彼のファッションが好きだ。どこにも角を立てず、誰も警戒させずに生きていこうという、彼のスタンスが感じられる。そんな男、好き?
     わたしは静かに彼の後ろ姿を解釈しながら、目線をそのまま足だけ地下へ向けての階段へ動かしていく。また目元に涙がたまるのが分かる。辛い。ショウタの背中を見送る日々がひたすらに辛かった。
     毎回辛い思いをしている。ショウタと一緒の場所に帰って、ショウタもそこへ「帰る」という感覚を持ってほしい。なんで? ふとわたしの中で、なんで、と言葉が反響する。一緒に死にたいとか、暴力が欲しいとか、そのうえで同じところに帰りたいとか。全部に思う。
     なんで? わたしの中でひたすら無垢に疑問だけ撒き散らす器官があるかのようだった。痛い、辛い、わたしは内部を血だらけにして、その痛みで涙を流している。
     ショウタは見えなくなった。わたしも地下に降りていく。分厚い分厚い壁が、わたしと彼を阻む。しかし阻まれるように歩みを進めたのはわたし自身なのだ。


     わたしはあの女と絶縁ようとしている。しかしそれなら、帰る場所がないのだ。合鍵はまだ持っているのであの女がいない時間帯を狙って部屋に戻り、必要なものだけまとめてから、ショウタにまた連絡して、いつも会う部屋にしばらく居させてもらっていいか聞こうと思った。
     実質は彼が女を呼ぶために使っている部屋だから、わたしが住み込んでもおそらく問題は発生しないはずだと身勝手に推測する。
     実家まで戻ってもいいけど、父が私物化している一軒家の中、わたしの居場所などないだろうと思われて、やはりショウタのところへ転がり込むしかないと腹落ちする。
     じゃあ別に駅前で解散とかしなくてよかったなと思いつつ、女と住んでいた部屋の最寄りに着いた。駅から線路沿いにまっすぐ続く歩道を道なりに進み、合鍵を取り出して非常階段の扉を開けて2階まで上がっていく。
     彼女は普通に平日勤務で、東京駅付近で受付嬢をしている。この時間帯なら普通に仕事をしているはずだ。階段を軽く踏みつけながら、そう確信していた。だって実際そのはずなのだから。部屋の前に着き、わたしは鍵を開けて入る。
     目の前には女がいた。おかえり、と呟き笑顔の女。わたしは息が止まり、背中にざわっと鳥肌がたつのを感じる。
    「お昼これからだよね、作るよ」
    「え、カスミ」
     女の名前がわたしの口から出る。
    「シズカどうせお腹すかしたら帰ってくるだろうなって思ったの」
     そう言うと彼女はわたしの手を握り、靴を脱がせることもなく部屋の中まで引き上げてきた。
     わたしは慌てて靴を脱ごうとするが、彼女に引っ張られる中でうまくバランスがとれず、そのまま転倒した。尻もちをつき、そばにあったゴミ箱に激突する。
    「つっ、あ、カスミ」
    「シズカ、何してるの」
    「え、いやカスミ、あのね」
    「起きて、ご飯だからリビングで座って待っててね」
     女はわたしから手を離し、廊下の先へさっさと歩いていってしまい、おそらくキッチンに入った。
     ダメだ、なんでここに来てしまったんだろう。わたしは腰に痛みを抱えながら、ダメだ、ダメだ、と自分の中で繰り返して、部屋から出ようとドアノブに手を伸ばす。
     嘘みたいに怖かった。シンプルに怖かった。女の、カスミという女の目は、黒かった。なんの余白もなくて、一切言い訳も説明すらも必要としない、という人がする目だった。
     わたしはひたすら恐怖を感じる。単純に、殺されると怯えた。体を捻り、ドアノブに手をかけると後ろからドスドスと足音が聞こえてきて、わたしはたまらなく悲鳴をあげる。やだ、ごめんなさい、やだ、やぁ。
    「うるさいよシズカ、ご近所さん迷惑なんだけど」
     後頭部に鈍器のような声がぶつかった。脳が揺れる。怖い。殺される。死にたくない。やだ、やだ、やだよぅ。
    「大丈夫、痛いことしないから」
