
《短編》Tell me why. (上)
ねぇやだ、やだよ、いいじゃん。別にセックスがどうとかじゃなくて、シズカと一緒にいたいよ。最初だってそういうの目的じゃなかったしわたしはシズカの考えてることとか信念とかそういうものに惹かれてたの、それでいいってそれが嬉しいって言ってくれたじゃん。なんで、わたしの何がいけなかったの、わたしがずぅっと一緒にいたいとか思えたの初めてで、そんなこと知らないって言われるかもなって思ったけどでもずっとシズカはそれを聞いてありがとう嬉しいそうしよそうしよって言ってくれてたじゃん。なんで、セックスがよくなかった? あの男がいいの? そうなの? どうして、どうして、どうして。
叫喚の声がする。何も言わずにローファーを履いて玄関からドアを開けた時、足元にガンって、何やら金属製の重いものが飛んでくる。見るとフライパンだった。わたしはこれを使ってこの女に何回も炒め物を出してあげた。この女はそのフライパンをこの部屋での生活で唯一、凶器としてのみ使って見せたのだ。わたしの中で女の惨めさは増幅されていった。ねぇ、ねぇってば、ねぇ、大声で叫び続けていることだけ認識した。背中に耳がついているみたいだ。わたしはここ数日、この女の声を背中で聞いていた気がする。この女といる時、わたしは背中に耳をつけなければならないし、うなじに目をつけなきゃいけないし、指先に謙虚さとか遠慮を宿らせないといけない。そういう感覚器官が望まないままチグハグになっていくような状態が嫌だったのかもしれない。しかしもう分からない。わたしはショウタのところへ行く。わたしの身体はいまそのためだけに存在し、動いていく。メンズのハードシェルリュックを肩に深く食い込ませながら、別れの言葉も告げずさっさとドアを抜け外に出た。扉を閉じる音はどかぁんと何故かいつもより大きくなった。その音のバカな大きさに思わず笑う。笑いの直後に、もう一度どかぁんと音が鳴る。おそらくドアに何かがぶつかった音だ。女がまた何か投げたのだろう。ヒステリーで物を投げがちな女だった。わたしに向かってではない。何か物に向かって別の物を投げるのだ。ガラス製のティーポットが目の前で粉々になった時、わたしは膝頭にチクチクと痛みを感じながら、黙って女を抱きしめた。そんな記憶がある。わたしは義務のように彼女を抱きしめ、救護のように彼女のマンコを撫でたり舐めたりして、おもちゃの扱いが下手くそな彼女の頭に気を遣って手のひらを這わせたりもしてきた。そんな記憶たちもある。ショウタに会いたい。音はそれ以降せず、わたしはネクタイを締めると、ドアから離れ、非常階段を駆け降りてアスファルトの一本道に出た。上から女が何か落としてくるかもしれない。わたしを殺そうとするかもしれない。それならそれでいいようにも思う。ショウタには確実に会いたいのだけれど、どこかそれを他人事として見て、今ここにいる自分があの女に殺されても何かが成立するように思えた。成立、とは何か。わたしの中では、わたしの前では何も成り立たない。何も納得した形に落ち着いたことがない。結局わたしの頭上に何かが落ちてくることはなく、五体満足安全に最寄りのマルエツの横を通って、駅が見えるところまで歩いてくることができている。
なんで、なんでとあの女は繰り返した。なんで、とはあまりに暴力的な疑問詞だなと考える。なんで、という問いは大抵明確な答えを返させてくれない。それは疑問ではなく、感情を込めた拳のようなもの。拳、そうだ。わたしはショウタと呪術廻戦が見たい。わたしもショウタも、まだ禪院家壊滅の回を見ていない。ジンイチが拳をドカドカやるところ。あそこを見たくてわたしは楽しみにしているの。そう言ったらショウタは、変なのと笑ってわたしを更に強く抱きしめてくれた。大事、大事、大事。ショウタは言い、わたしも呼応する。幼児のようにお互い、大事大事大事、と繰り返すあのベッドの上での時間が好きだ。わたしに信念なんかない。
