
吾輩は地理学徒なり9|命名の作法
地球の裏側から帰還した元・地理学徒は、周回遅れの感情にようやく追いついた。
登山者は美しい山の名前に惹かれる、とかの深田は言った。それは、ロマンチックな登山者の性癖である。とある地域の地の果てに「S」という小さくて愛らしい山がある。その言葉の響きは噛みしめるほどに、あとからじわじわ染みてくる。
いや、かつてそういう名前の山があった、というべきか。なぜなら、現在、その山は「K」と呼ばれているらしい。──したがって、「S」という山の名前は存在しない。僕は、地元の要請を聞き、現地で事実を確認したうえで、地形図上の記載を変更し、山名を公的に確定させる業務に携わっている。
「結婚しました」はがきが舞い込んでも、つい旧姓で呼んでしまうような存在が誰にでも一人くらいはいるだろう。昔の名を口にするのは、未練か矜持か。記憶と現在が交錯する山の頂に美学はあるのか。
だから、会いに行くことにした。かつて「S」と呼ばれていたキミに。
◇
スズタケを掻き分け尾根を直登する。ほどなく見えてきた山頂。そこにあったのは、「K」という新山名に「S」という旧山名が慎ましやかに併記された山名標だった。昔の名前は依然としてそこにあった。それはまるで年賀状に旧姓を載せ続けているかのようだった。
キミに会いに来た。けれど、本当は、サヨナラを言いに来たのかもしれない。なんて、強がりの美学で、きれいに終わらせるつもりだったのに。山頂の三角点(点名:S)に、ぽつねんと腰掛ける。ロダンのように悩む。コオロギがその山名標に止まった。失礼なやつだ。名も知らぬ生き物にまで、名前に揺れる僕の心を嗤われた気がした。
ウエストポーチから八華亭を取り出す。それはかつてのように熱で溶けて原型を失った物体ではなく、ブロック状に区切られた長方形を冷静に保っていた。
「わたし、おねーさんだからさ~」
あの夏の残滓が聞こえてきた。ブロックを小割にして口の中に放り込む。四角いチョコレートが、口の中でゆっくりと溶けた。白馬の雪渓で食べたチョコレートは、ポケットで持ち運べて、甘くて、ほろ苦くて、理想のおやつだった。しかし、今の自分にはどこか不似合いで、しっくりこなかった。思い出のキミはいつも明るくて元気で可愛かった。その姿が幻想だったのか。
いや、変わったのは、むしろ僕の心のほうだ。キミはキミのままで、本質はきっと何も変わってはいない。
名前が変わったって、キミは変わらない。
……おめでとう。
◇
あのときも、そんなふうに明るく笑い飛ばしてやればよかったのかもしれない。時が経った今ならそう思える。
山名標のコオロギと一瞬だけ目が合った。遠くにふっと跳ぶ仕草が、まるで頷いたように見えた。
山名標と正面から向き合い、僕はすっくと立ち上がる。
「S」すなわち「K」なりて、現地に並存す。対立概念に非ず。現地観測により確認済み。以上復命終わり。
僕は、万感の思いを込めてそう記した。その記録媒体は果たして調査報告書であったか、それとも心の奥深いところであったか。
風が吹いた。時ならぬひんやりとした風が、ぽっかり空いた左頬をすっとなでていく。白馬で食べた、あの朝のなこやんの味を咀嚼する。
皮が中身を大雑把に包み込んで、決して主張しないふんわりとした甘さ。たとえ、周りに甘さを振りまかずとも、確かな幸せがそこにある。歳をとって星のかけらになっても、それはきっと変わらない。今となっては、その、いつの間にか慣れ親しんだ味がない毎日が、どこか物足りない。
視点が変われば視座が変わる。視座が変われば地形が変わる。
一九億光年の永遠の孤独を選んだ双耳峰も、視座が変われば、ひとつに重なるだろう。
そこに、もう幻想はいらない──
そうだ、次はなこやんを連れてこよう。
そう決めて、僕は歩き出した。そう思える自分が、今はちょっと誇らしい。
◇
時を同じくして、メッセージアプリの通知音が、てろんと鳴る。
ふと送信元を見れば、なこやんの懐かしいアイコンが画面に踊る。
M(黒猫):
「久しぶりですね。日本に帰ってきたと聞きました。
SとKの結婚式は本当に良かったです。来られなくて残念でしたね。
もう熱い、熱すぎて、なこやんの餡が沸騰しそうです。笑
ブーケトスに勝利しました。というかSが押しつけてきた。
でも、そんなジンクスなんて信じてはいないわよ」
M(黒猫):
・・・・
M(黒猫):
「あの、さ、今度、どこか、登らない?
あのときみたいに。」
でろんでろんに溶けたなこやんが、画面で静かに何かを語る。僕はなこやんの味をもう一度思い出す。返信する直前でふと思い立つ。赤毛の千葉犬をそっと消し、その代わりに、なこやんと黒猫が融合したゆるいキャラクター「なこにゃん」を、ただ一つ飛ばした。
そこに、精一杯の感謝を込めて。そして、精一杯の思いを込めて。
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