     わたしは恐る恐る振り返る。女の顔が見えたか見えてないかくらいで、わたしの顔が爆発する。
     いや違う。わたしの頬に何かぶつかった。硬かった。でも肌の感触もあって、ねぇ覚えてる? と聞かれる。暴力が行使された。
    「シズカ、わたしの頬たたきながらエッチするの好きだったよね。わたし、そんなに好きじゃなかったよあれ。痛いのが気持ちいいって、誰もがなると思わないで。これまでの誰かで覚えたのかもしれないけど、同じ気持ちいい事が他でも同じようにできるとか浅く考えてるから、シズカはいつまでもダメなんだよ。そのうえでセックスしてあげてるみたいな態度で続きするのもちょっとないなって思うし、ほんといつまでも寂しがり屋のまんまで他責で、どうしようもないよね」
     玄関の冷たい感触を尻で感じながら女を見る。表情には不気味なほど感情がこもっておらず、黒目は絶対にわたしと前までいた時より大きくなっている。
     わたしは何も言えず、その目に吸い込まれる恐怖へガクガク震えるしかなかった。綺麗、と思ってしまいそうだ。そうだ、綺麗な目がいいなって思って、それで手を伸ばしたんだ、この子に。でもこんなに黒目が大きかったはずない。そんなはずは、はずは。自分の中で何も確信が持てない状況に気付く。わたしは、わたしは、誰のなにが、好きなんだ。
     首をぐっと掴まれた。わたしのしてきた事を、この女はいますべて踏襲している。正面からではなく、横から頸動脈がゆっくり締められていく感覚が分かる。濡れている。わたしはマンコを濡らしていた。
     意味がわからない。いや、分からなくない。きっとわたしはずっと興奮してきた。
     何にも踏み込めずに、勝手に控えめな場所で何も言わずに泣いている自分に、そしてそこに突然やってきてくれる、暴力の種々に、わたしは、わたしはずっと興奮してきたのかもしれない。
    「またあの男のところ行ってたんだね」
    「う、うぇ」
    「いいんだよ、わたし別にシズカが誰とセックスしたって、ぶっちゃけどうでもいいかもって思った。そんなの制限したって意味ない」
    「カス、ミ」
    「呼ばないで。分かったんだよ。わたしはね、シズカをずっと馬鹿にしてきた。昨晩に考えて気付いたよ。冷めた風にツンとしてて、でも内側はネチネチ無駄に情けないこと考えて、結局自分が全部悪いって言いつつ、何もできることはないって諦めるんでしょ。わたし、別にシズカがいなくなってもいいって思ったよ。でも待ってた。だってシズカは、シズカのこと馬鹿にして凌辱してくれる人に囲まれて、どんどん傷つけてもらわないとダメな人なんだよ。それを分かってないからイライラしてた。分かって、ね、ちゃんと自分のこと分かんなきゃ」
     そこまで言って、カスミは首から手を離し、手の甲で乱雑にわたしの頬を張る。歯が全部抜けたんじゃないかというくらいの痛みに思わず悶える。玄関にある靴はわたしのケツによってぐちゃぐちゃに潰れていく。
     ひぃ、ひぃと泣いてしまう。シンプルだ。わたしはいま、痛くて泣いている。ショウタの後ろ姿とか、誰かを待って寂しく窓にもたれかかる時とか、そういう類のものとは決別させられて、わたしはいまひたすら痛みに泣いている。それは、嫌じゃなかった。
    「ほら、立ちなよ」
     カスミはいつの間にか立ってこちらを見下ろしていた。わたしは、はぁ、ひぃと息混じりに喘ぎながら立ち上がり、背が少し自分より低いカスミの前に、腰を曲げて立つ。
     次の瞬間カスミはわたしの肩へ手を置き、そのままドアへ押し付けてきた。そして空いた右手で腹をさすってくる。
    「覚えてない? 酔ってる時だったから覚えてないかな。自分が相手にした事しか覚えてなくて、何されたかとか覚えられない?」
     何を聞かれているんだろう。わたしは朦朧としながらボブカットのカスミを視界の中にぼんやりみとめる。何を、覚えているかって。ぐっ、ぐっ、ぐーっ。あ、あ、だめ、おぁっ。声が漏れた。潰される。ぐーっと押されつつゴリッゴリッと、わたしの膣が外から擦られる。シズカ、お腹でいくの好きだよね。わかん、ない。わかんない、から。そう言ったら、また頬を叩かれた。
