
吾輩は地理学徒なり3|わずか1/2畳の眠れぬ王子
我々の山行ははじまったばかり。楽しくやっておった我々であったが。
頂上宿舎前の天幕場に着くやいなや、S嬢はザックから次々数多の食材と幾多の調理道具を取り出し、山上の供宴を手際よく仕上げた。
ザックの奥底から、何故、事も無げに「太雪渓」の一升瓶や鋳鉄製のスキレットが数多導出され得たか、我には分からぬ。少なくとも物理法則を凌駕しておる。
そして、その重みを背負ってなお、斯くの如く軽やかにアルプスを舞っておったSを見るに、彼女の最終形態はポメラニアンではなく未来の青い狸なのではとさえ思えた。
◇
しかし、平穏の後に暗転ありとはよく言うた。それは、実際に怖ろしいほどに愚かの極みであったのだ。花のきれいな山があるということで、天気予報も見ずに出かけたのが悪かった。思いつきで旅立たば、嵐に遭うは必至。慌てて逃げ込むは夜行貨物か山小屋か。
ただ、弁解の余地あらば、当時、雨雲レーダーとか「てんくら」とか、電波さえあれば天気予報がいつでもどこでも入手できる時代ではなかりき。さりとて、毎日三度のNHK気象通報を聞き、遍く登山者が日本地図に等圧線をマニュアル素描できた時代は、既に過去の遺物なり。即ち気象情報とは、我が信奉しておるアイドルのチケットの如く入手が困難であった。
山の神は我々のような甘えた人間には誠に容赦がない。
斯くして、頂上の少し下あたりにおんぼろの天幕を張った夜、突如南の海上で発生した熱帯低気圧が、たちどころに発達して大型の台風となり、本邦を直撃した。
白馬特有の山稜構造が風速に拍車を掛けておる。稜線を越えて巻き込んだ風が、ごうごうと音をたてて幕営所を襲う。
この天幕はKの所属する理学部に伝わる年代物であった故、唸るような暴風の最中、まるで紙くず同然で、我とK、隣に陣するS嬢とM嬢とともに、もみくちゃになって、山なのに海の藻屑と消え去ろうとせんところ、這うように頂上小屋に逃げ込むことと相成った。
そうして、我々は辛うじて命をつなぐことに成功したのである。
外は暴風雨、死の影すら忍び寄る夜、小型犬、いや明らかに愛玩犬のものとは異なるSの体温と無邪気な寝息の隣で、時折「にゅふふふー」なる、耳元で聞くと鼓膜がふわふわするような囁きを子守歌に、我は静かに眠りについたのだ。
◇
いや、そのようなわけがなかろう。
嵐の山小屋は、風と雨に翻弄されし羊の群れに溢れておる。微かに聞こえるラジオ放送が、台風の大きさを告げておる。山小屋は、大きな感情の渦に呑まれ、その処理に能わず殺気だっておる。それは今朝方の駅の比ではなく、まさに寿司詰め状態であった。
我は、朋友らとその廊下の隅に確保せし空間に縮こまっておった。
何?甘酸っぱい青春と?
幻想と妄想に満ちた戯れ言は厳に控えよ。
真夏の汗と体臭、それは腐臭に過ぎぬ。
それは一周廻って恍惚の香水になる由はない。
ここで過ごすは凄惨であり凄春であるぞ。
斯くの如き空間の中、白馬の王子、即ち我との意図せぬ身体の部分的接触が、万が一にもSの寝顔を損なってはなるまい。
白馬岳だから白馬であるぞ。
しかし、我は、絵本の中の陽キャのように気取った存在にはあらぬ。
無断で寝所に立ち入り、姫の純潔を奪うなど暴挙以外の何物でもないが、それでも王子故に許される所業か?
よいか、そのような廊下の片隅で、シュラフを通して否応なしに伝わる熱を微かに感じながら、我は、まんじりともせず、寝苦しい一夜を注意深く明かしたのである。
眠るは姫で王子は眠らぬ。眠らぬからこそ王子である。
心もち身体をずらしたりなどという自発的な健全行動を、我があえてしたわけがなかろう。我も王子も、思春期真っ只中の健全な男子である。
いわば化身の妄想。いや妄想の化身である。
もうそうとしか言えぬ。
詰まるところ、我、身動きひとつできず、寝袋の中でほぼ硬直状態で固まるのみ。
その姿、J-POPのジャケ絵の如し。冒頭のギターが印象的であろう?
故に我今まさにポメSのために翼になる所存。
然れど断言する。真の厄災は嵐に非ず。
そして、これは突然のラブ・ストーリーに非ず。
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