
吾輩は地理学徒なり5|奔れカオス
乙女の独白は、雨音と風にかき消され、長い夜は更けていったのでございます。
S嬢は、我が隣の半畳で寝袋にくるまり、ただ無邪気に寝息を立てている。故に、その小さき体躯の中に、ポメは激怒した。必ず、かの羊質虎皮のWに、乙女のパンチを浴びせんと決意した。──などという、空想全開の独白劇場が繰り広げられている旨、我が知る由もない。
ちなみに「狼」とは吾輩では断じてないぞ。Sのイノセンスに惑わされ、幾度となく妄想を巡らせたことはもはや否定せぬ。だが、タナトースの夜、我はポメのイノセンスを巡って、エロースと戦う孤独な戦士であった。
我ら避難小屋の建物に守られしも、我が心中には暴風が吹き荒れておる。隣から仄かに香る甘美なインセンスに耐えかね、身体を横にずらせば、Kは迷惑そうに身体をよじるのみ。もとよりM嬢の気配はなし。動物観察で培った隠匿スキルを駆使して、彼女はもはや景観の一部と化していた。……生物工学より忍者村の方が向いていそうだが、いずれにせよ、その助けは期待できぬ。
孤独な海の中、我が思考はぐるぐる渦を巻いて回りおる。我、狭隘な空間にて友らに囲まれしというに、などか斯くも孤独なりき。
◇
過日も、我が格安アパートにて乱痴気騒ぎの後、まるでスイッチが切れたかの如く眠りこけたS嬢を介抱したのは我ではなかったか。我に飼い主の職務を押しつけ、M嬢は実験のため、Kは何とは知らぬが帰路につき、結局、掛け布団一枚をめぐって組んずほぐれつの闘いを繰り広げた末に、痛み分けの如く朝までSと同衾したではないか。
ポメは翌朝、耳元で一体何と囁いたと思われる?
「ねえ、どうきんってぞうきんに似てない?」
古今東西、恋愛小説では皆一様に雀のひとつでも清々しく鳴き響いていよう朝に、斯くも不似合いな睦言が存在しようか。いや、ない。断じてない。それ即ち、あの一晩がいかに饐えた臭いに満ちていたかを如実に物語っておる。
インセンスとは何ぞや?それは、ロマンスが裸足でスタートダッシュをかますような腐臭に他ならぬ。あるいは、水戸納豆の方が遥かにマシであると言えるほどのナンセンス(我、隣国に対する悪意はない。当該部分を「くさや」ないしは燭台大蒟蒻で置換するもよし。しかし語呂が悪かろう。即ち文学的修辞であると心得よ)。
こうした偶発的不随意身体部分接触的緊急事態も、過日や今が初めてではない。そう、Sは愛すべきポメラニアン。故にそこには、無邪気さしかあり得ない。
◇
はずだ。はずなのだ。
言い忘れておったが、我は極度な近視故、星空だろうが天井の染みだろうが何も見えぬ。然れど近視を侮ってはならぬ。我固有の領土は僅か半畳、近ければぼかし入りで見えるのである。
我即ち地理学徒なり。地理学とは、目前の景観を須く愛で、地形を語る総合芸術に他ならぬ。我が学究の志に一点の曇りもないが、眼前に迫るの寝袋の膨らみは、まるでポメラニアンが地形化したような──「ポメポメ山地」と呼ぶべき慎ましやかな連峰なり。それを執拗に観察したとて、純然たる学術的興味に他ならぬ。
たとえば、滑らかき山肌に軽量化された薄布が貼りつき、その稜線の無邪気な起伏を無遠慮に浮かび上がらせていたとしよう。その小さな山塊は、木々を払った稜線の如し。それは準平原の如く凹凸に乏しかれど、山高きが故に貴からず。険しき山も緩き山も貴賤なし。むしろそれもよい。──否。これは地形学である。そこに感情を挟む余地など、有るべからず。
故にその山、男子禁制なり。神の領域にて立ち入ること能わず。否、見ること能わず。
ならば目を閉じよと?貴殿は阿呆か。地形の尊厳を前にしてシャッターを切らば、最後の地形が網膜というフィルムに鮮明に焼き付くであろう。故に、目を逸らすこと能わず。
よし、読者諸氏の思惑を当てて進ぜよう。ポメラニアン即ち愛玩動物的な我の認識を改竄し、懸想の情を引き出させしめ、かつ、Kに先手を打って出し抜けとのずる賢い幇助を与えるのであろう。故に親友ポジがKあらんと憶測する輩は真の阿呆なり。
そのような誘惑には堕ちぬ。我は誇り高き地理学と太宰と森見の使徒。
かような真似はひとり漱石で十分なり。
我は狼に非ず。さりとて王子になること能わず。暗闇に向かい、満天の星空に縋るように、いや、細かなシチュエーションなど、今さら些事である。
真に大切なことを、これより記す。
天井、いや天上の神に問う、
彼女のイノセンスは罪なりや?
それともポメに抱きしこのエロースこそが真の罪なりや?
──その刹那。虚無の化身であったはずのM嬢が、突如として物理法則を伴って起動した。寝返りを打った彼女の鋭き肘、あるいは前腕が、重力加速度を伴って我がみぞおちにめり込んだのである。
我に恨みでもあるのか?あるいは彼女の忍者村スキルとは、敵を油断させるための暗殺術であったのか。そもそも、寝相とは言え、如何にも遠隔攻撃が過ぎぬか。
そんなすべての問いは、無様な吐息とともに夜の闇に消えていった。
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