    「バカだよね、ずっと、バカじゃないの? ホントに何も分かってないし見えてないんだから」
     そうかもしれない。そしてきっと多分、それがいいと思っているかもしれないのだ。わたしはわたしがどうしようもないと、分からせてくれる関係へと帰っていく。
     なんで、なんでと重ねられていく疑問の鎖は、きっとわたしの体をギチギチに縛って心地よくしてくれていたのだ。答えはいらない。答えを求め続けるだけで、その過程の中で生まれる快楽だけで、わたしはわたしとして生きながらえていくのだ。
     そのままリビングにあるベッドのうえで、カスミはひたすらわたしを犯し続けた。30分ほど経っただろうか。腿の内側が痺れるように痛み、目を薄く開くとカスミの筋肉質な背中が見える。
     こちらを見ずにわたしの方へ腕を伸ばし、腫れるように勃起した乳首をすこし触って、そのまま上へスライドさせた。首筋のところで指を遊ばせるカスミは、なんでこんなに首が弱いわけ? と聞いてきた。わたしは自分が喘いでいることに、カスミに媚びていることに気が付かなかった。
    「ねぇシズカ、男に連絡してよ」
     別れろ、と言われるのかと思うと、瞬時に頭の中へ彼の柔らかい笑顔と細い腕で抱かれる感触、セックスの時にかかるあらゆる物理的な重さが思い出されてくる。わたしは、え、ダメと答える。するとカスミは、へぇ、と呟いて立ち上がった。わたしからも手を離し、キュッと上を向いたお尻をこちらに向けたまま、風呂場へ向かっていく。
    「別に別れろとか言わないよ」
    「え、いや、え、なんで」
    「シズカはどうせそういう人でしょ。その男が与えてくれるものは何か知らないけど、別にわたしは女だし、できないこととあるからって、それだけ」
     話しながら彼女は風呂の中に消えてしまう。ベッドから立ち上がり風呂場の方へ少し歩いていくと、クローゼットの前あたりにあるカートのようなカゴにバスタオルがかかっていた。わたしが帰ってくる前からそこにあったようだった。
     わたしはカスミにセックスが下手だなんて言った事がない。でも彼女はわたしが出ていく時、そのことを執拗に気にして言葉をぶつけてきた。今は何か吹っ切れて落ち着いているようだったが、きっと彼女はわたしとセックスすることへ過度な重さをかけて思考してきたに違いない。
     なぜそうなったのか。なんで、がまた重なる。しかし不思議とその、なんで、は角ばっておらず、わたしへ素直な思考を促してきた。股がまだジンジンする。


    「シズちゃん、もしよかったら今夜も来なよ」
    「なんならずっといてもいいし、俺はあんまり頻繁には帰れないかもしれないけど」
     カスミから連絡しろと言われてから、何を送ろうか必死に悩んでいた所、ショウタからのLINEが送られてきた。既読がついてしまい、そのまま何も返せない。
     帰れない、帰る、帰るという述語が海中を漂う藻のように絡まってきて脳に通う血が止まったかのようにぼーっとしてくる。
     ショウタはわたしの帰る場所を用意してくれるだろうか。ショウタと帰りたい。ショウタのいるところに帰りたい。ショウタの帰るところと、わたしの帰るところは、同じがいい。
     今朝まで抱えていたはずの願望をひとつひとつ言葉に落とし込んでいく。どれもが違和感しか生まない。返信が思いつかない。変だ。本当におかしい。ショウタへの返信なんて、嬉しさと衝動性に支配されていた。いっかいセックスしただけで、ショウタというかけがえのなさをつまらなく感じられるほど、わたしは薄情だったろうか。
     そう聞いたら、カスミなら「そうでしょ」と返してくる。そうなのかもしれないと、想像上のカスミに同意する。なんだか、思考がどんどん退屈になっていった。
