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《短編》Tell me why. (中)

     21時になる。わたしはショウタの部屋にある家具と一体化するように、全体重を体外に逃がしながら泥のように倒れ込んでいた。何かを手に取る時も這うようにしてソファから移動し、足というものをまるで活用しなかった。ショウタの部屋は海外のホテルのようにツルツルのタイルが敷き詰められていて、冬は裸足で歩けないほど冷たくなる。わたしはぬるくなってきたそのタイルの温度を膝で感じつつ、ソファから窓に移動する。大きな窓から外の景色が見えて、遥か彼方にはスカイツリーが佇んでいた。ショウタと一緒に散歩をしたい。ふたりで歩く時間はひたすら楽しかった。わたしが道にあるものを、これはあれみたいだそれはこれみたいだと例えに例えていたらショウタはたくさん笑ってくれて、笑いに笑うと彼の体はわたしの腕にくっつく。震えるほど笑った彼が糸目になってわたしのことを上から見る時、あぁこの人とずっと一緒にいたいなぁと思った。スカイツリー、一緒にのぼりたいな。そんな話をどこかでしたように思う。高いところから何を見たって仕方ないって、ひとりでいた時は考えていたはずだけど。ショウタは帰ってこない。連絡もあれから返ってこない。それは彼が彼女との時間に夢中だということになる。必ずしもそうじゃないが、そうだとしか思えなくなっていた。わたしは彼にとって、連絡のやり取り頻度についてヒヤヒヤさせるような、そんな効果を持ち得ないのだ。部屋に来ていいと言われたから来たが、それは決してわたしの都合や感情に寄り添って彼が会いに来る、ということを意味しない。連絡は当然返ってこない。当然、と思うまでに至っていた。その事がひたすら苦しかった。当然だよ、と言い続ける自分はわたしの中から独立して、そばで立ちつつわたしの事を見下している。そんな風に思えて苦しくて、でもそうやって自分を苦しめているのは自分自身で、胸の奥の奥へ自ら手刀をめり込ませるような静かな観念的自傷を繰り返し、大きな窓にもたれかかるわたしは、いつの間にかダクダク涙を流していた。
     酒でも飲もうかそれとも仕事の続きをしようかと思い始めたのは22時近くで、スマホにショウタからの連絡がきて、わたしは怒りと悲しみと享楽でぐちゃぐちゃになりつつ、彼からの連絡通知をタップする。
    「ごめん、いま仕事終わり。全然連絡できなくてごめんね。今からそっちいくから」
     下手したら夜通しひとりかと覚悟していたので、連絡をこまめにくれなかった事や、そもそも忘れていたのではないかという疑念も多幸感に押しつぶされ、わたしのフリック入力はとんでもない速さになっていく。
    「おつかれさま!」
    「全然大丈夫だよん」
    「ちょっと歩きたい、どこか待ち合わせできないかな」
     口調はショウタと話す時だけ軽く軟らかくなり、わたしは他の人間に使っている言葉遣いの冷たさを省みる。ショウタのことが好きになり、ショウタのことで頭をいっぱいにしながらふたりくっついて過ごした日から、わたしに新しい人格が宿った。わたしはこの人の前でどこまでも情けない、可哀想で可愛いタイプの女に成り下がってみようと思った。客観的に見てきついな、と思ってしまうような人格を、全く抵抗感なく自らの中に住まわせるようになる。
    「駅前がいいかな」
     と返された。スタンプを送ると、わたしはカーディガンを羽織る。ショウタのトーク画面からホームに戻るとあの女から尋常じゃない量の連絡がきていて、わたしは数字がポコポコ増えていくそれを眺める。ブロックすればいいのか、と考えるまでに少し時間を要して、女のアイコンを押しブロックを選択する。途端に連絡は止まる。ひとつの関係性を終わらせるには指先を動かせば事足りる。それがいいことなのか、悪いことなのか分からない。ポケットにスマホをつっこんで、ランニング用シューズに玄関で足を入れ、そのまま部屋を出る。オートロックのドアは背後でカコンという音と共に施錠される。スッキリした音で、以降何も鳴らない。わたしはしばらく佇み、正面の知らぬ人の住むであろう部屋のドアを見つめる。ここから誰か出てきてわたしと正面から向かい合った時、相手には恐怖が芽生えるのだろう。しかし現実で生きている中で人と向き合う瞬間というものは、いつだって突然で、それなりの恐怖と共にある。