ショウタは部屋にいなかった。わたしは彼にLINEを何通か送るが、特に返事はない。今日は部屋に来ていいと約束をしていたはずだ。合鍵はその都度わたしに貸してくれるスタイルでまだ預けられてはいないけど、でも日時を指定して鍵を渡してくれたということは、確実にこの時間に来ていいという保証でもある。わたしはたまらず彼に電話をかけようとするが、その指が止まる。重い。そう、電話は重い。わたしの中の警戒心がピリリと働いて、そのままLINEの画面を閉じる。電気をつけないままソファに座り、外の景色を見て待つことにした。神楽坂にあるこのマンションはショウタが体を休めるために借りている場所で、仕事の忙しい彼は大抵ここに帰ってくる。キッチン用品はほとんど何もなくて、ふたりでお腹が空いたら外に食べに出るかてきとうにデリバリーを頼むようにしている。近くにタコライスの美味しいお店があり、ショウタはわたしがご飯についてあまり要望を出さない時、何も言わずにそこで二人前を注文してくれる。女の部屋を出たのが昼過ぎだったが、何故かすでに外は薄暗くなっていた。ぐぅとお腹が鳴り、わたしはたまらずそのタコライスを注文しようとする。しかしショウタはいつ帰ってくるんだろう。彼が帰ってくるのなら二人分頼んでおいた方がいいだろうか。しかし帰ってこなかったとして、二人分は食べられないし、片方を冷蔵庫に入れるにしてもラップがないし、ラップなんて買いに行けばいいかと思うがここは絶妙にコンビニが遠い住宅地で、わたしは既に外へ出るまでがだいぶ億劫になっている。ここでゆっくり彼を待ちたい。しかし来なかったら、とまたぐるぐる思考が回り、そもそもわたしがショウタの帰りを疑っていることに気付いた。いや、疑っているのではない。彼は本来、帰ってこないはずなのだ。ここはショウタが仕事の都合でやむなく借りている部屋で、彼の帰りを待っている彼女の部屋は別にある。大崎にオフィスがある外資系の医療機器メーカーで広報担当をしている三十路の女。いやわたしだって27だから大して歳は変わらないのだけれど、そんなことはどうでもよくて、とにかくショウタが彼女、と世間一般に説明している存在は別にいて、そこに帰っている可能性もある。しかしショウタはわたしに今日、部屋へ来ていいと言ってくれた。なんならずっといていい、くらいの温度は感じた。ずっといたいな、一緒にご飯作ったり、映画とかお笑い見たりしたい、アニメも、そう、呪術廻戦を一緒に。その話だってしたはずだ。茫然としながら窓の外がどんどん暗くなっていくのを眺め、わたしはいつの間にか涙を流していた。電話をかけたい。ショウタに電話をかけたい。忙しいところごめんね、会いたい、わたしもうお部屋いるよ、ご飯いる? そう、彼は忙しいのだ。仕事を終えたらきっとここに帰ってくる。そう思えば思うほど涙は止まらなくて、身体は重くなっていく。わたしはそのままソファに倒れ込み、スマホを見た。通知こそないがLINEのアイコンの左上には90という数字が表示され、わたしが見ている中、ぽつりぽつりとその数は重なっていく。95に達したあたりでLINEを開き、あの女とのトークを長押しして覗いた。帰ってきて、ごめんなさい、わたしからシズカにばっかり求めすぎてたのかもしれない、ちゃんとする、もっとふたりのこととして考えるから。そんなメッセージが縦列に並んでいる。そのどれもが的外れな感じがした。わたしはそのままショウタとのトークまでスライドしてタップする。通話の時間を示すアイコンがふたつほど並び、その上にはだいすきだよ、うんわたしも、とだけ。それより上もスクロールして見る。