     シャワーの音が聞こえる。水音は止まったり再開したりして、しばらくしたら流れっぱなしの音の連なり。わたしは全裸で寝転がりつつ、その水音を聞きながら少し指先を体に這わせる。
     胸を下から自分で揉んで、ふぅ、ふぅと途端に声が漏れ出す喉に、おかしくなりつつも指はそのまま乳首までゆっくり伸び、だらしなく刺激を重ね始める。何度かいきそうになるが無意識に止めて、わたしはベッドから立ち上がる。足元にあったタオルを手に取り、リビングを出て暗い廊下の奥、ほのかに明かりのつく浴室のすりガラス付きドアへ向かっていく。
     ミシッ、ミシッと床が鳴る。素敵なデザイナーズマンションだけど木造で、きっとわたしの喘ぎ声は他の部屋に聞こえていた。でもカスミは一向に気にしないようだ。わたしはカスミにあれよあれよと身を委ね、さっきまで何も気にせずベッドのうえでのびていた。そこに何の疑問も抱かなかった。
     沈むような心地でまどろみと共に眠りそうだったところに、水音はむらつきをもたらして、わたしを風呂場へ向かわせる。
     疑問も思考も、そこにはなかった。わたしは薄く、水に流される紙ごみのように、脆く不格好にあり続けるのだろう。
     脱衣所まできて、ガラス張りのドア越しにカスミがいた。わたしに気付いた彼女は怪訝な顔をして、わたしの顔を睨み、そして一瞬わたしの下腹部へ視線をおろし、またすぐ顔を睨んできた。
     わたしは待つ。何をだろう。なんで、待てばいいと思っているのだろう。いや、何でもいい。何でもいいのだ、もう。


    「シズちゃん、返事くれない?」
    「心配だよ。こっち来ていいんだよ」
     わたしはショウタとどうなりたかったのか。そしてカスミとどうなりたいのか。どちらにも答えを出せないままでいる。
    「何かしたなら謝る。最近待たせること多かったし」
    「完全にシズちゃんのペースに合わせられるわけじゃないけど、俺なりにシズちゃんを大事にしたい気持ちは大きいんだよ、それだけ分かってほしくて」
    「返信待ってます。ゆっくりでいいから、待ってるからね」
     なんでだ。なんで彼はわたしの連絡を待ち続けるのだ。彼には彼女がいる。交際している女がいて、その女と結婚や出産などのライフイベントを経ていく。
     そこに対して疑問を抱いているから、わたしと一緒にいようとするのだろうか。それならわたしは、なんでそんな立場に魅力を感じたのだろうか。
     答えはなにひとつ分からない。暗くなった部屋でカスミがわたしの首元に抱き着き、寝ながらも耳たぶに唇をふれさせていること。
     答えというか、そういう事実しか、そういう事象しか、そういう結果しかここにはない。わたしはそれが嫌だった。カスミといる時に、カスミと生きているという現実しかなかったのが、当たり前のことなのに、果てしなく嫌だったのだ。
     スマホのロック画面が点滅する。ショウタから連絡がきているのだ。彼女のところには帰っていないのだろうか。
    「ねぇ」
     わたしは横のカスミに話しかけた。すると彼女はすぐに目をあけて、どうしたの? と聞いてきた。
    「少し外歩いてきてもいい? 公園まで行きたいの」
    「いま何時?」
    「たぶん、2時くらい」
    「いいよ」
     カスミはもぞもぞと起き上がり、コットン生地のブラを身に着けるとヒートテックに体を通し始める。
    「カスミも行くの?」
    「行くよ、危ないでしょひとりじゃ」
     なんだか急に勇ましくなったなと思う。彼女と過ごした数年間で感じたことのない猛々しさだった。ずっと筋トレはしていたみたいだけど、それでもここまで強そうに見えたことはない。
    「でも冷えるよ」
    「シズカの方がそういう意味じゃ心配だよ。なに、エニタイム行く? これから」
     カスミは暗闇の中でこちらを振り返り、笑ったようだった。前歯が綺麗なカスミは、目の大きさとあいまって、時折海外のリアルなアニメーションキャラみたいに見える時がある。きっとそれは、わたしと彼女の距離から生み出されるイメージだ。
