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吾輩は地理学徒なり4|夜は長いし語るは乙女

    突然の厄災にも、眠らぬからこその王子である。我、翼になる所存。

    どこからともなく聞こえてきた「スタート」という、メタで唐突な指示。

    一体何でありましょう?でも、わたくしはその有無も言わせぬ圧力に、ついつい語りはじめていました。

    ◇

    「──あの、Sでございます。北海道の出身です。好きな食べ物は八華亭のチョコレートです。包み紙に印刷されたお花がとてもかわいらしく、子供の頃からお父様にねだってはよく買って頂いておりました。味は断然、ホワイトだと思います。こうして告げるのも、ちょっと勇気が要りますのですが、モカ味は苦いので苦手です。皆さまには好んでいるように申してしまいましたが、少しだけ背伸びがしたかったのです。ごめんなさい」

    白馬岳という響きはまるで、遥か昔の童話の一ページのように、わたくしの胸を甘くくすぐりました。いつの日にか白馬に乗った王子様が現れて、わたしを夢の世界へ連れ去ってくださる──そんな幸せな物語を、わたくしは密かに夢見ておりました。

    ですが、白馬岳の実際は違っておりました。嵐の風は凶暴な狼の遠吠えとなり、雨はまるで天が裂けたかのように襲い掛かり、頼りないテントはバタバタと音を立てるばかりで、白馬の王子様は、どこにもいなかったのでございます。

    ああ、わたくしのスキレットたちはご無事でしょうか。などと、少し心配している自分もおります。

    ◇

    そこで一つため息をつきまして、さらに続けます。

    「暗く、怖ろしく、冷たい夜でございましたが、この小さな避難施設にたどり着き、つかの間の平穏を得ることができました。と、このように、ぼんやり考えておりますと、左膝の古傷がじわじわと痛みはじめまして、……ああ、こうして痛み出すのは、高校総合体育大会の思い出が揺り返しているからでしょう。

    けれど、皆さまと登ることが楽しみで、ほんの少しだけ無理をしてしまいましたのです。それを打ち明けたら、楽しい時間が壊れてしまうかもしれない。そう思うと、つい言葉を飲み込み、笑顔で誤魔化してしまうのです。

    期待されたとき、それが実現できない怖ろしさ、そしてそのときのチームメイトの顔を思い出します。だから、わたし笑っていなければなりません。走ることを喪ったわたしにとって、それが唯ひとつの存在証明なのでございます。……でも心の奥では、少しだけ泣きたい気持ちもあります」

    わたくしは寝袋の中で、いつもの「にひひひ」という回復魔法を自己暗示のように唱えましてから、もぞもぞと膝を抱えて目を閉じました。

    こうすると、少しだけ痛みが和らぎ、不安が小さくなるのです。わたくしはここに居てもいいと思えるのです。

    ◇

    ひときわ大きな風が、ちっぽけな避難施設を大海の小舟のように揺らし、大きな雨粒がバタバタと屋根を震わせます。隣で横になっているWくんのモノローグ?怨嗟?の幻聴すら聞こえはじめました。

    「それと、Wくんはいつもうるさいです。わけがわからない。今もきっと『白馬岳だから白馬なり』とか得意げに言ってるのでしょう? ベタな森見節、ほんとに勘弁してほしい。でも、胸の奥では、少しだけ期待してしまうのです。もし王子様だったら、こう、それらしく振る舞って、夢の中に連れ去ってほしいですのに。もうわけがわからない」

    そう思い至ると同時に、わたくしの内なる鼓動も頓に騒がしくなります。白馬岳は童話の舞台のようで、けれどWくんは、役を真面目にこなしてはくださらない。それが少しだけ、もどかしいのです。

    胸の奥でざわめく鼓動は、台本にない効果音なのでございましょうか。けれど、そのざわめきも、少し心地よく思えてしまうのです。

    そうしてわたくしは呟きました。

    「夜は長いし、
    ──え、『カット』って何でしょうか?Mちゃん、何か聞いてますか?」

    こうして、この暑苦しい物語におけるわたくしの唯一の見せ場は、雨音と風のざわめきにかき消され、長い夜は深く五月蝿く更けていったのでございます。──あら、いけません。台本以外のことも話してしまいました。編集カットしてくださいね。

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