メインコンテンツへスキップ
見出し画像

吾輩は地理学徒なり6|太陽と乙女

    嵐の夜、我はイノセンスが罪なのか、エロースこそが罪なのかを問い続けた。

    太宰語りの長い一夜は、実に静穏に明けた。我は静かに戦場を抜け出した。

    雨は去り、雲が裂け、始原の光が白馬の稜線を照らしはじめる。国内でも一級の高山帯故、清清しき雀の声などはせぬ。鳴くは唯、岩雲雀か萱潜り、そして我が心なり。

    然れども、生きておる。無事、生きておる。ただひたすらに、生きておる。

    ポメを守る騎士然とした振る舞い故に、結果として一睡も叶わず、目の下の隈も痛々しい。我が何と闘い、何を守り、何を捨てたか、それを問うは無粋である。シュトラウス氏のサロメにも等しき夜半なれど、我、良くぞ為し得たり。

    夜半の野分が去りし地平は、何処までも澄み、朝の光はやけに黄色く輝いておった。しかし、なぜであろう、一晩飲み明かして酒精を残した朝も、斯様に清清しきアルプスの朝も、等しく太陽が眩しいのは。

    雄大な白馬岳の地形を眺めつつ、偏向地形より二重稜線の方が遥かに尊かりき、などと起き抜けに思うは誠、地理学徒の鑑なり。今は、無性にアルペン交響曲が聴きたい。

    ◇

    いつの間にやら傍らにM嬢がヌッと立つ。その相変わらずの隠密行動に、おっと声を上げそうになる。

    ここに、冒頭のMの形容にエラータを入れる機会を、我に与え給え。

    彼女は、波打ち際で愛らしく尾を振るレトリバー如きでは形容しきれぬ。彼女は猫である。オッドアイの黒猫である。気まぐれに現れて足元に纏わり付き、いつの間にか去ってく。その言動は捉えどころがないが、己の射程距離を冷静に見極め、淡々と獲物を狙う、美しくしなやかな肉食獣である。

    その範囲への侵入を一度許せば、一撃必殺──確実に狩られる。

    おそろいのチタンのカップに、淹れ立てのコーヒーを注ぎながら、Mが名古屋銘菓・なこやんをそっと差し出してくる。だばだ~というメタな効果音が、どこからともなく聞こえてくる。あの曲の真価は、低音弦のピッチカートにこそ宿ると我は思う。

    「相変わらず、ずいぶんと甘党であるな」

    隣の岩に腰を下ろしたMに声を掛ける。いや岩ではない、玄武岩の岩塊なり。

    Mは、なぜか少しはにかんだような顔を見せてから、

    「地元のね、お茶請けなの。今のところでは、あまり売っていないんだけれども。ちょっと、素朴なのに、ふわっとしてて、皮を剥いたら、とても、甘い、まるで、あなた──」

    Mの声は、どんどん切れ切れになり、さらには途中から聞き取れなくなる程、急速にディミヌエンドしていった。これから流行りはじめるであろう、難聴系主人公の先駆けを気取りしわけではないぞ。聞こえぬは我が過失ではない。

    一口頬張れば、名古屋銘菓のなんともいえない甘さが、口腔にふわりと広がる。元祖なこやん、生なこやん、なこにゃん(クロ)、なこにゃん(シロ)などのバリエーションがあるらしいのだが、Mはそれを話すときになぜか妙に嬉しそうで、しかもなぜそうも早口であるか。

    「寝苦しそうだったわね」

    然り。昨晩の如くざわめく夜は、そうそう体験できるものではないぞ。そのうえ、半畳に詰め込まれし我は、耳元で響くポメの鳴き声にも耐えねばならなかったのだ。

    Mはいっそう遠くを見つめるような顔で、ふっと小さく笑った。その薄く儚き笑顔は、なぜか我が記憶に強く刻まれている。我はそれをごまかすように、

    「夜明けのコーヒーは、うまいな」

    と、ただそう言った。

    「あの子とだったらよかったわね」

    掛け布団争奪戦の翌朝も、我が四畳半のちゃぶ台には、違いが分かるコーヒーがあった。それは何も特別に非ず。偶発的不随意身体部分接触的緊急事態の朝など、雑巾と納豆にまみれた平々凡々な日常に過ぎぬ。故に我、山の如く動かじ。

    然らばMよ、その偏向地形の如き一方的な物事の峻別のしようは、蓋し研究者としての判断を誤らせるのではあるまいか。

    ◇

    我の長々とした台詞回しに、M嬢は心の底から晴れ晴れとした表情のまま、長いため息をつくという、いかにも器用な動作をみせた後、声にならない声でぽつりと呟いた。

    「観察者は舞台に立てない。二重稜線は何処まで行っても平行線」

    M系言語に翻訳されし我が分野の専門用語は、何処か他人行儀な言葉のように、まるで定義が曖昧であった。我はそれに返す言葉を持たず、ただひとくち、冷めたコーヒーを啜る。朝の苦みが、なこやんの甘さを未練がましく引き戻してくる。

    嵐の雨を湛えて足元に転がるスキレット。いつしか風が止み、湿った空気に、かすかに残る誰かの柔軟剤の香り。いや違う──これはポメの残した温度と残り香か。この空気、この余韻、それは我になんとも言えぬ感情を残した。

    我、双耳峰の片峰に独り立ちたり。片峰の孤高さは、他方を慕う想いに他ならず。
    然れども、双耳峰は寄り添う二つの峰に非ず。彼の頂等は隣接しつつも合わさることはなし。

    #創作大賞2026 #恋愛小説部門 #長編小説 #創作 #文学的実験 #語り #叙述トリック #青春 #山 #地理学 #理系文学 #わたくさす節 #観測者


    前へ|目次|先へ



    あなたへのおすすめ