一緒に江ノ島水族館に行った時の写真が並ぶ。わたしばかりがショウタを撮っていた。クラゲの前でずーっと動かないショウタが可愛かった。わたしはその写真でオナニーしたことがある。不思議だ。寝たまま指を首元から胸へ、ブラ越しに爪先でカリカリと数回触り、すぐ煩わしくなって下着もスーツも脱いで上半身だけ裸になる。乳首の先を指先でトントンと優しく叩くように刺激しつつ、わたしはショウタの映ったあらゆる写真を親指の赴くまま表示させていく。水族館、温泉、ラブホ、居酒屋、公園。どの写真にも笑うか無表情のショウタがうつっている。どうして彼はこんなに魅力的なんだろう。思い出として滲むような美しさを放ったり、質のいい外人ポルノのように欲情させてきたり、彼がうつっている写真はわたしの感情や報酬系、快楽回路を操作する。乳首の刺激だけで身体はよじれ、ソファの柔らかい素材が腿の側面を刺激する。それすらも気持ちよくて、どこにも触れていない体の部分も細かく筋肉が収縮し、自ら快楽を生成していく。わたしは仰向けになり足を伸ばした。スマホを捨て、いつもショウタに下半身をぐちょぐちょされる時の景色にホッとしつつ、体中でわきでてきた気持ちよさを頭の方にじわじわ昇らせていく。これはショウタと寝るようになってから覚えた感覚だ。彼は決してガシマンではないけど、でも優しくはマンコをいじってくれなくて、膣内から外へ向けて文鎮をめり込ませるような、とにかく重い重い快楽をくれる。わたしはそれを思い出しながらも、彼の手つきが決して軽い女を扱う物でなかったことに不思議な悲しさを覚えもしてきて、それならわたしは一定の重さを持った女として彼に向かっていっていいのかな、等ちょっと希望にも似た情欲も後から快楽に合流してくる。マンコは触らない。クリが若干膨らむような感覚があって、それでもわたしは足をピンと伸ばしながら、両手の人差し指と中指で乳首を刺激し続ける。トントン叩いたりガリガリ引っ掻いたりしながら、ショウタの汗ばんだ首元の匂いを思い出す。お願い、お願いショウタ、帰ってきて。わたしはまっすぐ伸びた体がソファに沈むほど重くなっているように感じてくる。わたしは重くなっている。どんどん沈み、いつかこのマンションの床まで沈み込んで、乳首オナニーをしながらまっすぐ伸びた体で、真下の部屋へエントランスまで落ちていく。そしてそこから地下まで潜り、東西線すらも越してマントルまで潜り、マグマの海に落ちた後で乳首のあたりに手の添えられた白骨へ一瞬なった後に溶けて死ぬのかもしれない。いや、溶けるなら一瞬だ。わたしは一瞬で熱に溺れて死ぬ。スマホはいま床の上だ。何も鳴らない。わたしがマントルまで落ちていったら、きっとこのスマホは放置された状態で冷たくなっていき、帰ってきたショウタに拾い上げられるだろう。そしたらわたしの事を気にかけてくれるだろうか。
あんなに大事大事大事大事と言い合ったショウタが、わたしの沈んでいった穴に目もくれず、スマホへまず気がいくと、そんな風に想像している自分。異様だった。わたしはなぜそんなにショウタと距離を感じているんだろう。いや距離どころではない。わたしはショウタと一緒に生きているという実感を全く持てておらず、これから持てる、イメージすら浮かべられていないのだ。それなら、なんで? わたしは、なんでショウタに、会いたいんだろう。なんで、わたしにショウタが必要だと、思うんだろう。あ、あ、い、あ、いく。声をあげる。疑問詞が一瞬固まって、脳がパチパチと線香花火のように弾けたと思ったら、じわっじわっじわっと波が押し寄せてきて、あ、いくいくいったいったから、とひとりで小さく叫びつつ乳首を引っ張り続ける。いつの間にか、なんで? は霧散していた。だんだんと頭が冴えていくのをみとめながら、わたしは自分がひたすら惨めに思えた。