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吾輩は地理学徒なり7|約7平米ノ恋ノ結末

    観測者は舞台に立たない。これこそ観測者の理念にして、我が矜持である。

    台風騒動の果て、Kが探していた告白の花は、最早全て散り果てておった。そして、朝、寝袋に包まりしまま、なかなか顕現しない寝ぼすけなアマテラス、俗名:寝ぐせ頭のポメは、信じ難きことに全身筋肉痛を訴えた。雪渓の上を子犬のように動き回っていたことが、スポーツ少女の身体を斯様にも蝕むとは、げに山侮りがたし。

    故に、我々は天幕の残骸を集め、彼女の身体を気遣い、荷物を分け合い(スキレット群は見あたらなかった)、時に両の肩を抱きかかえながら、山頂を踏むことなく、白馬の地を後にしたのである。

    即ち、KのSへの思いは潰えしと思えど、暫し後、両名の関係が新たな局面に到達したると聞いた。その子細は知らぬ。定めし花の構造でも引き合いに出し合いながら、愛を紡いだのであろう。ポメはどう答えたのであろう。もし我ならば地層構造に乗せた壮大な賛辞を贈り得るものを、げふん、いや失敬。それこそ我のあずかり知るところではない。そしてそれをKに暴露させしむ趣味もない。たとえ知り得た事実だとして、賢しらに披露するも本意ではない。

    何故なら我は孤高の文士。地理学と山岳地形に青春を捧げる男なり。

    ◇

    秋の終わり、登山の計画は不思議と続けて流れた。その後は、卒業迫りし時期故、また、もとより学部を隔つ物理的な距離故に、四名が集う機会はほとんどなくなった。

    故に、それは唐突だった。茜色の空がキャンパスに残る頃、我は、ポメことS嬢と相まみえた。Kと懇ろになりし事実は我の耳に入って久しい。然れどもその関係がどのように始まったか、誰も知らぬということになっておった。

    Sはぽつりぽつりと語りはじめた。高校時代の怪我のこと。それで陸上競技を諦めたこと。この春から京都の実業団でトレーナーとして働きはじめること(諸君、京都はKの進学先であるぞ)。白馬岳の夜のこと──。

    そして、「翌日の筋肉痛は嘘だった」とSは言った。

    実は、膝の痛みを隠すための方便であったと──。

    それは巨大な断層であった。即ちこの乙女、天然に非ず。

    然れども、現実は斯くも冷徹で、都合良いメタ展開や感情がポップアップ表現によって開示される現象は観測されないのである。我は伊能先生の意志を継ぐ者なれど、生憎そのような異能は持ち合わせておらぬ。

    よって「にゅふふふー」といういと可愛げな鳴き声が、本人的には「にひひひ」というニヒルな笑いであり、古傷の痛みを忘れる悲しき自己暗示だ……など、あるいは、時折観測される芋虫のような動きが左膝を庇う行為である……など、……彼女が抱く翳を共有することは、……叶わざりき。

    ……能わざりき。

    ◇

    「ごめんね」

    そう、ぽつりとSは言った。それから、我の顔を下から覗き込むようにしながら訊ねてきた。黒目の多き眼は大きく開かれ、汀線まで湛えた水に揺らめく黒目が何かの拍子に落下せぬかと、我は密かに心を痛めていた。

    「おめでとうって言ってくれる?」

    「よかったな」

    我は茜色の空を見上げた。なぜかは知らぬが、素直に「おめでとう」と言えぬ。

    我の言葉をSがどのような表情で聞いておったかは、我は知らぬ。

    ◇

    その後、何処をどのように歩いたのであろう。気が付けば我は我が四畳半に伏しておった。どれほど時間が過ぎたかは分からぬ。ふと顔を上げると、傍らにはMが静かに座っておった。相変わらずの隠密行動である。

    四人揃って会わなくなったこと即ち、個別に会わなくなったわけではない。これは叙述トリックなるぞ。

    中でも、Mとの交流は断続的に続いておる。本日のように、知らぬ間に安下宿に転がり込んでいることも多い。度重なりし実験の待ち時間、研究棟に近いからといって、我が城を休憩施設のひとつとでも思うておるのだろう。それは時に早朝から深夜に至り、滞在時間や頻度は予測不能なれど、それ故に我の毎朝の格調高き珈琲文化は続いておる、主にMの手によって。

    然れど本日は、いつも着ておる洗いざらしの白衣に形ばかり袖を通していると雖も、両の袖から漆黒の一張羅が覗いていた。Mよ、そのスーツにその白衣では如何にも似合わぬ出で立ちであると思うぞ。

    「大学院の最終面接ではなかったのか」

    「そうだったかしらね」

    だって、あなた泣いているわよ、とMはさも当然のように言った。

    そうして、いかにも合理主義者らしく、脱水症状が出るからとミネラルウォーターのペットボトルと、何か食べた方がいいからと名古屋銘菓・なこやんを静かに手渡してくる。Mに指摘されて、我ははじめて、我が落涙しているという純然たる事実に気がついた。

    「面接には行かなくてよいのか?」

    Mの面接の行方が気になった。Mは返事をしなかった。黙ったまま四畳半に留まりしMの前で、我はミネラルウォーターとなこやんを交互に口に入れながら、なぜだか分からぬが、ひたすら嗚咽した。

    我の監護下にありしポメは、Kとともに舞台を降壇す。それは最早ポメを間近に観測しえぬことを意味するが、もとより我は観測者。観測者は観測し得ぬこと、及び観測対象外の事象には興味がない。──はずだった。

    ◇

    只それだけのことだ。それだけのことだというに、なれば何故斯様に目元が霞むというのだ。我々の中で何かが終わった。然れど、何かがはじまったか否かは我には分からぬ。

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