     改札前にいたショウタのもとへ駆けていって、ごめん遅れたと言った。そしたらショウタはわしゃわしゃ頭を撫でてきて、この瞬間を待ってたんだと言わんばかりに表情がほぐれる。この顔に何回もやられてきた。目の前の景色とかそこから湧き出る感情とか、それに引っ張られに引っ張られている現状。理性的に関係性を処理してきた大学生までの自分は何だったんだろうと思うようになる。自分は女性も男性も好きだし、そこに煩わしさなんて感じないはずだった。大学生まで、というかさっきの女との関係まで、わたしは人間を属性のみで割り切って処理してきた。だから生きてこられた。ショウタは違う。彼が女性だったとしても、外国人だったとしても、人間じゃなくて、地球外生命体だったとしても、わたしはそれらの属性だけで彼を処理する事ができない。ショウタが笑い、撫でてくれて、わたしの渡したものに喜び、手を握り返してくれたり、そういった経験の集積だけがわたしにとっての全てであり、理性的な判断ができなくなる。理性的、というのが正しいかも分からない。人間が結べる関係はすべて等しくくだらないと割り切れていたはずなのに、今日も他の何もかもを投げうって、ショウタと過ごす日にのみ正解を見出そうとする。「なんで仕事早巻きで終わらせられる日に呼ばないの」とか言うこともできるな、と頭の片隅で考えながらショウタに抱き着く。顔ひとつぶん大きな彼の顔が、わたしの頭頂部に載るのが分かる。
    「ごめんね、ほったらかしにしちゃってた」
     彼は謝る時、言い訳をしない。
    「ううん、ちょっと歩きたい。いい?」
    「もちろん」
    「ミニストップのある通りの方」
    「うん、おっけい」
     わたしたちは歩道橋にのぼってまだまだ車通りの多い道路をふたり見下ろした。彼の方を向いた瞬間に唇へやわらかく何かがぶつかってきて、視界は暗く、そのうえで再度きらきらと街の明かりが視界の中で混ざる。暗い中でも少し疲れが見えるショウタの顔に、
    「最近忙しいんでしょ」
    「もう今の会社6年目だし、それなりに頼まれること増えてきてさ」
     そう言ってわしゃわしゃ自分の後頭部を撫でる様は器用過ぎない彼の人柄を表しているようだった。会社でこんな表情や仕草をするのだろうか。
    「ショウタ、仕事できそうだもん」
    「え、そうなの、そう見える?」
     わたしは思い出し笑いをしながら、
    「居酒屋で、ちょっと仕事していいかって聞いてきて、パソコン触ってるの見たとき、かっこいいなって思ったよ」
    「笑ってるじゃん」
    「だってちょっと仕事って言ったのに、わたしが2杯飲むくらいまでずっとカタカタしてたから」
    「ごめんって、何回でも謝りたいわ、それ」
     いいよ、と言って彼の手を引き歩道橋のうえを歩き出すが、彼から顔を背けて正面を見据えた瞬間にさっきまでの笑いは消えて、突然自殺したくなる。こうやって毎瞬毎瞬ショウタと笑ったり気持ちよくなったりすることで、わたしは生き永らえている。誤魔化しながら生きている。それはあまりに不安定なことだと感じた瞬間、自身に生存していく力などあるのだろうかと疑い、やけになって希死念慮が出る。もう一度振り返る。ショウタはその瞬間にわたしの横まで追いついてきて、つないだ手を二の腕に絡ませるよう導いてくる。わたしはおそらく今晩生きながらえる。ショウタと会ってから、わたしは生命力が弱まった気がする。しかしショウタがいなくなったら、世界はあまりにつまらなくなる。きっと人は生命力を自分の中で蓄えることなんかできなくて、何か外部に注ぎ込み弱り続けることが本質であったり行く末だったりするのかもしれない。

