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吾輩は地理学徒なり8|或る元・地理学徒の凱旋

    青春はいつか終わる。四畳半の王国にて、我らの関係はひっそりと幕を閉じた。

    M嬢は、面接の無断欠席が直接の原因になり、大学卒業後、地元に帰る道を選んだようだ。彼女の人生設計を聞きしことこそ無けれど、彼女こそ学究の道に進むものと信じて疑わなかった。それ故それについて、我は大いなる責任と負い目を彼女に覚ゆることになったが、彼女は決して取り合わなかった。

    また、我は思うところありて、第一志望であった国立の地理に関する機関からの丁寧なる勧誘を苟も足蹴にし、国際協力の隊員として単身アフリカに飛ぶ道を選んだ。荒野の一匹狼は、赤い大地に立つ雄獅子へと雄々しい進化を遂げたのである。

    我は地理の学徒にして伊能先生の意志を継ぐ者なり。観測すべき物あらば地の果てまで向かうこと吝かならず。何処までも広がる彼の地の地平を睨めつけて、ひとり決意を新たにしたのである。

    任期中、Mからの連絡が幾度もあったが異国での激務故、碌に返信はしなかった。また、KとSの結婚式の招待状が届いたが、出席は叶わなかった。任期が迫る中、帰国のタイミングと重なり、結果的に行けなかったからである。いや、ただそこに立ち会うことをしなかっただけだ。

    ◇

    我はアフリカにおける幾年かの任期を恙なく終え、最短距離ではない空路を明確な理由なきまま選び、ついに帰国せんと欲し、つい今し方、空港のタラップに降り立った。上着はつけず、カーキ色のポロシャツの一番上のボタンを外し、右手に缶コーラ、左手には白いキャリーバッグ、目には黒いレイバン。寧ろ揃いの法被でも着てきた方がよかったやも知れぬ。

    然れど、我が如何に趣向を凝らすとも、そこに迎えは誰もおらぬ。

    あたりを見渡せば、感極まりて互いの名前を幾度も呼びつつ駆け寄るカップルが、ひと組、ふた組、み組、その後は面倒になりて数うるに能わず。

    思えば 世の中は斯くも数多の美しい名前に溢れておるのに、
    太宰は我にそのただひとつの感情の名称を与えてはくれぬ。
    森見はその感情をただ茶化すのみ。
    伊能先生の道具ではその感情の全容は測れぬ。

    観測しえぬ物は名付けえぬ。名も無き物は観測しえぬ。
    故に我にその感情を感知すること能わざりき。

    I have returned.

    ◇

    いや I had to return.

    もう分かっているんだ。地球の裏側で、赤い地平から昇る太陽と、地平に沈む太陽を交互に幾多も見て、そして気づいた。自分の感情には、自分が責任を持って名前をつけて、理解しなければならないことを。

    思えば、それはまさしくSへの周回遅れの思慕であった。

    そして今、僕は土地形状を計測したり、新しい土地利用を模索したりと全国津々浦々を飛び回っている。今日も帯広出張から帰ってきたばかりで、八華亭のホワイトチョコレートを持ち帰りつつ、出張のついでに実家に寄ることにした。

    実家には「K(旧姓S)」というはがきが届いていた。かつて、茶色くて小さくて愛らしい、そしてその身体に大きな翳を抱えていたあの子犬は、今や大人びた純白のポメラニアン、いや、一人の幸せな女性(中村絵)へと変貌していた。

    隣に立つ黒の衣装のKは相変わらずだ。真面目で精悍な風貌、漆黒の身体と白い胸毛で直立不動のKは、まるで本物のドーベルマンのようだ。積年の思いが叶ったのだから、もう少し嬉しそうな顔をすればいいのに。僕は目を細めた。

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