     ふたりで夜の寒さに負けぬよう適度に着込み、外に出たらコンビニでそれぞれ温かい飲み物を買う。わたしがホットのレモンティーを手に取ると、カスミが横からそれを取り上げてくる。
     彼女はあまり喋らなくなった。今朝と今晩、まるで人が変わってしまったかのようだった。キャッシュレス決済のレジに通して、カードタッチ決済を済ませると、わたしの手を握ってさっさとコンビニを後にしてしまう。
     公園に着く。近々工事で半分が道路になってしまうこの公園は、付き合いたてのわたしたちにとって思い出の場所だった。よく昼からふたりで酒を飲み、ボール遊びをする子供たちを眺めた。子供は好き? カスミがそう聞いて、全然と答えた気がする。
     酒盛りを過去にしていたベンチへふたりで腰掛ける。工事の為にベルリンの壁みたいな囲いが目の前の景色を阻んでおり、何も感傷にひたるような視界ではなかった。
    「カスミは、怒ってるよね」
     わたしが言う。彼女はコーヒーを口にしながら、
    「浮気を怒ってるかって? それをいま聞くのって結構サイコパスじゃない?」
     と返してくる。たしかに全く想像力のない質問だった。彼女によって浮き彫りにされるわたしの姿がたしかにあったなと、そのやり取りで思い出してくる。そんな風にわたしの輪郭をはっきりさせてくる、強いカスミの目が好きだったのだ。
    「ごめん」
    「うん、ごめんだね、謝り続けるしかないよ、シズカは、わたしに」
    「本当にごめん」
    「連続で言えばいいってもんでもないけどね」
    「うん」
    「あの男からLINEってくるの?」
    「くる、でも返してない」
    「返しなよ」
    「それさっきも言って、なんで」
    「わたしもさっき言ったよ。シズカは自分を惨めにさせてくる人が好きで、自分を追い詰めてくれる状況が好きなんだよ。それは絶対に変わらないからいいの」
     ゴクリゴクリとコーヒーを飲み干した後、カスミは立ち上がる。少し歩いた所に水飲み場があり、そこの傍らにあるゴミ箱へ缶を捨てる。分別がはっきりしないゴミ箱だった。紙くずやマックの袋も捨てられている。
     カスミは戻ってくると座らずにわたしの目の前に立った。わたしが見上げようかと顔を動かす前に、彼女はしゃがみ、わたしの膝に手をのせて体重を少しかけてくる。
    「わたし、シズカが好きだよ。大好きだよ」
     彼女の眼は暗闇の中、何色か分からないが、とにかくしっとりと輝いていた。膝にかかる彼女の体重、筋トレで増えたであろう体重は、なんだか実質その眼の奥にある重い重い何かの重さである気がしてくる。
     なぜカスミはわたしを好きだと言ってくれるのか。そう問うこともできた。しかし必要がなかった。わたしにいま残されているのは、暴力とその外にはみ出た生臭い言葉たちで、それは大体カスミから与えられてきたものだったように思う。


    #創作大賞2026
    #恋愛小説部門


    《草稿》


    つぶやき:大事なものを抱えるとそれが煩わしくなる。日々生きていてそうだから、主人公たちには大事なものをずっと抱えて苦しんでほしいと思っている。それは彼女らが強いからで、彼女らの強さによって、飽きっぽくてつまらなそうに生きるわたしは、なんとか生き延びられている。メンヘラだとか恋愛体質だとか、あとは煩雑にヤバいとかキモいとか、そうやって括られる人たちがいる。厳密にはそんな人たちいなくて、取り結ばれた関係の転がっていった結果として、そういう人たちの一過性な姿があるにすぎないのだけれど。そのうえでわたしは、そんな人たちの姿に確かな強さがあるのだと、器用に関係も感情も切り離せるようになってきた我々に訴えかける原初的なバイブスのようなものがあるのだと信じている。

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