    「なんで、って聞かれるの、ちょっと嫌じゃない?」
     全裸にシャツを羽織ったショウタにそう聞かれ、わたしは掛け布団をくしゃりと引き寄せながらドキッとする。何か気に障るようなことを言っただろうか。何か彼に重荷をかけただろうか。腹の奥には彼のかけた重みがジンジンと痺れるように残っている。
    「え、わたしが言った?」
    「いや全然そうじゃなくて、俺が言ったんだけどさ。なんでって聞いている時にシズちゃんがどう反応するかって部分が結構好きだから、答えを求めるってよりは、その反応が見たくて聞いちゃってる節もあるんだろうなって思って、単純にシズちゃんが困っているならやめようかなと思ったんだけど」
     彼はどうして、言ってしまえばセフレでしかないわたしの気分にそこまで気を遣ってくれるのだろう。そう思うと同時に、テキトウな関係をこれまで幾度となく経験しつつも決して相手の眼前で雑な振る舞いなど見せてこなかったのだろうなと感じさせるから、わたしはショウタのことが好きになったのだと思う。
    「嫌じゃないよ。なんていうか」
     わたしは沈黙した後、立ち上がってキッチンの方へ行く。帰り道で買ったミネラルウォーターが2本並んでいる。ひとつを手に取って、ショウタのところへ戻りながらごくごく飲んだ。
    「なんていうか?」
    「好きだよ、聞いてくれるの好き。嫌だなって思うようなこと、されたことないよ」
     そう言いながら膝をベッドにつけて這い、シャツの襟あたりからのぞく首筋に吸いつく。唇でハフハフと噛みつつ彼の香水の匂いをかいだ。少しつけすぎかと思うほど濃い匂いはきっと汗が混じったからで季節の移り変わりを感じつつ、舌もゆっくり這わせていく。するとショウタが頭を柔らかく掴むように撫で、そのまま押し倒してきた。きっと首元を舐められるのは好きじゃないのだ。ショウタにも拒絶はある。いくら軟らかく生きていても、ショウタが拒絶したいことは確実に存在する。浮気相手という自分の立ち位置がそれに抵触しないことだけ必死に望みながら、それでも興奮はスムーズにわたしの脳内を浸食していった。
     そのままセックスをして眠った。ふたりで起きたのは朝の6時くらいで、あわてたわたしはショウタに「仕事は?」と聞く。
    「今日は午後からにしたんだ。シズちゃんと朝ご飯食べるくらいはしたくて、シャワーとか浴びてきてもいいよ」
    「一緒に浴びる」
     わたしがそう言うと、彼は優しく笑って背中をぽんぽん叩いた。行っておいで、と言われる。わたしはそこで絶望的な彼との距離感を感じる。気を遣って言ってくれている。きっとふたりで浴びたら午前の時間がグダグダになってふたり慌てることになる。そこまで見越して言ってくれている。だがわたしはありえない被害的な想像をひたすらに膨らませながら、彼の手の温度を背中に感じていた。うん、わかった。わたしは立ち上がる。彼の顔を見られなかった。シャワールームに向かいながら、彼がどんな目線でわたしを見ているのか気になり少し振り返る。すると彼は既に窓の方を見ていた。ボクサーパンツのうえからスラックスを履いているところだった。

     ふたりで寿司屋に行き、早めの昼をとろうとしているサラリーマンたちに混ざって、2貫ずつ載った寿司を皿ごとにたいらげていく。ショウタは寿司の量もほどほどに茶碗蒸しとあおさ汁を頼んで、あとはアナゴやハマチを頬張るわたしを横から見つめていた。
    「食べてるところ見られるの、恥ずかしいから」
    「それ前から言うよね、大丈夫だよ可愛いよ」
     ぜったい嘘だ、と思った。わたしは綺麗に食べ物を食べる事ができない。お腹が空いている時は特に、ひたすら皿の上にあるものを口にかき込んでいく中で、口から食べかすがこぼれたりする。これまで付き合った男女共に、それに対していい顔はしなかった。わたしはその経験の積み重なりから、自身が何か食べる姿をひらすら醜いと思っている。だからきっとショウタも、と思ったところで、自身がショウタをこれまでの人間と同列につまらなく切り捨てようとしているのではと疑う。絶対に切り離したくない関係性のはずなのに、どうせ、と思う自分がいる。わたしにとっての脅威は社会でも、あの女でもなくて、そしてショウタの彼女でもなくて、自分が何かへ重く感情を載せている状態を鳥瞰の視点からつまらなそうに見下す自分自身かもしれない。きっとそれはショウタと出会うまでの人生で、わたしが知らぬ間に育ててきたものだ。
     あんまり見ないでと言いながら、わたしはまたショウタの前でしか出さない口調で、彼の目の前に手のひらをかざす。目だけ隠れた彼は口もとのみ愉快そうに歪ませている。微笑んでいるのかもしれない。「なんで」という言葉に疑問を覚えた彼を思い出す。わたしはショウタからいくら「なんで」と言われても、きっと全く暴力的だと感じない。それは暴力には違いないのかもしれない。でも「暴力」という括りに内包されるものは実に多種多様で、わたしはきっとその中で狭からず多くの要素を必要なものとして求めている。ショウタに惹かれる理由もそこからくる。
     じゃあ、ショウタはあなたの性癖にマッチした暴力装置でかけがえのない大事な存在かっていったらそういうわけでもないよね。わたしはショウタの目を隠しながら、自身の斜め後ろに立つわたし・・・からの揚げ足取りに小さく舌打ちをした。



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